新たな目的地
家に戻り、静かな部屋で夕食をとっていると、ガラス窓の向こうからザアーーッと叩きつけるような激しい雨音が響き渡った。
昼間は移動や作業をする人々に支障が出るため、こうして人通りが減る夜間にまとめて雨を降らせることが多いのだと、アイリスが教えてくれた。計画された、完璧な雨だ。
(今日は……何曜日なんだろう)
フォークを動かしながら、ふとそんな疑問が頭をよぎる。
部屋を見回しても、カレンダーの類いは一切置かれていない。もっとも、曜日を知ったところで、今の僕の生活に何一つ影響はないのだ。
そう考えると、どこまでも自由な気もした。けれど、それは「自由」という名の、あまりにも底知れない不自由のように思えてならない。
学校に行く必要も、仕事に追われることもない。
お金の心配も、時間を気にする必要すらない。何をしても自由――二十年前の僕が聞けば、きっと飛び上がって歓喜したであろう夢のような環境。
だというのに、どうしてこんなにも心が虚しく、内側から空っぽになっていくような感覚に襲われるのだろう。
夕食を口に運ぶ手を止め、ぼんやりと窓ガラスを伝う雨粒を見つめていると、アイリスが明るい声で口を開いた。
「みなと様、明日はどちらへ行かれたいですか?」
その何気ない明るさすら、僕にはどこか不気味で恐ろしく感じられてしまう。
「そうだな……」
今まで訪れた場所や、懐かしい景色を脳裏で探る。そして、ふと思いついた場所があった。
「……海に行きたい」
「海……ですか?」
ここから海を目指すとなれば、あきらかに遠出になる。日帰りは難しく、泊まりがけの移動になるはずだ。急な思いつきに、さすがのアイリスも難色を示すだろうか――。
「かしこまりました。現地で宿泊施設を手配するか、あるいは車内で快適に就寝できるようシートが完全フラットになる大型車両を手配するかとなりますが、どちらが宜しいでしょうか?」
アイリスは困る様子など微塵も見せず、相変わらず淡々と、手際よく選択肢を提示してきた。
「あ……うん、それはアイリスに任せるよ」
「承知いたしました。最適なプランを調査し、のちほどお伝えいたします」
「うん、ありがとう。……ねえ、アイリス」
僕はテーブルに肘をつき、雨の音に混ぜるようにして尋ねた。
「この時代の人って……暇な時、普段は何をして過ごしてるんだ?」
「ご自身の好みに合わせた動画を視聴したり、オンラインショッピングやゲームを楽しまれたり……ですね。ですが、基本的に『誰かと一緒に何かをする』ということはございません」
「え……? ゲームや映画も、全部一人でってことか?」
「はい。幼いお子様であっても、それぞれの好みに最適化された動画やゲームを個別に楽しみます。また、二十年前にも存在していたVR、つまり仮想現実の技術がさらに進化しており、視覚や聴覚だけでなく、実際に物に触れた際の触感や匂い、風の肌触りまで完全に再現可能です。そのため、ご自宅から出ずにあらゆる体験を楽しむのが現在の主流となっております」
「……それを、たった一人で? 誰かと関わることは、全くないのか?」
「ええ。他者と直接関わるということは、『相手の心情を推察する』『相手の都合に合わせる』といった多大な負担が生じ、一歩間違えれば人間関係の悪化を招くリスクがございます。現代においては、そのような不確定でデメリットの多い行為は好まれておりません」
「…………」
他人と関わるリスクを排除し、一人ひとりがカプセルの中に閉じこもって「完璧にコントロールされた快楽」だけを享受する世界。
傷つくこともなければ、不快な思いをすることもない。……けれどそこには、他者の温度も、偶然の出会いも、誰かと感情を分かち合う喜びすら存在しないのだ。
(だから……みんな、こんなにも整った顔をして、冷たい目をしているのか)
ガラス窓に映る自分の影を見つめながら、僕は得体の知れない孤独感に、身を震わせた。
その日、ベッドに横たわると、暗闇の中で雨音が強く耳に届いた。
窓を叩く不規則な水滴の音と、地面を濡らす重い水音。……不思議なことに、今の僕にはその音が心地よかった。完璧すぎる静寂に包まれるよりは、ずっといい。
二十年前の僕なら「雨音がうるさくて眠れない!」と枕を頭に押しつけ、怒鳴り散らしていたかもしれない。
技術が極限まで進化した現代なら、外の音など完全に遮断して無菌室のような静寂を作ることなんて容易なはずだ。
けれど、この部屋の遮音性がどこか甘いのは……きっと僕の「二十年前の記憶」やデータに合わせて、施設側があえて自然な生活音として雨音を残しているからなのだろう。
暗がりの中で天井を見つめながら、僕はゆっくりと目を閉じた。
遠くで響く雨音だけが、僕がまだ「生きている」ことを静かに証明してくれている気がした。




