新しい朝
自分の部屋のドアを開けると、リビングの方から トントン、トントン と包丁の刻む心地よい音が届いた。
誘われるように自然とそちらへ足が向かう。
リビングのドアを開けた瞬間、アイリスがくるりとこちらへ顔を向けた。
部屋の中には香ばしく甘いご飯の炊ける匂いが満ちていて、その向こうに炊飯器から立ち上る白い湯気が見えた。さらに、出汁と味噌の芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。きっと味噌汁を作ってくれているのだろう。
「おはようございます。昨夜はあの後、よく眠れましたか? 生体データ上も途中覚醒の記録はありませんでしたが」
「あ……うん。……昨日は、その……ありがとう……」
僕が視線を泳がせながらお礼を言うと、アイリスはふふっと柔らかく微笑み、手元へと視線を戻した。
「お役に立てて光栄です」
僕はリビングの椅子へ腰を下ろした。
……だが、やはり部屋を包む異様な静けさが気になってしまう。アイリスの手がほんのわずかに止まるだけで、冷たい静寂が押し寄せてくるのだ。自分の浅い呼吸音すら、この無菌室のような空間ではアイリスに筒抜けになっている気がして身を縮める。
「本日は予定通り、みなと様のご実家へ向かう手筈となっておりますが、よろしいですか?」
「あぁ……うん……」
行ったところで何になるのかも分からない。家族にどんな顔をされるのか、どんな拒絶が待っているのか、不安で胸が押し潰されそうだった。けれど、隣にアイリスがいてくれることだけが、今の僕の唯一の心強さだった。
「承知いたしました。本日は一六時までに当施設へ帰還するスケジュールを組んでおります」
「ああ……夜は治安が悪いからか?」
「いえ。本日は一七時より大雨の指定がされておりますので、濡れずに移動を終えられるよう設定いたしました」
「そっか……今の時代なら、天気予報もほぼ100%当たるんだろうな」
「『天気予報』ではありません。『天気予定』です」
首を傾げる僕に、アイリスは淡々と、けれど決定的な言葉を告げる。
「天気……予定? 予報と何が違うんだ?」
「二十年前の『天気予報』は自然の気象を予測するものでしたが、『天気予定』は言葉通り、人工的に決定された天気のスケジュールです」
「……どういうことだ?」
「現在、地球上の天候は完全に管理されております。山林の蓄水量、ダムの貯水量、および農作物への影響をAIが算出し、必要な地域に必要なだけの雨量を正確に降らせております。日光の照射量につきましても、上空の人工雲の厚みを調整することでミリ単位で制御されております」
「そんなことまで……できるのか……」
「はい。この『天候制御システム』が稼働して以降、地球上で洪水や土砂崩れといった自然災害は完全に根絶されました。また、干ばつによる水不足も一例たりとも発生しておりません」
「それは……いい世の中に……なったんだな……」
僕の呟きに、アイリスはどこか誇らしげに小さく胸を張った。
「はい。完璧とまでは参りませんが、少なくともみなと様が過ごしておられた二十年前と比較すれば、自然災害による犠牲者は激減しているというデータが提示されております」
彼女の滑らかな説明を聞きながら、僕は味噌汁の湯気を見つめていた。
ふと頭の中にひとつの小さな違和感が引っかかる。
……待てよ?
疑問を確かめるように、僕はアイリスの顔をじっと見つめた。
「……アイリス。ひとつ聞いていいか? 僕の身体にはAIチップは埋め込まれていないって、昨日言ってたよな?」
「はい。記憶や思考を統制するAIチップは非搭載となっております」
「……じゃあ、なんで昨夜の僕の生体データがわかるんだ? 『途中覚醒がなかった』とか、さっき普通に言ってたろ」
アイリスは微動だにせず、首をほんの少しだけ傾げた。その瞳はどこまでも透き通っていて、隠し事をする人間の狡猾さとは無縁だ。だからこそ、淡々と返される言葉に背筋が寒くなる。
「疑問を持たれるのも無理はありません。説明が不足しておりましたね。先ほど申し上げた通り、みなと様の脳や精神に直接作用するAIチップは存在いたしません。ただし――」
アイリスは自分の手首を軽くトントンと叩いてみせた。
「みなと様の体内には、心肺機能や脳波、バイタルデータをリアルタイムで測定する超小型の生体センサーが埋め込まれております。万が一、急激な状態悪化やパニックが発生した際、即座に私が救命処置および精神安定の対応をとれるよう、データが私の端末へ常時送信されるプログラムとなっております」
「……バイタル、データ……」
「はい。みなと様の命とお身体を守るための最低限の措置ですので、ご安心ください」
アイリスは心底安心させるように、ふわりと優しく微笑んだ。
監視……されているのと同じじゃないか。
AIチップという「精神の支配」からは逃れられているのかもしれない。けれど、僕の心臓の鼓動も、流す汗も、恐怖で跳ね上がる脈拍すらも、すべて彼女の手の平の上で数値化されているのだ。
温かい味噌汁の匂いが漂うリビングで、僕は自分の胸にそっと手を当てた。
服の上から触れる心臓は、ドクドクと確かに打っている。だが、その鼓動すら自分だけのものではないような錯覚に囚われ、僕は言葉を失ってしまった。




