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Day.7 その黄金の丘の上で2

 油断は災難を呼ぶ、そんな言葉があったとしたら間違いなく俺の辞書に刻まれることだろう。

 鳥達の囀りが聞こえ始める早朝の田舎町。

 町の周りを囲うように連なる山々の向こうから、一日の始まりを告げる陽の光が、薄らと世界を照らし出す午前5時。

 まだ人々が動き出すには少しだけ早いこの時間、俺は家の庭で鍛練という名の嫌がらせを受けていた。

 勢いよく打ち込まれる岩石のような拳を紙一重で躱しながら、反撃の回し蹴りを相手の胴体に向かって打ち込む。

 いとも容易く防がれると、更なる重撃が肩を掠めた。

 掠っただけでも直撃したかのような痛みを無視して、風の流れに乗るような動きで相手の背後へと回り込む。

 直後、間髪入れずに突き出した右拳は、あっさりと空を切った。

 咄嗟に左手を右頬の前に入れて、身体は左へと弾けるように跳ぶ。

 金属のハンマーで殴られたような衝撃を受けて、俺の身体は数メートルもの距離を殴り飛ばされていた。

 チッ、その巨体でそんな速く動けるなんて反則だろ。

 舌打ちしつつもよろけた体勢を整え、即座に迎撃の構えを取る。

 前を睨む。

 そこには拳を突き出した格好のままで停止した龍鉄が、浅く笑いながら俺を見ていた。


「ふむ、今の一撃を上手く流すとは…少しはマシになったかのぉ真也。」

「……何故追撃してこなかった?」

「ガッハッハ!俺はな真也、楽しみはなるだけ長引かせたいんじゃ。」

「クソジジイめ。」


 どうしてこうなったのか、思い出すだけでも憂鬱になる。

 朝っぱらから腹に蹴りを食らって起こされ、悶絶してる間に靴と一緒に外へと放り出された。


「何しやがんだクソジジイ!」

「毎年のことじゃろうが、寧ろ俺が部屋に来たのも気づかず不様に蹴られるお前が悪い。ガッハッハ!」

「寝てんだから気づくわけねぇだろ!」

「戯け!そんなことでは大切な者を守ることはできぬぞ!まったく、俺が直々に鍛えてやっておるというのに堕落しおって。」

「戦場でもねぇのにんなこと気にしてるテメェの方がおかしいんだよ!ったく、寝起きから運動とは健康的だなクソッタレ。」


 だがこれは諦めるしかなさそうだ、かったりぃがやるしかない。

 どうせ逃げたところで、奴を喜ばせるだけだろうしな。

 俺は身体を横にして浅く腰を落とすと、左腕を下げて右腕を胸の前で構える。

 龍鉄も同じ構えを取り、楽しそうに口元を歪めた。

 俺の武道の師であり、今もなお勝つことのできない相手。

 久し振りに本気の手合わせだ、簡単にはいかないだろうな。

 緩やかな風が吹き、結んでいない髪を揺らす。

 何の合図もなく、二人同時に前へと踏み出した。

 それから今までずっと互いに決定打もなく、躱し、防ぎ続けている。

 騒ぎに目を覚ました莉乃姉は、危ないからと部屋の窓を開けてこちらを見ていた。

 沙耶さんは、まぁ慣れているし普通に朝食の準備でも始めているだろう。

 つか流石に疲れてきたな、暑さのせいで汗も止まらない。

 呼吸を整える暇すらない攻防戦だ、身体が悲鳴を上げている。

 そろそろ終わらせないと、集中力より体力が保たないな。

 だが勝機はある。

 悔しいが、幸いにも俺は手加減されている。

 もし奴が本気で来ていたなら、今の一撃で吹き飛ばされた時点で追撃があったはずだ。

 だがそれがない、ってことは龍鉄は油断している証拠。

 そこを責めない手はない、どうせ負けるならせめて一撃入れてからだ。

 俺は体勢を低くすると、一気に龍鉄との間合いを詰める。

 打ち込むのは右のストレート。

 これを龍鉄は間違いなく俺の左側に躱してくる。

 俺の体勢が低いなら、反撃には上からの振り下ろし。

 ストレートの威力を調節しておけば、前に持っていった体重を無理矢理後ろへ戻すことができる。

 フェイクのストレートを躱させて、即座にバックステップ、あいつの拳が目の前を抜けたところで膝を入れればカウンターが決まるはずだ。

 眼前に迫る龍鉄に向けて、速度だけのストレートを打ち込む。

 よし、躱せ!


――パシッ!


「な!?」


 俺の突き出したストレートは躱されることなく、龍鉄の掌で受け止められていた。

 頭上から、龍鉄の低い声が響く。


「……真也、お前は誰と闘っておるのか正しく理解しとらんようじゃな!」

「ぐはっ!」


 腹に入れられた強烈な膝蹴り。

 衝撃は背中を突き抜けて、俺は玩具みたいに蹴り飛ばされた。

 痛いなんてもんじゃない。

 苦しさで声が出ない、肺の中の空気がまとめて外へと吐き出された。

 内臓という内臓が、喉の奥から逆流してきそうだ。

 胃の中に鉄球でも捻じ込まれたみたいに、痛みと重さが身体を襲う。

 クソッ、骨が折れてないだけマシだと思えるくらいだ。

 みっともなく地面に横たわりながら、俺は恨めしげに龍鉄を睨みつける。

 龍鉄はつまらないものを見るような目で、俺を見下ろしながら近寄ってきた。


「ふん、そうやって俺を睨む度胸があるなら、何故もっと正面から向ってこない。」

「……テ…メェ、……何………言って…やがる?」

「まさか今のが正面突破だとでもいうのか?ガッハッハ!あの程度の拳、躱すまでもない。いつからお前は小細工使って戦うようになったんじゃ?油断していたのはお前の方だぞ真也。」

「油断…だと?」

「そうじゃ。お前は俺が本気を出していないからと油断し、下らん策を巡らせて俺に一撃を入れようとした。あんな見え透いた罠、そこらの不良には効くだろうが、俺相手にするには些かすぎるほど子供騙しじゃ。それにお前、俺との実力差を考えて、どうせ負けるならとでも思ったのじゃろ?」

「………。」

「ガッハッハ!無言とは、まさに図星じゃったか。本当に甘い男じゃのお前は。初めから負けること前提で振るわれる拳なんぞ、何百と食らおうと痛くも痒くもないわ!お前、強くなりたいんじゃなかったのか?」

「チッ、だったらどうした。」

「戯けが、初めに言ったであろうが。それでは大切な者を守れないと。頭を使って危機を乗り越えるのは構わん、確かにその方が良い結果を生むこともあろう。だがな真也、本当の危機とは即ち、今の俺とお前のようなものじゃ。」


 俺と、龍鉄?

 意味が解らない、何故それが危機という言葉に結びつく。


「お前は俺を倒そうとしたのではなく、とりあえず今を終わらせようとした、しかも自分が負けることを自分で決めつけたうえでな。だがこれがもし俺ではなく、危機と相対した状況だったとしたらどうだ?根本を解決せん限り、危機は再びやってくる。それなのにお前は、その場を凌ぐために自分の勝利という結果を諦めた。お前はこの戦いを終わらせるために、俺を倒そうという気持ちを持って向かってくるべきじゃった。」

「んなもん、今の俺には無理だろうが。」

「若いもんがそう簡単に諦めるでないわ!勝てないのなら強くなれ、例えどんな危機に直面しても切り抜けられる強さを手に入れるのじゃ。諦めたって結果は出てこん、それは望む結果を棄てるということじゃ。どんな過程があろうとも決して諦めぬ強さ、そして自分自身を大切にする強さ、お前はその二つを手にしなければならん!」

「…クソッ。」


 解ってんだよ、そんなことは。

 だけど、どうすればそれが手に入るのか、俺にはまだわからないだけだ。


「悪態を吐く暇があるなら己を鍛えろ真也、本当の強さが欲しいのならな。まったく、久し振りに会いに来て少しは顔つきもマシになったかと思ったが全然じゃな、これではまだ免許皆伝はやれんわ。」

「チッ、んなもん最初から欲しがってねぇよ。」

「ガッハッハ!だがまぁ、お前も多少は変わったらしい。あそこで見ている娘っ子がいい証拠じゃ。」

「は?」

「ふん、気づいておらんならそれでもいい。お前自身に足りていないモノ、それがなんなのか気づいた時、二つの強さを手にする方法も自ずと解るじゃろ。それにお前は何かするべきことがあってここに来た、ならばここで地べたに寝転んでいる場合ではないな。」

「よくもいけしゃあしゃあと、やったのはテメェだろうが。」

「ガッハッハ!ほれ行くぞ、沙耶がそろそろ飯を作り終えた頃じゃろうて。」


 豪快に笑いながら、龍鉄は俺を置いて先に家へと入っていく。

 ったく、朝から何度も蹴り飛ばしやがって。

 俺は痛む腹を押さえながら、ゆっくりと立ち上がる。

 すると不安そうな顔をした莉乃姉が、慌てて俺の方へ駆けてきた。


「大丈夫か真也!」

「あぁ、とりあえず痛みは引いてきた。」

「そうか、良かった。だけどびっくりしたぞ、物音で目を覚ましたら庭で二人が殴り合ってて。」

「まぁいつものことだ、こっちに来るたびやれ鍛練だなんだって朝っぱらからけしかけてきやがる。迷惑極まりないジジイだ、大人しく寝とけっつうの。」

「何か、毎年大変なんだな。とりあえず真也はシャワーを浴びた方がいいぞ、身体中砂と汗だらけだ。」


 莉乃姉に言われて身体を見回すと、確かに汗で砂がいたるところに張り付いている。

 クソッ、さっき蹴り飛ばされたとき盛大に転がったからな。

 手で砂を軽く落としながら、俺は龍鉄の言葉を頭の中で繰り返す。

 俺に必要な二つの強さ。

 それを手に入れるためにはどうしたらいいのか、やはり思いつかない。

 だけど、いつかはそれを手に入れないといけないのも事実だ。

 俺には何が足りていないんだろう。

 そんなことを考えつつも、俺は莉乃姉に支えてもらいながら、いい匂いの漂いだした家へと戻っていった。





 太陽の光が眩く頭上から照らし出した頃。

 俺と莉乃姉は町の端にある山道の入り口で、高く連なる山を見て向き合っていた。


「それじゃあ、行ってくる。」

「あぁ、気をつけてな。」

「大丈夫だ、この辺りの森は小さい頃に走り回って知り尽くしてる。」

「そうか、なら安心だな。……辛かったらすぐにでも帰ってこいよ真也、あたし、待ってるから。」

「ありがとう莉乃姉、じゃあな。」


 俺は莉乃姉を残し、一人山道へと踏み込んでいく。

 道は茶色の乾いた土から焦げ茶色の湿った土へと変わり、僅かに足が地面に沈みこむ。

 樹齢何十年かの大木が乱立し、至るところに太い木の根がうねっている。

 どれだけ時が過ぎようとも、この森の景色は変わらないな。

 深く濃厚、それでいて澄んだ空気。

 湿度は高いはずなのに、それほど暑さは感じない。

 静かで、心が洗われる。

 木々に隙間をすり抜けて吹く風は、独特の匂いを運んできた。

 懐かしい、土の匂い。

 爽やかな、草の匂い。

 かつて走り回ったここは、まるで俺を迎え入れるみたいに、穏やかさを保っている。

 帰ってきた、そんな気持ち。

 だが、ここには俺しか立っていない。

 優しく手を差し伸べても、それを掴むはずの手のひらは、いつまでたっても現れない。

 不意に、胸が痛む。

 苦しくて悲しくて、その場に蹲った。

 膝が震えて、目の前さえも霞む。

 過去の幻影が、俺の心を押し潰していく。

 クソッ、俺はまた立ち止まるのかよ。

 格好つけて一人で来たくせに、なんて体たらくだ。

 過去に置き忘れた答えを取りにきたんじゃなかったのか、桐生真也。

 俺はこんなところで地面を睨みつけるために、莉乃姉を悲しませたんじゃない。

 自分に言い聞かせ、必死に力を入れた。

 そうして無理矢理に動かす手足は、まだ震えている。

 だが動いてくれた。

 ゆっくりと、しかし確実に進んだ一歩。

 胸の痛みは酷くなるばかりで、全身は暑さからではない汗でびっしょりと濡れている。


「俺は姉さんに会いに行くんだよ、邪魔をするな桐生真也!」


 そう言って、自分自身を奮い立たせる。

 ふと、視界の端に何かがよぎった。

 空色の、リボン?

 ひらひらと風に揺れるそれは、時折止まっては森の奥へと進んでいく。

 その方向は、あの場所か!

 まさか、という言葉が脳裏をよぎる。

 あの空色のリボンは、姉さんがいつも髪に結んでいたものだ。

 毎朝俺を起こした姉さんが、いつも結んでほしいとせがんできていた、あの空色のリボン。

 身体に、自然と力が入る。

 震えはなくなって、足は気がつけば走りだしていた。

 風のように身体は軽い、もういつもの自分、いやそれ以上の軽さだ。

 ただ姉さんのリボンが見えた、気がした。

 それだけでこの変わりようとは、我ながら随分とわかりやすい。

 時々躓きながら、それでも足は進むのを止めなかった。

 呼吸することすら忘れて、ただひたすらに走っていく。

 そして、遂に辿り着いた。


―――一面に広がる、黄金の丘。


 それは壮大で、圧倒的だ。

 小さくも咲き誇る黄金の向日葵、それが数百メートル四方に渡って広がっている。

 あまりにも密集して咲いているせいで、地面は何処にも見えない。

 青く澄んだ空と、緑に満ちた山肌。

 その美しささえ霞んでしまうほど、目の前の光景は壮観だった。

 凛々しく華やかなその花は、太陽に向けてその身を目一杯伸ばしている。

 あまりの綺麗さに、俺は言葉をなくしていた。

 四年前の夏休み、俺はこの場所で遊んだ。

 真耶姉さんと一緒に、日が暮れるまで。

 この場所に来れたのは、本当に偶然だった。

 山の中で姉さんと走り回っていた時、ふと目を離したせいで見失ってしまったのだ。

 俺は慌てて山の中を探した。

 そして漸く姉さんを見つけたのが、この丘だ。

 初めてここに来た俺も、今みたいに言葉を発することができなかった。

 向日葵の美しさも、空の青さも、言葉にできないほど綺麗だ。

 ゆっくりと、俺は向日葵の絨毯の中を進んでいく。

 花の匂いに包まれながら、腰ほどの高さに伸びた向日葵をかき分けて、俺はこの丘の中心に立つ。

 どの方向を見渡しても、金色の世界が広がっている。

 俺はかつての二人を思い出しながら、思いっきり両手を広げた。

 姉さんはここに来るといつも、この場所でこうして自然を感じていたよな。

 それを俺は離れたところで、微笑みながら眺めるんだ。

 向日葵の中に佇むその姿に、ずっと憧れていたんだから。

 あぁマズいな、この感覚は。

 自分で想い出に浸っておいて、柄にもなく泣きそうだ。

 夏の陽射しに目を細めて、俺は静かに頷いた。

 少しだけ、中心から離れる。

 さぁ、独白を始めよう。


「姉さん、久し振りにここへ来たよ。懐かしいな、なんにも変わってない。」


 できるだけの笑顔で、精一杯笑って。

 だってさ、俺は悲しいことを話しにきたんじゃないんだから。


「今日は姉さんに話したいことがあって、こんな場所にまで来たんだよ。実は莉乃姉も一緒なんだけど、流石に今回は遠慮してもらった。他の人いる時に、言う言葉じゃないと思うから。」


 そう、それは始まりと終わりを告げる言葉。

 喜びと悲しみを、一度に認めてしまう言葉。


「四年前の夏休みに、姉さんはここで言ってくれたよな。ずっと俺のことが好きだったと、弟ではなく一人の男として、俺のことを愛しているんだって。」


 その言葉を告げるのに、一体どれほどの勇気が必要だったのか、今ならよく解る。

 倫理観や常識という言葉が、この言葉を告げるまでの間どれほど姉さんの心を苦しめたのか。

 それなのに俺は、その答えを出さなかった。

 姉さんが頑張って言ってくれた告白なのに、俺は下らない倫理観に負けて応えることができなかったんだ。

 でも俺は今日こそ、その答えを出しにきた。

 深呼吸して、熱くなる目の奥を無視するように言葉を連ねる。


「あの時、俺は本当に嬉しかった。今までで一番幸福な瞬間だったよ。だけどあの時の俺はまだ弱くて、いや、まだ弱いんだけどさ、ただ世間とか周りの目とか、そんなことばかり気にしてたんだ。でも、そんなの言い訳だ、自分に嘘を吐いていただけだった。」


 自分の気持ちに嘘を吐いてまで、姉さんの気持ちを踏みにじってまで、そこまでして守るものなんてなかった。

 大切なことを見失ってた、あの時の俺。

 …少しは成長できたのかな。


「だからまずは、ごめん。もっと早く来るべきだった、流石の姉さんでも怒ってるよな。だから、本当にごめん。」


 何しろ四年も待たせてしまったのだ、どんなに気長な奴でも怒るに決まっている。

 きっと頬をリスみたいに膨らませて、子供みたいに拗ねるんだ。

 そんな姿でさえ、俺は幸せな気持ちになれる。

 ……本当に、もうそれも見られないのか。

 元気に笑う顔も、可愛らしく怒る顔も、俺が冷たくしてしまっていじける顔も。

 姉さんとの想い出は、そのまま俺の生きてきた記憶だ。

 どんな景色にも、姉さんの姿が残っている。

 もう、姉さんは死んでしまった。

 もう二度と、この世界で会うことはできない。

 でも認めなければならない、いつまでも現実から目を逸らすことはできないんだ。

 俺は、そうしないと前に進めない。

 だから言葉にしよう、積年の想いを。


「遅くなったけど、俺の答えを言おうと思う。こういうの慣れてないからさ、できれば笑わないで聞いてくれると嬉しい。」


 鼓動の音が妙に耳に響く、心臓が壊れてしまったのかもしれない。


「俺は…姉さんのことが、桐生真耶のことが好きだ。姉としてではなく一人の女性として、真耶に恋をしている。姉弟とかそんなこと関係ない、それくらいじゃこの想いをなかったことにできない。もう一度言うぞ!俺は桐生真耶を、心の底から愛している!」


 ……言えた、のか。

 ずっと心にしまっていた想いを、言葉にすることができたのか。

 だが答えは返ってこない、返ってくるはずがない。

 俺の言葉は、夏の青い空へと解けていく。


「届いたのかな、俺の言葉は。」

「……もちろん、しっかり届いたよ!」

「っ!?」


 突然聞こえたその声に、俺は振り向けずにいた。

 懐かしい声が、いつまでも響いている。

 聞こえるはずのない声、失われてしまったはずの声。

 確かに、今までもその声は聞こえてた。

 でもそれはもっとおぼろげな声だったのに、今の声みたいにはっきりとはしていない。


「ねぇ、なんでこっちを向いてくれないの?」

「……姉さん?」

「あはは、それは自分の目で確かめてみたらいいんじゃないかな。」


 楽しげな声も、あの時のまま。

 ゆっくりと、後ろを振り返る。

 そこには、一人の少女が立っていた。

 水色のワンピースに、空色のリボン。

 黒いショートヘアが、さらさらと風に揺れている。

 そして左手首に光る、シルバーのチェーンブレスレット。

 間違えることのないその姿、俺と同じだけどどこか違う、優しげな微笑みを抱く人。

 三年前の姿のままで、彼女はそこにいる。

 黄金の丘に立つ桐生真耶は、いつかと変わらぬ笑顔で、俺のことを見ていた。


「…本当に、姉さんなのか?」

「む、私のことわからないの?」

「そんなことはない、だけど姉さんは…。」

「うん、私はもう生きてない。だから今の私は幽霊なのです。」

「………。」


 まさか本当に会えるとは思わなかった。

 しかもこうして会話までできるなんて、俺は夢を見てるのか?


「ちょっと真也?何で黙ってるの?」

「あ、あぁ悪い。なんか実感わかなくてさ。」

「折角こうやって出てこれたのに酷いなぁ!でもそうだよね、私はずっと一緒だったから平気だけど、真也は初めて今の私を見たんだもんね。」

「……は?」

「え、どうしたの?」

「ずっと一緒だった?」

「うん!私ね、こんなになってからずっと真也の傍にいたの。えーっと、こういうのなんて言うんだっけ?」

「…背後霊?」

「あー、そうそう!って違うよ!そんな怖そうなのじゃなくて、もっとかっこよさそうなの!」

「じゃあ守護霊とかか?」

「そうだよ、それだよ!うんうん、私は真也の守護霊になったのです!」

「…マジ?」

「うん、マジ!」


 なんつーか、現実味がなさ過ぎて対応に困る。

 あまりにも姉さんがいつも通りで、何にも変わってなくて。

 死なせてしまったことを謝らなきゃとか、返事が遅れてごめんとか、全然真面目な話をする雰囲気じゃない。

 しかも嬉しそうな笑顔で、突拍子もないことを言っている。

 真耶姉さんが俺の守護霊になって、ずっと俺のことを見ていた?

 ……ごめん姉さん、冗談にしか聞こえない。

 寧ろ実は姉さんが生きていて、今日この瞬間までずっと俺から隠れてたって方がよっぽど信憑性がある。

 でも、それこそありえない。

 俺は間違いなく姉さんが息を引き取るのを一番近くで確認してるし、そもそもそうする理由ないよな。

 だから姉さんの言うことはきっと間違ってはいないんだろう。

 でもなんかなぁ、姉さんが言ってるからか全然真面目な話に聞こえない。


「あのさ姉さん、正直言ってもいいか?」

「え、なになに?」

「何か、嘘くさいわ。」

「酷いよ!?うぅ、久し振りに会ったのに思いっ切り疑われてるよ私。」

「まぁ姉さんが嘘つかないのは知ってるが、流石になぁ。」

「じゃあ触ってみてよ、触れないから!」

「あ、あぁ。」


 リスみたいに頬を膨らませた姉さんが、手を差し出しながら歩いてくる。

 あはは、久し振りに見れたなその顔。

 実はもう幽霊だとかどうでもいい。

 ただ姉さんの姿を見れた、それだけで十分俺の胸は満たされていた。

 目の前に姉さんが立っている。

 姉さんは赤く頬を染めながら、その手がゆっくりと伸ばされた。

 俺はその手を握ろうとしたが、あっさりと俺の手は空を切る。

 確かにそこに見えているのに、触れることはできない。


「やっぱり、触れないのか。」

「だから言ったじゃない、私は真也の守護霊なんだよって。」

「…そうだな。」


 わかってはいたけど、残念ではある。

 ここまではっきりと見えているのに触れないなんて、嫌がらせとしか思えない。

 ガラスを挟んで喋っているみたいで、余計に辛いなこれ。

 言葉は交わせるけど、手を握ることも、抱きしめることもできないなんて。


「あ……ごめんね、真也。」

「何で謝るんだ、姉さんが俺に何かしたのか?」

「だって、触れないでしょ、私に。」


 チッ、馬鹿か俺は。

 考えが表情に出るなんて、知らずに気が緩んでたか。


「幽霊なんだから仕方ないだろ、触れたらそっちの方が驚く。それよりさ、幽霊でもちゃんと足はあるんだな。」

「そうなんだよね、私もなってみて驚いたんだ!格好は一番お気に入りっていうか、印象が強い服装になるみたい。」

「へぇ、色々あるんだな幽霊も。」

「あはは、そうみたいだね!………本当に久し振り、真也。」

「あぁ、久し振りだな姉さん。」


 元気一杯の笑顔から、優しい姉としての微笑みに変わる。

 その笑顔に何度満たされたことか。

 好き勝手なことをして俺を困らせたり、人前で抱きついてきたり、色んなことに一喜一憂して、その度に俺は溜め息を吐いてた。

 だけど、全然迷惑だとは思ってなくて。

 寧ろ俺のことを頼ってくれるのが嬉しくて、姉さんには悪いけど実は楽しんでもいたんだ。

 頼りないように見えて、俺には見えないものを見ていた姉さんに、いつからか俺は憧れてたんだ。

 だからこそ、俺の代わりに死なせてしまったことが辛くて、一人で何度も泣いて。

 想いを告げることができなかったことを、酷く後悔していた。

 でも、俺は伝えることができたんだな。

 俺の頬を、涙が伝う。

 泣かないようにしていたのに、止まらない。

 姉さんはそんな俺を見て、そっと抱きしめてくれた。

 触れられないけど、それは温かくて、余計に涙が溢れてくる。


「っ……ごめんな、姉さん。俺がもっと強かったら…姉さんを守ることができたのに。」

「ううん、真也はなんにも悪くないんだよ。だから泣かないで真也。私は確かに死んでしまったけど、それでも凄く幸せだったんだから。」

「何でだよ!死んじまったら、何もできないじゃないか!」

「うん、それはやっぱり残念。大好きな真也に、もう触れることができないなんて、本当に寂しい。せっかく真也に好きだって言ってもらえたのに、その温もりを感じることができないのは辛いよ。」

「だったら、なんで幸せなんだよ!」


 感情を制御できずに、声を荒らげる。

 涙はずっと流れ続けていて、これじゃあ姉さんを困らせるだけなのに、全然止められない。

 姉さんはそっと俺から離れると、優しい微笑みのまま胸の前に手を合わせる。


「迷惑ばっかりかけてきた真也に、大好きな真也に、やっと恩返しできた気がしたからかな。私は真也になんにもしてあげられなかったけど、最期に役に立てた。そのせいで結果的に真也を傷つけちゃったけど、私は嬉しかったんだよ。あぁ、私は大好きな人を死なせずに済んだんだって。」

「姉…さん。」

「だから私が真也を恨んでるはずなんてないんだよ、むしろ私が恨まれるべきなんだ。私はずっと傍にいたけれど何もできなくて、苦しんでいる真也を見ているのに、私は抱きしめることもできなくて。ごめんね…本当にごめんね。」


 そう言って、姉さんは涙を流した。

 俺と同じだけどやっぱり違う顔を、一筋の涙が伝っていく。

 それは悔しさから流れた涙。

 傍にいながらも何もできず、生前と同じように無力な自分を悔しく思っていた、その思い。

 クソッ、俺が姉さんを泣かせてどうするんだ。

 謝るべきなのは俺のはずなのに、こうして姉さんに謝られてる。

 いや、そもそもそれすらも間違いだったのか。


「そうか、初めから…悪者なんていなかったのかもな。」

「え?」

「俺も姉さんに罪悪感を感じてた、姉さんも俺に同じことを思っていた。だけどお互い、そんなことを迷惑だとか思ってなかった。」

「そうだよ!私は真也のせいで死んだんじゃない、だから真也は私のことで気に病むことなんかないの!」

「あぁ、姉さんがそう言ってくれただけで十分だ。逆に姉さんだって、俺のことで辛い思いをすることはないんだぞ。」

「どうして!私はいっつも真也に迷惑かけて、ご飯くらいしか役に立てなくて、いっつも真也を困らせてたのに!」

「それが勘違いなんだよ姉さん、俺は今まで一度も迷惑だと思ったことがない。」


 俺はいつの間にか止まった涙を拭くと、自然と笑みを浮かべた。


「俺もずっと姉さんのことが好きだったんだ、だから俺のことを頼ってくれることを凄く嬉しいと感じていた。俺は姉さんに必要とされてるんだって、実感することもできた。大変ではあったけど、楽しかったよ。」

「…良かった。」


 涙を流しながら、姉さんは笑った。

 それはとても綺麗で、美しかった。

 駆け寄って抱きしめたい衝動が、胸の内から沸き起こる。

 だがそれは叶わない、その感情だけは実らない。

 寂しいけれど、高望みが過ぎるってことだろう。

 でもよかった、こうして話すことができて。

 お互いに悪いと思っていたことがあって、それをお互いに気づいていなかった。

 あれだけ長く一緒にいたのに、お互いのことを全然理解できてなかったんだ。

 ったく、酷い話だな。

 思いがすれ違った、そうして互いが傷つき合ったなんて。


「ねぇ真也、私が言った言葉、覚えてる?」

「ん……世界はほんの少し見方を変えるだけで、とっても素敵なものに見えるんだよってやつか?」

「覚えててくれたんだ、なんか嬉しいな!……どうかな、真也の目には今世界はどう映ってる?」


 俺は周りを見渡した。

 たくさんの向日葵と、何処までも広がる青空。

 緑の萌ゆる山肌は高く、風は心地いい。

 景色は変わっていないのに、それは何故か美しく見えた。

 初めて来た時よりももっと強く、その思いを抱く。

 心の鎖が外れたからなのか、そこに姉さんがいるからなのか。

 でも確かに、言葉では表せないけど、世界は変わっていた。


「何となく、わかった気がするよ。こんなに…綺麗に見えるものなんだな。」

「そうでしょ?私もね、今はまた違って見えるんだ。きっと幸せだからだね。…あのさ真也、もし良かったらさ、もう一回言ってほしいな。」

「何を……って本気か!?」

「うんっ!今度は私のことをちゃんと見て言ってね!」

「っ!」


 嬉しそうに笑いかける姉さんから、俺は素早く顔を逸らした。

 なんて恥ずかしいお願いをしてくるんだ姉さん。

 顔は一気に熱くなって、姉さんを直視できない。

 でも確かに、不平等ではある。

 姉さんは俺の目を見て言ってくれたのに、俺は誰もいない虚空に叫んだだけだ。

 今度こそ、本当に告白になる。

 さっきから何回かさらっと好きだとか言ってるけど、こう改まると尋常じゃない恥ずかしさだ。

 だけど、ちゃんと伝えなきゃいけないよな。

 俺はゆっくりと、姉さんの方を見る。

 うっ、なんで姉さんまで顔を赤くしてやがるんだ。

 これじゃどっちが告白されるのかわからないじゃないか。

 拳を強く握りしめて、俺は姉さんの目を見る。

 俺と違って綺麗な茶色をした瞳を見ながら、想いを籠めて言葉を放つ。


「俺は…真耶のことが好きだ!この世界中で誰よりも!俺は真耶のことを愛してる!」

「………ありがとう、真也。」


 本当に心の底から嬉しそうに、姉さんはまた泣いた。

 でも今度の涙は、きっとさっきとは違う。

 俺は姉さんに近づくと、そっと抱きしめた。

 触れられないけど、それでもいい。

 どうしようもなく、そうしたかったんだ。

 三年前から成長してなくて、俺よりも小さなその身体を、優しく包む。


「落ち着いたか?」

「うん、ありがとう真也。」

「いや、これくらいでお礼なんていらねぇって。」

「あはは、私が言いたいんだからいいんだよー!」

「まぁ、悪い気はしないけどさ。」

「ふふふ、真也って照れ屋さんだよね。」

「うるせぇよ、余計なこと言うな。」

「あははー、ごめんなさーい!」


 俺が離れると、姉さんは悪戯っぽい笑みで俺を見上げる。

 すると、両手を広げてくるくると、その場で踊りだした。

 それはとても懐かしい、かつての光景。

 初めて俺がこの場所に来た時、同じように姉さんは踊っていた。

 ずっと探し回ってた俺の苦労なんて知る由もなく、凄く楽しげに、優雅に。

 何だか走り回った疲れも何処かに吹き飛んで、暫く見惚れていたっけ。

 その思い出の光景が、今も目の前で再生される。

 向日葵の中で舞う姉さんは、まるで青い妖精みたいだ。

 らしくない表現なのはわかっているが、その言葉が驚くほどピッタリとはまる。

 金色の絨毯で舞う一人の妖精。

 俺はそれを眺める。

 跳んだり、回ったり、両手はさながら羽のように。

 綺麗なその舞いは、自然と俺に笑顔をくれた。

 暫くして踊るのを止めると、姉さんはとても嬉しそうな笑顔で俺の方へと歩いてくる。


「真也に告白された嬉しさを踊りで表現してみました!」

「面と向かってそういうこと言われると恥ずかしいんだが。」

「あははー、だってホントに嬉しかったんだもん!ねぇ真也、もう一回!」

「勘弁してくれ、心臓が壊れたらどうしてくれる。」

「あはは、残念だな。でも気持ちはすっごく伝わってきたよ!」

「そうじゃなきゃ頑張った甲斐もないな。」

「うん、凄く嬉しかった。こうして出てこれて良かった。」

「そういえば、どうして突然見えるようになったんだ?」

「うーん、私にもよく解らないんだ。真也の告白を聞いて、胸がいっぱいになって、気がついたら自分に形があったの。」

「普段から自分の姿は判らないってことか?」

「そう、いつもは自分がいるってことしか感じられないよ。だから私を見るのは、私自身久し振りなんだ。何だか変だね。」


 そう言いつつも、姉さんは凄く楽しそうだ。

 でもどうしてこうした姿で現れることができたのか、理由は解らない。

 それはいつまでで、いつかはまた見えなくなってしまうのか。

 俺以外の人にも見えるのか、もしそうなら莉乃姉にも会わせてやりたい。


「ねえ真也、お話ししようよ!」

「ん、あぁ。そうだな、何処かに座れる場所は…。」

「あっちだよ、あの丘のところ。あそこならこの向日葵畑を見ながらお喋りできるでしょ!」

「うん、ならそうするか。」


 姉さんが示した小さな丘へ、二人で並んで歩いていく。

 そしてまた突然に、姉さんが走りだした。


「なっ!?」

「うっふっふー!あそこまで競争だよ真也!」


 跳ぶように走っていく姉さんを、俺は溜め息を吐いて追いかける。

 心に満たされていく、温かな感情。

 モノクロに見えていた世界が、色鮮やかに輝きだす。

 俺がさっきみたいに自然に笑えたのは、本当に久し振りだ。

 それもこれも、こうして姉さんに会えたから。

 俺が抱えていた罪を、姉さんがなくしてくれたからだ。

 感謝してもし足りない、想いを言葉にしてもし足りない。

 本当に、俺は今幸せだ。

 丘に辿り着いてからは、隣り合って向日葵畑を眺める。

 因みに競争は姉さんの圧勝だった、そもそも出遅れているけど。

 元々俺よりも運動神経は良かったし、走るのは特に大好きだったからな。

 それからずっと、話をしていた。

 話す内容は主に、俺が考えていたこと。

 何しろ姉さんはこの三年間ずっと、傍で俺を見ていたんだ。

 俺の身に何が起こり、どんなことがあったのかは全て知っているのだから、話すことと言ったら姉さんが見れない俺の考え。

 でもよく考えると、それはプライバシーなんてあったもんじゃない。


「俺が着替えてる時とかどうしてたんだよ。」

「それはもちろん目を瞑りましたよ!だって恥ずかしいじゃない!」

「自分の姿も見えてないのに、目を瞑るとかあるのかよ。」

「あ、そういえばそうだね、気づかなかった!でも大丈夫、ちゃんと見てないから!」

「相変わらず日本語が少し変だな。」

「むぅ、真也が意地悪を言います。あー、それよりも!真也の周りって女の子が多いと思います!」

「は?そうなのか?」

「そうだよ!それに可愛い子ばっかりだし、何だか皆の目が………むぅ、真也の浮気者!」

「はぁ!?何だそれ、意味が解らないぞ?」

「だって緋結華って子のベッドで寝たり、莉乃ちゃんと一緒に何回も寝たり、恵恋って子には凄く信頼されてる感じだし!莉乃ちゃんのお色気攻撃に鼻の下伸ばして!」

「言いがかりだ!そんなことは断じてない!」

「ホントに?」

「あぁ、絶対だ。」


 確かにあの攻撃は尋常じゃない破壊力を持っている、主に精神面で。

 姉さんは疑うようなジト目を向けてくるが、俺の目を見て信じたのか安心したように笑った。


「……着けてくれてるんだね、それ。」

「ん、あぁこれか。」


 姉さんは自分の左手首に着いているブレスレットを、小さく揺らした。

 俺の手首にも、同じものが着いている。


「真也がくれた時、すっごく嬉しかったよ!」

「結局贈り物はこれが最初で最後になっちまったけどな。」

「いいのいいの、そういうのは気持ちが大事なのです!それに、今はこうしてお揃いでしょ?」

「まぁ、確かにな。」

「えへへ―。」


 また嬉しそうに笑う姉さん。

 その横顔に、俺まで嬉しくなってくる。


「そういえば真也、フラトレスに行ったんだね。」

「あぁ、成り行きで連れてかれたな。」

「どうだった、マスター。」

「あの化け物か、できれば二度とお目にかかりたくないな。」

「えぇー、いい人でしょ。私、何度もマスターには相談に乗ってもらったんだよ!」

「まぁ、考えはあの中で一番まともそうではあったが。」

「あはは、キヨシさんとかホカゾノさんは楽しいよね!あ、それとさ…。」


 姉さんは楽しそうに次々と話題を振ってくる。

 俺はそれに笑い返しながら相槌を打っていく。

 昔から変わらない、俺たちの関係。

 真耶姉さんが喋って、俺が返す。

 中学時代には一つの名物にまでなっていた、姉さんのマシンガントーク。

 その頃の友人には、いつも大変そうだなと言われていた。

 でも俺はそうやって話題を次々に思いつかないし、会話もあまり得意という方ではない。

 いつも口数少なく、なるだけ短く答えようとしてしまう。

 だから姉さんのこの性格は、とても羨ましい。

 姉さんが話すと、どんな下らないことでも、まるで楽しそうに聞こえてしまう。

 流石にできるようにはならないけど、少しくらいは見習わなきゃいけないよな。

 これからは、俺からも姉さんに話題を出してみたいし。

 そんなことを考えながら、俺は楽しそうな姉さんの隣で、昔に返ってきたみたいに楽しんでいた。





 気がつけば、随分と時間が経っていた。

 陽はやがて傾き、少しずつその位置を落としていく。

 向日葵を金色に染めていた夏の陽射しは、いつしか世界をオレンジに染める光へと変わっている。

 風が吹いて、姉さんの空色のリボンを揺らした。


「もう、日が暮れるね。」

「あぁ、そろそろ戻らないとな。」

「うん…そうだよね。」


 姉さんは少し顔を伏せると、静かに立ち上がった。


「どうした?」

「真也、もう時間切れみたい。」

「え?」


 そう言って姉さんは、また走りだした。

 俺も立ち上がると、慌ててその後を追う。

 どうしたんだよ急に、それに時間切れって。

 嫌な予感が脳裏をよぎるが、俺はそれを打ち消した。

 認めたくない、そんなこと。

 姉さんは初めに俺が立っていた場所、向日葵畑の中心で立ち止まる。

 俺は、少し手前で同じように止まった。

 近づけない、これ以上は。

 何故か、足が動いてくれない。

 姉さんは振り向かずに、背中を向けている。

 俺はその沈黙に耐えきれなくなって、声を上げていた。


「どういうことだよ姉さん、時間切れって何のことだ。」

「私に残された時間、もう終わりみたいなんだ。」

「……やっぱり、もう消えるのかよ。」

「あはは、そうみたい。ずっとお話していたかったけど、そんなに奇跡は続かないんだね。」

「奇跡…か。」

「でも仕方ないよね、私はもう生きていなくて、あぁでも、こんなこと言ったら真也がまた傷ついちゃうね!大丈夫、私は元気です!」


 背中を向けたまま、姉さんがガッツポーズをする。

 でももう遅い。

 姉さんが泣いているのに、俺は気づいてしまったから。

 小さな肩は震えてて、嗚咽が微かに聞こえてくる。

 だけど、俺まで泣くわけにはいかないよな。

 それに、見えなくなるだけだ。

 確かにそれは辛いことだけど、姉さんは傍にいてくれるじゃないか。


「泣かないでくれよ姉さん。寂しいけど、姉さんはずっと一緒にいてくれるだろ?」

「………。」


 答えはなかった。

 それは、例えようのない絶望感。

 一縷の希望さえも消し去る、悪夢のような沈黙。


「ごめん真也、もう…一緒にいられないみたい。」

「何でだよ!見えなくなるだけだろ?俺の後ろで見ていてくれるんだろ?」

「あのね、なんか解っちゃったの。私はもう、真也の後ろで見守ることはできないって。理由は解らないんだけど、そう教えてくれた。」

「誰がだよ!」

「うーん、神様なのかなぁ。でも仕方ないよね、こうしてお喋りできただけでも十分凄いことなんだし、これ以上はもう望めないよ。この奇跡を起こしてくれたのもきっと神様なんだから、私は感謝しなくちゃいけないんだ。」

「ふざけんなよ!そんな簡単に諦めるなよ!姉さんはいつだって諦めなかったじゃないか!」

「………。」

「仕方ないなんて嘘つくなよ!頼むから…そんなこと言わないでくれよ。」


 涙が頬を伝う。

 心が空っぽになったみたいに、耐え難い絶望感が身体を満たす。

 なんでだよ、どうしてこんな結末になる。

 姉さんが消えてしまうなんて、そんなことあってたまるか。


「ねぇ真也、私の頼み、聞いてくれるかなぁ。」

「……あぁ。」

「もう絶対に、私のことで苦しまないで、真也が悪いことなんで一つもないの。真也が私のことで苦しんだり辛かったりすると、私も同じくらい辛いよ。だから真也は真也らしく、一生懸命生きて下さい!」

「………。」


 言葉が出ない。

 それは別れの言葉で、返さないといけないのに。

 まだ俺は、覆らない現実に抗おうと、必死に頭を働かせている。

 どうすれば、また姉さんと一緒にいられるのかと、必死になって。

 自分の無能さに腹が立つ。

 この不出来な脳みそは、どうしてこんな時だけ何も思いつかない。

 でも、頭のどこかで、それは不可能なのだとも理解している。

 だって姉さんは、絶対に嘘はつかない人だから。

 姉さんが認めたことは、本当のことなんだ。

 だからさっきの言葉こそが、姉さんの最初で最後の嘘。

 できれば、聞きたくなかった、たった一つの嘘。

 姉さんは深呼吸すると言葉を続ける。


「それともう一つ。さっきはああ言ったけど、真也はもっと色んな人と関わってね。せっかく素敵な女の子もいるんだし、恋愛だってするべきなんだよ。すぐにはそんな気分になれないかもしれない、だけどいつかは、誰かと幸せになってほしい。私のことを好きだって言ってくれて本当に嬉しかったけど、真也が私のせいでずっと一人なのは嫌なの。だから、幸せになってね真也。」

「………あぁ。」


 俺は涙を流しながら、しっかりと頷く。

 もうそれしか、俺にはできそうになかった。

 姉さんの願いを絶対に叶えてやる、それしか俺には思いつかない。


「うん、良かった。最後に真也とお話しできて嬉しかったよ、死んでも幸せな時間ってあるんだね。…お願い、ちゃんと守ってよ?」

「…あぁ。」

「もう真也ってば、さっきからそれしか言ってくれないね。」

「…ごめん。」

「あはは、真也らしいけどね。………もう一つだけ、お願いしてもいいかな?」

「姉さんの願いならいくらだって聞いてやるよ。」

「そんなこと言われたらたくさんありすぎて悩んじゃうよ。…でも、うん、やっぱりこのお願いにしよう。あのさ真也、最後にもう一回だけ、あの言葉を言ってほしいな。」


 あの言葉。

 俺の想いを籠めた、告白の言葉。

 なら、このままじゃダメだろ。


「何度だって言う、だからさ姉さん……こっちを向いてくれないか?」

「………うん。」


 ゆっくりとこちらに振り返る姉さん。

 その顔は俺と同じくらい涙に濡れていて、悲しみに満ちていた。

 その顔を見て、理解する。

 あぁ、これで終わってしまうのだと。

 それはどうやったって止められないことで、姉さんがそれを一番わかっていることも。

 それなら俺は、泣いてちゃいけない。

 姉さんが安心できるように、俺は笑っていないといけないんだ。

 涙を拭い、今できる精一杯の笑顔で。

 俺は、真耶に告げる。


「俺は…真耶のことが好きだ!この世界中で誰よりも!俺は真耶のことを愛してる!どんなに離れたって絶対に忘れない!」

「………うんっ!ありがとう、真也!」


 涙に濡れた顔で、姉さんは幸せそうに笑う。

 山の向こうに沈んでいく太陽を背にしたその姿は、今まで見たことがないくらい綺麗だった。

 向日葵の色と、夕陽の色。

 その中に佇む姉さんの姿を、俺は決して忘れないように、目に焼きつけた。

 姉さんは手を後ろで組んで、そっと俺に微笑む。

 その足元から、ゆっくりと輪郭が薄れていく。

 薄れたところから、金色の光の球がふわふわと漂い、消える。


「お別れだね。」

「……そうみたいだな。」

「約束、必ず守ってね。」

「あぁ、絶対に守るさ。」


 もう、足はほとんど消えてしまった。

 姉さんはそれを見ないように、俺を見続ける。


「一緒にいられて本当に嬉しかったよ、莉乃ちゃんにもよろしくね!」

「ちゃんと伝えるよ。」

「あとね、他の人たちとも仲良くね!真也のこと、本当に大切に思ってくれてると思うから。」

「そうだな、それは凄く感じてる。」


 身体は半分も見えなくなって、光の球が儚く消えていく。


「幸せになってね、真也。」

「姉さんの分までなってやるさ。」

「うんっ!ありがとう!」


 消えかけた姿で、それでも精一杯の笑顔。

 俺は走りだしていた。

 耐えきれなくなって、泣きながら。

 この僅かな距離さえ、今は酷く遠く感じる。

 姉さんは最後にその空色のリボンを揺らしながら、幸せな笑顔で言った。


―――大好きだよ、真也!


 顔の輪郭まで薄れ、そして消える。

 最後に現れた大きな光の球が弾け、夕暮れの空へと昇っていく。

 あと少しのところで、届かなかった。

 一瞬、叫んでしまいそうになった。

 だけどここで叫んだら、もう戻れないような気がして、俺は必死になって堪えた。

 夕陽が眩しく、俺の目に焼きつく。

 そこにはもう、姉さんの姿はない。

 まるで初めからいなかったみたいに、何処を探しても見当たらなかった

 でも、ここには確かに姉さんが立っていたんだ。

 触れることはできなかったけれど、その温もりは、確かにこの手に残っている。

 ふと、空を見上げた。

 夕陽色に染まる空の中、薄らと見える月の隣に、小さく輝く星が見える。

 俺はその星に手を伸ばしながら、夕陽が沈むまでの間、その星を眺めていた。





 夕陽が完全に沈み、辺りは闇に落ちた頃。

 俺は漸く森を抜けて、元の山道入り口へと戻ってきていた。

 正直ギリギリだった、子供の頃と変わってしまっていたら戻れないところだ。

 月明かりしか頼りになるものがない暗闇の中を、記憶を頼りに進んでこれたのは殆ど奇跡に近い。

 姉さんが実は守ってくれてたのかもな。

 そんなことを考えて、頭を振るう。

 自分に甘い考えはもう止めないと。

 姉さんはもういない、仮にいたとしても確かめる術はない。

 考えても詮無きこと、なら今は家に帰ることに専念しないと。

 視線を前へと向ける。

 もうすぐ莉乃姉と別れた道に出るな。

 だがよく見ると、そこには黒い影が見えた。

 まさか、莉乃姉なのか?


「莉乃姉!?」

「真也!大丈夫か!」

「あぁ、俺は大丈夫だ!それよりも莉乃姉、まさかずっとここで待ってたのか!?」

「そうだけど、真也が暗くなっても帰ってこないから心配で。」

「よかった、森に入らないでいてくれて。それよりもごめん莉乃姉、心配かけて。まさか待っていてくれてるだなんて。」

「あたしは待っていると約束したぞ。」

「あれはてっきり家で待っていてくれるもんだと思ってたよ。」

「むぅ、一人で寂しかったんだぞ!」

「ご、ごめん。」

「…まぁいいや、こうして無事に真也も帰ってきてくれたんだし。よし、なら帰ろう。きっと沙耶さんたちも心配してる。」

「そうだな、帰ろうか。」


 暗闇ではぐれないように莉乃姉の手を握ると、俺が先導して歩き始める。

 少し先も見えない夜道を、足元を確認しながら進んでいく。


「真也、目的は果たせたのか?」

「あぁ、お陰様でな。」

「そっか、なら待った甲斐もあったな。」

「少し歩くし、何があったか教えとくよ。」


 俺は歩きながら、あの丘で起きたことを細かく説明していく。

 姉さんが現れたことを話している時は、莉乃姉も驚き、また微笑んでいた。

 夕暮れまで話したことや、姉さんが実は守護霊としてずっと見守ってくれていたこと。

 そして、告白できたことと、もう姉さんは消えてしまったということを伝えると、莉乃姉はそっと手を合わせ目を伏せた。

 暫く無言で歩いてく。


「真耶は、幸せだったんだな。」

「……そうだな。」

「真也は、幸せか?」

「あぁ、何だかやっと軽くなった気がする。姉さんが言ってたみたいに、今は世界が違って見えるんだ。」

「そうか、ならあたしも安心だ。他に真耶は何か言っていたか?」

「……なんか、もっと周りと仲良くしろって言われたよ。」

「あぁ、それは間違いないな。真也はクールで格好いいんだが、やっぱり少しドライすぎるところがある。せめて緋結華や冴塚くらいにはもっと優しく対応してもいいんじゃないかな。」

「……そうだな、頑張ってみよう。」


 そしてナチュラルに忘れられたな峰岸。

 莉乃姉にさえ忘れられるとは、なんか不憫な奴だな。

 思わず苦笑する。


「おぉ、真也が苦笑とはいえ普通に笑ったぞ。」

「あ、なんかおかしいのか?」

「まったく、気づいてなかったのか?真也はずっと、苦笑すら見せてくれなかったんだぞ。」

「………。」


 そう言われてみると、確かに笑った覚えはない。

 あぁ、こんなことでも実感できるものなんだな。

 俺は少しずつだけど、変わってきている。

 いや、まだ戻ってきているって感じか。

 中学時代はもう少し笑ったりしていた気がするし、やっとそのくらいまで回復してきたってことだな。


「真耶に会えなかったのは残念だけど、やっぱり真也の行動は悪いことじゃなかったんだよ。真也の心の重荷も外れて、真耶も幸せな気持ちになれて、二人が幸せになれた。」

「あぁ、本当にそうだな。」

「だからさ真也……そんな寂しそうな顔をするな、真耶が気持ちよく行けないぞ?」

「…そうだよな。」

「今はまだ難しいかもしれないけど、真也はもっと笑うべきなんだぞ。せっかくそんな素敵な顔をしてるんだ、もっと皆に笑顔を見せてあげてくれ。」

「莉乃姉…。」


 ありがとう莉乃姉。

 自分だって本当は辛いはずなのに、俺が落ち込まないように一生懸命明るく振る舞ってくれる。

 本当に、俺は周りの人に恵まれているな。

 見捨てられてもおかしくないことをたくさんしてきた。

 それでも俺のことを見捨てずに、手を差し伸べてくれた人がたくさんいた。

 姉さんも、ずっと俺のことを見ていてくれた。

 姉さんたちに救われてから誓った、恩返しをしようという思い。

 ここから始まるのかもな、俺は。

 少しずつはっきりと見えてくる、水無月の家。

 明日には、並木町に帰る。

 まだ自分に何ができるか判らないけど、一生懸命考えてみよう。

 幸いにも、まだ時間はある。

 姉さんが俺に残してくれた、かけがえのないもの。

 人生という名の、大切な贈り物が。

 姉さんも俺にくれてたんだよ、色々なものを。

 だからきっと、俺は頑張れる。

 何故だか、そう思えるんだ。





 時計の針が両方とも真上を向いた12時。

 俺たちは荷物をまとめて、水無月家の玄関先に立っていた。


「色々とお世話になりました。」

「いえいえ、こちらこそあまり構ったりできなくてごめんね。真也さんも莉乃さんも、気をつけて帰るのよ。」

「はい、ありがとうございます。」

「おう真也、もう帰っちまうのか?」

「あ?何か問題でもあるのかよ。」

「ふん、怠けきったお前を鍛え直してやろうと、昨日は畑で頭を使っておったのだぞ!」

「暇なことに脳みそ使ってっと、大事な野菜がダメになるぞ?」

「ガッハッハ!それもそうじゃわ!…また来いよ真也、それまでに少しは鍛えておけ。」

「はっ、次に会った時はテメェが地面を舐める番だ。」

「ガッハッハ、言うようになったわい!」


 沙耶さんと莉乃姉は別れの寂しさから抱き合い、俺と龍鉄はそれぞれを拳を打ち合わせた。

 別れの挨拶を済ませると、俺たちは荷物を担いで玄関を開ける。

 爽やかな海風と、森から香る緑の匂い。

 ここに来て三日だというのに、俺にはそれが新鮮に感じた。

 確かに変わっている、世界の感覚。

 思い出に決着をつけに来た旅だったけど、悪くはなかった。

 奇跡のような時間を過ごすこともできたしな、これで悪いと評価しては姉さんに怒られてしまう。


「おい真也。」

「…なんだよ。」


 振り返り、龍鉄を見る。

 そこには、穏やかな笑みを浮かべた龍鉄と沙耶さんがいて、俺に言う。


「一回りデカくなったじゃないか、その調子で頑張れよ!」

「……ふん、余計なお世話だ。」

「またいらっしゃいな、今度は……遊びにね。」

「………はい、そうします。」

「莉乃さんも、またいらっしゃいね。」

「はい、また遊びに来ます!」

「それじゃ、またな。」

「ありがとうございました。」

「あぁ、空によろしく言っとけ。」

「真也さん……行ってらっしゃい。」


 沙耶さんが告げた、家族を見送る言葉。

 そうか、ここは俺の家でもあるのか。

 なら、たまには帰ってこないとな。

 この二人にも、何かの恩返しができるはずだ。

 でもそれは、俺がもっと成長してから。

 二人に自信を持って会えるように、これから頑張っていかないと。

 最後に頭を下げて、玄関を閉める。

 莉乃姉に向き直り、頷いて歩き出した。

 夏の陽射しが照らす、爽やかな田舎道。

 そこをゆっくりと下っていきながら、その景色を目に収めていく。

 次はいつ、この地に足を踏み入れるのかな。


「なぁ真也、帰る前にあたしもその丘に行ってみたいんだが。」

「あぁ、もちろんそのつもりだよ。だから少し早めに家を出たんだ。」

「おぉ、流石は真也だ。よし、早速行こう!」


 莉乃姉に急かされて、昨日の山道へと向かう。

 柔らかい土の山肌を、足元に注意しながら進む。

 昨日は一人で上った森の中を、今度はしっかりと手を離さないように。


「根っこが出ているところがあるから、転ばないように気をつけろよ莉乃姉。」

「うん、ありがとう真也。」


 やがて辿り着いた、向日葵の丘。

 昨日と変わらずに咲き誇る金色の花は、今日も優しい風に揺れている。

 陽射しに照らされたそれは、やっぱり凄く綺麗だった。

 少しだけ胸が痛む。

 泣くことはしないけれど、ここで失ったものは、俺にとっての世界だったから。

 それも二度目だ、辛くないはずがない。

 それに、今は莉乃姉もいる。

 姉さんが笑っていられるように、俺も笑っていよう。

 隣に立つ莉乃姉を見ると、何も言わずにこの向日葵の丘を見ていた。

 感動しているのか、何か別のことを考えているのか、俺にはわからない。


「中に入らなくていいのか?まだ電車まで時間はあるし、少しくらいなら大丈夫だぞ?」

「…いや、今は止めておくよ。だってここは、真也と真耶の場所だから。あたしはまだ、ここに入る資格がない。」

「資格?」

「あぁ、あたしはまだ真也を救ってやれてない。真耶みたいに、真也を満たしてやることができない。だからあたしがもっと成長して、本当の意味で真也に認められた時、改めて連れてきてほしいな。」

「……わかった。」


 でも莉乃姉、俺はもう十分に救われてるよ。

 だけど莉乃姉は、まだ自分は足りていないと思っているのか。

 なら莉乃姉が納得するまで、俺は待たないとな。

 暫く莉乃姉は、黙って向日葵の丘を眺めていた。

 俺も、ただ静かに眺める。

 ほんの僅かな時間だったけど、ここで過ごしたかけがえのない時間は、いつまでも俺の心に残っていく。

 大好きな人と過ごした想い出。

 もう作っていくことはできないけど、この想いは絶対に忘れない。

 姉さん、本当に大好きだよ。

 俺のことを見守ってくれてありがとう、ずっと傍にいてくれてありがとう。

 姉さんと一緒にいられて本当に幸せだった。

 感謝してもし足りないくらい、姉さんからは多くのものを貰ったよ。

 俺もそれに応えられるように、頑張って生きていこうと思う。

 じゃあ、そろそろ行くよ。

 さようなら真耶、また来るからな。


―――うん、待ってるよ。


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