宿題
「申し訳ございません、お時間です」
アイリスが静かに立ち上がり、僕たちの会話を遮るように促した。
「強固なセキュリティであっても、長時間接続し続ければハッキングや位置特定のリスクが高まりますので」
「ああ、分かった」
丈一郎は頷き、僕も続いてソファから立ち上がった。
「みなと、今日はありがとうな。また会おう」
丈一郎はサングラスの奥から視線を向け、軽く右手をひらひらと振った。
「はい。今日はお会いできて良かったです」
自分以外の『被検体』に会い、言葉を交わせたことは、僕にとって大きな意味を持っていた。
「あの……丈一郎さんは、他の被検体の方にもお会いされたんですか?」
「ああ、被検体1と2にも会ったよ。だが……あいつらとは会話にならなくてな。ちゃんとまともに話ができるのは、お前だけだ」
「そう……なんですね……」
会話にならない、とはどういう意味だろう……。
すでに心を病んでしまったのか、あるいはAIに精神まで完全に書き換えられてしまったのか。胸の奥に薄暗い不穏が広がる。
「さあ、みなと様。行きましょう」
アイリスに促され、扉に向かって足を踏み出した、その時――。
「みなと!」
突然、背後から強く名前を呼ばれ、僕はハッと振り返った。
丈一郎はソファに座ったまま、まっすぐ僕の方向へ顔を向けていた。
「俺は……世界を見ていいんだろうか? この世界を『知った』方がいいと思うか? お前はこの世界を『見た』方がいいと思うか……?」
「え……」
この世界は、冷酷な管理と残酷な現実に満ちている。目を覆いたくなるような真実ばかりだ。本当に光を取り戻し、この世界をその目で直視することが彼にとって幸せなのだろうか――。
答えに詰まり、何も言えずに立ち尽くす僕を見て、丈一郎は口元にフッと寂しげな笑みを浮かべた。
「……次に会う時までに、お前の答えを見つけといてくれよ」
「……はい。それでは、また……」
重い宿題を胸に抱えたまま、僕は静かに開いた扉の向こうへと歩き出した。
エレベーターへと向かう無機質な廊下。アイリスの後ろを歩きながら、僕はふと気になったことをボソッとこぼした。
「……丈一郎さんって、もし冷凍されずに、そのまま生きてたら、今頃何歳なんだろう」
「丈一郎様は、みなと様より六十年ほど前に提供された検体です」
「え? ってことは……僕が18で、そこに60を足して、あ、でもそこからさらに20年過ぎてるから……ああ、もう! わけわかんない!!」
頭がパンクしそうになった僕に、アイリスが静かに答えを告げた。
「103歳です」
「ええっ!!? ひ、ひゃくさん……っ!?」
あまりの衝撃に、僕は廊下の真ん中で思わず立ち止まった。
「めっちゃじーちゃんじゃん!! ……そっか。だから、あんな格好を……」
さっき丈一郎が語っていた言葉が頭をよぎる。
目が見えない恐怖と戦い、自分を守るために必死で鍛え上げた青春時代の「23歳の姿」。103歳になった今でも、彼があの金髪と筋肉にこだわり続けている本当の理由を知り、胸の奥が熱くなった。
「あれ? でもアイリス。他の被検体の情報は共有されてないんじゃ……?」
「はい。ですが、先ほどあちらの専属AIより送られてまいりましたので」
アイリスは平然と答え、何事もなかったかのように再び歩き出した。
エレベーターが静かに目的の階へ到着し、ドアが左右に滑り出た。
降り際、前を歩いていたアイリスが突然ぱっと振り返った。そして僕の手をぎゅっと握りしめると、花が咲いたような眩しい笑顔を浮かべた。
「みなと、早く行こ!」
「っ……!!?」
心臓がドキンと跳ね上がり、呼吸が一瞬止まる。
握られた手から伝わる体温と、距離の近さに頭が真っ白になった。
「え……!? あ、アイリス……一体どうし……!?」
僕がパニックになりかけていると、アイリスは一瞬で元のすんとした無表情に戻り、平然と語りかけた。
「丈一郎様より、『俺の姿が見えなくなってから十分後に“友達モード”で話しかけてやれ。十代の男は友達モードがお好みだろう』との指示をいただいておりましたので。……いかがでしたか?」
「いや……今まで通りで……」
僕は脱力し、力なく答えるのが精いっぱいだった。
(……あぶねぇ。こんなのされたら、本当に好きになっちゃうだろ……!!)
冷や汗が背中を伝う。耐えられるわけがないのだ、こんなもの。
普段のアイリスの無機質な喋り方だからこそ、僕はどうにか「相手はAIだ」と自分に言い聞かせ、境界線を保てているというのに。……いや、その無機質な喋り方でさえ、時折激しく胸をかき乱されているというのに。
まだ早鐘を打つ心臓の余韻を感じながら、僕は逃げるように車へと乗り込んだ。




