娯楽
僕はリビングの椅子へと戻り、落ち着かない心地のまま周囲を見回していた。
窓の外はすっかり闇に包まれ、壁に掛けられた丸い時計は19時を回ったところを指している。チクタクと静かに針を刻むアナログな時計が存在する、ただそれだけのことに、小さく胸を撫で下ろしていた。
――そこで、ふと違和感の正体に気づく。
「あれ……? テレビは、ないのか?」
僕の実家では、居間にいる時はいつもテレビが点けっぱなしになっていた。くだらないバラエティ番組の笑い声やニュースの音が、家族の背景音として流れていたのだ。この部屋に漂う異様な静けさは、あの生活音が欠けているせいだった。
アイリスは包丁の手を止めることなく、どこか懐かしむような平坦な声で答える。
「……そうでしたね。二十年前は、ほぼ全ての世帯に受像機が設置されていたのでした」
「え? 今はもう、テレビはないってことか?」
「はい。現在は全て個人の端末ツールを通じて、オンデマンドで映像コンテンツを視聴するスタイルが定着しております。
放映時間に生活を縛られることなく、いつでも自由な時に情報や娯楽へアクセスできるためです。みなと様のためにテレビ端末の手配も検討いたしましたが……すでに放送局自体が存在せず、画面に砂嵐を映し続けるのも無意味であり、何より現在は製造すらされておりませんので」
行く先々で突きつけられる、二十年という歳の月の重みと隔絶。
「……だから、こんなに静かなんだな」
窓の外へ視線をやっても、車の走行音すら届かない。人の気配も、他人の家庭から漏れ出る生活音すら遮断された、完璧で冷ややかな静寂。
「ご希望であれば、環境音や音楽を再生することも、過去の動画コンテンツを空間に投影することも可能ですが……いかがいたしましょうか?」
「いや……大丈夫だよ。ありがとう……」
料理を作ってもらっているうえに気まで遣わせてしまい、ほんの少し申し訳ない気持ちになる。
……まあ、感情を持たない彼女に「気を遣わせた」なんていう人間の感覚を当てはめるのも、お門違いかもしれないけれど。
やがて、アイリスが「どうぞ」と僕の目の前に一皿の料理を置いた。香ばしいスパイスの香りで、途中からなんとなく察してはいた。
……カレー、か。
食欲を揺さぶるいい匂いではある。
……だが、目覚めて最初の食事にカレーというのはどうなんだろう。僕の記憶では数日前に食事をとったばかりの感覚だが、この身体の主は、昨日まで食事していたわけではないだろう。少なくとも数日から数週間は、眠っていたのではないか。
実際、目覚めてから今まで一回も空腹を感じなかった。それは、身体の感覚が麻痺しているからかもしれない。
普通、長期間の絶食から復帰した第一投目といえば、重湯やおかゆ、消化にいいスープあたりが相場じゃないのか――。
そんな複雑な疑問を抱えていると、アイリスが自分の分の皿を運んできて、僕の真向かいに腰を下ろした。そして、まるでお手本のように美しく両手を合わせる。
「いただきます」
「……いただきます」
引きずられるように、僕も手を合わせた。
普段なら真っ先に跳びつくはずのカレーなのに、なぜか手放しでスプーンを動かす気になれない。けれど、せっかく作ってくれたアイリスの手前、一切、口をつけないわけにはいかなかった。
スパイスとデミグラスが混ざり合った独特の湯気をくぐらせ、一すくい目を口に運ぶ。
「え……? これ……っ」
「――やはり、お気づきになりましたか」
アイリスが静かに僕の顔を見つめていた。
子供の頃、僕はカレーライスもハヤシライスも同じくらい大好きだった。だから母さんから「今日の晩ごはん、どっちがいい?」と聞かれるたび、食い意地を張って「両方!」と叫んでいたのだ。
困り果てた母さんは、いつからか二つのルーを混ぜ合わせて作るようになった。
スパイスの辛みの中に、コクのあるデミグラスの甘みが溶け込んだ不思議な味。どこの洋食屋を探しても絶対に食べられない、世界でたった一つの「母さんの味」だ。
それが、なぜ今、目の前に――?
「なん……で……っ!?」
スプーンを握りしめたまま固まり、目を見開いてアイリスを凝視する。
彼女は僕の動揺すらあらかじめ計算に含まれていたと言わんばかりに、平然と言い放った。
「みなと様に関する過去の生活データ、購買履歴、およびご家族の記録等はすべて照会済みです。精神の安心感を最大化するメニューとして再現いたしました」
計算された演出。完璧なデータ抽出。
頭では分かっているのに、喉の奥がキュッと絞めつけられる。
「母さん……」
ぽつりと漏れた声は、自分でも驚くほど震えていた。視界が急激に滲み、ぽたりと温かい雫が皿の中に落ちる。
二十年後の冷たい世界で食べた母さんのカレーは、ほんの少し、しょっぱかった。




