玄関
僕の実家の前に、車が滑り込むように静かに停車した。エンジン音すら聞こえない静寂のまま、車体がピタリと止まったのだ。
胸に手を当てずとも、鼓動が耳元で激しく打ち鳴らされているのが分かった。口の中がカラカラに渇いていく。
ドアが滑らかに開き、僕たちは昨日のように暑さをしのぐ白いコートを着て路上へと足を踏み出す。僕たちが降り立ったのを確認すると、車は無人のまま音もなく走り去り、角を曲がって消えていった。この自動回送機能のおかげで、この時代には家庭ごとの駐車場すら不要なのだという。
背後には、何も言わずに寄り添ってくれるアイリスの気配があった。
はやる気持ちと恐れを交差させながら、僕は記憶のままの玄関前へと立った。
昭和の面影を残した門柱、少し色褪せた表札。二十年の歳月を経てなお、そこには確かに僕の「家」が存在していた。
固い唾を飲み込み、インターホンのボタンへとゆっくり指を伸ばす。
――だが、押せない。
あと数センチのところで指先がぴたりと止まり、武者震いのような激しい震えが押し寄せてきた。
もし、扉が開いた先に誰もいなかったら?
もし、見知らぬ他人が顔を出したら?
あるいは、年老いた両親から「誰ですか」と冷たく拒絶されたら――?
底知れぬ恐怖が、足元から這い上がって全身の血を凍りつかせる。
「……私が押しましょうか?」
背後から、アイリスの静かで透明な声が降ってきた。
「いや……いい……っ」
僕は伸ばしていた手を引くと、震える右手の上からもう片方の手を重なり合わせ、力任せに押さえつけた。
自分の手に目を落とし、冷たく震える指先をさすりながら、僕はふと思い立ったように家の裏手へと足を向けた。
表札や玄関は昔のままでも、敷地を回り込んでみると決定的な変化が目に飛び込んでくる。かつて四季折々の花が咲き乱れ、緑に溢れていた庭は、草木の一本すら残さず綺麗さっぱり切り払われ、無機質な土で平坦に埋め立てられていた。
母さん、花を育てるのがあんなに好きだったのにな……。
荒んだ庭の光景に寂しさが募る。……と、そこでふと頭の中に素朴な疑問が浮かんだ。
そういえば……父さんと母さんって、今何歳なんだ……?
目覚めてからの混乱で、そんな当たり前の計算すら忘れていた。僕が意識を失う数日前、確か母さんが「もうすぐ五十歳の誕生日だから」と笑っていた記憶がある。
五十歳に、空白の二十年を足すと――七十歳。
「七十……っ!?」
突きつけられた数字の重みに息を呑んだ、その時だった。
――ガタッ。
勝手口の方で硬い音が響き、僕は弾かれたように身を縮めて壁の陰へ隠れた。
足音とともに、一人の女性が白いコートを着て庭先へと出てくる。手には使い古されたほうきを握り、静かに地面を掃き始めた。
「……母さん……!?」
物陰から覗き込んだ僕は、目を疑った。
白髪交じりの七十歳の老婦人を想像していたのに、そこに立っていたのは、僕の記憶にある「三十代の頃のおふくろ」と見紛うような若い女性だったのだ。年を取るどころか、時間が巻き戻っている――?
あまりの衝撃に、思わず喉から掠れた小声が漏れてしまう。
「あ……あの女性は、みなと様の妹君である結月様ですよ」
背後から寄り添ったアイリスが、僕の耳元で淡々と真実を告げた。
「結月……!? 嘘だろ……母さんに、そっくりじゃないか……っ」
記憶の中では、まだ幼くて自分の後ろをちょこちょことついてきていた幼い妹。
二十年の歳月は、彼女を僕の知る「若い頃のおふくろ」と見分けがつかないほど、立派な大人の女性へと成長させていた。
目の前にいるのは、紛れもなく時の流れから取り残された僕と、二十年分歳を重ねた「僕の知らない妹」だった。
ハッと我に返り、視線をすぐ隣の家へと走らせた。
僕がいた頃は賑やかな一家が暮らしていたはずの隣家は、手入れもされず、しんと静まり返った空き家と化していた。
あそこなら……っ!
僕の頭の中に、幼い頃の記憶が鮮明に蘇る。
子供時代、隣の家の庭に忍び込んで遊んでいた時に見つけた秘密の場所。ちょうど僕たちのリビングと向かい合う位置に、古いコンクリート塀の目立たない隙間があったのだ。僕の両親は「塀があるから外からは見えない」と油断して、いつもレースのカーテンすら開け放して部屋いっぱいに朝日を採り入れていた。
頭で考えるより先に、脚が勝手に動き出していた。
「みなと様!? どちらへ!?」
予期せぬ僕の単独行動に、アイリスが珍しく素で驚いたような声を上げて追いかけてくる。
……だが、無理やりに腕を掴んで制止してくる気配はない。パニック時の行動解析やデータ収集の一環として、静観するのが最適だと判断したのだろう。
アイリスの視線を背中に感じながらも、僕は周囲の目を盗むようにして空き家の敷地内へ滑り込んだ。人通りが全くないおかげで簡単に潜り込めたが、まとっている服が邪魔をする。50度近い猛暑を凌ぐための耐熱用コートは分厚く重く、走るような激しい動きには全く適していなかった。
汗だくになりながら草むらをかき分け、記憶の場所へ辿り着く。隣家と我が家を隔てる古いコンクリート塀へ、身を乗り出すようにしてそっと手を触れた。
「――っ痛ぁぁっっ!?」
指先が触れた瞬間、焼きごてを当てられたかのような激痛が走り、僕は悲鳴を上げて思わず手を弾いた。
日差しを遮るもののない50度の極熱下に放置されたコンクリートは、触れれば火傷を負うほどの熱を蓄えていたのだ。痛む指先を必死に口元へ運び、冷まそうと息を吹きかける。
クソッ……熱すぎる……!
赤く腫れ上がった指先を押さえつけながら、僕は痛みに耐えて息を潜めた。塀のわずかな隙間の向こう側――そこには、二十年越しの我が家のリビングが、陽光の中に静かに浮かび上がっていた。




