再会
塀の隙間に顔を近づけ、息を殺して隙間を覗き込んだ。
視線の先にあるリビングの配置は、記憶の中の「我が家」と全く変わりなかった。だが、置かれている家具はどれも直線的で無機質な、近代的なデザインのものへと置き換えられている。壁に備え付けられた薄型のモニターには、色鮮やかな映像が流れていた。
……アイリス! テレビは廃止されたって言っていなかったか!?
声には出さず、追いついてきたアイリスへ視線だけで問いかける。アイリスは僕の焦りを察し、耳元で静かに囁いた。
「あれは公共電波を受信する従来のテレビではありません。中央ネットワーク上の動画コンテンツを配信・再生するためのスマートディスプレイです」
「そう、か……」
納得し、再び塀の隙間へ意識を集中させる。
その時、奥の部屋からたたたたっと軽い足音が響き、小さな子供がリビングへ駆け込んできた。
子供……? まさか……結月の子供なのか……?
かつての我が家は、夏になれば窓を開け放して網戸にし、風を通して暑さを凌いでいた。けれど、外気温50度を超す今の時代に窓を開けることなどできるはずもない。重厚な複層ガラスに遮られ、部屋の中の音は一切聞こえてこなかった。
それでも、3歳くらいの小さな子供が、楽しそうに口をパクパクと動かして誰かに話しかけている姿が見える。
子供が振り返り、視線を向けた廊下の奥から――ゆっくりと、一人の年老いた女性が姿を現した。
「……っ、母さん……」
一目見た瞬間、視界が歪んだ。涙がぶわっと溢れ出して止まらなくなる。
記憶の中のおふくろより、ずっとずっと小さく縮んでしまっていた。白くなった髪、刻まれた深い皺。足腰を痛めているのか、幼い子供に手を引っ張られながら、一歩一歩、確かめるように遅く歩いている。
子供に急かされるようにして、おふくろは廊下の突き当りにある部屋の扉を開けた。
その部屋の中が見えた瞬間、僕の心臓が跳ね上がった。
……いや……あんなの、なかった……。僕の家にあんなものは、なかったはずだ……っ!
そこに置かれていたのは、重厚な黒塗りの仏壇だった。
僕の記憶にある家には、仏壇なんて存在しなかった。そして、開かれた仏壇の中央――そこには、写真が飾られていた。
今の人工的な身体の顔じゃない。二十年前の、素朴で、少し照れくさそうに笑っている「本当の僕」の顔写真が。
「あ……ぅ……っ」
ボロボロと大粒の涙が溢れ出し、分厚い耐熱コートの袖を濡らしていく。
自分の仏壇を見る。自分の遺影を見つめる。そして、それに対して涙が止まらなくなるなんて――こんな奇妙で、残酷で、狂おしい体験をする人間が、世界に自分以外にいるだろうか。
おふくろは仏壇の前に力なく腰を下ろすと、静かに両手を合わせた。後ろから見るおふくろの背中は、今にも消えてしまいそうなほど小さかった。
横に並んだ子供も真似をして小さく手を合わせ、すぐに手を解くと、期待に満ちた目を輝かせておふくろの顔を見上げた。おふくろは仏壇にお供えしてあった小さな箱菓子を取ると、愛おしそうに子供の頭を撫で、それを小さな手へと手渡した。
お菓子を受け取った子供は嬉しそうに跳ね回り、そのままパタパタとリビングへ走り去っていった。
「……みなと様? 心拍数が異常値を示しています。大丈夫ですか……?」
耳元で響いたアイリスの不安げな声に、ハッと我に返った。
頬を伝う熱い感触で、自分が涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃに濡らしていたことに、ようやく気づかされた。
アイリスはどこから取り出したのか、真っ白で清潔な布地のハンカチをそっと手渡してきた。
「あ……ありがとう……」
掠れた声で受け取り、濡れた目元と頬を強く拭う。
滲む視界を拭い、再び塀の隙間へ目を戻した。
おふくろは、子供が去った後も一人、仏壇の前でじっと手を合わせ続けていた。小さく縮こまったその背中、華奢な両肩が、微かに、けれど確かに震えているのが見えた。
……っ!
もう、耐えられなかった。
胸の奥が張り裂けるような激痛が走り、ただ涙を流すことくらいでしか、この溢れ出す悲しみと苦しみを表す術がないことが悔しくて、情けなくてたまらなかった。
僕が生きていると知ったら、おふくろはどう思う?
見知らぬ人工の身体で現れた僕を見て、この二十年間の祈りと哀悼を打ち砕かれ、どれほど混乱し、傷つくだろう。
死者として仏壇に祀られている「僕」こそが、今のこの家族の平穏を守っているのではないか――。
「……アイリス。帰ろう」
「えっ!? お会いにならなくて宜しいのですか……!? 帰還予定時間までは、まだ十分に余裕がありますが……」
アイリスが珍しく驚きを露わにし、丸くした瞳で僕の顔を覗き込んできた。
「いいんだ……もう、十分だ」
僕が強く首を横に振ると、アイリスはそれ以上何も追及しなかった。
「承知いたしました」と静かに一言だけ告げると、彼女は無言で車の手配をするため、手元のアラートを操作し始めた。
僕は最後にもう一度だけ塀の隙間から、小さく背中を丸めて僕の遺影に手を合わせ続けるおふくろの姿を瞳に焼き付け、背を向けた。




