表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/20

10

 歩道を夢中で走る。隅市さんの背中めがけ走る。だが、どんどん離されていく。無職だから通勤なんてものもなく、しかも日中は家にずっと引きこもっているのだから、普通の三十代の基礎体力よりも数段衰えていると思われた。だが、それは隅市さんも同じなはず。それなのに距離が離れていく。横から嫌味なぐらいの速さで車が私を追い越していく。

 「隅市さぁん!」

 たまらず大声を出した。声は車のエンジン音にかき消されたのか、隅市さんは気付かない様子で走り続ける。

 「隅市さぁん!」

 二度目の絶叫で隅市さんは立ち止り、振り向いてくれた。

 やっと彼に追いついた。

 「どこ行くんですか?」

 「津木くんの家です。行きましょう」

 もう隅市さんは走り出している。

 「知っているんですか、彼の家?」

 私は知らなかった、津木くんの家の場所を。

 「知っています。一番初めに彼と飲んだ時、帰る方向が一緒だったんで、彼の住むコーポの前まで行きました。部屋は一階と聞きました」

 走ったままそう言うと、隅市さんはスピードを上げた。

 それから一分ぐらいでコーポに着いた。

 コーポは駐車場を「コ」の字に囲むように三棟あり、私がそこに到着した時は、隅市さんは左手の建物へとむかっていた。

 私は隅市さんの元に駆け寄った。コーポの造りとして、個々の家の玄関扉がずらっと駐車場に面して並んでおり、隅市さんはその一番端の家のドアノブをガチャガチャしているようで、鍵がかかっているとわかると、隣りの家のドアに移った。そこで隅市さんと合流できた。

 「隅市さん!」

 「出輪さん、むこうの棟へ! 津木くんの家をみつけて下さい! 鍵はかかっていないはず、早く!」

 「は、はい!」

 私は隅市さんに指示された通り、違う棟へとむかった。

 並ぶドアを横目に、早歩きで目指す。

 「あっ」

 声が出た。

 目指す棟の左から二番目のドアから僅かに光がもれている。直感的に、その場へ急いだ。

 ドアの前まで着いて、足元に目をやる。靴がドアに挟まって隙間をつくっていることに気がついた。よく見ると、子供用の靴だった。かかと側がこちらをむいており、なにかの文字がプリントされたシールが貼られていた。

 しゃがんで確認すると「つきほのか」とひらがなで書かれてある。

 「ここ、ここだ! ここだ隅市さん!」

 私は立ち上がり手を上げ、叫んだ。

 隅市さんは、ひょいと顔をこちらにむけると、脱兎の勢いでこちらに駆け寄ってきた。

 私は挟まっているほのかちゃんの靴をドアの隙間から取り出し、もう一度名前を確認した。確かに、つきほのかと書かれてある。

 「ここですか?」

 隅市さんが来た。

 「これ」

 私は靴を差し出した。

 それを一瞥すると隅市さんは勢いよく家の中に入っていった。私も続く。

 「奥さん!」

 隅市さんが叫ぶ。靴を脱ぎながらもう一度叫んだ。

 私は隅市さんの背中しか見えない。しかしすぐに視界は晴れた。彼が部屋に突入したからだ。

 「――奥さぁん!」

 さっきよりも数倍大きな声で隅市さんは叫んだ。私は脱ぎかけていた靴のことも忘れ、部屋に入った。

 声にならなかった。全身の毛穴がとじた気がした。

 保育園で見たあの奥さんが、奥の和室の部屋で仰向けにたおれていた。衣類等をたたんでいた途中だったのか、散らばる洗濯物の中に埋もれるようにたおれていた。血が辺りに飛んでいた。

 隅市さんはすぐさま彼女に駆け寄り、応答を確かめる。それから携帯電話をポケットからすばやく取り出して、ボタンをプッシュしていた。

 と、隅市さんの視線が動いた。

 私は後ろで立ち尽くしていたのだが、彼の視線が気になり、目玉だけ動かした。

 愕然とした。和室の隣の部屋に自分の母親を見下ろす、ほのかちゃんがいたのだ。

 「出輪さん! この子を外へ出してあげて下さい!」

 隅市さんの声は聞こえてはいるのだが、体が動かない。

 「出輪さん何してる! 早く、早くしろ!」

 壁が震えるぐらいの大声だった。しかしそれによって我にかえった。

 「ほのかちゃん!」

 私はほのかちゃんに近寄り、すくい上げるように抱っこしてそのまま外へと出た。

 「大丈夫だからね、ほのかちゃん」

 玄関先でそう言っていると隅市さんが携帯片手に、出てきた。

 「住所は――」

 と、辺りをキョロキョロしながら電話で喋り、何かを見つけたのか、突然サッと飛び、駐車場も縦断して、駐車場の出入り口にアーチ状に掲げられているコーポの名前が記されたプレートを読み上げていた。

 どうやら、救急車を要請しているみたいだった。

 隅市さんは、電話で喋りながらふたたび急いでこちらに戻って来て、家に入っていった。

 彼は靴下だけで移動していた。

 私はなるべく家から離れようと駐車場の真ん中まで移動した。強くほのかちゃんを抱き締めた。ほのかちゃんはなにも言わず、ただ私の腕の中で身を小さくしている。

 しばらくすると、サイレンの音が遠くから聞こえてきた。音の高鳴りが近くで響きは始めるとともに一旦サイレンの音は消え、それからすぐに救急車が到着した。

 救急隊員らは車から降り、そのうちの一人が私たちに近寄って来た。

 「連絡では、怪我をしているのは成人女性だと聞いたのですが」

 眼鏡をかけたその男の人は、マスクを顎までずり下げいきなりそう言ってきた。

 「怪我人はあそこの家の中にいます。この子はその人の娘さんです」

 「あなたが通報してくれたんですよね?」

 「僕じゃないです。たぶん通報してくれたのは私の友人です。彼は今、家の中で怪我人を介抱してくれています」

 眼鏡の救急隊員は、頷くと、

 「怪我人は、あの家の中だ! すぐに搬送しろ」

 と指示を出した。

 救急車から担架が出され、家の中に持ち運ばれる。

 「今回の件は、事件性が強そうなので、ここに警察も来ます。あなたは警察が来るまでここで待機していて下さい。その際、詳しい事情も聞かれると思います」

 「はい」

 眼鏡の救急隊員は、会釈したのち、私たちから離れていった。

 赤色灯が、私たちをはたくようにチカチカと照らす。赤い色が血を連想させる。

 私は救急車を背にした。背にしてすぐ、赤の色のちらつきが増えた。

 パトカーが来たのだ。二台きた。

 私はより緊張した。

 パトカーから警察官がおりてきたのと同時に、玄関が騒がしくなった。

 奥さんが担架に乗って出てきた。隅市さんも一緒だ。

 「出輪さん!」

 「隅市さん!」

 隅市さんは、額にはびこる汗を朱に光らせながらこちらにむかってきた。

 「奥さんは、大丈夫。出輪さん、この子なんて名前だっけ?」

 「ほのかちゃんです」

 「――ほのかちゃん」

 隅市さんは少し屈み、優しくほのかちゃんに声をかける。

 「ママは大丈夫だよ。ちょっとだけ怪我をして、今病院に行くからね。病院にいってお医者さんにみてもらったら、すぐに元気になる。だから心配しないでね」

 ほのかちゃんは、つぶらな瞳で真っ直ぐ隅市さんを見つめ、僅かに頷いた。

 「よし、いい子」

 隅市さんは、ほのかちゃんの頭を撫ぜた。

 「――よろしいですか?」

 タイミングを見計らってか、警官が割ってはいてきた。

 「小宮山警察署の畑本といいます。津木さんの関係者の方ですか?」

 「はい、そうです。119番に通報したものです」

 「じゃあ、あなたが隅市さん?」

 「そうです」

 尋ねてきた警官は、隅市さんよりも一まわり大きい巨体だった。ただ隅市さんとは違い、筋肉質ではなく、しまりのない肉が全身を覆っており、腹の黒いベルトがはち切れんばかりにまかれている。

 「奥さんを刺した被疑者――ああ、旦那さんは、言われたコンビニ前で別の班が確保しました。で――」

 「すみません!」

 隅市さんが話を止めた。

 「この子、二人のお嬢さんなんです。一刻も早くこの子を安心できる場所に移してあげて下さい」

 「ああ、それは申し訳ない。じゃあ、この子は一足先に署に連れていきます。――おおい遠藤!」

 とても若い、少年のような警官が近寄ってきた。

 「この子をパトカーで先に署に連れていってくれんか」

 頷いた警官は、私からほのかちゃんを抱き上げようとした。

 私は、警官に肩を入れ、拒む姿勢をとった。

 「すみません、この子とても不安がってると思うんです。この子は僕の息子と保育園が一緒で、僕たち、決して知らない仲じゃないんです。こういう状況なんで、近くに顔見知りの人間がいた方が、この子ためにもいいと思うんです。だから、僕も一緒についていってあげたいんですが……」

 「大丈夫ですよ。署で安全に保護しますから。我々の方でこの子の親類関係をきちんと調べ、わかれば連絡し、引き取りに来てもらいますから。それにあなたたちは、これからこの現場で実況見分してもらいそのあとで署にもご同行してもらわなければなりません。そこでも今回の件について詳しい状況を聞かせてもらいますから、この子とはどうせ離れなくちゃあいけないですよ」

 「私、一人じゃだめですか?」

 隅市さんがズイっと巨体警官に詰め寄る。

 「この現場のことは、私が説明します。私と彼は、ずうっと一緒に行動していました。だからここでの説明は私一人で足ります。だから彼は、この子と先に警察署まで一緒に行く。それでは駄目ですか?」

 「うぅん……」

 巨体警官は、二重あごをなぜ悩んでいる。だがすぐにその手は止まった。

 「うん、わかりました。遠藤、こちらの方もパトカーへ」

 遠藤と呼ばれた警官は、私とほのかちゃんをパトカーへいざなう。

 「隅市さん、すみません」

 「なんで。あとで警察署で」

 「はい」

 私はほのかちゃんを抱っこしたままパトカーへ歩く。そこで気がついた。

 靴を片方しか履いていないことに。

 巨体警官のところへ戻り事情を説明した。動転した私は、津木くんの家の玄関に片っぽ靴を脱ぎ忘れて入ったのだろう。そしてそのまま、外に出てきた。現場保存の原則から、本当は駄目なようだが、靴を持っていっていいと 特別に了承された。

 パトカーに乗り込んだ。座席の背もたれに体重をのせる。深いため息を吐いた。息がかかったのか、ほのかちゃんがきつく眼を閉じた。

 「ごめん」

 ほのかちゃんはなにも言わない。でもまた、目をぱちくりさせた。

 私はその様子を見て少し微笑むと、窓の外に目をやった。

 コーポの住人が、何事が起きたのかと、津木くんの家を注視している。パトライトの光で、照らされるそれらの顔を見ていると、世間の薄気味悪さを感じる。

 津木くんは、たぶん家で暴れ、その怒号やら、奥さんの悲鳴やらが、彼の家の両隣、上の階の住人にも届いていたはずだ。いや、それ以外の家にもなにかしら聞こえたと思う。だが住人はその時は、貝のふたが閉じたように誰一人として外にも出てきていないのに、今はどうだ。これだけ居たんだというぐらいの人間が首を並べている。

 パトカーはバックで駐車場を出た。窓の風景が変わっていく。また首が並んでいる。歩道からコーポのことをみている野次馬だ。それらの顔は、コーポの住人といっしょのようにみえた。パトカーの中を覗く者もいる。

 早く家帰れよ、と私は呟いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ