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Day.5 触れ合う掌

 今日も、それは再生される。

 心をすり減らして、頭の奥底から這い上がるように。

 死の臭いが充満した赤の世界。

 両の手にかかる重みは、いつにも増してリアルだ。

 身体を巡るはずだった血液は、再び心臓に戻ることなく、コンクリートの道路に広がっていく。

 脆く儚く消えゆく、生命の鼓動。

 これが、命の重み。

 重く圧し掛かる、生きている理由。

 身体が軋む、吐き気が襲う、心は捻じれて千切れそうだ。

 でも、それが人の命の上で生きる代償、逃れえぬ大罪。


 ―――永遠に終わらない贖いの始まり。

「………。」


 朝の太陽が、容赦なく俺を叩き起こした。

 でも俺にとってはそれがありがたい。

 見慣れることのない悪夢から覚める。

 小鳥の囀りと、起きだした街の喧騒が耳に届く。

 身体中が痛い、やはりベンチで眠るのは無理があったかもしれないな。

 頭はぼんやりして、疲れはまるで取れていない。

 昨夜は結局遅くまで眠れなかった。

 悪夢も、いつもより心を抉っていく。

 クソッ、挫けるなよ俺。

 自分を叱咤するように勢いよく立ち上がると、周りを見渡した。

 自宅から少し離れた公園。

 日が昇って間もないここは、酷く静かだ。

 公園の入り口にある時計を見上げると、まだ朝の5時半。

 流石にこの時間では家でまだ二人が寝ているはずだ、ならまだ帰ることはできない、となると何処かで時間を潰さなきゃならない。

 …姉さんの花を替えに行くか、暇潰しって名目は若干嫌だが。

 昨日の夜に替えたばかりだから早いが、花が元気ならお参りだけでも良いだろう。

 服に付いた埃を払うと、並木通りに向けて歩き出す。

 早朝の少しだけ冷たく爽やかな空気を、肺いっぱいに吸い込む。

 身体の中に溜まった泥のような感覚が、吐き出した空気と一緒に出ていくような気がする。

 だけど、やはり気持ちは重い。

 あの夢の瞬間のように、莉乃姉の涙が脳裏に焼き付いている。

 俺の背中には、こうやってまた罪が重なっていく。

 その重さに負けて膝を折らないように、俺は強くなり続けなければならない。

 この重さは、生きている限り永遠に付き纏うものだから。

 まだ人通りの少ない道。

 朝帰りの学生、今の俺は周りにはそう見えていることだろう。

 あながち間違いってわけでもない、単にまだ帰れないだけだ。

 空は少し雲に覆われつつある。

 そういえば、御奈坂が梅雨入りしたって言ってたな。

 もしかしたら降り出すかもしれないな、それまでには家に入れればいいんだが。

 交差点に着いて、柱の下の花を見る。

 風に揺れる百合の花は、まだ元気に花弁を開いていた。

 これならまだ替えなくて良さそうだな。

 俺は屈んで膝をつくと、両手を合わせて目を閉じる。

 その姿は、まるで神に懺悔する信者のようだろう。

 胸に浮かぶ言葉は、謝罪。

 莉乃姉の言う通り、姉さんは今の俺の生き方に肯定は返さないだろうから。

 寧ろ怒るだろう、いつも誰かの幸福を祈る人だったからな。

 でも俺は罪の意識からそれを拒否している。

 いやそれどころか、その意志さえも姉さんのせいにしているようなものだ。

 最低だと判っていながら、それでもこの愚かな頭は頑なに幸福を拒む。

 今誰かにお前は最低のクズと罵られても、何も言い返す資格はない。

 何故、誰も俺を責めないんだ。

 お前が悪いんだと言われれば、俺は……。


 ガンッ!


 拳を目の前の柱に打ち込む。

 また、俺は逃げようとした。

 罪から逃れるためのきっかけをまた他人に委ねて、誰かがそう言ったからと責任を擦り付けるのか?

 そんなのは、そこらの犯罪者よりもよほど罪人だ。

 何よりも、それは姉さんの命までも軽んじる。

 クソッ、こんなにも弱いのか俺は。

 強くならなきゃいけないのに、もう独りなんだから。

 誰にも頼れない自分が、自分自身に負けてたらこの先に未来なんてない。


「真也くんかい?」


 突然呼びかけられて振り返る。

 そこには寝間着姿のままの忠勝さんが、驚いた表情で俺を覗くように立っていた。

 慌てて表情を作ろうとするがもう遅い。


「…何かあったみたいだね?」

「いえ、俺は別に。」

「とりあえずこっちに来なさい、温かいお茶くらいは用意しよう。」


 ほら、と手を差し出される。

 俺は少し迷ったが、その手を取って立ち上がった。

 忠勝さんに促され、まだ開店してない店に入っていく。

 連れられたのはレジの奥にある忠勝さんの自宅。

 畳張りの居間になっているそこに案内されると、示された座布団に座った。


「少し待っていなさい、すぐにお茶を入れるから。」


 穏やかな微笑みに、俺は大人しく頷いた。

 余計なものは何もない質素な部屋。

 あるのは仏壇と、そこに立てられた写真だけ。

 あれは多分…。


「妻の写真だよ、随分前に先立たれた。佳代という名前でね、彼女の作る鳥鍋は実に美味しかった。」


 湯気の立つ湯呑みをちゃぶ台に二つ並べて、忠勝さんは遠い目をした。


「内臓をやられてね、もう手術もできなかった、入院して何日かした夜、彼女は私の目の前で安らかに逝ってしまったよ。」


 俺は黙って話を聞いていた。

 とても辛い話をしているはずなのに、その声はとても穏やかだったからだ。

 表情にしても悲しみに暮れるものではなくて、俺を招き入れた時のような穏やかな微笑みを浮かべている。

 どうしてそんな表情で話すことができるのか、俺には解らない。

 ただ我慢しているというわけでもなく、本当に、心からの微笑みで語っているのだ。

 俺にもいつかそんなことができる日が来るのだろうか。


「さて昔話はこれくらいにして、真也くんは朝ご飯は食べたかい?」

「いえ、まだですが。」

「良かったら食べていくかな?こんな老人が作った物が口に合うかは保証できないが。」

「いや、そこまでお世話になるわけには。」

「遠慮することはないよ。この歳になるとね、なにかと世話を焼きたがるものなんだ。」

「…じゃあ、お言葉に甘えます。」

「そうかそうか、では早速準備しよう。真也くんはお茶でも飲んで待っていなさい。」


 嬉しそうに笑いながらキッチンへと消える忠勝さん。

 本当にいい人だよな、こんな俺にも嫌な顔一つしない。

 あの人だって、過去を乗り越えているはずなのに。

 どうしたら、あんな風に笑えるんだ。

 湯呑みを手に取って、一口飲む。

 温かい緑茶の味が、程よい渋みと一緒に広がる。

 何となく、優しい味のように感じた。

 それから程なくして、忠勝さんが用意してくれた朝食がちゃぶ台に並んだ。

 白い米と味噌汁、沢庵やらっきょうといった漬物に納豆。

 お手本のような和食、まさに日本の朝食だ。


「こんなものですまないね、納豆とか食べられるかい?」

「むしろ好きな方なので大丈夫です、ウチではあまり食べませんが。」

「おぉ感心だ、納豆は身体にいいからね。ではいただきます。」

「いただきます。」


 箸を持って食べ始める。

 温かい味噌汁が、程よい空腹に染み渡る。

 莉乃姉が作るものとはまた違った味わいに舌鼓を打つ。

 納豆を掻き混ぜて、ご飯にかけて食べた。

 うん、やっぱり美味いな。


「知り合いが水戸に住んでいてね、それは贈り物なんだ。」

「水戸納豆ですか、どうりで美味しいはずです。」

「気に入ってもらえてよかったよ、私一人では食べきれなくてね。」


 それからは口数少なく食事は進む。

 食べ終えると、忠勝さんはお茶のお代わりを注いでくれた。


「何かすみません、朝から図々しくって。」

「気にしなくていいんだよ、私が誘ったのだし。それに、久し振りに誰かと食べる食事は楽しかった。」

「………。」

「私もね、時折どうしようもなく寂しく感じることもある。でもね、妻と一緒にいた時間が大切だったからこそこの寂しさがあるのだと思うと、幾ばくかの嬉しさも感じるんだ。」

「大切だったからこその寂しさですか?」

「あぁ、そうだよ。私もできた人間ではないから、やはり一緒にいて何も思わなかった人との別れには悲しさを感じないんだ。だが逆に考えれば、別れを惜しむ人というのは、自分にとって大切、必要な相手だったということだね。」


 大切な人。

 それは間違いなくそうだ、真耶姉さんは誰よりも大切な人だ。

 俺という人間の半分以上を作ってくれた、双子の姉。

 それは今でも変わらない、いつまでも変わることはない。


「真也くんにとっては真耶さんは大切な人で、だからこそ君の中には深い悲しみがある。確かにそれは辛いことだけど、それはただ辛い意味だけを持っているわけじゃないんだよ。今もまだ、お姉さんのことで悩んでいるんだろう?」

「…はい、俺のせいで姉さんはトラックに轢かれた。俺は罪を償わないといけない、幸せに生きてはいけないんです。」


 俺の言葉を聞いて、そこで初めて、忠勝さんの顔に悲しみの色が現れた。


「そうか……そんな風に考えていたんだね。でも、きっと真也くんはちゃんと答えを知っているはずだ。今はそう考えてしまっていても、必ず君は気がつくだろう、そう信じているよ。」


 忠勝さんは全て知っているかのように微笑むと、その手でそっと俺の頭を撫でてきた。

 流石に無碍にもできず、大人しく撫でられる。

 俺は既に答えを知っている…か。

 判らない。

 それが何に対する答えなのか、そもそも知っているのか。

 俺なんかに、忠勝さんは何を期待しているんだ。

 罪人はただ許される日まで罰を受ける者、そこには娯楽も幸福も介入してはならない。

 だけど俺はいつまでも許されないから、俺の人生はあそこで終わり。

 ここから先は一方通行、生き続けるだけの生き方だ。

 つまらない望みは棄てろ、それが罪人に定められた宿命なのだから。

 忠勝さんは満足したのか、頭から手が離れていく。

 時計を見たら、そろそろ学校に行かないとマズい時間だった。


「すみません、俺はそろそろ学校に。」

「おぉすまなかったね、老人の時間に付き合わせてしまって。」

「いえそんな、お世話になりました。」


 立ち上がって靴を履くと、振り返ってもう一度頭を下げる。


「真也くん。」

「はい?」

「君の進む道は誰しもが選べるものじゃない。人はどれだけ罪に感じていても自分の幸福を願うもので、それは決して抗えない欲求とも言える。でも真也くんはその欲求さえも贖いには不要だと押し留めて、その長く辛い道を懸命に歩いていこうとしている。君が普段どんな生活をしているのか、私は詳しく知らない。だけど、想像するだけでもそれは酷く辛い日常だ。こんな私でさえ、君には幸福な日常を生きてほしいと願っている。なら、君の周りにいる少女たちは一体どれほどそれを願っているのか、今一度考えてあげてくれないかな?」

「………たとえどれほど願われても、この命も身体も、俺の思いで動かしていいものじゃないんですよ。だから、そのお願いには答えることができません。俺はそう願われないためにも、独りで生きていこうと決めているのですから。」


 俺は忠勝さんの顔を見ないで背を向けると、俺は何も言わずにその場を去った。




 靴音が、反響していく。

 俺は屋上への階段を上っていた。

 学校に向かっていた頃から降り出した雨は、小雨から本降りに変わり、今では大粒となって校舎にくぐもった音を満たしている。

 足の速い雨のようだから、放課後までには止んでくれるだろう。

 屋上の扉の前にある小さな踊り場に着くと、下からは見えない位置に座り込む。

 目を閉じて、世界の音に耳を傾ける。

 心に空いた空洞、音はそこにまで響いてくるようだ。

 冷血になれない自分に嫌気が差す。

 いっそ機械になれたら完璧なのだ、感情を棄てられたらどれほど楽か。

 全てを棄てたつもりでいて、まだこんなにも気分は重い。

 顔には出さないようにしていたのに、結局忠勝さんには見られてしまった。

 姉さんは俺を強いと言ったけど、そんなことはなかったんだ。

 大切に思うものがあったからこその強さ、自分の根幹をなくした今の俺にその強さはない。

 俺は罪の償いという目的があるから生きていられる、それがなくなれば死ぬだけだ。

 俺には自分というものがない。

 信念も、理想も、決意も、願望も、守るべき人さえも失ってしまった。

 やはり俺はあの日の夕方に死んだのだ。

 身体は今もこうして活動しているが、中身はとうに空になっている。

 俺はこの空白を埋める何かがなければ、動く屍と何ら変わりはない、俺に価値は生まれない。

 それにその空っぽの箱にさえ、俺はきつく蓋をしている。

 俺に必要な物があるとするならば、箱を開けるための鍵と、そこに入れる中身だ。

 入れる中身は判らないが、鍵の所在はとうに判っている、だがそれは恐らく手に入らない。

 その鍵を持っている人は、三年も前にこの世からいなくなってしまったのだから。

 中には俺自身の幸福が入っていたであろう、永遠に開かぬパンドラの箱。

 それに気がついてしまった時点で、俺の物語は終わったんだ。


「真也くん。」


 突然声をかけられて、閉じていた目を開けた。

 足音すら聞こえぬほどに、俺は暗闇へ埋没していたらしい。

 俯いていた顔を上げる。

 いつの間にか傍に立っていたのは、瞳に悲しみを湛えた御奈坂だ。

 俺を辛そうに見下ろす御奈坂は、薄暗さも相まっていっそう泣き出しそうに見える。

 また、懲りずに来たんだな。

 もう理解するのは諦めた。

 しかし理解の外にある存在を御することはできない。

 まるで解き方の解らないパズルのようだ。

 それがどういう論理で作られたものか解らない以上、答えを聞いたとしても判るまい。

 ならそんなものには近寄るな、それは俺の手に余るのだから。

 無言で立ち上がると、呼ばれたことに対する返事もせずに脇を抜ける。

 胸が少し痛んだが、こんな痛み、これから幾度となく味わうことになるだろう。

 孤独とは、他者に対して優しさも悪意も与えず、またそれを受け取らない存在であるべきだからだ。

 ならばこの相対は不要。

 一瞥もくれず、階段を下りていく。

 だが真ん中の踊り場に着いた時、御奈坂が叫んだ。


「私は諦めません!例えどれだけ真也くんに嫌われても、真也くんを独りにはしません!今はまだ何も思いつかないけど、必ず!」


 危うく振り返りそうになる身体を、俺は強引に押し留めた。

 振り返る権利が、俺にあるはずがない。

 どれだけ辛くとも、これは俺が招いた状況なんだ。

 リノリウムの床を踏みしめて、俺は教室を目指す。

 どれだけお前がそんなこと望んだって、俺は応えるわけにはいかないんだ。

 いつかお前が諦めてしまえば、それで済む話なのに。

 どうしてお前は、そんな風に俺を追いかけてこれるんだろうな。

 恐れで動かない足を必死に動かし続けて、そうしてここまでやってきた。

 普通は何度も挫けるだろ、立ち止まるだろ。

 そもそもその初めの一歩さえ踏み出せない奴だって一杯いるんだ。

 人は何か信じたモノがなければ前へ進めない、憑代は誰にでも必要なモノ。

 それは自分の信念だったり誰かのためだったり、即物的な欲望だったり。

 目的が必要なんだ、だけどその目的をどれだけ望むのかで、人は踏み出せる歩数が決まってる。

 俺と友人になるって目的が御奈坂にあるとして、これだけの苦痛を伴ってまで踏み出すほどの目的じゃないはずだ。

 それが理解できるようになったら、もしかしたら俺も…。

 …はっ、何を考えてんだ俺は。

 俺は何も求めるべきじゃないんだから、そんなものを理解しても仕方ないじゃないか。

 振り切るようにして歩幅を広げる。

 教室に着いたら黙って放課後まで大人しくしておこう、つまらない考えは棄てるんだ。

 さて、下らない一日の始まりだ。




 授業には集中して取り組み、学校は何事もなく終える。

 途中何度も視線を感じたが、全て無視した。

 もう何があっても関わらない、そう決めたから。

 昼休みには話し掛けてくるかと警戒したがそんなことはなく、御奈坂は昼休みに入るやいなやすぐに何処かへいなくなっていた。

 気にしすぎ、寧ろ気にする必要はないはずだ。

 まだ無視しきれていない自分に呆れ、それから教室の景色さえ見ないように窓の外に視線を向けて過ごした。

 そんな風に何事もなく終わった放課後、こうして歩いて駅に向かっているのだ。

 目的地はいつもの展望台、あそこなら誰もいないだろうから。

 絵の具を溶かしたような澄んだ青空。

 雨はやはり放課後までには止み、空には薄い雲と明るい太陽、陽射しも少しずつ強くなってきている。

 夏はもうすぐそこに控えていて、今か今かと出番を待っているのだろう。

 やがて目が眩むほどの暑い陽射しがこの街を照らし、むせ返る湿気に汗ばむ日々が始まる。

 夏は好きだ。

 暑さはそれほど苦手じゃないし、何よりあの底抜けに爽やかな景色を堪能できるのは夏くらいなものだろう。

 姉さんはいつもプールや海を楽しみにしていたな、毎年近くの海水浴場に連れられていた。

 俺は人混みが嫌いだからとあまり乗り気ではなかったけど、それでも必ず着いて行って……。

 止めよう、思い出に浸るのは。

 思い出なんて虚しさが増すだけだ、それでいて何も得るものはない。

 それは既に終わってしまった話だからだ。

 共有できる人がいない思い出話は、それこそ不毛以外の何物でもない。

 俺は思考にストップをして、無心で目的地を目指す。

 駅前は人で溢れていた。

 放課後の学生らしく、ゲームセンターに入っていく者たちや、ウィンドウに飾られた洋服にはしゃぐ者たち。

 それはみな楽しげで、平和そのものだ。

 俺はそんな風景を視界の端で眺めながら、券売機で一番安い切符を買う。

 電車に乗って隣町に着くと、同じような人混みの中を無心でまた歩き出す。

 そのまま繁華街を抜けると、唐突に途切れるビルの林。

 そこから先は住宅の密集地帯、田畑も広がる田舎相応の風景だ。

 少し歩けば景色ががらりと変わるのは、地方都市特有だろう。

 東京や大阪みたいな大都市みたいに同じような風景はそれほど長く続かない。

 そんな中で余りまくった土地を有意義に使っているのが、俺が向かう自然公園。

 山の麓に整備されたそこは結局観光用にもならず、地元民の憩いの場と化している。

 地域活性化の失敗例、だが住民にはそんなことお構いなしだ。

 元々あった自然には手を加えず、造ったのはせいぜい中央広場と、ベンチやパンフレットくらい。

 血税が殆ど消費されずに使いやすくなるのなら、計画失敗だろうと無関心なのも頷ける。

 (くぬぎ)自然公園と銘打たれた曖昧な境界線を越え、深緑が織り成す林道へと踏み込む。

 土は昼間の雨でぬかるんでいて、少しばかり歩きづらい。

 何の舗装もなされていない土道は、それでも公園として一応の体裁を保つように木々はなく、道の左右には座るには少々抵抗がある濡れた木のベンチが設置されている。

 生い茂る緑の隙間から覗く青空と差し込む陽光は、葉に付いた水滴に反射して林のアーチをきらきらと彩り、ちょっとしたイルミネーションのようだ。

 雨も悪くない、そうでなければこんな風景も目にすることはできないのだから。

 泥のような地面に足を取られないように気をつけながら、俺は山に向かう道を歩いていく。

 元々は山登り用に整備されたんだろう申し訳程度に設けられた階段を見つけると、その前に立ち止まって上を見上げる。

 木々の隙間を縫うように伸びている階段は、少し先までしか見ることができない。

 こんな道だからこそ、登った先には人が滅多に訪れないのだ。

 一息ついて登りだす。

 水捌けが良いのか、ここは他ほど歩きづらくはなかった。

 それでも滑らないように注意して、上へ上へと歩を進める。

 中腹に差し掛かると、もうそこは別世界だ。

 街の喧騒は遠く、空はより近くに。

 余計なしがらみさえ遠のくような、そんな雄大さを背後に足を動かす。

 10分ほど登ると、漸く終わりが見えてきた。

 人が寄り付かないのも納得の長さだが、その苦労さえ享受できるほどの景色がそこにはある。

 小さな広場、もはや展望台と呼ぶことさえ疑問に感じてしまうような狭さだ、端から端まで歩いても十歩とかかるまい。

 だがここにベンチと木の柵を設けようと考えた人間は、おそらく俺と同じ感想を抱いたはずだ。

 ここには、地上があった。

 足元に広がるのは海底で、向こうに連なる山は対岸の陸。

 己の俯瞰を一変させる、己の矮小さをまざまざと見せつけられる。

 小さな世界の極小の一粒。

 眼下の世界は確かに俺が住む世界だが、そんな世界はほんの一部で、そこに住む俺も世界の中の些細な欠片だと思わせる景色。

 物事を深く考えるにはうってつけの場所だ、だからこそのベンチと柵なんだろう。

 まぁ残念ながらベンチは濡れていて使い物にならないのだが。

 下界と柵で隔たれた小さな空間で座り込み、ただ己の中に埋没していく。

 何か事情があり、苦悩がある者が彷徨い歩いた末に辿り着く天空の避難所。

 なら俺もその恩恵に与っても何らおかしくはない。

 例え答えが出ない悩みであれ、苦悩を抱えている事実には変わりないのだから。

 流石に濡れたベンチには座らないが、木の柵に寄りかかって下を見下ろす。

 普段は見られない街の顔。

 遥か彼方に小さいが並木高校も見え、先ほど降りた駅も見える。

 人の姿は豆粒ほどで、表情なんて見えるはずもない。

 個性も何も判らない大勢の中の一、違いなんてありはしない、個性が欠如した黒点。

 だがそれらには確かに個性があり、それぞれだけの人生もある。

 でも実際はどうなのだろう。

 これだけ沢山の点の中から一つ消えた所で、誰がその異変に気づくのか。

 他人への無関心、交わらない心。

 究極的なところ、人は常に孤独だろう。

 どんな方法を用いたところで、自分の全てを他人に伝えることは不可能だ。

 十人十色という言葉の通り、人の数だけ価値観があり、幸福も不幸も感じ方はそれぞれ違う。

 他人は自分の足りない能力を補うための道具で、分かり合う必要も仲良くなる必要もない。

 信頼や友情なんてものは心を充実させるためのモノでしかなく、心を度外視すればそれは不要なものだ。

 ならば俺にはまさに不要だ、必要なのは他人を利用する能力だけ。

 そう考えなければ、俺は折れてしまう。

 壊れかけた心を、生きるために最低限繋ぎとめる。

 それからどれくらいボーっとしていたのだろう、考えるのを止めたせいで時間の感覚はなくなっていた。

 辺りは少しずつ夕暮れになろうとしていて、太陽は地平線の向こうへと沈もうとしている。

 ここは風が強い、身体も意外なほど冷えてしまった。

 仕方ない、そろそろ帰ろう。

 今日は夕飯何だろうと考えた辺りで、呆けた頭が思い出す。

 クソッタレだな俺は、もう莉乃姉は来ないだろうが。

 だから夕食だって用意されない、当たり前じゃないか。

 一人暮らしで夕食が勝手に作られたりしない、今までが特殊だったんだ。

 食事も掃除も洗濯も、全てを自分でやらなきゃいけない。

 酷い体たらくだ、甘えすぎてそれすらすぐに気づけないとは。

 とりあえずどうするか、炊事はまったくできないからな。

 ………コンビニって便利だよな。

 途中のコンビニで弁当を買って帰ればいいか、食えればいいし。

 そういえば恵恋が言っていたな、俺は舌が肥えているんじゃないかと。

 考えたことはないが、確かに最近はコンビニ弁当からも離れていたような。

 でも最近のコンビニ弁当も侮れない美味しさだったような、……あれ?

 凄いな俺、ホントに忘れている。

 一時期は毎朝毎晩お世話になっていたというのに、もう味を忘れているんだ。

 人間慣れってのは恐ろしい、昔のものは簡単に忘れてしまう。

 より良い方にいくのは判るが、本当に大丈夫だろうか。

 また元に戻さないとマズイな、恵恋の考え通りってのはなんだか癪だ。

 なら弁当は何にしようかな、たまにはラーメンとかでもいいか。

 鞄を担ぎ直して振り返ると、夕食に頭を悩ませながら歩き出す。

 随分薄暗くなった林の中の階段を下りながら、そういえばと思いだした。

 夏音をオッサンのとこに連れてくの忘れてたな、明日にでも行ってくるか。

 流石に専門家の娘の忠告だ、それに困るのは夏音だからな、適当にもできない。

 拾ってきたのだから、きちんと面倒は見ないと。

 詳しい話はオッサンに訊こう、やったらマズイこととか知っておかないといけないからな。

 そんなことを考えながらだったからか、人の気配に気づかなかった。

 蛇行して伸びている階段、見通しはかなり悪い。

 おまけに風で草葉の鳴る音が響いていて、近づいてくる足音が聞こえなかったのだ。

 まぁ何よりも、こんなとこに人がいるだなんて想像もしていなかったから。

 俺は曲がり角で、登ってきていた誰かに衝突してしまった。

 慌てて体勢を立て直して、すぐに相手の手を掴む。


「っと、すみません気づかなくって。」

「すんませんオレの方こそ……って桐生か?」

「あ?………チッ、テメェかよ。」


 俺が掴んでいた手は、制服姿の峰岸のものだった。

 忌々しく手を払う。

 少し彼我の距離を離すと、苛々しながら睨みつけた。


「退けよ能天気野郎、邪魔だろうが。」

「何だよそれ、そっちだって同じだろ。」

「チッ、いいから失せろ。」

「クソッ、何で御奈坂はこんな奴に。」


 互いに睨み合いながら一歩も引かず、そのまま時間が過ぎていく。

 下らない時間だ、無駄にも程がある。

 だけど何故か、脇をすり抜けようとは思えなかった。

 勝ち負けなんてないのに、何故かそれをしたら負けたように感じるからだ。

 こいつを退かすには俺に絡む理由を解消すればいい、ならこいつの関心事はあれしかない。


「その御奈坂なんだがな、お前の望み通りにしたぞ。」

「は?どういうことだよ。」

「俺はもうあいつと関わらない、昨日そう伝えた。だからテメェが俺に絡む理由はもうない。」

「………嘘だな。」

「何?」

「いくらオレが馬鹿でもそれが嘘ってことくらいは判る!」

「何言ってんだテメェ、もう話は終わりだっつってんだよ!」

「だったら何で部活中も端の方で小湊部長とわざわざ小声で話してんだよ!」

「被害妄想激しい奴だな、同じ部活ならそれくらいあんだろ。」

「小湊部長は今日弓道部に顔を出してるはずなのにか?」


 確かに、真面目な莉乃姉が他の部活中にわざわざ剣道部に出てくるはずはない。

 莉乃姉は弓道部でも部長を務めているし、私情を理由にして部活を抜け出すなんてしないはずだ。

 仮に御奈坂から呼ばれていても、せめて部活を終えてから会うだろうし。

 なら御奈坂に莉乃姉から用があって出向いたことになるが、それだと自分の都合で動いたことになる。

 莉乃姉がルールを破ってまで御奈坂に会おうとした理由。

 ………俺か。

 あの人は俺に関わることだと迷わずにルールやモラルを放り捨ててしまう傾向にあるからな。

 それは自惚れでもなく、今までの言動からも判る事実だ。

 それに御奈坂だって基本的には優等生だ、莉乃姉と同じく規律を乱したりしない。

 つまり莉乃姉は、御奈坂と何かを企んでいる。

 恐らく俺に関わることで。


「思い当たる節でもあったみたいだな。」

「はっ、だったら何だ?そんなもの、俺には関係ないだろ。誰が何処で何をしてようと、俺には欠片も知ったことじゃないな。大体、お前はその会話がまるで俺のせいとでも言いたげだが、お前はそれを確かめたのか?」

「いや、離れてたし小声だったら聞こえてない。」

「そりゃ随分と曖昧な理由で人を疑ったものだな、根拠もないくせに。」

「でもあの真面目な御奈坂がわざわざ部活中に秘密の話をするとは思えない!」

「だからどうした、それが俺に関わることだと裏付ける理由にはならないな。」

「違う、絶対桐生が関係してる!」

「何故そう言い切れる?」

「今まで御奈坂はそんなことしてなかった、日常が変わったのは桐生が関わり始めてからだ。小湊部長が桐生を部活に連れてきたって話も聞いた、今までなかったことが次々と起きてる。あの明るい御奈坂が辛そうな顔をし出した、その時も桐生が関わってたじゃないか。」


 チッ、普段は馬鹿面晒してるくせに余計なことに首を突っ込みやがって。

 適当に納得してれば、すれ違うだけで済んだのに。

 ならもう、こうするしか方法がないじゃないか。


「救いようのない馬鹿だと思ってたが、意外に頭は回るようだな。」

「なら…認めるんだな?」

「あぁ認めてやるよ、あいつらは俺に関わることで下らない時間を費やしてるんだ。呆れてものも言えない、馬鹿馬鹿しくて反吐が出る。」

「お前!自分のことを一生懸命考えてくれてる二人に対して何でそんなことを!」

「俺はそんなことをしてくれなんて頼んだ覚えもない、寧ろ勝手な自己満足に巻き込まれてるんだ。疎ましく思いこそすれ、感謝する理由なんてないな。」

「テメェ!」

「はっ、いい顔するじゃないか。気にくわねぇならかかってこいよ、正しさなんて勝った方にしか認められないんだからな!」

「二人に…謝れぇ!」


 振り上げられた拳が、俺の頬を強く打った。

 いつもやり合う奴らに比べたらまるで威力はない、腰の入ってない軽い拳だ。

 そのはずなのに、酷く痛かった。

 こいつの気持ちが籠っているからか、ただの暴力とは違う力が伝わってくる。

 純粋な気持ち。

 好きな人を馬鹿にされて憤る感情、それが俺の心にぶつかってくる。

 自業自得という言葉が、物理的に襲ってくるようだ。

 殴られて崩れた体勢を立て直す前に、次の拳が腹部を叩く。

 身体が上手く動かない。

 いつも通りにやれば難なく倒せるはずなのに、どうしてか身体が言うことを聞かなくなっている。

 どうしたんだ、俺の身体は。

 負けたくないって鍛えて、なのに何故拳を振るえない。


「御奈坂は本気で、お前のことを心配してるんだぞ!」


 チッ、解ってんだよそんなことは。

 御奈坂は驚くくらい相手を気遣う奴だ、その感情が今俺に向けられているのも理解してるさ。

 莉乃姉はどう見ても忙しくて、それでも俺のとこには来てくれる。

 逢坂だってそうだ。

 出会いは最悪とも言えるものだったが、もう悪意をぶつけられることもない、友達になってほしいとも言われた。

 誰もが俺には過ぎた人間だ、だからこそ俺のせいで下らない厄介事に巻き込みたくない。

 でも、結局は俺が傷つけた。

 …そうか、だから殴り返せないのか。

 こいつの言っている言葉が正しいと解ってるから、俺の身体は抗うことを止めてしまった。

 でも、それも仕方ないのかもな。

 この痛みも、こいつの怒りも、俺が招いたことだ。

 ここで俺が悪者として殴られれば、こいつも罪悪感は薄いだろう。

 思いっ切り気持ちをぶつけて、俺が余計なことさえしなければこいつも俺に関わらなくて済む。

 なら大人しく倒れればいい。

 今の俺には、この泥の上がお似合いだ。

 でも、きっとこいつも終われないだろうけどな。




「はぁ………はぁ…。」

「………。」


 どれくらい経っただろう、気がつけば攻撃は止んでいて、俺は階段の上に倒れていた。

 身体中が痛みでぼやけている、暫くは立ち上がれないだろう。

 泥まみれになり、片方の目は腫れてしまって開けない。

 満身創痍だ、口の中は血の味がするし、家に帰るのは苦労しそうだ、この恰好じゃ電車に乗れそうにもないし。

 だがこれで終わるはずだ、この面倒ないざこざも。

 姿は見えないが、荒い息遣いがすぐ傍から聞こえてくる。


「何で………一撃も反撃してこなかった?」

「テメェを倒してもあとが面倒だからだ。とっとと失せろ、もう満足しただろ?それとも、まだ殴り足りないか?」

「……。」


 沈黙が辺りを包む。

 俺は整っていく呼吸の音を聞きながら、ただ夕暮れに染まる空を見ていた。

 橙色に彩られた雲、名前も判らない鳥が、小さく切り取られた空を横断していく。

 湿って少し冷たい風が頬を撫でていき、殴られて熱をもった身体にはそれが心地いい。

 暫くそうしていると、少しずつ身体に力が戻ってきた。

 これなら家まで歩いて帰れるだろう、コンビニには寄っていけなくなったが。

 痛む身体に喝を入れて起き上がると、峰岸の方に視線を向ける。

 その顔は、苦痛に歪んでいた。

 当然だろう、無抵抗の人間を殴っても平気な奴なら殴り返せているだろうしな。

 俺は落ちた鞄を拾って乾いた泥を叩き落とすと、少しふらつく足取りで峰岸の脇をすり抜ける。


「桐生!」


 互いに背中を向けあった状態で呼び止められる。

 俺は振り向きはしないまま、それでも足は止めた。


「何だ?恨み言なら好きなだけ言えよ、気が済むまで殴ればいい。」

「お前は…オレより強いはずだろ!なのになんでわざと負けたりしたんだ!」

「……単純にテメェの方が強かった、それだけの話だろ。」

「そんなわけあるかよ!オレはこの前、まったく桐生に勝てる気がしなかったんだぞ!」

「………なら尚更テメェの勝ちってことじゃねぇか。まぁ、テメェじゃ一生意味が解らないだろうがな。」


 自分の大切な人のために怒り、勝てないと解っている相手にも戦いを挑む。

 そんな無謀なこと、気持ちが、心が強くなければ絶対にできない。

 口でどれだけそう言って、頭でどれだけ考えたって、実際にそんな状況になったら案外身体は動かないものだ。

 固い決意なんてものは、心の奥底から湧き上がってくる恐怖に容易く捻じ伏せられてしまう。

 決意や覚悟は外界からの攻撃から心を守るための外装であって、内側から膨れ上がるものを止めるためにはできていない。

 結局のところ最後は自分との戦いだ、そしてこいつは己に打ち勝った。

 決意の内側に張った勇気で、こいつは恐怖を捻じ伏せたんだ。

 かつての俺はできなかった、今もできる自信はない。

 だから今は俺よりも、こいつの方が強いってことだ。

 まぁこいつは、強さの意味を喧嘩の強さと勘違いしてるだろうけど。


「俺には殴られる理由があった、でも殴らなかったのは俺なりの反撃ってやつだ。実際テメェは自分のやったことに疑問を感じ始めてる、本当にこれは間違っていなかったのだろうかと。その疑問を起こさせることこそが俺の反撃だ、殴られるよりはよほど辛いはずだからな。」

「桐生……まさか最初の酷い台詞は…。」

「はっ、それはテメェの勘違いだ。でも答えはテメェが考えろ、何にでも代償はついて回るんだよ。」


 自分のために殴らせて、相手には疑問を抱かせる。

 卑怯だと罵られてもおかしくないやり方だ、まったく反吐が出るな。

 悪者にもなりきれない半端な俺は、やはり誰とも馴れ合わないのが得策だ。

 もう言葉は返ってこないと踏んで、俺はまた階段を降り始める。


―――俺が進むのは果て無き荒野、誰にも理解されない孤独の旅路。




 随分と時間をかけて、俺は久し振りに感じる自宅に辿り着いていた。

 夜の帳はとうに落ち、辺りは街灯と月明かりが照らす夜道へと変貌している。

 莉乃姉が持っていた鍵はポストに入っていて、ドアもきちんと施錠されていた。

 その勝手に作られた合鍵を使って鍵を開けると、冷たい鉄の扉を開く。

 静寂が支配するワンルーム。

 電機は当然点いていなくて、人の気配は微塵もない。

 一人暮らしの部屋としては正しい姿なのに、それは酷く寂しさを湛えている。

 鞄をテーブルに放り投げて、泥まみれの制服を脱ぐ。

 つまらない感傷に浸る前に、まずはこの汚れを落とさなければ。

 脱衣所に行き洗濯機に汚れた服を放り込むと、髪を解いてシャワーを浴びる。

 冷たい水はすぐに温水に変わり、乾いてしまった泥を排水溝へと流していく。

 風呂場の壁面に付けられた鏡には、片目の潰れた俺が映っている。

 馬鹿正直に顔ばかり殴られたから、首から下にはほとんど痣もない。

 だが顔は、いっそ病院で診てもらう方がいいくらいに腫れていた。

 顔にシャワーを当てると、鈍い痛みが熱と共に沁みてくる。

 他人を傷つけた代償としては足りないが、もともと偶然にもたらされたものだ、これ以上は望めない。

 これだけの傷を負っていれば、余計に人は寄り付かなくなるだろうしな。

 身体の汚れを落とすと、髪を乾かして部屋に戻る。

 そこで気づいた、テーブルの上の紙片。

 誰からの物かはすぐに判った。

 めくってみると、そこにはとても綺麗な筆跡でこう書かれている。


「あたしの座右の銘は百折不撓だ、真也ならその意味が解るだろ?だから絶対に諦めないぞ!それと、夏音は冴塚が連れていく、お前はあたしを待っていろよ!」


 読んで初めて部屋を見回して、あの黒猫がいないことに気がついた。

 まったく恐れ入る、こうなることも予想済みってことか。

 確かに今の俺じゃ、夏音の世話までできないだろうからな。

 心の中で莉乃姉と恵恋に感謝しつつ、俺は倒れ込むようにベッドに横になる。

 すると唐突に、外から雨の降りだす音が聞こえてきた。

 それはまるで誰かが泣いているように見えて、俺は静かにカーテンを閉じる。

 寂しい音色を聴きながら、俺は疲れた身体を泥のような眠気の中に投じていった。




 時は刻々と過ぎていく。

 無価値な日々は色褪せたままで、気がつけば梅雨が終わり、世界は段々と夏の気配に満たされ始めていた。

 街の木々には俄かに蝉たちが付き始め、鼠算式に数を増やした奴らは夏の風物詩ともいえる大合唱を響かせている。

 風には湿気が濃くなって、まとわりつくような日本の暑さが、身体中の水分を汗として押し出していく。

 森は少しずつその厚みを増して、深く濃密な緑が鬱蒼と生い茂り、夏の爽やかさを感じさせる。

 空は碧く、飛行船みたいな形をした大きな雲がゆっくりと街の上を横断していく。

 そんな夏の手前、燦々と輝く太陽の下。

 俺は更に伸びた前髪を鬱陶しく思いながら、一学期最後の学校へ向かっていた。

 あの涙を見た時から、もう二度の満月を跨いでいる。

 御奈坂はあの階段でのことから一度も話し掛けてはきていない。

 時折視線を感じることはあったが、最近ではそれもなくなってきた。

 たまに帰るとき部活へ向かう後姿を見かけたりしたから、熱心に剣道に打ち込んでいるのだろう。

 莉乃姉は本当に会わなくなった。

 当然全校集会の時などには姿を見るが、それは会ったには含まれないだろう。

 まぁ、あれだけ色々と兼任していれば近づく暇もない。

 最強無敵の姉御肌、天下御免の生徒会長様だ。

 今まで俺の所に毎日どうやって来ていたのかを訊いてみたくなるほどに、莉乃姉は毎日忙しそうに奔走していた。

 龍矢は学年が違うからどうなったのか判らない。

 でもきっと、剣道部で御奈坂と楽しくやっていることだろう。

 恵恋は一度だけ俺の家にやってきたことがあった。

 夏音はちゃんと診察して、今は自分の猫と仲良くやっていると。

 でも時々、不意にいなくなってしまうことがあるとも言っていた。

 翌日には帰ってくるそうだが、何処に行っているのかは判らないそうだ。

 別に引取りに来いとか、そういったことは言われなかった。

 自分の世話ができるようになってからでないと、きっと引き取らせてはもらえないだろうな。

 そんな風に、俺の周りからは人がいなくなった。

 あれからずっと独り、同じ毎日を繰り返して過ごしている。

 特に目的もなく、腐りきった毎日。

 何度も手首を切り裂きたくなった、自分を壊したくなった。

 駅前の奴らに売られた喧嘩を八つ当たりのようにこなして、全員を叩き潰し、毎日のように怪我をする。

 その痛みを動力源にするように、身体から生傷が絶えなかった。

 救いのない日々を望みながら、まだ救いを求めている。

 たった二月、それだけでこの心はボロボロに砕けそうなほど憔悴したのだ。

 だが、どれほどに死を求めても、逃げることは許されない。

 俺の命は艱難辛苦に満ちていなければならない。

 仲間や家族、ましてや支えなんて手にしてはいけないんだ。

 幸せの中にいる人間が罪を償うだなんて、一体どの口が言うのか。

 自ら苦痛の道を選んだ人間でなければ、そんな言葉は風に舞う綿毛のような軽いものになってしまう。

 徹底的な孤独、ただ一人にも理解されてはならない。

 だからこそ、夏休みが来ることは好ましい。

 約一ヵ月半の間、俺にとって余計な出来事の可能性を潰せる。

 まずは一つの区切りを終わらせに行こう、そうでなければ夏休みは始まらない。

 今日は終業式だけだから学校の時間はごく僅かだ、厄介事が起こる隙もないだろう。

 テストも勉強に時間を費やしただけあって学年一位だったし、補習の類もないはずだ。

 そうして無事に卒業したら、すぐに働こう。

 なるだけ自営業が良いだろう、余計な上下関係もなくて済む。

 幸いにも両親が遺してくれた遺産は莫大だ、後は独学で営業に必要な知識を蓄えればいい。

 最低限生きていけるだけの収入があれば十分だ、裕福さなど望むべくもない。

 そんな将来設計を立てていると、いつの間にか学校の辺りに着いていた。

 時刻は午前7時半、周りには生徒の姿も少ない。

 だがやはりというか、校門の前には生徒会と風紀委員の連中が服装チェックに勤しんでいた。

 学期末にまでご苦労なことだ、流石は校則の番人といったところか。

 寝惚け眼を擦ってまで他人の服装を注意しなければならないなんて、生真面目な性格じゃないとできそうもないな。

 ま、今の俺からすればそんな生真面目さを褒めてやるつもりにはなれないが。

 ここからは見えないけど、きっと莉乃姉もあそこにいるだろう。

 なら素直に校門を通るわけにはいかない、いつもの裏口に行かなければ。

 元々の格好からして校則違反なんだ、仮に莉乃姉がいなくても止められてしまう。

 相変わらず鍵の壊れた柵の扉を通り抜けて校内に侵入すると、以前と同じように校舎裏側から昇降口へと移動する。

 何だか、まるでデジャヴだ。

 もし前の時と同じならば、ここで御奈坂が水を飲んでいる。

 しかし今日の水飲み場には誰もいない。

 当然だ、終業式の朝にまで練習する奴が何処にいる。

 そもそも何の音も聞こえてこないし、人の気配も皆無だ。

 こんな早朝から熱心に活動しているのは、校門前に張り付いている奴らくらいだろう。

 昇降口で靴を履き替えると、真っ直ぐに教室に行く。

 誰もいない静かな教室を見渡して、自分の席に鞄を置いた。

 暫くはここに来なくても済むのか、そう思うと随分と気が楽だな。

 いるだけで煙たがられ、皆は一様に距離をおこうとする。

 そこに存在しているだけで邪魔なのであれば、俺という存在はこの場所には不要なのだろう。

 ここには確かに桐生真也の机があるが、そこに俺のいるべき隙間は用意されていない。

 誰もが自分に害をなすものは嫌うし、そうなりそうってだけで近寄らなくなる。

 別にどうでもいい人間に嫌われようが知ったことじゃない、それはお互い様だろうから。

 少なくともここじゃ、息苦しいだけだ。

 俺と視線が合っただけで向けられる恐怖の感情、まるで不思議な生き物を見るような奇異の視線。

 そういったものとこれからも向き合っていかなきゃいけない、だからこそ学校は休めない。

 クラスメイトには申し訳ないが、卒業までは我慢してくれ。

 さて、とりあえず終業式までは時間がある。

 またいつものように、屋上で空を眺めて時間を潰そう。




「それじゃあ全員体育館に移動してくれ、体育館履きを忘れるなよ?」


 担任の号令を合図にして、生徒たちが立ち上がって体育館を目指し始める。

 学生が待ちに待った終業式だ、自然と皆の表情も緩み、もう明日からの予定を話している者までいるくらいだ。

 一年の中で最も長く、そして遊ぶことに適した長期休暇。

 プールや海水浴、旅行やスポーツ、部活の試合や合宿。

 まぁ、さっきから至る方向から聞こえてくる単語を並べてみただけなのだが。

 それほどにこの感情の渦は凄まじいものがある、普段は体育館なんかにここまで嬉々として行かないのにな。

 俺もロッカーから体育館履きを取り出すと、移動を始める列の最後尾について体育館へと向かう。

 渡り廊下を通って、割り当てられた靴箱に上履きを入れる。

 体育館履きに履き替えると、生徒が犇めく入口の流れに滑り込んだ。

 蒸し暑さ、ここに極まれり。

 ほんの少しの距離なのに、体温は一気に上昇した。

 木製の壁と床、鉄格子のついた窓に囲まれた広い空間。

 壁面下部に備えられた窓は全開にしてあるが、それでも風通しは最悪だ。

 おまけにこれだけの人数が集まっている、体感温度は鬱陶しさも相まって三割増し。

 自然と汗が滲み出てくる。

 周りを見れば様々な道具で風を作り出し、自分や友達を冷ましていた。

 チッ、俺も団扇くらい持ってくるんだったか。

 下敷きの立てるペコペコという音を耳障りに思いながら、俺は自分のクラスの一番後ろに並んだ、これでもクラスでは一番背が高いからな。

 体育館の熱気が最高潮になったところで、副校長が壇上に上がった。


「皆さん、静かにして下さい。そうでないと、いつまでもこの蒸し暑い体育館から出られませんよ。」


 その言葉は全校生徒の心を動かし、途端に静寂が訪れた。

 若干の話し声と、相変わらず下敷きの音だけは響いていたが。

 しかし終業式をするには十分な静寂だ、教員も完全な静けさなど夢物語だと解っているのだろう。

 そもそも暑いのはここにいる全員が同じだ、この鬱陶しいペコペコ音も大目に見てくれているらしい、心の広い教員たちだ。

 静かになったのを見計らって、副校長がマイクで話し出す。


「では一学期の終業式を始めたいと思います、まずは校長先生のお話から。校長先生、お願いします。」


 副校長が壇上から降りるのと入れ替わりに、校長が壇上のマイクを取る。

 生徒たちは面倒そうな声を上げながらも余計な時間を作らないことを得策としたのか、それほど小声が増えることはなかった。

 夏休みに羽目を外しすぎないようにだとか、飲酒喫煙に手を出さないようにだとか、当たり障りのない定型文がマイクを通して体育館に響いていく。

 俺はそれらの台詞の殆どを右から左へ聞き流しながら、例に漏れず夏休みの計画を立て始めていた。

 今日と明日で部屋の掃除とか、身の回りを整理しよう。

 何日か家を空けるから、賞味期限がヤバそうなものは先に処分してしまわないと。

 それに新幹線の席を取らないといけないし、どうにかして予約しないとな。

 家にはパソコンもないし、駅前とかなら何処かで予約できるだろうか。

 今までは両親の車で行っていたからな、一人で行くのは初めての経験だ。

 新幹線に乗ったのは中学の時の修学旅行以来か、ちゃんと予約できればいいのだが。


「……や。」


 一応久し振りに顔を出すんだし、何かお土産を持っていくべきだろうか。

 俺がいつまでも電話というものを持たないせいで、連絡手段はたまに来る葉書くらいだからな。


「桐生真也!」


 っ!?

 突然大声で名前を呼ばれて、俺はそこで我に返った。

 随分と集中して考えていたらしい、周りのことなんて全く気にしていなかった。

 周りを見ると、何故か多くの生徒が俺の方を見てひそひそと何かを囁き合っている。

 何なんだ一体。

 壇上を見る。

 そこにはマイクを持って仁王立ちしている、天下無双の生徒会長がいた。

 まさか…あそこから俺を呼んだのか。

 馬鹿野郎、何をするつもりだ。

 莉乃姉の突然の行動に、教員たちも慌て始めている。

 それも仕方がないだろう、何せあの莉乃姉だ、こんなことをするだなんて誰一人予想なんてできない。

 莉乃姉をよく知っている部活や委員会の連中だって、こんな公の場でまで弟の名前を叫んだりすると思わないだろう。

 誰もがそんな意味不明な出来事に唖然とし、対応できないでいる。

 しかも、騒ぎはそれだけでは済まなかった。

 ウチのクラスの女子たちから、誰かを止めるような声が上がったのだ。


「緋結華、何処に行くの!?」

「勿論、莉乃さんの所ですよ。」

「え?どうして!?」

「こうでもしないと、変われないから。だから、無理にでも目を覚まさせにです。」


 どうやら御奈坂が莉乃姉の所に行こうとしているようだ。

 混乱する友達を余所に、御奈坂は壇上まで一気に走っていく。


「オレも行かなきゃな!」


 御奈坂を合図にしていたかのように、俺の少し前に並んでいた峰岸まで走り出した。

 クソッ、何が起きてんだよ。

 壇上の莉乃姉は勝ち誇ったような笑みを浮かべて、今も俺を見続けている。

 隣のクラスでは、恵恋が走りだした。

 そして一年の方からも、誰かが走り出したようだ。

 まさか、逢坂か?

 もう疑いようがなく、莉乃姉たちは俺に何かを伝えようとしている。

 こんな騒ぎを起こしたら、全員ただでは済まないのに。

 教員たちも漸く動き出したのか、莉乃姉を止めようと壇上に上がろうとしている。

 だがそれを止めるように、何人もの生徒がその前に立ち塞がった。

 あれは確か、運動部の部長たちだ。

 ってことはあいつらも、莉乃姉に何か言われて加担してるってことか。

 これだけのことをして、一体何を俺に伝えようとしてるんだ?

 莉乃姉だって馬鹿じゃない、どんな処分を食らうのかは一番熟知している。

 それは恵恋だって同じ。

 他の三人も、下手をすれば謹慎だ。

 部長たちなんて、試合出場を止められるかもしれないのに。

 大混乱の様相を見せている体育館は、もはやお祭り騒ぎだ。

 誰かが便乗しようものなら、生徒全体が動き出すかもしれない。

 そんな中で御奈坂たちは壇上の莉乃姉の隣に辿り着くと、莉乃姉は頷いてマイクを握った。


「どうだ真也、凄いだろう!あーっはっはっは!」

「馬鹿姉!何をしてんのか解ってんのか!」

「あはは、あたしが解ってないと思うのか?さて、なら本題に入るぞ……校長先生!」


 いきなり呼ばれた校長が、驚いた顔で莉乃姉を見る。

 莉乃姉は強気な笑みのまま、制服から何かを取り出した。


「ここにあるのはあたしの退学届です、あたしは今日をもってこの学校を退学します!」


 目の前が真っ白になるかと、本気で思った。

 何を言い出すんだあの馬鹿姉は。

 学校一の優等生、完全無欠の生徒会長が終業式を乗っ取って退学宣言だと?

 馬鹿げてる、そんなおかしなことがあってたまるか。


「私も辞めさせてもらいます!」

「ボクもです!」

「オレもだぜ!」

「わたしもですね。」


 壇上に並んだ五人が、校長に見えるように高々と退学届を突き上げた。

 全てが理解の範疇を超えていて、頭が混乱している。

 何故こんなことになった、何が莉乃姉たちをこうさせた。

 いや…こんな自問は無意味だ。

 原因は俺。

 あの涙を流させてしまったのがそもそもの発端で、莉乃姉はあの手紙の通りに行動した。

 でも、俺はもう関わらないと決めたのだ。


 ―――もう関わってしまったのに?


 …そうだ、今更無関係になんてなれないんだ。

 莉乃姉は俺の名を呼んだ、どう言い繕っても無関係には扱われないだろう。

 それに、俺のためにここまでしてくれた人たちを、俺は無視していられるのか?

 無理だ、絶対に。

 今だって、走りだそうと身体が疼いている。

 放っておけよと頭では考えて、心では助けてくれと叫んでいる。

 相手を拒絶する台詞を吐いて、本当は掴んでほしくて手を伸ばしている。

 こんなにも弱い。

 でも、これが今の俺なんだ。

 他人に助けてもらわなければ辛くて、生きていく理由まで他人に押し付けて。

 みっともない、けれどもう曝されてしまった。

 莉乃姉たちの行動で、固いと思っていた決意の鎧が壊されてしまったから。

 鎧を失った脆弱な心は、もう独りは嫌だと叫び、崩れる寸前なのだ。

 莉乃姉を見る。

 やっと意味が解ったよ。

 俺が動かざるをえない状況を作り出して、俺自身に莉乃姉たちの元へ戻らせる、それが莉乃姉の計画だ。

 俺の性格…いや、本質を理解している莉乃姉だからこそ考えられた計画だろう。

 自分のせいで誰かが傷ついたり厄介事に巻き込まれることを嫌う俺の本質、真耶姉さんは優しいんだと評価していた感情、それを莉乃姉も知っているから。

 クソッタレ、完全に俺の負けじゃないか。

 もう俺の心は、完全に決まっている。

 そんな俺の背中に追い風を当てるように、莉乃姉が笑いながら叫んだ。


「さぁ真也、覚悟は決まったか?あたしたちはお前がここに辿り着いた時に退学届を撤回する、来なければあたしたちはこのまま辞めるぞ!」

「私も、覚悟は決めましたから!」

「御爺様に怒られるのは怖いけどさ、友達を失う方がもっと怖いんだよ!」

「桐生!オレたちの覚悟、無駄にするなよ!」

「いつまでもわたしに夏音を預けておくつもりですか?」

「………チッ、どいつもこいつも余計な世話焼きやがって。」


 姉さん、ごめんな。

 俺が弱いから、莉乃姉たちに迷惑かけちまった。

 もっと強くなりたいけど、それはどうやら俺だけじゃ無理みたいだ。

 独りだった、いや、これからは一人としてあいつらと共に在ろうと思う。

 自分の都合ばっかりで、どうしようもなく我が儘だ。

 でもこんな俺を友達として見てくれる奴らがこんなにもいる。

 あんなにも辛く当たったのに、それでも共にいたいと言ってくれる奴らが。

 こんな幸福、俺が手にしても良いのかな。

 姉さんを助けられなかった俺が、幸せになっても良いのか?

 勿論、答えなんて永遠に得られない。

 だから心の中でもう一度祈るように言う。

 ごめん、姉さん。

 俺は、皆のところに行くよ。

 今まで迷惑をかけた分、それ以上に借りを返してくる。

 それまで、姉さんは待ってくれるか?

 目を閉じる。

 なら、最初の恩返しだな。


「来いよ真也!あたしたちのところへ!」

「あぁ……後悔するなよ!」


 走りだす。

 生徒の隙間を縫うように。

 突然走りだした俺に驚いた生徒たちが慌てて道を開けてくれる。

 状況を理解した連中は、俺に向かって声援を飛ばしてきた。

 誰も立っていない最前に辿り着く。

 五人の手が伸ばされる。

 俺はその手を掴み、壇上に引っ張り上げられた。

 莉乃姉が不敵な笑みで腕を組みながら、俺の前に立つ。

 その手は俺の手を掴んで、強く握り締めた。


「やっと来たか。」

「ふん、俺のせいで退学されちゃ堪らないからな。」

「やれやれ、素直じゃないな真也は。」

「ホントですよ!私たちにくらい、素直でいて下さい。」

「まったく、ボクを無視しようなんて甘いよ。カフェに行ったくらいで終わりにしないでほしいなぁ。」

「いい加減引き取りに来ないと、夏音はわたしの子にしてしまうところでしたよ。」

「オレもいるぜ桐生!」

「あぁ、いたのかお前。」

「そりゃないぜ桐生!」


 叫ぶ峰岸を無視して、俺は莉乃姉を見る。


「待たせたな莉乃姉。あと、その……ごめん。」

「ふふん、あたしを泣かせたからにはとことん付き合ってもらうぞ。……もう、逃がさないからな真也!」

「あぁ、また世話になる。」

「なら、これは要らないよね。破ろうか。」

「そうですね、結構力作でしたが。」

「そうだな、破っちまうか!」

「莉乃さんも、破りましょう!」

「よし、せーのっ!」


 五枚の退学届が真っ二つに引き裂かれる。

 教員を塞き止めていた各部長たちも、その結果に歓声を上げた。

 一連の騒ぎを見ていた生徒たちも、便乗して大騒ぎだ。

 体育館はかつてないほどのお祭り騒ぎ。

 大勢の教員に俺たちは取り押さえられ、残った教員は残りの生徒を鎮静化しようと動き出す。

 俺たちは壇上から下ろされると、そのまま揃って職員室に連行される。

 職員室では難しい顔をした校長並びに副校長と、その他様々な表情をした教員にしっかりと説教を食らった。

 各部長たちは莉乃姉に協力させられたというシナリオだったらしく、彼らに関しては一応お咎めなしということに落ち着いた。

 しかし俺たちはそうもいかない。

 莉乃姉は首謀者として裁かれ、生徒会長は辞任、風紀委員からも除名された。

 更には部長職の剥奪。

 弓道部と剣道部での扱いは一般部員に格下げとなり、俺以外の全員が夏休み中の活動制限処分となった。

 恵恋も生徒会書記を辞任、これで生徒会から二人も抜けたことになる。

 これは夏休み明けに生徒会役員選挙と、剣道部と弓道部の部長新任会議となるだろうな。

 夏休み前ということで甘くなったのか、停学とはならなかった。

 だがそれでは、俺に対する処分がない。

 よって下された処分は、常に学年10位以内の成績を維持すること。

 つまり今まで通り勉学に励み、生徒の模範となれということだ。

 俺に対しての処分が弱い気がしたが、原因だとしても実行に加担したわけじゃないからということらしい。

 この程度で済んだのは、退学にするには惜しいと思われたからだ。

 俺と莉乃姉は互いに学年トップクラスの学力、御奈坂、恵恋、逢坂もそれなりに上位にいる。

 峰岸は残念なレベルではあるが、まとめて六人と扱われたから難を逃れた感じだ。

 莉乃姉が一番重い裁決だったが、本人は今まで以上に俺といられるとか言って満足そうにしていた。

 まぁそこまでの覚悟は決まっていたのだろう、そんな清々しさを持てるのは莉乃姉らしい。

 六人で深く頭を下げて、ひとまずはそんな方向で話はまとまった。

 その後は体育館に戻り、全校生徒の前で騒ぎを起こしたことを謝罪し、莉乃姉は生徒会長を辞任したことを伝えた。

 生徒の多くはその結果にざわめいたが、これだけの騒動を起こしたからには仕方がないといった雰囲気だ。

 校長から莉乃姉の処分については詳しく説明され、関係者たちは残念そうに項垂れた。

 それに関してはやっぱり莉乃姉も申し訳なさそうだったが、きっと可能な限り手伝っていくつもりなのだろう。

 全ての話が終了すると、誰もが忘れない終業式は漸く終わりを迎えたのだった。




 放課後、反省の意を示すために六人で色々な人たちに謝りに回った。

 まずは職員室。

 既に一度は謝っているが、一番迷惑をかけた人たちだからともう一度きちんと謝った。

 次に向かったのは各部長たちの所だ。

 サッカー部や野球部の部室に赴き、他の部員たちも含めて謝罪した。

 まぁ彼らは元々莉乃姉に憧れていたし、あのお祭り騒ぎは楽しかったと笑っていたが。

 弓道部と剣道部には特に深く頭を下げた。

 何しろ大切な時期に最も強い部長が辞任し、剣道部にいたっては四人もの部員が試合にも出られないというのだ、非難されても仕方がない。

 だが彼らは怒らなかった。

 それよりも呆れていた、と言うほうが正しい。

 いつも莉乃姉を間近に見ていた彼らは、俺のこととなるとリミッターが外れることくらい熟知していたのだ。

 寧ろ御奈坂や逢坂、それに峰岸が協力していたことの方が意外だったと言われて、三人は顔を見合わせて苦笑した。

 四人は部活を辞めたりせず、二学期からは必ず戻ってきてほしいとお願いされていた。

 莉乃姉は苦笑しながらも頷き、お礼を言ってその場を後にする。

 さて、最後の難関だ。

 目指すは四階、生徒会室。

 莉乃姉は階段を上りながら、そわそわと落ち着かない。


「うぅー、真也―。」

「あのな莉乃姉、あんまりくっつかれると歩きづらいんだが?」

「莉乃さん、頑張りましょう!」

「そうだよ、やっぱりきちんと謝らないと。」

「まぁわたしは始めからそれほど役にも立っていませんし。」

「恵恋、お前なぁ。」

「オレがついてますよ小湊部長!」

「…もう部長じゃないぞあたし。」


 峰岸の馬鹿発言で静まり返る。

 やれやれ、仕方ないな。


「莉乃姉、ちゃんと謝ろう。俺も隣にいるから。」

「真也………それなら頑張れそうだ。」

「オレの時と明らかに違う反応について抗議したい!」

「峰岸先輩、諦めましょう。」

「莉乃さんは真也くん一筋だからね。」

「いや御奈坂違うんだ!オレはそんなつもりで言ったんじゃ……。」

「お前、自爆してんな。」

「言わないでくれ桐生、解ってるから傷を抉るな!」


 無理矢理に明るくなる雰囲気。

 だがそんな雰囲気も、生徒会室が近づくにつれて静かになっていく。

 莉乃姉もいつもの元気さは身を潜めて、俺の制服を握り締めている。

 その手は震えていた。

 後悔ではなく、罪悪感からくる震え。

 俺が言えた話ではないけど、周りからしたら自分の都合で終業式を滅茶苦茶にした首謀者だ。

 罰は負った、だがそれは学校に対してだけ。

 今後実際に迷惑を被るのは、他でもない役員や部員たち。

 謝るために回っている内に少しずつ積み重なった罪悪感が、ここにきて覚悟を揺るがしたのだ。

 怒られるのが怖いんじゃない、拒絶されることこそが怖い。

 ここまでに謝ってきた人たちは、笑って許してくれた。

 だが最後の相手は校則の番人、罵声を浴びせてきても不思議じゃない。

 当然莉乃姉はそれも視野に入れていた。

 実際に現実になって初めて襲ってきた不安。

 俺のために多くを失った莉乃姉に、俺は恩返しをしなくちゃいけない。

 それならばまずは、この不安を少しでも拭ってやらないと。


「なぁ莉乃姉。」

「…なんだ?」

「俺が言えた話じゃないけどさ、一人で責任を抱えなくていいんだ。俺を暗闇から引き上げてくれた莉乃姉が、そんな暗い顔してちゃおかしいだろ?」

「…そうだな、真也の言う通りだ。……あっはっは、あたしに弱気は似合わないな!よし、なら行くぞ!」


 後ろを振り返ると、三人も笑顔で頷いた。

 恵恋は例に漏れず無表情だったが。

 そうして辿り着いた生徒会室。

 莉乃姉は躊躇わずに、いつもの調子でその扉を開けた。

 一斉にこちらに向く視線。

 規則正しい格好の生徒たちが、無言で俺たちを見ていた。

 集まっていたのは生徒会と風紀委員の役員たち。

 莉乃姉が一歩前に出る。


「今回は本当にすまなかった!あたしの勝手で急に辞任という形になり、皆には迷惑をかける。申し訳ありませんでした!」


 俺たちも前に出て、同じように謝罪した。

 静かになる生徒会室。

 やけに鼓動が耳に響く。

 だが、想像していたのとは違う言葉が、俺たちの耳に届いた。


「頭を上げてください会長、いえ、小湊さん。それに他の方々も。」


 言われ頭を上げると、そこには楽しげに笑う役員たちがいた。

 俺と莉乃姉は顔を見合わせて、不思議なその光景に首を傾げる。

 眼鏡をかけた知的で真面目そうな少女が、一番奥で微笑みながら佇んでいた。


「何故怒らないんだ?」

「小湊さんは怒られにいらしたんですか?なら怒りますけど。」

「そうではないが、しかし…。」

「確かに私たちは貴女を糾弾しなければならない立場にあるでしょう。ですが私たちはそれよりも驚いたんです。そして、嬉しく思います。」


 意味が解らずに、俺たちは顔を見合わせる。

 眼鏡少女は俺たちの様子に頷くと、静かに語りだす。


「私たちは皆、小湊さんに憧れてこの部屋に集まった者たちです。貴女となら、もっと良い学校生活を作れると信じて。そして、それは期待以上でした。貴女は何処までも真っ直ぐに意見を出し合い、真摯に話を聞き、生徒の信頼を高めていきました。まさに理想の会長、でも同時にこうも思います。私たちは本当に役に立っているのかと。」


 …それはなんとなく解る。

 莉乃姉は万能すぎて、そう感じてしまうのも無理はない。

 最強でありながらも孤高ではなく、自分に驕らず、それでいて自信に溢れている。

 誰にでも分け隔てなく接する態度と、人を惹きつけるカリスマ性。

 こいつらが憧れて生徒会に入るのも頷ける、真面目な人からすれば莉乃姉は理想だ。

 真面目な奴ほど明るい性格から離れていくはずなのに、莉乃姉は真面目でいながらも明るい。

 真面目な奴は今の世の中じゃ煙たがられたりもするのに、莉乃姉は寧ろ物事の中心にいる。

 憧れもするだろう、だがそれだけにショックだったはずだ。

 真面目で明るい最高の生徒会長が、あんな騒ぎを起こしたことに。

 なのに何故、こいつらは笑っているのだろう。


「今回の騒動を見て、私たちは見捨てられたのかと思いました。私たちが至らないから小湊さんの負担となり、重大な立場に疲れさせてしまったのかと。でも、そんなのは勘違いだったのだと今知りました。私たちを見捨てたのなら、わざわざこうして謝りに来てくれるはずありませんから。貴女がここに来る間悩みましたが、今はとても安心しているんです。だって、私たちは見捨てられてもいなかったし、小湊さんは悪人になったわけではなかったのですから。」

「でも、あたしは自分の願いを叶えるためだけにあの騒ぎを起こした。でもやり方は間違っていたのも自覚している、だからこそ皆に謝りに来た。」

「えぇ、それだけで私たちは十分です。ですが貴女は罰を受ける覚悟も同時にしてきた、なら相応の罰も用意しなければなりませんね。何しろ私たちは校則の番人、罪人をただで帰すわけにもいきませんから。」

「そうだ、あたしはどんな罰も受けよう。」

「俺もだ、莉乃姉だけに罪を被せるわけにはいかない。」

「ふふふ、あなたは見た目に反してとても優しいんですね。今までは外側しか見ていなかったので、私たちも会長の態度は疑問に思っていましたが、なんとなく解った気がします。さて、では罰を言い渡しましょう。」


 六人が全員、息を呑んで判決を待つ。

 眼鏡少女は真剣な顔をした後、しかし不敵に笑ってみせた。


「貴女が抜けた穴は大きい、私たちが埋めるのは骨が折れるでしょう。なのであなたたち六人には、生徒会の緊急要員として、必要な時には手伝っていただきます。……貴女をこんな風に扱うのは、私たちとしても心苦しいのですよ?」

「あっはっは、あたしを手駒として使おうとは……うん、十分だよ。すまない、ありがとう。」

「こちらこそお世話になりました会長、これからもよろしくお願いしますね小湊さん。それに冴塚さん、小湊さんをよろしくお願いします。」

「はい、わたしにできる範囲でなら。」


 役員たちがこちらを向き、揃ってお礼を言った。

 莉乃姉が積み上げた信頼の証。

 これまで誠実に頑張ってきたからこその、この結末。

 まったく、莉乃姉の凄さには驚かされる。

 こんな人に恩返しをしていくなんて、俺はとても大変な選択をしたみたいだな。

 なぁ姉さん。

 罪滅ぼしは、予定より遅れてしまうかもしれない。

 でも、莉乃姉たちにはきちんと礼をしておきたいんだ。

 それまでは、ちょっと我儘を我慢してほしい。

 卒業するまでに、ちゃんとけじめをつけるからさ。




 役員たちに見送られ、俺たちは生徒会室を後にした。

 これから彼女らは、莉乃姉と恵恋に割り当てていた仕事の再編成をしなければならないらしい。

 莉乃姉は最後まで申し訳なさそうにしながら、静かに頭を下げていた。

 全員揃って、そのまま学校を出る。

 空は清々しいほどの青空で、これから始まる学生たちの日々を応援しているかのようだ。

 そう、これで一学期は終わった。

 明日からは夏休み。

 そして、俺は一つの答えを示す時。

 まぁ、若干一名補習があるようだが。


「この後はどうしますか?」

「ん、何処かに行くのか御奈坂?」

「あたしがフラトレスに行ってみたいと言ったんだが、流石に今日は不謹慎だろうか。」

「別に大丈夫じゃないかな、きちんと謝罪はしたんだし。」

「オレもそう思う。オレはまだ皆のことあまり知らないからさ、懇親会みたいな感じで喋りたい。」

「確かにそれはいい案だ。では一度家に帰って、夕方に木野塚商店街の入り口で落ち合おう。場所がわからない人はいるか?」

「行ったことないけど、多分大丈夫だと思う。」

「もし不安なら私と一緒に行きましょう龍矢くん、木野塚駅前でいいですか?」

「あ、できればオレも一緒でいいか?駅前集合ならオレも行きやすいし、オレんち皆と方向が逆なんだよ。椚町にあるからさ。」

「わたしも家は椚ですから、峰岸さんと一緒に合流することにしましょう。」


 あぁ、だから峰岸とは妙にあの自然公園で会うことがあったのか。


「では三人は4時に駅前集合で。真也くんも行きますよね?」

「悪いが俺はパスだ、やることがあるんでな。」

「ダメ、真也は絶対に来い。」

「いや、俺の話を聞いてたか?」

「聞いてたけど、大体何だその用事って。」

「新幹線のチケットの予約、明後日までにはここを出る。」

「え、真也くん何処かに旅行ですか?」

「いいね、ボクたちも行こうよ。」

「ダメだ、これはそういう目的じゃないからな。………遊びに行くならまた今度に。」

「………っ!!」

「あ、小湊先輩が固まった。」

「いえ、今のは凄まじい破壊力でしたよ。流石は真也くん、莉乃さんを一撃で停止させましたね。」

「……これがモテる男のテクニックかよ、やるな桐生!」

「あ?何を意味の解らないことを。」

「本人は気づいてませんね、天然ですよこれは。」

「桐生先輩はそういうタイプじゃないですか。」

「…はっ!あたしの真也は何処だ!?」

「いつから俺は莉乃姉の物になったんだよ。」

「そこにいたか!よーし、抱きしめてやろう!」

「何でそうなるんだよ!」


 飛びかかってくる莉乃姉を上手く躱しながら、俺は周りにいる全員を見た。

 莉乃姉も、逃げ回る俺を見る四人も、皆笑っている。

 一度手放したはずだったものが、今はすぐ傍で笑っている。

 こんなにも心が軽いと感じたのは、いつ以来だろうか。

 ここ二ヶ月くらいは魂の抜け殻みたいな生活だったから、余計にこの気持ちが強いのだろう。

 だからもう、この気持ちの失うのが怖い。

 なら、守り続けるしかないんだよな。

 触れ合った掌に感じた温もりを、もう二度と失わないように。

 大切な人の頬に、涙を流させないように。

 明日からの夏休みが、どうかこいつらにとって楽しい日々になることを。

 そして、俺の三年かけて出した答えを、伝えよう。

 空を見上げる。

 まぁ、本当に久し振りだけど、遊びに行くのも悪くないかな。


「……わかった、俺も行く。」

「ホントか真也!」

「行かなかったらいつまでも莉乃姉が離れてくれそうにないからな、諦めただけだ。」

「おぉー!真也とデートだぞ!やったー!」

「えっと、莉乃さん。皆もいますけど…。」

「緋結華さんやめましょう、きっと本人にとってはデートなんです。」

「そ、そうだね。」

「ずるいぞ!桐生ばっかりそんな!」

「峰岸先輩も、ほら泣かないで。」

「うぅ、オレには逢坂しかいないのか!」

「いや、そこで不満そうにされても困りますから。」

「よしっ、すぐに帰って支度だ!真也、行くぞ!」

「いやいや、莉乃姉の家はあっちだろうが。」

「いいじゃないか、真也の服を借りれば済むだろう。二ヶ月以上もあたしを放っておいたんだ、それくらいのご褒美くれても良いだろう?」

「う…それを引き合いに出されると弱いぞ。」

「それじゃあ皆、また後でな!よし真也、手を繋ごうか!」

「はぁ!?おい、やめろって!」

「真也くんは暫く大変そうだね。」

「わたしたちを放置した罰です、まったく真也さんは。」

「まぁ、自業自得ってことだね。ボクたちも今度何かしてもらおう。」

「それは名案だな!オレも何か頼もう!」

「え、峰岸さんは急遽参加しただけじゃないですか。」

「……御奈坂ぁ、冴塚が物凄く冷たいぞぉ。」

「あはは、ファイトですよ峰岸くん。」


 そんな会話がなされているとは知らず、俺は莉乃姉に引きずられるように、一路自宅へと向かった。




 木野塚商店街の入り口に集まった俺たちは、夕方の賑わう通りの中を連なって歩いていた。

 恵恋の和服姿には皆驚いていたが、本人はいたって普通な反応なので調子が狂う。

 莉乃姉は俺のジーンズとシャツの裾を折って着ているが、正直言ってかなり大きすぎる。

 それなりに身長は高い方の莉乃姉も、流石に俺の服では限度を超えたようだ。


「やっぱさ、いくら何でも俺のじゃ大きすぎただろ。」

「いや、あたしは真也の服が着たかったんだ。うん、いい匂いがするぞ!」

「ただの洗剤の匂いだっつうの。」

「…緋結華さん、前の二人が見せつけてきますよ。」

「あはは、あれは莉乃さんが見せつけてるだけな気が…。」

「オレもあんな風に年上のお姉さんにイチャイチャされたい!」

「へぇ、峰岸くんって年上が好みなんだね。」

「いや、違うぞ!?待ってくれ、勘違いだ!今のは一時のテンションといいますか…。」

「はぁ、峰岸先輩は自爆しすぎです。」


 後ろの賑やかさもさることながら、この商店街の活気も凄いものがある。

 今時何処も大型ショッピングモールやスーパーによって商店街は窮地に立たされていると聞くが、ここはそんな気配も一切ない。

 元気一杯の店員と、値引き交渉をする主婦の人たち。

 それこそ、昔懐かしの商店街ってやつなのだろう、俺にはわからない時代の話ではあるが。

 でもこういう賑やかさなら俺も気にならないし、離れて見ている分には微笑ましいものでもあるか。


「莉乃ちゃんじゃないの。あら、このカッコいいのは彼氏?」

「あっはっは、そうなんですよ!」

「いいわねぇー若いって、あたしにも今度紹介してほしいわー。今の旦那は皺だらけでねぇ、おほほほほほ。」


 訂正だ、一刻も早くここから帰りたい。

 後ろを振り返ると、一部始終を見ていた三人が苦笑している。

 恵恋にいたっては呆れた顔をして、目に見えて溜め息まで吐いていた。

 クソッ、フラトレスはまだか。

 気持ち早足になりながら、一度しか行ったことのない記憶を頼りに前進する。

 やがて、おぼろげながらも見覚えのある看板が見えてきた。

 俺たちはその前に並ぶと、莉乃姉と峰岸が興味深げに観察する。


「へぇ、思っていたよりは普通な感じだな。特にこれと言って奇抜な感じでもないし、ここの何が面白いんだ?」

「うーん、オレはただの喫茶店にしか見えないけどな。御奈坂はよく来るんだろ?」

「はい、私はもう常連さんなのです。マスターとも一年以上仲良くしてもらってますよ。」

「あの化け物と一年以上かよ、お前って意外に肝が座ってるっつーか…。」

「でも話したら別に怖い人ではなかったでしょう?」

「まぁあのマスターはまともっぽい気がしたが……。」

「思い出したくない光景が頭を駆け巡りそう。」

「あはは、それはまぁ慣れですよ!」

「何だか面白そうだな、早速入ってみよう。」

「おぉ、オレも楽しみだ!」


 カフェ・フラトレス。

 片田舎の商店街にひっそりと佇む、少し近寄りづらい喫茶店。

 でも中に入ると、もっと近寄りづらくなる。

 臭いは酷いが味は美味いドリアン、正直そちらの方がまだマシだ。

 ここは見た目は少し近寄りづらいだけ、というより店内が外から見えないから入りづらいだけなのだが、入ってしまうと殊更おかしい。

 店内の照明は抑えられていて、どことなく高級感もある。

 椅子やテーブルも綺麗にしてあるし、調度品も雰囲気と調和がとれていて悪くない。

 でも問題なのは、そこで働く店員と、調度品に隠れた危険物だ。

 店内に入ると、相変わらず客はいない。

 今回も暇そうなマスターが、カウンターの向こうで丁寧にグラスを拭いていた。


「こんにちはマスター、元気でしたか?」

「ん、緋結華か。…また大勢連れてきたな。」


 マスターのくせに少し面倒そうな顔をした気がする、本当に気のせいであれば良いのだが。


「とりあえず座ってくれ、六人ならカウンター席に並んだ方が都合がいいか。俺としても直接渡せて助かる。」

「そうですね、じゃあこっちに座りましょう。」


 御奈坂が示した席に並んで座る。

 並びは俺、莉乃姉、恵恋、御奈坂、逢坂、峰岸の順だ。

 莉乃姉が迷わず俺の隣に座ったのは言うまでもない。


「さて、それでは注文を聞こうか。今日のおすすめは牧場から頂いたミルクを使ったカフェオレと、そのミルクを使ったバニラアイス。まぁお望みとあらば、ミルクをそのままでも用意できるが。」

「俺はブレンドでいい。」

「あたしはじゃあそのカフェオレを貰おうかな。」

「わたしは抹茶ミルクを。」

「私はカフェオレと、そのバニラアイスで。」

「ボクは紅茶を頂けますか?」

「銘柄はどうする?特になければダージリンとミルクで出すが。」

「あ、それで大丈夫です。」

「オレはミルク!」

「………物好きな奴だな。」

「あれ?あんまりウケないぞ!?」


 またも一人自爆する峰岸は無視され、マスターは注文通りのメニューを淹れていく。

 相変わらず見事な手際の良さだ、他の店員要らないのではないか。

 コーヒーが淹れられている間、莉乃姉は俺の隣で店内を見回している。

 だがすぐに、この店の異常に気がついたようだ。


「なぁ真也、あそこに見えるのは何だ?」

「……恐らくは十文字槍じゃないか?」

「…何でそんな物が綺麗なランプの隣に?」

「……護身用じゃないか?」

「必要か!?よく見ると他にもいっぱいあるぞ!」

「そうだな。」

「何でそんなに真也は冷静なんだ!?」

「まぁ、一度は来てるし。置いてある理由も現実に見てるしな。」

「お嬢さん、見苦しいようならすぐにでも片付けた方がいいかな?」

「いえいえ、別にそういうわけじゃないんですけど。……理由を聞くのは失礼でしょうか?」


 マスターは手を動かしながらも苦笑いして、恥を晒すように喋りだした。


「恥ずかしい話なんだが、ウチの従業員はよくサボりやがるからな、すぐに手に取れる位置にと置き始めたのがこうなった原因で。」

「え、あれで従業員を!?」

「心配しなくても大丈夫だ、酷く丈夫にできてるせいで滅多なことでは壊れないから。そうだな、7.62mmガトリングガンでも死ぬかどうか。」

「えぇ!?…そんな人間離れした頑丈さに、あんな模造品でどうにかなるんですか?」

「あぁ、そこはほら、使うのが俺だからさ。」

「…御奈坂が言っていた意味が少しだけ解った気がする。」

「そういえばマスター、ホカゾノさんたちは何処に行ったの?」

「今日は皿が十枚も割れたんだ……厨房で寝てるよ、二人揃ってな。」


 何処か遠い目をして物騒なことを言うマスター。

 でも話しながらもきちんと手は動かしている辺り、仕事はきっちりこなすらしい。

 やがて全員の注文が、それぞれの前に並べられた。


「どうぞ、冷めないうちに。」

「おぉ、とてもいい香りだ。あたしも真也に淹れてやりたいな。」

「もし欲しいのであれば…まぁ少し高いかもしれないが、この辺の物を揃える時の知り合いに訊いてみようか?恐らくは多少値引きもできるだろうし、正しい淹れ方も俺でよければ教えよう。」

「本当ですか?是非お願いします!やったぞ真也、これからは毎朝あたしが淹れた珈琲でモーニングだ!」

「………あぁ。」

「…愛されてるなキミは。あいつらが起きてたら面倒だった、嫉妬の嵐で鬱陶しいぞ。」

「それは遠慮したいもんだ。」


 前の一度だけでもあの三人の鬱陶しさは堪能したからな、できれば御免こうむりたい。

 湯気の立つブレンドを口に運ぶ。

 苦みが口の中に広がり、しかしコクの深い味がある。

 もし莉乃姉が勉強してこれが毎朝飲めるなら、それも悪くないかもな。


「そうだ桐生、言い忘れていた。」

「ん、何だよいきなり。」

「……ごめん!」

「…は?」

「あれ、なんか反応がいまいち薄いな。」

「あのさ真也くん、峰岸くんに聞いたんだけど、殴り合いしたんだって?」

「……あぁ、そんなこともあったな。もしかして今のってそれの?」

「そうだ、あの時は悪かった。オレ、自分のことしか頭になくて、お前の考えが全然解らなかったんだ。でも御奈坂たちがやろうとしてることを聞いて、オレも力になれたらと思って協力した。」

「………別に何とも思ってねぇよ、もう済んだことで謝るな。」

「でも真也くん、何で峰岸くんに殴られたりしたんですか?峰岸くんに聞いても全然教えてくれなくって。」

「………。」


 あぁ峰岸、お前は本当に不幸な男だな。

 俺の方を見る御奈坂の向こうで、呆れた顔の逢坂と、無言で話すなと訴えてくる峰岸がいる。

 ま、少しくらい礼をしてやるか。


「理由は大したことじゃない、単にそいつを馬鹿にしただけだ。雨上がりの泥の上で喧嘩したせいで上手く動けなくてな、お陰で返り討ちだ、笑い話にもならねぇよ。」

「はぁ、そうだったんですか。」


 御奈坂は納得いかない様子だが、これで一応この話は終わるだろう。

 峰岸が向こうで手を合わせていたが、俺は無視して珈琲を一口飲んだ。

 それから暫く、莉乃姉たちはあの騒ぎを起こすまでの話で盛り上がっていた。

 校長拉致立て籠もり作戦や、屋上からの身投げ作戦まで考案されたというのだから、あの程度で済んだのは寧ろ穏やかだったと言える。

 部活中の相談もそのこと絡みだったらしい、それに関しては峰岸の勘も正解だったということだ。

 マスターはその話を既に知っていて、ホントに実行したのかと呆れていた。

 だが俺のためにそこまでしてくれた莉乃姉たちには、心の中で感謝している。

 俺の隣で楽しげに話す五人。

 そんな景色を、また隣で見れるとは思っていなかった。


「遅くなったけど、これからよろしくな桐生!」

「ボクも改めて、またよろしくね桐生先輩。」


 まだ許されたわけじゃないけれど、言い訳のように聞こえるかもしれないけれど。

 今はただ、この気持ちに素直になろう。


「夏休みは一緒に遊びに行きましょうね、真也くん。」

「真也さん、夏音のことならなんでもわたしに聞いてください。」

「御奈坂、抜け駆けは許さないからな。真也、夏休みはあたしともいっぱい遊ぶぞ!」


 あの夜以来の、でも悲しみを含んだものじゃなくて、心の底からの嬉しさで。

 俺は自然と、皆に笑いかけていた。


「…あぁ、そうだな。」


―――これは奇跡のような巡り合い。

    淡く儚く消えゆく、六人の物語。


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