Day.7 その黄金の丘の上で1
唐突に、俺は目が覚めた。
悪夢もなく、穏やかな水面のような目覚め。
自慢にならないほど寝起きが悪い俺だが、今朝は妙に頭がスッキリしていた。
昨日も寝つきが良かったし、自分でも驚くほど気分はいい。
上半身を起こして隣を見ると、ベッドの上では未だ夢の中にいる莉乃姉が静かに寝息を立てている。
壁にかかった時計を見ると、時刻はまだ5時を過ぎたばかりだ。
そりゃ莉乃姉だって起きてないだろうな、こんなに早い時間じゃ。
ソファーから降りて立ち上がり、軽く身体を伸ばす。
疲れも綺麗に取れていて、本当に身体の調子はいいようだ。
こんなことなら早起きも悪くないかもな、こんな素直に起きれることがそうあるとは思えないけど。
できるだけ物音を立てないようにしながら、俺はシャワーを浴びて身嗜みを整える。
いつもは寂しさを感じる冷たいシャワー室も、今日はそんな風に思えなかった。
気持ちは落ち着いていて、心中はとても穏やか。
理由もわからず、自然と笑みが出た。
どうしちまったんだろうな俺は、無意味に笑うだなんて。
まぁ最近になって笑うことが増えた理由くらいは解ってるんだけど、今日のこの気分はまたそれとは違う気がする。
心の片隅で疑問を感じつつも、俺は長い髪を後頭部で結ぶ。
左手首には、いつものようにブレスレットを着けた。
俺はそれを優しく撫でると、心の中で謝る。
やっぱり悪かったかな、これを俺が貰ったのは。
本当ならこれも一緒に入れるべきだったんだろうけど、どうしてもそれはできなかった。
女々しいのはわかってんだけど、本当に全てを亡くしたらと思うと怖くて。
未練がましいけどさ、俺は少しでも姉さんとの思い出を残したかったんだ。
だから今更だけどごめん、これだけは貰っておく。
プレゼントしておいてなんだけど、大切にするからさ。
腕を揺らすと、ブレスレットは僅かに音を立てる。
さて、たまの早起きなんだし、何か普段はしないことでもしてみるか。
何となく今日は、そんな気分なんだ。
………。
……。
…。
「………真也、これは何だ?」
「言いてぇことは解るが何も訊くな、俺だって解ってるから。」
「珍しく早起きしてると思ったら、朝から石炭を作っていたとは。」
「うるせぇな、んなわけねぇだろ!」
チッ、ここぞとばかりに馬鹿にしやがって。
俺は本当に珍しく、自分で朝食を作ろうとした。
一番簡単なのは何だろうと考えて、結局選んだのは目玉焼き。
単純に卵を焼くだけだし、それくらいなら俺にもできるだろうと踏んだのだ。
…まぁ、結果は散々だったが。
フライパンには油を入れず、熱しすぎたそこに卵を直接割り入れて一瞬で張りつき、全てに火が通るまでひたすら片面だけ焼いたものだから当然卵はそうでないものに変わり果て、煙を吹きだしたそれをとりあえず慌てて探したフォークで削り取った。
透明だった白身は今や炭と化し、黄身はかろうじて元の色を判別できるくらい。
そんなことを引き起こしている最中莉乃姉が起きてきて、その惨状に呆れているという構図だ。
つか、なんで俺は料理なんてしようと思ったのだろう。
今までだって姉さんや莉乃姉に任せっきりで、料理風景すら見たことがなかったのに。
独りだった時も基本的にはコンビニ弁当か友春さんのとこのうどん、たまに空さんの十六夜に顔を出してたくらいだ。
そんな俺が料理とは、どうやら数十分前の俺は相当気が緩んでいたらしいな。
莉乃姉はフライパンに入っている黒い物体を見て苦笑すると、俺を肩に手を乗せて言った。
「うん、ドンマイだ!」
「…もう二度とやりたくないな。」
「まぁまぁ、挑戦しようとしたその意気は素晴らしいじゃないか。それに真也があたしに朝ご飯を作ろうとしてくれただけでも凄く嬉しかったぞ。待っていろ、あたしが真也の分まで頑張って作るからな。」
「はぁ……そうだな、そうしてくれ。」
「落ち込む真也…これはこれで。」
「いいから、頼むぞ。」
満面の笑みで莉乃姉は拳を握ると、掛けてあったエプロンを装着して早速調理を始めた。
…料理は失敗したが、まぁ悪くはなかったかな。
俺は邪魔にならないようにリビングへ移動すると、大人しくソファーに座って今日のことを考える。
まずは並木駅から隣の街の駅に向かい、そこから新幹線で数時間。
降りたところで昼食を食べて、また乗り換え、ローカル線で更に数時間の長い道のり。
多分夕方には向こうに着くだろうから、あとは家まで歩くだけだ。
移動時間は長いが、座っている時間の方が多いから莉乃姉もそれほど疲れないだろう。
俺はソファーから立ち上がり、窓を開けてベランダに出た。
上を見上げると空は澄んでいて、綺麗な青を見せている。
よかった、この様子なら向こうもきっと晴れてるだろう。
どうせなら莉乃姉には、あの田舎の長閑さを満喫してもらいたい。
稲穂と森と、家が点々と建つだけの景色。
何処までも見渡せる、山の中の盆地。
あそこに行くと、世界にはもっとたくさんの知らない景色があるのだと思い知らされる。
両親がいなくなってから一度しか行ってないけど、きっと変わらない景色が広がっているだろう。
姉さんもきっと、待っている。
あの丘の上から、ずっと広い世界を見渡しているんだろう。
小さい頃からお気に入りだったしな、毎年付き合わされたもんだ。
毎日のように走り回ったのが懐かしい、それだけ思い出も深い場所。
夏休みの間の一週間だけ、両親も揃っての小旅行。
一年を通しても、四人が長く揃うのはその時くらいなものだったしな。
「真也、もうできるから。」
「あぁ、わかった。」
さて、飯を食べたらすぐに出発だ。
中に戻ると、テーブルの上にはいつものように美味しそうな朝食が並んでいた。
…凹んでも仕方がない、そもそも土台が違うんだから。
……料理、少しは覚えるべきだろうな。
とりあえず、今日もありがたく頂くとするか。
「いただきます。」
「うん、召し上がれ。」
二人で静かに朝食を食べ始める。
「これ食べたらすぐに行くのか?」
「あぁ、荷物の確認をもう一度したら出るぞ。まだ余裕はあるが、それほどのんびりもしてられないからな。」
「わかった、ならぱっぱと食べてしまおう。」
「そうだな、本当はゆっくり味わいたいところだが。」
「ふふ、その言葉だけでも十分嬉しいから大丈夫だ。」
笑顔で食事を続ける莉乃姉を見ながら、俺も少し早めに箸を動かす。
食べ終えると、莉乃姉は食器を洗い始め、俺は家の戸締りやガスなどの栓を閉めていく。
各自荷物の最終確認を終えると、二人揃って家を出た。
鍵を掛けて階段を下りると、そこで莉乃姉は大きく手を広げて空を見上げる。
「んん―!凄くいい天気だ、絶好の旅行日和だな真也。」
「あぁそうだな、この時間なら暑さもそれほど気にならない。」
「うんうん、風も気持ちいいな!そうだ真也、向こうには海があるんだよな?」
「ん?…あぁ、それほど広くはないが綺麗な砂浜があるぞ。地元の人間くらいしかいないから海の家みたいな施設はないけどな。」
「おぉ!それはなんだか貸切の予感か!」
「まぁ、俺も姉さんと泳いでた頃は基本的に貸切だったな。」
「楽しみだな、真也の用事が済んだら行こう!」
無邪気にはしゃぐ莉乃姉に内心で苦笑しつつ、手で促して駅への道を歩き出す。
さて、少し長めの旅を始めよう。
幾つもの電車を乗り継いで、この旅の終着駅に向かうローカル線の中。
手動で開く扉に、テーブルが突き出した壁なんて、地元の電車には付いていない。
時刻はもうすぐ夕方になろうとしてるが、まだ夏の陽は世界を明るく照らしている。
昼食は折角だからと買った駅弁で済ませ、今は遅めのティータイム。
冷たい紅茶を飲みながら、俺たちは流れていく窓の外に視線を向けていた。
並木町なんて比べるべくもない、本当の田舎風景。
ビルもなければ看板もなく、あるのは広大な田畑と、彼方に見える山々。
乗り換えてから随分経つのに、見えた人影なんて両手の指で足りるのではないだろうか。
同じ車両には誰もおらず、向かい合った席では莉乃姉が楽しそうに微笑んでいる。
「凄いな真也、向こうに見える森なんてとても綺麗だぞ!」
「そうだな、並木町とはまた違った感じだ。」
「なぁ真也、窓開けてもいいか?」
「ん、風が強いぞ?」
「いいじゃないか、暑さもまぎれるぞ。それに、ここの空気を直接感じたいんだ。」
「まぁそういうことならいいんだけど。」
髪の毛ボサボサになっても知らないからな、とは言わないでおく。
莉乃姉が窓を開けると、強い風が車内に押し寄せてきた。
案の定莉乃姉の髪は勢いよく風に揺れたが、当人はそんなことお構いなしにはしゃいでいる。
俺は動き回る前髪を押さえながらも、入ってくる空気を吸い込んだ。
あぁ、土の匂いがする。
並木町でも感じられるけど、ここはもっと濃い。
懐かしい匂いだ、何も変わってないな。
もう少し、もう少しだ。
流れゆく景色を見ながら、数年前の景色と照らし合わせる。
独りになってからすぐの頃、同じくこうしてあの場所へ向かっていた。
その時は景色なんて見ている余裕がなかったが、今こうしてみると凄く穏やかに見ることができる。
深い緑と茶色の土道。
彼方に見えていた山が段々と近づいてきて、もうすぐトンネルに入ることを示していた。
「莉乃姉、そろそろトンネルに入るから窓閉めな。」
「ん、なんで判るんだ?」
「向こうに見える山は少しずつこちら側に曲がってるんだ、もう少ししたらそれを抜けるためのトンネルに入るはず。」
「おぉ、そうなのか。ってことは…。」
「あぁ、もう到着するってことだな。」
「おぉ!楽しみだな、どんな景色が待ってるんだろう!」
窓を閉めながら笑いかけてくる莉乃姉に頷きを返しながら、俺は窓の外に視線を向けた。
どんどん近づいてくる山。
やがて電車は、暗いトンネルへと飲み込まれていく。
景色は黒一色。
でも、この時間は僅かだ。
少しだけ長めのトンネルを抜けると、そこには懐かしい景色が広がっていた。
「わぁー!」
「…変わらないなここは。」
左の窓には、限りなく続く空と海。
鮮やかな青と、どこまでも深い蒼。
ふわふわと飛ぶカモメと、大きな綿菓子みたいな入道雲。
夏の爽やかさを存分に感じられる景色だ。
右の窓には、深い森と稲穂の絨毯。
茶色の道に、色とりどりの草花が咲き誇るそこは、まさに田舎の村といった風体だ。
村を囲むように連なる山も、今は深い緑の森が覆っている。
あぁ、やっぱりここは落ち着くな。
まだ景色を見ただけだというのに、俺の心はこんなにも穏やかだ。
莉乃姉も初めての光景に楽しいのか、ゆっくりと減速を始めた電車の中で大はしゃぎしている。
気持ちは解らなくもない、俺も内心ではワクワクしているからな。
「真也、ここは素敵なところだな!」
「あぁ、そうだな。特に夏の間はたくさん色が見れるから、姉さんも大好きだと言っていたよ。」
「確かに、緑や青や茶色…花の色まで合わせたらもっとたくさん色がある。真耶が大好きだって言うのも解るぞ、あたしももうここが大好きになりそうだ!」
「それは良かった、連れてきた甲斐があるってもんだ。でも莉乃姉に一番見てほしい色はまた別にあるんだよ。」
「ほぉ、それは何色だ?」
「それは着いてからのお楽しみってことで、とりあえず降りる準備するぞ。そろそろ駅に到着する。」
「ホントか、なら飲み物とかも片付けないとな。」
電車は見えてきた白い駅舎のホームに進入すると、ゆっくりと停車した。
それぞれ出した荷物を鞄に収め、電車から揃って降りる。
海沿いに造られた駅に降り立つと、潮風が俺たちを出迎えてくれた。
鼻孔を抜ける海の香り。
潮騒が運ぶそれは、夏の陽射しも相まってとても清々しい。
白い木の手すりの向こうには、真っ白な砂浜がすぐ近くに広がっていた。
砂を浜に押し上げる波打ち際は、光を浴びてキラキラと輝いている。
そこから少し離れた所には、釣りができそうな大きい岩場も見えて、実際に小さく人影も見えた。
莉乃姉は荷物をホームに置くと、旅の疲れを癒すように、思いっきり両手を伸ばして深呼吸している。
「うぅー!潮風なんて浴びるのは久し振りだぞー!」
「俺も何年振りだろうな、並木町に住んでると海なんて行かないからなぁ。」
「行けるのはせいぜい市営のプールくらいだ、まぁあそこもそれなりに楽しめるけどさ。」
「緑のある景色には慣れてるけど、海があるっていうのも悪くないかもな。」
「よし決めた!あたし将来は真也とこの町に住む!」
「…たまに莉乃姉が賢いのか馬鹿なのか判断できない。」
「えぇ!?どういう意味だそれは!」
「突発的に喋る癖があるからさ莉乃姉、少しは考えて喋れよな。」
「む、失礼だな真也は。あたしがこうして好きなことを喋るのは真也の前だけだぞ、真也がいない時のあたしはそれはもう真面目な優等生さ。」
胸を張って偉そうにする莉乃姉に溜め息を吐きつつ、俺は莉乃姉の分の荷物も持って歩道橋を渡り始める。
改札機もなければ券売機もない、そもそも駅員さえいない静かな駅。
俺たちは一応ちゃんとお金を払った切符を設置された箱に放り込むと、無人の駅を出た。
誰も歩いていない駅前。
申し訳程度に用意されたロータリーには、タクシーはおろかバスの停留所さえない。
忙しなく行き交う人の波もないし、それを静かに眺める待ち人も見えない、本当の無人。
もうほんと、ここまでの田舎に駅があるってだけで俺は不思議に感じるくらいだ。
まぁでもここに駅がなかった場合、隣の駅から徒歩で数時間ってことになるわけだが。
流石にこの暑さの中そんな強行はしたくない、日射病か脱水症状で倒れるのがおちだ。
より強く感じる陽射しに目を細めながら、俺はきょろきょろと周りの見渡す莉乃姉を呼ぶ。
「莉乃姉、ここから歩くぞ。」
「え、そうなのか?あたしはてっきり誰かが迎えに来るのだとばかり…。」
「は?そんなわけないだろ、そもそも向こうの家には連絡すらしてないんだから。」
「はぁ!?え、どういうことだ!?」
「解りやすく言うと、突然押しかけるってことになるな。安心しろ、あの人たちはそもそも予定に縛られたりしてないから。」
「ま、まぁ真也がそう言うならいいんだけど…。」
戸惑う莉乃姉を背後にして、俺はロータリーを真っ直ぐに横切っていく。
どうせ車だって殆ど走っていない、そもそも舗装されてる道なんてこの線路沿いに伸びている道くらいだ。
コンクリートのしっかりした道路は一瞬で終わりを迎え、ほんの数十歩歩いたそこからは、延々と土の道が伸びている。
その脇には日差しを浴びて風に揺れる草木と、大きさ様々な石ころ。
人の手が殆ど入っていない、この土地の自然そのものだ。
まるでここは違う世界との境界線なのだと言うように、灰色の地面は綺麗に途切れている。
俺は荷物を持ちなおすと、後ろに莉乃姉がついてきていることを確認して一歩を踏み出す。
人口の地面から、自然の地面へ。
ほんの少しだけ沈むような、だけどしっかりした土の感触。
ふと、懐かしさで満たされた。
後ろから聞こえる潮騒の音が、ゆっくりと記憶の底から想い出を運んできたみたいだ。
風に揺れる名前も知らない花も、澄みきった青い空も。
みんなあの頃と変わらない姿で、俺の前に広がっている。
帰ってきた、そんな気がするな。
ここは俺の生まれ育った土地じゃないけれど、俺も楽しかった思い出はこの土地にあるからだろう。
俺の第二の故郷、夏の日に繰り返された記憶の箱庭。
懐かしい声が脳裏に響いてくる。
隣を歩く足音や、視界の端で揺れる髪の毛の匂いも、全てがまるで現実に起こっている景色のように浮かんできた。
合わせてもいないのに重なる歩調や、楽しげに笑う話し声。
その思い出は嬉しさと、少しばかりの寂しさを抱かせた。
でも、この寂しさはきっと序章。
あの場所に行ったら、もっと心は辛くなる。
でもこの程度、独りの時の感覚に比べたら大したことない。
遠い過去に抱いた儚い気持ちを言葉にしにきたんだ、こんなところで迷うわけがない。
それに、今は隣に莉乃姉がいて、それこそが現実なんだ。
ここにいるのは今の俺で、過去に囚われていた俺じゃない。
今朝の気分を思い出す。
そうだ、俺は決して恐れていたわけじゃない。
思い出は大切だ。
だけど、もっと大切なのは今なんだから。
俺がこれからの時間を過ごすためにも、俺は思い出に答えを出そう。
隣を見れば、無言で歩いていた俺に気を遣ってか、不安そうに歩く莉乃姉がいる。
そういう風に気を遣ってくれるのは、莉乃姉の優しさだ。
ありがたい、お陰で考えるための余裕ができた。
気持ちを言葉にするのは苦手だけど、態度に示すことはできるよな。
俺は立ち止まると、莉乃姉に振り返る。
「どうした真也、その……大丈夫か?」
「あぁ、大丈夫だよ莉乃姉、不安にならなくていいから。」
「そうなのか?真也、無理とかしていないよな?」
「あぁ、無理なんてしてない。莉乃姉がいてくれるからかな、自分でも驚くくらい落ち着いているよ。」
「あはは、そう言ってもらえると凄く嬉しいな。そっか、あたしも役に立ててるのか。」
良かった、少しだけいつもの表情に戻ったか。
こんな所にまで来て莉乃姉を不安がらせていたら、きっと丘の上で待ってる姉さんに怒られるだろうしな。
俺たちは再び田舎道を歩き出すと、莉乃姉が俺に尋ねてくる。
「なぁ真也、荷物を置かせてもらったらすぐに行くのか?」
「あぁ…いや、今日はやめておく。時間も遅いし、暗くなった森は冗談じゃないくらいに何も見えないからな。もし道を間違えでもしたら確実に朝まで出てこれない。」
「う、そんなに真っ暗なのか?」
「今は夏だからな、葉が生い茂ってるせいで月明かりが殆ど入ってこないんだ。だから夜の森には絶対に近寄るなよ?」
「うん、わかった。それなら明日行くのか?」
「そうするさ、できれば昼間に行きたいからな。一番あそこで遊んだのは昼間だったし、その方がなんか良い気がして。だから今日は大人しく休むことにするさ。」
「…ちゃんとそういう考えができるなら大丈夫だな、変に気負ってるんじゃないかって心配だったんだ。」
「……まぁ、俺も少しは変わったのかもしれないな。」
この穏やかな気持ちも、きっと莉乃姉たちが俺のために動いてくれたから生まれた余裕だと思う。
俺は独りじゃないんだって、今は安心できているから。
前の俺だったら勝手に焦って、着いたらすぐに向かっただろうしな。
だから感謝しないといけない、言葉だけじゃなくて気持ちで。
落ち着いた気持ちで、周りを見渡す。
流石に大分傾いてきた陽射しの下で、緑の絨毯がそよ風に揺れている。
空に舞う鳥も、ざわめく深い森も。
はっきりとは判らないけど、以前来た時とは違って見える。
そうか、これが姉さんが言っていた意味か。
少しだけ見方を変えるだけで、世界はとても素敵に見えるんだって。
あの時の俺は、周りなんて興味がなかったから、それどころか気にする余裕さえなかった。
でも今は莉乃姉がいて、並木町には俺のことを友達だと呼んでくれる人たちがいて。
心の何処かでそれに安心しているから、俺はきっと穏やかでいられるんだ。
景色自体は全然変わってない。
揺れる草木も、空気の匂いも、いつだって青い空も。
変わったのは俺で、少なくとも悪い方に変わったわけじゃない。
俺も、前に進めたのかな。
少しずつ、少しずつ。
「さて、じゃあ早くオジサンの家に行くか。」
「あぁ!真也の分まできちんと挨拶しなきゃな!」
「俺の分までってどういうことだよ。」
「だって真也はそういうとこテキトーじゃないか、親しき仲にも礼儀ありだぞ?」
「う……まぁ、今後は気をつける。」
「うん、その意気だ!それで、そのオジサンの家ってここからどれくらいかかるんだ?」
「あぁ、1時間もかからないと思うぞ。そんなに大きな盆地ってわけでもないんだしな、この道なりに進んでいった一番奥の方だ。」
「そうか、ならそれほど苦労はしないな。この荷物で山の中を歩かされるのではと思っていた。」
莉乃姉は安心したように笑うと、俺を追い越して先を歩き始める。
ポニーテールが風に揺れて、楽しさを表しているみたいだ。
俺の前髪と結んだ髪も、爽やかな風になびく。
何だか、凄く気持ちがいいな。
莉乃姉が両手を広げて、くるくると回り始めた。
「あはははは、いいな真也、ここはとっても素敵なところだ!」
「それは良かった、俺も同感だよ。」
「二人が大好きなのも頷ける。ここは凄く綺麗で、何処までも純粋だ。」
「純粋?」
「あぁ!余計なしがらみも何もない。自然は悠然とそこにあって、海も森も空も、ここにいる人を穏やかに見守ってくれている。ここでならきっと、素直な自分になれると思うぞ!」
「素直な自分…か。」
「だからさ真也、真耶に……思いっきり想いを伝えてくるんだぞ!」
「………。」
こっちを見て笑いかけてくる莉乃姉。
なんだ、やっぱりばれてたのか。
まったく流石だよ、できるだけ表には出さないようにしてたんだけどな。
でも仕方がないのか、何ぜずっと一緒にいる幼馴染だ。
俺と姉さんの二人をずっと見てくれてる、そりゃ気がついて当然だよな。
それが一体どういうことなのかも含めて、莉乃姉は応援してくれてる。
もう叶うことのない想いだけど、その気持ちは嬉しく思う。
素直な自分、ね。
「…ありがとう莉乃姉、認めてくれて。」
「当たり前じゃないか、あたしは二人のお姉さんなんだからな!それに…たとえ世間はどう言ったとしても、心だけは誰にも縛れないものだと思うから。特に誰かを好きだって気持ちは、どうしたって止められないし。」
「流石に怒られると思ってたんだけどな…でも、確かにその通りだよ。」
「怒るはずがあるか、寧ろちゃんと言われなかったから寂しいくらいだぞ。……あとはそうだな、」
莉乃姉はそこで一旦言葉を切り、眉尻を下げた。
「…羨ましいかな。」
「羨ましい?」
「だってさ、素敵じゃないか。例えどれだけ遠く手の届かない場所に行ってしまっても、真耶はいつまでも真也の心を掴んでいて、真也はいつまでも真耶を想いつづける。そりゃ、羨ましくもなるぞ?」
「………ごめん。」
「こら真也、そこで謝っちゃダメだろ!」
「は?」
「謝ってしまったら、真耶への想いに後ろめたさがあるみたいじゃないか。そんなの真耶だって悲しむし、真也自身を否定する言葉だ。自信を持て真也、お前が謝るべきことなんて何もない。」
「莉乃姉…。」
「それにさ、そうやって謝られたらまるであたしは振られた気分だ。」
「あ…いや、別にそういうわけじゃない。」
「ふんっ、真也はそういうところの察しは悪いな、まったく。もう少し乙女心ってものを理解しないと将来大変だぞ?」
「はいはい、悪かったよ。」
「ま、そんなところも真也なんだけどさ。」
何故か嬉しそうに莉乃姉は笑うと、突然走りだした。
って、何なんだよいきなり。
俺も慌てて後を追うようにして走りだす。
「ちょっ、急に走りだしてどうしたんだ!?」
「あーっはっはっは!先に着いた方の言うことを聞くってことで勝負だ―!」
「なに!?…ったく、突拍子もないこと思いつきやがって!」
「さーって、何をお願いしようかなー!」
「クソッ、面倒事はご免だぞ!」
「大丈夫だ、一日デートで勘弁してやる!」
「昨日したじゃねぇか!」
「そんなの関係ないぞ、あたしは毎日だって真也とデートしたいんだからな!」
「毎日とか、絶対飽きるだろ。」
「はぁ、真也は本当に乙女心ってのが解ってないな。」
「わかんねぇよ、俺は男だからな。」
「ならたくさんデートして勉強させてやらないとな!スピードアップ!」
「チッ、まだ速くなんのかよ!」
楽しげな莉乃姉の背中を追いかけながら、俺は思った。
これから大変になるかもしれないと。
太陽が少しずつオレンジ色に変わり始め、背後に見える海の向こうへと隠れようとしている。
盆地の最奥、少しだけ山を登った高台の上に、俺たちは腰かけていた。
遮る物が何もないここでは、こんなに離れていても全てが見渡せる。
左右に伸びる山と森、それに挟まれる盆地の中の家々や田畑、その向こうには俺たちが降り立った駅と道路、寄せては返す白と青に染まる海。
世界の果てまで見えるのではないかと錯覚してしまいそうになる。
ここまで運ばれてくる磯の香りと潮騒の響き。
自然と目を閉じて、鼻で感じ、耳で聴き入る。
唐突に始まったランニングで火照った身体を、吹く抜けてくる潮風がゆったりと冷ましてくれた。
「どうしてこういう時って、見えない空を見上げたくなるんだろうな。」
「きっと、身体が心地よさを全身で感じたいって思うからじゃないか?」
「なるほど、それはなんか納得できるな。」
「だろう。妙に優しい気持ちになれるのも、心が気持ちいいからだよ。」
そう言って莉乃姉は大きく伸びをした。
俺たちは今、家主不在の家の庭で待ちぼうけを食らっている最中だ。
恐らくこの時間は畑の方に行っている時間だから、もう暫くしたら帰っては来るだろう。
場所はわかってるから会いに行くこともできるけど、すれ違いになりたくないからとここで待たせてもらっている。
ここからなら帰ってくる軽トラも見えるだろうし、何より走った後で探しに行くのはかったりぃ。
それに莉乃姉も、この自然を感じていたいみたいだしな。
ふと視線を下に向ける。
そこには待ち望んだオンボロの軽トラックが、荷台に沢山の籠を載せて坂道を上ってくる姿が見えた。
俺は潮風を気持ち良さそうに受ける莉乃姉の肩を叩くと、トラックを方へ指をさす。
「どうやら帰ってきたみたいだぞ。」
「お、あのトラックか?」
「そう、きっと二人とも乗ってるはずだ。」
「うぅ、何だか緊張してきたぞ。」
「安心しろ、二人とも悪人じゃない。まぁ…俺に対してはどうか判らないがな。」
「ん、それはどういう意味だ?」
「見てれば解るさ、すぐにな。莉乃姉は少し離れていてくれ、危ないからな。」
「え?」
俺は溜め息を吐きながら立ち上がると、なるだけ広く距離を取れる位置に移動する。
……クソジジイを迎え撃つために。
深呼吸して、体勢を整える。
莉乃姉は不思議そうに首を傾げながらも、言いつけ通りに少し俺から距離を置いた。
明らかに不調と思えるエンジン音を響かせながら、トラックは坂を上りきると、ゆっくりと速度を落として俺の前で停止する。
運転席の様子は、西から放たれる光の反射でよく見えない。
さて、いつ来るかな。
前に来た時は確か後ろからだったが、今回は正面だ。
今度こそ、あのゴリラの顔面に叩き込んでやるからな。
俺は神経を集中させて、来るべき動作に身構える。
そして唐突に、派手な音を立ててトラックの扉が蹴り開けられた。
直後に顔面へ迫る拳。
俺は即座に姿勢を落としそれを躱すと、反撃の拳を向かってきた奴に叩き込む。
酷くあっさりと、拳は空を切る。
刹那、腹部を強烈な衝撃が襲い、俺は地面に膝をついていた。
クソッタレ、冗談みたいな動きしやがって。
攻撃してきた主は、そんな俺を見下ろして高笑いしている。
「ガッハッハ、精進が足りんぞ真也!平和な町に住んでいるせいで感覚が鈍ったのか?」
「チッ……相変わらず農業には不釣り合いな筋肉しやがって、お迎えはまだこねぇのかよ。」
「ガッハッハ!俺を迎えに来るやつらなぞ、この拳一つで返り討ちじゃわい。」
「大丈夫か真也!?」
「あぁ、問題ない。ウザったいことにこれでも手加減されてるからな。」
「ふん、何じゃこの娘っ子は。女子に心配されるなんぞ甘ったれてる証拠じゃ、俺が芯から叩き直してくれる!さぁ立て真也、貴様の根性見せてみい!」
チッ、クソッタレ。
無駄にいい拳打ち込みやがって、慣れてなきゃ気絶してるぞ。
抱きしめるようにしてくれている莉乃姉に離れるよう促すと、立ち上がって声の発生源を睨みつけながら構える。
目の前に仁王立ちする、二メートルに届きそうな巨漢。
短く刈り込んだ白髪と、熊さえも逃げ出しそうな威圧感を放ついかつい顔。
日本人とは思えないほど盛り上がった筋肉は、まさに筋骨隆々を体現している。
名前は水無月龍鉄、今日七十は超えようかという化け物だ。
まったく、衰えというものを知らないのかこの身体は。
龍鉄は無駄に楽しそうに歯を見せて笑うと、俺と同じ構えで拳を握った。
「その意気やよし、だがせめて三発は耐えろよ?」
「はっ、全部叩き折ってやるから入れ歯の用意をしておけよ。」
「ほらほら二人とも、それくらいになさいな。そちらの子も困っているでしょうに。」
トラックの中から響いた声に、龍鉄は振り返る。
中から出てきたのは、龍鉄とは対照的に背の低い女性。
穏やかに微笑む優しげな雰囲気と、お下げにされた白髪。
何処か空さんと同じ雰囲気を持つこの人は、正真正銘空さんのお母さん。
名前は水無月沙耶、龍鉄の奥さんだ。
「む、沙耶が言うなら仕方ないの。命拾いしたな真也、ガッハッハ!」
「チッ…殴られただけかよ。」
俺は構えを解き、莉乃姉にもう大丈夫だと声をかける。
俺の隣に寄り添うようにして立つ莉乃姉と、龍鉄の後ろに穏やかな物腰で立つ沙耶さん。
莉乃姉は気まずそうにしつつ、深々と頭を下げた。
「はじめまして、小湊莉乃と申します。真也とは幼馴染です、今日からお世話になります。」
「ほぉ、真也が連れてきたにしては礼儀正しい娘っ子じゃの。」
「余計なこと言ってんなよ。」
「ガッハッハ、そう怒るな。さて、俺は水無月龍鉄じゃ、まぁ気楽にせえよ。」
「あ、ありがとうございます!」
莉乃姉は龍鉄に頭を下げ、今度は沙耶さんが前に出る。
「私は水無月沙耶です。莉乃さんも真也さんもよく来てくれたわね、ゆっくりしていきなさい。」
「はい、お二人ともよろしくお願いします!」
「おい真也、お前は挨拶なしか?」
「あんたからは既に馬鹿みたいな歓迎を受けたからな。」
「ガッハッハ、それもそうじゃな。まぁいい、沙耶、娘っ子を中に入れてやれ。」
「そうですね。さぁどうぞ、ろくなお構いもできないけれど。」
「いえいえっ、お邪魔します!」
莉乃姉は俺を見上げた後、荷物を持って沙耶さんの後についていく。
まぁ、沙耶さんなら大丈夫だろ。
二人でそれを見送ると、龍鉄が俺を見下ろしてニヤリと笑う。
「おい真也、お前は俺と一緒に荷物を下ろせ。」
「は?あんたなら一人でも一瞬だろうが。」
「一人より二人というじゃろうが、いいから黙って手伝わんかい!どうせ家に入ってもできることないじゃろう?」
「チッ、若干気にしてることを言いやがって。」
「ガッハッハ!さぁて、今日は豊作だったからな、ちいとばかし量が多いぞ。」
「ったく、仕方ないな。」
俺は今まで会った中で誰よりも大きい背中を追いかける。
まぁ、手伝いくらいいつものことだな。
龍鉄の後に続いて、荷台に満載された竹の籠を一つずつ下ろしていく。
くっ、結構重いなこれは。
俺は気合を入れて持ち上げて、ふらつく足取りで歩きだす。
ふと隣を見ると、それを片手で、しかも二つ同時に運んでいく龍鉄。
龍鉄は聴いたこともない鼻歌を響かせながら、家の隣の納屋の方へと歩いていく。
そして足を止めて振り返ったと思ったら、癪に障る顔で笑った。
チッ、むかつく笑い方しやがって。
俺は勝てないと判っていながらも、籠を持つ手に力を込めた。
Rino side
「莉乃さんはこの部屋を使ってくださいね、布団はそこの襖を開ければ入っているから。」
「はい、ありがとうございます沙耶さん。」
あたしはあてがわれた部屋の隅に荷物を置くと、窓を開けてくれている沙耶さんに振り返る。
開け放たれた窓から吹いてくる風に、綺麗な白い髪がふわふわと揺れた。
素敵な人だなぁ。
穏やかな物腰と、丁寧だけど親しみやすい口調。
大雑把で男みたいな口調のあたしとは大違いだ。
さっきだって龍鉄さんの後ろで静かに佇みながら、きちんと真也に助け舟を出していた。
龍鉄さんにも信頼されてるみたいだし、素敵な奥さんだと思う。
こんな人がお母さんだから、空さんもあんなに素敵なのかな。
「ふふ、私の顔に何かついている?」
「え……あ、そんなことないです!」
うぅ、黙って見るなんて失礼だった。
でも空さんもだけど、真也の周りって素敵な人が多い。
皆大人で、凄い人ばかり。
こういう人たちに慣れているから、あまり同世代とは仲良くできないのかな真也は。
あたしももっと大人っぽくならないとダメかな。
「それでは私はお夕食の準備を始めるから、莉乃さんはそれまで自由にしていてね。」
「あ、料理ならあたしにも手伝えます!向こうでは真也のご飯を作ってますから。」
「あら、それは助かるわ。ふふ、真也さんは幸せよね。」
「え、幸せですか?」
「えぇ……だって真也さん、前に来た時よりも雰囲気が柔らかいもの。きっとあなたに癒されているのね。」
「えっと、そうなんでしょうか?」
どうなのだろう。
あたしは本当に、真也の役に立てているのかな。
だって、真也はまだ昔みたいに笑わない。
真耶が隣にいた頃のような柔らかな笑顔は、まだ見れていないから。
俯いて、時代がかった畳を見る。
すると、あたしはそっと抱きしめられた。
優しい温もりが、触れ合ったところから伝わってくる。
落ち込んだ心が、ゆっくりと満たされていく感覚。
頭の上から、鈴のような澄んだ声で囁かれる。
「真也さんはずっと孤独の中にいるのよ。それは酷く寒くて、満たされないままの心だから。あの人の心は二つで一つ、なのに今は欠けてしまった。だからずっと、冷たいままなのよ。」
「…二つで一つ。」
そうか、だからあの二人はあんなにも強い絆だったのか。
お互いの心を半分ずつ、お互いに持っている。
引かれあうその二つの心は、片方だけでは痛いだけ。
それが永遠に失われてしまったのだから、辛いのは当たり前だ。
今まで満たされていた心の中は、現状半分しか埋まっていないのだから。
「でも、今の真也くんは違うわね。少しずつだけど、空っぽだった心の半分が満たされ始めている。何があったのかわからないけど、きっとそれをしたのはあなたよ莉乃さん。そうでなければ、真也さんが誰かを連れてここに来るなんてしないと思うもの。」
顔を上げると、微笑みを浮かべてあたしを見ている沙耶さんがいる。
その表情を見ただけで、何故か無条件に安心した。
今の沙耶さんの言葉も、すんなりと受け入れることができる。
よかった、あたしは疎ましくは思われていないようだ。
信用していないなんてことはないのに、何度真也から優しい言葉をかけられても、どうしても不安に思ってしまう。
信じているのに信じられない。
なんか情けない、真也にも失礼だ。
「自信を持ちなさい莉乃さん、あなたはちゃんと真也さんに信頼されているわ。だから不安にならないで、寧ろ真也さんの傍にいてあげてください。それに……あなたの想いのためにもね。」
「…そうですね、あたし頑張りますっ!」
「ふふ、頑張ってね。それじゃあ二人が荷物降ろしから戻ってくるから、早く食事の準備をしましょう。」
「はい、お手伝いします!」
嬉しそうな沙耶さんに続いて廊下に出る。
よし、これからもっと頑張るぞ。
「ふぅ、やっと終わったか。」
「ガッハッハ、これくらいで疲れるとは情けないな真也。」
「うるせぇよ、アンタみたいに体力が無尽蔵ってわけじゃないんだ。」
龍鉄に悪態を吐きながら、俺は張った筋肉を軽く揉み解す。
トラックに積まれてきた野菜が実はほんの一部で、あれからまた畑に残された籠を積みに行き、それを再び納屋に入れる繰り返し。
何往復もして疲れた腕は、少し震えている。
だが今の一つを積んだところで、納屋の中には整頓された籠が立ち並んだ。
ったく、こんなことばかりやってりゃ腕もゴリラみたいになるわ。
全身に掻いた汗が、長い髪を張りつかせて気持ち悪い。
こりゃ飯の前に風呂に入らなきゃ辛いな。
「さて、いい汗掻いたし風呂に入るか。どうだ真也、俺と一緒に入るか?」
「暑いからってクソ寒い冗談はよせよ、誰が入るか。」
「ガッハッハ、そりゃそうじゃな!とりあえず中に入るぞ、沙耶が飯を作り始めているはずじゃ。」
「あぁ、確かにいい匂いがしてきた。」
何処かの窓を開けているのか、家の方から醤油のいい匂いが漂ってきている。
疲れた身体にはいい刺激だ、思い出したように腹が鳴った。
手招きする龍鉄に頷いて、俺は一緒に納屋から外へ出る。
するとそこには、タオルを二枚持った莉乃姉が立っていた。
「お疲れ真也、龍鉄さんも。」
「おぉ悪いな娘っ子。」
「あぁ、助かる。」
タオルを受け取り、額の汗を拭う。
莉乃姉はそんな俺に微笑むと、背中を向けて海の方を眺め始めた。
「ふむ…俺は先に戻ってるぞ真也。」
「あ、あぁ。」
龍鉄は何故かニヤニヤと笑いながら、一人で家に入っていった。
何だったんだ今の笑いは。
首を傾げながら、俺は莉乃姉の隣に立って海を眺める。
陽の光は白からオレンジに変わり、ゆっくりとその姿を水平線の向こうに沈めようとしていた。
遠く見える水面はキラキラと輝き、まるで写真の中みたいに美しい。
並木町にいるだけじゃ見られない光景に、俺は暫し見惚れていた。
吹き抜けてくる風が、汗に濡れた身体に心地いい。
揺れる草木に、いつもと違う磯の香り。
初めて来たわけでもないのに、それらはどこか新鮮だ。
あの頃とは気持ちが違うからなのか、隣にいる人が変わってしまったからなのか。
でも今の俺は、とても穏やかな気持ちでいられる。
少なくとも、酷く悪くなったというわけじゃないみたいだ。
「真也。」
「ん?」
呼ばれて視線を向けると、莉乃姉が景色を見下ろしながら笑っていた。
「あたし、ここに来て良かった。」
「まだ着いたばかりだろ、特に見て回ったわけでもないし。」
「そうだけど、なんかそう思えるんだ。見たことのない景色や、感じたことのない匂い。嬉しいって気持ちがこみ上げてきて、もっと感じてみたいって思う。」
「そうか…なら連れてきた甲斐もあったかな。」
「あぁ、ありがとう真也。こんなにも素敵な場所に連れてきてくれて、一緒に………傍にいてくれて。」
莉乃姉が俺の方を向いて、そっと手を握ってくる。
その顔は、夕陽のせいか凄く紅い。
掌からは、ただそれだけで莉乃姉の嬉しいって感情が伝わってくるみたいだ。
同時に蘇ってくる懐かしさ。
あぁ、姉さんもよくこうして夕陽を眺めながら手を握ってきたよな。
少しだけ、胸が痛む。
本来あるべきものを求めるみたいに、夢の狭間に揺蕩う幻影を追い求めるように。
でも、もう目を覚まそう。
どれだけ悲しもうと、姉さんにはもう会えないのだから。
ここに来たのも、俺の中で決心を言葉にするためだ。
それがどれほど間違っていても、想いは変わらない。
それに、隣に立っているのは、もう別の人なのだ。
莉乃姉に真耶姉さんを重ねるなんて、そんなの失礼だよな。
莉乃姉は、昔からずっと大事な姉さんなんだから。
「俺たちも戻るか。」
「うん、そうだな。」
微笑みを返した莉乃姉と一緒に、俺は一時の宿に歩いていった。
風呂に入ってから着替えると、俺は皆が集まる今に足を運んだ。
障子戸を開けると、既に着席した三人が俺を見た。
「遅いぞ真也、俺を待たせるとはいい度胸だ。」
「悪かったな、つか何時から飯かなんて聞いた覚えもないぞ。」
「ガッハッハ、確かに言った覚えもないわ!まぁいい早く座れ、折角の飯が冷めてしまうぞ。」
俺は空いていた座布団の上に座ると、目の前に広がる食卓を見る。
テーブルに並ぶ豪華な食事。
自家製の無農薬野菜をふんだんに使った料理の数々は、見ているだけで食欲をそそる。
俺と莉乃姉、龍鉄と沙耶さんがそれぞれ隣り合って座っていて、沙耶さんがそっと龍鉄のお猪口に日本酒を注いだ。
「よし、腹も減ったし食うか!」
「沙耶さんの飯は久し振りだな、楽しみだ。」
「今回はあたしも手伝ったんだぞ。」
「莉乃さんはとっても丁寧だったわね、真也さんへの愛情がたくさん詰まっているわよ。」
「ガッハッハ、随分愛されとるようじゃのお真也。」
「うぅ…。」
「あんま莉乃姉をからかうんじゃねぇよクソジジイ。」
「ガッハッハ、初心じゃな。さて、それじゃあ食うか。」
『いただきます。』
手を合わせて食事が始まる。
一口食べると、優しい味が舌に踊り、喉を下りていく。
うん、やっぱり美味しいな。
莉乃姉とは違った味つけで、少しだけ薄味だ。
こういうのを飽きがこない味って言うのだろうか、まぁ莉乃姉の味つけに飽きたってことは全くないんだけど。
暫く黙々と食べていると、晩酌を口に運びながら龍鉄が問いかけてくる。
「そういえば真也、どうして突然ここに来た?」
「あ?別にいいだろ、迷惑なら明日にでも帰るぞ。大体、そういうのは会って最初に聞くもんだ。」
「真也、泊めてもらうのにそんな言い方はないだろう!」
「まったくじゃな、真也は年上に対する礼儀がなっとらん。娘っ子、よく解ってるじゃないか。」
「あ、いえ。流石に当然だと思いますから。」
「いきなり殴りかかってくる筋肉馬鹿に礼儀もクソもあるかよ、ったく。」
「ガッハッハ、あれは挨拶じゃ。寧ろ俺とお前が真面目に言葉で挨拶なんぞ気持ちが悪いな。」
「ふん、それに関しては同感だな。」
「はぁ、まったく真也は。」
「うふふ、莉乃さんは本当によく真也さんを気にかけているわね。真也さんも、莉乃さんの話くらいはきちんと聞くのよ?」
「沙耶さんまで…まぁ、そうしますよ。」
三人の笑い声が食卓に響く。
ったく、俺だって他の人には礼儀くらい持ち合わせてるっつの。
「でも主人の言う通り、何か用がないとこんな田舎には来ないでしょう?もし良かったらわけを聞かせてもらえないかしら。」
「う………詳しく話すことでもないですよ。ただ…答えを返しにきただけです。」
「何じゃ、答えを返すって。」
龍鉄が酒で赤くなった顔に疑問を浮かべ、沙耶さんの方を見た。
俺もつられて沙耶さんを見ると、その穏やかな瞳と目が合う。
俺の言葉を聞いて何かを悟った、そんな瞳。
あぁ、やっぱ知ってたんだろうな、俺たちのこと。
昔から絶対嘘は見抜かれてたし、何となく予想はしていた。
龍鉄はまぁ、筋肉馬鹿だからな。
沙耶さんは暫く俺を見て、そっとを目を閉じた。
「莉乃さんが泊まる部屋に小さな机があります、その机の引き出しを後で開けて御覧なさい。そこに、真耶さんの日記が入っています。」
「え…?」
姉さんの、日記?
そんなものがどうしてこの家にあるんだ?
姉さんが日記を書いていたのは知っていたけど、普通家に持って帰るはずだよな。
でも、それは今この家にあるらしい。
何が、書いてあるんだ。
「真耶さんから私が預かっていたのだけど、きっと…真也さんは見るべきなのよ。その答えを出そうとしているなら尚更、あの子の心を知るべきだわ。」
「姉さんの…心。」
真耶姉さんの心が記された日記帳。
つまりそれは、俺に関わることだというのか。
だとしたら、俺は読んでみたい。
終ぞ聞くことができなかった、あの言葉以外の気持ち。
きっと、真耶姉の想いを綴ったものが、そこにある。
「ごめんなさいね、せめて食事が終わってから話すべきだったわ。」
「あ、いや。」
「日記は逃げたりしないから、とりあえず今は食事を済ませてしまいましょう。」
「あぁ。」
食事を再開するも、味なんて判らなくなっていた。
とにかく目の前にある自分の食事を食べて、すぐにでも莉乃姉の部屋に行こう、そんな考えしか頭の中に浮かばない。
それからの食卓は無音だった。
俺は黙々と食べ進め、莉乃姉も俺を気にして黙っている。
龍鉄は何事なのか解らないままで、沙耶さんもそれ以上は何も語らなかった。
「御馳走様でした。」
「お粗末さまでした、食器はそのままでいいわよ。」
「すみません…。莉乃姉、部屋、入らせてもらうけどいいか?」
「あ、うん。」
俺は静かに立ち上がると、逸る気持ちを抑えきれずに歩き出す。
廊下を抜けて、一番奥の部屋へ向かう。
扉を開けて、真っ先に奥にある机に歩く。
さっきから心臓がおかしい、長距離走でも走った後みたいに動悸が激しくなっている。
指先が震えて、心は締めつけられるみたいに痛んだ。
これはトラウマのようなものだ、何しろ姉さんの心を覗くのだから。
ブレスレットは着けることができても、本人の気配が強いものには触れないようにしてきた。
直筆の手紙や、名前の記されたもの、服は全て処分したし、写真だって見ないようにしている。
だがこの中にあるはずのものは、まさに真耶姉さんそのものだ。
俺は耐えられるだろうか、泣かないで読むことができるだろうか。
引き出しを開ける。
そこには確かに、シンプルな外装をした日記帳が、持ち主を待っているかのように待っていた。
そっと手に取る。
文房具店なら何処にでも置いてありそうなその日記帳から、俺は暫く目が離せないでいた。
長い間持ち主が触れていないはずなのに、それはきちんと手入れがされている。
きっと沙耶さんが管理していてくれたのだ、いつの日かこうして、俺の手に渡る時のために。
日記帳を裏返してみると、そこには桐生真耶と手書きで書かれている。
もう久しく見ていなかったその筆跡を見ただけで、涙を流しそうになった。
この中には、もっと沢山の文字が、心を映し出す鏡のように広がっている。
名前を呼んだだけで苦しむ俺が、姉さんの心を直視して耐えられるはずがない。
沙耶さんと莉乃姉がせっかく作ってくれた料理をろくに味わいもせずここに来て、結局俺はこうして先へ進めないでいる。
余裕があったと思っていたのに、そんなものはいつの間にか何処かへと消し飛んでしまっていた。
時間の感覚もない、手の震えも止まらない。
動悸は依然激しいままで、呼吸は整う気配さえなかった。
畳の匂いがする広い部屋の中、必死に涙を流さぬように耐える。
すると、廊下から声が聞こえた。
「真也、いるだろ?」
「…あぁ、いるよ。」
「入っても大丈夫か?」
「…莉乃姉の部屋なんだから、断りを入れるのは変じゃないか?」
「………入るぞ。」
襖が開く音がして、莉乃姉が入ってくる。
背中を向けているから姿は見えないが、ゆっくりと気配がこちらに近づいてきて、
―――そっと後ろから抱きしめられた。
莉乃姉の温もりが、背中から伝わってくる。
何を言うでもなく、莉乃姉は暫くそうしてくれていた。
じんわりと染み渡るように、俺の身体が落ち着きを取り戻していく。
いつの間にか手の震えは止まり、呼吸も普通に戻っている。
痛むばかりだった心が、今はとても穏やかだ。
安心しているのか、俺は。
莉乃姉の体温や、抱きしめられているということに。
肩の上から胸の前で組まれた莉乃姉の腕を、俺はそっと抱きしめていた。
「無理はするな真也、辛いことをそのまま受け入れることはないんだ。真也は今日一日想い出の中で辛い思いをしたんだろ、だから今日はもう止めておこう?じゃないと、真也が耐えられないよ。」
そう言ってくれた莉乃姉の身体は震えていて、声も少し涙声だ。
まるで俺の震えが莉乃姉に移ったようで、申し訳ない気持ちに襲われる。
まったく、俺って何度莉乃姉を泣かせるんだろうな。
泣かせる度にもう泣かせないって誓っておいてこの様だ、本当の意味での強さが全然ついてない。
「…ごめんな莉乃姉、心配かけた。でももう大丈夫だ、莉乃姉のお陰でさ。」
「……あたしの、お陰?」
俺は安心させるために、莉乃姉の震えている手を優しく握る。
「あぁ、莉乃姉がこうして俺を支えてくれるから、俺はいつだってまた前を向けるんだ。独りだったら、きっと潰れてた。」
「…あはは、良かった。そう言ってもらえると、もっと力になろうって思えるな。」
「まぁ、俺も莉乃姉に迷惑かけないように強くなるからさ。」
「真也は今のままでもいいぞ。そしたら、あたしがずっと傍にいられるからな。」
元気になった莉乃姉が、回り込んで俺の隣に座り笑いかけてくる。
う、その笑顔は反則だろ。
前まではこんな風に思ったことなかったのに、最近の俺はやっぱり変わってきてるな。
良いことなのかもしれないが、これはこれで精神的に辛いものがある。
今まで気づかなかった仕草とかが妙に目に入ったり、そのせいで凄く対応に困ったり。
はぁ、馬鹿か俺は。
今はそんな事より、目の前の日記帳だ。
俺はもう一度日記の表紙を見る。
もう動悸が激しくなることはない。
よし、大丈夫そうだな。
「それじゃあ莉乃姉、読むぞ。」
「うん、あたしも傍にいるから安心しろ。」
「あぁ。」
俺は頷いて、日記帳の一ページ目を開いた。
Maya side
――8月12日
私こと桐生真耶は、目下大変な悩みに直面しているのです。
それはもう解決するのは凄く難しくて、多分解決するのはいけないこと。
でも、やっぱり自分には嘘が吐けないから、答えを出さないといけないよね。
そう、私は恋をしているのです。
しかもよりにもよって、実の弟である真也に。
えっと、世間的には絶対よくないよね、お父さんとお母さんにも怒られると思う。
でもこの気持ちに嘘はないから、私は真也が大好きなんだ。
……うぅ、こんなこと書いてたら胸が苦しくなってきた。
いつから好きだったのか、正確には思い出せない。
真也のどこに惹かれたとか、何がきっかけだったのかとかそういうのは判らないけど、とにもかくにも、私な真也を好きになってしまった。
もうそういう感情に気づいてしまったのだから、私にはどうしようもないのです。
この気持ちに気づいたのは、実はつい最近なんだけど。
でもすぐに解ったんだ。
私はずっと前から真也が気になっていて、この気持ちに気づかないようにしていただけなんだって。
今、隣には真也が寝てます。
実はさっきからずっと胸がドキドキしてて、これを書いてる指も震えてる。
少しだけ長い髪の毛と、モデルみたいに長い手足。
私も友達にはそう言われるけど、真也の方が絶対凄いと思う、かなり贔屓目が入っちゃってるかもだけど。
肌だって私より白いし、顔だってとってもカッコいい。
でもその分だけ不安になる。
学校でも真也は女の子から大人気だし、私自身も何度か真也に関して相談もされたし。
それが凄く嫌に感じて、自分で頑張ってみなよって断っちゃった。
ホントに、私は最低だ。
私が会ってあげてほしい人がいるって言ったら、きっと真也は本当に会ってあげるから。
あの時はまだこの気持ちに気づいてなかったけど、無意識に嫌がったんだね私は。
真也はクールだけど誰にでも優しくしてしまうから、もしかしたら告白も断れないんじゃないかって、そう思った。
む、真也はズルいよね。
私がこんなにも真也のことで悩んだりしてるのに、呑気に寝ちゃってさ。
私寝間着だよ?すっごく薄着だよ?
魅力が足りないのかな、やっぱり莉乃ちゃんが羨ましいな。
胸も大きいし、顔だって凄く大人びてて。
真也と並んで歩いているのを見ると、少しだけ嫉妬しちゃう。
だって悔しいけど、凄くお似合いだと思うから。
…真也はどんな子が好みなんだろう。
莉乃ちゃんみたいな大人っぽい人?
それとも背の低い可愛らしい人?
でも、自分と同じ顔をしたお姉さんじゃない、きっと。
うわぁぁぁ、泣けてきたーー!
はぁ、普通の姉弟でも恋愛にはならないのに、双子じゃもっと変だよね。
ずっと一緒にいるのに、まだまだ知らないことが沢山ある。
真也は私のこと、どう思ってくれてるんだろう。
うるさい姉かな、それともただの家族?
一緒にはいてくれてるよ、いつも私を優先してくれてる。
だけどその優しさは皆に向けるものと同じもの?
家族だからって優先してくれてるだけ?
うわぁ、もうわけわからなくなってきた。
よしっ、今日はもう寝よう!
難しいこと考えるの苦手だし、一日走り回って疲れたし。
………うふふ~。
決めました、据え膳食わぬは何とやらです!
私を悩ませる真也には、少し罰が必要だね。
起きたら一緒の布団に寝てたりしたら、きっと驚くだろうなぁ。
私も幸せだし、たまにはいいよね?
家じゃ別々の部屋だし、こんな時くらいじゃないと一緒に寝れないもん。
それじゃあ今日はおしまい、また明日も楽しいといいなぁ。
俺は一日目の日記を読み終わると、とりあえず深呼吸した。
望んでいたことは確かに書いてあった、あまりに書きすぎていたが。
ったく、あの日のことははっきり覚えてるよ。
朝起きたら、目の前に姉さんの幸せそうな寝顔があったからな。
驚いて声も出なくて、でも同じくらいドキドキしてた。
結局あの時は起こしてあげられなくて、恥ずかしさで二度寝したんだったな。
まさかこんな意図してのことだとは夢にも思わなかったけど、あれじゃ正直罰にはならなかったぞ姉さん。
だって、俺も幸せだったんだから。
莉乃姉は手を伸ばすと、愛おしそうに日記帳を撫でる。
「真耶、幸せそうだな。文章だけなのに、真耶の一途な気持ちが流れ込んでくるみたいだ。」
「……そうだな。だけど怖がって損したよ、まさかこんなにも恥ずかしい内容だったとは。」
「あはは、確かにそうかもしれないな。やっぱり真也は考えすぎてるってことだよ。」
「まぁ、もう否定はできそうにないな。これを読んで、少しだけ気が楽になった。莉乃姉が言ってたみたいに、俺は恨まれたりはしてなさそうだ。」
「当たり前だ、真耶はそんな風に人を思う人間じゃないさ。寧ろ誰にでも気持ちを開いて、心から他人を信じていた。でもそれだって真也、お前が傍にいたからだと思うぞ?」
「俺が?」
「あぁ、真也の冷静な判断力には安心するんだよ。真也がしっかりと考えてくれるからこそ、真耶は悩まずに人を信じられた。もし信じてはいけないような人が現れたとしても、真也が傍にいれば止めてくれるだろう?」
「あぁ、そりゃな。」
「自分を常に気にかけてくれる人がいる、それだけで人は案外強くなれるものなんだよ。だから真耶は、本当に真也のことを大切に思っていたんだ。」
「………。」
俺だって莉乃姉たちに救われたんだ、それは身をもって体感してる。
誰かに思ってもらえる、それを実感できると心が楽になるから。
そうか、俺でも誰かの力になれていたのか。
誰の役にも立てず、この二つの拳は他人を傷つけるだけなんだと思っていたけど、ちゃんと誰かを守ったりもできる。
俺にとって大切な二人の姉さん。
いつまでも敵いそうにない。
俺が持ってない強さを二人は持っていて、それを自然と教えてくれる。
どうしていつも、一番言ってほしい言葉をくれるのかな。
俺ももっとしっかりしないと、負けてられない。
「真也、続きを読んでみよう。」
「そうだな。」
人の内面を覗くみたいで心苦しいが、やっぱり姉さんのものとなると気になるし。
俺はその小さな日記帳を、なるだけ優しく捲った。
Maya side
――8月13日
今日は森の中を探検しました、もちろん真也と一緒に。
足元が危ないからって一日中手を繋いでいてくれたんだ、幸せすぎて倒れるかと思ったよ。
真也の手、やっぱり大きい。
龍鉄おじさんに鍛えられてからは、もっと強そうになった。
武道をする真也、真剣な顔しててカッコいいよね。
森の中では森林浴。
深い森の中にいると、気持ちのいい空気に癒される。
大きく両手を広げて、胸いっぱいに深呼吸。
やっぱりこの町は大好き、夏休みしか来れないなんてもったいないよ。
春も秋も冬も、色んな季節を味わってみたい、真也と一緒ならきっと凄く楽しい。
この辺りには桜が植わってないけど、温かい風の中で眺めるこの町は凄く穏やかで、見たことのない可愛いお花が芽を出したり、ワクワクがいっぱいありそう。
草木の色が赤や橙に染まったら、きっととっても鮮やかだと思う。
森の中に栗や木の実を探しに行ったり、ご飯が美味しい季節だから私の腕の見せ所だね。
町が真っ白に雪化粧して、二人で雪かきをしながら雪だるまを作ったら楽しいだろうなぁ。
でも海からの風は凄く冷たいだろうから、折角だし真也に温めてもらうんだ。
…今度二人きりで来てみたいな、お年玉貯めてれば来れるよね。
二人だけで電車旅。
見たことない景色とか、行ったことない駅とか、楽しいことがいっぱいだよ。
どうやってここまで来ればいいのかわからないけど、きっと真也なら調べてくれるよね。
お昼はどうしようかな。
私が作ったお弁当も食べてほしいけど、でも折角だから駅弁とかも食べてみたいよね。
うん、やっぱり駅弁だね。
私のお弁当は毎日学校でも食べてもらえるんだから。
違うものを買ったら二人で分けて食べればいいし、色んな味が楽しめそう。
あはは、考えてるだけで楽しくなってきちゃった。
ねぇ真也、こんなこと考える私って変なのかな?
姉弟なのに、こんな気持ちになるのはおかしなこと?
一日中一緒にいられて楽しいのに、どうしても一人になると考えちゃう。
流石にこれは莉乃ちゃんにも相談できないし、そもそも莉乃ちゃんはライバルっぽいし。
……負けたくないなぁ。
だって私の方が絶対真也のこと好きだもんね、ずっと一緒にいるんだし。
そうだ、今度フラトレスのマスターに相談してみよう。
あの人ならきっと真面目に話を聞いてくれそうだし、何かアドバイスくれそうだしね。
真也と一緒に行ったりしたいな、折角家から近いんだから。
よーし、帰ってからの計画も決まったしそろそろ寝よう。
今日も隣に寝るからね。
今朝は真也がお寝坊さんだったせいで反応も見られなかったから、今度こそ驚いてくれるはず。
明日は二人で海に行こう、きっと気持ちいいだろうなぁ。
水着、可愛いって言ってくれるかな。
楽しみと不安が半分ずつです、これは考えちゃうと眠れなくなる罠ですね。
無心で寝る、よしっ。
それじゃ今日はおしまい、明日もいい日になりますように。
「…あたしってそんなに信用ならないか?」
「いやまぁライバルって書いてあるくらいだし、仕方ねぇんじゃないか?」
「それはそうなんだが、ちょっと寂しい気がするぞ。」
莉乃姉は拗ねたような顔をして文面を見ている。
何だかこうして見ると、姉さんにも悩むことがあったんだなと思い知った。
いつも天真爛漫にはしゃいでいたから、てっきり悩みなんかとは無縁とばかり思っていたな。
まぁ、主に俺に関わることばかりなんだけど。
なんか、こういうのって嬉しいな。
俺のことで誰かが悩んでくれるのって、相手が普段から俺のことを考えていないとできないし。
それってつまり、その人にとっては意味のある存在ってことだ。
まぁ、必ずしも好かれてるってことにはならないけど。
「それにしても、真耶はいつだって全力で楽しそうだな。」
「あぁ、そこが姉さんの売りだったくらいだ。にしても勝手に旅行の予定とは、殆ど俺任せの計画じゃねぇか。」
「それだけ真也の力を買っていたんだな、実際真耶はこういうの苦手そうだ。」
「何しろ音楽プレーヤーすらまともに操作できないくらいの機械音痴だ、パソコンで行き先までの金額とか調べるなんて方法は未知の領域だろうな。」
「確かに真耶は機械が苦手だったな。録画の予約も解らないからって、見たい番組がある時はいつも大急ぎで帰ってたよ。」
「ったく、そんくらい言えばやってやるっつーのに。」
「真也がそうやって甘やかしていたからいつまでもできなかったんじゃないか?」
「………そうだったのか。」
「あはは、真也も真耶には勝てないか。」
「あの人はある意味で最強だったからな。…まぁいい、続きを読んでみるか。」
俺たちはそうしてページを捲っていく。
どのページを開いても、書いてあるのは俺と過ごした時間や、一日の楽しかったことばかり。
何処にも悲しみや辛さが強調された文はなくて、読んでいる俺たちにまで楽しい気持ちが流れてくるみたいだ。
だけどそれは、やっぱり寂しさも運んできた。
楽しさを感じていた姉さんの想いが大きいほどに、俺は自分を責めたくなる。
何故あの時、俺が生きて、姉さんを身代りにしてしまったのだろうと。
こんなにも幸福を振りまくことができるのに、こんなにも人生を楽しんでいたのに。
すると俺の肩に、莉乃姉が手を乗せて首を振る。
「無理するな真也、辛いなら泣いてもいいから。」
「莉乃姉……いや、俺は泣けないよ。自分のために泣くのはもう止めたんだ、悲しみに涙は流さない。」
「真也…。」
「それにさ、きっと明日は耐えられないと思うから、二日連続で泣いてたら情けないだろ?」
「でもっ………。」
莉乃姉は何かを言おうとして、でも口をつぐむ。
心配してくれてありがとう莉乃姉。
莉乃姉が隣にいてくれたから、ギリギリだけど耐えられたんだ。
もし一人だったら泣いていた、それどころか読めていたかも怪しいな。
俺も大概わかってないけど、莉乃姉だってわかってない。
莉乃姉がいてくれた三年間、一体どれほど俺に力をくれていたのかを。
でもまぁ、こういうのを口にしても仕方ないな、何より調子に乗せてしまいそうだ。
だからこの思いは胸の内に留めておくことにしよう。
いつか伝えるべき時が来るまでは。
「あぁもうこんな時間だ、ここの朝は早いしそろそろ寝るか。」
「あ、やはり農家の朝は早いのか。何時に起きればいいんだ?」
「そうだな、前に来た時は5時に叩き起こされた。つか農家が早いと言うより、あのジジイが無駄に早起きなだけだ。」
「そうなのか?」
「あぁ。それに莉乃姉は普通の時間まで寝てても問題ないから安心しろ、叩き起こされんのは俺だけだ。」
「ん?ますます解らなくなった、何が起こるんだ?」
「まぁ一緒の時間に起きれば解るさ、気が向いたら挑戦してみてくれ。」
「あぁ、そうしてみる。」
はぁ、何も予告は受けてないが間違いなく奴は来るだろうな。
………罠とか仕掛けて迎撃できないだろうか。
あれにとっては朝の軽い運動でも、俺にとっては早朝強制サンドバックタイムだ、鬱陶しいことこの上ない。
木刀でも持参すべきだったか、どうせ全力でブッ叩いても木刀が砕け散るだけだろうけど。
「それじゃ俺は部屋に戻るよ、長々といて悪かったな莉乃姉。」
「あたしも一緒に読んでたんだから気にするな、それより頼みがあるんだが。」
「ん、まぁ俺にできることなら構わないが?」
莉乃姉はやおらモジモジしたかと思うと、上目遣いで俺を見た。
「一緒に寝よ?」
「却下。」
「えぇ!?真耶には許したくせにー!」
莉乃姉が子供みたいに口を尖らせて駄々をこねる。
ったく、この姉は。
「姉さんは書いてあったように勝手に入ってきただけだ、俺は許した覚えがない!」
「じゃあ真也が寝てからならいいんだな?」
「そういう意味じゃねえ!大体それじゃ何のために部屋を分けてもらったのか解らないだろ!」
「きっと沙耶さんが夜這いプレイを楽しんでくれって気を利かせてくれたんだよ!」
そんなのが身内にいたらと思うと夜も眠れない。
「そんな気の使い方するわけあるか!」
「あの気配り上手の沙耶さんならきっと!」
「どちらにせよダメだ、頼むから大人しくここで寝てくれ。」
「むぅ、そんな顔されたら諦めるしかないじゃないか。」
莉乃姉は落ち込みつつも頷いてくれた。
すまないな莉乃姉、俺の理性を保つためなんだ。
口や態度には出さないが、やっぱり俺も男なんだって少しは気にしてほしい。
「それじゃおやすみ莉乃姉。」
「あぁ、真也もおやすみ。」
日記帳を元の位置に戻すと、俺は莉乃姉の部屋を後にする。
家の中は静かで、二人は既に眠ってしまったらしい。
もしかして五月蠅かったかもな、明日は自制しよう。
月明かりしかない薄暗い廊下。
歩けば軋む床、潮風は揺らす窓。
小さい頃はこれを不気味だと思っていたけど、流石にもう怖くはない。
夏の暑さも、ここではそれほど感じなかった。
海が近いからなのか、或いは穏やかな風がずっと吹いているからなのか。
理由はどうであれ、過ごしやすいのは助かるよな。
廊下を歩きながら、俺は自分に貸された部屋を通り過ぎる。
少し夜風に当たろう、何だかまだ眠れそうにない。
サンダルを履くと、引き戸の鍵を開けて外に出る。
そこはまるで別世界に迷い込んだかと錯覚するほど綺麗だった。
夕陽を眺めていた場所に立って眼下を見下ろす。
街灯なんて数えるほどしかない町並みは、少し先しか見えないほど暗い。
だがそんな大地を照らすのは、遥か彼方で煌々と浮かぶ蒼白い月明かり。
そして月を彩るように輝く星が、夜空一面に広がっている。
並木町もそれなりに星は見えるが、ここではそんなもの比較にもならない。
そんな美しい光の絨毯を、さざめく海が反射させている。
大自然に圧倒される、まさにそんな感じだ。
少しだけ暑さを感じるが、絶えず海からの風が吹いてくるから不快には感じない。
海と森がざわめく音だけが、この世界を満たしている。
なんか心地いい響きだな。
大きめな岩の上に座ると、暫くその音を楽しんでいた。
「寝るんじゃなかったのか?」
唐突に聞こえた声に振り返ると、そこにはパジャマにカーディガンを羽織った莉乃姉が微笑んでいた。
ゆっくりとこちらに歩いてきた莉乃姉は、俺の隣にちょこんと座ると、肩に温かな重みが加わる。
うっ、なんかいい匂いがするぞ。
視線だけを向けると、穏やかな呼吸に上下する胸とか、莉乃姉の整った顔が間近にある。
慌てて視線を外すと、強くなっていく鼓動を気づかれないように声をかけた。
「莉乃姉は何で外に?」
「着替えて窓の外を見たら、真也が丁度歩いていくのが見えたからな。」
「まだ寝ないのか?結構疲れてると思うんだが。」
「真也だって寝てないだろ?」
「俺は……なんか眠気がなくてさ。」
「ふふ、あたしもだ。長旅で疲れはあるはずなんだけどな、日記を読んでいたら眠気がなくなってしまった。真也だって同じじゃないか?」
「まぁ、そんな感じだな。」
「ふふ、なら暫く一緒にいてもいいか?」
「…別にいいけど。」
「あはは、よかった。」
莉乃姉は嬉しそうに笑うと、更に体重を預けてくる。
重いってわけじゃない、ただ凄まじく理性に悪いぞこの状況は。
伝わってくる体温も、多分髪の毛から漂ってくる女の子特有の甘い匂いも、抗えないほど官能的だ。
薄い布越しには、男のものとは違う柔らかさが密着している。
あぁもう、一緒にいるのは嫌じゃないが、せめて少しだけ離れてほしい。
これ以上心臓が激しくなると、流石に隠しきれる気がしないから。
「莉乃姉、悪いんだけどちょっとだけ離れてくれるか?」
「やだ。」
「……そうか。」
クソッ、なんだその子供っぽさは。
つか何で離れてくれないんだよ、暑いんだから寧ろくっつく方が汗ばむだろ。
「暑くないか莉乃姉、ちょっと飲み物でも持ってくるから…。」
「はいこれ、飲んでもいいぞ。」
莉乃姉はカーディガンの内側からミネラルウォーターのペットボトルを取り出すと、封を開けて俺に手渡してくる。
って、準備いいな!?
流石にもうここを離れる理由が思いつかない、万策尽きるってこういうことを言うのか。
「……ふふふ。」
「莉乃姉?」
「…あはははは、困る真也って面白いよな。」
「…この野郎。」
「ごめんな真也、ちょっと意地悪したくなったんだ。」
「何でだよ、ったく。」
溜め息を吐いて頭を掻いていると、莉乃姉が空を見上げて目を細めた。
同じように空を見やると、そこには幾千もの星々が輝きを放っている。
「羨ましいと思ってしまったんだよ。」
「何にだよ。」
「真耶に…かな。」
「姉さんに?」
「だってさ、あんなにも真也のことが大好きで、真也も真耶のことを大切に思っている。日記を読んでいる時、真也は凄く優しい目をしていた。あたしには、真也をそんな気持ちにさせてやることができない。」
「莉乃姉…。」
「あたしだって、負けてないはずなんだけどな。真耶よりも真也のことを好きでいると思っていたんだけど、あはは、やっぱり恋愛って難しいんだな。どんなボールを何度投げたとしても、受け取ってもらえなければ意味はないってことか。」
痛ましいほどに、その笑顔は辛そうだった。
涙が流れていないことが違和感に感じるほど、その笑顔には真実がない。
楽しいという感情も、幸せという感情もないのに、その笑顔は酷く綺麗に見える。
そんな表情を、俺はさせてしまった。
どう言葉をかけていいのかも判らず、俺はもう一度呼ぶ。
「莉乃姉……。」
「真也、謝罪をしようというのなら止めてほしいな。あたしはまだ負けを認めたわけじゃないし、終わったと思ったこともない。でも今真也に謝られてしまったら、そこで終わってしまうんだ。」
「………。」
確かにこのタイミングで俺が謝れば、それは振るのと同じことだ。
軽はずみに、とりあえずで言っていい言葉じゃない。
莉乃姉は膝を抱いて、より俺に密着する。
「あたしはいつまでも待っているよ、真也が答えを出してくれるのを。だけど……今夜はちょっと辛い気持ちになってしまってな、凄く寒いんだ。だから真也、暫くあたしを温めてくれないか?」
「………あぁ、俺なんかでいいのなら。」
「ふふ、真也じゃないとダメなんだよ。……ありがとう。」
それから暫くの間、俺たちは肩を寄せ合って星を眺めていた。
莉乃姉は部屋に戻るその時まで、俺の手を離さないままだった。




