水分補給
あまりの衝撃と、この世界の底知れない狂気に、急激に喉の奥がカラカラに渇いていくのを感じる。
このまま会話を続けても何も解決しないことくらいわかってる。
「……なにか。なにか飲み物はないか? 喉が、めちゃくちゃ渇いたんだ」
興奮冷めやらぬまま、僕はアイリスにすがるように聞いた。
「水分補給ですね。少々お待ちください」
アイリスは近くの壁際へと歩いていった。
そこには、メタリックで見たこともない近未来的デザインの小さな蛇口が設置されていた。彼女はその横の壁にはめ込まれた特殊なケースから、むき出しのプラスチック製のグラスを一つ、慣れた手つきで取り出した。
シャーー、と透明な水がグラスに注がれ、アイリスがそれを僕に差し出す。
「どうぞ、みなと様」
だが、そのグラスと水を見た瞬間、僕は思わず顔をしかめて拒絶した。
「は!? 冗談だろ!? 水道の水なんか飲めるわけないだろ! それに、そんな誰が口をつけたかわからないプラスチックのコップなんか、使えるかよ! ペットボトルのミネラルウォーターとか、せめて新品の紙コップはないのか!?」
潔癖症じゃなくたって、こんな不特定多数の他人が使い回していそうなプラコップなんて絶対に嫌だ。
思わず声を荒らげた僕を、アイリスは冷淡な瞳で見つめ返した。
「ああ、20年前はそうだったのですね。少しお待ちください、あなたの時代のデータをもとに解説します」
アイリスは一瞬だけ瞳の奥のレンズを点滅させ、数秒の間を置いてから淡々と話し始めた。
「あなたの時代に使われていた『紙コップ』や『ペットボトル』という使い捨ての製品は、すでに環境保全の観点から法律で完全に廃止されています。飲料水が容器に入って市販されていることも、現在の世界ではあり得ません。
ですが、ろ過技術が劇的に進化したため、この水道水は20年前の市販の天然水よりも安全でミネラルが豊富なレベルに達しています」
「いや、でも、そのコップは……」
「このプラスチックのグラスは、使用後にあのケースへ戻すと、分子レベルの紫外線と熱消毒が施され、一瞬で完全な無菌状態になるシステムです。
……ほら、見てください」
アイリスが指さすケースの奥では、確かに怪しい淡いブルーの光が不気味に明滅していた。
「技術を疑い、非論理的な感情で水分を拒むのは、肉体の健康維持において極めてマイナスです」
「う……、分かったよ……」
美少女の顔で理詰めにされ、僕はしぶしぶ、その注がれた水を手に取った。消毒されていると言われても、やっぱりどこか気持ちが悪い。
僕は意を決して、他人の唇をそのプラスチックの縁に当て、ゆっくりと水を喉へと流し込んだ。冷たくて、妙に雑味のない、不自然なほどすっきりとした水だった。喉の渇きは癒えていく。
なのに、僕の胸の奥のモヤモヤとした不快感は、少しも消えてはくれなかった。
アイリスがその様子をじっと無言で見つめてくることに気づく。
「……飲むか?」
喉の渇きが伝染したのだろうか。僕はなんとなく、グラスをそのままアイリスへと差し出した。
アイリスは手を伸ばし、グラスを受け取ろうとして――突如、ピタッとその動きを完全に止めた。
「なんだよ。……もしかして、間接キスが嫌なら、違う位置から飲めばいいだろ」
場所を変えようとグラスを回そうとする僕に、アイリスは真顔のまま、恐ろしいスピードでまくしたてた。
「飲んだ部分を変えようと、水が口に触れて内部に落ちた際、そこにはあなたの唾液が高確率で付着・混入しております。
私は現在、その混入した唾液から未知の感染症やウイルスに感染する確率を脳内で計算し、最適解を出しているところです。少々お待ちください」
「なんなんだよお前……! 性行為はできるって豪語したり、間接キスごときで悩んだり、マジで意味わかんねえよ!」
ウブな俺の心臓を散々かき乱しておいて、何をそんなに大真面目にフリーズしているんだ。
すると、アイリスは「チッ」とでも言うように一瞬だけ瞳の奥のレンズを点滅させ、不意にグラスを僕の手からひったくった。
「データ処理完了。大丈夫です、いただきます。みなと様の新しい肉体も、私のこの肉体も、事前に国の管理下で全ての感染症検査をパスし、陰性と判定されています。仮に常在菌の交換が行われたとしても、健康維持の許容範囲内であり……」
「だあ!! もういいわ!! めんどくせえ!!」
「むぐっ……」
それ以上、精密な医療用データを喋らせないために、僕はアイリスの口を慌てて手で塞いだ。
世界をハックするほど冷酷で賢いくせに、時々びっくりするほどデリカシーがなくて、やっぱりどこか致命的にポンコツだ。
僕は真っ赤になった顔を誤魔化すように、アイリスを置いてドームの奥へと歩き出した。美琴に似たその顔に翻弄されている自分に、激しい心拍数の上昇を感じながら――。




