良い環境
木目のテーブルの上に、湯気を立てるご飯と味噌汁、香ばしく焼き色のついた魚、そして色鮮やかな卵焼きが手際よく並べられた。
昨日、少しだけ胃を動かしたのが良かったのかもしれない。鼻腔をくすぐる醤油の焦げた匂いと出汁の香りに、自分でも驚くほど素直な食欲が湧き上がってくるのを感じた。
対面に座ったアイリスも、昨日と同じように静かに手を合わせ、食事を始める。
昨日はスプーンだったから気付かなかったけれど、彼女の箸の持ち方は教科書どおりの完璧さで、指先の動き一つひとつが無駄なく美しい。洗練された美しい容姿だからこそ、余計にその立ち振る舞いが絵になるのだろうか。
僕も我慢できなくなり、吸い物椀を手に取って一口口をつけた。出汁の旨味と味噌の温もりが、喉を通って冷えた胃袋から全身へとじわじわ染み渡っていく。
……やっぱりだ。
味噌の種類も、具材の切り方も、出汁の取り方すらもおふくろの味そのものだった。完璧に再現された「我が家の味」に、強張っていた心がほろほろと解けていく。
「男を落とすなら胃袋を掴め」なんて昔の人はよく言ったものだが、確かにこれは……こんな食事を毎朝作られたら、男なんて簡単にコロッと参ってしまう。仕事帰りにこの味と温もりが待っているなら、そりゃあ誰もがまっすぐ家に帰りたくなるはずだ。
僕が夢中で箸を動かしていると、アイリスが嬉しそうに目を細め、機嫌の良さそうな笑みを浮かべた。
「昨日に比べて、とてもお箸が進んでおられますね」
「うん……だって、すごく美味しいからさ」
頭での警戒も忘れて、思わず本音が口から漏れてしまう。
「それは良かったです。腕を振るった甲斐がありました」
満足そうに微笑むアイリスの表情は、どこからどう見ても愛らしい「普通の女の子」そのもので、僕は一瞬だけ、ここが二十年後のディストピアであることを忘れそうになっていた。
食事が終わると、僕たちは昨日と同じ静音性に優れた黒い車へ乗り込んだ。
実家が近づくにつれて、胸の奥がキュッと締めつけられ、嫌でも鼓動が早くなっていく。
「みなと様、大丈夫ですか? 心拍数および血圧の上昇が確認されております。数値が一定の閾値を超えた場合、本日の面会は中止せざるを得ません」
助手席からアイリスが覗き込んできた。バイタルをリアルタイムで監視されている不気味さを感じつつも、僕は必死に息を整える。
「大、大丈夫だよ……このくらい……」
仮にこの拠点が昔のショッピングセンターの跡地だとすれば、実家までは車で三十分ほどの距離のはずだ。
道路の区画が整理されていたり、信号機の形状が無機質で平滑なデザインに変わっていたりはするが、見覚えのある山の稜線や地形そのものは変わっていない。
けれど、窓の外の景色からは片時も目を離すことができなかった。
あそこは賑やかな商店街だったはずなのに。あそこには小さな公園があったはずなのに。記憶の中の光景はことごとく塗り替えられ、見慣れない直線的な建造物へと置き換わっている。
昨日は恐怖で周りを見る余裕すらなかったが、今はすれ違う車にも意識が向いた。
街を走る車の形状はどれも寸分たがわず同じデザインで、個性が削ぎ落とされている。……だが、それ以上に異質なのは「乗っている人間」だった。
ドライバーのいない運転席。後部座席で無邪気に遊ぶ幼い子供たちだけの車や、二人でくつろぐ老夫婦の車が、滑らかに車線を変更していく。誰もハンドルを握っていない。
「そういえば……信号はあるのに、ほとんど赤で止まらないな……」
ふと違和感に気づく。これだけの交通量があるというのに、まるで目えない糸で制御されているかのようにスムーズに進んでいるのだ。ちなみに、車外の気温は50℃近くに達しているらしく、路上を歩く人間の姿はただの一人も見当たらない。
「はい。中央AIが全車両の速度と位置をリアルタイムで計算し、停止する必要がないよう信号の切り替えをミリ秒単位で操作しております。常に快適な移動が可能です。……あ」
説明の途中、アイリスが急に言葉を切り、窓の外へ視線を向けた。
「!? ……どうした!?」
身を乗り出す僕の視線の先で、前方を走っていた一台の車の白いナンバープレートが、くるりと反転して鮮やかな赤色へと変わった。
「なんだ、あれ……?」
「自動運転から『手動運転』へ切り替わったサインです。時々いらっしゃるのですよ、ご自身で操縦したがる奇特な方が。困ってしまいますね……あのようにシステムを逸脱する存在が、事故を引き起こす原因になるのですから」
アイリスは心底あきれたように、さも迷惑そうな溜息を漏らした。




