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 隅市さんに逢ってから私は、意識はしていなかったのだが、しばらくは気持ちが落ち着いていたんだろう。その間それでも無職のことを考えたり、津木くんの事件などが原因で、色々、感情のうねりはやはりあったが、コンビニで隅市さんと酒を飲みながら話しをして、全てではないが、わだかまりなんかを発散することもできていた。でももう隅市さんはいない。コンビニ飲みも消滅。私の発散の場はなくなった。心の均衡は崩れた。しかし、生きなければならない。たとえ、至るところに不平不満が待ち構えているとわかっていても、この世に身を置いている以上、それらに触れないといけないのだ。

 保育園には、隅市さんはやってこないし、彼の息子将吾くんは、そこからいなくなった。私にとって保育園という場所が、またしても緊張を強いられる場所に変わった。

 平静を装い保育園に結人を預けに行くが、帰宅すると私はまたもや吐き気に襲われ、敷いたままの布団に横たわる。もうこの週で八月も終わろうとしていたが、例年と同じく、うだるような暑さは、まだまだ日本列島を席巻していた。布団に横になり、意識を遮断――つまりは眠ろうとするが、扇風機の風だけでは、暑さが邪魔して眠るということはできず、私は、嫌味なぐらい晴れた空からもたらされる自然光が照らす和室の部屋で一人、黙然と目を閉じ続けた。午後二時過ぎ、身を起こして、洗濯機の中でとぐろを巻いている衣類らをベランダに干した。干し終わって東の空を見ると、灰色の雲がこちらに向かってくるのがわかった。妻が朝出勤する時、夕方から雨らしいわよと言っていたことが思い出されたが、洗濯物を室内に入れ替えることはせず、部屋に入って皿洗いなんかをして、夕方、結人を迎えに行った。外に出ると雨はもうすでにふっていた。私は、雨の日が好きだった。といっても詩情な雰囲気で好んだわけでなく、表情を隠せる「傘」という道具を持てるという物理的な動機で好きだったのだ。保育園に行く道中、我が子を連れて帰宅する見知った母親と擦れ違う際に視線を合わせなくてもよかったし、保育園の中に入っても、母親と職員の目から自分の表情及び、視線は傘で隠せるという暗い理由で私は雨の日が好きだった。だがこの日は傘は持たず、結人のレインコートだけを手に保育園に向かった。雨にあたりたかった。小雨だったので、保育園に着いても、Tシャツがビショビショになることはなく、多少湿った程度だったし、久しぶりの雨だったからか、舗道は冷却され、涼気が辺りに漂い気持ちがよかった。だが、門をくぐると、私の心はどんよりと、その時の空模様よりも曇っていた。私は顔を隠せる傘を持ってこなかったことを後悔したが、すぐさまパンダ組に急行し、結人の使用したタオル、衣類を荒々しく手さげ袋にしまい、それが終わると一呼吸入れた。パンダ組を出て、隣りの教室のクマ組、さらに隣りのゾウ組と目を移す。最後にその先――廊下の突き当たりにある遊戯室付近を見る。出入口は角度的に見えないが、園児たちのはしゃぐ声はわずかに聞こえる。溜息をついた。足が重い。遊戯室に入室すれば、先生たちがいる。敵のような先生がだ。足を運んだ。鈍く歩いた。運動場に目を向けると、園児を迎えに来た母親が、雨を避けるため、手を頭上に当て、年少組の教室へと急いでいた。遊戯室に着いた。開け放たれた扉から中を覗くと、ブロックで遊ぶ結人の姿をすぐに見つけることができた。私はここまで来る時の動作とは嘘のように素早くバインダーがかかる壁に近づき、迎えに来た時刻を記入すると、一目散に結人の元へ駆け寄り、彼の手を強引にとると、先生らには挨拶せず部屋を出た。自分の靴と結人の靴を遊戯室まで持ってくることを忘れていたので、パンダ組の下駄箱まで戻った。

 「パパァ」

 廊下の半ばまで来た時、結人が呼んだ。

 「なに? ――あっ」

 結人がブロックをこちらにむけていた。遊戯室からそのまま持ってきたらしい。

 私はそれを荒々しく取り上げると、パンダ組まで結人と歩いていき、下駄箱に着くと、その上にブロックを置いた。

 私は、立ちつくす結人にレインコートを着させてから靴を履かせ彼の手を握りその場を急いで離れた。門を出る時、結人が、

 「ブロックあそこに置いててもいいの?」

 と聞いてきたが無視した。

 帰りには、雨は強くなっていて、結人のレインコートに打つ雨音が、私の後ろで派手に鳴っていた。私は息子の姿を確認しないまま、目を細め、ただ、雨に打たれながら黙々と歩いた。

 息子を引く手には父性なんてものはなく、結人の歩幅を無視して、早足でマンションの自動ドアに到着した。そこで結人を見てみると、フードが頭から外れていて、彼の髪の毛はビショビショになっていた。長く伸びた睫毛にも水の玉が乗っかっていた。

 私は一つ大きい息を吐き出すと、再び歩き出した。

 帰宅後、シャワーを浴びようと、玄関で結人を促すが、彼は拒否した。遊びたいのだという。

 「パパもビショビショだし、結人も髪の毛濡れて風邪ひくから、先に一緒にお風呂に入ろう」

 「いやっ、遊ぶ」

 「結人」

「遊ぶ」

 すぐ限界に達した。

 彼の靴を無理やり脱がせ、両脇をすくい上げると、そのまま、風呂場に急行した。しかし、私の靴下も水に濡れていて、すべり易くなっていたのか、脱衣場に足を踏み入れた瞬間、床で踵を滑らせ、結人を持ち上げたまま、転倒してしまった。私は、床に尾てい骨を強打したが、結人はどこも打つことなく私の腹に顔をうずめるだけで済んだ。しかし、体に伝わった衝撃が大きかったのか、すぐに泣きだした。

 「おまえが、素直に風呂に入らんからこんなことになるんやろっ」

 結人は泣き叫ぶ。

 私はその場に息子を放りだすと、着ているものを全て脱いで、洗濯機にそれらを放り込むと、一人風呂場に入り、頭からシャワーを浴びた。

 結人の泣き声が、耳の脇を流れるお湯の音と混じって辛うじて聞こえる。それでも私はシャワーを浴び続けた。

 結人は、私のただならぬ雰囲気を幼心ながら察したのだろう。風呂に入ることを頑なに拒否したのは、私の傍にいれば、いつか自分が叱られるという恐怖心があったのかもしれないし、いや、理由は特になく、ただ単に私のことを恐怖の対象としてみていたのかもしれない。とにかく、息子は私の「異変」を感じ取り、私から距離を置きたかったに違いない。だが、私は、父親を気どり、父親という使命を果たそうと、彼と一緒にお風呂に入ろうとしたのだが、拒否され、無理矢理彼をお風呂場に拉致し、挙句、転倒し、結人が泣くと、転倒の責任を彼に押し付け彼を放棄して、自分だけがお風呂に入る始末。最悪な父親だった。これは虐待だ。

 シャワーを止め、私は体を洗いだした。息子は戸のむこうでまだ泣いている。

 その時、

 「どうしたの!」

 と妻の絶叫が聞こえた。仕事から帰宅したらしい。戸を挟んでも、妻の足音の大きさが風呂場まで伝わってきた。妻は息子に話しかけているようだが、息子は泣きじゃくるだけ。

 「ちょっと広ちゃん、何があったのっ」

 お風呂の戸に半透明にうつる私を発見したのか、妻は扉を開けるなり、大声で聞いてきた。

 「そいつが悪いねん」

 腕を洗いながら、私は答えた。

 「何が悪いの?」

 「そいつが言うこと聞かへんからあかんねん」

 「はぁ? ちゃんと理由聞かせて」

 「俺、今風呂入ってるやろ! あとにせい」

 戸は閉められた。結人の泣き声が遠ざかった。

 お風呂からあがり、上半身裸でリビングに行くと、妻は結人を包み込むように抱いて床に腰を下ろしていた。結人は妻の胸に顔をうずめたまま微動だにしない。

 ベランダには、結人がさっきまで着ていた黄色いレインコートが他の洗濯物と一緒に網戸の向こうで夕暮れの風に揺れている。雨はもうやんでいた。

 「怖がってるよ」

 「何が?」

 「結人が怖がってるの」

 「知らん」

 「そんなわけないでしょ、あんなに泣いていたのに」

 「……」

 私は何も言わず、肩にかけていたバスタオルで濡れた髪を力強くこすった。

 「何があったの、説明して」

 「そいつが悪い」

 「どう悪いの?」

 「言うこと聞かんから」

 「結人がなにを言うこと聞かなかったの?」

 「雨に濡れたから、シャワー浴びよって言ったのに、遊ぶって言って聞かへんから無理矢理浴びさせようと思って、脱衣所に連れて行ったら一緒にこけてもうて……。それでそいつ、泣いた」

 転倒後、結人を怒鳴りつけたことを私は隠した。

 「びっくりしたんだよ、結人。それに無理矢理シャワー浴びささなくても別によかったんじゃない? 少し遊んでからでも――」

 「ビショビショになってたんやっ。そのまま遊んだら風邪ひくやろっ」

 「タオルで拭いてあげたらすむでしょ?」

 「俺、頭悪いからそこまで気がまわらんねん」

 「頭の良し悪しじゃないでしょ。気持ちの問題と思うよ」

 「気持ちなんてないわ、こんなやつに」

 妻の表情が変わった。目がつり上がった。

 「なんて言った?」

 「こんなやつに気持ちなんてないって言ったんや。こいつのおかげで俺は保育園なんて行きたくもないとこ行かなあかんし、そんなやつに気持ちなんてあるわけないやろ」

 「それ本気で言ってるの」

 「本気じゃなかったら口から出ません」

 妻は、私のその言葉を聞き終わると、結人を抱っこしながら静かに立ち上がり、玄関の隣りにある奥の部屋へと身を移した。

 私は、タオルで上半身の水分を拭うと、シャツを着て、テレビをつけた。

 暫くすると、玄関で妻と結人の話声が聞こえた。

 どこかに行こうとしているらしい。私は玄関に行ってみた。妻は結人に靴を履かせているところだった。

 「どこいくねん?」

 妻は私を無視して、結人に靴を履かせている。

 「どこいくねんって聞いてんねんけど」

 「広ちゃんには関係ないでしょ」

 「家おれや」

 「行こう、結人」

 二人は手を繋いで出ていった。

 「くそっ」

 私は玄関の戸に鍵をかけ、再びリビングに戻った。テレビを少しの時間見ていたが、冷蔵庫の中に缶ビールが一本残っていることを思い出し、それをリビングまで持ってくると、ぐびぐび飲んだ。それで火がついた。スーパーに買いに行こうと財布の中身を確認するが、二百円ほどしかなく、私は、また和室の襖の奥にある熊の貯金箱を引っ張り出してきて、畳の上にお金をぶちまけた。百円玉だけを数えれば全部で六百円分あったのでそれを財布にしまってスーパーに出かけた。元々あった二百円と貯金箱から集めた六百円を合わせて八百円分のアルコールを購入。アテは買わず、家にあるもので賄おうと思った。

 もう酒に逃げる癖がついていた。お酒は元々好きだったが、何か自分にとって不都合なことが生じても――たとえそれが、長年勤めた会社を不本意な形で退社するようなことになっても酒を飲んで自分を誤魔化すということはしなかったが、コンビニ飲みを始めて、隅市さんが将吾くんを耳鼻科に連れて行っている間、独りで飲んだ酒に快感を覚え、やがてそれはゆがんだ形として、消えたほのかちゃんの名前の件で自分の沸々とした感情のやり場を酒に頼るということで完成してしまった。自分のことを棚に置いて、ほのかちゃんに惨劇を見せた津木くんのことをとやかく言える立場でもなかったのだが、この時の私は、そのことにも気がついておらず、あるときは、自分の境遇に悲観したり、あるときは、自分の思い通りにならないことに怒り、やけになっていた。要は、自分勝手だったのだ。結人のことが可愛いと思うのは本心だが、時には自分の都合で彼を拒絶したりする。この時の私は多少の同情はあるものの、なんだかんだ言って、自分に甘く、人のせいばかりにして、自分が正しいと、そこだけは自信を持ち――というかそうでないとこの時の状況で自分を保てなかったが、そういう心情で生活していた。こんな気持ちで生活していたなら、そりゃ疲れる。周囲も疲れる。思考も下ばかり突き進み、弾むような活き活きとした感覚は全くといっていいほど内面からは現れない。そのことに気がつけば私も楽に生活できたのだが、残念なことにこの時の私は一片のかけらも気がついていない。なんだったら一番酷く精神は最悪の底に沈殿していたのかもしれない。狂気の矛先はやがて、隅市さんにも向けられていた。

 「あいつ、手紙もなにも送ってこうへん!」

 手紙送ります、という隅市さんの約束は多忙のためだろうかまだ果たされていなかった。

 「やっぱり、引っ越したら、それで関係はおしまい。医大卒者が高卒のやつと同等に付き合うのは無理なんじゃ。――あの偽善者!」

 酒を飲んでいるのではなく、酒に呑まれている状態だった。一人酒は、確かに自分のペースで誰にも気兼ねすることなく飲めるが、酒のアテ(この場合、食べるアテでなく自分の胸中にある話題)の性質によって、酒で気が大きくなった自分の感情に歯止めが効かなくなり、暴走する要因にもなった。要するに一人飲みは、自制のきく健全な精神の者が楽しむ飲み方なのだ。この時の私のアテは、妻や子供、そして隅市さん、保育園の職員と多岐にわたった。それらのアテは私の体内にいた暗黒虫に進化を与えた。暗黒虫のまま存在すると思われていたそれが、アテに反応し、さなぎの形態はとらず、いきなり羽を身から広げ私の内で邪悪な羽音を響かせながら不規則にとんだ。その虫が飛んだり動いたりするたび私は、ゴミ箱や、結人のミニカー、椅子、本、その他周辺にあるものを投げたり蹴ったりしていた。部屋は散乱し、終いには缶ビールを倒してしまい、ゴミ箱から放り出されたティッシュや紙にビールが沁み込み、それらが床にぺちゃっとくっ付き、沼の様相を呈した。足の裏に液体の冷たさが触れ、そこで僅かながら我に返った。部屋を見渡し、酷いことをしたと自責の念にかられたが、何もせずその場をあとにして、和室に布団をしくと、体を横たえた。横になり暫くは落ち着いていたが、再び沸々と暴力的な感情が芽吹いてきて、天井に向かって暴言を吐いていた。何回かの大声のあと、玄関の戸が開く音が聞こえた。妻と息子が帰ってきたのだ。どうやら彼らは夕食を食べに行っていたようだ。妻と息子は何かを喋りながらリビングルームまで来ると、驚きの声を上げた。

 「何これ!」「うわぁ」

 リビングルームのすぐ脇に和室はある。妻は布団の上に横たわる私をすぐに見つけ、

 「広ちゃん、いい加減にして!」

 と怒鳴った。

 「うるさい」

 「うるさいじゃない。これきちんと片づけて」

 「いやじゃ」

 「しなさい」

 そう言うと妻は、和室に入って来て、無理矢理私の手首をとり起こそうとする。

 「やめろや」

 結人もこちらに来て楽しそうに私の体を起こそうとする。

 「やめろって」

 この時私の酔いは究極なところまできていて、体が思うように動かない。妻の手は、私の手首、肘、肩と位置を変え、やがて45度まで起き上がった私の上半身の背後にまわりこみ、背を勢いよく押してきた。

 「ぐげ」

 腹が曲がり、その効果なのか、げっぷとも何とも言い難い奇妙な音を発した私は、

 「わかったわかった」と自ら立ち上がった。

 自分の鬱憤を全て吐き出していたのか、もう戦意はなかった。

 部屋を散乱させた後悔もあった。タオルとゴミ袋を持ってくると、べちょべちょのティッシュや紙くずをごみ袋に入れ、床を拭いた。

 「僕のくるまぁ」

 結人が、床に転がる私の投げたミニカーを拾って、嘆いた。ちらっと見てみると、タイヤが変な角度でついていた。たぶんミニカーを床に置くと、傾くことになるだろう。

 「結人のおもちゃだけは、無茶苦茶にしないで!」

 部屋を見渡せば、一番被害を受けているのは結人のおもちゃだった。結人用の部屋は設けていたが、彼のおもちゃはリビングに置かれていた。私はおもちゃが置かれてある棚を蹴り、おもちゃの電車やショベルカーを投げ、それらをもれなく破損させていた。

 「結人に謝って」

 結人を見た。

 彼は顔を赤くさせ、目に涙を浮かべていた。泣くまいと我慢しているようだった。だが私と目が合うとポロポロと涙をこぼし始め、やがて声を出して泣き始めた。

 本当に津木くんと同じだ。子供を――家族を不幸にする悪人だ。

 「ごめん、結人」

 私は膝で彼に擦り寄ると抱き締めた。そして一緒に泣いた。涙は次から次へと出てきた。

 彼の腹に顔をうずめて泣いた。あとから妻に聞いたところ、すぐに結人は泣きやんでいたようだ。私が咽び泣いているのを驚いたようだったのだ。しばらく私の頭頂部を見ていたのだが、どう思ったのか、私の頭を撫ぜてくれたらしい。その光景を見て、妻も涙していたという。

 私は全てを出しきり、彼のお腹から顔を離した。結人のグレーのTシャツは、私の涙か何かでグショグショになっていた。

 「これ、ごめん」

 結人は首を振った。

 「みんなで部屋を片付けよ」

 妻が言った。

 私は再び床を拭き始めた。

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