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  パトカーの中でほのかちゃんはすぐに眠った。車のゆれが眠りを誘ったのか。もうひとつの要因としては、喧騒からはなれて安心したのだろうと勝手に思った。サイレンもなく、車内は静かだ。遠藤さんは、何も喋らず運転しているし。

 静けさは私にも影響した。この時になって、津木くんの家の惨状が冷静に思い返された。

 家の間取りは、玄関を入ればすぐにキッチンだった。つまり私があまりの驚愕に突っ立っていた所だ。ダイニングテーブルは、シンクにぴったりつくぐらい押しだされていたし、椅子の一つは倒れていたように思える。食器も何枚か床に落ちていたし、チューハイの缶も何個も落ちていた。どうやら津木くんは、酒を飲んでいたらしい。ここからはあくまでも推測だが、今回の津木くんの凶行は、奥さんの浮気が原因だろう。酒を飲みながら口論になって、激情した彼が奥さんを切りつけた。そういうことなんだろう。

 奥さんが倒れていた和室は、先に記したとおり、洗濯物が散らばり、その上に血痕が残されていた。私はその大量にも思えた鮮明な赤い血を見て、凍りついたのだった。隅市さんは、奥さんのことを大丈夫だと言っていた。ほのかちゃんを取りあえず安心させるために言ったとも考えられるが、彼はそんな目先のことだけを解決するためにでまかせを言う人でないと断言できた。だから奥さんは大丈夫と信じた。

 警察署には、十五分ぐらいで到着した。正面玄関前に車は止まった。

 ほのかちゃんを起こさないように、お尻をゆっくり滑らしながら車外へ出た。

 ことのほか外が涼しいと感じた。ほのかちゃんを抱っこしていて、腕や胸が蒸れて、またそれにより頭部も蒸気して、それが外気にあたり涼しいと感じたのだろう。

 遠藤さんに先導され署の中へ。

 自動ドアから中へ入ろうとした時、けたたましいサイレンの音が響き渡った。

 ほのかちゃんは驚いたのか、がばりと身を起こし、私の首に強くしがみついた。

 パトカーが赤色灯を回しながら国道へと出ていった。

 「起きた?」

 「うん」

 ほのかちゃんは目をこすりながら頷いた。

 「寝てていいよ」

 「ここどこ?」

 「警察署ってところだよ」

 「ケイサツショ?」

 「そう。ここでほのかちゃんは少し休憩するよ」

 「ケイサツって悪いヒト捕まえる人でしょ?」

 「うん、そうだね」

 「わたし、悪い子だからここにきたの?」

 「違う! 違うよ。ほのかちゃんのママ、怪我して病院に行ったから、ほのかちゃんはここで少し休憩してから――」

 ――私は戸惑った。休憩してからどうするんだ? その先どうなるか私もわからない。ほのかちゃんにどう伝えればいいのか窮し、うまく誤魔化すこともできず、間をつくってしまった。

 「――ほのかちゃんは、ここで迎えが来るまで、楽しく遊ぶんだよ。なにも心配いらないからね」

 遠藤さんが助け舟を出してくれた。

 しかし、ほのかちゃんは鋭い。痛いところをついてきた。

 「誰が迎えに来てくれるの? パパ?」

 ほのかちゃんは私の方を向いて聞いてきた。また私は窮する。

 「誰だろう? 誰が来てくれるか、それもお楽しみ」

 遠藤さんが、笑顔でほのかちゃんに答えてくれた。

 私は遠藤さんに辞儀した。

 我々は署に入り、受付を通り過ぎると、右手にある階段をあがって、二階へと移動した。

 二階にあがると、直角に二本伸びる廊下がある。そのどちらか一方にむかうのだろうと推測した私の横を遠藤さんは通り抜け、少し待ってて下さいと言い残し、また下の階へと戻って行った。

 階段の踊り場とも、廊下の一部ともどちらとも形容できそうな場所で、ほのかちゃんを抱っこして、遠藤さんを待つ。

 すぐに遠藤さんは、若い女性を伴い階下からやってきた。女性は、青いTシャツ、ジーンズというラフな格好で、私はもしやもうほのかちゃんの親類が見つかり、その誰かが迎えに来たのかと予測したのだが、そうではなかった。女性は私服の婦人警官だった。

 「ほのかちゃん、だよね? おねぇさんと遊ぼ」

 婦人警官は、ほのかちゃんに両手を差し出す。ほのかちゃんは、私の首から腕を離し、すぐに婦人警官の胸へと飛び込んでいった。腕がだらんとたれた。

 「それではお預かりします」

 なんともあっさりほのかちゃんが私からはなれ、婦人警官の首に手を巻きつけている光景をみると、寂しさよりも驚きが大きい。

 「はい」

 しかしやはり寂しいのか、返事する私の声は小さかった。

 婦人警官が、私のもとから去ろうと背を向けた。ほのかちゃんの顔があらわれた。

 「ゆいとのパパ、バイバイ」

 婦人警官の後頭部横から少し見えるほのかちゃんの目は笑っているようにも感じられた。

 私は、痺れる腕で手を振った。

 目を固くとじてひらくと、もうほのかちゃんはいなかった。今さら酔いがまわってきたのか、いや、今晩のことが全て幻だったのだろうと納得せずにはいられないぐらいのあっけなさでほのかちゃんは消えた。

 しかし現実だ。腕はまだジンジン痺れているから。

 棒立ちしている私に、遠藤さんが、

 「こちらへ」

 と声をかけた。

 私は、ほのかちゃんが行った方とは違う廊下を歩き、一室に通された。

 建物の内部に作られたため窓もなく、机に椅子が二つという殺風景な部屋である。

 遠藤さんは、少しお待ち下さい、と言って部屋から出ていった。

 とりあえず椅子に座り、一息つく。

 どこからかほのかちゃんの声が聞こえてきそうで、耳を集中させるが、なにも聞こえない。無音だ。部屋に着いてから五分もしないうちに、圧迫感が私を襲う。こんな無機質な部屋にひとりでいたら、気が狂いそうだった。

 私は扉をあけ、首だけを出し、左右をみる。蛍光灯に照らされた廊下がただ伸びているだけで、しばらく見ていると、この世界は私しかいないのではと錯覚させる。

 扉を開けたまま、再び椅子に座った。そこで気がついた。

 妻に連絡しなければ、と。

 携帯電話をポケットから出して、画面を見る。時刻は、十時三分だった。

 妻に事の次第を伝えると、当然の如く驚いていた。

 電話を切り、開け放たれた扉をぼうと見ていると、睡魔が襲ってきた。椅子に浅く座り、顔を天井に向け、目を瞑った。しばらくまどろんでいたようだが、誰かが部屋に入ってきた気配を感じた。

 目をあけると目の前には、コーポでの現場検証を終えたのか、巨体の警官畑本さんがいた。

 「どうもおまたせしました」

 と言いながら彼は警帽を脱ぎ、短く刈りあげられた頭をタオルで拭っている。

 彼が席に着くと、私は寝ぼけまなこをこすって、姿勢を正した。

 「形式的な質問だけで終わります。リラックスして答えて下さい」

 本当に形式的だった。氏名、年齢、住所、電話番号、職業、を聞かれ、後は津木くんとの関係を尋ねられた。この夜の出来事は、もうほとんど隅市さんが現場と警察署にくるまでの車中で説明しくれていたようで、事情聴取は二十分ほどで終わった。

 部屋を出ると、隣の部屋で聴取されていた隅市さんも丁度退出してきた。そちらは遠藤さんが行っていたようだった。

 一階の受付があるロビーに着くと、畑本さんが、パトカーでご自宅まで送ります、と言ってくれたが、私は固辞した。隅市さんも断った。私としてはもうパトカーには乗りたくなかった。

 警察署周辺の地理に明るくはなかったが、署の近くの市立こどもセンターには来たこともあったので駅の方向はだいたいわかった。携帯電話の時計を見ると十一時半になろうとしていた。道に迷えば、終電を逃す可能性もあったが、それならそれでいいと思った。

 警察署を出て国道を渡り、住宅街を抜け、やがて我々は繁華街に足を踏み入れた。

 その間、隅市さんから津木くんの奥さんの容体のことを聞いた。奥さんは津木くんに切りつけられたあと、ショックによってか気絶していたようなのだ。私としては出血が多量のようにもみえたのだが、医者としての隅市さんの見解では、奥さんは命に別状はないとのことだ。早期発見からの隅市さんによる止血等の手当ての甲斐もあって、そして、早急に病院にも搬送できたという要因もあって大事には至らないようだ。ただ、隅市さんはもうこの時すでに別の問題で苦悶していた。津木くんがコンビニにいるということを救急車を要請した時、流れとはいえ話したのは自分だと、言葉を詰まらせながら語っていた。しかし隅市さんが罪の念をいだく必要はないだろう。津木くんが奥さんを刺したということは実際であり、罪なのである。警察に捕まるのだ。彼が何を期してコンビニに来たのかわからない。たまたまなのか、それとも、我々がコンビニにいるということをわかったうえでの来訪なのか、もう彼と語れないので本心はわからない。いい風に解釈すれば、津木くんは、自分のしたことを我々に解決して欲しかったのかもしれない。そのことを強調し隅市さんをフォローした。しかし隅市さんは沈痛な面持ちのまま頷くだけであった。

 しばらくの沈黙のあと、隅市さんがほのかちゃんのことを話しだした。

 たぶん保育園はかわるだろう、人生も大きく変わるだろう、と隅市さんは予想した。それを聞き、ほのかちゃんのことをおもうと、自分の子供を想い出せずにはいられなかった。結人を悲しい現実に晒してはいけない。私も子供を持つ身でありながら、まだまだ未熟だ。津木くんと自分を重ね合わせ、思う。私も自分の感情を制御できず大声で妻を怒鳴りつけることもあった。 刃物はもちろん、手を上げるということはしなかったが、怒鳴ることも暴力だろう。結人が、妻を怒鳴る私に叫び声を上げながら突進してきたことが思い出される。子供にとって母親は全てなのだ。この世で一番大事な存在なのだ。そのことを思うと、横たわる母親を見てほのかちゃんはどう立ち尽くしていたのだろう。どう感じていたのだろう。それを想像すると、背骨が抜けおち、力がなくなる感じがする。ほのかちゃんの記憶の一番目が、あの光景でないと祈るばかりだった。

 電車に乗り込み、満員電車のなか、二駅越え、地元の駅で下車し、我々はロータリーに戻ってきた。コンビニの前に行ってみる。0時も越え、もう深夜だというのに、いつもと――いや、いつも以上の喧騒がコンビニ周辺には広がっていて、何時間も前にはパトカーがこのロータリーに乗りつけ、人々を驚かせていたのだろうという片鱗もなかった。相変わらず若者がコンビニでたむろして、喋り、笑ったりしている。私たちは何をするでもなく、しばらくいつも飲む定位置で、たたずんでいた。もちろん飲むことはしなかった。

 その場では会話もろくにせず隅市さんと別れた。

 帰宅すると、妻が心配顔で出迎えてくれた。詳しいことは次の日話すと言って、シャワーも浴びずに寝巻に着替えてお布団に入った。横で眠る結人の顔をしばらく見て目をつぶった。だが、なかなか寝付けない。上体を起こし、結人を見る。豆電球に照らされるぷくりとした橙色の唇が可愛い。額にキスをしてまた寝てみる。だがやはり眠れそうにない。

この日の夜は、なかなか終わらない。


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