見慣れた部屋
僕の叫び声など最初から存在しなかったかのように、アイリスは静かな動作で最後の扉を開け放った。
そこに広がっていたのは、三つの個室の中で最も広いリビングだった。
中央には見覚えのある質感のソファとローテーブル。壁際には薄型のテレビが収まり、奥には整然としたカウンターキッチンが覗いている。
……あ。
息を呑む。間取りだけでなく、家電の配置から全体の空気感まで、かつて過ごした実家のリビングに恐ろしいほど似通っていた。
冷蔵庫の置き場も、電子レンジが置かれたラックの位置も、僕の記憶にある「我が家」そのものだ。
無意識のうちに肩の力が抜け、小さく安堵の息が漏れる。
――だが、その安らぎは一瞬で毒へと変わった。
懐かしい風景の模倣。それが突きつけてくるのは、あまりにも残酷な「ここには誰もいない」という現実だった。
胸の奥から、冷たい泥のような悲しみと強い不安がこみ上げてくる。猛烈なホームシックが、喉元まで押し寄せてきて息がうまく吸えない。
「……なあ」
僕は絞り出すような、かすれた声でアイリスの背中に問いかけた。
「……僕の家族は、どうなったんだ……?」
恐る恐る口にしたその言葉は、静まり返った模造品のリビングに虚しく響いた。
アイリスはゆっくりと僕の方へ振り向くと、言葉を発することなく、ただじっと僕の目を見つめてきた。その無機質な瞳に、灯りの落ちたリビングの影が静かに揺れる。
「……明日、ご家族のお宅へ行ってみましょうか」
「え……い、いいのか……?」
予期せぬ提案に、鼓動が一気に跳ね上がる。
いきなり姿を現して、本当に大丈夫なのだろうか。美琴が僕の死を疑っていなかったように、父さんも、母さんも、姉さんも、僕はこの世にもういないものとして生きているはずだ。
――でも。もし目の前に僕が現れたら?
「僕は生きているんだよ」と伝えることができたら……みんな、涙を流して抱きしめて喜んでくれるんじゃないだろうか。
「はい、ご案内いたします。みなと様に対しては、言語で説明するよりも直接現地で視覚的・体験的に理解していただく方が早期の状況把握に繋がる、と判定しました」
機械的な思考プロセスをそのまま口にされ、少し馬鹿にされたような苛立ちが芽生える。だがそれ以上に、ずっと胸の奥にくすぶっていた疑問が口をついて出た。
「……なあ。お前も……僕のこと『死んだ人間』だって思ってるのか?」
その瞬間、アイリスは両目を大きく見開いた。
今日出会ってから初めて見せる、明らかな「驚愕」の表情だった。そして間髪を入れず、まばたきすら忘れた様子で一気に言葉を捲し立てる。
「まさか!! 死んでいるわけがありません!! 呼吸数、脈拍、体温、すべて正常値を示しております!! 脳機能はもちろんのこと、移植されたその生体も完全に機能しております!!」
必死とも言えるその声が耳の奥に響いた瞬間、目頭が熱くなり、ぐっと胸の奥から熱いものが込み上げてきた。
……そうか。
この狂った世界で。僕を知るすべての人間が僕を過去の遺物として扱う中で、このAIだけは――世界でたった一人だけは、僕が「生きている」と疑わずにいてくれている。
プログラムされた数値のチェックに過ぎないのかもしれない。それでも、その言葉は今の僕にとって何よりも強く、冷え切った心を温める救いだった。
僕の心拍数の上昇を検知したのか、アイリスは首を少し傾げてこちらを見つめている。
視界が少し滲む中で、僕は彼女にひとつ、確かめてみたいことができた。




