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Day.3 些細なきっかけ1


 ゆったりと意識が戻っていく。

 海月のように漂っていた意識は、海底から上る泡のように、現実に引き戻される。

 寝返りを打つ。

 いつもなら動き回れるベッドが、今朝は妙に狭く感じる。

 疑問に思ったまま、手を伸ばしてみた。

 何かに手が触れる。

 それはとても優しい温かさで、驚くほど柔らかい。

 心地がいい、それになんだか懐かしさを感じる。

 何故だろう、俺はこの感触を知らないのに。

 思わず抱きついた。

 その懐かしさを確かめるように、強く抱きしめる。

 あぁ、でも起きないと。

 今日は墓参りに行くからな、買い物もしないといけない。

 名残惜しく思いながらも、俺はゆっくりと目を開けた。


「やっと目が覚めたか真也。」

「………え?」

「何だ寝惚けてるのか、朝が弱いのは直らないな。」

「え、ちょ、何で?」

「混乱してるとこ悪いが、そろそろ放してくれないか?この感触は得難いし気持ちいいが、流石のあたしも恥ずかしい。」


 見れば俺は、何故か隣で寝ている莉乃姉を思いっきり抱きしめていた。

 間近で見た莉乃姉の頬は、熱でもあるかのように真っ赤だ。

 しかも俺のシャツを着ていて、首周りもかなり緩い。

 莉乃姉の艶めかしいラインが、俺の目に映し出されている。

 …これは何だ。

 傍から見たらかなりヤバい状況だ、幸い見てる人はいないが。

 俺は大急ぎで離れると、壁まで後退した。


「な、何で隣で寝てんだよ!」

「お前、朝は記憶も曖昧なのか?」

「は?」

「確かに一緒に寝ることの了承を得た覚えもないが、あたしには拒否された記憶もないんだ。思い出したか?」


 ………あぁ、思い出したさ。

 昨日あの出来事があって、心身ともに疲れ果てて、かなり思考力が低下してたんだ。

 莉乃姉が風呂から上がって、俺のシャツを着て、一緒に寝始めたのに止めもしなかった。

 挙句寝ながら莉乃姉を抱きしめるとか、最悪だ。


「うぁぁぁぁあ!クソッ、アホすぎるぞ俺!」

「なにぃ!?散々あたしを辱めておいて何様だお前!」

「くっ、それを言われると…って辱めるって何だよ!言い方に語弊があるぞ!」

「こんなに衣服を乱し、うら若き乙女を思いっきり抱きしめたんだ、不満でもあるのか!」

「違うっつうの!てか下着はどうした!」

「寝る時まで着けないさ、快適に眠れないだろ。あぁ安心しろ、下は穿いている。」

「あったりめぇだ!」

「いやいや真也、世の中には穿かない女性もいるのだぞ?」

「訊いてねぇよ!」

「ふっふっふ、さてと、朝ご飯にするか。昨日は食べないで寝てしまったから、真也もお腹が空いているだろう?」

「そんなのいいから今すぐに自分の服着てとっとと帰れ!」

「ほう…そんな態度をとっても良いのかな?」


 ベッドから立ち上がった莉乃姉は不敵な笑みでこちらに振り返ると、涙を流すような仕草をして胸元を隠した。


「真也にあたしの初めてを奪われた、もうお嫁に行けない。」

「言い方がいちいち誤解を生むんだよ!抱きしめただけだろ!」

「あたしは一番好きな人に抱きしめてもらいたかったのに!男の人にあんなに強く抱きしめられたのは初めてだったんだぞ。」

「くっ………な、何が望みだ。」

「あたしを嫁にしてください。」

「断固拒否する。」

「何だ、あたしの身体じゃ不満なのか?」

「そうじゃねぇ!そういう台詞が不満なんだ!」

「つまり抱き心地は良かったと?」

「うっ……くっ…。」

「ふふふ、そうかそうか、それは嬉しいことだな。」


 急に俺の顔を覗き込んで微笑むと、莉乃姉は上機嫌にキッチンへ入っていく。

 チッ、いつの間にか誘導尋問されてたか。

 だが不覚にも、寝惚けた俺は確かに心地いいと思ってしまっている。

 クソッタレ、朝から抜けてるな俺。

 でも、今日はあの夢を見なかった。

 迫りくるトラックと、真耶姉の顔。

 冷たくなっていく感覚と、両手を染めた赤。

 それが、今朝はない。

 莉乃姉を抱きしめていたからかは判らないが、少なくとも本当に久し振りに穏やかな眠りだったのは間違いないな。

 それこそ、あの日から今日まで、夢を見なかったことなどなかったんだ。

 はぁ…今日くらいはいいか。

 鼻歌まじりに朝食を作り始めた莉乃姉を眺めた後、シャワーを浴びに行く。

 シャワーを終えると髪を結び、余った髪をヘアピンで留めて、身嗜みを整える。

 最後にブレスレットを…。


「あぁ、昨日つけたまま寝てたのか。」


 姉さんのブレスレットが壊れていないか確認し、リビングに戻る。

 そこには出来上がったシンプルな朝食と………、


「おい、何の真似だコラ。」

「ふふふふふ、新婚生活っぽいだろう!」


 裸エプロンな莉乃姉が席についていた。

 慌てて目を逸らし、全力で入ってきた扉を凝視する。

 何なんだ、今日はそういう路線で俺を弄るつもりか?

 ただでさえスタイルが良い莉乃姉にそんなことされたら、流石に直視できない。

 一瞬しか見てないが、かなり際どい状態だ、胸なんてほとんど隠れてないじゃないか。

 心臓が早鐘を打ち始める。

 当然だろう、俺とて男という性別には変わりないのだから。


「どうしたの真也、もっとちゃんとあたしを見てよ。」

「猫撫で声出すんじゃねぇ!いいからとっとと服着やがれ!」

「はっはっは、初心だなぁ真也は。そんなに顔を赤くして恥ずかしがって、可愛いじゃないか。」

「うるせぇ!」

「普通男ならテンションあがってわぁ~いおっぱいだやふ~っ!って抱きついてくるものだろう。」

「そうならねぇようにしてんだろアホが!」

「ほぉ、ならあと一押しで真也を落とせるのか。」


 莉乃姉が動く音がして、慌てて後ろに下がる。

 クソッ、朝っぱらからハイテンションすぎるぞ莉乃姉。

 気配がゆっくりと近づいてくる。

 視界の端に太ももが見えてしまい、手で視界を塞ぐ。


「やめろ…マジで来るなって!」

「今朝はあんなに激しく求めてくれたのに、何でそんなに冷たくするの?ほら、触っていいよ……真也になら、あたし…。」

「マジで勘弁してくれ!これ以上は流石にヤバい!」

「あーっはっはっは!戸惑う真也は本当に可愛いな、朝ご飯の前にお腹いっぱいだ」

「テメェ、おちょくるのも大概にしろよ!」

「美人なお姉ちゃんと一緒に寝て、あまつさえ抱きしめて、お手製朝ご飯に裸エプロンだぞ?至れり尽くせりじゃないか、こんな美味しい状況滅多にないぞ、それこそ学校の男子が聞いたら卒倒する。」

「知るかそんなこと!いいから服を着ろ!」

「それにしても凄いな真也は。恥ずかしがっていても少しだけ開けた指の隙間とか、実はこっそり見てたりするものなのに、お前は一切隙なく見ないようにしてるな。」

「それがどうしたってんだよ。」

「や、そんな頑なに嫌がられるとあたしってここまでしても魅力ないのかなぁ~って、まぁ傷ついたりもする。う~ん、結構自信はあったんだが、まだ真也を落とすには至らないか。」

「………。」


 溜め息まで吐き始めた莉乃姉。

 何故だろう、物凄く俺が悪者っぽいのは。

 でも俺にどうしろと?

 ごめんな莉乃姉、莉乃姉は十分に魅力的だよ、俺も実は見たかったけど恥ずかしかったんだ、って言うのか?

 ………はっ、冗談じゃない無理に決まってんだろ馬鹿馬鹿しい。

 クソッ、どうしたら止めてくれるんだ。

 流石にそろそろ限界だ、俺の自制心がもたなくなる。

 そうか、莉乃姉が今よりも興味を引くことさえあれば…。


「判った!何でも言うこと聞くから服着てくれ!」

「………今の言葉に嘘はないな真也?」

「浅はかだった!?」

「いつも冷静な真也にしては迂闊な発言だったな。あたしの身体も伊達じゃないってことか、あーっはっはっは!」


 盛大に高笑いすると、カサカサと衣擦れの音が聞こえてきた。

 信じられねぇこの姉、何をさせるつもりだ。

 とりあえず窮地?は脱したけど、実は余計にヤバい状況じゃないか?

 莉乃姉のことだから、言ったからには必ずやらせる。

 逃げても追いかけてくる、てか鍵を握られてるから逃げられねぇ。

 ………急ぎで引っ越すか?


「もういいぞ真也。」

「本当だろうな?」

「あたしは嘘を吐かないぞ。」

「まぁ確かにそうだけどな。」


 固く瞑っていた瞼を開けると、ちゃんと服を着た莉乃姉がいた。

 その顔はご機嫌モードで、楽しいことが待っている乙女みたいに無邪気だ。

 いや無邪気って、隠れてるだけで邪気はありそうだな。


「さて、朝ご飯食べたら出かける準備をするんだぞ真也。」

「あ?まぁ出かけるけど、何で莉乃姉に言われなきゃいけないんだ?」

「何でって、あたしと出かけるからだよ。」

「は?何でだよ。」

「さっきお前、何でも言うこと聞くからって言ったじゃないか。まさかもう忘れたのか?」

「早速使うのかよそれ。で、何をさせるつもりだよ。」

「あたしとデート。」

「はい!?」

「そうか嬉しいか、あたしも嬉しいんだ。なんたって真也とデートだからな。」

「いやいや言ってねぇし、何で突然。」

「普段からここでしか会わないからな、たまには外で一緒にいるのもいいかと思って。」

「意味が判らん、別のにしろよ。」

「ダメ、今日はデートだ。」


 はぁ、仕方ない、諦めるしかないか。

 莉乃姉は言い出したら本気だからな。


「判った。で、何処で何をするのか決まってんのか?」

「うむ、ちゃんとデートプランは考えてあるぞ。」

「…あのさ莉乃姉、いちいちデートって言うのに意味とかあるのか?結局いつもしてることだぞ?」

「あるとも!」

「言い切りやがった、意味なんてなさそうなのに。」

「何かデートって言うだけでドキドキするだろ!」

「あぁ、確かにするな。」

「おぉ、真也が同意してくれるとは!」

「何か嫌なことされそうでドキドキだ。」

「そっちか!?」

「で、結局何すんの?」

「秘密。まずは朝ご飯食べるぞ、折角あたしが愛情込めて作ったのに冷めてしまう。」


 冷めてしまう原因を作ったのは莉乃姉な気がするが。

 …言っても仕方ないし、とりあえず食べるか。

 クッションに座ると、目の前に並ぶ和食に箸を伸ばす。

 今日はワカメの味噌汁に、炊くのは間に合わないから冷凍してあった米、それと漬物。

 食材や調味料は、ここに引っ越してきた時から莉乃姉が時々補充している。

 まぁ俺はまったく使わないのだが。

 味噌汁に口をつける。

 ん、相変わらず絶妙だ、美味しい。

 実家にいた頃は家が近所だったから、よく毎日のように作ってくれていた。

 その頃はまだ、修行してるから味をみてくれって言ってたっけ。

 まぁここともそれほど離れているという訳でもないんだけど、すぐに来れるって程じゃない。

 なのに莉乃姉は俺を心配して毎日のように来てくれてる。

 ホントに、お人好しだよ莉乃姉は。

 ふと顔を上げれば、莉乃姉が無言で食事をしている。

 食事の時は互いに無言。

 食器の鳴る音だけが、静かな室内に響いている。

 ピンと背筋を伸ばし、綺麗な姿勢で食べる莉乃姉。

 さっきまで色仕掛けで人を弄っていたのと同一人物とはとても思えない。

 箸の使い方から礼儀作法、俺も色々と影響を受けてきた。

 今の俺を形成したのも、半分は莉乃姉だ。

 両親なんかよりよほど親であり、本当の姉さんのように気にかけてくれている。

 いや、本人もきっと本当の姉さんのつもりなのだろう。

 この色のない世界の中で、唯一信頼している人だ。

 莉乃姉はそれじゃダメだ、真也には仲間が必要だって言うが、それは俺に守るべき人を作れってことだろう。

 でも、俺は何人も守れるほど強くない。

 たくさんの仲間を守れるほど強くない、たった一人だって守れなかったんだ。

 だからなるだけ莉乃姉にも、俺に関わってほしくない。

 俺といるだけで、きっとろくなことにはならないから。

 だけど、莉乃姉だけは必ず守る。

 例え何処にいようとも、助けに行く。

 この世界にいる、ただ一人大切な人だから。

 姉さんみたいなことになろうとも、今度は俺の命を懸けよう。

 そうした時に漸く、姉さんが生かしてくれたこの命に、意味ができる気がするから。




 食べ終わると、莉乃姉は食器を洗い始めた。

 俺も手伝おうとしたのだが、


「あたしがこの家にいる間はキッチンに入らないこと、ここはあたしの聖域だ!」


 って言うものだから、どうも手持無沙汰だ。

 どうせ料理は手伝えないのだし、せめて食器洗いだけでもと思ったのだが。

 特にすることもなくソファーに座っていると、黒猫が俺の膝の上に飛び乗ってきた。

 脳裏に昨日の光景が映し出される。

 ……思い詰めても仕方ないのか。

 俺は優しく黒猫の頭を撫でてやりながら、ふと思う。

 こいつ、ここに来てから何も口にしてない気がするな。

 ふむ、猫って何を食べるんだ?

 …魚?

 昔見てた某昭和7人家族アニメの歌でも、魚を咥えた猫って言ってたような…。


「莉乃姉、魚ってこの家にあるのか?」

「は?急にどうしたんだ真也、魚?」

「そうだ魚、あるのか?」

「あることにはあるが、何に使うんだ?」

「こいつに食わす。」


 俺は膝の上で動かない黒猫を指差す。

 莉乃姉は納得したように頷き、しかし首を振る。


「ダメだよ真也、ここにあるのは干物だからな。猫には塩分が強すぎるだろう。」

「あぁ、そういうのもまずいのか。」

「そうだな。人間には問題なくても、猫の身体には毒であることもあるんだ。だから真也、可愛いからって何でも食べさせたらダメだぞ?」

「べ、別に可愛いってわけじゃねぇよ。」

「ふふふ、そうか?まぁ今はあげられそうな物が食パンくらいしかない、夕方まではこれで我慢してもらおう。」

「そうか…だってさお前、我慢できるか?」

「にゃぁ。」


 俺を見上げて小さく鳴く。

 莉乃姉は皿に千切った食パンを乗せると、床にそれを置いた。

 そっと持ち上げて床に下ろしてやると、素早く走り寄ってパンを食べ始める。

 これで夜までか…今夜の餌は少し豪華な物を買ってやろうかな。

 一心不乱にパンを食べる黒猫を、俺はしゃがんで眺めていた。


「ほぉ、クールな真也も小動物にはそんな表情も見せるのか。」

「え………なっ!?」

「はっはっは、あたしはそんな真也が好きだな。」

「チッ、うるせえよ。そもそも、猫に冷たくしたって仕方ないだろうが。」

「そうれもそうだな、そういうことにしておこうか。」


 クソッ、気が抜けてたか。

 莉乃姉が洗い物を片付け終わると、俺達は一緒に家を出た。

 鍵を掛ける時、物凄くナチュラルに莉乃姉が鍵を出していて奪い取り損ねたが。

 二階建てマンションの階段を下りて歩道に出ると、いきなり莉乃姉が俺と腕を組み、しっかりと密着してきた。


「じゃあ行こっか真也。」

「雰囲気出そうとしたって無駄だぞ。」

「すぐに見破るくらいなら乗ってくれてもいいじゃないか。」

「はっ、誰が。」

「まぁいいか、このまま行こう。」

「アホぬかせ、離れろ。」

「言うこと聞かないなら今朝のこと、面白おかしく校内放送してやるからっ!」

「チッ、判ったよ。」

「まぁ、今はこれで我慢するかな。」


 は?

 我慢も何も、思いっきりやりたい放題じゃないか。

 つか、これは結局他の噂を広めるだけなんじゃ。

 どちらを選んでも逃げられないか…なんて選択肢だよ。

 はぁ、でもいいか。

 噂が流れたところで、俺は別に困らないからな。

 もし困るとしても莉乃姉だけだし、そこんとこちゃんと考えてるだろうし。

 俺に近寄る奴がいないなら、それほど困る結果は生まないだろう。

 カップルのように、二人並んで歩きだす。


「それで、一体何処に向かうんだ?」

「そうだな、とりあえずあたしがエスコートしよう。」


 莉乃姉に連れられて、朝の静かな住宅街を歩いてく。

 学校へと向かういつもの道。

 変わらない景色と、雨上りの青空が広がっているだけ。

 俺は暫くボーっと、無言でその青空を見ながら歩いた。

 すると不意に服の裾を引っ張られて視線を落とすと、拗ねた顔の莉乃姉が見上げている。


「何だよ、んな顔して。」

「デートっぽくない。」

「はぁ?」

「デートっぽくないって言ったんだ。何で無言なんだ、これじゃただ並んで歩いてるだけだぞ!」

「こういう静かなデートもあるだろう?」

「そうかもしれないけど、あたしはもっと話がしたい、お前もたまには話題を提供しろ!」


 なんて我が儘な言い分だよ。


「誘っておいて他人頼みかよ。莉乃姉が考えたっていうデートプランに話題くらい入れとけよな。」

「う…確かに考えが甘かったようだ、やはりあたしもこういったことには不慣れだな。次からは気を付けよう。」


 次もあんのかよ、嫌だなかったりぃ。

 にしても話題か、何かあったかな。

 普段から割と同じ時間を共有してることが多いから、今更話すことなんてない。

 そういえば、自分から話題を探すなんて初めてかもしれないな。

 昔から莉乃姉は喋るの好きだし、俺は他の奴と話さないし。

 む、意外に難題だなこれは。

 真耶姉も莉乃姉と一緒で喋りまくりの人だったから、ホントに考えたことがない。

 どうすっかな、基本からいけばいいのか。


「…今日はいい天気だな。」

「確かに、綺麗な青空だ。これだけの快晴だと、気分もいい。」

「……え、終わりか?」

「それはあたしの台詞だ!」

「ちゃんと話題を提供したろ!」

「今のが話題だと!?」

「あぁそうだ。なのに莉乃姉が終わらせたからな、もう話すことがない。」

「あたしのせいか!?むぅ、えっと……清々しくて気持ちいいな、真也もそう思うだろ!」


 珍しい、莉乃姉が混乱してる。

 どうしたんだ、妙に弱いな今の莉乃姉。

 いつもならどんなことも軽々とやってのけるのに、何でこんなにテンパってんだ?

 こういうことは不慣れって言ってたにしても、ここまで面白くなるとは。


「にしても、こんなに天気がいいなら洗濯物干してくるんだったな。」

「うわっ、確かに忘れてた、勿体ないことしたな。真也は籠から溢れるまで洗濯しないから、あたしがやらないとな。」

「私服なんて週末くらいしか着ないんだから別に困らないだろ。」

「そうだとしてもだ、溜め込むのは良くないぞ。」

「めんどい。」

「まったく、やはり真也はあたしがいないとダメだな!」


 莉乃姉が得意げに笑う。

 ん、いつもの莉乃姉に戻ったか、その方が楽だ。

 ほとんど無言で歩いていたからか、気が付けばもう学校の前に着いていた。

 ここからだと駅に行くのか、他には何処か遊ぶようなとこあったか?


「よし、着いたぞ。」

「は?着いたぞって、ここ学校だけど。」

「あぁ、今日は学校デートなのさ。」

「はぁ!?こんなとこで何するつもりだ?」

「い、今なら保健室誰もいないから……真也さえ良ければ。」

「な、何言ってやがる!?」

「…くっくっく。」

「……この女。」

「はっはっは!まぁまぁ、とりあえず入るぞ。」


 私服のままずかずかと校門を抜ける莉乃姉。

 ウチの学校は珍しく、休みの日であれば私服登校も許されている。

 生徒会やその他の委員会、部活に励む奴らにとっては随分と楽な仕組みだ。

 流石に公式の試合や、学校の代表として活動する場合はその限りではない。

 まぁ、俺みたいに休日登校なんてしない側からすれば関係のない校則ではあるが。

 理由も聞かされないまま、俺は先を行く莉乃姉の後を追う。

 校庭の方からは、おそらくサッカー部だと思うが、気合の入った掛け声が聞こえてくる。

 てか何なんだ、委員会の手伝いでもさせるつもりか?

 …だとすると面倒だ。

 知らない奴、しかも生徒会や風紀委員に入っているような連中なんて。

 ただでさえそういう奴からは煙たがられてるってのに、人選間違えすぎだぞ莉乃姉、やっかみ買っても知らないからな。

 上履きに履き替えて、階段を上る。

 向かう先は明らかに職員室、部屋の鍵でも受け取るんだろう。

 職員室の前に着くと、俺は立ち止まる。


「ではここで待っていてくれ、すぐに戻るから。」


 無言で頷くと、失礼しますと言って莉乃姉が中に消える。

 はぁ、このまま帰りたい。

 今日は用事もあるし、できれば長居したくはないんだが。

 だが逃げる間もなく、莉乃姉が職員室から出てきてしまった。


「よし、では行くぞ真也……ってどうした、そんな顔して。」

「いや、別に何も。」

「そうか?では、今日は思いっきりあたしを楽しませてくれ。」

「楽しませる?何だよ、他の奴らの前で恥でも掻かせるつもりか?」

「ん?真也の実力なら恥など掻かないと思うが、まぁいい、少なくともそんなつもりはないから安心しろ。」

「はぁ、マジで何させる気だよ。」


 無邪気な笑みを浮かべた莉乃姉は、また俺と腕を組むと歩き出した。

 階段にさしかかる。

 生徒会室は一番上の階にあるから、ここを上らなければならない。

 俺は上り階段に向きを変えた。


「何してるんだ真也、そっちじゃないぞ?」

「何言ってんだ、生徒会室は上だろうが。」

「お前こそ何を言っている、誰が生徒会室に行くと言った?あたしたちが行くのは剣道場だぞ。」


 不思議そうな顔をしながら、莉乃姉が手にしている何かの鍵を見せてきた。

 鍵に付いている赤いタグの中には、確かに剣道場と書かれた紙が収まっている。

 ……俺の勘違いか。

 まぁ、状況が好転したとは必ずしも言い難いが。

 寧ろ悪くなった、よりにもよって剣道の方だとは。

 あそこには、御奈坂がいるじゃないか。

 昨日の今日だ、少し後ろめたさも残ってる。

 どうせなら弓道部にしてくれてればいいものを。

 あぁクソッ、厄介な手間をこさえたな。

 莉乃姉と一緒にいると、何もない一日なんて過ごせないんじゃないか?

 判ってはいたが、巻き込まれると有無を言わさずついて来いって感じなんだよな。

 つか、こんな莉乃姉が部長をしてる剣道部って大丈夫なのか?

 何か全員風紀委員みたいに、規律を乱す輩は成敗するとか言い出さないよな。

 だとしたら確実に俺は襲われる。

 そもそも、この学校自体が既に莉乃姉配下の要塞になってる気がするけど。

 まぁとりあえず、今は御奈坂を如何に躱すかだな。

 ……意識しすぎかもな俺、いつも通りに無愛想・無関心でやればいい。

 余計なことさえしなければ、きっとすぐに解放されるはず。

 階段を下りて昇降口に戻ると、靴を履き替えて剣道場に向かう。

 すると丁度そこに、女子生徒が一人歩いてきた。

 俺としっかり腕を組んだ状態の莉乃姉に一瞬動きが止まったが、どうやらその娘は剣道部員らしく、莉乃姉に頭を下げる。


「小湊部長、おはようございます!」

「おはよう藤原、今日も元気があって何よりだ。」

「それであの…そちらの方は?」

「彼氏だ。」

「違ぇだろ!」

「はっはっは、まぁいいじゃないか。」

「勝手に事実を捏造すんな。」

「仕方ないな。こいつは今日の練習相手に連れてきた、まぁ助っ人みたいなものだ。真也、一年生の藤原だ、挨拶しろ。」

「は?必要ないだろ、どうせ今日だけなんだ。」

「短い時間とはいえ同じ場所にて剣を振るう者同士、挨拶くらいは礼儀だ。」

「チッ、判ったよ。……二年の桐生だ。」

「あ、藤原奏恵ふじわらかなえです!本日はよろしくお願いします!」

「あ…あぁ。」


 深々と頭を下げられ、少し居心地が悪い。

 莉乃姉の教育の賜物なのか、単にこの娘が礼儀正しいのか。


「今日は藤原が掃除当番だったな、鍵を開けるからついて来てくれ。」

「はい、お願いします!」


 三人で校舎裏の剣道場に移動すると、莉乃姉が道場の鍵を開けて中に入る。

 静謐な空気に満ちた剣道場。

 板張りの床は、窓から入る光を反射して輝いている。

 隣の二人は道場に一礼すると、藤原と名乗った少女は更衣室に歩いていった。


「あたしも着替えてくるから、真也は軽く準備運動でもして待っていてくれ。」

「つか、俺は練習に参加するのか?」

「うむ、今日は皆と手合わせしてもらう。勿論、その相手にはあたしも含まれるぞ。寧ろそれが本命だ。」

「俺は剣道のルールとか作法なんて知らないぞ?」

「構わないさ、真也は自分の剣を振るえばいい。あたし相手なら剣道のルールにしなくても良い。ただ真也は、相手を一度でいいから斬れば勝ちだ。」

「……なるほど、それなら確かに相手になれそうだな。」

「あたしも強くなったんだ、また真也を倒してやろう。」

「はっ、部長が恥を掻かないようにしてくれよな。」


 莉乃姉は不敵に笑うと、更衣室に歩いていった。

 さて、莉乃姉相手ならそれなりに準備運動も必要だな。

 俺は手足を伸ばし、全身をほぐしていく。

 すると、先程の後輩が袴に着替え終えて、床を掃除し始めた。

 俺は邪魔にならないように、できるだけ端に寄る。

 そういえば、俺は着替えたり防具を着けなくて良いのか?

 持ってないから誰かに借りることになるだろうが、ジーンズに黒いシャツってマズい気がする。

 ま、俺が気にすることじゃないか。

 準備運動を終え、座って掃除を眺めていると、段々と部員が集まりだした。

 誰一人例外なく、俺を見て驚いた顔をする。

 まぁ、俺は評判悪いからな。

 遠巻きに見る奴に目を合わせると、皆一斉に目を逸らす。

 どうしてここに不良がと、思ってるんだろう。

 明らかに剣道場には似つかわしくない外見だし、とても仮入部とか見学には見えない。

 俺だって好き好んでここにいるわけじゃない、どちらかといえば被害者だ。

 はぁ、早くこっから出たい。

 ふと、視線を変えた。

 そこに立っていたのは、袴姿の御奈坂。

 向こうも俺に気付いて、その表情が固まる。

 どうしていいのか判らない。

 御奈坂もそれは同じなのか、戸惑いを隠せず動かなくなった。

 暫くそうしていると、御奈坂の後ろから出てきた小柄な少年に先を促され、はっとしたように歩き出す。

 はぁ、マジで帰りたい。

 こうなることは判ってたけどさ、実際に出くわすとやっぱり戸惑う自分がいる。

 クソッ、変に疲れるぞ。

 もう好奇の視線さえも気にならない、ついでに言うと機嫌もあまり良くない。

 暫くじっと動かずにいると、誰かに肩を叩かれた。

 見上げると、心配そうな顔をした莉乃姉が袴姿で立っている。


「どうした真也、あまりにテンションが低くないか?」

「そりゃ高くはならないだろうよ、もう帰っていいか?」

「なにぃ!?あたしとのデートが楽しくないのか!?」

「これがデートだと?あぁ楽しいな。デートって言葉の意味を、俺の中で書き換える必要がありそうだ。」

「また辛辣だな真也、何をそんなに怒ってるんだ?」

「別に怒ってるわけじゃねぇよ。そもそもデートの相手が今の今まで傍にいなかったんでな、お陰で随分と晒し者にされた気分だ。」

「う、それはすまなかった。着替え以外にも色々とやることが多くてな、なかなか戻れなかったんだ。」

「はぁ、まぁいいや。で、俺はどうしたら良いんだ?」

「とりあえずあたしの後ろにいてくれ、皆で“礼”をしなければ。」

「あぁ、了解。」


 立ち上がり、莉乃姉の後に続く。

 板張りの硬い床の上で綺麗に整列した剣道部員たち。

 俺は彼らの前に向かい合って座る莉乃姉の後ろに控え、黙して待つ。

 莉乃姉は彼らを見渡すと、手近にいた部員に声をかけた。


「全員揃ってるか?」

「まだ峰岸君が来ていません、連絡したら少し遅れると。」


 …峰岸だと?

 何かどっかで聞いたことあるような…気のせいか?


「判った、では始めようか。全員正座!」


 莉乃姉の号令で部員たちはその場に正座する。

 莉乃姉も静かに正座したのに続き、俺も正座した。


「では皆、改めておはよう。」

『おはようございます!』

「さて今日の練習内容だが、試合形式にしようと思う。最近はずっと基礎練習だったからな、一年生もそろそろ自由に試合をしたい頃だと思う。それに折角休日にこれだけ集まったんだ、普段練習しない相手とも試合してみてくれ。」


 俄かに喜びの声が上がる。

 まぁこういう礼節を大事にするスポーツでも、試合ってのは楽しいものだからな。

 日頃鍛えた成果を発揮するには、同じ部員同士の方が実力も近いし。

 それに、いつも同じことばかりしてるとモチベーションも下がってくるからな。


「怪我だけはしないように気をつけて、日々の鍛練の成果を互いにぶつけ合ってほしい。」

「小湊部長。」


 小柄な少年が、すっと手を上げた。

 あれは、さっき御奈坂の後ろにいたやつか。

 中世的な顔をした少年は、俺を一瞥すると莉乃姉に問いかける。


「そちらにいらっしゃる方は、一体何故ここにいるのでしょうか?」


 場がざわめく。

 誰もが知りたくても聞けなかった話題だ、興味も湧くだろう。

 莉乃姉は俺に振り返り苦笑すると、前を向いて答えた。


「知っている者も多いと思うが、一応紹介する。こいつは二年生の桐生真也、あたしの弟みたいなものだ。今日は皆の練習相手にと連れてきた。見た目と違ってかなり剣の腕は立つからな、逢坂も練習相手になってもらうと良いぞ。」

「………確かに、強さは雰囲気からも感じられますね。」

「そうだろう。逢坂ほどにもなれば、やはり刃を交えずとも判るか?」

「えぇ、そうですね。」

「まぁ礼節の方も問題はない。見た目は…あまり褒められたものではないけどな。だが逢坂も言っているように、単なる強さだけなら……あたしより強いぞ。」


 場が更にざわめく。

 あぁ、やっぱ莉乃姉ってかなり強い方なんだな。

 確か莉乃姉が入ってから、ウチの高校も強豪として扱われ始めたって聞いてるし。

 そんな莉乃姉よりも強いと本人が認めたら、そりゃ驚きもするだろう。


「ただし、真也は剣道のルールを知らないんだ。こいつは元々剣術を鍛えただけだから、スポーツとしては戦えない。よって真也と試合するときは単純に一太刀浴びせたら勝ち、何処に打ち込んでも構わない。」

「あの、桐生さんは防具を着けないんですか?」


 あぁ、それは俺も思ってた。

 流石に防具なしで竹刀を打ち込まれたら、正直悶絶する自信がある。

 だが莉乃姉は楽しそうに笑みを浮かべると、自信満々に叫んだ。


「あたしの真也が打ち込まれるなんてありえない!だから防具などいらん!」

『えぇ!?』

「おい莉乃姉、ふざけるのも大概にしろよ。」

「だが実際着けたいのか?」

「……まぁ、かったりぃな。」

「だろう?というわけで気にせずどんどん打ち込め!出し惜しみはするな!全力でいけばあるいは届くかもしれんぞ。まぁ、あたしの真也が負けるはずないんだけどな!」


 あーっはっはっはと、いつもみたく笑いだす。

 部員たちは呆れ果てて、しかしこのテンションはいつものことなのか怒りだしたりはしない。

 何処からか姉バカって聞こえた気がするが、きっと莉乃姉には届いていないだろう。


「さて、ではそろそろ練習を始めようか。あぁそうだ真也、流石に体術は使うなよ?」

「いや、それくらい判ってる。剣道してる相手に回し蹴りとか入れたら反則だろ。」

「うむ、まぁ真也なら大丈夫だな。では皆、準備運動をしっかりしたら始めてくれ。」

『はい!』


 部員たちはそれぞれパートナーを選んで、軽い運動やストレッチを始めだす。

 俺は莉乃姉に言って竹刀を借りると、端の方でその感覚を確かめる。

 ここ何日か触ってなかったから、素振りくらいはしておくか。

 暫くすると、各自が莉乃姉に申告し、試合を始めた。

 きちんと礼をし、気合の掛け声と共に相手へと打ち込む。

 剣道独特のあの音が、広い道場に響く。

 へぇ、結構いい動きをするな。

 審判をしている莉乃姉も、満足そうな笑みを浮かべている。

 一太刀ごとの気迫、その後の立て直し。

 流石は県大会でも好成績を収めるだけはある、皆綺麗な太刀筋だ。


「あの桐生さん、お手合わせ願えますか?」

「あ?あ…あぁ俺とか、判った。莉乃姉、次入るぞ。」

「早速申し込まれたか。ふむ、酒井か。よし、全力を出せよ。」

「はい部長!」


 防具に身を固めた酒井という男子が、俺とは反対の方へと歩いていく。

 俺も竹刀を掴むと、後に続いた。

 中心に向かって歩き、間合いを取って止まると、互いに礼。

 俺はちゃんとした礼なんて知らないから、とりあえず頭を下げただけ。

 しんと静まった中、竹刀を正眼に構える。

 莉乃姉が手を上げて、それを下して叫ぶ。


「始め!」

「はっ!」


 合図と同時に踏み込んできた。

 柄を片手で短く握っての胴狙い、警戒してるのか速度重視だ。

 ふん、居合か。

 先手には相応しい一太刀だな、純粋に速い。

 でも、予想外って程でもないな。

 軽く、だが確実に間合いの外に逃れるステップで躱す。

 まさかこの速度を受けずに躱されると思っていなかったのか、すぐには切り返してこない。

 そのがら空きの胴に向かって、俺は片手で持った竹刀を叩き込んだ。

 パァン!


「一本!」

「なっ!?」

「まぁ、久し振りならこんなもんか。」


 竹刀を下して頭を下げると、俺は黙って背を向けた。

 相手の男は信じられないようで、動けずに、打ち込まれた胴体を睨んでいる。

 周りの部員たちも、何事かを囁きあっている。


「どうだ酒井、真也と試合した感想は。」

「一番槍は俺が!…とか思ってたんですけどね、強すぎますよあの人。」

「何故負けたのか判るか?」

「そうですね、まずは純粋に速さでも負けていました。でもそれよりも、戸惑い…いえ、迷いのなさでしょうか。」

「それが判れば上出来だな。次は相手を図り損ねず、きちんと次の動きも予測しろ。」

「はい、更に鍛練を続けます!桐生さん、ありがとうございました。」


 俺は振り返りもせず手をひらひらと振って、また床に立て膝で座る。

 流石に今の試合を見た直後じゃ、俺に挑む奴はいないらしい。

 特にすることもなく、練習相手もいないまま、大人しく他の部員の試合を観戦する。

 予想はしてたが、やはり俺の相手になれそうな奴はいなかった。

 暇を持て余しながら、午後の予定に思考を巡らせる。

 午後になったら適当な理由をつけて抜けよう、部活がいつまで続くか判らないし。

 そしたら忠勝さんのとこで花を買って、駅に行く途中でお供え物も買おうかな。

 ………そういえばここ最近隣駅に毎日行ってるな、毎回目的は達成できないが。

 最初は駅前のヤンキー、次は……名前は忘れたけどアホ。

 今日はどんな馬鹿に振り回されるのかね、二度あることは三度あるっていうしな。

 まぁ、三度目の正直って考えるか。

 意識を目の前に戻すと、既に幾つかの試合も終わり、次の組み合わせも決まっていないようだった。


「よし、そろそろあたしもやるか。真也、やるぞ!」

「これが終わったら帰るからな、俺も用事があるし、他の奴らも俺には挑んできそうにない。」

「まぁあれだけ初戦から見せつけたら怖気ずくさ。それにその用事、あたしも付き合うぞ。」

「何処に行くのか判ってんのか?」

「あぁ、日曜ってことは一つしか思いつかない。あたしも最近は忙しくて行ってないから、できれば一緒に会いに行こう。勿論帰りの買い出しも手伝う、だから部活が終わるまで待て。」

「チッ、仕方ないな。何時までだよ部活は。」

「2時には終えようと思っている。今日は休日だし、まだ大会も先だからな。」

「ま、それくらいならまだ時間もあるか。」

「ところで真也、負けた方が一つ言うことを聞くというのはどうだ?」

「断る。」

「むぅ、ダメか?」

「莉乃姉の上目遣いが効くと思うのか?」

「なにぃ!?何故だ!」

「大好きな食べ物だって毎日のように出されたら嬉しくなくなるだろ、それと同じだ。」

「………お?つまり真也はあたしが好きだと!」

「………やっちまった。」

「そうだったのか、いやいや嬉しいよ真也!」

「違うっ!誤解だ!話を聞け、今のは言葉のあやだ!」

「いやぁあの真也がこんな人中で告白とは、流石のお姉ちゃんも不意打ちだった。うむ、あたしも当然オーケーだ!そうだな、真也がこんな素敵に愛を囁いてくれたんだ、あたしも何かで答えなければ!よしっ、キスするぞ真也!勿論今ここでだ!」

「だから誤解だって言ってんだろ!」


 周りから笑い声が響き始める。

 クソッ、流石に顔が熱い。


「………お二方、夫婦漫才は余所でお願いします。」

「おっと、すまないな逢坂。つい嬉しくって我を忘れていた。」


 審判役で近くに立っていた逢坂と呼ばれた少年が、呆れた顔で溜め息を吐いた。

 すると逢坂は、何故か俺を睨みつける。


「桐生さん、貴女も貴方です。そういう発言はもう少し場所を選んでいただけますか?」

「あ?だから莉乃姉の誤解だって言ってんだろ。」

「誤解される言い方をした貴方にも責任はありますよ。」

「…喧嘩売ってんのかテメェ。」

「そうですね、ボクは貴方みたいな人は嫌いです。」

「はいはいそこまで。」


 睨み合う俺たちの間に莉乃姉が割って入る。


「いきなりどうした、真也も落ち着け。」

「チッ、何だよこいつ。」

「それはボクの台詞です。…何故よりにもよって貴方が。」

「桐生くん止めようよ!龍矢くんも!」


 見ていられなくなったのか、御奈坂まで止めに入ってきた。


「緋結華さん、何でこいつを庇うんですか!この人は緋結華さんを…。」

「それは関係ないよ、今のは龍矢くんの言い方も悪いです。」

「う……。」

「まぁまぁ二人とも、とりあえず大事になる前に止めろ。」


 今にも互いを殴りそうな俺たちを引き離すと、莉乃姉はぽんと手を叩いた。


「よし、男なら戦って勝負をつけろ。」

「剣で勝負ってことか?」

「それは面白いですね。」

「小湊部長!」

「御奈坂、お前なら判るだろ?逢坂は負けず嫌い、真也だって同じだ。なら、思いっきり戦わせた方がスッキリするさ、勿論一本勝負でな。」

「すぐに莉乃姉倒してテメェも倒す。」

「え…真也?」

「小湊部長の後だから疲れてたなんて言い訳、しないで下さいね?」

「テメェこそ、下らない言い訳なんてしねぇよな?」

「し、真也く~ん?」

「よし、とっとと終わらす。莉乃姉、やろ……う?」


 莉乃姉に目を向けると、何故か体育座りでいじけていた。

 ………あん?

 知らない間に莉乃姉が凹んでる。


「おい莉乃姉、どうした?」

「…真也に無視された。」

「は?」

「…あたしは所詮前哨戦なんだ、適当に叩かれて終わりなんだ。」

「あ…あのさ莉乃姉、とりあえず落ち着いてくれ。」

「……させないぞ。」

「は?」


 莉乃姉は不意に立ち上がると、俺に向かって竹刀を突きだして叫んだ。


「真也になんて負けてやるか―!逢坂と戦う前にあたしが真也をボコボコにして倒してやる!それでもう一度、しっかり告白させてやるぞ!」

「何か話がおかしくなってるぞ!?」

「おい逢坂!」

「は、はいっ!?」

「お前と真也の勝負、あたしが預かるぞ。」

「はい、お願いします!」

「あの、小湊部長?」

「御奈坂、お前も危ないからさがっていろ。今宵のあたしは真也に飢えておる。」


 …きっとツッコんだら負けなんだろうな。

 もはや先程までの諍いもどうでもよくなった。

 それは逢坂も同じようで、溜め息を吐きながら審判の位置に移動する。

 クソッ、かったりぃことになった。

 まぁ色々と失言だったのは認めるが、まさかこんな事態を招くとは。

 俺は溜め息を吐いてから、しっかりと竹刀を構えた。

 御奈坂は不安そうな顔をしつつも、他の部員たちの所へとさがっていく。

 正面の莉乃姉に目を向ける。

 既に真剣モードなのか、目には一切の揺れもない。

 …あぁ、そういうことか。

 俺たちの諍いを有耶無耶にするために、わざと大事にしたんだな。

 大きな火災は、それ以上に大きな爆発で吹き飛ばすのと同じだ。

 やれやれ、迷惑を掛けたみたいだな。

 ……まぁ、若干怒っているのは事実みたいだが。

 逢坂が莉乃姉と同じく片手を上げて、俺たちも竹刀を構える。


「始め!」

「はぁっ!」

「っ!」


 莉乃姉は掛け声を上げ、俺は無言で一歩を踏み出す。

 今朝に振り下ろした竹刀が交差し、パァンと大きな音を立てた。

 莉乃姉が悔しそうな顔をしながら、フェイントを入れた横薙ぎを入れてくる。

 最初の一太刀、大抵はここで互いの実力差に気付く。

 腕相撲で相手の手を握った時に、掌から感じるようなもの。

 今の一瞬、莉乃姉は敏感にそれを感じたはずだ。

 まだ、莉乃姉は俺に勝てない。

 いや…もう勝てないと言うべきか。

 まだお互いに小さかった頃は、毎日のように俺は負けていた。

 俺に勝つたびに嬉しそうに笑う莉乃姉を見て、俺は子供心にこう思ったんだ。


「男の俺が女に負けてるようじゃダメだ。」


 悔しくて情けなくて、俺は必死になって鍛えた。

 それに、俺はもう負けるつもりはない。

 あの夕陽が妙に眩しかった日に、死にたくなるほどに打ちのめされたから。

 どんな状況だろうと必ず相手だけは守れるように、俺は強くなったんだから。

 だからさ莉乃姉。

 ………悪いが、莉乃姉に負けるようじゃダメなんだよ。

 本気でやらせてもらうぞ。

 莉乃姉の逆袈裟斬りを僅かに身体を反らして躱す。

 もうここから、俺は一切の攻撃を受けない。

 弾くことも、いなすこともしない、全て躱す。

 ただ一太刀だけで、終わらせてやる。

 足を少しずつずらし、常に莉乃姉の側面へと移動していく。

 もう初めの怒りはないのか、莉乃姉の目つきは真剣だ。

 だが冷静になると同時に、驚きも隠せなくなる。

 絶えず相手の次の手を予測し、最小限の動きだけでそれを躱す。

 それはまるで柳が風に揺れるような、自然の動き。

 風に舞う綿を斬り裂けないのと同じ、僅かな風圧さえ己の追い風として味方につける。

 さて、莉乃姉はどうやって攻めるのかな?

 焦れて無駄な力が入るか、或いは冷静に静かなる一太刀を振るうか。

 三度だけ、見極める。

 一つ、袈裟斬り。

 鋭く放たれたそれは、しかし戸惑いからか無駄な力が入っていた。

 ダメだ、それでは当たらないよ莉乃姉。

 二つ、返す刃。

 目つきが変わったそれは、冷静に小手を狙った一振り。

 だがまだ違う、速さに頼るのでは綿を斬り落とせはしない。

 三つ、胴を狙う払い。

 少しずつだが、感覚を掴んできたらしい。

 流石は莉乃姉、驚異的な順応性だな。

 僅か三太刀でこの動きに合わせようとするとは、そのうち本当に当ててきそうだ。

 だけど、今日はもう終わりにするぞ莉乃姉。

 四つ、俺は更なる動きを加えた。

 それはただ躱すだけではなく、そのまま背後へと回る動き。

 風の流れに身を任せ、振りぬかれた竹刀が起こす風に乗り、滑らかに背後へと流れる。

 莉乃姉は竹刀を振りぬいていて、後ろには攻撃できない。

 追撃の為に制御した攻撃は、二の手を考えて振るわれる。

 そもそも後ろを取られると思っていなければ、そのまま攻撃を繋げるだなんてできやしないのだ。

 俺は無言で、莉乃姉の首筋に竹刀をそっと当てた。


「終わりだな莉乃姉、俺の勝ちだ。」

「……あんな動き、いつの間に使えるようになった。」

「あー…実は結構昔からだ、単に使わなかっただけ。」

「くそぅ、真也に弄ばれた。」

「いちいち誤解を招くようなこと言うな!」


 ったく、かったりぃな。

 悔しそうにしている莉乃姉を見ていると、いきなり逢坂が俺に話しかけてきた。


「貴方…小峰宗十郎と言う御方をご存知ですか?」

「は?何だよ突然。」

「答えて下さい。」

「答える義理はないな。」

「………。」


 いきなり質問してきたと思ったら、今度は黙りだす。


「はぁ………そんな奴知らねぇよ、これでいいか?」

「あの動きは何処で習いました?」

「質問ばっかだなお前。」

「………。」


 また無言か、さっきまでの威勢は何処へやら。

 莉乃姉もよく判らないらしく、俺と逢坂を交互に見て戸惑っている。

 意味不明だ、何故こいつに自分のことを話さなきゃならない。


「もういい、面倒だから俺は帰るぞ莉乃姉。」

「なにぃ!?あたしとのデートはどうするんだ!」

「知るかよ。莉乃姉とはちゃんと勝負したんだし、目的は果たせたんじゃないのか?」

「むぅ、確かに今のあたしの実力は判ったが……いや待て、部活が終わるまで待っててくれる約束は?」

「そんな約束したか?」

「しただろう!あたしも真耶に会いに行きたいし、少しくらい待っててくれ。」

「はぁ、なら終わるまで別のとこにいるよ。ここにいると面倒だし、何より場違いだろ。」

「すまん……やはり居心地悪かったか?」

「別に謝らなくていい、単に真面目に頑張ってる奴らの中にいるのが嫌なだけだ。……じゃあな。」


 竹刀を莉乃姉に渡すと、俺はすっかり冷めた空気の剣道場を後にした。

 とりあえず屋上にしよう、休みだし人はいないはずだ。

 無人の校内に入ると、いつものように階段を上る。

 普段は人の気配に満ちたここも、今は静かだ。

 遠く聞こえる喧騒も、反響して何だかぼやけている。

 それは一種の心地よさを感じるとともに、否応なしに自分は今独りなのだと、そう思わせる響きだ。

 外界と遮断された巨大な箱の中で独り、窓の向こうに思いを馳せる人形のように。

 それに違和感はない、ただいつもの自分と変わらない。

 教室にいようと、莉乃姉といようと、何処にいようと変わらない虚無感。

 胸の中に空いた空洞。

 結局、何処にいたって俺は独りだ。

 それを悲しいとも感じられないのは、とうに冷めきってしまったからなのか、何か大事なものを落としてきちまったのか。

 ……どちらにしても、あの日からだな。

 姉さん、俺はまだ頑張って生きてるよ。

 姉さんが残してくれたこの命を、姉さんの分まで全うするために。

 涙はもう流さない。

 涙は大切な人のために流すものだと、姉さんは言っていた。

 なら、自分のためには流せない。

 やっぱりまだ、俺は心の何処かで死にたいと願っている。

 でも俺がまだ生きているのは、姉さんへの償いを終えてないからだ。

 いつまでも終わらない罪への贖い、それが生きる理由。


 ―――まるで、既に亡霊みたいだ。


 屋上に着くと、当然のように誰もいなかった。

 入口から一番遠いベンチに横になると、空をぼんやりと眺める。

 空の青は遠く、春の終わりが近いのだと教えてくれる。

 梅雨が過ぎれば、暑い太陽が街を照らすだろう。

 爽やかな夏がくれば、夏休み。

 今年はあの場所に行こう、あそこは二人の想い出の場所だから。

 思い出すのは、見渡す限りの青い海と、緑萌ゆる太古の森。

 そして、森の先にある小さな丘。

 でも、一人で行くのは初めてだな。

 いつも隣には姉さんがいて、俺の手を引いていた。

 身体も大きくなって、もうそんな歳じゃないって言ってんのに、嬉しそうな笑顔で。

 ………チッ、どうしちまったんだ俺は。

 感傷に浸るなんてらしくない。

 俺はそんな事すら、許される人間じゃないのに。

 目を閉じて、無心になろうとする。

 すると、屋上の扉が開く音がして、誰かの気配がした。

 こんな休みに屋上へ来る物好きが他にもいるのか。

 気になって体を起こすと、来訪者を見る。

 そこには、袴姿のままの御奈坂緋結華が立っていた。

 御奈坂は少し息を切らし、俺の姿を認めると安堵の表情を浮かべた。

 なんでだよ。

 なんで、まだ追ってきたんだ。

 俺は御奈坂を睨みつけた。

 大抵の人間ならまず近寄らない眼光を、御奈坂に叩きつける。

 表情が揺らぐ。

 そうだ、そのまま引き返せ。

 俺に関わっても、お互い何の益にもならないんだから。

 だが、御奈坂は一歩を踏み出した。

 辛そうに顔を歪めながらも、また一歩、また一歩と近づいてくる。


 ―――そもそも、本当に辛かったのはどちらだったのか。


「来るな!」


 御奈坂がビクッと震え、目を瞑って立ち止まる。

 怖いはずだ、苦しいはずだ。

 そんな泣きそうな顔をしてるんだから、辛くないはずがない。

 なのに何故、お前はその恐怖に立ち向かえる?

 どうしてまだ関わろうとするんだ?

 そうまでして俺の所まで来ても、俺はお前に何も渡すものなんてない。

 逃げてしまえよ。

 まだ一線を越えていない今なら、振り返り、校舎を出て、剣道場に戻るだけでいいんだ。

 そこにはお前を大切に思ってくれる、お前に喜びや楽しさを与えてくれる友達がたくさんいるだろ。

 俺はお前を見ているのが辛いんだ。

 だから、来るなよ。

 それでも、御奈坂は歩いてきて。

 遂に目の前で止まった。

 今にも泣きそうな顔と、俺に合わせられない視線。

 拳は固く握られていて、少しだが震えている。

 だが目を閉じて、再び開いた瞳には……俺にはない強さが宿っていた。


「桐生…くん。」

「黙れ!近寄るな!」

「っ!………ううん、嫌です。」

「何なんだよ!何故俺につきまとうんだ!」

「それは、桐生くんと友達になりたいからです。」

「意味が判んねぇよ!こんな…酷いこと言われて、冷たくされて、それなのに何故だ!俺に関わらなくても、他に幾らでもいるだろ!」

「いいえ!桐生くんはこの世界にたった一人、他にはいません!私が友達になりたいと思った桐生真也は、貴方しかいないんです!」

「ふざけんな!そんなの理由になるか!」

「最初は…勧誘のつもりでした……剣道部の。桐生くんは強そうだし、不良みたいな格好してるけど絶対優しい人だって、一目見て思ったから。だから一緒に剣道やらないですかと、そう言うつもりでした。」

「はっ、なら答えは“断る”だ。もうこれで終いじゃないか。」

「いいえ、今はもう剣道部に入ってほしいとかじゃないんです。最近まで話し掛ける勇気が出なくて、でも何度か話すことができた。でもあの夜に怪我してても助けを求めない桐生くんを見て………とても寂しくなりました。あぁ、この人はきっとすごく孤独なんだろうって。」

「だから何だ、全部お前の想像じゃないか。」

「でも私は桐生くんが誰かを頼っているのを見たことがありません。小湊先輩と一緒にいる姿も見てましたけど、それでもいつも頼るのは小湊先輩の方だと思いました。」

「見てただと?お前一体いつから…。」

「入学した時からですよ。入学早々から校内の不良に絡まれ、たった一人で全員倒した新入生って有名でしたから。」


 ……チッ、確かに初日から髪の毛のことで目をつけられて絡まれたな。

 まぁ御奈坂が言うとおり、俺はそいつらを公衆の面前でまとめてブッ潰し、いきなり校内最恐の不良となったのだが。

 俺は正当防衛とはいえ一週間の謹慎。

 まぁ当然だろう。

 たった一人だったとはいえ、ほぼ全員が病院送りという怪我を負ったのだから。

 莉乃姉がきちんと弁護してくれていなければ、今俺はこの学校に通えていないだろう。

 不良たちは良くても一ヶ月の謹慎、主犯の何人かは退学だ。

 それに、謹慎食らった奴らもそのほとんどが辞めていった。

 それほどの大事件だ、俺を知らない方がおかしい。


「でもその時でさえ、桐生くんは小湊先輩を頼らなかったと聞きました。以前気になって聞いた時に、先輩は寂しそうにそう言っていましたよ。あいつは最後まで退学しようとしていたんだって、だからあたしが止めたんだと。」

「クソッ、莉乃姉め余計なことを。」

「それに、桐生くんも小湊先輩も目立ちますから。当時次期生徒会長と噂されていた小湊先輩と、最恐の新入生が仲良さそうに歩いていたら誰でも見ますよ。」


 確かに、俺と莉乃姉は異例の組み合わせだ。

 莉乃姉は最強無敵の正義の人で、俺は最恐になった不良。

 幼馴染と知らない連中からしたら、そのまるで正反対の二人が一緒にいるだけでも興味を持つだろう。

 だがだからといって、俺に話しかけてくる人間は皆無だった。


「私も当時はまだ怖かったです。あんなにも大勢を一人で倒してしまう人を見たことがありませんでしたから。学校外でも桐生くんが不良に絡まれていたって話はよく聞きましたし、実際翌日は怪我してきてましたから、皆ますます怖がっていました。」

「そりゃそうだろ。そんな奴にわざわざ話し掛けようとするのは、頭のおかしい剣道女くらいだ。」

「確かに私は他の人たちと少し違いました。普通はそんな光景を目にしたら怖くなるのに、私は段々とこう思うようになっていきました。実はこの人は優しいのではないかと。」

「頭のネジを何処かに棄ててきたのかテメェは。」

「あはは…そうかもしれませんね。それからはよく見てましたよ。でも桐生くんは、一度も普通の生徒を殴ったりはしませんでした。それどころか話し掛けようとも、関わろうともしなかった。だから思ったんです、私が話し掛けてみようと。」

「いよいよ医者に行った方がいいな、イカレた医者なら紹介してやるぞ。」

「あはは。でも、話し掛けて良かったです。話し掛けなかったら、桐生くんが思いやりをもった優しい人って知りえませんでしたし。」

「さっきから聞いていりゃ俺が優しいだとか孤独だとか、随分寝言を言うじゃねぇか。孤独はともかく、人に対して暴力振るうのも躊躇わない人間だぞ俺は。それをどんなおかしな脳内解釈すれば優しいとか言えんだよ?何なら今すぐテメェをブッ飛ばしても構わない。」

「もしそうだとしても、桐生くんは私を殴りませんよ。」

「はっ、何を根拠に。」

「勘…ですかね、私の勘です。」

「………。」


 勘…だと?

 そんな不確かな感覚を信じて、友達になりたいだなんて願いを叶えようとしてるのか?

 ……判らない、そんな行動原理は。

 こんなにも冷たくされて怒鳴られて、そんなことをされるきっかけが勘だなんて。

 ……馬鹿げてる。

 そんなの、まるで釣り合わないじゃないか。

 俺と友達になるまでに受けた仕打ちと、俺自身の価値が釣り合わない。

 偽物を高値で騙されて買うのと同じだ。

 しかもこいつは、騙していますと告げられた上でなお、自分の勘では値打ち物なので買いますと、悪徳業者ですら罪悪感に駆られるほどの笑顔でそう言うのだから。

 だがそんなことを平然と言ってのける人間が、この色褪せた世界に一体どれほど少ないか。

 退屈なまでに過ぎていく日々と、自分のことで手一杯な生活。

 そんな人生を過ごす中で、他人を気にかけて、友達にまでなろうとする。

 正直、俺には過ぎた人間だ。

 真耶姉さんにそっくりな少女。

 俺はきっと、その優しさに甘えてしまう。

 真耶姉の時みたいに、依存してしまう。

 それはダメだ、それは判ってる。

 そうなれば、俺はこいつを守ろうとするだろう。

 弱いままの俺に、それができるとは思えない。

 莉乃姉すら守れるか怪しい俺が、二人も守れるか。

 ならまた突き放して、冷たい態度で、今度こそ徹底的に関わらない方が正しい。

 でもきっとこいつは…、御奈坂は諦めないんだろうな。

 逃げてばかりの俺とは正反対だ。

 そんな強い奴から、この先ずっと逃げ切れるのか?

 クソッ、どうしたら良いんだよ。


 ―――しんや、あなたならだいじょうぶだよ。


 まただ、また聞こえる。

 幻聴なのかも、もう判らなくなってきた。

 最近になって聞こえ始めた、真耶姉さんの声。

 まるで優しく包むように、俺に語りかけてくる。

 助言なのかな、これは。

 俺はそこまで姉さんを…。

 自分で答えが出ないなら、他人に答えを委ねても良いのか?

 ……もしこの声が真耶姉さんの言葉なら、信じても良いかもしれない。

 俯いたままで、話しだす。


「俺は……ろくな人間じゃないぞ。」

「あはは、私は気にしませんよそんなこと。」

「厄介なことに巻き込まれるかもしれないぞ?」

「むしろ二人の力で乗り越えましょう!桐生くんには小湊先輩もついてます!」

「…チッ、物好きだなお前は。」

「緋結華。」

「は?」

「御奈坂緋結華、私の名前です。良かったら、緋結華って呼んでください。私も真也くんって呼びますから。」

「……勝手にしろ。」

「はいっ、そうします!」


 きっと御奈坂は笑顔を浮かべているだろう。

 でも、俺は顔を上げられない。

 見えないけれど、酷い面をしているから。

 男としてみっともないくらい、酷い面を。


「おい、御奈坂。」

「はい、何でしょうか?」

「お前、部活はいいのかよ。」

「………あ。」

「……はぁ、急いで戻れ。」

「はいっ、そうします!真也くんもよかったら一緒に…。」

「俺はいい、莉乃姉に屋上とだけ伝えておいてくれ。」

「はい、判りました!それじゃあまた!」


 走って屋上を飛び出していく御奈坂。

 急に静かになった屋上で一人、空を見上げる。

 何処までも晴れ渡った空が、ほんの少し胸の孔を埋めてくれた気がした。


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