Day.4 決別の夜
生きるのに必要な赤い液体が、コンクリートの道路に広がっていく。
流れ出してはいけないそれは、失ってはいけない体温を一緒に持っていってしまう。
頼む、止まってくれ。
俺の身体も服も、赤い色に染まっていく。
そっと頬に触れた手。
俺は叫ぶ。
頼む、いなくならないでくれ!
音が消えていく。
姉さんの口が少しだけ動いて、何かを喋る。
だが俺には、それが何を伝えたかったのか判らなかった。
夢が終わる。
力なく笑う姉さんが、俺の網膜に焼き付いていた。
「おはよーございまーす。」
「………。」
「起きませんね真也くん。」
「真也は寝起きが悪いからな、目覚ましもかけないし。」
「ははぁ、だから莉乃さんがこうして毎朝起こしに来てると。」
「毎日こうでもないんだが、まぁ大抵は来ても寝てるな。」
「お寝坊さんなんですね、でもそこもまた素敵なギャップです。それにしても寝顔……無防備な真也くんって殺人的に美少女ですよね。」
「女のあたしですら嫉妬するくらいに肌も綺麗だし、流石は双子だな、真耶にそっくりだ。」
「真耶さんって真也くんに似てるんですか?」
「顔も殆ど一緒だよ、目つきだけが違うけど。」
「肌の色も白くて綺麗ですし、髭も全然生えてないです。」
「身長がこんなに高くなければ、胸のない女の子だな。」
「背が高くて美人で運動も頭も抜群なんて、憧れますね。」
「…やはり御奈坂はあたしのライバルになりそうだ。」
「ライバルって何ですか?」
「むぅ、強敵だ。あたしもうかうかしてられないな。」
「………あぁ?」
「あ、起きそうですよ。」
何だ?
騒がしいな莉乃姉、一人で喋って。
でももう起きる時間か…まだ眠いな、昨日も遅かったし。
でもまぁ起きないと、もう学校は休めないし。
目を開ける。
定まらないピントを合わせようと目を凝らす。
「………んぁ?誰だお前?」
「おはようございます真也くん。」
「あぁ、おはよう?」
「おはよう真也、朝ご飯食べるか?」
「あぁ、食べる……どぅわぁ!?」
慌てて飛び起きる。
一気に覚醒した意識は、漸く状況を理解した。
目の前には笑いを堪えようと蹲る莉乃姉と、何故か嬉しそうな笑顔を浮かべた御奈坂。
何でだ、何でこいつがここにいる!?
クソッタレ、いつもみたいに寝惚けてただろ俺。
莉乃姉ならもう仕方ないが、ぬあぁぁ、御奈坂まで見てたのか?
てか最近こんな起き方ばっかだ、無防備すぎるだろ俺。
「起きて早々飛び退いて頭抱えて、真也は大変だなぁ。」
「テメェ莉乃姉!何勝手なことしてやがる!」
「あーっはっはっは、お姉ちゃん朝から頑張っちゃった!てへっ!」
「この馬鹿姉、月の裏側まで片道旅行させてやっから表出ろ!」
「あのっ、喧嘩はやめてください!?」
御奈坂に止められて俺はベッドに座り、莉乃姉はソファーの陰に隠れてまだ笑ってがやる。
はぁ、何だよ朝っぱらから。
俺は頭を掻きながら、不安そうに俺を見ている御奈坂に目を向けた。
「で、これはどういうことだ?」
「えっとですね、私が今朝真也くんの家の下にいたら莉乃さんが丁度出てきて中に入れてくれました。」
「はぁ?そもそもなんでお前は下にいたんだよ、しかもこんな早くから。」
「あの……真也くんと学校行こうと思って誘いに来たんですけど、何時に出るのか判らなかったので5時に起きてきました。」
「5時だと!?…暇なのかお前は。」
「こら真也、せっかく来てくれたのになんてこと言うんだ。」
「う……悪かったな。」
「いえ、全然気にしてませんよ。寧ろ来て良かったなぁって。」
「は?」
「いえいえ、何でもないです。」
それきり俯いて背を向ける御奈坂。
おい待てその反応、俺は寝惚けて何かしたのか!?
昨日の朝の光景が脳裏に蘇る。
いやまさか、流石にそれは…。
「…なんて罪作りな弟だ。」
「おいコラ莉乃姉!何があったのか説明しろ、俺は何かしたのか!」
「いや何も。御奈坂が来た頃には穏やかに寝ていたよ、大丈夫だ。」
あぁ、なら良かった。
そもそも一緒に寝ていたわけでもないし、昨日みたいなことが起こるはずないか。
それに、夢にうなされる姿は見られたくない。
莉乃姉ならいいとしても、きっとみっともない姿だろうからな。
「さ、とりあえず朝ご飯を温めておくから、真也はシャワーでも浴びてこい。」
「私にもできることありますか?」
「そうだな…真也の背中でも流してやってくれ。」
「背中……ってえぇ!?」
「はぁ、御奈坂は大人しく座ってろ。」
赤面して挙動不審な御奈坂を放置して、俺は風呂場に行く。
脱衣所で服を脱いでいると、鏡に自分の顔が映り込む。
姉さんと同じ顔。
毎朝見るたびに思う。
これは、俺に対する罰なのかと。
目だけが違う顔、それは問答無用で過去の日々を叩きつけてくる。
いっそ自分で顔を殴り、形を変えてしまいたい。
それは逃げだと判ってるけど、時々どうしようもなく辛いんだ。
それに、きっと殴れない。
自分の顔に姉さんを思い出す奴が、それを殴れるはずがない。
ホントに弱いな俺は。
シャワーを浴びて戻ると、既に朝ご飯が並んでいた。
俺は黙って座り、手を合わせて食べ始める。
相も変わらず静かに食事を済ませると、夏音に餌を与え、三人揃って家を出た。
暫く無言で歩いていると、御奈坂が沈黙を破るように話し掛けてくる。
「木野塚町のカフェ?」
「そうです、今日の放課後一緒に行きませんか?」
「断る、俺は暇じゃない。」
「そんなこと言って、真也はいつでも暇人だろ?部活も委員会にも所属してないんだから。」
「暇なら行きましょうよ、奢りますから。」
「借りを作りたくないから結構だ。」
「そんなこと言わずに、昨日のお返しですから。寧ろ貸し借りはこれでチャラです。それに、部活がお休みなの今日しかないんですよ。」
「知るかそんなこと、俺には関係ないだろ。大体お前と行く理由がない。」
「友達なんですし、放課後に遊ぶのは普通ですって。そうだ、莉乃さんって今日は大丈夫ですか?」
「すまない、今日は生徒会の仕事があるんだ。行けないのは残念だが、まぁ二人で楽しんできてくれ。」
「だから俺は行かないって…。」
「はい、そうします、莉乃さんはまた今度一緒に行きましょう。」
「うむ、そうされてもらおう。」
勝手に話が進んでいく、俺の話は軽くスルー。
御奈坂は大人しい奴だと思っていたが、どうやらその認識は改める必要がありそうだ。
「じゃあ真也くん、放課後は一緒にカフェ・フラトレスにゴーですよ。」
「わざわざ木野塚町までか、面倒だな。何が違うんだよ他と。」
「そうですねぇ……店員さんは皆さん揃って武神です。」
「………は?」
「あ、マスターだけ鬼神って呼ばれてますね。」
「何だそりゃ、漫画の読みすぎか?」
「行けば判りますよ、皆さん面白い人たちなので。」
意味が判らない、武神とか鬼神って。
強いってことなのか?
呼ばれてるってことは自称ってわけでもなさそうだし、それが全員?
まさか全員揃ってゴリラみたいな筋肉野郎なのか、もしくは武術の達人が経営してるのか。
……ただのカフェに行くよりは興味が湧くな。
「仕方ない、どうせ断っても無駄なんだろ?」
「いえいえ、流石にそこまでではないですよ。」
「どうだかな。」
こいつのしつこさは嫌というほど体感してるからな、きっと放課後まで誘い続けてくるだろう。
なら早目に諦めて、すぐに帰る方法を考えた方が良さそうだ。
お喋りに花を咲かせる二人の後ろを、俺は欠伸をしながら歩くのだった。
「じゃあな二人とも、ちゃんと授業は起きてるんだぞ?」
「う、頑張ります。」
「はぁ、いいから早く行け。」
莉乃姉は手を振りながら階段を上がっていく。
俺と御奈坂は自分の教室を目指して歩き出す。
「そういや、今更だが離れろ。」
「え、何でですかいきなり。」
「お前が俺を友達と思うのは構わないが、他の連中は俺を嫌っているんだ、何を言われるか判らないだろうが。」
「……もしかして心配してくれてるんですか?」
「勘違いするな。俺は単に面倒が嫌いなだけだ、お前の心配しても仕方ない。」
「ありがとうございます真也くん。大丈夫です、誰も何か言ったりしませんよ、私が保証しちゃいます!」
ガッツポーズまでして笑いかけてくる御奈坂は、結局並んで歩き続ける。
ホントに大丈夫なのか?
友達を信用してるってのもあるだろうけど、多分こいつのことだから何も考えてないだろうな。
既にすれ違った何人かは俺たちを見て、まるでおかしなものを見るような目で振り返っている。
……やっぱおかしいんだよ、俺の隣をこいつみたいな奴が歩くのは。
「おはよー。」
御奈坂が元気よく挨拶しながら教室に入っていく。
「おはよう緋結華。」
何人かいた生徒が御奈坂に挨拶を返す。
何となく、この後の反応は予想できる。
仕方なく俺も中に入ると、やはり御奈坂に挨拶した生徒が、すれ違った何人かと同じ目を向けた。
何故御奈坂と不良が一緒に入ってきたのかと。
「ちょっと緋結華。」
「え、何?」
「こっちに来なさい。」
席に鞄を置く間もなく、御奈坂は何人かに呼ばれて廊下に連れて行かれた。
…だから言ったんだ、俺と関わってもろくなことにならないと。
まぁ自業自得だな、俺にできることはせめてなるだけ校内では関わらないことだけだ。
鞄を置いて時計を見る。
今朝は遅くまで寝てしまったから、もう屋上で暇を潰すような時間はない。
大人しく座って待つか、特にすることもないんだし。
ただ何も考えず、時間だけが過ぎていく。
予鈴が鳴り、担任教師が入ってきた。
結局御奈坂が教室に戻ってきたのは、予鈴が鳴り終わる少し前だった。
「おい桐生!」
昼休みになり、俺は飯を食べようと席を立った時だった。
教室中の生徒が振り返るような声で、俺を呼び止める声が響く。
目を向けると、峰岸が俺を睨みつけながら歩いてきていた。
「うるせえな、テメェに用はねぇよ。」
「お前になくてもオレにはあるんだ!」
「あ?目障りだ、消え失せろ。」
胸ぐらを掴み、峰岸の目を射抜く。
間近に見える瞳が、明らかに揺れた。
掴んだ胸ぐらからは激しく動悸する心臓の鼓動が伝わってくるし、唇も僅かだが震えている。
鬱陶しい奴だ、ふざけやがって。
「震えるくらいなら近寄ってくんな、ウザッテェ。」
「……聞いたんだよ。」
「あ?」
「桐生が御奈坂と仲良くしてるってな。」
「はっ、俺はそんなつもりないがな。」
「ふざけるなよ、何で御奈坂がお前なんかと。」
「それは本人に訊けよ、俺に絡むのはお門違いだ。それとも、一昨日の仕返しでもしたいのか?」
「そんなつもりはない!」
「なら退け、何度も言わせんな。」
峰岸を突き飛ばすと、一瞥もせずに歩き出す。
「俺に何を言いたいのか、次に絡むときはちゃんと決めてからにするんだな。」
教室の誰もが峰岸を心配そうに見守る中、俺は教室を出ていく。
気分はあまり良くない、忌々しさだけが胸に残る。
御奈坂の予想は当然のように外れ、俺の予想通りに厄介事が舞い込んだ。
悩むまでもなく、誰がどう考えても判る話。
俺と関われば、良い気分になる奴は何処にもいないんだ。
この学校で余計な手間をこさえたくなければ、絶対に俺と関わるべきじゃない。
峰岸は無駄に怖い思いをして、御奈坂は友達に忠告を受けた。
正しいのは忠告をした友達の方だ。
俺をいないかのように扱えば、少なくとも関わらなくて済む。
俺に近寄らなければ、嫌な気分にされることもない。
俺は、触らなければ害の少ない猛毒だ。
間違って近寄り、不運にも触れてしまったなら、清めなければ。
御奈坂の友達がそうしたように、考えを改めさせ、二度と触れないように説得する。
これで御奈坂が俺から離れてくれたなら、寧ろその友達には感謝してもいいくらいだ。
峰岸もこれっきりにしてくれればいい、そうすれば誰も傷つかずに済むんだから。
もう食欲はない。
なら授業ギリギリまで、誰も来ない所にいよう。
…体育館裏?
見事なまでに不良の居場所として相応しいが、あまりに陰湿な場所だしなぁ。
だが今回はその陰湿さにも感謝しなければならない、お陰で人が近寄ることは皆無だろう。
仕方ないな、他に当てもないし。
靴を履き替えて外に出ると、校舎に沿って体育館裏に向かう。
昼休みにまで練習する部活はないようで、この時間はとても静かだ。
目的の場所に着くと、湿った土と雑草の上を中ほどまで進む。
適当なコンクリートブロックを見つけて座る。
建物裏特有の湿った空気が、ゆったりと流れていく。
肌にまとわりつくような空気は、あまり好きじゃない。
森の中を歩くような清涼さがまるで感じられない、ただひたすらに陰湿で暗い雰囲気だ。
雑踏を指で弄りながら、鼻歌を歌う。
こんな場所には似つかわしくない歌詞だけど、それでもつい口から零れる。
「懐かしい声、耳に残ってる…。」
姉さんがよく歌っていた歌。
誰の歌だったのかも、全部を知ってるわけでもない。
ただ歌詞と同じように、懐かしい声は今でも耳に残っている。
俺を待っている時や、気分がいい時、姉さんが口ずさむメロディ。
ボーイッシュだった姉さんが一番穏やかな微笑みでいる貴重な瞬間でもあった。
天真爛漫を絵に描いたような人だったからな。
いつも元気いっぱいで、爽やかで、朗らかに人生を楽しんでいた。
きっと姉さんの目には、この世界でさえも輝いて見えていただろう。
人を疑うことをしなかった姉さん。
困っている誰かのために奔走し、助けを求める者のために手を差し出す。
そんなことを当然のようにできる人だったんだ。
………何で俺を助けたんだよ、姉さん。
皆に好かれていた姉さんの方が、俺なんかより生きてる価値があっただろう。
姉さんに告白しようとしてた奴だってたくさんいたんだぞ。
………クソッ!
拳を握りしめ、思いっきり壁を殴りつけた。
鈍い音と痛みが響き、何かが抜けていく。
それが怒りなのか悲しみなのかは判らない。
でも、頭は冷静さを取り戻した。
拳を見ると、僅かだが血が滲んでいる。
自分を保つための自傷行為。
生きていたくないくせに死ぬのは怖いから、こうやって痛めつけて、みっともなくこの世界にしがみつく。
左手首に着けているチェーンブレスレット。
その下には、薄れているがリストカットの跡がある。
独りになったばかりの頃、死に損なった証拠。
自分の弱さの証を、姉さんの形見で隠す。
結局俺は、生きるために姉さんを利用してる。
誰もが自分の損得を考えて他人を頼るが、だとしてもその対象は生きている人間だ。
俺は、もういない人さえも利用して生き長らえている。
こんなクズみたいな人間が、誰かを犠牲に生き残っているなんておかしい。
まるで笑えない最低の冗談だ、反吐が出る。
本当に、世界は狂っている。
「まさかこんな所にいるとは、流石は並木高校最恐の不良ですね。」
「あ?」
不意に声をかけられて振り返る。
体育館の陰になっていない所に立っていたのは、小柄な少年。
少し長めの髪を、ヘアピンで後ろへ流している。
男のはずなのに、線も細く中性的な顔に見えなくもない。
まるで女みたいなそいつは、ピンと伸ばした姿勢で歩いてくる。
「テメェ、何か用か?」
「テメェとは失礼ですね、ボクには逢坂龍矢という名前があるんです。」
「だからどうした、非礼を詫びる仲でもねぇだろうが。」
「そうですね、僕も貴方に名前を呼ばれるのは不愉快です。」
「はっ、判りやすい。テメェから恨みを買う覚えはないが、その態度だけで十分だ。用ってのはつまり、喧嘩を売りに来たんだろう?」
「野蛮な人はこういう時に便利です。余計な手間も要らずに、こうしてすぐに乗ってくる。」
「野蛮かよ。はっ、何も原因が判らない相手に喧嘩をふっかける方もよほど野蛮だがな。」
「それくらい、言われなくても判ってますよ!」
明らかな怒気を孕み、逢坂が俺を睨む。
……見た目に反した圧迫感だな。
俺の前まで歩いてくると、見上げながら逢坂は言う。
「剣道場に行きましょう、そこで勝負です。」
「見た目と違って狡賢い奴だな、テメェの得意分野で勝負ってか?」
「いいえ、剣道ではありません。」
言うと逢坂は、この近距離で蹴りを放ってきた。
それも、真下から顎を打ち抜く軌道で。
俺は咄嗟に反応すると、僅かに身体を反らして躱す。
チッ、そういうことか。
「貴方の本分はこちらでしょう?」
「そうか、テメェの元も剣術ってわけか。」
「ボクの家は代々剣術を極めるために鍛練を積んできた一族です。そして我が流派の根底には、相手を倒すという目的がある。剣道とはそもそもの成り立ちからして違う。」
「刀も使って体術も使う、頭が固くて刀しか使おうとしない戦い方よりはよほど合理的だな。」
「それは素直に褒め言葉として受け取っておきましょう。」
振り上げた足を下すと、逢坂は黙って剣道場へと足を向けた。
その背中は、着いて来いと俺に告げている。
どんな理由があろうと、ここまで剣士に挑発されたら乗らないとな。
それに丁度いい、こいつは中々の実力者だ、少なくとも本気で戦えるくらいには。
八つ当たりではないが、身体を動かせば少しはこの心の暗雲も晴れるかもしれない。
俺は一定の距離を保ちながら、逢坂の後に続いた。
剣道場の鍵を逢坂が開けると、二人とも無言で中に入る。
相変わらず静まり返った剣道場は、まさに喧嘩にはうってつけの状況だ。
誰かが来る可能性はないでもないが、昼休みにまで練習に来る生徒はあまりいない。
逢坂は奥の倉庫から竹刀を二振り持ってくると、片方を俺に手渡した。
まさか二日連続でここに来るとは思わなかったな。
冷たい板張りの床と、停滞しつつも研ぎ澄まされた静謐な空気。
道場でしか味わえない、とても落ち着いた気持ち。
荒ぶった心も、少しずつ静寂を取り戻す。
「…とっとと始めるぞ。」
「言われずともそうしますよ、昼休みはそれほど長くない。」
互いに竹刀を構える。
俺は片手で、逢坂は両手で。
もう余計な言葉はいらない。
どちらかが竹刀振るったその瞬間から、この喧嘩は幕を開ける。
剣術の戦いに審判は不要。
どちらかが動けなくなるか、明らかに致命傷と判断できる一太刀を浴びせるか。
殺し合いと同じだ。
違うのは本当に殺すわけではないのと、武器が竹刀であるということだけ。
そういう意味では、これは喧嘩なんだ。
刹那、視線が交差する。
次の瞬間、凄まじい速さで踏み込んできた逢坂が、俺の肩に向かって竹刀を振り下ろしていた。
チッ、マジでやるなこいつ。
でも速いが躱せる、動きも単純だ。
意識を集中して風に乗る。
僅かに前へ、緩やかに踏み出す。
身体は逢坂の横へ抜け、そのまま無防備な背中へ右手の竹刀を叩き込む。
だが逢坂は振り下ろした竹刀の軌道を変え、まるで月を描くような動きを持って俺の竹刀を弾いた。
間髪入れず、同じ軌道で回し蹴りを振るう。
逢坂も上手く躱しながら、俺に向かって竹刀振るい、拳を突き出す。
一連の動作に淀みはなく、鍛えた身体は命令の一つ一つを着実に遂行していく。
互いに有効打はない。
俺の攻撃はまるで軽業師のような動きで逢坂に躱され、逢坂の攻撃は俺が予想して躱す。
拳は相手の動きを殺すための爪、竹刀は相手を倒すための牙。
ダンスを踊っているようだ。
絶え間なく攻撃を続けるには、やがて円の動きに変わっていくこととなる。
攻撃の軌跡を視覚化できるなら、今頃は流線型の絵画が出来上がるだろう。
時に大きく、時に小さく、場所を変えながら軌跡を描く。
静寂に満たされていた剣道場には、竹刀を振るう風の音と、踏み込む際の足音が響いている。
静謐な空気も、今は熱を帯びているようだ。
自然と身体は動く。
始まりは最悪だったのに、今は清々しささえ感じている。
自分の技が当たらない。
ならばと動きを変えて、攻撃を連ねていく。
いつの間にか、逢坂は笑っていた。
こんなにも本気で戦えるのは久し振りだ。
それはきっと、逢坂も同じなんだろう。
身体を動かすのは気持ちいい。
それが本気であればあるほど、身体はそれに応えて従順に動き出し、思考はスイッチが入ったように稼働率を上げていく。
戦いこそ生き物の本能であるかのように、より激しく獲物を狩りたてる。
互いにすれ違いざまの剣撃、振り返る動作での反撃。
高く乾いた音が木霊する。
一旦距離を離して、僅かばかりの小休止。
逢坂の呼吸は乱れていた。
俺も意気は荒いが、動きが最小限な分だけ余裕がある。
いつまでも終わらない戦いはない。
どんな曲もいずれは終わり、曲が終わればダンスも終わる。
そろそろ終曲だ。
なら、俺が出せる全てを見せよう。
原因はどうあれ、この貴重な時間を作ったのは逢坂だ。
出し惜しみなんて、こいつ相手なら必要ない。
「…逢坂、もう一本竹刀寄越せ。」
「はぁはぁ……やはり貴方は二刀流でしたか?」
「あぁ、気づいてたみたいだな。」
「拳の動きに違和感がありました。これほど長く戦い続けていなければ気がつかない程度の違和感ですが。」
「…流石だな、認めるよ。………お前は俺の敵だ。」
「わたしも、敵である貴方を倒しましょう。」
「………わたし?」
「いや……ボクも誓います、必ずや貴方を倒すと。」
逢坂は素早く倉庫からもう一振り竹刀を持ってくると、俺に竹刀を手渡す。
それを左手に持つと、二刀流の構えになる。
あぁ、懐かしい感覚だ。
強い奴に勝つには武器を二つ持てばいいだなんて理由で始めた二刀流だったが、存外上手くいったみたいだな。
さて、小休止は終わりだ。
「終曲を飾るに相応しい舞踏を見せてやるよ。」
「ふふ、踊り疲れて倒れないでくださいね。」
「お前こそ、俺に動きについてこられるのか?」
「勿論負けません………いきます!」
合図と同時に踏み出す。
俺の一刀と逢坂の一刀がぶつかり、派手な音を立てる。
すかさず俺は空いた方の竹刀を逢坂の胴に放ち、逢坂はそれを屈んで躱しつつ足払いをかけてきた。
僅かに跳躍、二刀を以て左右から振り下ろす。
転がって避けた後、逢坂が叫ぶ。
「ボクの本気、受けてもらいますよ!」
体勢を立て直した逢坂から、とてつもない速さの連撃が放たれる。
竹刀が音を立てて向ってきたと思えば、既に逆側から蹴りが飛んできている。
速さだけなら俺よりも速いかもしれないが、威力では俺が上だ。
両手の竹刀でその猛攻を捌きつつ、更に追撃まで入れていく。
逢坂も竹刀と足で上手く捌きながら、次々と攻撃を加えてくる。
もはや動きが複雑すぎて、あの足捌きでは躱しきれない。
竹刀の立てる音はまるで拍手のようで、強く激しく木霊する。
どれくらい時間が経ったのだろう。
永遠のように長い三拍子。
互いの全力が奏でる舞踏曲は、今この時に生まれ、消えゆく。
「俺もいくぞ!限界まで速く重く壮絶に打ち砕く!」
「くっ……まだ速く!?」
心臓の猛りよりも強く、循環する血流より速く。
より大きく竹刀を振るい、遠心力を利用した広範囲の薙ぎ払い。
渾身の一撃で、逢坂の竹刀を弾き飛ばした。
離れた場所で転がる竹刀と、突きつけられた竹刀の切っ先。
「はぁ…はぁ………ボクの…負けですか?」
「俺の勝ちだな。」
腰が抜けたように座り込む逢坂は、竹刀を納めた俺を見上げる。
その目にはもう、一切の戦意がなかった。
「もう満足か?」
「ボクは負けました、だからもう何も言えません。」
「そうかよ。なら、俺に喧嘩を売った理由を聞かせろ。」
「……それは貴方が緋結華さんを悲しませたから。」
「は?」
「貴方は先日、緋結華さんに酷いことを言いましたね?」
「………あぁ。」
「関わるなとか鬱陶しいとか、随分酷い台詞だと思います。」
俺は何も言えない。
それは紛れもなく事実で、俺が御奈坂にした仕打ちは非難されて当然のことだ。
「でも緋結華さんはボクにこう言いました。……どうしたら桐生くんは友達になってくれるのかと。」
「………。」
「ボクは緋結華さんにとてもお世話になりました。この街に来た時から学校の生活まで、知り合いもおらずに右往左往していたボクを助けてくれた。」
御奈坂がやりそうなことだな。
困っている奴がいれば、見過ごしたりはできないだろうから。
「そんな緋結華さんが冷たくされても友達になろうとした貴方に、ボクは怒りを抑えられなかった。そこまでの価値がある方なのか興味も湧きました。」
「……俺にはそんな価値なんてないさ、御奈坂がそう言っているだけだ。」
「そうでしょうか?ボクも今日戦ってみて、貴方には何かを感じましたよ?言葉にはできませんが、強い意志のようなものを。」
「はっ、そんな大層なもんねぇよ。」
「刃を交えたからこそ感じ取れるものもあります。はっきりと判るものでもないでしょうけど、それは確かにあるんです。」
「……俺はただ生きてるだけだ。目的も信念もなく、立ち止まったままだ。お前や御奈坂が言うほどの人間じゃない。」
自嘲気味にそう呟くと、壁際まで歩いていって座り込む。
竹刀を床に転がして、ふと時計を見た。
「もう授業始まってるじゃねぇか。」
「そうですね。」
「知ってたなら言えよな。」
「仕方ないでしょう、ボクもさっき気づいたんですから。」
「はぁ…もう戻るのも目立つしサボるかな。」
「普段から思いっきり目立ってますけどね。」
「………。」
「まぁいいでしょう、ボクもここにいます。」
逢坂は俺の隣に歩いてくると、同じように壁に寄りかかって座った。
「は?お前は教室に戻れよ優等生。」
「…なんですか優等生って。」
「深い意味はないが、お前って人前じゃ優等生気取ってるみたいだからさ。」
「誰が言ってたんですか?」
「莉乃姉は普段は大人しく真面目だみたいなこと言ってたな、俺はそうは思えないが。」
「何故ですか?」
「真面目で大人しい奴が、俺と会う度に喧嘩を売ってくるはずがない。」
「む………うん、その通り。僕は別に真面目でもないし、大人しくもない。本当はもっとはしゃいだり騒いだりしたいよ。…普通に。」
少し寂しそうに笑いながら、逢坂は剣道場を見ている。
思い出しているんだろう。
この場所で、他の部員たちにそんな印象を与えてしまう自分の姿を。
「目立たないように丁寧な言葉遣いをして、静かに騒がず淡々とした学生生活を送る。やっぱ辛いなぁ、こんな生活は。」
「何か理由でもあんのか?」
「そうだね……誰だって怒られないようにできるならそれに越したことはないってことだよ。昔から続く武家って色々大変なんだ。」
「はっ、そりゃ俺とは縁のない世界だろうな。」
想像でしか判らないが、きっと厳しいしきたりとかあるんだろうな。
丁寧な言葉遣いをしろだとか、みっともない姿を晒すなとか。
素のこいつなんだろうな今は、口調も砕けた感じになってるし。
「にしても、御奈坂はおかしな奴だな。」
「はい?」
「俺やお前みたいに、なるだけ人と関わらないようにしている奴と友達になりたがるんだから。」
「確かに変わってるよね、お陰で救われたのも事実だけど。」
「俺はお陰で剣道野郎に喧嘩売られたがな。」
「もういいでしょそんなことは。あんまり引きずるとしつこいって思われるよ?」
「何で売ってきた張本人が偉そうな態度なんだよ。」
「……ごめんなさい。やりすぎだったと反省してます。」
俯いて謝罪する逢坂。
…ったく、面倒な野郎だな。
「まぁもう別にどうでもいい、お前が納得できたならな。」
「それは大丈夫、少しは安心できたから。ボクを倒せるなら、大抵の奴から緋結華さんを守れる。」
「別にお前が守ればいいだろ、そもそも俺が守らなきゃならないわけじゃない。」
「いえ、きっと緋結華さんは貴方に守ってほしいと思ってるよ。」
「何でそうなるんだよ。」
「…はぁ、貴方はいつか大変なことになりそうだね。」
「はぁ?」
意味が判らないな、何のことを言ってんだ?
それに大変なことにはしょっちゅう遭ってる気がするんだが。
御奈坂と話すようになってから莉乃姉は更に五月蠅くなったし。
最近じゃ無駄に色気を使った弄りか多いし、人前で好きだとか連呼しやがるし、既に結構大変だ。
エスカレートしたらそれこそ寝込みを襲われそうだ、立場が逆な気もするが。
「そういえば、貴方は小湊部長と同棲してるって聞いたけどホントなの?」
「普通に考えたらんなわけねぇだろうが。」
「いや、あんなに求愛されてるのを見たら普通にそう考えるよ。」
「………。」
マジで止めさせよう、聞き入れる確率は限りなく低いが。
しかし同棲とまではいかないが半分くらいは当たってるからな、あながち間違いでもないのがマズい。
莉乃姉が俺の家の鍵を持ってることまで知れたら悲惨だ、教師の耳に入れば呼び出しが確定する。
しかも片やこの学校の生徒会長様だ、呼び出されて職員室で説教なんて笑い話にもなりゃしねぇ。
後できつく口止めしとこう、唐突に生徒会役員選挙にならないように。
「昨日の騒ぎの後で何人かの女子が小湊部長に質問してたよ、あの男の人とどんな関係かってね。」
「ただの世話焼きな幼なじみだよ、俺たちのな。」
「俺たち?昨日話してた真耶って人ですか?」
「…よく覚えてんなお前。そうだ、俺の姉さんだ。」
「姉弟なのに離れて暮らしてるんですか?」
「……お前って質問が好きなのか?」
「う、そうじゃなくて、こういう風に人と話すことってあんまりないからつい。」
「へぇ、俺よりは無難に社交性あると思ってたが意外だな。」
「実はそうでもないんだよね、ボク人見知りだから。」
「俺とは普通に喋ってるじゃないか、しかもタメ口で。」
「貴方相手だと何故か落ち着いてるんだよね、本気で戦えたからかな?でもそっか、緋結華さんと同い年なんだから先輩だ。ごめん、敬語の方がいい?」
「いや、別に構わねぇよ。つか、もう話すこともないだろ?」
「え……う、うん。」
少し目を伏せて頷く逢坂。
何で寂しそうな顔をすんだよ。
…ホントに普段から誰とも話さないんだろうなこいつ。
でもなぁ、これ以上俺と関わる奴を作りたくないんだが。
まぁ男だし、強いから守ったりする必要もないのか。
「まぁよく考えたら御奈坂と一緒にいることが多いならまた会うこともあるってことか?」
「うん、そうだと思う。だからその……良かったら…友達に。」
何か最近この手の勧誘が多いな、流行ってんのか?
俺の周りの状況も変わってきて、人と接することが増えてきた。
好ましい流れとは、やっぱり言えない。
俺の周りに人が増えるだけ、守るべき人が増えるのだから。
御奈坂との時も考えたことだ、自分にそれだけの力があるのかどうか。
俺はまだ友達という者たちを作るべきじゃないかもしれない、御奈坂とそうなったのも間違いかもしれない。
でも俺が求める強さが、もしかしたら今のままでは手に入らないとも思う。
そう思えるように、少しだけ変わった。
人間関係から逃げていたら、本当の意味での強さは判らない。
それを判ってはいる、けど…怖さが心を締め付ける。
警笛を鳴らすように、間違いを犯そうとする思考を迷わせ、変えようとする。
言い訳ばかりだな。
でも、今は言い訳でいい。
積極的に関わるわけじゃない、会ったら話す、それだけなんだから。
ほんの少し、話す相手が増えるだけだ。
「会ったら少し話すくらいなら、まぁ構わない。お前がそれでいいなら、だけどな。」
「うんっ……ありがとう、凄く嬉しいよ!」
「う…。」
本当に喜んでいるのか、逢坂は綺麗な笑顔を浮かべた。
男とは思えないくらいにそれは無邪気で、輝いている。
クソッ、一瞬目を奪われた。
ありえねぇ、男だぞこいつは。
俺にそっちの趣味はないはずだ、じゃなきゃ首吊り用のロープを探すところだ。
「どうしたの?そんなに頭抱えて、やっぱりボクと友達は嫌だった?」
「い、いや…そうじゃなくてな、別にお前が悪いとかではないんだ。………女みたいって、言われたことないか?」
「え…そんなにそう見えますか?」
「いや気のせいだ、そんなはずがない。気の迷いだ、俺はノーマルなはずだ。」
「何の話!?」
よし、忘れよう。
切り替えって大事だよな、運動して疲れたんだ。
「そういえばさっきこの町に引っ越してきたみたいなこと言ってなかったか?」
「うん、ボクの実家は別のところにあるよ。今は小峰の屋敷にご厄介になってるんだ。」
「小峰って昨日俺に知ってるかどうか聞いてた名前だな。」
「………。」
「ん?どうした、急に黙って。変な質問だったか?」
「ううん、流石だなって思ったんだ。」
「何がだよ。」
「常に二年生の学年トップを維持する理由が判った気がした。だってその質問ってどたばたしてた時のものでしょ?そんな瞬間でもちゃんと覚えてるなんて凄いよ。」
「はっ、どうでもいいだろ。それで、どうなんだ?」
「うん、小峰宗十郎。武神って呼ばれてる剣豪で、この街で剣術道場を開いてるんだ。ボクは訳あってその小峰の本家に居候してる。」
「わざわざ引っ越してくるほどの訳があるのか?」
「……ごめん、それは言えないや。とりあえず他の武家の技術を学びに来たということで。」
申し訳なさそうに頭を下げられる。
つまり理由は他にあるってことか。
まぁ軽い質問だし、別に構わないか。
あまり深く相手を知って厄介事に首を突っ込むのは御免こうむる、余計なことは知らなくてもいい。
自分のことを話すわけでもないのだし、聞かれたくないことなど誰にでもたくさんある。
それに、あまりいい予感がしない。
気まずくなった空気を払うように、俺は立ち上がって時計を見た。
「おい、そろそろ行くぞ。もう授業が終わる頃だ。」
「あ、そうだね。ちょっと待ってて、竹刀片付けてくるから。」
逢坂は立ち上がって三本の竹刀を抱えると、小走りで倉庫に走っていく。
俺はそれを確認すると、黙って剣道場を出た。
さて、次の授業は古文だったな。
少し早足で校舎に向かう。
早く行かなければ、先に出てきた意味がない。
だが予想に反して、逢坂は走って追いかけてきた。
チッ、素早いやつだ。
「何であっさり置いていくの!?」
「あまり俺と一緒にいないほうがいい。」
「どうして?」
「俺と一緒にいるとこを誰かに見られたら、互いに面倒なことになるからだ。」
「……あぁ。」
心当たりがあるようで、逢坂は苦笑しながら頷いた。
「俺が御奈坂と関わった翌日に、朝から二人も喧嘩を売ってきた。お前と関わったら、今度は誰が喧嘩を売ってくるんだろうな。」
「ボクは友達いないから誰も文句は言わないよ。」
「………素直に喜べない台詞だぞそれ。」
「だから気にすることないよ。それよりさ、ボクの前に喧嘩売ったのって誰?」
「あ?…確か峰岸って馬鹿、ウチのクラスの。」
「あぁ峰岸さんか、それは売られても仕方ないね。あの人、緋結華さんに好意を抱いてるらしいから。」
「お前と同じじゃないか。」
「ボクのは違うよ。どちらかといえばボクはライク、あの人はラヴだから。」
「あっそ。」
どちらにしても俺が喧嘩売られるのは変わらないってことか、まったく面倒な話だ。
この調子だと、あと何人に文句を言われるのか判ったもんじゃないな。
ま、それだけあいつが周りから大切だと思われてるってことなんだが。
昇降口に着くと、そこで逢坂とは別れた。
俺が階段を上るまで元気よく手を振っていたが。
…キャラが変わりすぎじゃないか?
まぁ元々はああいう性格なんだろうな。
三階に着くと予鈴が鳴り、全ての教室が騒がしくなる。
各教室から生徒が出てきて、廊下で他のクラスの連中と喋りだす。
だが俺が廊下を歩いてくることに気づくと、皆慌てて道を開けた。
いつものこと、もう気にならない。
寧ろ楽でもある、関わらなくて済むのだから。
目を逸らされて大きく開いた廊下を歩いて、自分の教室を目指す。
すると、教室の方から御奈坂が出てきた。
廊下に出た途端に周りを見回して、誰かを探しているようだ。
俺と目が合うと、心配そうな顔をして走ってくる。
「真也くん大丈夫!?」
「今は話し掛けるな。」
「え、どうして?」
「周りに人が多い、後で話すから教室に戻れ。」
「わ、判りました。」
深刻な話だと思ったのか素直に頷く御奈坂。
御奈坂が教室に入るのを確認すると、俺は廊下の壁に寄りかかって時間を潰す。
予鈴が鳴ってから戻れば、御奈坂が俺を探しに出たとは思われにくいはずだ。
あいつも友達に何か言われてたみたいだし、できればこれ以上悪い噂は広めたくない。
俺が原因で御奈坂の立場を悪くしたくないし、こうすれば互いに余計な手間を作らなくて済むだろう。
廊下にいた連中は俺からなるだけ離れていく。
これでいい、俺は独りでいいんだ。
俺と関わらないことが、誰も嫌な思いをしなくて済む方法なんだから。
予鈴が校内に木霊し、俺は教室へと入っていった。
放課後。
俺は荷物を持つと、速やかに教室を出ようと歩きだした。
「真也くん。」
しかしあっさり御奈坂が立ち塞がって妨害してくる、どうやら逃げられそうにない。
「チッ、本気で俺を連れていくつもりか?」
「ちゃんと約束したじゃないですか。」
「それより、話すならここはマズい。」
既に何人かがこちらを見て何かを囁き合っている。
ちゃんとこいつに言わないとな、何より御奈坂のためにも。
首を傾げたままの御奈坂を無視して、俺は教室を出ていく。
御奈坂はまだ鞄を持っていなかったから、早足で行けば距離を離せるだろう。
昇降口で靴を履き替えると、校門を出る。
よし、ここまで来れば多分大丈夫だろう。
後ろを振り返ると、慌てて追い掛けてくる御奈坂が見えた。
息を切らせて俺の傍まで来ると、何事かと疑問に目を染めている。
「今日はどうしたんですか?」
「……はぁ、お前ってあまり気にしないのか?」
「え?」
「まぁいい、歩きながら話すとしよう。んで、例のカフェってのはどっちだ?」
「あ、はい、こちらです。」
御奈坂が歩きだし、俺はその隣に並ぶ。
莉乃姉以外と二人並んであるくのはいつ以来だろう。
昔は姉さんと二人か莉乃姉も合わせて三人、今は莉乃姉だからな。
隣を見ると御奈坂が若干不安そうにしながら歩いている。
「あのさ御奈坂。」
「は、はい!?」
「いや、そんなに堅くならなくていいが。……俺に関わるなとはもう言わないが、学校にいる間は控えろ。」
「何でですか?」
「俺は不良で、お前はクラスでも友達が多いだろ?俺みたいな奴と関わってると知られたら、今日みたいに厄介なことになるかもしれない。」
「もしかして峰岸くんですか?」
「ついでに言えば逢坂もだ。」
「龍矢くんまで!?」
「あ…まぁあいつのことはケリがついたからいいんだ。………とにかく、もう学校では話し掛けるな、その方が互いに嫌な思いをしなくて済む。」
「………嫌です。」
御奈坂がそう言って立ち止まる。
「おい、話を聞いてたか?」
「聞いてました、でも嫌なんです。」
「あのさ、今日だって朝から友達に注意を受けたんじゃないのか?」
「受けましたけど、きっぱり言いました。私は真也くんとホントに仲良くなりたいんですって。」
「くっ…。」
何て恥ずかしい台詞を言いやがるんだこいつは。
純粋な思いは伝わるって言うけど、御奈坂のはまさにそんな感じだ。
言葉の一つ一つに嘘も誇張もない。
自分が感じ思ったことをそのまま言葉にしている。
しかもこいつ自身が信じられないくらいお人好しなせいで、そういう思いが言葉に乗って伝わってくるんだ。
それでいて意外に頑固だ、俺にとって最悪な相性の組み合わせだよ。
「どうなっても知らないからな。」
「どんとこい、ですよ。それより真也くんの方が心配です。」
「何故だ?」
「だって今朝から何度か嫌な思いをしたんですよね?私からも峰岸くんには言っておきます。」
「…まぁ、あいつが俺を敵視するのも判るからな。」
「はぁ、そうなんですか?」
この様子だとやっぱ知らないんだろうなぁ、まぁあいつを応援してやるつもりはないが。
木野塚商店街へ向けて、二人で歩いていく。
「そういえばそろそろ梅雨入りだそうですよ。」
「あぁ、もうそんな時期だな。」
「真也くんは夏休みの予定とか決めてるんですか?」
「いや夏休みって、気が早すぎないか?」
「そんなことないです!学生の本分が勉学とはいえ、やっぱり夏休みは楽しみなものですよ!予定を立てるのに早すぎるということはないんです!」
いつになく熱弁を振るう御奈坂。
こいつも結構遊びとか好きなんだな、剣道ばかりやってると思ってた。
カフェに入り浸ってたり、夏休みにワクワクしたり、人生楽しんでるって感じだ。
それでいて今時の女子高生らしからぬお人好しっぷり、やはり俺と友達になっているというのは腑に落ちない。
「そういえば、五時限目はどうしたんですか?真也くんがサボりなんて実は珍しいですよね?」
「あぁ………逢坂に喧嘩を売られてた。」
「えぇ!?ホントに喧嘩してたんですか!?」
「剣道場に連れてかれて竹刀でやり合った、意外に攻撃的だな。」
「普段は絶対そんなことしないんですけど、どうしていきなりそんなこと。」
「それだけお前のことが大事なんだろ。」
「私としては大事な人同士が私のせいで争うのが辛いです、話し合いで解決しましょうよ。真也くんがいい人だって、話せば皆判ります!」
いや、そこで可愛らしくガッツポーズされてもな。
俺はいい人ではないし、話しても伝わらないだろう。
「でも確か龍矢くんとは仲直りできたんですよね?」
「それどころか友達になりたいとまで言われたよ。」
「やったじゃないですか!おめでとうございます、私も嬉しいです!そうだ、今からでも呼びましょう!」
「おいちょっと待て…。」
そう言っている内に電話を掛け始める御奈坂。
まったく、流石は莉乃姉と意気投合するだけはある、勢いで動くところが似てやがる。
間もなくして繋がったのか、二言三言話して電話を切った。
「ふふふ。」
「その様子だとすぐに来るとでも言ったらしいな。」
「はい、全速力で来るそうです!三人でお出かけですね!」
「お前といると周りにどんどん人が集まってくるな。」
「賑やかでいいと思いますけど?」
「少なくとも俺は嫌だ、面倒事は御免だ。」
「そんなこと言わずに、楽しむのも大事なことですよ。」
「既に遠慮がなくなってきたよなお前。」
「少しでも多く私のことを知ってもらいたいだけですよ。」
「なら話せば良いだろ、別にお前の友達と会う必要はない。」
「真也くんが私の友達と仲良くなれたら絶対楽しくなる、幸せになれる、そう思うんです。」
「それを決めるのは俺だ、そして俺は迷惑だと言ってる。」
「でも龍矢くんなら大丈夫ですよね?」
「俺が平気かどうかなんて関係ないだろ、そもそも俺は俺に関わってほしくないんだ。」
「ボクは桐生先輩と仲良くしたいですよ?」
「うわっ!?」
突然の声に驚いて飛び退く。
そこにはまるで乙女のような微笑みを向ける逢坂が立っていた。
「テメェいつの間に!つか気配消して近づくな!」
「ちょっとした冗談だったんだけど、こんなに驚くとは思わなかった。」
「チッ、最初とキャラが違いすぎだ。」
「桐生先輩の前なら素の自分を出そうと思って。」
「ったく、俺をそんな特別視する意味が判らねぇよ。」
「無条件で信用できる友を作れってお祖父様に言われてるんだ、緋結華さんも友達なら信じるって言ってたし。」
「諸悪の根源はお前か御奈坂。」
「諸悪って。でも友達なら信じられますよ?」
「…お前はそもそも信じないって選択肢があるのか?」
「………あはは。」
「はぁ、もういい。」
頭を振って歩きだす。
賑やかになりつつあることに頭痛を覚えながら、俺はとっととカフェとやらに行ってすぐに帰ると誓った。
木野塚商店街は比較的大きな商店街だ。
八百屋や魚屋、肉屋や惣菜など、安くて新鮮な物が手に入ると有名でもある。
昔からあるものは廃れていく世の中だが、この商店街はいつも多くの人が行き交う憩いの場だ。
さりげなく広く作られた道の両側に並ぶ商店と、そこから聞こえてくる客引きの声。
そのどれもが老舗と言えそうなほど代々受け継がれてきた中に、そのカフェは建っていた。
カフェ、Fratres。
明らかにそこだけ新しいと判る綺麗な外装。
木の壁に洋風の硝子窓、一見してよくある喫茶店だ。
薄いカーテンが閉められているようで、外からは中の様子が判らない。
正直な感想を述べるとすれば、怪しい。
テラス席もなく、ここだけ客引きもしていない。
OPENと書かれた板がドアノブに吊されていて、店の前にはメニューが一覧になった看板。
値段を見ると、それほど高いというわけではなく、寧ろ誰でも気軽に立ち寄れそうな良心的値段だ。
この値段でこの商店街にあれば、さぞかし昼時は繁盛するだろう。
隣の逢坂は、メニューを見ながら既に吟味を始めている。
御奈坂は常連と言うだけあって、メニューを眺める逢坂を見て微笑んでいた。
「どうですか真也くん。」
「どうもこうも、怪しい喫茶店にしか見えないんだが。」
「怪しいですか?」
「普通のカフェって外から中が見えるもんだろ。これじゃまるで、入ったら二度と出てこれないとこに続いてるみたいだ。」
「………真也くんの例えって的確ですよね。」
「は?」
「大丈夫ですよ、騒がなければ出てこれますから。」
「騒いだら出てこれないのか!?」
「真也くんってどれくらい強いですか?」
「は?……あぁ、刀を持っていればどうか判らないが、素手だと一度に二十人くらいが限界だと思う。」
「あはは、きっとキヨシさんやホカゾノさんにも勝てないかもしれないです。」
「それが誰なのか判らないが、一体どんなゴリラだよそれ。」
「キヨシさんは槍で雷とか台風が起こせますし、ホカゾノさんは力が強すぎて現実を歪めるらしいですよ。」
「何だそのファンタジー、漫画の読みすぎか?仮にそれがホントだとすると、この中には化け物の巣窟ができてるってことになるぞ?」
「あながち間違いとは言えないところが面白いですよね?」
「そこで疑問符浮かべんな。」
「まぁまぁとにかく入りましょうよ。龍矢くん、行こう。」
「あ、はい。」
御奈坂は躊躇いなくその魔界への門を押し開け、中へと入っていく。
俺と逢坂は目を合わせて頷くと、意を決してそれに続いた。
扉に付いたベルが鳴り、来客を店員に知らせる。
「いらっしゃいませ……あぁ、緋結華か。」
「こんにちはマスター、今日も来ましたよー。」
「いつものアンチダイエットミルクティーで良いのか?」
「何ですかその身体に悪そうな飲み物は。」
「事実だろうが。あんな砂糖とミルクに紅茶を入れたような飲み物、割と甘いもの好きな馬鹿でさえ飲むのを躊躇ってたぞ。」
「女の子はすべからく甘いものが大好きなのです。」
御奈坂が親しげにマスターと話している間に、俺は店内の観察を始める。
中に客はいなかった。
しかし中は考えていた以上にモダンな雰囲気だ。
各所に配置されたアンティークな調度品は、欝陶しさを感じさせない。
客がゆったりとした時間を過ごせるように配慮され、変な威圧感がないように気遣われている。
五月蝿く感じさせない程度に流れる音楽は、有名なクラシックだ。
店内の照明は薄暗いが、それがまたいい味を出していた。
だが、おかしな物が各所に鎮座している。
入ってすぐ右の棚。
綺麗な陶器の小物の中に、明らかに異質な一つの鉄筒が立て掛けられている。
あれは………ショットガンか?
周りを見回すと、ライフル銃や長刀がさり気なく並んでいる。
それらが何故か妙な調和を醸しだし、それほど違和感を感じない。
下手をすれば気が付かない人がいるかもしれないほどに、上手く紛れている。
洋風なのか和風なのか、どちらをコンセプトにしているのかいまいち判らないが、一言で言い表わすなら間違いなくこれだろう。
「イカレてやがる。」
「それに関しては同感だよ。」
「はっはっは、面白いな。ウチのカフェに入って第一声がそれとはね、中々判ってるじゃないか少年。」
マスターがグラスを布巾で拭きながら笑いだす。
こいつが御奈坂の言う強いマスターか。
でも想像していたようなゴリラではなく、細身で長身の若い男にしか見えない。
鍛えられてるのは判るが、強い者独特の威圧感が感じられない。
俺が訝しんでいると、マスターは緋結華に問い掛けた。
「この二人は緋結華の友達なのか?」
「はい、そうですよ。こちらが真也くんで、そちらが龍矢くんです。」
「ボクは逢坂龍矢です、よろしくお願いします。」
「ほぉ、礼儀正しいな。俺は…とりあえずマスターとでも呼んでくれ。」
「はい、そうします。」
「で、そっちは?」
「馴れ合う関係じゃないだろ、互いの立場がな。」
「はっはっは、それはそうだ。じゃあキミって呼ばせてもらおう。さ、立ってるままなのもおかしな話だ、座ってくれ。」
マスターに促されてカウンター席に並んで座る。
「キミたちは何を飲む?」
「ボクはカフェラテを。」
「ブレンドのブラック。」
「畏まりました、少々お待ちを。」
てきぱきとマスターが珈琲を淹れ始める。
淀みないその動作は軽く、手際がいい。
知らず知らずの内に、俺はその動きを目で追っていた。
「珍しいかな?珈琲をこうして淹れるのを見るのは。」
「はっ、そういうわけじゃねぇよ。」
「そうか、勘違いだったのなら失礼した。そう熱心に見られていると緊張してしまう。」
軽口を叩きながらも、マスターは手を休めない。
否定はしたが、興味がないと言えば嘘になる。
洗練されたものは、例え自分にはできないことでも目で追ってしまうものだ。
俺は豆から珈琲を淹れようとは思わないが、やはり彼の動きは見てしまう。
素早く、それでいて丁寧な仕事で、俺たちの前には注文した物が並ぶ。
「さぁどうぞ、味は保証しよう。あと、これはサービスだ。」
飲み物と一緒に出されたのは、小さなクッキーが幾つか。
「わぁ、ありがとうマスター。」
「たまにはサービスくらいするさ。それは試作品だからまだメニューに載せてない、感想があれば聞かせてくれ。」
「凄いね、初めて食べれるお客さんだよボクたち。」
感想が代金代わりってことか、まぁ試作品ってそういうものだよな。
でも甘いのは少し苦手だ、特に洋菓子は。
激甘党らしい御奈坂仕様だったらとても食えそうにない、それだと他の客も顔をしかめるだろうが。
三人揃って、試しに一つ食べてみる。
クッキーは見た目以上に軽い。
甘さは控えめだ、これなら俺も食べられる。
サクサクと口の中で砕けて、溶けるように甘さが広がっていく。
チッ、普通に美味いな。
珈琲を飲むと、深いコクと程よい酸味。
このクッキーにも合う、悔しいが満足の組み合わせだ。
それは他の二人も同様だったようで、美味しそうにそれぞれを口に運んでいる。
マスターはその反応だけで十分だったのだろう。
何も言わずに微笑むと、自分の仕事に戻る。
御奈坂は激甘仕様のミルクティーを口に運びながら、マスターに問い掛けた。
「そういえば、他の四人は何処にいるんですか?」
「あいつらは休憩、裏で煙草でも吸ってんだろ。カオリは休みだから買い物に行くと言っていたな。」
「カオリさんには会えないんですね、残念です。」
「緋結華が来ると知ってれば早めに帰ってたかもな。」
「緋結華さん、誰ですかそのカオリさんって。」
「マスターの奥さんだよ、とっても優しくしてくれるんだ。」
「へぇ、夫婦で経営してるんだ。」
「まぁ他にも五月蝿いのが三人ほど混ざってるがな。」
「さぁーって客はいるかな?っているし!?」
「何だと!?この平日のアイドルタイムに客がいるだと!?」
「賭けは俺の勝ちだな、ほら金出せよ。」
「ヒロトのその能力ズルくないか?」
何だか不穏な会話をしながら、三人の男が厨房から出てきた。
一人は大柄でゴリラのように筋骨隆々の男、見るからに強そうだ。
もう一人は中肉中背の男、鍛えているのは判る。
最後の一人は女のように細く色白で、到底鍛えているとは思えない体格だ。
三者三様の彼らは俺たちがいようとお構いなしに金のやり取りを開始する。
直後、カフェの空気が変わった。
ピリピリと肌を焦がすような感覚。
先程までの穏やかな雰囲気は、まるで毒に蝕まれるように気配を変えていく。
御奈坂が席を立ち、入り口の方へと移動する。
俺と逢坂も、そのただならぬ気配に全身が警笛を鳴らした。
これは殺気だ。
それも常人の俺たちでさえ感じ取れるほどに濃密で、軽い吐き気を催すくらいに強い。
下手に感覚が鋭い者であったなら、たちまち動けなくなる。
俺たち二人も、御奈坂に習って入り口の方へと移動した。
発しているのは、少し前まで優しげな笑顔を浮かべていたマスターだ。
その双眸は冷たい光を放ち、静かに拭いていたグラスを置く。
彼は振り返ると、後ろにあった縦長の戸棚を開ける。
中から出てきたのは、中世の騎士が腰に携えていそうな西洋の剣。
静かに鞘から剣を抜くと、銀色に輝く刀身が姿を現す。
って、何でそこから出てくるんだ!?
それはどう見ても玩具には見えない、正真正銘の殺傷武器だ。
あんな物で襲われたら、鎧を着ていたとしても真っ二つに両断されてしまう。
御奈坂は見慣れたものなのか、手にはしっかりと激甘ミルクティーを持って、笑いと呆れが入り混じった表情でそれを眺めている。
「おい御奈坂、あれは何だ?」
「うーん、判りやすい言葉で表現するならそうですね……いつものお仕置きです。」
「いやいや緋結華さん、あれで斬ったら間違いなく死にますよ!?」
「あはは、多分大丈夫だよあの三人は。」
そう言った御奈坂は、ミルクティーを口に運ぶと頬に手を当てて悦に入っている。
かくいう俺と逢坂は気が気じゃない。
およそ戦場とは言えない場所で、ありえない光景が広がっているのだ。
例え日頃から冷静さを保つことを心がけているとはいえ、流石にこれは想定外。
そもそも、クラスメイトに連れてこられたカフェでこんな殺戮ショーが始まろうとするのを誰が予測できるのか。
絶対的に何かが間違っている、ここは本当にさっきまでと同じ世界なのか?
マスターはゆっくりと剣を上段に構えると、三人に向かって歩きだす。
大柄な男と中肉中背の男はそれに気づいていない。
たまたまマスターの方を向いていた痩躯の男だけがマスターを見て、手元の札を見て、冷静に財布へしまうと全力で走りだした。
「おいヒロト何処行くんだよ!」
「休憩は終わっただろ?」
「………断罪。」
「え?ってギャァァァァァ!」
中肉中背の男が一撃の下に斬殺される。
隣の逢坂からは小さく悲鳴が上がり、俺も一歩引いた。
人が目の前で斬られたというのに、御奈坂は特に気にした風もなく眺めているだけだ。
マスターは斬り捨てた男に一瞥をくれると、残された大柄な男と向き合い笑顔を浮かべた。
「なぁ蛆虫野郎、テメェの墓には何て刻んでやろうか?」
「ちょ、兄さん落ち着いて話し合おう!ウチは悪くないんだ!」
「ほぅ、なら誰が悪いのか一応聞こうか。で、一体誰がそんな下らねぇ賭けを思いついたんだ?ここで死んでる愚弟か?それともとっとと戦線離脱したヒロトか?」
「あ、賭けを思いついたのはウチ。」
「吹き飛べクソゴリラぁ!」
「いやぁぁぁぁ!」
毛ほどの情けも容赦も感じられない極悪な剣は、消えたかと思うような速度で大柄な男を斬り刻んだ。
悲鳴が木霊し、しかしすぐに聞こえなくなる。
逢坂は怯えて俺に抱きつくと、俺の手を握って震えだす。
チッ、この状況はヤバい。
もし次の標的に選ばれてしまったら、この二人でさえ逃がせる自信がない。
珈琲を淹れていた時にはなかった圧倒的な威圧感が、あのマスターからは溢れている。
傍にいるだけなのに己が呑み込まれそうになる、全身の筋肉がその異質を許容できずに震えだす。
人を斬り刻んだマスターは、溜め息を吐いて剣を鞘へと納める。
そして俺たちの方を見て、不思議そうな顔をした。
「どうした二人とも、何かあったのか?」
「………近寄るな!」
「マスター、初対面の人前で暴れすぎですよ?」
「あぁすまない、ついな。でも安心しろ、こいつらは…。」
「ギャグコメ視点で見ないとこんなにもグロいシーンなのか、お兄さん完全に殺戮者だね。」
「いくらなんでもミンチは酷いよ兄さん、せめてスライスで止めてもらわないと。」
「………は?」
死んだはずの二人が、ごく当たり前のように立ち上がる。
どういうことだ?
確かに彼らはあの凶悪な剣で挽肉にされたはずだ、なのに何故今目の前で息をしている?
人として当然な疑問に頭を悩ませていると、死んだはずの男たちが俺たちに近づいてきた。
「やぁ少年、驚いただろう?だが!キミは何も見なかった、そうだよな?」
「あれはツッコミなんだぜ、だから深く考えちゃダメだ。」
「心の傷になる前に忘れたまえ、もしくは受け入れろ。ここじゃそれが当然で、理解の範疇を越えた出来事には目をつぶるのが正解だ、聡明そうなキミはその意味が判るはずだ。」
「ジャンルの違いってやつさ。この店の敷居を跨いだ時点で別世界って話。」
「詳しくは第一回武闘大会のウェブで!」
「世界の根源に抵触するような戯れ言は今すぐ止めろ、さもねぇとギャグじゃ済まないくらいに殺し尽くすぞ馬鹿共!」
『サー!イエッサー!』
わざとらしく敬礼までしてみせて、彼らは仕事に戻っていく。
世の中を上手く生き延びるには多少の嘘も許容しろってことが良く判る。
少なくともこの連中は、出来る限り敵に回さないよう気を付けよう。
「紹介が遅れたな。この背が低いのが俺の弟、キヨシだ。」
「お兄さん、余計な台詞が入ってるぜ!俺はキヨシ、あと少しでまた成長期が来るから期待しとけよ!」
何に期待しろと言うのか、とにかく不死身でテンションは高いことしか判らない。
「あ、兄弟なんだ。それにしては似てないね。」
「昔っからよく言われるよ、まぁウチは兄弟みんな似てないからな。」
「んでこっちのゴリラが……。」
「ヘイ兄さん、スタートからおかしいぞ?」
「何がおかしいのか、その容量の少ない脳ミソで考えられるのか?」
「ウチはゴリラじゃない………キングコングさ!」
いい笑顔で意味不明な台詞を叫ぶ男。
とりあえず二人とも馬鹿なんだろう、マスターも呆れてる。
「ウチはホカゾノ、ホカゾノ様と呼んでくれ。」
「丁重にお断りする。」
「テメェ表に出ろ!」
「一日に二度死にてぇのかゴリラ?」
「はっはっは兄さん、冗談ですともよ!」
「やれやれ。じゃあ最後にヒロトだが、ここで呑気にキミの珈琲を飲んでいるのがそれだ。」
「あ、テメェヒロト、自分だけ逃げやがったな!」
「俺は兄さんの攻撃受けたら普通に死ぬように設定されてるから、ホカみたいに化け物じゃないの。」
「おいヒロト、設定とか言うな。」
化け物じゃない?
冗談じゃない、いつからそこにいた?
今の今までそこにいることすら認識できなかったんだ、そんな気配遮断が人間に可能なものか。
逢坂も驚愕に目を見開いている、こいつも気づいてなかったんだろう。
チッ、化け物の巣窟かよこの店は。
「まぁ騒がせて済まなかった、とりあえず座ってくれ。新しい珈琲を淹れよう、今日の代金もこちらで出すよ、迷惑料だ。」
「はぁ。」
「今日も激しかったですねー。」
「緋結華さん、慣れすぎ。」
一応もう危険はなさそうだ、警戒はしておくべきだろうが。
またいつ彼ら曰くツッコミと呼ばれる殺戮行為が行われるか判ったもんじゃない。
この店に入った時点で、死して屍拾う者なしってわけだ。
新しく淹れられた珈琲や紅茶を飲みながら、暫く過ごしていた。
御奈坂の言葉は全て本当で、確かに騒ぎを起こさなければこのマスターは真面目にしている。
逢坂の質問攻めにも笑顔で答えていたし、口調も元に戻っていた。
他の三人もそれからは比較的大人しく、緋結華と談笑している。
ま、さっきみたいなのがなければ悪くない店だ。
問題点は多大に抱えているが、実害さえなければ無視できる。
むしろ、刀や剣が好きな奴なら好んで足を運ぶだろうし。
少し離れた席で談笑しているのを見ていると、いつの間にかマスターが逢坂の質問攻めから解放されて、同じように眺めながらたたずんでいた。
「キミは混ざらないのかい?」
「生憎と騒がしいのは苦手だ、それに場違いだからな。」
「ふむ、キミは何処にいようと独りなんだね。」
「はっ、知った風な口を叩くなよ店員風情が。」
「それは失礼。だがキミの目には、楽しさや喜びといった感情の色がないように見えるからね、少し心配になったんだ。」
「頼んでもねぇのに人生相談か?テメェの自己満足に俺を巻き込むなよ、価値観の押しつけは鬱陶しいだけだ。」
「これはまた随分と手厳しい、そう言い返されては何も言えないな。」
「なら黙っててくれ、馴れ合いは御免だ。」
「では迷惑ついでに一つだけ。心の傷とは克服するのが難しい、故に克服した時、キミの中の空洞を埋めるのが一体何なのか、それが判るはずだ。」
「テメェ、俺の何を知ってる?」
「俺は真耶の相談を受けたことがあるとだけ、それ以上のことは想像でしかない。」
「真耶姉さんがここに?」
「あぁ、たった一度だけだが。とても綺麗な娘だったのでね、自然と記憶に残っている。だからキミを見た時は驚いたよ、お姉さんにそっくりだ。」
「驚いた素振りも見せないでよく言う。」
「そういうわけで相談ならいつでも、まぁもし気が向いたらで構わない。」
「そんな機会はねぇよ、いつまでもな。」
「ははは、その方がいい、悩みは己でしか解決できないからね。相談とはすなわち可能性を増やすための手段だ、そもそも自分でその選択肢が見えるなら必要のない寄り道にしかならない。……さて、珈琲のおかわりは如何かな?」
「………あんたは気に入らないが、珈琲は美味いからな、頂くよ。」
「キミにお誉め頂けて恐悦至極に存じます、よろしければこちらの豆もお試しあれ。」
「チッ、馬鹿にされてる気分だ。」
新たに淹れられた珈琲を口に運ぶ。
…クソッ、美味いな。
初対面から勝てる気がしない相手だ、喧嘩じゃもとより殺されるだろうが。
俺はどれだけ強くなれば、もう失わなくて済むんだろうな。
途方も無い旅路。
向いた先は暗闇で、行き先もゴールも判らない。
道が判らないなら、今はただ鍛えるだけだ。
積み重ねていけば、いつかは見えるかもしれないから。
珈琲を飲みながら、俺は楽しそうな二人を眺める。
これっきりにするべきかと、頭の片隅で考えながら。
「緋結華ちゃん、また来てくれよな!」
「はいキヨシさん、また来ますよ!」
「ホカゾノさんはあまり怒られないようにしないと流石に死ぬよ?」
「心配には及ばないぞ龍矢、ウチは一番タフな身体で有名な男。かつて耐えに耐えて兄さんにさえ一撃を入れた豪傑よ!そこのキヨっちゃんと違ってな。」
「へいクソゴリラ、も一回雷庭を食らいたいなら前に出な、消し炭にしてやるからよ!」
「あんな静電気でウチは倒れない、槍を折られたの忘れたか?」
「ろくに魔力も使えない木偶の坊がよく言うぜ、テメェの攻撃なんてただの避けゲーだぜ!」
「それくらいで止めとけよたわけ者、兼定で永遠に出れない鳥籠にブチ込んでやろうか?」
『すいませんしたー!』
随分と打ち解けた様子の二人は、別れを惜しむように言葉を交わしている。
俺はそんな光景を離れた所で眺めながら、ふと視線を感じて首を動かす。
カウンターで俺と同じように眺めていたマスターが、俺を見て微笑んでいた。
全てを見透かされてしまいそうなその瞳から、俺は思わず目を逸らす。
やはり、あの男は苦手だ。
おどけたようで隙を見せない態度もそうだが、何よりも、俺よりも俺のことを知っているような気がする。
関わらない方がいいのか、或いは…。
いや、どうせもう来る予定はないんだ、考えても無駄だな。
話が終わったのか、二人がこちらへと歩いてくる。
「すみませんお待たせしました。」
「別にいい、もう帰るぞ。時間も遅い、厄介な連中に絡まれる前に送るぞ。」
「あ、ボクはそのまま帰るよ、ここからだとすぐだから。」
「判った、じゃあな。」
「うん、またね。緋結華さんもまた。たまには師範に顔を見せてあげてね。」
「明日は行く予定だから、夕方には行けると思う。それじゃあ気をつけてね。」
逢坂は頷いて反対側に歩きだすと、途中で振り返り手を振って走っていった。
俺が無言で歩きだすと、御奈坂は慌てて少し後ろを付いてくる。
賑わう時間を過ぎた商店街の中を、二人で黙って歩く。
何度も後ろで何かを言おうとする気配があったが、実際に話し掛けてはこない。
互いに無言で歩く二人の間には、浮き彫りにされた見えない、しかし分厚い壁。
話し掛けるなという、俺からの無言の圧力。
そのままずっと会話はなかった。
御奈坂の家の前まで着いて、俺は黙って背を向ける。
「真也くん。」
「…何だ?」
「………私のこと、嫌になっちゃいましたか?」
「いや、別に。」
「強引にあそこに連れていったから、嫌われたのかと思って。」
「それくらいで嫌いになったりするほど、俺は短気じゃないつもりだ。」
「それは判ってるんですけど、何だか不安で。あはは、真也くんが私から離れていくような、そんな気がしたんです。」
渇いた笑い声。
背中を向けているから表情は見えないが、不安な顔のままだろう。
まったく、勘がいい奴だな。
結構強引なくせに、こういう時にはしおらしいし。
でも、こいつを騙したりはできない気がする。
きっとなんとなくって感覚で、俺の嘘に気付くんだろう。
なら、嘘を吐いても仕方ないか。
「悪いが、もう俺をこういうことに誘うな。」
「………。」
「お前が嫌いだとか、そんな理由じゃない。やっぱり、俺は誰かに囲まれているのが違和感なんだ。お前がどれだけ俺を気に掛けても、俺は場違いに感じる。」
「…私ではダメなんですか?私は……真也くんの隣にいたいです。莉乃さんみたいになりたい。」
「莉乃姉はただ、真耶姉さんの代わりになろうとしてるだけだろ。」
「そんな風に言っちゃダメです!莉乃さんは本気で!」
「………。」
無言で歩きだす。
もう、余計な寄り道はいらない。
俺は、皆が当たり前に感じる幸福な時間を過ごしてはいけないんだから。
ただ淡々と生を全うすることが、俺自身に課した罰。
幸せな日常なんていらない、必要なのは生きるための活動。
仲間に囲まれて、下らないことで笑い合って、また明日と別れる。
それは死を背負わない者の生き方で、俺には許されざる生き方だ。
だからこの数日間は、一時の間違い。
誰かが食べるはずだった料理が、何かの手違いで俺のもとに運ばれてきたようなものだ。
そう、これは姉さんが生きるはずだった日常。
俺はここではない別の世界で、それをただ眺めている。
この日常は、俺のモノじゃないんだ。
だから、好き勝手に生きてはいけない。
「真也くん!」
呼び止められ、立ち止まる。
でも振り返りはせず、そのまま問い掛ける。
「何だ?」
「また、お話できますよね?」
「………それは、俺が決めていいことじゃない。」
止めていた足を動かして、前に進む。
何故かどうしようもなく、心は乾いていた。
Hiyuka side
「どうしたの緋結華、元気ないじゃないの。」
「大丈夫ですよ、私は。」
「でも全然食べてないじゃない?もしかして美味しくなかった?」
「いえ、お母さんのご飯はとっても美味しいです。……ごめんなさい、部屋に戻ります。」
ほとんど手をつけないまま席を立つ。
食事が喉を通らない、食欲もない。
何も手につかなかった。
頭の中で反芻されるのは、別れ際に告げられた真也の言葉。
「もう誘うな。」
それは関わるなと言われるよりも、心に深く残った。
友達として一度は認めてもらえたからですよね。
友人となることを許された、そう思っていたし、彼にとってそれがとても特別な意味を持つことも判る。
でもダメだったのだ。
私は、真也くんの隣には立てなかった。
真也くんの心の壁を越えることも、悲しみを癒すこともできない。
一番になることを止めて、でも二番にすらなれなかった。
莉乃さんは、どうやってあんな風に信頼されるようになったのだろう。
三番ならどうか。
ううん、きっとそんなことじゃないんだ。
今の真也くんは、そういう枠組みや優劣で人を遠ざけてるわけじゃない。
真也くんは優しい、それはここ数日だけでも判った。
言葉の素っ気なさに隠れて気付きづらいけど、相手を思いやる気持ちはとても強い。
自分のせいで大切なお姉さんを亡くして、だからこそ自分と関わらせないようにしている。
冷たい態度も、あの格好も、そのためのものだ。
でも、それはダメです。
人に優しくできる人は強い、それは意外なほど難しい。
意識していても、本当の意味での優しさというのは、日頃からの努力と才能とも言える。
私は優しくなんかない、ただ嫌われたくないだけ。
誰にも嫌われたりしないように、相手が嫌がらないように考えてるだけだ。
でも真也くんは人を思いやるからこそ、より孤独になろうとしている。
そんなのは悲しい。
彼みたいな人こそ、温かで幸せな世界の中で報われるべきだ。
なら、私には何ができるだろう。
薄っぺらな言葉だけじゃ、真也くんは首を縦に振らない。
もっと別の何かが必要だ、彼に私の気持ちを伝えるには。
―――優しいだけの言葉じゃなくて、本当の優しさを学ぶために。
街灯が照らしだす夜道を歩いていく。
目指すのは並木通り、家に帰るのはもう少し落ち着いてからだ。
きっと家には莉乃姉がいて、俺の帰りを待っている。
暖かい笑顔と、温かい食事を作って、当たり前のように待っている。
多忙極まりない中で、少しでも俺の傍にいようとして。
その優しさは、暗闇の中に立ちすくむ俺の足元を照らす月明かりのようだ。
だからこそ、このまま帰りたくない。
まだ冷静とは言えないままで帰ったら、莉乃姉は必ず気付く。
いずればれるだろうけど、その時までは知らなくていいだろ。
人通りが多くなってきた道を歩いて、忠勝さんの花屋に向かう。
結構遅い時間だが、多分まだ開いているはずだ。
すれ違う人は、みな少しでも距離を空けて脇を抜けていく。
これが一番正しい反応だよな、誰だって己の身が可愛い、厄介者にはなるだけ近寄らないってのが普通の感覚だ。
わざわざ俺に近寄るのは同類の輩か、危機察知能力が著しく欠如したやつくらいだな。
「あ、真也さん。珍しいですね外で会うなんて。」
声をかけられて振り返ると、そこにはちんまりとした和服少女が、なんか風呂敷を抱えて、周りの視線を釘付けにしていた。
…いたよ、後者の方が。
目立つ格好の二人が、往来のど真ん中で見つめ合う。
行き交う人々が訝しげに見ていく。
俺は無視して行くことにした。
「無視は良くないですよ真也さん。」
物凄く自然に隣を歩く恵恋。
「話し掛けんな。」
「何ですか、不機嫌ですか?」
「お前には関係ない。」
「相変わらずの冷徹野郎ですね。」
「黙ってろ。」
「何処に行くんですか?」
「鬱陶しいな、どっか行け。」
「わたしもそっちに用があるんです。」
「なら離れて歩け。」
「わたしが何処を歩こうと勝手でしょう?」
「はぁ、勝手にしろ。」
俺を見上げながらとことこと隣を歩く恵恋。
何だこいつ、こんな夜に出歩くのも珍しいな。
買い物にしては荷物も多いし、こっちまでわざわざ来る必要がない。
「お前、こんな時間まで何してんだ?」
「お前には関係ない。」
「………。」
「似てました?態度とか自信あったんですけど。」
「ウゼェ。」
「ダメですか、物真似って難しいですね。」
「何がしてぇんだよ。」
「いえ、特には。」
「あっそ。」
マイペースな奴だ、おまけに意味も判らない。
つか何処まで着いてくるつもりなんだ。
並木通りに辿り着き、立ち止まって隣を見る。
無表情なまま俺の隣に立つ恵恋は、何故か同じく立ち止まった。
「なぁ、お前の目的地は本当にこっちなのか?」
「えぇ、わたしは歓楽街の方に。」
「は?」
「確かあちらにはホテルがあるはずですから。」
「あるにはあるが、一人で入るようなホテルじゃないぞ?それに、家に帰ればいいだろうが。」
「あのダメ親の元には帰りません。」
「………はぁ、喧嘩でもしたのか?」
「わたしがいなくて困ればいいんですよ。」
あのダメ親父か、こいつが怒る理由なんて多分にありそうだな。
まぁ、俺には関係ない。
「そうかよ、じゃあな。」
「はい、では。」
俺は恵恋を残して花屋に入る。
こんな時間でも不思議そうな顔もせず、忠勝さんはいつものように花をくれた。
店を出て花を取り替える。
既に恵恋は姿を消していたが、ホントに歓楽街に向かったのか。
手を合わせながら、今日の出来事を思い浮かべた。
やっぱり、友達なんて作るべきじゃなかったよな。
気持ちが揺らいでた、もう間違えてはいけない。
俺と話すようになっただけで、すぐに迷惑をかけた。
だがこれで明日からは元通り。
なるだけ他人と関わらない、一人の生活に戻る。
姉さんは怒りそうだけど、放っておいたっていつかはこうなるんだ。
あんな風に、俺のせいで誰かが嫌な気持ちになるのはもう終わりにしたい。
…よし、まだ俺は大丈夫だな。
孤独は俺の隣人、離れることなんて、そもそもできなかったんだから。
立ち上がって、家に向かって歩きだす。
だが、視界の端に妙な光景が映った。
そちらに向くと、恵恋がいる。
まだそこにいたことよりも、一緒にいる連中が気になった。
チャラチャラしたアクセサリーに、派手な髪型と服装。
数は二人。
知り合いとは思えない、明らかに互いは初対面だ。
ナンパ、それも質が悪いタイプの。
恵恋は相変わらず無表情だが、あれは単に状況が判ってないんだろう。
もしかしたら知らない奴にいきなり声をかけられた、くらいにしか思ってないかもしれない。
やれやれ、かったりぃな。
歩く先を方向転換、ゆっくりと三人の方へ移動する。
近くに寄って会話を聞こう、必要なければ手は出さない。
人混みにまぎれて、少しずつ距離を詰めていく。
漸く声が聞こえる距離になった時、とんでもない台詞が聞こえた。
「あれですか?アナタたちはわたしのようなタイプにしか欲情できない憐れな人間だと?」
「は、もういっぺん言ってみろ!」
「ははぁ、感心しました。アナタたちのように下劣で汚い人でも、自分の変態さを再確認するだけの頭はあるんですね。」
「テメェ。」
「その派手な格好も不粋です、カッコいいと思ってるんですか?先程まで一緒にいた方の方が、数十倍は素敵だと思いますよ。」
「優しくしてりゃ付け上がりやがって、思い知らせてやるよ!」
不穏な空気が辺りに流れだす、こりゃ最悪のパターンだ。
ったく、毒舌にもほどがあるな。
正直言って悪いのは圧倒的に恵恋だが、理由はどうあれ女を殴るのはいただけない。
俺は恵恋の胸ぐらを掴もうとする男に近寄る。
「まぁ待てよ、そいつは俺の連れだ。」
「あん?何だテメェは!」
「あ、真也さん。」
「お前さ、もう少し言葉を選べよ。こいつらがキレんのも仕方ねぇぞ?」
「だって変態ですよ?かけるべき言葉なんてこれくらいしかありませんよ。」
「おいテメェ無視すんな、いきなり出てきて何様だコラ!」
「悪かったよ、こいつにも謝らせるから拳を収めてくれ。」
「ざけんな、そんなんで俺らの気が収まると思ってんのか?」
「はぁ…結局こうなんのかよ。」
「大変ですね。」
「お前が言うか?」
「うだうだ言ってねぇでやるぞコラ!」
「ならこっちに来いよ、人がいない方が何かと便利だろ?」
「判ってんじゃねぇかクソガキ、とっとと行けよ。」
二人に押されて路地裏に入っていく。
「おいお前、とりあえずそこで待ってろ。」
「はい、判りました。」
恵恋を残して奥へと進み、人気の無い少し開けた場所に出る。
そこでおもいっきり背中を押されて、振り返ると既に拳が飛んできていた。
頬を殴られ、痛みが走る。
「調子に乗ったガキには体罰だよなぁ?」
「舐めた真似する奴には躾が必要ってな、ははははは。」
「ってぇな、話し合いはしないって感じだな。」
「当たり前だろ、ここでテメェは死ぬんだよ。」
「はぁ、かったりぃな。」
さて、面倒だしとっとと終わりにしよう。
「おかえりなさい真也さん、随分早かったですね。」
「うるせぇ、早くここを離れるぞ。」
「何処に行くんです?」
「黙って着いてこい。」
置き去りにするように歩きだす、流石にゆっくり待ってやるほどお人好しじゃない。
一応とことこと着いてくるのを確認して、俺は自宅への道を進んでいく。
もう諦めた、放っておいたらまた厄介ごとに巻き込まれそうだ。
今日はとりあえず泊めて、明日の朝一で追い出そう。
はぁ、莉乃姉に何ていやいいのか。
あたしも泊まるぞとか言いだしそうだ、適当な理由をつけて。
三人もいたら寝るとこないだろうが。
仕方ない、俺は風呂場で寝るか。
幸いかどうか判らないが、何げに広く造られてるからな、一晩くらいは寝れるだろう。
それにしても、今日は散々だった。
日に二度も喧嘩とは、流石に疲れる。
帰ったら飯食ってすぐに寝よう、昼飯食ってないからな。
早足だったからか、家にはかなり早く着いた。
恵恋は黙って着いてきたが、やはり歩幅が小さいから疲れたようだ。
小さなマンションを見上げると、隣の恵恋に話し掛ける。
「一晩だ、それ以上は泊めない。明日の朝には必ず帰れ。」
「ありがとうございます真也さん、やっぱり困った時は真也さんですね。」
「偶然会っただけだろうが。」
「それにしても、頼んでもないのに家へと招くとは……はっ!」
「その続きを口に出したら絶対入れねぇからな。」
「やだな、ちょっとした冗談でしょう?この程度で怒るとは、真也さんは案外狭量ですね。」
「口を閉じてろ、真夜中に彷徨い歩きたくなければな。」
「ま、今回は素直にお世話になります。」
何故こいつはこんなにも上から目線なのか。
下からの視線なのに、上から見下ろされてる気分だ。
階段を上って、扉の前に立つ。
鍵は開いている、つまり莉乃姉は今日も飽きずに不法侵入ってことだ。
家に入ると、リビングの電気が点いている。
テーブルには夕食の準備がされていて、すぐに食べられるようになっていた。
そしてソファーには、夏音を抱き締めて眠る莉乃姉。
待ちくたびれて寝たのか、悪いことしたな。
恵恋は面白いものでも見るように部屋を見回すと、莉乃姉を見てこう言った。
「愛人ですか?」
「追い出すぞテメェ、ただの幼なじみだ。」
「ただの幼なじみが何故真也さんより先に家にいて、夕食の準備まで終えて無防備に寝ているのですか?」
「う………。」
凄い今更だが、何も言い返せない。
確かにこれはおかしいよな、まるで……いやいや。
違う、俺は許してないし頼んでもいない。
すると話し声に気付いたのか、莉乃姉がゆっくりとその目を開いた。
そして俺の姿を認めると、おもむろに抱きついてくる。
「遅いぞ真也!お姉ちゃんは待ちくたびれたぞ!」
「うるせぇ離れろ!そもそも勝手に入っておいて待ちくたびれたもあるか!」
「あたしは真也とご飯を食べるって決めてるんだ!………って、あれ?」
そこで漸く恵恋に視線が向く。
互いに固まった。
莉乃姉はゆっくりと俺から離れると、少しずつ壁ぎわに離れていく。
恵恋はいつものように無表情だが、何となく楽しげな気配を醸し出している。
まるで、宝物を得た子供みたいな気配を。
莉乃姉が俺を見て、恵恋を見て、一応冷静な口調で問う。
「何故冴塚がここに?」
「あ、莉乃姉こいつ知ってんのか?」
「あ、あぁ。冴塚は生徒会の書記をしているんだ。」
「え、お前生徒会だったのか?」
「まぁ一応はそうですね。」
意外だ、社交性皆無なこいつが生徒会の書記だと?
まぁでも書記ならあまり喋らなくてもいいのか、主に会話を文字に残すのが仕事だもんな。
「それで何故冴塚が?」
「あぁそれなんだが……。」
莉乃姉に事情を説明する。
俺とこいつが知り合いな理由、並木通りでの事、泊める旨を。
莉乃姉は黙って聞いていたが、段々とその表情が険しくなっていく。
最終的には下を向いて、プルプルと身体を震わせていた。
あ、こりゃ予想通りの展開だ。
「ダメに決まってるだろ!若い男女が一つ屋根の下で一夜を過ごすなど、風紀委員として見逃せるものか!」
「自分を棚上げしましたね会長。」
「あたしは真也の世話役だ、だから良いんだ!」
「はぁ、こうなると思った。」
「小湊会長ってこういうタイプなんですね、意外でした。」
「冷静に感想言ってねぇで説得しろよ、俺は無理して泊める必要もないんだ。」
「そうですね、任せてください。」
恵恋は警戒心むき出しの猫みたいな莉乃姉に向き直ると、恭しく頭を下げた。
「まずは落ち着いてください小湊会長、わたしもアナタと言い争いたくはありません。」
「あたしは認めないぞ、これ以上真也の周りに美少女を増やしてたまるか。」
「ですが今日はわたしが泊まる所がありません、ホテルは真也さんにやんわり止められましたし。なのでできれば真也さんのご厚意に甘えたいと思うのですが、やはりダメでしょうか?」
「しかし未成年が一つ屋根の下でなど。」
「でしたら小湊会長もご一緒に、それでしたら安心できると思いますが?」
「まぁそれならいいんだが、三人も寝れないぞ?」
「わたしはソファーで構いません、会長は真也さんとベッドでどうぞ。」
「………真也、冴塚を泊めよう!」
「俺は風呂場で寝るから一緒には寝ないぞ。」
「何故だ!あたしは一緒に寝たいのに!」
「真也さん、ここはわたしに免じて一緒に寝てあげてください。わたしはソファーでその光景を胸に刻み付けますから。」
「大人しくしてなかったら即座に追い出すからな。それと、今後はもう頼ってくんな。」
「判りました、今宵だけお世話になります。」
俺に向かって頭を下げた恵恋。
ったく、俺もつくづく甘いな。
御奈坂にあんなこと言ったばかりだというのに、不誠実極まりない。
だけどやっぱり、目の前で知り合いが厄介ごとに巻き込まれるのは見過ごせないんだ。
でも、これからはそれすらも切り捨てよう。
俺は独り、助けもなければ助けもしない。
それで漸く、罪の償いを再開できる。
「どうしたんだ真也、何か顔色悪いぞ?」
「いや、何でもない。」
「そうか?何かあったなら言うんだぞ、あたしは真也のためなら何でもしてやるからな。」
「………。」
ダメだよ莉乃姉、それは許されない。
生活面ならまだしも、精神面で他人を頼るわけにはいかないんだ。
苦痛も苦難も、孤独も絶望も、全て自分で乗り越えて強くならなきゃならない。
孤独になるための自己鍛練。
幸福を望めない心で、しかし不様にも生き続ける。
それが今の俺のあるべき姿、果たすべき役割。
贖罪のための孤独を、心の底から受け入れる。
弱音を捨て、感情を捨て、生き続けることだけを遂行する、そのために必要なことをする機械。
―――あたしはそんなことのぞんでない!
「っ!?」
「真也?」
「あぁ、気にしないでくれ。」
頭に響いたあの声。
今までよりはっきりと、俺の中に届いた。
傍にいるのか、姉さん?
なら姿を見せてくれ、もっと声を聞かせてくれ。
俺はもう三年も、言いたかった言葉があるんだ。
だが、もう声は聞こえない。
目の前には心配そうな顔をする莉乃姉と恵恋がいる。
クソッ、いよいよ幻聴も酷くなったな、知らない内に妄想癖でもついたか?
まぁそれよりもまず、二人を安心させないと。
「とりあえず腹が減った、昼飯を食えなかったから流石に限界だ。」
「おぉ、任せろ真也!今日は麻婆豆腐にしたんだ、思い切り食べてくれ!冴塚もたくさん食べて大きくなれ。」
「余計なお世話です、わたしはこれから成長期に入るんですよ。でも中華ですか、それはご飯が進みそうですね、楽しみです。」
「うむ!じゃあすぐに温めるから待っててくれ。」
「あ、わたしもお茶くらい準備します。」
「ありがとう冴塚、なら冷蔵庫に烏龍茶があるからそれをテーブルに運んでくれ。グラスはそこの戸棚に。」
二人がキッチンに入ると、俺はソファーで待つことにする。
どうせ家事に関しては役に立てないからな、黙って待つのが一番の手伝いだ。
………少しくらい覚えないとマズイか。
そんなことを考えていると、俺の膝に夏音が飛び乗ってきた。
大きな欠伸をすると、そのまま丸くなる。
ホントに大人しい猫だな、それとも安心してるのか?
餌皿を見ると空になっているから、おそらく一足先に食べたのだろう。
艶やかな毛並みを撫でながら歌を紡ぐ。
「走り出そうこの世界の中を、光輝いた想い出を連れて。」
「それ、真耶がよく歌っていたやつか?」
料理を皿に盛った莉乃姉が、テーブルに置きながら聞いてくる。
「あぁ、名前も判らないし、誰の曲かも知らないが。」
「遠い夏のメロディー。」
「え?」
「その曲の名前。それは真耶が作詞したんだよ、メロディーも自分で付けてな。楽器は判らないからって歌い方だけしか決らなかったみたいだが。」
「そうか、姉さんが。」
優しげな歌だとは思ってたが、なるほどとも思えるな。
姉さんの優しさが詰まった曲ってことか、やっぱりこの歌のイメージは…。
必ず伝えに行くよ、あの場所に。
「さぁ食べてくれ、冴塚も遠慮するなよ。」
「はい、いただきます。」
「いただきます。」
テーブルに並んだ料理を皿に分けると、早速口に運ぶ。
空腹は最高の調味料と言うが、そんなこと抜きにして美味い。
挽肉の旨味と味が染みた豆腐、たくさん食べれるように辛さは抑えてある。
文句なしに絶品だ、店を出してもいいんじゃないだろうか。
「凄く美味しいですね。」
「気に入ってもらえたか?」
「もちろんです。でもこれだけ美味しいと真也さんのお嫁さんになる方は大変ですよ。」
「は?何でそんな話題になるんだよ。」
「だって絶対真也さんの舌は肥えてます、並大抵の料理では満足できないのでは?」
「ちょ、お嫁さんってそんな、うふふ。」
隣で悶えだした莉乃姉を一瞥し、互いに無視を決め込む。
「まぁ莉乃姉の料理は下手なレストランよりは美味いからな。でも俺はコンビニ弁当とかでも…。」
「真也、あたし頑張っちゃうぞ!そしてあたしが作ったご飯しか食べれぬ身体に!」
「………もう結婚したらどうですか?」
「黙れ、そんなことできるか。」
「よし真也、ここに名前と印鑑を!」
「どっから取り出したそんなもん!つか用意してんのかよ!?」
「あとは真也の同意さえあればいつでも!」
「…お腹いっぱいになりそうな光景ですね、ふぅ。」
「お前が余計なこと言うからだろうが!」
「ほらほら真也~、もう思い切って書いちゃおう!捺印万歳!」
「あぁもう鬱陶しい!」
いつもは静かな食卓が、今日は無駄に騒がしいまま終わった。
莉乃姉は食器を洗い始め、俺と恵恋は夏音と戯れる。
「お前、先に風呂入れ。」
「何か凄い台詞が飛び出しましたね。」
「は?」
「いえ、気づいてない辺りが真也さんらしい。」
「さっきから何なんだよお前。」
「ではお言葉に甘えてお先に。…覗いたらダメですよ?」
「アホか、とっとと行け。」
「あら、案外反応薄いですね。」
「あたしの風呂は覗いていいぞ!寧ろ一緒に入ろう!」
「そういう台詞は彼氏ができてから言え!」
「だから言ってるじゃないか。」
「俺は莉乃姉の彼氏じゃねぇ!」
「なら今からでも!」
「断る!」
結局その後も莉乃姉が暴走し、寝る雰囲気になったのも相当遅くなってからだった。
俺のベッドは莉乃姉と恵恋が、俺はソファーに寝る。
でも、今日は中々寝付けそうにない。
俺は二人を起こさないように気をつけながら、静かにベランダに出た。
このどんちゃん騒ぎも明日になれば終わる、そして独りの時間が戻ってくるんだ。
家族はいないのだから、俺が独りなのは当然であって、寧ろこうして家に別の人間がいる方がおかしいこと。
心との決別は済ませた、もう耐えられる。
「真也?」
「ん、あぁ。」
莉乃姉がベランダに出てきた。
起こしてしまったのかな。
「すまん、起こしたか?」
「いや、あたしも寝られなくてな。」
「そうか。」
俺はジャージの上着を脱ぐと、莉乃姉の肩にかけてやる。
「ありがとう真也。」
「いや。」
無言で空を見上げる。
晴れた空には、儚くも煌めく星が、遠く彼方まで続いていた。
「なぁ真也。」
「ん?」
「あたしはさ、ホントにお前のためなら何でもする。だから、独りになろうとするな。」
「………なぁ莉乃姉。」
「ん?」
「俺はさ、本気で感謝してる。どうしようもなく辛いとき、いつも莉乃姉が傍にいてくれたから、俺は今もこうして俺を保ててる。」
「真也が強いからできたことだよ、あたしはその背中を支えただけだ。」
「それでも、俺は莉乃姉がいたから考えたりできたんだ。でもさ、強くなるにはどうしたらいいのか、最近ずっと考えてた。そしたら、やっぱり莉乃姉に甘えてちゃダメだと思ったんだ。」
「真也それは…!」
「ごめん、言いたいことは判る。でも、俺は幸せを感じてはいけないんだよ。」
「それは違う!真耶だって真也には幸せになってほしいと願っているはずだ!」
「例えそうだとしても、俺にはできない。俺の命は助かったけど、同時に俺のものではなくなったんだ。莉乃姉がいるとさ、やっぱどっかで安心してるんだ。だから…。」
「ダメだ止めてくれ!」
莉乃姉が俺に抱きついてくる。
それはまるで縋りつくようで、弱々しかった。
だが、俺は告げなければならない。
「頼む莉乃姉、俺にはもう関わるな。」
「あ………。」
「もうここにも来なくていい、飯も作らなくていい。莉乃姉は学校が終わったら真っ直ぐ家に帰って、おじさんやおばさんと一緒に、三人で夕食を食べるんだ。」
「だったら、真也も一緒に…。」
「言っただろ莉乃姉、俺は独りでいなければいけないんだよ。だから明日の朝、恵恋と一緒にここを出てくれ。」
「そんな……あたしは、真也が……。」
涙を溜めた瞳が、俺の目を見つめている。
下から見上げるその瞳を、俺は少しでも安心させようとして。
何年かぶりに、微笑んでいた。
莉乃姉が驚愕に目を見開く。
「久しぶりに見た真也の笑顔が、こんな時だなんて。」
「あぁ、まったくだな。」
「…本当に、あたしは傍にいちゃいけないのか?」
「俺は莉乃姉しか信じられる人がいない、だからこそそんな人を傍においてたら、まるで幸せな生活を送っているみたいじゃないか。」
「それの何がいけないんだ!真也は生きてる!こうしてここにいるだろう!だから…幸せになっちゃいけないだなんて、そんなこと言うなよ。」
「幸せの中にいたんじゃ、俺は強くなれないんだよ!」
「強くなるって、一体何のためにだ!」
「俺はもう、誰かが俺の所為で傷ついたり犠牲になるのが嫌なんだよ!だから二度とそんなことにならないように、俺は強くならなくちゃならない。」
「そうやって、あたしたちを守ろうとしているのか?」
「あぁそうだ、でもまだ自信を持って守れるとは言えない。だから心も身体ももっと強くなるために、俺は独りにならないといけないんだ。」
「………この……バカ真也!」
乾いた音が、俺の頬から発せられた。
思いっ切り平手打ちされたのだ。
涙を浮かべたままで、でもとても怒っている莉乃姉。
初めて見た、こんなに怒っている莉乃姉は。
笑ったりいじけたり、拗ねたり驚く姿は何度も見ている。
でも、こんなにも感情剥き出しで、しかも手を上げるなんて初めてだ。
…それだけ、俺が身勝手なことを言っている証拠か。
叩かれた頬が熱い、気分なんて最悪だ。
でも、これは俺が選んだ結果なんだよな。
なら、大人しく受け入れないといけない。
莉乃姉を泣かせたんだ、もう後には引けないよな。
少なくとも、自分から舞台を降りようなんてできるはずがないんだ。
「あたしは…絶対に諦めないからな、覚えておけよ真也!」
俺を思いっきり指差して、莉乃姉はベッドに戻った。
布団を頭まで被り、それから動かない。
俺の家なのに、こんなにも居づらい雰囲気は初めてだな。
俺は着替えると、上着を羽織って外に出る。
仕方ない、これも代償の一つだと考えよう。
俺は少しでも風を凌げる寝床を探すため、独り夜の街へと歩きだした。




