帰り道、アイリスの疑問
ファストフード店を後にすると、僕たちは待機していた黒い車へ再び乗り込んだ。アイリスは腕にはめた透明なディスプレイ端末へと視線を落とし、端正な声で告げた。
「そろそろ家へ帰りましょう。大雨の指定時刻が迫っております」
「ああ……そうだったな」
車に乗り込む間際、ふと上空を見上げる。澄み渡っていた朝の青空は姿を消し、頭上には不自然なほど分厚く均一な灰色の雲が、じわじわと広がり始めていた。
車に揺られながら、窓の外の灰色の空を見上げたまま、ぽつりと呟く。
「それにしても便利だよな。人間の好きに天気を変えられるなんて……」
「そうですね。昔の時代をご存知の方は、皆様そうおっしゃいます。ですが、生まれた時から天候が制御されている世代の人間からすれば、『昔は明日どんな天気になるか分からなかった』『天候によって災害や犠牲者が出ていた』という事実は、にわかには信じがたい昔話のようです」
「ああ……そうか」
僕は……『昔の人』なんだな。
当たり前の事実を改めて突きつけられ、胸の奥に小さな寂しさが落ちる。自分がこの時代において、生きた化石のような異物であることを実感させられて切なくなるのだ。
俺が生活していた時代でも、高齢の人が『昔は携帯電話なんてなかった』とか言ってるのを聞いて信じられなかったもんな。今の時代の人にとって、俺の感覚はそんな感じなんだろう……。
「……じゃあ、台風は? 台風はどうなってるんだ?」
「台風……あの大気圧の低下によって発生する、かつて数字で番号を割り振っていた巨大な雲の塊ですね。……あれはもう存在いたしません。十数年前に、巨大気圧配置を崩し雲を強制散乱させる技術が確立されましたので、発生の兆候が見えた段階で事前に処理されます」
アイリスは微動だにせず、窓の外を見つめながら淡々と続ける。
「あのような危険な自然現象が毎年当たり前のように発生し、規模も進路も不確定なまま、その度に多くの犠牲者を出していたなど……現代の基準からすれば恐怖でしかありません。例えるなら、大型のモンスターが毎年定期的に街を襲撃しに来るのを、手をこまねいて見ていたようなものです。
……そのため、現在の子供や若い世代の中には、『台風』という言葉そのものを知らない者も多く見受けられます」
「でも……歴史として、昔そんな恐ろしいものがあったってことは学んでおいた方がいいんじゃないのか? 災害の記憶とかさ……」
「なぜでしょうか?」
アイリスは心底不思議そうに首を傾げ、まっすぐな瞳で僕を見つめ返してきた。
「教育や学習において価値があるのは『今後活用できる情報』です。二度と発生しない現象の対策や過去の脅威を暗記したところで、二度と使わない知識であれば、それを学ぶ時間は合理的な無駄と言わざるを得ません。もし昔の人類から話を聞いて興味を持った個体がいれば、その時に自分でデータベースを検索すれば十分です」
「あぁ……そういう時代、なんだな……」
無駄を極限まで削ぎ落とし、過去の記憶すら「使う予定がないなら不要」と切り捨てる合理的で冷徹な世界。
便利で、安全で、犠牲者の出ない完璧な社会。……けれどそこには、僕たちが生きていた時代の泥臭い歴史も、災害を乗り越えてきた人々の記憶も、何一つ残されていないのだった。
「みなと様、一つお聞きしたいのですが」
「……何?」
車内を流れる静かな音楽の合間に、アイリスが抑えめの声で問いかけてきた。
「なぜ、ご家族にお会いにならなかったのでしょうか?」
「……邪魔だと思ったんだ」
「邪魔、ですか?」
アイリスは小さく首を傾げる。僕は窓の外、分厚さを増していく灰色の空を見つめたまま、言葉を絞り出すように続けた。
「あの家はさ……僕が消えてから、もう二十年経ってたんだ。僕がいなくても、ちゃんと家族の形として成り立っていた。父さんには会えなかったけど、母さんも結月も、ちゃんと前に進んでたんだよ。おふくろが僕の仏壇に手を合わせているのを見て……みんな、僕の『死』をちゃんと受け入れて、折り合いをつけて生きてるんだって分かったんだ」
「それなら、みなと様が生きておられたとお知りになれば、とても喜ばれたのではないでしょうか?」
「……そうだね。でもさ、まず僕のことを信用してくれるかどうかも分からないだろ? 二十年経って『実は生き物として生きてました』なんて言われて、顔も声も完全に違う人間が目の前に現れたら、混乱させるだけだ」
「信用してくれたと仮定した場合は……?」
「…………」
胸の奥から、重く熱い溜息が自然と溢れ出た。
「……もし、僕を受け入れてくれて、前みたいに家族として生活できたとする。でも、今の僕は……自分自身でさえ、明日どうなるか全く分からない体なんだ。もし『帰ってきた』って喜ばせておいて、また僕の身に何かが起きていなくなったら……おふくろは、僕を失う悲しみをもう一度味わうことになる。一度ならず、二度までも」
そこまで言って、僕は強く唇を噛みしめた。
「そんな思い、絶対にさせたくない。もうこれ以上、僕のせいで苦しい思いなんて、してほしくないんだ……」
自分の存在が家族の平穏を乱すかもしれないという恐怖。そして、何より家族を想うからこその「愛ゆえの拒絶」。
僕の途切れ途切れの絞り出すような言葉を、アイリスは遮ることもなく、透き通った瞳でただじっと聞き届けていた。




