人間の感情
車内には、心を落ち着かせるためだろうか、微かに柔らかいヒーリングミュージックが流れていた。きっと昨日も流れていたのだろうけれど、次から次へと怒涛のように押し寄せる出来事に忙殺され、耳を傾ける余裕すらなかったのだ。
流れる音楽に身を任せ、静かな沈黙に浸っていると、ふと窓ガラスの反射に違和感を覚えた。
外の景色を見つめていた僕の横顔を、アイリスがじっと見つめている。いつからそうしていたのかは分からない。視線に気づいて振り返ると、彼女は静かに口を開いた。
「みなと様は、どうしてご家族にお会いになりたいのですか?」
「え? どうしてって……」
見つめ返すと、彼女は分かりやすく眉をひそめ、疑問の表情を顔全体に浮かべていた。会話の中で理解できない事象が生じた際、このような表情を作るようプログラムされているのだろう。相変わらず隙のない、完璧な表情作りだ。
――家族に会いたいなんて、当たり前だろ――
そんな言葉が喉まで出かかったが、寸前で飲み込んだ。人間にとって呼吸と同じくらい当たり前の感情も、AIである彼女にとっては理解しがたい未知の概念なのだ。
少し頭を巡らせる。できるだけ噛み砕いて、誰にでも直感的に伝わるように言葉を選んだ。
「……『好き』だからかな」
「スキ? 『好き』とは、どのような状態を指すのですか?」
ああ、しまった……。
「好き」という概念そのものが未実装だったか。僕は小さな脳みそをフル回転させ、必死に言葉を絞り出した。
「うーんと……自分の中で、何よりも一番優先したいこと、かな。……じゃあさ、アイリスにとって『一番優先したいこと』って何なんだ?」
アイリスは間髪入れずに即答した。
「テロの鎮圧です。私たちAI適応体および管理ユニットは、テロ活動の鎮圧と社会秩序の維持が最優先事項として定義されております。
……ということは、私は『テロの鎮圧が好き』ということになるのでしょうか?」
あまりに予想外でズレきった回答に、僕は思わずあっけにとられ、呆れ混じりの笑いが漏れてしまった。
「はは……そりゃあ、色気も何もねぇな」
「二番目はみなと様、あなたの護衛およびバイタルデータの収集です。三番目以降の優先項目は存在いたしません」
「あ、そう……なんか、素直に喜んでいいのかよく分からないな……」
真顔で言われると、なんだか妙な告白でもされたような変な気分になる。……まあ、嫌な気はしなかったけれど。
アイリスは少し首を傾げ、さらに問いを重ねてきた。
「みなと様はご家族よりも美琴様を優先にして昨日会いに行かれましたよね? つまり『家族より美琴様の方が好き』ということでしょうか?」
「いや、家族のことも同じくらい好きだよ。一番最初に美琴の安否を確認しに行こうとしたのは、それだけ大事だったからかもしれない。でも、家族と美琴のどっちが大切かなんて、選べるわけないだろ……」
それに……僕が美琴に会いに行きたくなった一番の理由は、美琴にどこか雰囲気が似ている『お前』が目の前にいたからなんだぞ。
そう言いたかった本音を、ぐっと押し殺す。「好き」という概念すら手探りなアイリスにそんなことを伝えて、内部プログラムをフリーズさせてしまっては堪らないからだ。
「……選択不能な同等の優先順位が複数存在する、ということですね。人間の感情とは、極めて複雑で非効率な構造をしているようです」
アイリスはどこか不思議そうに、けれど真剣な瞳で僕の横顔を見つめ続けていた。
実家のあるエリアへ近づくにつれて、車内の静寂を破るように自分の鼓動が早くなっていくのが分かった。いくら新しい建物へと街並みが塗り替えられていようと、古くからある道路の筋組みまで大幅に変えることはできないらしい。見覚えのある曲がり角や、緩やかな坂道の傾斜が、僕の記憶と重なり始める。
「うちの親……まだ、あの家に住み続けているんだな……」
ぼんやりと窓の外を眺めていて、ハッと重要なことに思い当たった。
「あ、アイリス! 昨日お前、言ってたよな!? 肉体を差し出した者の家族には、国から多額の補償金が入るって……!! だったら、うちの実家だって、豪華に建て替えられたりしてるんじゃ……」
記憶の中の古びた木造住宅ではなく、立派な邸宅に変わっているのではないか。もしそうなら、家族の雰囲気までガラリと変わってしまっているかもしれない――。
期待と不安が入り交じる僕に、アイリスは冷静に首を横に振った。
「いえ、みなと様のご実家は当時のままです。先ほど申し上げた補償制度は『肉体すべてを国家へ提供した場合』に限られます。みなと様ケースにおきましては、生前に一般的な脳のドナー登録を行っていたに過ぎません」
「……そっか」
急に現実へ引き戻され、肩の力が抜ける。
突然、金持ちになって家族の金銭感覚がおかしくなっている、なんていう奇抜な心配をしなくて済んだことに、心の底からホッとした。……けれど、同時に胸の奥がチクりと痛む。
自分の息子の命がこんな実験台のような扱いにされているというのに、あとに遺された家族には何の恩恵も報いもないなんて。二十年間、ただ息子を失った悲しみだけを抱えて生きてきたのだとしたら、親があまりにも不憫で、やりきれなかった。




