Day.3 些細なきっかけ2
それから暫くした頃、扉が開く音がして、莉乃姉が屋上に顔を覗かせた。
「すまないな真也、予定より長引いてしまった。」
「ん、構わないさ。」
「いやぁ、やっぱり真也は部員たちにいい刺激となったみたいだ。あれから皆のやる気が凄くてな、あたしも流石に疲れてしまったよ。」
「そうか、役に立ったみたいだな。」
「ありがとう真也、もし良ければまた顔を出してくれると嬉しい。」
「……まぁ気が向いたらな。」
できれば行きたくはないが、たまには実戦もしたいところだな。
俺自身の鍛練にも多少はなるだろうし、莉乃姉と闘っている時は少しだけ楽しくはあった。
それに、御奈坂とのことも一応終わったからな。
「でも他の部員が嫌がるだろう、特にあの逢坂って野郎が。」
「あぁ、逢坂か。いつもは真面目で大人しいんだが、何故か真也には突っかかっていたな。周りの部員も不思議がっていたよ。」
そうだとしたら意味が判らないな。
確かに俺は部外者だが、あの感情のぶつけ方は明らかに俺を敵視したものだった。
恨みを買うような生活はしてるけど、あいつとは一切面識がない。
……まぁ人の顔をいちいち覚えてないから、もしかしたら何処かで何かあったのかもしれないが。
別に興味もないし、考えても仕方ないか。
会ったとしても無視しとけばいいだろう、沈黙は金だ。
「さて、真耶に会いに行こうか。あの猫の餌とかも買わないとダメだしな。」
「あぁ、明るいうちに済まそう。」
じゃないとまた厄介な奴らに絡まれそうだ。
今日は莉乃姉もいるし、無茶はしたくない。
莉乃姉に傷一つでもついたら、俺は自分を許せないからな。
「で、真也に相談があるんだが。」
「却下。」
「早っ!?いいじゃないか、減るものじゃないんだし。」
「いや、莉乃姉のお願いは何か減る。なんつーか、俺の精神的体力が。」
「何か相談が勝手にお願いに変わってる!?」
「似たようなもんだろうが。」
「むぅ、今の真也は可愛くないぞ。」
「別に可愛くなろうとしてねぇよ。」
「まぁいいか。そもそもお願いというのもあたしからではないからな。」
「は?どういうことだよ。」
「それは本人に聞いてくれ。…入ってきて大丈夫だぞー!」
莉乃姉が入口の扉に向かって声をかける。
するとゆっくり扉が開いて、中から御奈坂が顔を覗かせた。
少しだけ戸惑ったような笑顔でこちらに歩いてくると、気恥ずかしそうに頭を下げる。
俺が怪訝そうに二人を見比べると、莉乃姉が御奈坂の肩を叩いて後押しした。
「ほら御奈坂、言いたいことがあるんだろう?」
「は、はいっ!えっと…真也くん、さっきぶり…かな。」
「…あぁ、そうだな。」
………。
え、終わりなのか?
俺はそのまま俯いた御奈坂を見た後、視線で莉乃姉に問いかける。
(おい、なんだこれ。)
(ふむ、一体どうしたんだろうな?)
「御奈坂、お願いってそんなに言い辛いことだったのか?」
「えっと、すみません。いざ真也くんを前にすると緊張してしまって。」
緊張?
マジで何を言おうとしてるんだ?
御奈坂は深呼吸して気持ちを落ち着かせると、俺を真っ直ぐに見て口を開いた。
「あの………良かったら私も真耶さんに会いに行きたいです。」
「………え?」
「ご迷惑というのは重々承知です!でも、私も真耶さんがどういう人なのか知りたいんです。」
「…莉乃姉、喋ったのか?」
「う……まさかそれがお願いだったとは。」
「ったく、余計なことを喋るのが得意だな莉乃姉。まったく恐れ入るよ。」
「………ごめん。」
「いや、もういいよ。まだ御奈坂で良かったさ。」
「……ダメでしょうか?」
……どうすればいいのだろう。
多分御奈坂は真耶姉が既にこの世にいない人だと知らない。
俺も莉乃姉も意識して墓参りとは言わないから、何処か別の場所に住んでると思っているのだろう。
別に秘密と呼ぶようなことではないにしても、これは俺と莉乃姉の想い出に関わる問題だ。
誰でもそうやすやすと触れられる話ではないし、御奈坂なんてそれこそ今日からの間柄だ。
本来なら興味本位で連れて行くべきではない、それは莉乃姉も判ってるんだろう。
でも、莉乃姉は何も言わない。
喋ってしまったことに対する後ろめたさからではないだろう。
莉乃姉は、俺に判断をさせようとしている。
俺が決めるべき問題だというように。
それに実際はそう簡単なことでもない。
俺は御奈坂の目を見た。
……よし、ならこうするしかない。
「先に言っとくぞ御奈坂。」
「はい。」
「今から話すことは別段特別なことじゃない。何処にでも起こっているような、そんな話だ。だが、俺たちにとっては特別な話なんだ。それを良く理解した上で、着いて来るのかをお前が決めろ。」
「判りました。」
「莉乃姉もそれで構わないか?」
「真也がそれでいいと思ったなら、あたしは従うさ。」
「あぁ、ありがとう莉乃姉。」
身体の向きを変え、御奈坂に向き合った。
こいつが俺を恐れず歩み寄ったように、俺も少しだけ自分のことを話そう。
きっと、友達ってそういうもんだよな…姉さん。
さぁ、昔話を始めよう。
「桐生真耶。俺の双子の姉で、唯一の姉弟だ。そして……三年前に交通事故で亡くなった。」
「………え?」
御奈坂の顔から表情が消えていく。
やっぱ知らなかったか、まぁそこまでは莉乃姉も言わないだろう。
姉さんの存在を知っている人間なんて、この高校にはきっと数えるほどしかいない。
忘れないでいる人間なんて、俺と莉乃姉くらいだ。
姉さんと仲が良かった連中も、この高校には入学していないから。
胸が苦しい。
自分の口から姉さんの死を肯定するのは、やっぱりこんなにも苦しい。
まだ…全然乗り越えられていないからな。
こればかりは、時間でさえ解決してくれないだろう。
俺自身が変わらない限りは、きっといつまでもこの痛みが続く。
でも、変わるって何だろう。
何がどう変わるのだろう。
莉乃姉を見ると、辛そうな顔で目を閉じている。
ごめんな莉乃姉、なるだけ短く済ませるから。
「事故の原因はトラックドライバーの前方不注意、どうやら随分と疲れていたらしい。でもホントの原因は…俺だ、俺が……殺したようなものだ。」
莉乃姉が息を詰まらせる。
俺も長くはもたないかもしれないな。
「俺の両親は共働きでな、ほとんど家にいなかった。だから姉さんだけが唯一の家族みたいに思ってたし、一緒にいない時間なんてなかったくらいだ。でも、とある事件があって俺は荒れていた。そんな時に俺は、姉さんに助けられたんだ。」
胸の痛みが増していく。
「並木通りの交差点で、俺は姉さんと別れて、一人になろうとした。その時だよ、俺に向かってトラックが突っ込んできたのは。」
莉乃姉が背を向ける。
「俺は突然のことに動けなかった、情けないよな。鍛えていた身体も、いざとなったら動かないもんだ。でも……姉さんは違った。迷わずに走り出していた。俺を…助けるために。」
ここから先はもう言えない。
それは今でも夢に見る。
毎日、その光景も、姉さんの重さも、流れ出る血の熱さも。
目の奥が熱くなってきた。
「姉さんはほぼ即死に近かった。俺は冷たくなっていく身体を、最後の瞬間まで抱きしめていたよ。でも、もう姉さんはいないんだ。」
嗚咽が聞こえる。
あぁ莉乃姉、勘弁してくれ。
俺も……もう限界なんだ。
「これで話は終わりだ。さて、どうする御奈坂。」
「………。」
ショックだったんだろう、御奈坂は口を開かずに俯いている。
ダメだったか、やっぱり。
俺は立ち上がると、莉乃姉の肩に手を置いた。
莉乃姉が振り返り、何も言わずに俺の胸へ顔を埋める。
これじゃいつもと逆だ。
抱きついた莉乃姉から体温が伝わってくる。
ヤバいなこれ、折角耐えてたのにトドメになりそうだ。
だけど耐えなきゃな。
俺はもう、流すべき涙がないんだから。
暫く、莉乃姉の嗚咽だけが屋上に聞こえていた。
「真也くん。」
振り返る。
御奈坂が、俺を見ていた。
真っ直ぐに、何かを決意した瞳で。
覚悟が、決まったようだ。
「何だ?」
「私は、向き合おうと思います。真也くんとも、真也くんの過去とも。」
「何故だ?」
「だって…友達ですから。だから、連れて行って下さい、真耶さんの所へ。」
「…そうか。」
「真也くんに友達と認めてもらうにはどうしたら良いのか、真耶さんに聞いてみます。」
ホントに、こいつは。
俺にも、こんな強さは手に入るのか。
「……真也。」
「ん?」
「もう大丈夫だ、ありがとう。」
「あぁ、なら良かった。」
莉乃姉が俺から離れ、ハンカチで目元を拭く。
深呼吸して落ち着いたのか、莉乃姉は御奈坂の方を見た。
泣き腫らして赤い目のままで、御奈坂に話しかける。
「御奈坂。」
「はい。」
「ありがとう。」
「え?」
「御奈坂が真也と友達なってくれて、とても嬉しく思う。そして、よく最後まで話を聞いてくれた。」
「いえ、お礼を言うのは私の方ですよ。こんな大事な話を黙って聞かせてくれてありがとうございました。小湊先輩、改めてこれからよろしくお願いします!」
「はは、こちらこそ改めてだな。よろしく御奈坂、真也を頼む。見ての通り人付き合いが苦手な弟でな。冷たい態度をとるだろうけど、嫌いにはならないでやってくれ。」
「はいっ!」
「おい莉乃姉、余計なこと言ってんな。」
「何を言う!あたしは真也の友好関係を案じてだな。」
「ふふ、お二人は本当に仲が良いんですね。」
「まぁ幼馴染だからな。」
「あたしは真也が好きだからな!」
「やっぱりお二人は……付き合ってるんですね。」
「あぁ、ラブラブのあまあまだ!もうお泊りとかしちゃうぞ!」
「えぇ!?……大人です。」
「おい御奈坂、真に受けんなよ。莉乃姉、ふざけたことぬかすと口塞ぐぞ!」
「真也……御奈坂の前で大胆だな。でもそんな真也も大好きだ!」
「ドキドキ…。」
「大胆って何が……って違ぇよ!そういう意味じゃない!手だ!手!」
「真也はたまにこうして自爆するから、御奈坂も弄ると楽しいぞ。」
「意外です、真也くんってクールなイメージが強いから。あ、でも昨日包帯返すとか言われて驚きました。」
「ほぉ、詳しく聞かせろ御奈坂。」
「包帯?…あ、待て御奈坂やめろ!」
止めようとした途端、莉乃姉が御奈坂の手を掴んで逃がした。
クソッ、確かに今思えば包帯返せっていう奴はいない。
過去に戻れるなら昨日の俺をぶん殴って止めるのに。
少し離れた所で御奈坂の話を聞いた莉乃姉は、嫌らしい笑みを浮かべながら戻ってきた。
「…真也。」
「うるせぇ、何も言うな!」
「……可愛いなぁ!」
「もう喋んな!」
「……私も、可愛いと思います。」
「はぁ!?」
「おぉ御奈坂、話が判るな!」
「何かこう……ギャップが素敵です。」
「よし御奈坂、今夜は語り明かそう!真也について色々と教えてやるぞ!」
「余計なこと喋ったら二度とウチに入れねぇからな。」
「む、それはマズい。すまん御奈坂、やっぱりなしだ。」
「もういいだろ、いつまでも話してたら日が暮れる。」
「そうですね、もう随分と時間が経ってしまいましたし。」
実際話しすぎてる、もう出ないと時間がな。
少し急がないと帰りが遅くなりそうだし、人数も予定より増えた。
守らなきゃならない奴が増えるとこんなにも気苦労が増える。
俺に…守りきれるだろうか。
姉さんはきっと、真也なら大丈夫だって言うんだろうな。
三人で屋上を後にする。
まずは少し遠いが、忠勝さんの花屋に行くとしよう。
「緋結華は何故真也と話そうと思ったんだ?」
「きっかけは去年同じクラスになった時でした。あの頃の真也くんって、毎日傷だらけで学校に来てて。」
「確かにあの頃の真也は一番荒れていたな、あたしも手を焼いたよ。」
「周りの人たちは嫌そうに真也くんを遠ざけていたんですけど、どうしてか私は気になって。」
「………御奈坂は意外にライバルかもしれないな。」
「えぇ!?何でですか!?」
…女は三人寄れば姦しいって言い出した奴をここに連れて来い、二人でも十分だってことを体感させてやろう。
俺は後ろの会話をなるべく聞かないようにしながら、黙々と朝来た道を歩いていく。
並木通りは家を挟んで反対側、だから必然的に通学路を通っているのだ。
だが一つ問題がある。
通学路を通っているということは、必ずウチの前を通過するということだ。
御奈坂と完全に意気投合した莉乃姉なら、あっさりと口を滑らせるだろう。
…仕方ない、少し遠回りになるが道を変えるか。
右に曲がるべき所で、あえて直進する。
次の角を曲がれば、距離もそれほど変わらず…、
「どうした真也、お前の家の前を通った方が早いだろう?」
「あ……あぁ、そうだったな。」
「え、真也くんの家ってこの辺りだったんですか?」
「あぁ、ここを曲がればすぐだぞ。」
…………余計なことすんじゃなかった―!
無言で早足に抜ければもしかしたら何もなかったかもしれないのに。
…はぁ、こうなったら諦めよう。
一歩戻って右に曲がる。
後ろでは御奈坂が俺の家はどれかとキョロキョロしていた。
「莉乃さん、真也くんの家ってどんな形ですか?」
「普通のワンルームマンションだよ、そんなに大きいものでもない。見た目もシンプルで、特に目立つような部分もないしな。」
「ワンルーム?真也くんって一人暮らしなんですか?」
「あぁ、一人だ。」
「ご実家が遠いとかでしょうか?あれ?でも莉乃さんと幼馴染ってことはそうでもないですよね?」
「………。」
「………。」
立ち止まり、俺も莉乃姉も黙る。
御奈坂はその穏やかじゃない空気を察したのか、気まずそうに謝ってきた。
「ごめんなさい、聞いてはいけない話だったみたいですね…。」
「…いや、別に大した話でもない。聞きたければ教えてやる。」
「真也、本気か?いくらなんでもそれは…。」
「そんな声出すなよ莉乃姉。俺は気にしちゃいないし、莉乃姉が気に病む話じゃないだろ?」
「………。」
「あの、真也くん。」
「何だ、聞きたいのか?」
「いえ、真也くんが話そうと思ってくれるまではやめておきます。好奇心だけで聞いてはいけない話なんでしょうし、何よりまだ、そこまで踏み込むのは図々しいですし。」
「そうか、まぁ面白い話ではないからな。知らなくても済むならその方がいい。」
俺は背を向けて歩いていく。
後ろには、もう先程までの賑やかさはない。
まぁ、仕方ないことではあるけれど。
そろそろ家の前だ。
はぁ、莉乃姉まで落ち込んだままは良い気分じゃないな。
こんな状態の二人を連れて行ったら、きっと姉さんも怒るだろう。
そもそも騒がしくする所でもないけど。
「おい御奈坂。」
「はい、何でしょうか?」
「これが俺の家だ。」
俺は何処にでもある普通のワンルームマンションを指差す。
御奈坂は指差されたマンションを見上げて、首を捻った。
「普通…ですね。」
「だから普通だって言っただろ。」
「何か真也くんってもっと質素だけどモダンな家に住んでるってイメージがありました。」
「勝手な妄想すんなよ、俺はただの学生だぞ。」
「それもそうですよね……じゃあ早速お邪魔します。」
「………まぁ、少しなら構わないが。」
「いいのか!?」
「何故そこで莉乃姉が驚く?」
「だって真也の部屋だぞ?なんかこの世界で最も不可侵領域っぽいのに!?」
「その不可侵領域に毎日ずかずかと侵入してんのは何処の誰だよ。」
「あたしは良いんだ、なにせ真也の姉だからな!」
「どんな理屈だよ、ったく。」
「あの、流石に冗談ですよ?」
「あぁ、冗談だったのか。」
「いえ、でも入れるならお邪魔したいです。」
「お前なら構わない。俺も無意識だったとはいえ、一度はお前の部屋に入ったからな。一度だけなら。」
「あぁ、そういうことですか。なら安心してお邪魔できますね。」
「…ちょっと待て真也、そんな話は聞いてないぞ?」
「そりゃ言ってないし。」
「…うわぁぁぁぁぁ!!真也が不良になったーーー!?!?」
「割と前からそうだと思うが?」
「別に真也は普通の人に迷惑かけてるわけじゃないじゃないか!なのに年頃の女の子の部屋に入るだなんて………お姉ちゃんは許しません!真也にはまだ早い!」
意味不明なことを叫びだす莉乃姉。
何だこれ、酒でも飲んできたのか?
今日はまた一段と騒がしいし、忙しすぎておかしくなったとか?
すると見かねた御奈坂が、莉乃姉を宥めながら説明しようとする。
「莉乃さん落ち着いてください、何か誤解してますよ!」
「うるさい!真也はあたしのだ!誰にも渡さないぞー!」
「いつから俺は莉乃姉の所有物になったんだ?」
「真也が生まれる前からだー!」
「えぇ!?もう真也くん、ちゃんと説明しないと大変なことに!あのですね莉乃さん、ちゃんと理由があるんです。」
「それはあたしが納得できる理由か?」
「はい、間違いなく!一昨日の夜に私の家の近くで傷ついた真也くんを見かけて、手当てするために連れて帰ったんです。途中で気絶しちゃったので、手当てしてから私の部屋で寝ててもらいました。真也くんも起きてすぐに帰りましたよ。」
「………本当か、真也?」
「俺はともかく、御奈坂が嘘吐くように見えるか?」
「………。」
「納得してもらえました?」
「…あぁそうだよ!あたしが勝手に恥ずかしい想像して取り乱しましたよ!馬鹿にしたければすればいいじゃないか!すみませんでしたーーー!!」
莉乃姉真剣土下座。
はぁ、妄想力逞しい姉さんだな。
御奈坂はホッと胸を撫で下ろすと、莉乃姉を落ち着かせながら立ち上がらせる。
「御奈坂、ウチに上がるのはまた今度でも構わないか?そろそろ無駄な時間も無くなってきた。」
「あ、はい。そうですね、あまり遅くなると危ないですし。」
「すみませんごめんなさい!あたしが騒いだばっかりに!」
莉乃姉がまた謝り始める、落ち着け。
「莉乃さん、大丈夫ですから。とりあえずさっきのは忘れて、お花を買いに行きましょう。」
「うん、すまん。」
「はぁ、御奈坂も災難だったな。」
「いえ、全然そんなことは。」
「うはははははは!」
「莉乃さんが壊れた!?」
「……はぁ。」
こんだけ騒がしいと、厄介事を招きそうで嫌だな。
もう夏が近づいてきていて陽も長くはなってきているが、暗くなるまでには二人を帰したい。
少し早足になって、俺たちは並木通りに急いだ。
休日の並木通りは人通りが多い。
路上にはテーブル席が並べられ、爽やかな日差しの中でお茶をする人が目立つ。
梅雨に入ったと天気予報では流れていたと御奈坂が話していたが、まだ本格的に降るわけではないらしい。
漸く辿り着いた忠勝さんの花屋に入ると、むせ返るような芳香が俺たちを包んだ。
それほど広くない店内には人も疎らで、忠勝さんも手が空いているようだった。
「こんにちは忠勝さん。」
「あぁ真也くん、こんにちは。今日は献花で良いのかな?」
「えぇ、いつもありがとうございます。あと、それとは別に百合を。」
「任せなさい、すぐに用意するよ。……今日は一人ではないんだね。」
「えぇまぁ。姉さんに会いに行くと言ったら一緒に行くと言いだして。」
すると莉乃姉が一歩前に出て一礼する。
「いつも真也がお世話になっております。小湊莉乃と申します。真耶のためにいつも手を合わせて頂き、きっと真耶も感謝しています。」
「御丁寧な挨拶をありがとう。私は佐伯忠勝です、真也くんにはお世話になっているよ。」
「私は御奈坂緋結華です、初めまして。真也くんとはクラスメイトです。」
「あぁ、よろしくね。今日は私の分まで真耶さんに会ってきてください。」
『はい。』
二人ともまた頭を下げる。
忠勝さんは優しげな微笑みを浮かべると、一輪の百合を渡してきた。
「先に花を取り換えてきなさい、献花はその間に用意しておくよ。」
「はい、ありがとうございます。」
俺は受け取った百合を持って外に出る。
すぐ近くの交差点に活けられた花を取り換えて、新しい水を注ぐ。
儚げに揺れる百合を見て、静かに黙祷を捧げた。
今日も並木通りは平和だ。
ここに来るたびに思い出される状況とはまるで違う、いつもの十字路。
できればあんな悲惨な事故は、二度と見たくない。
誰にとっても、大切な人を失うのは辛いから。
御奈坂も莉乃姉も、俺の後ろで目を伏せている。
…さて、行こうか。
俺は立ち上がると、店内に戻る。
忠勝さんは綺麗な献花を持って待っていてくれた。
代金と花束を交換して、頭を下げる。
「真耶さんによろしくね。」
「えぇ、判りました。あ、友春さんがたまには食べに来いって言ってましたよ。」
「はっはっは、そうだったか。確かに最近は顔を出していなかったよ。ありがとう、今晩食べに行こう。」
「そうしてあげてください。では、これで。」
「あぁ、行ってらっしゃい。」
忠勝さんに見送られながら店を後にする。
振り返って二人の顔を見ると、俺は駅への道に足を向けた。
桐生家之墓。
そう彫られた墓標の前に、俺たちは立っていた。
爽やかに晴れた空の下で、灰色の墓石は鈍く光っている。
俺は少しだけその彫られた文字を眺めると、すぐに掃除を始めた。
管理室から借りてきた桶に水を汲み、ブラシで汚れを落としていく。
「掃除は…俺がするから。」
最初にそう言っていたから、二人には花を活ける用意などを頼んだ。
淡々と掃除を続ける。
可能な限り隅々まで綺麗にしていく。
胸には痛みが走る。
こうしていると、様々な想い出が心を過ぎ去っていく。
姉さんの笑顔や仕草、温もりまでもが、俺の心を駆け抜けて、後に冷たさを残す。
それでも涙は流さないように、懸命に堪えた。
少しでも油断したら、きっと溢れてしまう。
姉さんの温もりや、夏の日差しのように眩しい笑顔を、思い出してしまう。
口を開いたら、弱音を吐いてしまいそうだ。
薄情かもしれない、きちんと言葉をかけないといけないけど。
ごめん姉さん。
俺はまだ、長くここにいることができない。
だから、今日もすぐに帰るよ。
掃除を終えると、花を供え、三人で並んだ。
手を合わせて目を閉じる。
ごめん姉さん。
何度も繰り返し思い浮かべる。
姉さんの人生を奪ったのは、俺だ。
俺が弱かったから、こんなことになってしまった。
謝って許されるとは思ってないけど、俺には他に何もできない。
どうしたらこの贖いの時が終わるのか、それが判らないから、こうしてまた謝り続ける。
親に怒られた子供と同じだ。
怒られた意味が判らないから、謝ることしかできない。
莉乃姉はどうなのだろう。
まだお互いに受け入れられていない現実。
きっと莉乃姉も、謝っているんだろうな。
暫くして俺は立ち上がる。
「帰ろう、もう時間も遅い。」
「…そうだな、伝えたいことも伝えられた。」
「私も、挨拶をちゃんとできました。」
俺は頷くと、桶などを掴んで墓に背を向けた。
また掃除をしに来るよ。
夏には、あの場所に行こうと思ってるんだ。
姉さんが大好きだった、あの向日葵の丘に。
きっと夏になったら、また鮮やかな黄色い花を咲かせているだろう。
あそこには、姉さんとの想い出があるから。
―――大切な想い出が。
借りた物を管理室に返すと、俺たちは墓地を後にした。
駅までは自然公園を抜けていくと早い。
小鳥の囀りが聞こえる土の道を、三人並んで歩く。
雨が降った翌日は、やはり空が澄んでいる。
春の温かな風が頬を撫でて、緑の匂いを運んでいく。
沈んだ気持ちさえも軽くしてくれるように、それは心地いい。
オレンジ色に変わっていく日の光は、木漏れ日となってキラキラと輝いている。
こんな日は、ふと空を仰いでみたくなる。
空はどれだけ時が過ぎ去っても変わらない。
あの日の夕焼け空も、今と同じように輝いていた。
でもそんな空でさえ常に移り変わり、同じ姿にはならない。
決して立ち止まらない美しさだ。
俺の時間はきっと、いつまでもあの日から止まったまま。
俺にはこの風景さえ、何か大切な色が足りない絵のように見えてしまう。
俺の心から完全に失われた色が、世界を色褪せて見せる。
まるで、雨上りの空に架かる虹が六色しかないかのように。
それは酷く歪で、違和感がある世界。
いっそ、この目が見えなければいいのに。
「真也。」
「………。」
「おーい、真也―?」
「あ、あぁ。何だ?」
「ご飯、どうするんだ?」
「飯?それがどうかしたか?」
「真也はお腹空いてないか?」
言われてみれば朝に食べて以来だな、忘れていた。
今更になって身体も空腹を訴え始める。
「確かに、昼飯食べてなかったな。」
「あたしも流石に空腹だよ、そろそろ夕飯を食べてもいい時間だしな。」
「私もペコペコです。」
「よしっ、決めた!」
「嫌な予感がするが一応聞こう。」
「真也、あたしを食べてくれ!」
「………。」
「………ドキドキ。」
「おいコラ御奈坂、ドキドキすんじゃねぇ!」
「…は!ごめんなさい。」
「ったく。にしても、予想の斜め上どころか遥か彼方に行ったな。」
「そうですね、私が予想したのと全然違いました。」
「なにぃ!?お約束だろう!」
「だとしても口には出さねぇよ。」
「ダメですよ莉乃さん!その台詞を言うなら真也くんが帰ってきた時じゃないとダメです!」
「何てことだ!御奈坂、お前はホントに判ってるじゃないか!あたしとしたことが失敗した!」
「はぁ、勝手にやってろ。」
まさか御奈坂までこういうノリに乗るとは。
まったく、これから騒がしくなりそうだ、めんどくせぇ。
「さて、なら帰りに業務スーパーにでも行こうか。餌を買わないといけないし、夕飯の材料も足りないだろうから。真也は何が食べたい?」
「別に何でも構わないが?」
「またそれか、たまにはメニューの案でも出してほしいぞ。あたしだって折角なら真也が食べたい物を作りたいんだ。」
「んなこと言われてもなぁ。」
「やれやれ、真也は好きな食べ物ないのか…。御奈坂は?」
「え、私もご一緒していいんですか?」
「いいんじゃないか?真也が家に入ってもいいって言ってるくらいだし。」
「……どうせ莉乃姉は最初からそのつもりだったろ?」
「そりゃそうだ、真也が友達を作れたんだからな。今日という日をあたしの中で祝日にしてもいいくらいだ!」
「因みに莉乃姉の中で祝日になるとどうなるんだ?」
「あたしが真也を独り占めにできる日だ!」
「却下だ。何をさせられるか判ったもんじゃない。」
「いいじゃないか―!あーっはっはっは!」
莉乃姉はくるくるとはしゃぎながら先に走っていく。
……その性格は得だよな莉乃姉。
少しだけ、羨ましいよ。
「莉乃さんってこんなにも自由な人だったんですね。」
「あぁ、俺の前だと最強の自由人に早変わりだ。昔からずっとな。」
「…大変でしたね真也くん。」
「真也―!」
こちらに振り返りながら手を振る莉乃姉。
俺を元気づけようとして、一生懸命に明るく振る舞っている。
自分だって辛いはずなのに、それでも俺を気にかけてくれて。
ありがとう莉乃姉。
「何だ―?」
「早く行くぞー!」
「判ってるっつーの!」
「あははははははは!」
「元気そうでよかったです莉乃さん。」
「あぁ、そうだな。」
「真也くんも、辛かったら泣いてもいいと思いますよ?」
「……俺は泣かないさ。いや、泣いちゃダメだ。」
「それは誰が決めたんですか?」
「………。」
……判らない、誰が決めたんだろうな。
神様か、それとも悪魔か。
いつの間にか俺の中に芽生えていた気持ち、泣いてはいけないという気持ち、罪の意識。
当たり前の幸せを願ってはいけないという思い、生き続けなければならないという観念。
誰が決めたって?
間違いなく俺のはずだ、そうじゃなきゃおかしい。
なのに何故だろう、自分に違和感を感じるのは。
「ごめんなさい、偉そうにして。」
「いや。」
「行きましょう、莉乃さんが待ってますから。」
「そうだな、待たせるとまた何を言われるやら。」
俺たちは急いで莉乃姉の後を追う。
追いついて隣を歩き出すと、俺は莉乃姉に問いかける。
「業務スーパーっていうと並木駅に戻らないとな。」
「あ、あそこのスーパーは私も知ってます。」
「便利だよなあそこは。週末しか買いに行けないあたしには丁度いい、一度にたくさん買えるからな。」
「私は木野塚商店街ってところによく行きますよ。」
「隣町にある商店街か、昔九十九川で遊んだ帰りに寄ったな。」
「あぁあそこか、俺も覚えてる。」
「でもま、とりあえずはいつものスーパーだな。」
少し足早に、俺たちは土の道を歩き出す。
自然公園を抜けて椿駅に着くと、電車に乗って並木駅で降りた。
駅ビルを出ると、すぐ近くに業務スーパーが建っている。
多くの人が利用するそこは、少し前に建ったばかりだ。
俺たちはそこの真新しい店内に入る。
「じゃあ少ししたら合流だ、レジの辺りに来てくれ。」
「では真也くん、また後でですね。」
「あぁ、そっちは頼む。」
莉乃姉と御奈坂はカートを押して食材を買いに行き、俺は一人で店内を歩き出す。
どれもどれも大きい袋を眺めながら、俺は目的の物を探していた。
猫の餌って何処にあるんだ?
これだけ色々と売ってるのは便利だと思うが、これじゃ欲しい物が見つからないじゃないか。
見上げるほど高い棚の前で立ち止まる。
……トイレットペーパーか。
はぁ、どう見てもここじゃないな。
かったりぃ。
「何かお探しですか?」
「あ?」
誰かに問われて振り返ると、そこには不思議な格好をした少女がいた。
まぁ判りやすく言うと、和服だ。
淡い青の生地に薄黄色の帯、白い鼻緒の下駄。
まさに純和風といった出で立ちだ、こんな珍しい格好中々お目にかかれない。
だがその目を引く格好に負けないくらい、少女の顔は整っていた。
筆でさっと書いたような細い眉に、小さな顔に収まった綺麗な目鼻。
短く切り揃えられた黒髪は、絹糸を黒く染めたかのように美しく、艶がある。
だからこそ、そんな少女が業務スーパーで通常の二倍はありそうなデカいカートを押している姿は、どうにもシュールで似合わない。
傍を通り抜けていく天下無敵の奥様方も、不思議そうに俺たちを一瞥していく。
まぁ当然か、どう見ても微笑ましく仲睦まじい光景には見えない。
判りやすく言うなら、目つきの悪い不良が、幼気な少女を睨みつけている図だ。
誰も少女の方から話し掛けてきたのだとは夢にも思うまい。
しかし、俺は驚きはしなかった。
……なんて言うか、こいつは知り合いだからだ。
「よぉ、恵恋とこんなとこで会うとはな。」
「そうですね、真也さんがこんな所にいるだなんて。……私傘は持ってきていませんよ。」
「どういう意味だコラ。」
「真也さんがコンビニ以外で買い物なんて、きっとこの先一生お目にかかれませんから。」
「チッ、否定できないところが腹立たしい。」
「それで、何をお探しでしたか?」
「猫の餌だけど、お前判るのか?」
「一応毎週二回、ここには買い物に来ていますから。何処に何があるのか、それなりに知ってはいますよ。」
「……まさかその格好で毎回?」
「はい?当たり前じゃないですか、何がおかしいんです?」
「いや、別に何もおかしくはないが…。」
こいつ自覚とかしてないのかよ、凄いな。
物凄く目立っていることに恥ずかしさとか感じてないのか?
あぁ、そうだった。
こいつは馬鹿が付くほど天然少女だったな、そもそも気がついてない。
「よく判りませんが、猫の餌ならこちらですよ。」
「あ、あぁ。」
無自覚和服少女は、その小さな身体で一生懸命カートを押している。
俺はちょこちょこと歩いていくその背中を追って、しかし歩幅を合わせるようにゆっくりと着いていく。
幾つかの角を曲がると、ペット用品が集まった棚に到着した。
トイレ用砂、ケージ、鳥籠、各種餌、果ては猫じゃらしまで、所狭しと商品が棚に詰め込んである。
「そこの棚が全部猫の餌ですよ。」
「こんなに種類があんのかよ…はぁ。」
「よろしければ私が選びましょうか?」
「は?お前猫に詳しいのか?」
「詳しいも何も、私の部屋には“恋夏”って名前の猫がいるんです。餌だってここで買っていますから。」
「あぁ、なるほどな。で、どれが一番良いんだ?」
「因みに真也さんの猫の種類は?」
「知るかよ、拾ってきた猫だからな。色は全部黒だ。」
「拾い猫ですか、ではこの辺りが一番無難ですね。」
俺は恵恋に指差された餌の袋を掴むと、肩に担いだ。
「余計な手間を取らせたな。」
「大丈夫です、大した手間でもないですし。それより拾った猫なら一度病院に連れて行った方がいいですよ。」
「何故だ?」
「感染症や寄生虫など、まぁあまり人間には優しくない生き物を連れていたりしますから。」
「マジかよ、それは困る。」
「えぇ、ですから今度ウチに連れてきて下さい。あの親は無駄に幅広い知識だけはありますから、動物の治療や検査もできますよ。」
「そうだったのか、胡散臭さが増したな。」
「まったくです、ただでさえ胡散臭い顔をしているというのに。」
心底嫌そうに肩をすくめる恵恋。
冴塚恵恋、あのヤブ医者の一人娘。
あの親にしてこの子ありというのはやはり適用されるようで、こいつもこいつで問題がある。
まずひたすらにあの親が嫌い、それも大が付くほどに。
だから同じ名前、つまり苗字で呼ばれたくないらしく、俺には名前で呼ぶようにと言っている。
…まぁ嫌いになるのも判るが。
俺も親があんなに腐った人間だったら嫌いになるだろう、不良にならないだけこいつはマシだ。
その代わりに性格が若干辛辣だが。
「では私はこれで失礼します。」
「あぁ、じゃあな。」
「ちゃんと黒猫ちゃん連れてきてくださいね。」
「あ?あぁ、そうだったな。」
「忘れないでください。覚えられないようでしたら身体に刻み付けましょうか?」
「いや、断る。」
「そうですか、残念です。では。」
恵恋は大きなカートを押して歩いていった。
やれやれ、あれで有言実行を信条にしてるんだから怖いな。
なんでも親があまりに適当な生活をしてるから、自分はこうならないようにと思ったらしい。
つまり、本気で刻み込んでくるだろう。
………無表情でメスとか持ってきそうだな。
まぁいいか、二人と合流しよう。
「しーんーやー。」
「あ?」
俺を呼ぶ声が聞こえて振り返ると、何故か莉乃姉が棚の角から顔だけを出して俺を睨んでいた。
その隣では驚いたような呆れたような、そんな複雑な表情をして立っている御奈坂がいる。
…何してんだあいつら。
「おい莉乃姉、そんなとこで何してんだ?」
「真也、今の美少女は誰だ?」
「は?美少女?」
「とぼけるな。さっきまで一緒にいた和服美少女は誰だと聞いている!」
「恵恋のことか?まぁ色々あって知り合いなだけだ。」
「恵恋、恵恋だって!名前で呼んでる……名前で呼んでる!」
「…同じこと繰り返して喋るのが好きなのか?」
「違うわ!…いつの間にあんな可愛い子と知り合いになったんだ!」
「いつの間にって…覚えてないな、随分前に医者に行った帰りにすれ違ってからか、話し掛けてきたのはあいつからだったか。」
「…真也くんって、まさか…。」
「やめろ緋結華!その可能性だけは!それだけはやめてくれ!」
「……もしかしたら色んな所で女の子を…。」
「うわぁぁぁぁ!!そんな馬鹿なぁぁぁぁ!」
「おい…莉乃姉。」
「違うと言ってくれ!頼む真也!」
「違うも何もそんなことしてねぇ!あいつは俺がたまに行く医者の娘だ、だから顔見知りってだけだ!」
「………つまり何でもないと?」
「当たり前だろ。」
「…よかったぁ。」
「……ふぅ。」
御奈坂と莉乃姉がようやくこちらに向かって歩いてくる。
何をそんなに騒ぎ立てていたのか、まったく訳が判らない。
俺の知り合いなんて、あの親子以外には忠勝さんと友春さん夫妻くらいなもんだっつうのに。
騒がしく買い物を済ませると、漸く家路につく。
荷物を分担して持ち、向うのは俺の家。
莉乃姉の提案で今夜はハンバーグらしい、単純に肉が安く売っていただけだが。
家に着くと鍵を開け、家に入る。
だが後ろ振り返ると、何故か御奈坂が入ってこない。
「どうした?そんなところにつっ立って。」
「えっと…良いのかなって思いまして。」
「ダメならそもそも途中で別れてる、いいから入れよ。」
「なら……お邪魔します。」
意を決したように中に入ってきた。
何もそこまで決意を固めなくてもいいだろうに。
靴を脱いで家に入ると、買い物袋をキッチンに運び込む。
「しまうのはあたしがやっておくから、真也は猫に餌をあげてやれ。流石にパンだけじゃ物足りないはずだ。」
「そうだな、頼むよ。」
俺は適当な皿に買ってきた餌を出すと、部屋の方に行って猫を呼ぶ。
一日中そこにいたのか、黒猫はソファーの上から飛び降りて餌に食いついた。
やっぱりちゃんと餌は買わないとダメっぽいな。
俺は一心不乱に餌を食べる黒猫を眺める。
…そういえばこいつの名前決めてなかったな。
「真也くん。」
「ん?」
首だけ動かして振り返ると、御奈坂が所在なさげに立っていた。
「何してんだそんなとこで、立ってるのが趣味なのか?」
「いえ、流石にそんな奇特な趣味はないですよ。…真也くんの部屋ってこんな風になってるんですね。」
「何かおかしいか?」
「そんなことないですよ、なんていうか真也くんらしいです。凄くシンプルで…。」
「面白みに欠ける部屋とでも言いたいのか?」
「まさかそんな!男の子の部屋ってもっとごちゃごちゃしてて、趣味全開!って感じだと思ってました。でも真也くんの部屋はとても片付いてて、物が少ないですね。」
「必要最低限の物しか買ってないからな。趣味もこれといってないし、そりゃなにもない部屋になるだろ。」
「でも意外です、真也くんが猫さんを飼っているだなんて。何て名前なんですか?」
「………。」
「…もしかして、名前決めてないんですか?」
「…チッ、悪かったな。昨日拾ったばかりでそんな余裕なかったんだよ。」
「あ、昨日からなんですか。じゃあ名前を付けてあげましょうよ。」
名前ね…。
誰かの名前を考えるなんて初めてだな、どうしたら良いんだ?
カタカナがいいのか、漢字がいいのか、猫の名前ってどんなだよ。
……もうタマとかでよくね?
「ちゃんと考えてあげましょうね、折角なら素敵な名前が良いじゃないですか。この子だけの名前を。」
「………。」
なんてタイミングでそんな台詞を言いやがる、タマとか言おうもんなら文句を言いだしそうだ。
ちゃんとした名前……か。
あれ、そもそもこいつって。
「なぁ、こいつって雄雌どっちだ?」
「え、それも知らなかったんですか!?」
「うるせえな、調べ方なんて知らねえよ。」
「調べ方も何も…。」
御奈坂は餌を食べている黒猫の後ろに回ると、床に耳をつけるかたちで黒猫を覗き込んだ。
「あぁ、女の子ですね。なら可愛い名前にしないと。」
「………はぁ。」
「どうかしましたか?」
「別に何でもねぇ。」
いや、一番手っ取り早い調べ方なんてそれくらいしかないよな。
判ってんだけど、躊躇うのって俺くらいなのか?
「つか俺じゃ思いつきそうにないわ。御奈坂、お前が考えてくれ。」
「え、私ですか?」
「何だ、ダメなのか?」
「いえいえ、まさか真也くんに頼みごとされるとは思ってもいませんでしたから。」
「……それもそうだな。」
自然に口から出ていた言葉。
気を付けてないとまずいな、こいつに対して気が緩みすぎてる。
まぁ、この件に関してはもうこのままでいいか。
「そうですねぇ………待ってくださいね。」
「まぁ、無理ならいい。…お前は今日からタマだ。」
「ちょちょちょっ!ちょっと流石にそれは!?」
「大丈夫だろ、どうせ猫じゃ判んないだろうし。」
「………なつね。」
「は?」
「夏に音と書いて夏音ってどうでしょうか。」
「……夏音。」
夏の…音。
梅雨に降る雨。
梅雨は春の終わりを示し、梅雨は夏の到来を告げる。
こいつと出会ったのも雨の日だった。
悪くないのかな。
「なら夏音で決定だ。」
「良かったです、無事に決まって。夏音ちゃん……自分で言うのもなんですが可愛いですよね?」
「さぁな、よく判らねぇよ。ま、いいんじゃねぇの?」
「はいっ。」
餌を食べ終わった夏音の頭を撫でる御奈坂。
丁度そこに莉乃姉がやってきて、御奈坂を呼ぶ。
「緋結華、良かったら手伝ってくれないか?」
「あ、了解です。では真也くん、夏音と待っていてくださいね。」
「あ?あぁ。」
莉乃姉についてキッチンへと消える御奈坂。
夏音は俺の背中に飛び乗ると、そのまま上ってきた。
肩の上に乗ると、そのまま力を抜いて寝始める。
…こいつ、随分と自由じゃないかコラ。
……仕方ないな。
楽しそうに料理をする二人の声を聞きながら、俺はソファーに寝転がった。
夏音を腹の上に移動し、ボーッと虚空を見つめる。
今日は色々ありすぎて疲れたな、主に精神的に。
朝は莉乃姉の悪ふざけ、昼は御奈坂とのこと、夕方は二人の騒がしさに溜め息が絶えない。
……俺は何をしてるんだ。
どんな権利があって、こんな普通の生活をしている。
友達と呼んでくる奴や、昔からずっと面倒を見るという幼馴染。
信じるな、誰も。
他人は所詮他人であって、誰も他人を気にかけたりはしない。
誰もが自分のために生きて、他人を蹴落とし、己を幸福にして、他人を不幸にしていく。
御奈坂も莉乃姉も、俺といることで何か得をすると思っているはずだ。
そうでなければおかしい、自分に得がないのに人は動かない。
…俺にそんなものはないのに。
何故あいつらは、俺に関わろうとするのだろう。
なぁ姉さん、姉さんなら判るのか?
得もない人間と関わろうとする理由が。
「真也、ご飯だぞ。」
「ん?あぁ、そうか。」
思った以上に時間が経っていたようだ。
気がつけばテーブルには三人分の食事が並んでいて、大きめのハンバーグが美味そうな匂いと湯気を立てて皿に乗っている。
マカロニのサラダに白米、コンソメのスープ。
朝以来食べていないからか腹が鳴る。
「美味そうだろ?二人で頑張ったんだぞ?」
「はい、頑張っちゃいました。真也くんのお口に合えばいいんですが。」
「いや、流石に腹が減ったからな、ありがたく頂くとしよう。」
「まったく、素直に褒めることを覚えないか真也。」
「はっ、冗談じゃねぇ。」
「あはは…。」
俺は食卓に着くと、端を掴んで手を合わせる。
そんな俺を苦笑しながら見た二人は、それぞれ箸を持って微笑んでいた。
『いただきます。』
「それでは失礼します、今日はありがとうございました。」
夕飯を食べ終え莉乃姉と雑談していた御奈坂が、そう言って立ち上がった。
俺はソファーの上で首を動かし、御奈坂を見る。
「礼を言われることをした覚えがないな。」
「いえいえ、十分楽しませてもらいました。ではまた明日会いましょう。」
「あぁ、気をつけて帰るんだぞ。」
莉乃姉は見送るためか立ち上がるが、その手には荷物を持っていない。
「…おい莉乃姉、お前も帰れ。」
「何故だ!?やっと二人きりになる時間がやってきたというのに!?」
「二日連続で人の家に入り浸るな、いい加減おじさんたちも心配してるぞ?」
「それに関しては問題ない。既に連絡して許可は取ってある、真也なら心配ないとな!あっはっは!」
「俺の許可を得てないだろうが。」
「はっはっは、それは聞くまでもないだろう!」
「いいから帰れっつうの、鬱陶しいぞ。」
「真也くん、流石にそれは…。」
「…まぁ服も洗わないといけないし、やはり帰るとするか。」
「是非そうしてくれ、そして二度と来るな。」
「勿論、次はちゃんと一週間分のお泊りセットを持参するとも!」
「ざけんな!んなもん持ってきやがったら絶対入れねぇ。」
「そんなこと言ったってあたしには鍵があるからな、あっはっは。」
「クソッタレ。」
莉乃姉は楽しそうに笑った後、自分の荷物を肩にかける。
「さて、では帰るとするか。緋結華、家まで送ろう。」
「え、大丈夫ですよ!?私の家ってここからそんなに遠くないし、何より莉乃さんの家って逆じゃないですか?」
「真也の友達を守るのもあたしの大事な勤めってね……だから気にするな、あたしは強いぞ?」
「それはそうかもしれませんけど。」
「御奈坂、諦めろ。」
「…じゃあ、お願いします。」
「うむ、心得た。じゃあな真也、また明日だ。」
「できることなら会わないことを祈るよ。」
「七つ集めると願いを叶えてくれるボールだってその願いは聞き届けてはくれないだろうな。」
「あぁ、忌々しいことに同意見だ。とっとと帰れ。」
「はいはい。」
「おやすみなさい真也くん。」
二人が部屋から出ていき、玄関が閉まる音がする。
そのまま鍵までかかる音がするってのは、やっぱり間違っていると思うが。
俺は静かになった部屋を見渡すと、そのまま電気を消してベッドに入った。
そうしただけで、一日の疲れがどっと押し寄せてくる。
目を閉じて、闇に沈む。
自分に腹が立つ。
今日一日、人並みの高校生を演じていた自分に。
友人と共に買い物をしたり、話したり、飯を一緒に食べたり。
そんな幸福な景色に、俺がいていいはずがないのに。
…クソッタレ。
目的を見失うな、桐生真也。
テメェの命は、そんな当たり前を過ごすためにあるものじゃないんだ。
ただ静かに、生き続けるだけでいいんだよ。
これ以上、他人と関わるな。
それはお前が一番言ってきた言葉だろう。
自分に言い聞かせる。
これほどの自虐は他にないなと思いながら、俺はそれを当然のように受け入れる。
俺の存在理由を、薄れさせないために。
いつまでも晴れない心のまま、俺は眠りの中に落ちていった。




