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Day.6 莉乃姉注意報

 悪夢のない夜を越えたのは、もう随分と昔の出来事のように感じた。

 それこそ昨日までの二ヶ月は、殆ど寝れていないようなものだったから。

 心の辛さが軽くなったからだろう、というかそうであってほしい。

 もし違う理由ならば、思い当たることは一つだけ。

 少しだけベッドが狭く感じるのと、自分のものとは違う温もりが伝わってくることさえ無視すれば、きっと目を開けてもそこには無人の部屋が広がっているはずだ。

 もしそうなら、俺は昨日できなかった新幹線の予約も、明日からの荷物をまとめるのも簡単、夕飯くらいなら自炊したっていい。

 だが現実は結構無情で、俺の隣では柔らかい何かに俺の腕を抱きしめた誰かが、穏やかな寝息を立てて寝ているのだ。

 もう逃げられそうにない。

 こうなる前に起きなかった時点で、俺の一日は決定したんだ。

 早鐘を打つ心臓を疎ましく思いながら、俺は組み立てていた今日のスケジュールを白紙に戻していた。


 ―――長いようで短い、夏休みが始まる。




 シャワーを浴びてリビングに戻ると、テーブルには食欲を誘う匂いの料理と、鼻歌を歌う上機嫌な莉乃姉が待っていた。

 まったく、どうやって侵入したのかこの姉は。

 まだ合鍵は渡してないはずなのに、当たり前のような顔で隣に寝ていた莉乃姉。

 このマンションのセキュリティー対策に疑問を浮かべながらも、俺は大人しく向かい側に腰を下ろした。


「今日は木綿豆腐の鰹節揚げとホウレン草のおひたし、ワカメの味噌汁にしてみたぞ。どうだ、美味しそうだろう!」

「……確かに最近はコンビニ弁当ばかりだったからな、電子レンジを使わない飯は久し振りだよ。」

「やっぱり炊事してなかったか、ダメだぞそういう食事ばかりじゃ。人の温もりがある食事をしてこそ、健全な人間になるんだからな。」

「はいはい解ったよ。いいから食べよう、説教なんかで冷ますには惜しいからな。」

「…えへへ、真也にそこまで言われたら嬉しくてもっと美味いものを作ろうって気になるな。」


 とても嬉しそうな笑顔を見せて、俺に炊きたてのご飯を渡してくる莉乃姉。

 こんなできた人が、どうして俺なんかの世話を甲斐甲斐しく焼いてくれるんだろうな。

 俺のことなんかより、自分のことを優先すればいいのに。

 莉乃姉が自分の分のご飯をよそったところで、二人手を合わせて食べ始める。

 気になっていた豆腐の揚げ物を箸で摘み、口に運ぶ。

 カリカリとした食感と、かけてある出汁の旨味が口の中で弾けた。

 朝からこんなに手間をかけるなんて、俺には絶対にできない。

 莉乃姉は久し振りに美味い飯を食べて感動する俺を見て、嬉しそうに自分も食べ始めた。

 食事時は相変わらず静かだが、時折顔を上げると、微笑んでいる莉乃姉と目が合う。

 ったく、世話してもらってんのはこっちなのに、何で莉乃姉の方が幸せそうなんだか。

 そういえば、御奈坂が言ってたな。


「私たちにくらい、素直でいて下さい。」


 素直か、難しいな。

 それがどんな感情だったのかも、もう覚えていないのだから。

 思ったことを口にする、とかでいいのだろうか。

 だとすれば今の気持ちは美味いって言葉なんだが、何か違う気がする。

 もしかしてあれか、昨日の笑顔みたいな感じなのか?

 あの後もう一度笑えだの言われてどんな感覚か忘れたけど、つまりは笑えと。

 …もっと違う気がする。

 うーん、解らない。

 素直って、何だろうな。


「真也、美味しくなかったか?」

「え?」


 どうやら深く考えすぎていたらしい。

 いつの間にか俺の箸は止まり、莉乃姉が不安そうに俺を見ていた。


「いや、なんでもない。」

「…そうか、不味かったら残していいからな。」

「いや、食べるよ。」

「…うん。」


 とりあえず今はいいか、せっかく美味いのに冷ましたら申し訳ない。

 俺は冷めない内にと箸を動かし、いつもよりも早く食べていく。

 莉乃姉は不思議そうな顔をしつつも、俺に合わせるように食事を再開した。

 食べ終えた後、莉乃姉は食器を洗い始めて、俺はすることもなくぼんやりしていた。

 時刻はまだ8時を過ぎたばかり。

 予約は10時を過ぎないとできないだろうから、それまでは何もすることがない。

 真耶姉さんに会いに行くのもいいかもな、時間もちょうどいいし。

 まぁこのままだと、午後は完全に暇になりそうだが。


「真也、今日は暇か?」

「ん、急ぎの用事は一つあるけど、他は特にないな。準備もそれほど時間はかからないし。」

「ならあたしとデートしよう。」

「最近二言目にはそれだな、大体俺はそんなに暇じゃ…。」

「真也だってそうやってすぐに断ろうとするじゃないか。急ぎの用事は一つだろう、あたしも付き合えば問題ない。」


 チッ、だから初めに俺の予定を訊いたのか、迂闊だった。

 自分で忙しくないと言ってからじゃ、暇だなんて言葉が通じるはずもない。


「…はあ、逃げられそうにないな。」

「ふっふっふ、もう逃がさないと言っただろう。因みに今日のあたしは安全日だ!」

「訊いてねぇよ!んなこと知るか!」

「下着も真也が好きそうなものを新しく買ったんだぞ、それに服だってあたしのお気に入りの勝負服だ!」

「下着に好きもなにもねぇよ!」

「あるだろう!真也は派手なのが苦手そうだからシンプルなピンクの…。」

「言わなくていい!つかそういうこと恥ずかしげもなく言うなよな!」

「……恥ずかしくないはずないだろ。」

「え?」

「あたしだって恥ずかしいけど、勢いがないと言えないんだよ。できれば真也には、あたしのこと好きになってほしいから。」

「……。」


 クソッ、何だこの空気は。

 莉乃姉はキッチンで、ここからは見えない。

 おふざけだよな、多分。

 …俺が悪かったのか?

 もしかして女性があんなこと言ったらちゃんと返さなきゃいけなかったのだろうか。

 はぁ、わかるかそんなこと。

 今までは適当に流していただけなんだ、人との付き合い方なんてわからない。

 でも言い方が悪かったのかもしれないしな。


「……ごめん莉乃姉。」

「真也…。」

「言い過ぎたよ、悪かった。それにさ…えっと………。」


 心臓が急に活発になる。

 今から言おうとしている言葉に、心が反応しているのか。

 落ち着け俺、別に特別なこと言うわけじゃないんだから。


「真也?」

「俺は……莉乃姉のこと、嫌いじゃない。…今まで世話になってるし、寧ろ……好きだけど……。」


 ダメだ、顔が熱い。

 クソッ、やっぱメンタル弱いな俺は。

 キッチンに向けた背中には、ゆっくりと莉乃姉の気配が近づいてくる。

 足音が俺の後ろで止まり、静寂。

 心臓の音が外まで響いているような錯覚さえ生む、そんな静けさ。

 互いの息遣いさえ聴こえてきそうだ、もうダメかもしれない。

 だがそんな静寂を打ち破るように、突然莉乃姉が背中にくっついてきた。


「真也ー!」

「うわっ、いきなり何すんだ!」

「凄く嬉しい!あたしも真也のことが大好きだー!」

「ちょっと待て誤解だ!俺が言ったのはそういう意味じゃなくて!」

「それでもいい!真也に好きって言ってもらえた、それだけであたしは胸がいっぱいだ!頼む真也、あたしの方を見てもう一回言ってくれ!」


 莉乃姉が擦り寄ってきながら、俺の身体の向きを変えようと力を入れてくる。

 マズい、それだけは絶対にマズい。


「恥ずかしくてそんなことできるか!」

「あたしは恥ずかしくても下着の色まで言ったのに?」

「それは莉乃姉が勝手に喋ったんだろ!あぁクソッ、顔が熱い!」

「そんな顔がとっても見たいぞ!安心しろ、あたしも今物凄く熱いから!」

「それとこれとは話が違う!」

「大好きな人の恥ずかしがる顔を見たい乙女心を察してくれ!」

「そんな乙女心、絶対性格悪いだろ!大体んなもん俺に解るか!」

「もういいじゃないか!ほら、あたしの顔もきっと真っ赤だぞ、自分でもわかるくらいだ。心臓がドキドキしてて、身体の内側から嬉しさがぶわって溢れてきそう!」

「うぅ……やめてくれ、そんな台詞は。……俺までおかしくなる。」

「よし真也、一緒にこの嬉しさを分かち合おうじゃないか!さぁ!服を脱げ!」

「頷くと思ったかー!」

「むぅ、やっぱり強引にはダメか、仕方ないなぁ。」


 そう言うと、莉乃姉の重さが背中から離れた。

 危なかった、とりあえず落ち着こう。


「隙あり!」


 気を抜いた一瞬の隙に、莉乃姉が俺を押し倒してきた。

 仰向けに倒れた俺の目の前に、真っ赤な顔をした莉乃姉がいる。

 互いに無言。

 何か言おうと口を動かそうとしても、声が出てくれない。

 それは莉乃姉も同じなのか、俺と同じように口をパクパクと動かしている。

 互いの息遣いさえ、今は届く距離。

 間近で見た莉乃姉は、驚くほど綺麗な顔をしていた。

 整った目鼻も、長い睫も、少し茶色を帯びた大きな瞳も。

 そのどれもが誰かの描いた芸術品のようで、学校の男子が憧れるのもなるほどと思う。

 縺れた足はとても細いけれど、しなやかに鍛えられた筋肉で引き締まっている。

 今更のようだけれど、莉乃姉が女性なのだと改めて認識させられた。

 薄桃色の唇が揺れる。

 今まで一緒にいてくれた、もう一人の姉。

 生活の世話だけじゃなく、俺が辛いときには傍にいてくれて、俺のことを一番に考えてくれている。

 俺が自ら飛び込んだ暗闇からも、莉乃姉は引っ張り上げてくれた。

 ある意味では、命の恩人だ。

 きっと俺は、独りでいることに耐えられなかっただろうから。

 そんな人が、俺を本気で好きだと言ってくれているんだ。

 今も目の前で頬を上気させ、薄ら潤んだ瞳で俺を見ている。

 でも、俺はその気持ちに応えられない。

 少なくとも今は、まだ。

 だけど、せめて願いを叶えてあげることくらいはできる。

 俺にできる小さなことなら、何だってやってやる。

 それが、俺の恩返しの一つになるはずだ。


「莉乃姉、悪いが退いてくれるか?」

「……うん。」


 何かを期待していた瞳は、途端に悲しみの色に染まる。

 ごめんな莉乃姉、こんな弟で。

 でもさ、俺はまだこの関係でいたいと思ってるんだ。

 俺がもう少しマシになったら、そんな感情にも意識を向けられると思うから。

 莉乃姉が離れていく。

 さっきまでの元気さをなくした莉乃姉は、俺から少し離れて立っている。

 拒絶されたと思ったのだろう。

 俺にとっての二ヶ月が暗闇だったように、莉乃姉にとっても辛いものだったのだ。

 俺に拒絶された時の涙。

 あの時に感じた苦しみが、今の莉乃姉にある。

 だから、俺が近くに寄らないと。

 立ち上がり、莉乃姉を真っ直ぐに見る。

 少し怯えたような表情の莉乃姉に、俺は手を差し出した。


「デート、行くんだろ?」

「え……あぁ!」

「まぁ……できればこういうのは勘弁してほしいけど。」

「あ、あはは。でも、真也から出してくれたんだ、この手は握ってもいいんだろう?」

「ふん、好きにしろよ。」

「…良かった。」


 莉乃姉が嬉しそうに俺の手を取って、強く握りしめる。

 柔らかい掌から、確かな温もりが伝わってきた。

 不思議と落ち着く。

 長い年月の中で俺の中に生まれた、莉乃姉に対する信頼からくる安心感。

 やっぱり、莉乃姉が隣に寝ていたから悪夢を見なかったんだ。

 寝ていても、その存在が近くにいるだけで安らぐ。

 まったく、情けないだろ。

 だからこそ、甘えるわけにはいかないのだ。

 これは俺自身への戒め、でも独りになるためじゃない。

 俺が皆といるには、悪夢を克服できない程度じゃ足りないから。

 強くならなきゃいけないよな、この人を守るためにも。

 俺も、しっかりと莉乃姉の手を握り返した。

 すると莉乃姉の瞳から、一筋の涙が零れ落ちる。


「ごめんっ、強すぎたか!?」

「あ…違うんだ、そんなことない。ただ嬉しくて……またこうして真也と一緒にいられるのが、また同じ日々が帰ってきて。」


 止めどなくあふれる涙。

 でもとても綺麗な笑顔の莉乃姉には、そんな涙さえも装飾品のようだ。

 それだけ、今日までの日々が負担だったってことだよな。

 すまないと思いながら、俺は空いた方の手も繋いだ手の上に重ねた。

 伝わってくる温もりと、大きな安堵感。

 あぁやはり、俺はここに戻って来られてよかったのだ。

 それから暫く、莉乃姉は俺の手を握ったまま泣き続けた。

 落ち着いてから、顔を洗いに洗面所へと走っていく。

 何もそんなに急がなくてもいいだろうに。

 すぐに戻ってきた莉乃姉は自分の鞄を持つと、再び俺の手を握ってくる。


「さぁ、デートに出かけよう!」

「はぁ、いつもの元気が帰ってきたか。」

「何だよ、めんどくさそうな顔するな。」

「いや、めんどくさいわけじゃない。ただ今になって後悔してるだけだ、物凄く連れ回されそうだし。」

「あっはっは、後悔先に立たずだな。安心しろ、真也の用事もあるし、あたしものんびり真也と歩きたいだけだから。思いっきり遊ぶのは、やっぱり大勢がいいだろう?」


 御奈坂たちのことを言っているんだろうか、だとしたら酷い目に遭いそうだ。

 逢坂はあれでいて素は結構騒ぐの好きそうだし、峰岸なんてのは論外だ、無駄に騒ぎを大きくしそうな気がする。

 莉乃姉にいたっては言うに及ばず、御奈坂はそれを止めるというより楽しむ側だろうな。

 俺と同じく静観を決め込むのは恐らく恵恋だけだろう、完全に劣勢気味。

 はぁ、上手く逃げられないだろうか。


「ふふふ、真也。今遊ぶときは断ろうとか思っただろう?」

「なっ!?」

「真也の考えそうなことはお見通しだ!その時になったら絶対に連れて行くから、今の内から覚悟しておくように!」

「……まったく、長く一緒にいるのも考えものだな。」

「あーっはっはっは!それよりも、今日は楽しくデートしような!」


 満面の笑みで俺を見上げてくる莉乃姉。

 でも久し振りに莉乃姉と二人だし、のんびりと歩くくらいなら構わないか。

 恩返しするって決めたばかりだしな。

 俺は財布と鍵を手に取ると、二人で家を出る。


「あぁ、莉乃姉。」

「ん、何だ?」

「これ、一応返しとく。」


 俺は財布から莉乃姉自前の合鍵を取り出すと、空いた方の手にそっと乗せた。


「おぉ、自宅の鍵!」

「いやいや、莉乃姉の家じゃねぇからなここは。」

「えぇ!?もうほとんどあたしの家だろう!」

「図々しい台詞をよくもまぁ。」

「あぁすまなかった、あたしたちの家だな。」

「本気で体裁が悪すぎるから勘弁してくれ。」

「おや、真也が体裁なんて気にする柄か?」

「……確かに気にしねぇけど、夏休みだからって入り浸るなよ?」

「ふふふ、それは保証しかねるな。何しろ役員としての仕事も部活もないんだ、これはもうここに来るしかないだろう?」

「はぁ、まぁそんなことになるとは思ってたけどな。なんつーか、僅かな安息もないのかよ。」

「それは二ヶ月十分に味わっただろう、今日からはあたしと一緒だ!」

「…そりゃ、俺には似合わないくらい賑やかになりそうだな。」


 嬉々として合鍵を自分の鞄にしまう莉乃姉を見て、俺は溜め息一つ吐いて歩き出した。

 空は澄み渡るような快晴、幸いにも今日はそれほど暑くない。

 むせ返るような湿気もそれほどなく、夏にしては過ごしやすい天気だ。

 梅雨明けから段々と薄くなった服装、長袖から半袖に切り替わっていく季節。

 夏の到来を感じさせる眩い太陽が、今日も煌々と空高く昇ろうとしている。

 爽やかな風に乗って運ばれてくる緑の匂い。

 最近は行ってなかったが、今頃自然公園は深い緑に覆われているだろう。

 直射日光を遮る緑の天井があれば、実は結構涼しかったりするからな。

 たまに動物も出るからなぁあそこは、そろそろ活発に動き出しているかもしれない。

 少しだけその移り変わった景色を思い浮かべながら、空の眩しさに目を細めた。


「なぁ真也。」

「どうした?」

「あたしもさ、一緒に行ったらダメか?」


 一緒に?

 もしかして明日から行こうとしている場所のことか。

 観光に行くわけじゃないんだけどな。


「………あぁ、でも、流石に連れていくわけには。そもそも俺が何しに行くのか解ってるのか?」

「大事なことをしようとしているのは何となくわかる、だから迷惑はかけないようにする。ただあたしも、その場所に行ってみたいんだ。」

「何もない小さな田舎の村だ、楽しめるような場所はせいぜい海と山が近いくらいだな。何故そうまでして行きたがる?」

「それはもっと真也のことを知りたいからだ。」


 即答か、これは真剣なんだろうな。

 今日だって、本当はこれを言うために来たんだろうし。

 タイミング的にも、一緒に来るつもりなら今日しか時間はないからな。


「真也が考えていることを知りたい、感じていることを共有したい、辛いことを分かち合いたい。それに、その場所は真耶との想い出の場所なんだろう?真也の用事が終わってからでもいいから、あたしも一度その場所を見てみたいんだ。だけど無理なら潔く諦める。あたしは真也の重荷にはなりたくないからな。」


 俺を知るために、俺と真耶姉の想い出の場所に行きたいのか。

 ふと、ブレスレットに目が向いた。

 姉さんがいつも着けていたシルバーチェーン。

 …俺が、誕生日に贈ったものだ。

 それを姉さんは凄く喜んで、どんな時でも必ず着けていた。

 今では俺がいつも着けている。

 なぁ姉さん、莉乃姉も連れて行っても構わないか?

 あの景色を、莉乃姉にも見せてやっていいかな?

 きっと、感動するだろうからさ。


「…一人にしてほしい時もあるだろうけど、それでも良ければ構わない。」

「あぁもちろん!真也の事情が最優先だ。」

「まぁそれなら…ついてきてもいい。」

「ありがとう真也!」


 嬉しそうに抱きついてくる。


「ちょっ、歩きづらいだろ!」

「すまん、つい嬉しくてな。」

「あと、退屈になっても知らないからな。さっき言った通り何もない場所だ、暇潰しは散歩か海で泳ぐくらいしかできない。」

「大丈夫だ、あたしは真也がいれば何処だろうと楽しい!それに海があるんだろう?なら水着を持っていけば一緒に泳げるじゃないか。」

「それはまぁ……良いけどさ。泊まるのは俺の親戚の家だから、変に勘ぐられても余計なことは言うなよ?」

「任せとけ!あたしは真也の嫁だと言えばいいんだろう?」

「それが余計なことだっつうの!頼むからせめて幼馴染くらいに止めろ、間違っても冗談は言うなよ。そういうネタが大好きな人だから、面白がって赤飯とか炊きかねん。」

「ほぉ、それは素敵な人だな。でもまぁ仕方ない、残念だがご挨拶は諦めよう。」

「はぁ、そうしてくれ。」


 今までは徹底して余計な情報は喋らないようにしていたからいいものの、莉乃姉なら素直に訊かれたことを答えたとしても不思議じゃない。

 姉さんは毎回からかわれて顔を真っ赤にしていたな、懐かしい話だ。

 そんなやり取りをしている内に、気がつけば駅前に辿り着いていた。

 車や建物のエアコンの影響で、僅かだが体感温度が上がった気がする。

 太陽も眠りから覚めるように、夏の陽射しを地上へと降らし始めた。

 夏休みで多い人混みの中を、相変わらず手を繋いだまま歩く。

 …いつまでこれは繋いだままなんだろう、俺が手を差し出しておいてなんだけど。

 人が多くなっていくにつれて、段々と気恥ずかしさが増してきた。

 すれ違う人は何度もこちらを見てくるし、中には振り返る人までいるくらいだ。

 何だ、何か変なのだろうか俺は。

 確かに髪の毛はグレーだし目つきも悪いとは思うが、わざわざ振り返るほどなのか。

 あ、莉乃姉か。

 確かにこんな美人と歩いていたら人目も引くだろう、手まで繋いでいるし。

 一人そう納得して、俺たちは人混みをかき分けるようにして切符売り場に到達した。

 一番安い隣町への切符を購入して、通い慣れた場所へと向かう。

 電車に乗って隣町の駅に降りると、ここもやはり若者で溢れていた。


「ははぁ、やっぱりこういう場所に来ると夏休みを感じるな。普段はこんなに人は歩いてないし。」

「そうだな、皆初日だからって遊びに出てきてるんだろう。学生の内に遊んでおいた方がいいだろうし。」

「…真也、お前も学生だぞ?なら今の内に遊ぶっていうのに、真也も含まれるんじゃないか?」

「残念ながら俺はそういうのが苦手だ、特にしたいこととかもないからな。莉乃姉は何かあるのか?」

「あたしか?あたしはなぁ……真也とデートだろ、真也と旅行もしたいし、真也と……。」


 なんつーか、思いっきり愚問だったらしい。

 俺は呆れて溜め息を吐くと、空いた手で莉乃姉の口を塞いだ。


「解った、もう言わなくていい。」

「むぅ、何でだ!まだまだたくさんあるんだぞ!」

「いいから、それに人目が痛くなってきた。」


 俺たちからすれば幼馴染同士、と言ってもかなり過剰なじゃれあいなのだが、周りからしたらそうではない。

 すれ違う人は、公衆の面前でそういうことは控えろと言わんばかりに一瞥してくる。

 やれやれ、今後莉乃姉と外を歩くときは気をつけよう。

 莉乃姉もやっと周りの状況に気がついたようで、顔を赤くしながら黙って俯いてしまった。

 少し早足になりながら、駅に向かう賑わいの流れに逆らって歩いていく。

 やがて街並みが移り変わり田畑になったところで、俺たちは揃って安堵の溜め息を吐いた。


「むぅ、これほど人が多いと流石に息が詰まるな。」

「まったくだ、俺は生涯静かなところに住みたいね。」

「そうだな、一緒に住むなら静かな田舎がいい。」

「だからさ、何で莉乃姉の将来設計は基本的に俺が一緒なんだよ。」

「あっはっは、だってあたしは真也のお嫁さんになるんだからな!ほら、婚姻届だっていつも鞄に…。」

「そんなもん持ち歩いてんのか!?」

「当たり前だろう、真也がいつでも捺印できるように、桐生印の印鑑もここに!」


 じゃじゃーん、と効果音でも付きそうなほど嬉しそうに印鑑を取り出す莉乃姉。


「…これ、もう犯罪の域に入ってる気がすんだが。」

「まぁ、悪用はしないから安心してくれ。」

「そもそも俺のものじゃないから無効だ、それで有効になったら世の中詐欺だらけだ。」

「確かに、知らない振り込みを迫られたりしそうだな。」

「それよりも、そろそろ行くか。真耶姉が待ってる。」

「そうだな、綺麗にしてやらないと。あ、そういえば何も買ってないぞ。」

「近くに売店があるから大丈夫だろ、確か色々売ってたし。」

「そうか、ならいいな。よし、行くぞー田舎道!」


 何故か元気いっぱいに歩き出す莉乃姉。

 でも手は繋がれたままだから、自然と俺も引っ張られるようにして歩き出す。

 蝉たちの鳴き声を聞きながら、最低限舗装された道を歩いていく。

 人混みを歩いたからか、少しだけ汗ばんできた。

 でもここは遮る物がないからか、爽やかな夏の風が心地よく吹いている。

 時折吹く強い風が、二人の結んだ髪の毛を揺らす。

 長閑な田園風景を横目に、莉乃姉と無言で進んでいく。

 無言だけれど、そこに居心地の悪さはなく、寧ろ互いにこの景色を楽しんでいる感じだ。

 沈黙が苦痛じゃない相手というのは、やはり貴重だな。

 まぁ莉乃姉がこうして静かでいる方が珍しいことなんだけど、本人ものんびりデートすると言っていたからか。

 でもたまにはこうして穏やかな時間も悪くない。

 この二ヶ月ずっと独りで過ごし、何事にも興味が湧かなくなっていた。

 学校じゃ誰とも関わらず、家では勉強しかすることがなくて、一日中一言も喋らないなんてざらだったのだ。

 それこそ言葉を話す機能さえ忘れてしまったように、俺の世界からは会話が無くなっていた。

 その頃の静寂は、酷く重くて、押し潰されそうなほどきつかったのに、今はそう感じない。

 ほんの少し気持ちが変わっただけで、こんなにも世界は違って見えるのだ。

 荒んだ心ではどんな景色もただの写真のようなもので、そこには感動も何もない。

 でも暗闇から助け出されて、気持ちに余裕が生まれた。

 たったそれだけのことだ、世界を変えてしまうのは。

 こんな田舎風景にさえ心安らげるのは、今俺が安心しているからだろう。


「世界はほんの少し見方を変えるだけで、とっても素敵なものになるんだよ。」


 姉さんがよく口にしていた言葉。

 それが今はよく解る気がする。

 昨日までの俺はそんな言葉さえ忘れていたけれど、確かに素敵かもしれないな。

 少なくとも悪くはない、そう思える。

 だからこそやっぱり、俺は姉さんに謝りたいんだ。

 姉さんが素敵だと言った世界から、俺は姉さんを追い出してしまったのだから。


「真也、どうかしたのか?」

「あ……いや、なんでもないが?」

「…む、嘘を言ったってすぐに判るんだからな。……もし不安とか悩みがあるなら言え、あたしが力になるぞ!」

「あぁ、必要ならそうするよ。」

「あたしのこととか訊いてもいいんだぞ?好きな食べ物とか、好きな動物とか、好きな人とか。」

「いや、別に興味ねぇし。」

「なんでだ!?」

「訊くまでもない程度には知ってるつもりだし、最後のは聞き飽きた。」

「あたしが好きなのは真也です!」

「…はぁ。」


 この告白も最近じゃ頻度が増してきたな、何か心境の変化でもあったのか。

 そうして歩くこと数十分、俺たちは目的地の一歩手前まで辿り着く。

 緑萌ゆる椚自然公園。

 前に来た時は若葉ばかりだった木々にも、厚く力強い広葉が茂っている。

 それらは太陽の恵みを一身に受けようと、互いを押し退け合いながら大きく拡がっていた。

 そんな木々が根を張る地面の上を走り回る近所の子供たち。

 小さな水鉄砲を持ってはしゃぎながら、ささやかな水の恵みを土へと染み込ませている。

 そんな景色に顔を綻ばせた莉乃姉はというと、何故か繋いでいた手を離し、腕組みへとレベルアップしていた。

 いくら人通りが減ってきたとはいえ、流石にこれは恥ずかしい。

 さっきから傍を走り抜けていく子供さえ、こちらを見て指をさす始末だ。


「おい莉乃姉、そろそろ離れてくれ。」

「何でだ?今日はデートなんだから、腕を組むくらい普通だろ?」

「そりゃそうかもしれねぇけど、別に組むまではしなくてもいいだろ。」

「それじゃ真也の腕に胸を当てられないだろう!」

「そんなことをわざとすんじゃねぇ!」

「なんだ不満か?あたしはそれなりに大きいはずだぞ!というか、朝も堪能したんだからわかるだろ?」

「うるせぇ変態め、莉乃姉が勝手にやったんだろ!」

「変態とは失礼だな、あたしは真也が喜ぶと思って、恥ずかしいのを我慢して頑張ったのに!」

「はぁ…別に喜んでないからもうしなくていい。」

「むぅ、真也はもう少し欲望に忠実でもいいと思うぞ!真也が狼になったのとか……うふふふふ。」


 あ、何か一人で悦に入りだした。

 周りの子供たちが不思議な物を見るような目で、莉乃姉のことを遠巻きに眺めている。

 マズいな、精神教育上もあまり良くない気がするし。

 俺は顔を赤らめて妄想を始めた莉乃姉を引っ張って、急ぎ自然公園を抜けていく。

 景色を楽しむ暇なんてありゃしない、結局莉乃姉が穏やかな時間なんて送らせてくれないじゃないか。

 いつもはしっかり者の姉が、俺のこととなると性格が急変するからな。

 中学の頃はあんな色仕掛けとかしてこなかったのに、今じゃ日常茶飯事になってしまった。

 ……そろそろ俺だって精神衛生上きついんだけどな、悟らせたら危険だろう。

 俺が何も感じてない風を装えば、とりあえず暫くは攻勢も緩むだろうし。

 ふと気がつけば、もう公園も終わりが近づいていた。

 自然公園が広がる山の裏側、その斜面に霊園は広がっている。

 その中腹辺りに、桐生家之墓はあるのだ。

 俺たちは下の売店で花とお供え物を買って、墓石を掃除する道具は霊園の管理所で借りた。

 流石にここに来ると、莉乃姉の顔から緩みがなくなる。

 腕はもう組まれていない。

 俺は借りてきた猫みたいに大人しくなった莉乃姉に買ったものを預けると、桶に水を汲みに行く。

 階段の下に備えつけられた水道から、透明な水が桶に向かって流れだす。

 胸が痛む。

 どれだけ表情はそのままにできても、ここに来ると泣きそうになってしまう。

 真耶姉さんと両親の死を認めなければならないから、それが俺の心を締めつけるんだ。

 変わらない日々よりも、新しい楽しさを毎日感じたいと願っていた姉さん。

 仕事ばかりだったけど、姉さんがいなくなってからは今までのことを償うように関わりだした両親。

 別に嫌いだったわけじゃなくて、ただ仕方がないのだと諦めていた。

 姉さんは俺にもっと甘えてもいいのだと言っていたが、そんなこと、とうに方法さえ忘れてしまっていたのだ。

 頼れるはずの両親は家にいないし姉さんは天然だったから、せめて俺だけは冷静でいなくちゃと考えるのは自明の理という気がしなくもないが。

 でも確かに俺は、記憶をどう振り返ってみても、他人に甘えた覚えがないのだ。

 どんな人の輪の中にも入らず、常に一歩離れた所から冷静に周りを観察する。

 何を考えているのか解らない。

 そう拒絶するように叫ばれたのは、一体いつのことだったのか。

 水の溜まった桶を掴むと、莉乃姉の待つ場所へと戻る。

 大人しく、というより寂しげに待っていた莉乃姉を促して、二人で目的の区画に歩き出す。

 石畳を歩く二組の靴音が、妙に響く。

 広く開放された空間であるのに、ここはまるで外界から遮断された世界みたいに静かだ。

 多くの死者が眠るに相応しい静寂。

 耳に聞こえるのは風の音と、森から流れてくる鳥たちの合唱くらい。

 そんな中、何を話そうか考える暇もないまま、俺たちは俺の名字が刻まれた墓の前に立っていた。

 互いに暫く無言。

 きっと莉乃姉も何を言おうか考えているんだろう。

 目を伏せて、手を合わせて黙祷する。

 姉さん、久し振り。

 もう二ヶ月くらいここには来てなかったよな、サボって悪かった。

 実はずっと腐っててさ、危うくおかしな道に外れるところだったんだ。

 でさ、今日は報告と…我が儘を言いに来た。

 俺さ、また皆と一緒にいることにしたよ。

 本当はそんな資格も価値も俺にはないし、罪は全然償えてない。

 でも、言い訳がましくなるけど、聞いてほしいんだ。

 莉乃姉と、今日ここにはいない四人の人間。

 そいつらがさ、俺のために無茶をしたんだ。

 学校全部を巻き込んで、たった一人のために。

 涙が出るかと思ったよ。

 俺なんかのためにそこまでしてくれる人間が、姉さん以外にいると思わなかったから。

 それでさ、そいつらが言うんだ。

 もっと素直になれ、お前は独りじゃないんだって。

 まるで姉さんみたいだろ?

 どれだけ冷たくあしらっても、ずっと傍にいようとするんだ。

 本当に、いい奴らだよ。

 俺なんかには勿体ない、そう思ってしまうほどに。

 だからさ、俺も覚悟を決めようと思う。

 優しさから逃げてばかりじゃなくて、その優しさに応える覚悟を。

 そして、いつか恩返しがしたい。

 罪の意識に押し潰されてダメになっていた俺を救ってくれた、その恩返しがしたいんだ。

 どれだけかかるのか見当もつかないけど、借りたもんは返さないとな。

 だから真耶姉、もう少しだけ待っててくれるか?

 これは俺の我が儘で、どうしようもなく身勝手だ。

 この命は姉さんに生かされたものなのに、それをほんの少し、あいつらのために費やそうとしてる。

 姉さんのものを勝手に使うだなんて、正直最低の我が儘だって解ってるんだ。

 だからごめん、俺は卒業までの一年半、この命をあいつらのために使う。

 姉さんへの罪滅ぼしは、その後から一生懸命にするから。

 今まで我が儘なんて言ったことなかったら、できれば許してほしい。


―――もちろん、しんやのわがままならなんでもきくよ。




Rino Side


 真耶、久し振りだな。

 最後に来たのは真也と緋結華がいた時だったか、遅れてすまない。

 そうだな、今日は報告と…宣戦布告に来た。

 うん、やはり真耶と闘うなら正々堂々とって感じだし。

 ……まぁ、今のお前にこういう戦いを挑む時点で、最低だとは思っているよ。

 さぁて、それよりもだ。

 お前の弟は大変だな、すぐに自分が悪いと思い込んで背負い込む。

 真耶だって、真也を恨んだりしているわけないのにさ。

 だって、真耶は真也のことが好きだっただろ?

 弟としてではなくて、一人の男として。

 それは何となくわかってたよ。

 だって真也と一緒にいる時のお前は、いつも本当に幸せそうだったからな。

 それが羨ましくて、一時期は嫉妬もしていた。

 でも、お願いだから間違えないでほしい。

 あたしだって、真耶と一緒にいた時間は最高に幸せだったんだ。

 真也と真耶とあたし。

 三人で遊んだ日々も、一緒に行った旅行も、全部かけがえのない思い出だ。

 いつでもあたしたちは一緒だったのに、今お前はこうして、一つ隔てた場所にいる。

 ……っ、なんでだろうなぁ。

 もう、一緒に笑い合うこともできないのか。

 あたしには兄弟もいないし、両親だって…まぁあれだからな。

 だからお前たちのことは本当の弟と妹みたいに思ってたんだぞ、それなのに…。

 ……あぁ、ダメだなあたしも。

 真也と同じくらいに、あたしもきついんだよ。

 こいつは顔に出さないけど、きっと心の中はズタボロなんだろう。

 お前のことを御奈坂に話した時だって、真也は全然泣かなかった、そんな素振りさえ隠していたんだ。

 自分が泣いたらあたしも泣いてしまうと思ったんだろうな、そんな時まで気を遣われてしまった。

 まぁ結局、あたしが先に泣き出してしまったんだが。

 でも最近まで、真也はずっと独りになろうとしていたんだ。

 何を思ったのか、それは解らなかった。

 でも、今真也を独りにしてしまったら、真也が壊れてしまうってことだけは解ったんだ。

 だから頑張ったよ、退学覚悟でな。

 緋結華も冴塚も逢坂も、峰岸さえ協力してくれた。

 でも一緒に色々と考えていてわかったことがある。

 真耶、あたしたちだけじゃないと思うぞ、何がとは言わなくても解るだろう?

 まぁ、そこは真也に任せるしかないけどな。

 でも、頑張った甲斐があったよ。

 こうしてまた、一緒にここに来ることができたんだからな。

 もうあんな風に真也を独りにしないぞ、それだけは任せてくれ。

 あたしは真耶と真也の姉として、真耶の分まで真也の面倒を見ると決めたんだからな。


―――ありがとう、りのねえさん。


Rino side END




「今…。」

「…声が聞こえた。」


 俺と莉乃姉は、驚いた顔で互いを見た。

 いつも大事な決断の時に聞こえてきた真耶姉さんの声が、莉乃姉にも聞こえたのか。

 なら、空耳じゃなかったのかもしれないな。

 案外、すぐ近くで見ていてくれているのかも。


「真也…今、真耶の声が聞こえた気がした。」

「奇遇だな、俺も聞こえた気がしたよ。」


 莉乃姉は信じられないと言った顔で、じっと俺の目を見ている。

 俺は墓に目をやり、そっと目を閉じた。


「ありがとう。」

「あたしも、ありがとう。」


 二人で頷いて、墓石を綺麗に掃除し始める。

 今日は一人でやろうとしない、手伝ってもらえるならそうしよう。

 借りてきたブラシで細かい汚れを落としながら、胸の痛みが和らいだことに気づいた。

 やはり、あの声は落ち着くな。

 それがどんな感情によるものなのか、いい加減気がついてはいる。

 でもそれを言葉として口にするのは、ただの一度だけだと決めているのだ。

 その言葉に対する答えは決して返ってこないけど、それでもいい。

 俺はただ、自分の想いに決着をつけに行く。

 姉さんの出した答えへの、俺の回答を。

 墓石の掃除を終えると、買ってきた花を供え、姉さんの好きだったお菓子を墓前に置く。

 色とりどりの金平糖。

 このトゲトゲした砂糖菓子が、姉さんのお気に入りだった。

 自分の元気がない時とかに食べると、その甘さが元気をくれるというのだ。

 姉さんと一緒にいる時はよく勧められて食べていたが、最近ではめっきり食べなくなったな。

 別に嫌いだったわけでもないけど、きっと無意識に避けていたんだろう。

 姉さんが好きだったものを食べたら、それこそ思い出してしまうから。

 でも、今なら食べられるかもしれないな。

 俺たちは一歩後ろに下がると、もう一度手を合わせて祈る。

 せめて安らかなる眠りを、と。

 黙祷が終わると、俺は金平糖の袋を手にしてビニール袋にしまった。

 いくらお供え物とはいえ、こういうものを置いて行くわけにはいかないからな。

 まぁ、帰ったら緑茶と一緒に食べることにしよう。

 ……家に緑茶があるのかすら知らないけれど。

 そもそも、急須はあるのだろうか。

 …そろそろ最低限の家事を覚える必要がありそうだ。

 借りていた桶と掃除道具を管理所に返すと、静かに元来た道を戻り始める。

 霊園から離れ、何もない田舎道に入ったところで莉乃姉が口を開いた。


「さて真也、これからどうするんだ?」

「ん、予定通り新幹線の予約しに行くけど?」

「あぁ、そうだったな。では椚駅前に行くのか?」

「帰り道だし丁度いいだろ、駅の中の窓口で予約できるからな。明日の席が取れるかはわからないけど。」

「…あ。」

「ん、どうした?」

「予約って、前払いなのか?」

「そりゃそうだろ、予約というよりは指定席の券を予め買っておくだけだからな。…もしかしてあんまりかねないのか?」

「…あはは、あたしとしたことがうっかりだ。」


 ついていきたいって言いにきた割には、そのための準備とかしてないのかよ。

 まったく、時々抜けてるなこの莉乃姉は。


「まぁいいや、余分に持ってきてるし、二人分くらいはどうにかなるだろ。」

「ホントか!?ありがとう真也!今度絶対に返すから。」

「ま、余裕がある時でいいさ。それより二人分買ったら流石に財布が軽くなるし、この後何処かに遊びに行く予定だったなら無理だぞ。」

「あぁそれは心配ない、そんなつもりはないから。言っただろ?あたしは真也と一緒なら何処でもいいんだ。まぁ欲を言うなら、できれば二人きりのところが…。」

「それは俺が嫌だ、何されるかわかんねぇし。」

「何を言う!あたしが真也に何をした!ただちょっとあたしの色気で落ちないかなーとか思っただけだぞ!」

「…ったく、恥ずかしいから止めてくれよな。そういうのは、俺以外のまともな男にしてくれ。」

「まったく、真也はわかってないな。あたしは真也にしかこういうことはしないし、生涯するつもりもないぞ!」

「はいはい、わかったよ。」

「こらー、はぐらかすな―!」


 先に行こうとする俺の後ろから莉乃姉が怒りながらついてくる。

 さて、無事に買えるといいのだが。




「明日の10時24分からのチケットお二人様でよろしいですね?」

「はい、それでお願いします。」

「承りました、ではお会計がお二人様で8800円になります。」


 財布から下ろしてきた諭吉を一枚取り出すと、窓口の女性に支払いを済ませた。

 代わりに受け取る切符が二枚、空いていてよかった。

 観光シーズンだし、自由席とはいえ絶対とは言えないからな。

 チケットを手にすると、礼を言ってその場を離れる。

 莉乃姉は後ろから終始興味深げにそのやり取りを観察していた。

 駅の中を歩きながら、莉乃姉が俺から渡されたチケットを何故か楽しそうに眺めている。


「何をそんなに見てるんだ、面白くもないだろうに。」

「いやいや、あたしは新幹線の予約なんてしたことないからな。乗ったのも中学の頃の修学旅行くらいだし。」

「あぁ確かに三年の時に乗ったな、確か京都だったか?」

「うむ、実に雅な都であった。やっぱり日本の神髄は京にありって感じだな!」

「あぁ、確かにあの甘酒は美味かった。」

「それはあんまり関係ない気が…って酒を飲んだのか!?ダメだぞ、未成年の飲酒喫煙はご法度だ!」

「いや、甘酒っつってもアルコールの入ってない子供でも飲めるやつだぞ。」

「あ、それならいいな。あたしは生八つ橋が気に入ってたくさん買った覚えがあるよ。」

「覚えてるさ、大量の生八つ橋の箱を抱えて玄関先に立っていた莉乃姉の姿をはっきりとな。」

「…なんか酷く間の抜けた光景じゃないかそれじゃ。」

「あぁ、知り合いだと思われたくなかったくらいだ。」

「そんな風に思ってたのか!?あたしのなけなしのお小遣いをほとんど投入したのに!?」

「美味いことは認めるが、そんなに買い込むほどのものか?」

「む、そんなこと言う真也にはもう旅行してもお土産なんて買ってやるもんか。」

「あぁ、それで構わないが?」

「真也はすぐにそうやって話を終わらせようとするな。」

「はぁ?じゃあどう返せばいいんだ?」

「もっとこう、えぇーそんな悲しいこと言うなよー、とかどうだ。」

「……うわ。」

「今の反応が一番傷ついたぞ。」

「悪かったよ。それよりこれからどうすんだ?知っての通りあまり持ち合わせはないぞ。」

「うーん、そうだなぁ。」


 莉乃姉は顎に手を当てながら、色々と行先を思案し始める。


「そうだ、言い忘れてたけど、帰りに恵恋の家に寄るからな。」

「冴塚の家?何でまた。」

「夏音を預かってもらってた間の食費とか渡さなきゃいけねぇし、暫く向こうに行くならもう少し預かってもらう必要があるだろ。だからそれも頼みに行く。」

「そうか、ならこの辺りでデートした方がいいのか。……そういえば、冴塚とはよく会うのか?」

「は?いや、あまり会わないぞ。最近は路地裏の喧嘩も減ってきたし、病院にも顔を出してないからな。」

「ふーん、そうなのか。」


 莉乃姉は納得したような安心したような、そんな不可解な笑みを浮かべて頷いた。

 なんだ、恵恋がどうかしたのだろうか。

 というか、同じ生徒会同士だったんだし莉乃姉の方があいつに詳しそうなものだが。

 まぁいいか、考えても仕方ない。


「話が逸れたな、結局どうする?」

「真也は何処か行きたいところとかあるか?」

「俺がその答えを持ってないことくらい何となくわかんだろ。」

「ははは、訊いてみただけだ。あ、行きたいところあったぞ。」

「ふうん、何処だ?」

「ゲームセンター!」

「…元生徒会長兼風紀委員長の口からとは思えない発言だな。学生の無暗な出入りは禁止じゃないのか?」

「夕方までなら大丈夫だ、入り浸っているわけじゃないしな。いやぁ、まだ一度も入ったことなくてな、興味があったんだよ。」

「マジかよ、今時の学生にしては天然記念物ものだな。」

「どんな場所かは流石に知ってるんだが、実際に入ったことがないんだ。一人では入る気になれないが、真也がいれば安心だろう。」

「俺自身も全然行かないしお勧めもできないが、まぁものは試しだな、ここをいつまでもうろつくわけにもいかないし。」

「うん、合わないようならすぐに出ればいいさ。さぁ、行くぞ真也!」


 莉乃姉が俺の手を取って歩き出す。

 目指すのは駅前にあるビルの一階で営業しているゲームセンター。

 昼間は結構近くの学生たちが遊んでいたりするが、夕方以降は俺が会いたくない連中がたむろしている場所だ。

 正直行きたくはないのだが、まぁ少しくらいなら大丈夫だろう。

 夏休みで一般人が多くいるなら、遭遇してもそう大事になる前に逃げられるだろうし。

 流石に莉乃姉が一緒にいる状態で、あいつらとやり合うつもりはない。

 勝ち負け以前に、莉乃姉を危険な目に遭わせたくないからな。

 もし遊んでいる最中にそいつらを一人でも発見したら、やんわり別の場所に誘導しよう。

 そんなことを内心で考えながら、俺たちは多くの若者で賑わうゲームセンターに足を踏み入れた。

 自動ドアが開いた瞬間から響く音。

 まるで衝撃波みたいな大音量が、四方八方から鼓膜を揺るがす。

 でも適度に効いた冷房は、薄ら掻いた汗には心地よかった。

 でもやっぱりここは苦手だ、無駄に騒がしいのは気分が悪い。

 ここは幸い禁煙だから空気は淀んでいないが、やはり狭い空間にこれほどの人数が、それも白熱しているとあれば息苦しくもなる。

 こんな騒音の中によくいつまでもいられるものだと感心しなくもない、まるで凄いとは思わないが。

 そんなゲームセンターを見渡して、面倒な連中がいないことを確認する。

 ……とりあえず大丈夫そうだな、さて、莉乃姉は…。


「おぉ、なんか凄いなここは!」


 好奇心旺盛な子供のようにはしゃぐ莉乃姉が隣にいた。

 初めてだから楽しみなのは解るが、本当に無邪気に笑うなこの人は。


「なぁ真也!どれが面白いんだ?」

「あ?……あぁ、そうだな…あれなんかどうだ?」


 俺が指差したのは、大小様々なぬいぐるみを取れるUFOキャッチャーだ。

 あれならゲームに慣れてない莉乃姉でも楽しめそうだし、上手くいけば景品も手に入るしな。


「あれか!よしっ、行くぞ真也!」


 我慢できなかったのか走りだす莉乃姉。

 はぁ、目を離した隙にいなくなりそうな勢いだな。

 俺は溜め息を吐きながら、既に幾つかのウィンドウを覗き込む莉乃姉の傍まで歩いていく。

 隣に並ぶと、莉乃姉は所狭しと並ぶぬいぐるみの山を楽しそうに眺めていた。


「なぁ真也、これはどれでも取っていいのか?」

「ん、構わないぞ。まぁそう簡単に取れるようにはなってないけどな、とりあえずやってみたらどうだ?」

「うむ、そうしてみよう。100円でいいのか?」

「あぁ、これはそれで大丈夫だ。因みにどれを取ろうとしてるんだ?」

「あれだ!」


 莉乃姉が指さしたのはドングリを抱える真っ白いリスのぬいぐるみだった。

 大きさも小さいし、位置もそんなに悪くないな。

 でも…。


「莉乃姉にしては妙に可愛らしいもん選んだな。」

「真也はあたしに対してどんなイメージだったんだよ。」

「どちらかといえばカッコいい物が好きなのかと思ってた、ライオンとかヒョウとか……ネコ科の動物だな、そんなイメージ。」

「あぁ、あたしは好きだぞそういうのも。でもな、あたしだって女の子だ、そりゃ可愛いものだって欲しいさ。」

「そりゃ悪かったな、なら頑張って取ってくれ。」

「因みに真也、これにはコツとかあるのか?」

「コツ?さぁな、俺はあまりこういうとこには来ないから。」

「そうか、なら自力でやるしかないな。」


 そうそう、まずは自力で頑張ってみた方がいいさ。

 この手のゲームははまると散財だからな、適度なところで取らせて止めさせよう。

 莉乃姉は財布から100円玉を取り出すと、妙に丁寧にそれを投入口に入れた。

 音楽が鳴り始め、右向きの矢印が描かれたボタンが白く点滅を始める。

 流石にやり方くらいは知っていたようで、莉乃姉は慎重にそのボタンを押した。

 でも一瞬しか押さなかったせいで、アームはわずかに動いただけ。


「…あれ?」

「……く。」

「真也、今笑っただろ。」

「それな、押している間しか動かないぞ。」

「それを先に言えー!あぁ、これじゃ絶対取れないじゃないか。」

「とりあえず手近なやつでも練習がてら狙ってみたらどうだ?」

「むぅ、そうするか。」


 半泣きになりながらも、今度はしっかりボタンを押しっぱなしにして動かす。

 一番近くにあった変なウサギのぬいぐるみの上で停止させると、アームがそれを掴もうと腕を広げる。

 だがあっさりと取り逃したアームは、元の位置に戻って、何も掴んでいない腕を広げた。


「取れないぞ!?」

「今のは仕方ないさ、今度は欲しいやつをちゃんと狙ってやってみろよ。」

「うん、そうする。よし、今度はちゃんと狙うぞ。」


 言われたことはきちんと守り、ボタンをしっかりと押し込んで操作する莉乃姉。

 モーターの回る音とともに、UFO型のアームが右に動き始める。

 莉乃姉は丁度白いリスの正面にアームが来たところで、押していたボタンを放した。


「…ふぅ。」

「へぇ、随分慎重じゃないか。」

「初めてだからな、いくらあたしでも慎重になるぞ。それにしてもこれ、凄くドキドキするな。」

「そうか?初めてだからだろう、リラックスしてやれよ、ゲームなんだから。」

「む、確かにそうだな。よし、頑張って取るぞー!」


 気合を入れ直し、今度は上向きのボタンを押す。

 ゆっくりと移動していくアームを食い入るように見る莉乃姉が面白くって、俺はつい笑みを零していた。

 まさかこんなに本気で楽しむとは、造った業者が見たらさぞかし喜ぶことだろうな。

 時折何かに突っかかるような動作をしながらも、アームは白いリスの真上で停止した。

 そのままワイヤーで吊るされたアームが、ゆっくりと腕を開いて降りていく。


「おぉ、これは取れるのか!?」

「さて、どうだろうな。」


 アームは白いリスに覆い被さるように降りきると、そのまま細い腕を弱々しく閉じていく。

 あぁ、これはダメか。

 腕はあっさりとリスを取り逃し、何も掴まないまま上へと上っていく。


「ぬあぁぁぁ!取り逃した―!」

「いや、そんなに騒ぐなよ。」

「おかしいぞ真也、あたしの位置取りは完璧だったはずだ!なのに何故取れない!あの蟹の鋏みたいなやつ弱すぎるぞ!」

「そんな簡単に取れたらゲームにならないだろ、ぬいぐるみだって幾らあっても足りないさ。」

「くぅぅ、もう一回だ!」


 今度は素早く財布から小銭を取り出すと、叩き込むように投入口に入れた。

 負けず嫌いが出てきたな、これは長くなりそうな予感。

 早めにコツを教えるべきなんだろうが、もう少しこのテンションの莉乃姉を見るのも悪くない。

 再び動き出したアームを、今度は真面目な表情で凝視している。

 さっきと同じような位置に止まったアームは、同じようにぬいぐるみを取り逃す。


「何でだ!?真也!ホントにコツとかないのか?」

「あるに決まってるだろ、じゃなきゃいつまでたっても取れねぇよ。」

「そうか…ってえぇ!?さっきは知らないって言ってたじゃないか!」

「何事もまずは自分でやってみないとな、いきなり取れたら莉乃姉際限なくやりそうだし。」

「…否定できない所が悲しいな。仕方ない、取れたら止めにするよ。だからコツを教えてくれ。」

「まぁそれなら構わないぞ、欲しいの取れたらそれで終わりだ。んじゃまずはアームの腕の方を開き切ったら丁度ぬいぐるみの真上に来るように動かしてみな。」

「腕を?解った、やってみる!」


 莉乃姉が操作するアームが、リスの位置よりも少しだけ左側で停止する。

 そのまま奥に移動させ、停止したアームが腕を開いた後ゆっくりと降りていく。

 お、これはなんか上手くいきそうだな。

 広げられた腕が下りていき、リスの顔面を思いっきり押し潰した。


「なぁ真也、これは結構酷いのでは?」

「取りたいのなら我慢しろ、取った後で莉乃姉が整えてやればいいじゃないか。」

「うん…まぁそうだけどさ。」


 腕に押されたリスは他のぬいぐるみを押し退けて、積み上げられた山の上から転がり落ちた。

 ついでに、同じ顔をした灰色のリスも巻き込んで。

 取り出し口に、二匹のリスが揃って落ちてくる。

 莉乃姉はそれを取り出すと、両手に持って俺を見た。


「よっしゃーーー!取ったぁー!どうだ真也!」

「へぇ、よかったじゃないか。しかも二つも。」

「うふふー、取れると凄く嬉しいなこれは!うぅー、可愛いなこれ。」


 眩しいくらいの笑顔でぬいぐるみを頬に押しつける莉乃姉。

 ま、初めてにしてはいい結果だな。

 すると莉乃姉は、灰色の方のリスを俺に向かって差し出してきた。


「ん?」

「真也にあげるぞ、お揃いだ!」

「いや、俺は別にいらねぇし。」

「いいじゃないか、あの寂しい部屋に飾れば少しは彩りがあって。」

「灰色じゃ目立たないと思うがな。」

「もう、素直に受け取ってくれてもいいだろ。あたしからのプレゼントだ。」


 半ば強引に手渡されたぬいぐるみ。

 柔らかい毛並みに覆われたリスは、プラスチックの瞳に俺を映している。

 まぁいいか、適当な棚に飾るとしよう。

 ぬいぐるみから顔を上げる。

 そこには幸せそうにリスを眺める莉乃姉。

 だがゲームセンターの奥、そこに見えた集団に俺は緩んだ気持ちを切り替えた。


「…莉乃姉、そろそろここを出よう。」

「え、もう出るのか?」

「あぁ、やっぱり俺は騒がしい中にいるのがちょっとな。」

「そうだったのか、それは悪かった。なら早く出よう、真也が辛いのはあたしも嫌だ。」


 ごめんな莉乃姉、でも嘘は言ってないから。

 莉乃姉に連れられるようにして、俺たちはゲームセンターの外に出た。

 騒音から解放され、同時にむわっとした熱気が俺たちを包み込む。


「うへぇ、やっぱり外に出ると暑いな。」

「夏だからな、でも今日はまだマシな方だと思うぞ。」

「そうだな、これくらいなら我慢できる。」

「それよりも、悪かったな。あまり遊ばせてやれなくてさ。」

「いいや、あたしはこれだけでも満足だ。それにあたしも、五月蠅すぎるだろうとは思っていたんだ。」

「そうか。……少し疲れたな、何処かで休憩するか?」

「あ、やっぱり苦手な場所は辛かったか?」

「莉乃姉が気にするほどのことじゃないさ、歩きっぱなしだし少し座りたいだけだ。」

「うん解った、なら何処かの喫茶店に入ろうか。」


 莉乃姉は俺の手を自然に取ると、駅とは逆の方に歩いていく。

 賑やかな駅前から少し離れると、レストランが立ち並ぶ飲食街になる。

 お洒落なカフェや、通り沿いにはファミリー向けのレストラン。

 洋菓子や和菓子の店もあったりするから、意外にここも人が多い。

 俺も莉乃姉がいない時などは利用したこともあるし、それなりにいい店も多いから暇があると散歩に来ていたりする。


「莉乃姉は何か食べたい物とかあるか?昼も近いし、少し早いけど昼食にした方がいいだろう。昼になったら混み始めるだろうからな。」

「おぉ、それがいいな!あたしは和食が食べたいんだが、真也もそれでいいか?」

「和食か、ならいい店を知ってるからそこにしようか。」

「お、真也はこの通り御用達か?」

「莉乃姉が忙しくて来れなかった時とかに来たりはしてたよ、安くて結構美味いぞあそこは。」

「真也のお勧めなら楽しみだ、そこにしよう。」


 嬉しそうに俺の顔を覗き込む莉乃姉は、俺の腕を抱きしめながら隣を歩く。

 俺の腕には、莉乃姉の胸が押し当てられている。


「あのさ莉乃姉…わざとか?」

「うっふっふ、わざとだ。一応あたしの自慢の一つなんだぞ。」

「自慢なのは結構だが、俺に押し当てるのはやめてくれ。」

「…はぁ、真也は本当にからかい甲斐がないよな。もう少し顔を赤らめたり慌てたりしてくれてもいいだろう。」

「そんなことしたら莉乃姉が調子に乗ってもっとやるだろ?」

「う……あたしの魅力では真也は落ちないと?」

「あのなぁ、落ちたら色々とヤバいだろうが。」

「そんなことないぞ、あたしは真也なら安心して任せられるしな。他の男だったらダメだ、手を繋ぐのも躊躇うぞ。」

「…そういうことをマジに言われるのに慣れてないんだ、せめて人の少ない場所にしてくれ。」


 段々と顔が熱くなっていくのを感じる。

 ったく、俺は素直な言葉に弱いのか。

 莉乃姉はそんな俺を見て、何故か自分まで顔を赤らめ始める。

 互いに無言で地面を見ながら、俺たちは件の和食料理の店に向かう。

 飲食街の奥の方、人気の少ない路地裏にそれはある。

 “十六夜”と彫られた木の看板と、長い暖簾で隠された引き戸。

 まさに隠れ家といったような店だ、おまけにほとんど人通りもない。

 料理店と言っても本格的なものではなく、和風の喫茶店といった風体の店だ。

 流石に利用しやすさを考慮してか内装は普通に洋風の木造だが、出てくる料理や飲み物に和風のものが多い。

 俺は以前ここを見かけてから割と常連となっていた。


「着いたぞ、ここだ。」

「おぉ!あたしこのお店好きだ!」

「いや、まだ入ってないだろ。」

「この外装が素敵だ、何だか入る前からドキドキするぞ!」


 それに関しては同感だ、俺も同じだったからな。

 初めてこの店を見つけた時、確かに俺は妙な興奮を覚えていた。

 まるで吸い寄せられるような不思議な魅力が、この店からは漂ってくる。

 表の通りから離れていて静かだし、俺にとってはうってつけの環境だ。

 ワクワクして笑顔が止まらない莉乃姉を引き連れて、俺はカラカラと音の鳴る引き戸を開けた。

 石畳の床と、木でできたテーブルとイス。

 優しく風鈴が鳴り、涼しさを感じさせる。

 カウンター席の向こうには、背の高い女性が何かの下準備をしていた。

 美しく、背中まで届くほどの艶やかな黒髪。

 毛先の方でそれをゆったりと結んでいて、小さな鈴が揺れていた。

 顔は穏やかな笑みに包まれていて、驚くほど整っている。

 俺は初めこの人が、絵画の中から出てきたのかと思った。

 単純すぎる言い方だけれど、本当に美人だ。

 そんな彼女が俺たちに気がつくと、花のような微笑みを浮かべて話し掛けてきた。


「あら、真也くんじゃない。こんにちは、久し振りだね。」

「あぁ、久し振りだな空さん。」

「うふふ、相変わらずカッコいいね。後ろにいらっしゃるのはどなた?」

「は、初めまして!あたしは小湊莉乃と申します!」

「わぁ、綺麗な人ね。私は水無月空(みなづきそら)って言います、よろしくね。ねぇ真也くん、莉乃ちゃんって前に言ってたお姉さん?」

「あぁそうだよ、幼馴染の姉さんだ。」

「素敵なお姉さんだね。」


 にこにこと嬉しそうな笑みを浮かべる空さんと、緊張で固まっている莉乃姉。

 まぁ、気持ちは解るぞ莉乃姉、俺も最初はそうだった。

 水無月空。

 和風カフェ十六夜(いざよい)の女性店主であり、実は俺の後見人を務めてくれてる家族の娘さんだ。

 実家で採れた農作物を使った料理を出していて、そのどれもが優しい味つけをしている。

 俺は後見人の人から来た手紙でこの店の存在を知り、時折夕食を食べに来たりしていた。

 だけど、この店の魅力はそこじゃない。

 この人の笑顔は、人を魅了する。

 今の莉乃姉も、その笑顔に魅せられているからな。

 そもそもそれが理由で、この人はこんな静かな場所に店を構えているんだし。

 あまりにも交際を求める人が多すぎて、知り合いのいないこの土地で、しかも路地裏に店を構えるということをしなければならなかったほどらしい。

 店としては本末転倒だが、そんな眉唾みたいな話も何故か納得がいくのだ。

 大人びているのに、妙に無邪気な笑みを浮かべることができる人。

 大人のような子供、子供のような大人。

 澄んだ鈴の音色のような声とも思えるし、小川のせせらぎのような穏やかさも感じる。

 雑音のない、透明な音を聞いているようだ。

 そんな全てをひっくるめて、この人には綺麗な人という表現が相応しいと思う。

 空さんはしていた作業を止めて、わざわざエプロンを外しながら俺たちの方へ歩いてきた。


「私もちょうど昼食にしようと思ってたんだ、一緒に食べてもいいかな?」

「あぁ、俺は別に構わないけど。」

「あたしもっ、ご一緒したいです!」

「あはは、ありがとう莉乃ちゃん。なら用意しちゃうから、真也くんは準備中って看板を出しておいてくれる?」

「ん、わかった。」


 俺は棚の中にしまってあった紐付きの板を取り出すと、引き戸の金具にそれを引っかけてきた。

 空さんは調理台の方に戻ると、エプロンを着けて調理を開始する。


「空さん、今日は何を作ってくれるんだ?」

「ふふ、今日は蒸籠(せいろ)ご飯だよー。」

「う、いきなり差を見せつけられた気がする。」

「結構簡単に作れるから、もし良かったら教えてあげるよ莉乃ちゃん。」

「はいっ、喜んで!」


 凄いな、ここまで緊張する莉乃姉を初めて見た。

 空さんに用意してもらったエプロンを着けて、莉乃姉は一緒に調理台の方へ入っていく。

 顔は若干だが赤いし、口は真一文字に結ばれている。

 これはまた、面白いものが見れそうだな。

 俺は一人カウンター席に座ると、二人の料理風景を眺めていた。


「真也くんはどんな味付けが好みなのかな?」

「俺はあまり濃い味付けが好きじゃないな。」

「だからあたしはいつも薄味の和風なのだ。」

「何だ、気を遣ってくれてたのか。」

「気づいてなかったのか!?」

「ふふふ、仲が良いのね。」

「まぁ、幼馴染だしな。」

「そうやってはっきりと言えるところ、カッコいいと思うよ。」

「そうですよね!真也はカッコいいんです!」

「っ………。」


 俺は恥ずかしくなって目を逸らしたが、多分空さんはまだ俺を見ている。

 それこそ、魅入ってしまいそうな笑顔だろう。

 はぁ、からかわれてやがる。

 昼食ができる間、俺は黙って待つことにした、余計なことを喋られてはたまらない。

 店内には、やがて美味しそうな匂いが漂い始める。

 空さんの蒸籠ご飯が炊かれる匂いや、莉乃姉が作っているつみれ汁の匂い。

 思わず目を閉じて深呼吸したくなるような、美味そうな香り。

 30分もすると、テーブル席には料亭にでも出てきそうな和風料理ランチが並んでいた。


「凄いな、普通に美味そうだ。」

「そうだろうそうだろう、何しろ調味料よりも沢山の愛が込められているからな!」

「そうか、ごちそうさま。」

「あたしの愛が食べられないというのか!」

「莉乃姉の愛はなんか胃に重そうだ。」

「大丈夫だ、豚骨ラーメンだと思えばいい!」

「自分の愛を豚骨ラーメンに例えたのって莉乃姉が人類初だと思うぞ。」

「え、それは凄いな!」

「いや、そこは喜ぶところじゃねぇから。」

「うふふ、本当に楽しそうね。さぁ、冷めない内に食べましょう。」


 空さんに促されて俺たちは席に着く。

 三人で挨拶をして、それぞれ箸を手に取った。

 俺は莉乃姉が作ったつみれ汁のお椀を手にすると、一口飲む。

 優しい味が、口の中に広がった。

 うん、流石は莉乃姉だな。


「どうだ真也、美味しいか?」

「あぁ、あっさりしてるけど味が深い。」

「おぉ、そこまで素敵な評価が貰えるとは!あたしは幸せだ!」

「真也くん、私の蒸籠ご飯はどうかな?」


 空さんが勧めてくれた蒸籠ご飯を茶碗によそうと、筍やシメジの匂いが鼻を抜ける。

 待たされて空っぽな腹が、早く寄越せと催促してくるようだ。

 一口食べると、出汁と素材の旨味が凝縮された味が最高に美味しかった。

 ちゃんとした店を開いていることはある、正直言って莉乃姉の料理とは一味違う。


「莉乃姉には悪いが、やはり空さんの方が一段上だな。」

「むう、悔しいがそうだな。空さんの料理を食べた後だと、あたしのは少し味が足りないように思えてくる。真也のためにも、もっと修行が必要だな!」

「そんな、私だってまだまだなのよ。それに十分美味しいし、真也くんも美味しいって言ってくれたじゃない。莉乃ちゃんが作っている時、その顔が真剣で一生懸命だったもの。あぁ凄く気持ちを込めてるんだなぁって思ったのよ。」

「あたしは真也に美味しいものを食べてほしい一心で作ってますから!」

「ほら真也くん、こんなに女の子から言わせちゃって、何か言うべき言葉があるんじゃないの?」

「くっ、……いつもありがとな。」

「………っ!真也からお礼だなんて、ダメだ、嬉しすぎて笑えてくる!あーっはっはっはっは!」

「いや、笑えてくるにしたって高笑いはおかしいだろ…。」

「あーっはっはっはっは!」

「空さんまで!?」


 何故か二人の女性が高笑いする昼食は、その後も賑やかに過ぎていった。

 食べ終わり、莉乃姉は食器を洗い、空さんは開店の準備を始める。

 俺は空さんに借りた掃除道具で、床を掃いたり、テーブルを拭いたりしていた。

 何しろ俺たちは昼飯代を要らないと言われてしまったのだ。

 一緒に食べれただけでも十分楽しませてもらえたから、というのが空さんの言い分だった。

 だが流石にそれは申し訳ないということで、せめて開店準備だけは手伝うことにしたのだ。

 ひとしきり掃除や準備を終えたところで、空さんから声がかかった。


「二人ともありがとう、もう大丈夫だよ。ほーら、せっかくのデートなのだし、こんなところで油を売ってちゃだめよ。」

「ありがとうございました空さん、ご飯美味しかったです!もしご迷惑じゃなければ、また来てもいいですか?」

「もちろんよ!莉乃ちゃんが来てくれたら私も嬉しいし、また一緒にランチしましょう?」

「はいっ、あたしも楽しみにしてます!」

「えぇ。真也くんも、また来てね。」

「あぁ、暇があったらな。」

「うん、待ってるわね。」

「それじゃあ、失礼します。」

「じゃ、昼飯ありがとな空さん。あぁ、明日から暫く実家の方で世話になる。」

「そうなの、じゃあお父さんたちに私は元気だよって伝えておいてくれる?」

「あぁ、伝えておく。」


 莉乃姉が手を振り、俺が引き戸を開けて暖簾を退ける。

 名前のように綺麗な笑みを浮かべた空さんに片手を上げて、俺たちは十六夜を後にした。

 外に出ると、相変わらずの夏の陽気が、眩しさに目を細める俺たちに照りつけてくる。

 気温は段々と上昇し、空には少しずつ雲も出始めていた。

 少しだけやる気を削がれながらも、俺たちは午後の飲食街を歩き出す。


「さて、先に恵恋のところに行っておくか。忘れると面倒だしな。」


 莉乃姉が頷いたのを確認すると、俺は恵恋の家がある住宅街の方へ足を向けた。




 薄暗く、人気のない病院。

 俺は相変わらずまともに機能していない病院の扉を開けると、電気さえ点いていない院内を勝手に奥へと進んでいく。

 中は蒸し暑く、空気は停滞していて肌にまとわりつくような不快感だ。

 莉乃姉はその異様な病院内を気味悪く思っているのか、入る前から俺の服にしがみついている。


「なぁ真也、本当に冴塚はいるのか?」

「さぁな、どちらにせよ奥まで行かないと判らないんだよここは。」

「どういう意味だ?」

「ここは病院の上に自宅があるんだが、何故か入口が院内にあるうえに、インターホンまでそこにあるんだ。だから病院が閉まっていようと中まで入らないと誰とも会えないんだよ。」

「………それは設計からして問題があるんじゃないか?」

「どうせあのダメなオッサンが無茶を通したんだろうよ、余計な相対とか面倒なんだろうさ。」

「オッサンって冴塚の父親か?」

「あぁ、俺が初めて会ったのは父親の方が先だ。恵恋には後から会ったんだよ。」

「意外だな、普通は逆だろうに。」

「俺が路地裏の喧嘩で怪我してる時に声をかけられてな、そのままなし崩し的に治療を受けた。それ以来怪我したら来いって言われてる。」

「おぉ、凄くいい人じゃないか。」

「ま、話だけ聞くとそうだろうけどな。実際はそんなまともな医者じゃない。」

「ん?」


 何があれを堕落させたのかは解らないし、初めからそうだったのかもわからない。

 でも結局は、娘にろくに構いもしないで日々を浪費してるダメな大人だ。

 俺たちは診察室の隣にある階段を上ると、そこにあるインターホンを押した。

 何処でも同じ音色が響いてから暫くすると、中で人の気配がして扉が開く。

 そこにはいつも通り和服を着た恵恋が、相変わらず何を考えているか解らない無表情で顔を覗かせた。

 空色の生地に、オレンジの帯を付けた和服だ。

 恵恋は俺と莉乃姉の顔を確認すると、何も言わずに手を振って中に招き入れる。

 俺は無言で、莉乃姉はその異様さに首を傾げつつ小さくお邪魔しますと呟く。

 靴を脱ぎ、振り返りもせず歩く恵恋の後に続いて、かなり奥の方にある部屋まで通された。

 恵恋の部屋は以前来た時と同じく、真っ白だ。

 個人の色というものがない、輪郭すらも曖昧な世界。

 白い布団に白い丸テーブル。

 部屋は純白に満ちていて、その清潔感が妙に薄ら寒い。

 異常なまでの白さは、見ている者の感覚を狂わせる。

 俺が初めてここに入った時、俺は一言こう言った。


「お前の部屋じゃないな、これは。」

「えぇ、そうでしょうね。」


 まぁ、家庭にはそれぞれの事情があるし、こいつもまだ平気そうだからな。

 後ろを見ると、莉乃姉が驚いた目で部屋を眺めていた。

 恵恋は床に正座すると、表情はそのままに漸く口を開く。


「お二人ともこんな場所に何用ですか?」

「ちょっとした頼みごとと、礼を言いにな。」

「真也さんがお礼なんて珍しい。まぁ部屋の中で立ち話も変です、どうぞ適当に座ってください。」

「あぁ。」


 俺たちは促されるまま床に座ると、黙っている恵恋を眺める。

 夏らしい爽やかな色合いの和服は、この部屋唯一の恵恋らしさのようだ。


「小湊先輩、どうかされましたか?先ほどから一言も口を開いてませんね。」

「あぁすまない、随分と綺麗にしているなと思ってな。」

「気味が悪いと素直に仰っていただいて構いませんよ、とても女子高生が住む部屋ではないでしょうし。」

「いや、それは人それぞれだろう。だが意外だな、私服からして和風な部屋だと思っていた。」

「いえ、この服は母の物ですから。わたしは自分の物なんて持っていませんし。」

「ん?でもこの部屋の物はお前の物だろう?」

「この部屋は母の部屋です、借りているだけなので。」

「どういうことだ?」


 あぁ、良くない流れだな。

 恵恋は躊躇わずに喋るから、とりあえず話を逸らそう。

 あの話は、あまり莉乃姉には良くない。


「それより、俺の用事を済ませたいんだが。」

「あぁそうでしたね、では聞きましょうか。」

「まず、今日まで夏音を見ていてくれてありがとう、お陰で夏音に無理を強いなくて済んだ。」

「……もう少し遅ければそのままわたしが貰おうかと思っていましたよ。では夏音を連れてきます。」

「そのことなんだが…。」


 俺は少し姿勢を直すと、立ち上がろうとした恵恋に言う。


「あと三日間だけ夏音を預かってもらえないか?」

「はぁ、それは構いませんがまたどうして?」

「実は明日から二泊三日の予定があってな、流石に夏音を連れてくわけにもいかないから。」

「……まさかお二人で旅行ですか?」

「あぁ、初めは一人の予定だったが莉乃姉もついてくることになってな。」

「すまないな冴塚、あたしからも頼む。」

「………まったく、いいように使われますねわたしは。まぁいいでしょう、真也さんが勝手なのは今までの経験からも知ってますから。」


 無表情のままで溜め息を吐く恵恋。

 つか、俺ってそんなに勝手な奴だったか?


「そうですね、代わりに今度わたしの願いを一つ叶えるというのはどうでしょう?」

「願い事?まぁ俺にできるなら構わないが、あまり無茶なのは勘弁してくれよ?」

「大丈夫です、真也さんの身体さえあれば叶いますから。」

「ん、何だそりゃ?」

「まさか冴塚……!」


 何故か隣の莉乃姉が慌てて立ち上がろうとした。


「安心してください小湊先輩、貴女が考えているような内容は含みません。あくまでその手前の段階くらいまでということで。そもそも貴女は旅行までするんですし、それに夕方までならいいでしょう?」

「う………まぁ、今回は仕方ないのか、はぁ。」


 構わないとは言ったが、何で莉乃姉にも了承を得る必要があるんだ?

 まさか、凄く面倒な話になるのか?

 はぁ、せめて内容を訊いてから承諾するんだったか。

 だがとりあえず了解は得られたし、今日は引き上げるとしよう。


「んじゃすまないが夏音を頼む、なるだけ早めに帰ってくるから。あ、それとこれを渡しとく。」


 俺は財布から数枚の紙幣を取り出すと、首を傾げている恵恋に手渡した。

 手元の紙幣を眺めながら、恵恋は俺を見る。


「何ですか突然、意味も解らずにこんな大金は受け取れませんが?」

「夏音を預かってもらっていた間にかかった費用はそこから工面してくれ、足りるとは思うんだが。」

「……はぁ、わたしとは本当にそういう関係なんですか。」


 恵恋は珍しく表情を落胆の形に変えて、渡した紙幣を全て俺に突き返してきた。


「真也さん、貴方にとってわたしは何なんですか?」

「はぁ?…そりゃ、友達とは思っているが。」

「わたしも、真也さんのことは数少ない友人だと思っています。だからこそわたしは、貴方が大変な時にくらい力を貸せたらと、夏音を預かることを申し出たつもりです。なのに貴方は、それを返さなければならない、有償のものだと考えましたね?」

「………そうだが、何か間違っていたか?」

「…はぁ。わたしも人付き合いが得意ではありませんが、それでもこのくらいは解りますよ。」


 呆れ顔の恵恋に俺が首を傾げていると、隣の莉乃姉が溜め息を吐いた。


「真也、冴塚が呆れるのも解るぞあたしは。」

「は?何なんだよ二人して。」

「真也さんは無償の優しさに慣れていないんでしょうね、だからこうして物理的なものとして返そうとした。わたしだって、誰にでもこんなことはしたくありません。」

「信頼している仲間だからこそ、その人のために何かをしようとする。…それは真也だって同じだろう?」


 あぁ、そういうことなのか。

 俺は返すべきものを間違えた。

 何事も等価交換ってわけではないけど、優しさには優しさで返すべきだったのか。

 俺が今朝決めた、莉乃姉への考え。

 まったく情けない、俺は頭では考えていても、根本的に理解していなかったのだ。

 借りた物は返すけど、返し方ってものがある。

 こんな返し方、恵恋の気持ちに対して失礼だったな。


「すまない、どうやら俺が間違っていた。この借りは、今度の願い事ってやつで返させてもらうぞ。」

「えぇ、わたしはそれで十分です。そもそもわたしは、貴方が独りの世界から戻ってくれただけで、その見返りを得ているのですから。」

「はっはっは、今日はお前の負けだな真也。」


 笑う莉乃姉と、肩をすくめる恵恋。

 そうだな、莉乃姉の言う通りだ。

 ささやかな気持ち、友達という関係の意味が解っていなかったんだから。

 もうこの二人も、あの時助けてくれた他の三人も、友人として俺を見ている。

 今、俺の中に芽生えた温かな気持ち。

 嬉しい、そんな久しく感じていなかった感情。

 独りの世界では得られなかったこの思いに、俺は強く感謝している。

 まったく、皆には頭が上がらなくなりそうだ。

 なら伝えるべき言葉は、謝罪なんかじゃないよな。


「ありがとう恵恋。」

「…ふふ、どういたしまして。貴方からそんな言葉を貰えるのなら、これくらいのこと、お安い御用だと思えますから。」


 穏やかに微笑む恵恋は、とても嬉しそうに見えた。

 ほんの少しだけの笑顔だったけど、俺は恵恋の気持ちが流れてきたみたいに、穏やかな安心感が心に満ちている。

 この気持ちが欲しくて、きっと人は友を探すのだろう。

 そうして巡り会って、互いにこの気持ちを伝え合いながら、幸せを感じるんだな。

 あぁ、こういうのも悪くない。

 まだ受け取ってばかりだけど、もっと応えていかないと。

 それから暫く、俺たちは下らないことを話して過ごした。

 恵恋はいつもより饒舌だったし、俺もそれだけで嬉しい気持ちになれたし、時間も忘れてたくらい楽しい。

 そうして時間も遅くなった頃、俺と莉乃姉は恵恋に見送られ、冴塚家を後にした。




Rino Side


 冴塚の家を出て、二人で一緒に並んで歩く。

 さっきまでの時間は、凄く楽しかった。

 冴塚も真也も、普段はあんなに喋らないし、笑ったりもしない。

 仲が良さそうに話す二人を見て、二人とも少しずつ変わろうとしてるんだって思える。

 けど、やっぱり寂しいな。

 あたしから、真也が離れてくみたいだ。

 二人の変化に嬉しさも感じているのに、素直に喜んでいないあたしもいる。

 だって、冴塚からも、あたしが真也に抱いてるのと同じ想いが伝わってきてしまったから。

 二人は似ている。

 人付き合いが苦手なところも、基本的に感情を表に出さないところも。

 あの部屋だって、冴塚の色はなかった。

 真也の部屋と同じ、生活感の欠如した空間。

 誰が次に住むことになっても、すぐにその人が自分の色に染められるように。

 真也は物を少なくして、冴塚は白という色でそれを表した。

 透明と白。

 それは何色にでもなれるけど、孤独な色。

 だからこそ惹かれ合うかもしれない。

 現に真也は、あたし以外の人を名前で呼ぼうとしない。

 まだ恐れているんだ、深く関わっていいのかって。

 でも冴塚は、初めから名前で呼んでいるんだよな。

 他人を拒絶していた頃の真也がそんな風に自分から関わろうとするなんて、凄く特別なことだ。

 あたしは幼なじみって前提があったから一緒にいられたけど、冴塚はそれすら無しに真也と仲良くなった。

 ………あたしじゃダメなのかな。

 旅に同行を許してくれたのだって、結局幼なじみだからじゃないのか。

 それに緋結華も、きっと真也を気にしてる。

 緋結華も冴塚も可愛いし、凄く善いやつだ。

 自分と同じ気配を持つ冴塚と、優しく気遣う緋結華。

 どちらも今の真也には必要で、三人が仲良くなるのは凄く素敵なことなのに…。

 だけど、辛いなぁ。

 あたし、真也にとって何なんだ?

 ただの世話焼きな幼なじみ?

 まさか…自由気ままで面倒な年上の女?

 うぅ、そんなのやだな。

 必要なくなったら捨てられる?

 らしくないってわかってるのに、頭の中はずっとぐるぐる回ってる。

 真也のことはずっと好きだ、真也があたしを好きになってくれたら死んでもいい!

 ……いや、死にたくないな、そんな幸せなら。

 それに真也は人の死とか、殺すという言葉を嫌う。

 ダメだ、あたしは真也より長生きしなくちゃな。

 真耶がいなくなって、真也は壊れかけて、そんな真也が辛くてあたしは決めたんだ。

 絶対にあたしは真也から離れない、必ず傍にいて、真耶の分まで姉でいようって。

 ……そうか、あたしは真也の姉なんだ。

 真也にとってあたしは姉で、あたしにとって真也は好きな人で。

 近すぎて、気がついてもらえない。

 今朝のことも、きっと冗談だと思ってるんだろうなぁ。

 恥ずかしいからって勢いに任せて下着とか言ったけど、よく考えるとただのアホだよなあたし。

 うぅ、泣きたくなってきた。

 焦ってるのかな、あたしは。

 あんなことしたって、真也があたしに振り向くはずもないのに。


「莉乃姉、聞いてんのか?」

「え?」

「はぁ、ボーッとするなんて珍しいな。どうした、疲れたのか?」

「あ、いや……大丈夫だぞあたしは!」

「ならよかった、なんかキツかったら言えよ?」


 心配した顔の真也が、あたしの方を見る。

 心配してくれたことが嬉しくて、今すぐ抱きつきたくなった。


「真也ー!」

「うわっ!?」


 真横から抱きついて、真也の腕に顔を埋めた。

 心臓が爆発しそう、それくらい幸せな気持ち。

 でもまたさっきまでと同じ考えが浮かんできて、思わず泣きそうになった。

 こうやって抱きつくことを真也は嫌がってるのか?

 瞳が潤む。

 ダメだ、ここで泣いたら真也がもっと心配する。

 心配されるのは嬉しいけど、真也を困らせたくない。

 もう訳がわからない、あたしはどうしたらいいんだ。


「莉乃姉……離れてくれ、歩きづらい。」

「っ!……ごめん。」


 慌てて離れる。

 やっぱり、あたし欝陶しいかな。

 そりゃそうだよな、好きでもない人に抱きつかれても全然嬉しくない。

 ダメだ、そろそろ泣きそう。

 そんなあたしを見て、真也は首を傾げている。


「どうした莉乃姉、さっきから変だぞ?」

「………だって、真也に嫌がられたし。」

「はぁ!?違う、そうじゃないんだって!」

「うぅ、あたしなんて……真也はいらないんだぁー!」


 もう止まらなくなった。

 涙は次々に出てきて、頬を伝わってコンクリートに落ちていく。

 もやもやした雲みたいに、あたしの心は何もわからない。

 どうしようもないくらい悲しくて、寂しいんだ。

 あたしは嫌な奴で、真也の成長を素直に喜べもしない。

 今もこうして、真也を困らせてる。

 そういえば、最近泣いてばかりかもなぁ。

 真耶の話を真也が緋結華にした時だって、真也にもう来なくていいって言われた夜だって。

 泣いてばかりの姉なんて、嫌われても仕方ないよな。

 真也は困った顔であたしを見ている。

 でも次の瞬間、あたしは優しく抱き締められていた。

 真也の腕が背中に回されて、背中をゆっくりと撫でてくる。

 それはとても、ぎこちなかった。

 だけど凄く安心して、心の中に浮いてた雨雲が、綺麗さっぱりなくなるみたいだ。

 段々と、穏やかに胸に満ちた幸せな気持ちが、自然と涙を止めていた。

 でもまだ顔を上げられない。

 嬉しいけど恥ずかしくて、安心したけど焦ってる。

 どうしよう、やってしまった。

 真也の服はあたしの涙で濡れてるし、あたしの顔もきっと酷い。

 顔が熱い、また泣きそう。

 理由は違うけど、真也からみたら一緒だ。

 うわぁ、どうしよう。


「あのさ莉乃姉、そのままでいいから聞いてくれ。」

「う、助かる。今は真也を見れないから。」


 真也優しい!

 もうダメ、恥ずかしくて溶ける。

 でも何を言われるんだ?

 はっ、まさか正面から嫌いだとか言われるのか!?

 お願いだ、それだけは止めてくれ!

 緊張で強くなる鼓動を響かせていると、真也の優しい声が頭の上から降ってくる。


「俺はさ、莉乃姉がいらないだなんて一度だって思ったことはないぞ。」

「…え?」

「寧ろ一番俺にとって…特別だからさ、そう思うからこそあの夜に莉乃姉を遠ざけようとしたんだ。莉乃姉がいると、きっと俺は甘えちまうからな。今から気持ち新たに贖いの人生を送ろうとしてる奴が隣にそんな人を連れていたら、そんなの全然説得力ないだろ?」


 そんなことないって叫びたかった。

 真耶は真也にそんな生活を送ってほしくて、真也を助けたんじゃないのに。

 真也は勝手だ。

 勝手に悪いほうに思い込んで、独りで自分を追い詰めて、深い孤独の中で生きようとするなんて。

 ………そっか、今のあたしがそうなんだ。

 勝手に真也があたしを嫌いになったと決めつけて、一人で落ち込んで、いきなり泣き出して。

 一緒じゃないか、二人とも。

 こんなに長く一緒にいるのに、互いの考えは交わらず、自分が傷つきたくないから、相手の気持ちを訊かなかった。

 ううん、訊けなかったんだ。

 だって、それは怖いから。

 真也は自分の決意が揺らぐのを恐れて、あたしは拒絶されるのを恐れた。

 馬鹿だな、答えはこんなにも近くにあったのに。

 冷静に考えれば、そうでないことに気づけたのに。

 弱いな、二人とも。


「だけど俺は間違いに気づけた。莉乃姉のお陰で、もう独りじゃなくなった。だから俺は莉乃姉に感謝してる。俺はたくさん莉乃姉を傷つけたのに、それでも莉乃姉は俺を助けてくれた。」


 違うよ真也。

 あたしも、真也からたくさん幸せを貰ってるんだ。

 あたしの前でしか見せない顔も、ちょっとした気遣いも、一緒に過ごす時間も、あたしにとっては掛け替えのない幸せなんだよ。

 だからあたしが恩返しするのは当たり前で、暗闇から真也を取り返すのは、あたしが辛かったからだ。

 だってあたしは、今の真也の言葉だけで、こんなにも救われた気持ちなんだから。


「俺が莉乃姉を嫌いになるなんて、そんなことあるわけないだろ。本当に、俺はいい姉を持てたと思う。だから……ありがとう姉さん、これからも一緒にいてくれ。」

「お礼なんてしなくていいんだ。あたしは、ただ大好きな真也がいなくなるのが嫌だっただけなんだから。あたしの方こそありがとう真也、絶対離れてやらないからな!」

「あぁ、望むところだ。」


 胸がいっぱいで張り裂けそうだった。

 真也の声が、綺麗な水のようにあたしの中へ染み渡るみたい。

 ふわふわと、重かった心が軽くなる。

 雨が止んで、素敵な青空を見たような心地よさ。

 ドキドキは治まらないけど、今はそれが辛くない。

 嬉しくって嬉しくって、また涙が出てくる。

 でも今なら、顔を上げられそうだ。

 視線をゆっくりと、真也の胸から顔へ。

 そこには、見たことないくらい安心した微笑みを浮かべた真也がいた。

 それはあまりにも綺麗で、どこまでも純粋で、それに見惚れているあたしは、


 ―――あぁ、もう真也じゃなきゃダメだろうなぁって思った。


 自然と、両腕は真也の背中に回していた。

 強く抱き締める。

 離れたくなくて、いつまでもこうしていたくて。

 ………今キスできたら凄く幸せだろうなぁ。

 だって男とは思えないくらい綺麗な唇が、無防備に目の前にあるんだぞ?

 今までも何度か寝込みを襲おうとしたけど、流石に恥ずかしくて止めてた。

 でも今なら、シチュエーションも完璧だ。

 …うん、でも止めよう。

 だって、きっと真也は応えてくれない。

 真也の想いは、まだあの夕暮れの中にあるから。

 でも、訊いてみたい。

 あたしには、まだ可能性があるのかどうかを。

 今なら、その勇気が出せる気がするから。

 よしっ、頑張るぞ!


「…なぁ真也。」

「ん?」

「一つだけ、訊いてもいいか?」

「あぁ、構わないぞ。」


 緊張で震える。

 もしあたしにとって最悪の答えが返ってきたら、辛くて泣いてしまいそうだ。

 でも、もう勝手に決めつけたくない。

 大好きだからこそ、もう逃げない。


「もしちゃんと告白したら、真也はあたしの恋人になってくれるか?」

「………ごめん、今はまだわからない。」


 心が空っぽになるかと思った。

 幸せだった気持ちも、胸の中のドキドキも、その他のなにもかも。

 でもあれ?…今はって言ったよな?


「今はってことは、いつかは可能性があるってことか?」

「今の俺はまだ気持ちの整理ができてないからさ、それができたら、きっと俺の中で何かが変わると思うんだ。だから、その後ならもしかすると、そういう感情も生まれるかもしれない。」


 そうか、そうだよな。

 うん、でもよかった。

 訊いておかなければ、勝手に思い込んで可能性を捨てていたんだから。

 緊張が抜けていく。

 やっと、スタートラインに立てたんだ。

 なら、後は真也の合図を待つだけ。

 それくらい、いつまでだって待てるさ。

 …いやまぁ、できれば早めがいいけど。


「わかった、ありがとう真也。」

「ん、あぁ。」


 何でお礼を言われたのか解らないって顔をして、真也は頷いた。

 よーし、これから頑張るぞー!

 他の二人に負けない、想いはあたしが一番強いんだ!

 でもあれだな、もう寝込みを襲おうとするのは止めよう。

 真也は根が真面目だから、きっと責任を取ろうとして付き合ってくれる。

 だけどもう、そんなんじゃ足りないぞ。

 あたしは真也自身に選んでもらいたい。

 色んな可能性の中から、あたしに手を伸ばしてほしいから。

 それに、もうあんなことできそうにないし。

 改めて大好きだと意識したら、今までのことが急に恥ずかしくなってきた。

 まったく、あたしはなんてことをしてたんだ。

 でも、なんとなく解ってたからなんだろうな。

 真也に何をしたって、今は姉のおふざけって思われて終わりだって。

 羞恥心より、悪戯心が勝ってたんだ。

 でももう、心機一転!

 あたしは姉じゃなくて、一人の女として、真也に認められてやるぞ!

 それにまずは、真也の気持ちの整理を見届けないとな。

 涙を拭う。


「よしっ、真也!」

「おぉ?」

「帰って明日の準備だな、明日も早いんだし。」

「あぁ、そう…だな。」

「今夜はとっておきの料理を作ってやる、たくさん食べろよ!」

「…あぁ、楽しみにしてるよ。」


 戸惑う真也に笑いかけて歩きだす。

 その手はしっかりと繋いで、強く握ったままで。

 ふと見上げた空は、綺麗に澄んだオレンジ色だった。


Rino Side END




 夕暮れに照らされた自宅に戻ってから、俺は明日からの旅の準備を進めていた。

 莉乃姉はそのままウチに来て、早速夕食の準備に取り掛かっている。

 明日の準備だなって言ったよな、家に帰らなくて大丈夫なのか?

 まぁ莉乃姉だし、きっと用意くらいすぐに終わるんだろ。

 クローゼットを開けて、中にしまってあった大きめの旅行鞄を取り出すと、そこに生活用品を詰め込んでいく。

 余計な物はないし、そもそも持ってない。

 財布と旅券も今日の内から鞄に放り込み、忘れた物がないか確認する。

 ん、大丈夫そうだな。

 だがふと視線をずらすと、クローゼットの上の棚に見覚えのない鞄が見えた。

 何だあれ、あんな柄の鞄なんて買ったか?

 立ち上がって、その謎の鞄を下に下ろす。

 中には何か柔らかい物が詰まっているのか、見た目より軽い。

 俺は中を確認するために、ジッパーをゆっくりと開けた。


「っ!?」


 最初に見えたのは色や形の違う、見慣れない幾つかの下着。

 慌てて閉じる。

 莉乃姉め、まさか予めここに置いていたとは。

 顔が熱くなって、静かに鞄を元の位置に戻す。

 つか何で一番上に下着を入れるんだよ、普通下だろうが!

 心の中でツッコミを入れて、ひとまず落ち着く。

 まぁいいや、とりあえず準備は終わってるんだな。


「真也ー、今日は泊まってもいいかー?」

「は!?……あぁ、そうだな。」


 確かに明日は早いし、その方が便利ではあるか。

 いやでも、そこまでする必要あるってわけでもないし。

 ま、たまにはいいのかな。


「わかった、今日だけだぞ。」

「おぉ!ありがとう真也!」


 どうせ誰が見るでもないし、大丈夫だろ。

 それから莉乃姉はずっと嬉しそうだった。

 食事の時も笑顔で、それに安心する俺もいる。

 泣かせてばかりだからな、笑ってくれてるのはやっぱ嬉しい。

 互いに明日の予定を確認しあって、俺はソファーに、莉乃姉はベッドに入る。

 珍しく、一緒に寝ようとは言われなかった。

 まぁ、その方が俺の精神衛生上助かるんだが。

 しばらくすると、莉乃姉の穏やかな寝息が聞こえてきた。

 疲れたんだろうな、俺とのことで悩んでたみたいだし。

 まさかあそこまで真剣に考えてくれてたなんて、しかも俺は気づいてなくて。

 つくづく、俺はダメなんだと自覚させられた。

 こんなにも真摯な想い、曖昧に躱すわけにはいかない。

 付き合うとかではなく、きちんとした答えを選ばないと。

 だから、明日からの旅を笑って終えられるように、無駄にしないように、俺は決めないとな。

 必ず、届くように。


 ―――三年越しの言葉を。


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