料理
キッチンから、トントントン……と、心地よく懐かしい規則的な包丁の音が聞こえてくる。導かれるように椅子から立ち上がり、アイリスの背中へと近づいた。
いつの間にか彼女は、服の上から薄手の長袖を羽織っていた。油跳ねや汚れを防ぐ、エプロン代わりの着こなしだとすぐに分かった。
手元へ視線を落とすと、リズムよく、慣れた手つきで人参を薄切りにしている。そのあまりに「生活感」のある背中に、思わず言葉が漏れた。
「……料理とか、できるんだな」
アイリスは包丁を動かす手を止めないまま、淡々と応じる。
「はい。ネットワーク上から膨大なレシピと調理手順のデータを取得しておりますので、あらゆる料理の作成が可能です」
……そりゃそうか。
アイリスは、飛行機すら操作できるような高度なAIだ。料理なんて、それこそ目をつむってでも完璧にこなせて当然だろう。
的外れな感心をしてしまったことが無性に恥ずかしくなり、顔がかあっと熱くなる。それを誤魔化すように、僕は慌てて別の話題を口にした。
「で、でもさ……二十年経っても、こうやって人間が料理を作る文化が残ってるのは、なんかちょっと安心するよ」
変わらない営みがまだ存在していることに、ほんの少しだけ心が救われる気がしたのだ。
だが、アイリスはその淡い淡い淡い期待を、あっさりと打ち砕く。
「いえ、一般的な家庭で調理が行われることは、現在ほぼ皆無です」
「……え? じゃあ、今はなんで……」
「すべてみなと様の精神状態を安定させるための施策です。合成食品や完全栄養食では心理的拒絶を起こす可能性が高いと判断いたしました。二十年前にあなたが当たり前に目にしてきた『手料理の風景』を再現・視覚化することで、精神の平穏を図っております」
「あ、あぁ……そっか……何から何まで、本当にすごいな……」
もう感心を通り越して、脱力感と諦めのようなものが全身を包み込む。自分の感情も、目にする光景も、すべて彼女の計算の手順通りに転がされているだけなのだ。
「……じゃあさ。今の時代、普通の人は食事を作らないなら、一体どうやってメシを食ってるんだ?」
僕の問いに、アイリスは人参を鍋へと放り込みながら、再び滑らかな口調で答え始めた。
「現在は、あらかじめ希望する献立を設定しておけば、帰宅時間に合わせて全自動調理機が完成させております。
また、より高額なオプションを選択された場合は、ドローンで新鮮な食材を配達させ、室内用調理ロボットに受け渡して調理させることも可能です。ただし、コストが非常にかさむため、そうした方法を利用されるのは一部の富裕層に限られておりますが」
「そうか……時代が変わっても、金持ちと貧乏の格差ってのは変わらないんだな……」
僕はため息まじりに呟き、再びアイリスの手元へと視線を戻した。
トントントン、と響く包丁の音。
ふと、昔こうやってキッチンに立つおふくろの背中を思い出しかけて、慌てて目頭の熱さを引っ込める。アイリスに「マザコンだ」と思われるのだけは、絶対に嫌だった。
……そういえば、美琴も一度だけ料理を作ってくれたことがあったな。
初めて作ったと言って照れくさそうに出してきた肉じゃがは、お世辞にも上手とは言えなくて、味が薄すぎて素材の味そのまんまだった。僕が微妙な顔をすると、美琴は苦笑いしながら醤油をドバドバと回しかけてくれたっけ。
どうしよう……。
過去を振り返るたびに、愛おしい思い出ばかりが溢れ出してくる。思い出せば出すほど、今の絶望的な現実とのギャップに胸が押し潰されそうになる。
だけど――考えるのをやめるのが、一番怖かった。
思い出そうとしなくなったら、いつか彼女たちの笑顔や温もりすら忘れてしまうんじゃないか。この冷たい世界に完全に飲み込まれてしまうんじゃないか。そんな恐怖が、僕の心を暗く支配していく。
「……みなと様。涙管からの分泌物が確認されますが、生体データに異常はありませんか?」
アイリスが無感情に首を傾げ、包丁を置いた。
僕は咄嗟に首を横に振り、袖で目を擦って背中を向けた。




