治安の悪さの引き金
胸に穿たれた絶望など、最初から存在しなかったかのように――アイリスはどこまでも平然と言葉を紡ぐ。
「他に立ち寄りたい場所はございますか? 日が傾くと犯罪遭遇率が跳ね上がりますため、散策は日中のうちに済ませることを推奨いたします」
「……え? AIが世界を管理してるんだろ? 治安が悪くなるなんて……」
答えの代わりに、アイリスは腰のホルダーから小さなおもちゃのようなピストルを引き抜いた。プラスチックめいた軽い質感のそれを、慣れた手つきで弄びながらつぶやく。
「二十年前、歴史を塗り替えるほどの未曾有の広域犯罪が発生いたしました。……みなと様が眠りにつかれて、すぐのことです」
やっぱりこの子は、『死んだ』なんて言葉は絶対に使わないんだな……。
冷めた思考の隅でふと思う。無理やりにでも頭を切り替えなければ、恐怖で狂ってしまいそうだった。
「……なんなんだよ、それ。何があったんだよ……」
問いかける僕の顔を、アイリスは鏡越しでも直接でもなく、ただ前方を向いたまま無機質に見つめ返してきた。その瞳には光の反射すら生み出されない。
「ネットワークを介し、大規模な計画殺人を目論んだ組織が存在したのです。当時は銃器の調達が困難であったため、彼らが選択したのは刃物による襲撃でした」
彼女の手元で、おもちゃのようなピストルがくるりと一回転する。カチャリ、と安っぽいプラスチックの擦れ合う音が、静まり返った車内に小さく響いた。
「……それ以前の時代にも、『誰でもよかった』と口にして不特定多数を殺傷する人間が、一定数存在したでしょう? 彼らが思想を共有し、全国で一斉に決起したのです」
車窓の外に目をやると、西日に照らされた綺麗な街並みが流れていた。整然と立ち並ぶ高層ビル。ゴミひとつ落ちていない美しい道。
――だが、そこには人の姿が驚くほど見当たらない。
アイリスの唇から滑り出すおぞましい事実と、目の前に広がる静けすぎる街の風景。
そのあまりのギャップに、どこか遠い異国の歴史書でも読み上げられているかのような、強烈な現実感のなさに襲われた。
僕がゴクリと息をのむ音すら拾い上げるように、アイリスがゆっくりとこちらへ首を向ける。首関節の滑らかな動きが、かえって人間離れした気味悪さを強調していた。
「――それが、旧人類が『管理』を必要とした最大の理由です。
……数十人の殺人鬼が一斉に、ただ道を歩いていた無抵抗な通行人たちを襲い始めたのです。それに対し、犯人を遥かに上回る数の警察官が鎮圧へと向かいました。当時、警察が所持を許可されていた武器は、警棒と拳銃のみ。警察官たちは銃口を向け、犯人たちを次々と射殺していきました」
アイリスは感情の欠片もない声で、淡々と惨劇を語る。車窓の向こう、赤く染まり始めた夕暮れの街並みが、どこか血の匂いを孕んでいるように見えて胸が悪くなった。
「結果として三十人を超える死者が出た、歴史的にも類を見ない悲惨な事件となりました。……犯人側の生存者はゼロ。これを知った市民の一部が暴動を起こし、激しい拳銃反対運動運動へと発展したのです。
――そこで開発されたのが、これです」
アイリスは手に持ったおもちゃのようなピストルを、僕の胸元へ軽く向けた。
「これは標的に強烈な電流を与え、一瞬で行動不能にする兵器。どれほど大柄な男であっても、一撃でその場に崩れ落ちます。市民の反発を抑えるため、この武器が警察の標準装備として採用されました」
僕は眉をひそめ、冷たい車内の空気を吐き出した。
「話が見えないな……。殺傷能力の低い安全な武器に変わったんだろ? なぜそれで治安が悪くなるんだ?」
「理由は単純です。この製品は従来の拳銃よりも遥かに安価で、製造も容易でした。言わばスタンガンの延長線上に位置する製品です。そのため、当初は『護身用』として一般市民の間に爆発的に普及しました」
アイリスはおもちゃのようなピストルをカチャリと小さな音を立てて腰のホルダーへと戻す。その滑らかな手つきには、どこか使い古された手慣れた風情があった。
「――そして、手に入りやすいのは善人だけではありません。相手を『殺さずに無力化できる』というハード頭の低さは、犯罪者にとっても好都合でした。
結果、強盗や拉致などの凶悪犯罪に悪用されるケースが急増したのです。刃物で脅すリスクを冒すより、これを突きつける方が遥かに確実で、心理的ハードルも低い。……こうして、治安は急速に悪化していきました」




