見つけたもの
「……行こう」
隣に立つアイリスに短く告げ、僕はベンチから立ち上がった。
これ以上この場所にいたら、抑え込んでいる感情が爆発して、本当におかしくなってしまいそうだった。
二人に向かって軽く会釈をし、逃げるように美琴の後ろを通り過ぎようとした――その瞬間。
「……湊に、会いたいな……」
風に乗って、あまりにも小さく、けれど僕の鼓膜へとはっきり届いたつぶやき。
その一言で、心の中で何かがパチンと弾けた。
気づいたときには、溢れる想いに突き動かされるまま、美琴の背中へ向かって必死に手を伸ばしていた。
愛おしい彼女の背中に手が触れる、ほんのわずかな一瞬――。
突然、一陣の強い風が吹き抜け、美琴の髪をふわりと持ち上げた。
木漏れ日の中に露わになった彼女のうなじ。その耳の後ろに、異質なものがはっきりと刻まれていた。
――黒い、バーコードのような印字。
美琴は僕の初めての人だった。
慈しみ、愛し合い、その身体の隅々までを知り尽くしている。こんな歪なものが彼女にあるはずがない。
なんなんだ、これは……!?
一瞬にして頭の芯まで冷え切り、ゾッとするような寒気が背筋を駆け抜けた。
伸ばしかけていた指先が恐怖で強張り、僕は慌てて自分の手を引き寄せた。
僕たちは逃げるようにその場を後にした。
車に乗る前に渡されていた白いコートを再び羽織り、施設の外に停められた車へと滑り込む。
アイリスが運転席に座り、パネルを淡々と操作した。エンジン音すら聞こえない静寂の中、車体が滑るようにゆっくりと発進する。自動運転モードのため前方を注視する必要がなくなった彼女は、無機質な視線をこちらへと向けてきた。
「あれは、AIチップが埋め込まれた人間の識別番号です」
沈黙を破り、アイリスがゆっくりと口を開く。
「……え?」
「先ほどご説明した通り、現在の世界では全人類の九割近くにAIチップが挿入されています。ですから美琴様がどこにいらっしゃるか、すぐにわかったのです」
「な……じゃあ、僕は……? 僕はどうなんだよ!?」
「みなと様が現在ご使用されているそのお身体には、AIチップの類は一切入っておりません。純粋な人間の脳を移植した際、どのような経過を辿るかという『臨床実験』のためです。――ですが、念のためご自身の左耳の後ろに触れてみてください」
冷や汗を握りしめながら、恐る恐る左耳の後ろへ指先を滑らせる。皮膚の柔らかさとは異なる、ザラッとした異質な感触が指腹に伝わってきた。
「なんなんだよ、これ……っ!!」
「それはダミーです」
「は……!?」
「湊様方は、世界にまだ四例しか存在しない極めて貴重な実験検体です。他国による奪取や破壊を防止するため、外見上はAIチップを埋め込んだ一般市民と同調するよう、偽装処置が施されております」
「本物のシリアルコードは、胸部に埋め込まれております」
アイリスの淡々とした声に促され、おそるおそる服の上から胸の中心付近へ手を当てた。
――ゴツリ、と。
柔らかい肉体の中心に、似つかわしくない無機質で硬い感触が指骨に伝わる。鼓動を早める胸を突き動かすように、僕は首元を引っ張り、服の隙間から胸元を覗き込んだ。
「……っ!?」
そこにあったのは、薄暗い服の陰で禍々しく光る、小さな赤いプレートだった。
それは単に貼り付けられているのではない。生々しい皮膚の組織を押し分け、肉体そのものへ深く深くめり込むように埋設されていた。
誰の目にも明らかだろう。どんなに叫ぼうが、どれほど爪を立てようが、生半可なことでは決して引き剥がせない。
僕の身体じゃない……どころか、僕はただの『管理された検体』なんだ……
冷たい金属の感触が、心臓の鼓動を通じて全身へ毒のように広がっていく。
声にもならない底なしの絶望が押し寄せ、僕は息の仕方を忘れたように、ただ自分の胸元を呆然と見つめ続けていた。
……あぁ、そうか。
視界が歪み、脳の奥がすっと冷えていく。
人間から、ただの『物』へ。
血の通った一人の男から、管理番号を打たれたただの『機械』へ。
たった数十秒の間に、自分が尊厳をもった人間から無機質な物体へと成り下がってしまったような、悍ましい感覚が全身を包み込んだ。
胸に埋め込まれたプレートが、心臓の鼓動に合わせて重く、冷たく存在を主張してくる。
この鼓動すら、僕のものではないのだ。
「……みなと様?」
僕の異変に気づいたのか、アイリスが覗き込んできた。その整いすぎた瞳には、心配のの色など微塵もない。ただ異常数値を検知したセンサーのように、僕を観察しているだけだ。
自分を人間だと信じていたのは、滑稽な僕一人だけ。
美琴の言葉に涙し、昔を懐かしんでいた自分自身が、たまらなく惨めで、滑稽で、恐ろしかった。




