初めての夜
食事が終わると、アイリスは無駄のない手つきで食器を片付け始めた。
僕は結局、出されたカレーの三割ほどしか胃に収めることができなかった。
「栄養摂取量が推奨値の三〇%を下回っております。消化器官に不快感等はありませんか?」
アイリスに真顔で心配されたが、無理もない。
「二十年間のコールドスリープあるいは脳移植を経た人間の、最初の食事における適正量」なんてデータは、きっと彼女のネットワークにも存在しないのだろう。その未知のデータを採取するために、僕という被験者がここにいるのだから。
それに、この「身体」の本来の持ち主だって、きっと僕と同じように長いこと食べものを口にしていなかったはずだ。……もっとも、その本人に真偽を確かめる術など、どこにもないのだけれど。
キッチンから戻ってきたアイリスに、僕は小さく声をかけた。
「……横になってもいい? 今日は、色々と疲れちゃったから」
「はい。どうぞ、ゆっくりお休みになってください」
アイリスは柔らかく目元を緩め、穏やかに微笑んだ。何度か断られたことで学習したのか、今回は「同じベッドで寝る」とは口にしなかった。
ほんの少しだけ学習能力を見せた彼女に、ほっと胸を撫で下ろす。
あてがわれた自分の部屋に入り、新調されたシーツが敷かれたベッドへゆっくりと身体を沈めた。
ファブリックの真新しい匂いと、適度な沈み込み。目を閉じると、今まで張っていた気が一気に抜けていくのが分かった。
――その時、静まり返った室内で、ふと微かな音に気づく。
パラ……パラパラ……
硬質な窓ガラスを叩く、不規則な音。
カーテンの隙間に目をやると、外はいつの間にか雨が降り始めていた。冷たい雨粒がガラスを濡らし、静かに尾を引いて落ちていく。遮音性の高い部屋の遮蔽を抜けて微かに届く雨音は、どこか遠い世界の出来事のようで、僕の孤独を静かに包み込んでいった。
ベッドに背中を沈めた途端、全身の関節が重鉛に変わったかのような強烈な疲労が押し寄せてきた。指先ひとつ動かすことすら億劫だ。このまま意識を放り出せば、泥のように深い眠りへ落ちていける――はずだった。
――だが。
ゆっくりと瞼を閉じた瞬間、暗闇の底から底なしの恐怖が跳ね上がってきた。
……待て。もし、このまま目が覚めなかったら……?
冷や汗が吹き出し、弾かれたように慌てて目を開ける。
天井の無機質な白い壁が視界に飛び込んできたが、一度跳ね上がった胸の騒ぎは収まらない。
ドク、ドク、ドク――と、耳元で早鐘を打つような激しい鼓動。浅く荒い息が喉を締めつける。
どうしよう。もしも、眠りに落ちたそのまま、本当に僕の存在が途絶えてしまったら?
「目覚める」保証なんて、この身体のどこにある? 僕は本当に「生きている」のか? それとも、ただ精巧なシステムに生かされた一瞬の夢を見ているだけなのか――?
「はぁ……っ、はぁ……っ」
暗闇の中で一人、荒い呼吸を繰り返す。逃げ場のない恐怖に押し潰されそうになりながら、熱い涙が頬を伝い、新調された冷たいシーツへと静かに染み込んでいった。
――トントン。
呼吸を荒らげ、涙で視界を滲ませていたその時、暗闇を払うように静かなノック音が部屋に響いた。
「みなと様? 大丈夫ですか……?」
ドア越しに届いたのは、いつもの無機質さをほんの少し削ぎ落としたような、柔らかなアイリスの声だった。
すがるような思いで、僕は重い身体を引きずるようにベッドから抜け出した。よろよろとした足取りでドアノブへ手を伸ばそうとした、その瞬間――。
カチャリと音がして、僕が引き手にかけるより早く扉が外側から滑らかに開いた。
そこに立っていたのは、いつもの淡々とした面差しではなく、両目を少し丸くした「驚き」の表情を浮かべたアイリスだった。
……あ。
彼女の顔を見つけた瞬間、張っていた糸がぷつりと切れ、全身の力が完全に抜け落ちてしまった。床へ向かって崩れ落ちる僕の身体。
「みなと様!?」
アイリスの足音が途切れ、瞬時に伸びてきた華奢な腕が、倒れ込む僕の身体を強い力でしっかりと受け止めた。
アイリスの体温の温もりと、どこか人間じみた焦りのこもった腕の力強さに包まれながら、僕は彼女の胸の中で小さく息を吐き出した。




