再会
僕はアイリスと共に、さらにドームの奥へと歩いて行った。開けた通路を抜けた瞬間、目の前に信じられない光景が広がった。
そこには一面の緑――芝生どころか、本物の木々までが鬱蒼と植えられていた。広さは野球場が丸ごと一つ収まってしまいそうなほど広大だ。
見上げると、遥か高い天井に天窓があり、そこから眩しい太陽の光が降り注いでいる……と思ったが、よく見るとそれは窓ではなく、巨大な人工照明だった。
外の45度の灼熱の太陽とは違い、肌を刺さない心地よい温かさの光だけを均一に振り注いでいる。何より驚いたのは、『風』だった。室内であるはずなのに、頬を涼しい風が撫でていく。しかも、エアコンのような一定の強さの機械的な風じゃない。本物の自然と同じように強弱があり、どこか懐かしい森のような匂いとともに流れてくるのだ。
その広大な人工の大自然の中で、人々は芝生に寝転んだり、散歩をしたり、子供たちはボールを追いかけたりと、思い思いに自由な時間を過ごしていた。
ところどころに設置されたベンチに座ってくつろぐ人々も、みんな穏やかで幸せそうな表情を浮かべている。たくさんの人間の声がドーム内に溢れ、活気に満ちていた。
だけど、俺が今まで過ごしてきた20年前のショッピングセンターなんかと圧倒的に違うのは、人工的な『音』が一切排除されていることだった。
せわしない館内放送も、安っぽいBGMも何もない。ただ、人間の笑い声と、人工の風が葉を揺らす音だけが響いている。すべてが完璧に管理された、静かで美しいディストピアの箱庭。
その穏やかな雑音の向こうから、突如、一つの甲高くて愛らしい声が、ドームの空気を震わせて届いた。
『――雫!』
「っ……!?」
ドクン、と心臓が激しく脈打った。聞き覚えのある声。いや、声そのものは20年前より少しだけ大人びているかもしれない。
だけど、その『雫』という名前に、俺の生身の脳組織が過剰なまでの反応を示していた。
雫――。
それは20年前、美琴がよく楽しそうに話していた名前だ。
「もし将来、私に子供が生まれたらね、絶対に『雫』って名前を付けるんだ」って、僕の手を握りながら愛おしそうに笑っていた、あの美琴の顔が脳裏にフラッシュバックする。
「美琴……なのか……?」
僕はもう、隣にいるアイリスのことなんて目に入らなくなっていた。
声のした方を必死に探し、人混みをかき分けるようにして、俺は他人の足をがむしゃらに動かして走り出していた。
声の方にたどり着いたとき、一人の小さな女の子が走っていくのが見えた。
「――雫!」
もう一度、そう呼ばれた少女が向かった先に目を凝らす。
公園のベンチに座る、三十代半ばほどの女性。
……美琴だ。
女の子は、愛おしそうに彼女の胸へ飛び込んでいく。その姿に、さっきカプセルの中で目にした少女の面影が重なり、胸がギュッと締め付けられた。
僕は吸い寄せられるように、何も考えられないまま、二人の元へと足を進めていた。
少しでも近くにいたい。声をかけたい、触れたい。
けれど――今の僕にとって、ベンチの端と端に座るのが、きっと一番正しい距離感なのだ。
僕が鼓動を速めたまま腰を下ろすと、女の子もベンチにちょこんと座った。
そのとき、隣にアイリスが突っ立てたままなのに気づき、少し脇に寄って「座りなよ」と視線で促す。
アイリス、僕、女の子、そして美琴。
……なんとも奇妙な並びで、ひとつのベンチに座る形になった。
そっと美琴の横顔を盗み見る。
目尻には小さな刻み皺があり、メイクで隠しきれないシミもうっすらと浮かんでいた。
20年という歳月の重み。
確かに目の前にいるのは美琴なのに――かつて数回だけ会った、彼女のお母さんの面影が強く重なっていた。
そうか……美琴は、結婚したんだ……
胸の奥がぎゅっと擦り剥けるような痛みが走る。
『子供が生まれたら、女の子なら絶対「雫」にするの』
いつだったか、陽だまりの中で無邪気な笑顔を弾けさせ、嬉しそうに未来を語っていた美琴の声を思い出していた。
失われた20年という歳月の重みに打ちひしがれ、あまりにじっと見つめすぎていたのだろう。
不意に、38歳になった美琴の視線と、僕の目が重なった。
彼女は優しく目元を緩め、控えめな笑みを浮かべて語りかけてくる。
「……デートですか?」
「ち、違います!」
喉が引きつり、裏返りそうな声で咄嗟に否定していた。
他人の身体で、他人の顔をしているくせに――心のどこかで『浮気だと思われたくない』という愚かなエゴが働いてしまったのだ。もう僕の素顔なんて、彼女には知る由もないというのに。
僕の焦り様に、美琴は「ふふ」と柔らかく声を漏らし、隣に座る雫の頭を愛おしそうに撫でた。
少女は嬉しそうに母親の顔を見上げ、小さな手で抱えていたぬいぐるみを弄び始める。
美琴が、静かに語り始めた。
途端に周囲の喧騒が遠のき、世界から音が消え去ったような錯覚に囚われる。
「……あなたたちを見ていると、昔を思い出すわ」
その一言に、胸の奥で心臓の鼓動が跳ね上がった。ドクドクと耳の奥で嫌な音が響く。
「私もね、あなたくらいの頃に付き合っていた人がいたの。その人は……悲しいことに、事故で亡くなってしまったのだけど」
「そう、なん……ですね」
喉の奥がカラカラに乾き、擦れた声しか出ない。
間違いなく、僕のことだ。
そして――僕はここで初めて、自分が『一度死んだ』のだと残酷なまでに自覚した。
足元が丸ごと崩れ落ち、底なしの暗い穴へと真っ逆さまに叩き落とされたような感覚。
目覚めたら他人の身体になっていた。僕の脳が移植されたのだと、頭では理解していたつもりだった。
けれど、どこかで拒絶していたのだ。自分が一度命を落としたという現実を。
……そうだ。あの日、僕の呼吸も心臓も完全に止まり、この肉体すら失われた。
僕は、確かに死んだのだ。
激しい目眩の中、すがるようにアイリスへ目を遣る。彼女の機械的な双眸は、一ミリのズレもなく正確に僕の瞳孔を捕らえていた。
……そういえば。
この少女は、僕が目覚めてから一度たりとも『死』や『生前』といった言葉を口にしなかった。
だからこそ、自覚が遅れたのだ。
僕に気を使って、傷つけないように言葉を選んでいたとでもいうのか?
……いや、AIにそんな人間らしい配慮ができるはずがない。ただのプログラムのアルゴリズムか……?
「……大丈夫ですか?」
美琴の穏やかな声にハッと息を呑み、僕は現実へと引き戻された。
「あ……はい……大丈夫、です」
目の前にいる美琴を凝視するたび、叶わなかった『もしも』の未来が脳裏を駆け巡る。
僕は、この少女の父親にはなれなかった。
美琴と一緒に時を重ね、共に歳を取りたかった。一緒に行きたい場所も、叶えたい約束も、山ほどあったのに――。
胸を切り裂くような切なさがこみ上げ、視界が涙で滲んでゆく。込み上げる感情を隠すように、僕はゆっくりと俯いた。
そんな僕の様子に気づく様子もなく、美琴は遠い目をして再び静かに語り出す。
「もし、あなたにいつか……本当に大切な人ができたら、覚えておいてほしいの」
風が静かに吹き抜け、美琴の優しくも寂しげな声が耳腔をくすぐる。
「本当に大切な人を失ってしまったらね。そのあとにどんなに素敵な人と出会えても、最初に愛した人のことを忘れるなんて、絶対にできないの。
……だから、大切な人ができたら、その人との時間をどうか一番に大切にしてね」
美琴……君は、ずっと僕を思ってくれていたんだね……
溢れ出しそうな涙と嗚咽を必死に噛み殺し、僕は震える手で強く拳を握りしめた。
「……はい」
今にも消えそうな声でそう答えた。それが僕にできる精一杯の返答だった。




