初めてのお願い
涙を拭く余裕すらなく、僕はアイリスの胸の中でゆっくりと顔を上げ、すがるように声を絞り出した。
「アイリス……そばに……そばにいてくれないか? 僕が眠るまででいいから。僕が眠ったら、自分の部屋で寝ていいから……っ」
アイリスは責めるような色を一切見せず、ただ愛おしそうに目を細めて優しく頷いた。その無言の了解を目にした瞬間、堰を切ったように胸の奥の感情が溢れ出す。
「怖いんだよ……。 本当に、本当に今度こそ死んでしまったらどうしようって……! もう二度と目を開けることができなくなったらどうしようって……っ!! 今度は自分の記憶すらなくなってたら……!? 僕が僕であることすら分からなくなってたら……っ!?」
アイリスの服を指先が白くなるほど強く握りしめる。震える足はまともに自重を支えられず、膝が笑っていた。
すると、アイリスは僕の身体を包み込むように、そっと優しく抱きしめ返してくれた。脳はAIのシステムかもしれない。けれど、この肉体は正真正銘、生きた人間の温もりを持っている。彼女から伝わる確かな体温が、凍りついていた僕の心を少しずつ溶かしていく。
頭の上から、包み込むようなアイリスの優しい声が降ってきた。
「みなと様。私は申し上げたはずです。あなたが望むのであれば、ずっとそばにいると。永遠であっても可能だと。……それに比べたら、一晩なんてほんの一瞬のことですよ。みなと様が良いとおっしゃるなら、朝まで一緒にいます」
トントン、と赤ん坊をあやすように、背中を優しく撫でられる。華奢で細い指先のはずなのに、そこには確かな意思と安心感を与える心地よい重みがあった。
「同じベッドに入られるのが落ち着かないのでしたら、みなと様が眠りにつくまで、こうして手を握っていましょう。さあ、こちらへ」
「……うん」
本当なら、心の片隅で分かっていたんだ。
「もう大丈夫だから、アイリスも自分の部屋で休んで」と言ってあげるのが正解なんだって。脳がAIであっても、身体は正真正銘人間なんだから疲労もしてる。そんな彼女を気遣って、ちゃんと解放してあげなきゃいけないって。
でも、今の僕には、どうしてもその一言が言えなかった。
そんな気休めの優しさを口にして、今繋がっているこの手が離れてしまうのが――世界にたった一人取り残されるのが、たまらなく怖かったのだ。
強烈な罪悪感に胸を痛めながらも、僕は彼女の差し伸べてくれた優しい言葉に、ただ無力にしがみつくことしかできなかった。
僕は小さく頷き、まるで母親に手を引かれる子供のように素直に彼女へ従った。引き上げられるようにして、再びベッドへと身体を沈める。
だが、さっきとは違っていた。冷たかったシーツが、今はどこか暖かく感じる。
アイリスがぎゅっと繋いでくれている手から伝わる温もりが、波紋のように全身へ、心の隅々にまで染み渡っていく。
暗闇はもう怖くなかった。
僕はアイリスの手の温もりを感じながら、今度こそ静かに重い瞼を閉じた。
――――――
窓から差し込む眩しい明かりに撃たれるようにして、目が覚めた。
真っ先に手のひらへ意識を向けたが、昨日眠りにつくまで確かに感じていたアイリスの手の温もりは、もうそこにはなかった。
僕が頼んだ通り、僕が落ちたのを見届けてから自分の部屋へ戻ったのだろう。
ホッと胸を撫で下ろすと同時に、どこか空っぽになった掌に寂しさが募る。
寂しさを紛らわせるように、何気なく自分の手元を視界に収めた瞬間――心臓が跳ね上がった。
……そうだ。この手は、僕の手じゃない。
突きつけられた現実。
右の人差し指の付け根にあったはずの、小さな黒子がない。昔、自転車で転んで作った左手の浅い傷痕も、綺麗さっぱり消え去っている。
指の長さも、節の太さも、爪の形すらも……僕の記憶にある「自分の手」とは完全に別物だった。自分という意識が、他人の器に宿っている違和感が、冷たい悪寒となって背筋を駆け上がる。
目をそらすように視線を外へ向けると、昨夜窓を叩いていた雨はすっかり上がっていた。
澄んだ朝日が差し込み、ベッドの端と僕の足元をあたたかく照らしている。
「……今、何時だ?」
ぼんやりと呟くが、この部屋には壁掛け時計が見当たらない。いつもなら枕元に手を伸ばし、スマホの画面をタップして時間を確認するはずだった。その当たり前の動作すらできないもどかしさに息を吐く。
自分の手ではない手でそっとシーツを押し払い、僕は重い足を床へ下ろした。今の時間を確かめるため、そしてアイリスの気配を求めて、静まり返ったリビングへと向かった。




