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 土曜になると、さすがの私も前の週の愚行を反省し、元の酒量に戻っていた。やはり金曜日に吐いたのが一番効いた。酒もういらんと本当に思った。 時間は進み、週明けの月曜日の朝の保育園、登園した時刻を記入用紙に記したあと、私はほのかちゃんの名前を書くことはしなかった。理由はある。 先週末、保育園に子供を通わす保護者を集めての懇談会の主題は、家族の絆を深めて下さいということだったらしい。津木くんの家族に起こった出来事を踏まえての話し合いだったことは瞭然だったが、保育園側からは何かがあったからそういう話をします、というものはなく、曖昧に漠然と、家族のふれあいを大事にしましょうと、会を終始したという。保護者の方もどういう情報網で広がったかは定かでないが、津木家の事件が発端でこの懇親会は開かれていると勘付いていたので、パンダ組に限っていえばだが、保護者たちは……もちらん私の妻も、なんの混乱もなく質問もなく話を聞いていたようだった。ただ、その懇談会での話の最後に、保育園側から記入用紙に不必要なことは書かないようにお願いしますと、要望があったらしい。妻としては、先生が何を言っているかよくわからなかったようだし、実際、保護者の中から何のことか質問があり、最近、記入用紙に関係のないことが連日書かれていて、保育園としては困っているのだという。私のしていることを言っているのだとすぐにわかった。しかしでも、妻からそのことを聞き私は臆したからほのかちゃんの名前を書かなかったわけでない。私としてももうそろそろ現実に立ち返り、いつもの日常を過ごそうと考えていたから書かなかったわけだ。もう朝からコンビニに走りお酒を買うということもしなくなった。お酒は晩ご飯の時にだけ、と決め、この週からはそうしていたが、金曜日はやはりコンビニで飲もうと考えていた。津木くんがフラフラしながらやってきたコンビニに行くことを躊躇する自分もいたが、わずかな時間しかたっていないにもかかわらず、懐かしさを感じるあの場所に行ってみたいという願望があった。それに、一番の理由として隅市さんと会いたかった。私の知る限りだが、どうやら彼はこの週に限って月曜日から木曜日まで保育園に送迎共に行っていないようだったのだ。月曜日から記入用紙の将吾くんの送迎欄には「母」と記載されてあり、それが木曜日まで続いた。どうしたのだ、病気でも罹ったのかと心配したのだが、週の最後のこの日の夕方、結人を迎えに保育園に行くと、隅市さんが息子の将吾くんと手を繋ぎ、門の前で立っていた。

 「隅市さん!」

 大声で叫び、私は彼らの元に駆けつけた。

 「久しぶり、出輪さん!」

 隅市さんも元気よくかえしてくれた。

 「今ですか?」

 私は将吾くんに顔を向けながら尋ねた。

 「ええ……。出輪さん、今日はコンビニ行きますか?」

 「行きます。すぐには無理ですが、いつもぐらいの時間には」

 「そうですか。私も行きます。じゃあまたそこで」

 「はい」

 それだけで会話は終わった。なにか久々に逢ったにしては、あっけない会話だった。まあ、門には守衛のおじさんもいたし、子供を迎えに来た保護者もあったので、深く会話もできないでいたが……。とにかく私は結人を迎えに行き、家に帰った。妻の帰宅後、コンビニに行くために家を出た。

 ロータリーに着き、定位置に目を当てると、人が行き交う中、動かぬ影が見えた。隅市さんだった。彼は腕を組み、待っていた。私はゆっくり彼に近づき、挨拶した。

 「どうもです、隅市さん」

 「おお、出輪さん」

 腕を組み、夜空を見上げていた隅市さんは、私が近づいたことも気がつかずいきなり声をかけられびっくりした様子だった。一時間前に逢った時は、感じなかったが、それとも影がそうさせているだけなのか、隅市さんは前より少し痩せたのかなという印象を持った。

 「行きましょうか」

 と、挨拶もほどほどにさっそく私はコンビニに歩を進めようとした。

 「今日は店で飲みませんか?」

 隅市さんが言った。

 「ミセ?」

 「ええ。近所の居酒屋でです」

 「コンビニじゃなく、居酒屋……ですか……」

 隅市さんがなぜ居酒屋に行こうと言いだしたのか、この時は見当もつかなかったが、それよりも別の問題が私の頭をよぎる。私の軍資金は、コンビニに標準を合わせている。居酒屋レベルとなると最低三千円はいるだろう。店に入って飲むには、私の懐具合は寂しすぎた。

 「それならちょっと待っててくれますか、お金そんなに持ってきていないんで取りに帰ります」

 妻にお金を用立ててもらうため私は家に帰ろうとした。

 「大丈夫ですよ、今日は私のおごりです」

 「いえ、それは駄目です。おごるおごられるのは、なしって決めたじゃないですかぁ。取りに帰ります」

 「大丈夫です出輪さん。行きましょう」

 「いや、やっぱり――」

 私の声が聞こえたのか聞こえなかったのかわからなかったが、彼は振り返るとすぐさま歩きだした。追いつく形で私も渋々仕方なく続いた。

 「隅市さん!」

 笑顔だけで応える隅市さん。

 その笑顔を見て、今日はご馳走になろうと思った。

 隅市さんは、「事件」当夜、我々が津木くんの家に走って行った逆の方向――つまりは、コンビニの方に歩を進めそれをそのまま通り過ぎ、コンビニの角を右折して飲み屋街が多く点在するエリアへ足を踏み入れていった。右左と見渡せば、至る所に居酒屋はある。歩き始めてから三分も経たないうちに隅市さんははじめに見つけた居酒屋(?)に入店。私も小走りに店に進み寄り敷居をまたぐ。店内を覗くと隅市さんは、店員さんと何やら話していた。

 「――そうですか」

 と店員さんに言い残し隅市さんは私の方へと。

 「え?」

 「満員だって」

 二人して店を出て、次なる店へと。

 次の店も満員。やはり週末金曜日の酒場はどこも仕事帰りのお客でいっぱいらしい。

 三件目の焼き鳥屋も空いている席はなし。四件目に入ったのは、橙色の暖簾が目を引く海鮮居酒屋。席は空いていた。三方を壁で囲まれた「コ」の字の小室がならぶ席の一つに通され、我々はようやく腰を下ろすことができた。店内の壁は黒一色で、天井からオレンジ色の照明が薄暗くてらされている。カウンター席もあるが、席は全て埋まっているようだ。壁の向こうは、団体客が座れるスペースがあるのだろうか、大勢の楽しげな声が聞こえてくる。いわゆる店内は活気に満ちていた。女性の店員が注文をとりにやってきた。生中を二つとりあえず頼んだ。

 「生、二丁!」

 店員の威勢のいい声が店に響く。

 「――今日の飲みの分、あとで必ず返しますから」

 私はやはりお金のことが気になった。この日はとりあえず隅市さんにご馳走になって、後日割り勘分を返そうと思った。

 「お金はいいんですよ。本当に今日は気にしないでください、私のおごりです!」

 「でもやっぱり……」

 「今日は大いに飲みましょう! ね?」

 「ふうん……。わかりました今日はご馳走になります。でも次の機会があれば僕に払わせて下さい」

 隅市さんは笑顔を浮かべ頷いた。すぐに店員さんは生中と突き出しを運んできた。その時にメニューからアテを四品ほど選んで注文した。

 「乾杯!」

 と隅市さんと声を合わせジョッキを鳴らした。

 ジョッキでビールを飲むのは本当に久しぶりだ。一年ぶりといっても間違っていなかっただろう。

 隅市さんはジョッキをぐいぐい傾けた。私がテーブルに半分ぐらいは残るビールを置いてもまだゴクゴクと喉を鳴らし、ついには飲みきってしまった。

 「ええ!」

 驚くしかないだろう。

 「出輪さんもキュッといって下さいよ――すみません!」

 隅市さんは店員を呼んだ。生を二杯頼んだ。

 「さっ、出輪さん、今日はたくさん飲みましょう」




 来店してまだ三十分も経っていないのに、もうジョッキ三杯目に突入していた。しかも三杯目は生大。洒落た雰囲気の店に生大があるとは、初めメニユーを見たときから驚いてはいたが、なにはともあれその巨大なジョッキを掴み、手首に筋をくっきり浮かび上がらせながら隅市さんはビールを胃に流し込んでいた。呆気にとられる私を余所に、隅市さんはビールを半分以上飲んでようやくジョッキをテーブルに置いた。隅市さんはここまであまり自分から話さずに私の話を聞きながらほとんどなく飲むことに徹している。突き出し、注文した刺身、ホタテのバター焼き、ホッケ、海鮮サラダ、にも一回も手をつけていない。いつも基本的に聞く側に立つ彼だったが、なんだかこの日は雰囲気が違った。聞いてはくれているが、どこか上の空で、だが努めて明るく振る舞おうと酒の力をかりながら私と対面しているという気がした。それに先週はどうしていたのかと尋ねても、曖昧に取り繕うと言った感じで、要を得なかった。私はそのいつもと違う隅市さんに、先週は朝から酒を飲むという愚行を重ねていたことを白状しきって、彼もそれに対して苦笑しつつ感想を少し述べ、それから会話が一旦切れた。私は重いジョッキを持ち上げ、ゆっくりとビールを飲み、間をもたせた。飲んでいる最中に次の話題を考えた。さきの、朝から飲酒してしまう原因となった津木くん一家のことだ。彼らは今どうしてるか、お互いの想いを共有しながら飲もうと、重さで大きな音が響かないよう慎重にジョッキをテーブルに置いた時だ。

 「出輪さんと出逢えてよかった」

 とポツリと隅市さんが口にした。

 「えっ?」

 「よかった」

 「あの、隅市さん?」

 「出輪さん、飲んで下さい。飲みましょう!」

 彼は、ビールが半分残るジョッキを鷲づかみするとすぐさま口へと運び全て飲み込んでしまった。

 「すみませぇん!」

 「ちょっと隅市さん!」

 私は、通路に向かって店員さんを呼ぶ隅市さんを制した。彼は私の方に顔を向けた。

 「どうしたんですか? 今日はやけにペースが早いですよ。ゆっくりやりましょうよ」

 私は笑いながら言った。

 私の言うことを聞いて、隅市さんの表情は、笑顔からやがて真顔に変わった。それから彼は瞼を静かに閉じた。

 「隅市さん?」

 「……」

 隅市さんは無言のまま、やや俯き加減になった。

 「――はい! ご注文を伺います」

 場がなんだが冷めた状況で、注文をとりに来た元気のいい女の子の店員の声がテーブルに響く。

 隅市さんはそちらに反応することなく黙りこくったままだ。

 「あ、あの、またあとで注文します」

 「はぁ……」

 私たちを訝しげに見ながら店員は、我々のブースから消えた。

 「す、隅市さん? どうしたんですか?」

 「……」

 生大を見つめているのか、目を瞑っているのか、私の位置からはよくわからなかったが、目のあたりに影を作り、沈鬱に黙ったままの隅市さんを私はどうしたらいいか途方に暮れた。とにかく私としては、ビールを飲んで、海鮮サラダからマグロを挟み口に入れた。ドレッシングの酸味が僅かに現実感をよみがえさせてくれるが、前で俯く隅市さんを見ると、味覚もなくなるぐらいこちらも消沈してしまう。そうして なにも考えず、とりあえずまたジョッキに手を伸ばした時、

 「出輪さん」

 と隅市さんが言った。

 私は返事せず彼に目を向けた。

 隅市さんは射すように真っ直ぐこちらを見ていた。私は視線を外すことなく彼を見続けた。

 「出輪さん」

 と、もう一度私の名前を言った彼は、

 「私、来週から東北の方に赴任します」と言った。

 「フニン?」

 言葉の意味を即座に理解できなかった私は、眉を八の字した。そのあと、(東北? 来週?)と、隅市さんから言われた単語を一つ一つ、頭の中で並べた。そして、彼の言った言葉を日本語の文法の通りに並べた。それでもよく理解できなかった。東北という語が突飛過ぎて、話の全容が掴めないでいた。

 「隅市さん、どういう――」

 「秋田の病院にスタッフとして行くことになりました」

 「えっ?」

 「来週月曜日、ここを立ちます」

 「あ、あの隅市さん?」

 段々と彼の言うことがわかってきた。でもなぜ彼は神妙なのか。そこがこの時の私にはまだわからなかった。少しの間、秋田の病院に手伝いにでもいくのであろうと、私は思っていた。

 「どれぐらいの間、行くんですか?」

 「――ずっとです。向こうに定住します」

 しばらく彼の顔を見ていた。ビールを一含みしてから、

 「ずうっと?」と、か細い声で聞いた。

 彼は頷いた。

 全てがわかった。彼がこの地から引っ越すのだと。

 「奥さんと子供さんは?」

 「後から、来させる予定です」

 「なんとも、なんとも、急ですね」

 「はい。先週の金曜日にはすでにそんな話があって、出輪さんに相談しようと思っていたんですが、会えなかったので、その……一人で決めました。――いや、正直言うと、話をいただい時すぐにもう決心していました。行こうと」

 隅市さんが、元々働いていた病院の同僚に遺族の住所を尋ねた頃、音信不通だった彼の存在がその同僚を介して表に立ち、病院の先々で隅市さんの現状や想い出を懐かしさも込めて会話したそうだ。その中で、食堂で昼食をともにしたある医者に隅市さんのことを話した時、その医者は、秋田の病院のことを切り出したという。その病院では病院の規模の拡大に伴い、現状の医者の人数では、経営が難しいため、外科医師、特に消化器外科専門の医師の確保に奔走しているようなのであった。その医者は、隅市さんがもしもその気なら、推薦状を書くと言ってくれたそうで、同僚を介して、今回の運びとなり、先方もそれなら是非にと採用となったようだった。もう秋田の病院にも、紹介してくれた医師と一緒に尋ねてとりあえず挨拶も交わしたのだと言う。それで、先週は、将吾くんの送り迎えを奥さんがしていたのだ。

 話を聞き、私は、

 「よかったですね」

 と絞り出すように言った。

 「秋田という土地もよかったんだと思います。私のことを誰も知らない遠く離れた別天地で再出発しようと即座に思いました。医療現場から離れて随分経ちますが、やはり私には、医者という仕事しかないと思ったんです。津木くんの奥さんを救護した時から漠然と医療の現場に戻りたいという気持ちになり、ここ最近はずうと、そのことを思っていたんです。そこへこの話が舞い込み、即答しました。ブランクが少しあるため、始めは、手術の現場で補助の仕事をしてもらい、段々と職場に慣れてきたら、外科の執刀も任せたいと言ってくれています」

 もう、入店直後の空元気は失せ、そこには普段の落ち着いて話をする隅市さんの姿があった。

 私としては、彼の話を聞きながら、当然落ち着いてはいられなかった。彼が一瞬にして遠い人間となったみたいで、寂しさが心に生じた。寂しさだけではない。色んな感情がごっちゃになっていた。その中には嫉妬心もあった。所詮、医学大卒の人と、高卒の人間は進むべき道が全く違うのだ、と、彼を見ながら思ったりもした。だが、素直に彼の門出を祝おうとも思った。 私は消沈した気持ちを奮い立たせた。

 「よかったじゃないですか! 僕としたら、寂しくなるけど、隅市さんはいい選択をしたと思います」

 「ありがとう。でももうコンビニ飲みもできなくなると思うと私も寂しくなる。本当に出輪さんとこの地で逢えて、飲めてよかったと思っています。それで、その――」

 と、隅市さんはここで一息入れ、

 「秋田行きをあっさり決めた私が言うことではなく――ましてや私も精神的に全快した訳でないことをわかった上で話しますが、出輪さんが心配なんです。まだ精神的にも大いに傷を負っている出輪さんが心配だ」

 「えっ?」

 「人の心配より、自分の今後の心配をしたらと叱責を受けるかもしれないが、私はむこうに行って、なんとかやっていく自信もあるし覚悟もできました。これらは出輪さんより年長という部分だけで言っています。でも決して上から言っているのではなくて、友として言っています」

 「友」という言葉が私の中で響いた。そんな言葉、この世に生れて、初めて使われた。

 「本当に勝手に秋田行きを決めて、勝手に人の心配をするって、虫がよすぎる行為だと思いますが、これが私であり、私の本音です。出輪さんが心配です。しかし私には何もできない。ましてやここと秋田じゃ、距離も離れ過ぎている。だから秋田に行っても出輪さんがどういう生活をしているか知りたいので手紙のやりとりをさせてもらえたらと思ってます。メールでもいいけど、私たちこれまで携帯の番号すら交換のやり取りがなかった」

 隅市さんはここで笑った。私も相槌を打ちながら、笑った。

 「まぁ、それはそれとして――とにかく、もしよければ、出輪さんの住所を教えて欲しいんです。手紙送ります。それで出輪さんのタイミングで近況などを返信してくれたらうれしいです」

 「わかりました!」

 私は店員を呼ぶと、書くものと紙をもとめ、店員が持ってきてくれると、早速住所を書いた。ついでに携帯の番号とメールアドレスも書いた。隅市さんにそれを渡すと、彼は紙を見て、

 「そういえば、聞きそびれていたけど、携帯、直ってるの?」

 と聞いてきた。

 「それが……」

 私は隅市さんと初めて飲んだ日のことを回想しながら話した。隅市さんがどんな人かわからなかったので、疑り、身ぐるみはがされる危険を察知して、現金も千円札だけを持っていき、携帯も壊れていなかったが、持たずに対面したことを正直に告白した。彼は大笑いした。だが、すぐに真顔に変わった。

 「本当に、よほどのことがあったんですね」

 彼はそういう言い方をした。それから紙を折りたたみ財布に入れた。

 「手紙、送ります」

 「待ってます」

 「出輪さん、今日は語ろう――すみません!」

 隅市さんは店員を呼ぶと冷酒を注文した。

 私は、この日は酔いつぶれてもいいと思った。

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