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Day.2 雨はまだ止まない

迫りくるトラック。

何かが、吹き飛ばされる音。

両手を染める。

赤。

綺麗な赤。

頬に触れる。

手。

真っ赤に染まったそれは、僅かに俺に触れて、落ちていく。

目の前にあるのに、俺の手は伸ばしても届かず。


―――世界が、白く染まる。


………。


「おーい真也―、そろそろ起きろよー!」

「ん………あ?」

「本当にお前は朝が弱いな、まったく。」


布団が剥がされ、少しだけ冷たい気温に晒される。

あぁ、朝か。

慣れないな、この夢にも。

毎朝突きつけられる、生の感覚。

生かされた身体が、再び動き出す。

頬を拭う。

そこには今日も、乾いた跡があった。

視線を動かすと、制服エプロン姿の莉乃姉が俺を見下ろしていた。

だが何も言わない。

莉乃姉は無表情に背を向けて、小さなキッチンに戻っていく。

知っていたんだな、俺が毎日夢に見ていることを。

寝ている間に、女々しく泣いていることも。

無表情はきっと、莉乃姉なりの気遣い。

お互いにまだ、乗り越えられていないから。

今、二人で涙を流したら、収拾がつかなくなる。

だから莉乃姉は耐えた、精一杯無表情になるように。

なら俺も覚めないと、いつまでも汚い面を晒してはおけないな。

無言でベッドから抜け出して、そのまま風呂場へ。

シャワーで済まし出てくると、テーブルには案の定シチューと、軽いサラダが並んでいた。

…今日くらいは食べるか、莉乃姉のシチューは美味いからな。

制服に着替えて大人しくクッションに座る。


「いただきます。」

「たんとおあがり。」

「年寄り臭いぞ莉乃姉。」

「いいから黙って食え」

「はいはい。」

「因みに今日の隠し味は……愛だ!」

「ごちそうさま。」

「……他にも色々と新たな試みがってなにぃ!?食べなさいよ!あたしが時間かけて作ったんだぞ!」

「あぁ、隠し味を本当に隠してくれてりゃ食えたんだがな。」

「どういう意味だ!あたしの愛は食べられんと言うのか!」

「莉乃姉の愛は特に鬱陶しそうだからな、全力で願い下げだ。」

「ふっふっふ、いかな真也であろうと真の隠し味を見ては食べる気にならざるを得まい!」

「何だそりゃ、また訳の分からないもん入れたのか?」

「探してみるがいい、すぐに解るぞ!そして真也はそれを思わず口に運んでしまうだろう!」


何なんだこの自信は、どうしたらこんなテンションになるんだ。

とりあえず湯気の立つ鍋の中をおたまで混ぜてみる。

すると、何か薄くて大きなものが出てきた。

………湯葉か?


「あたしの脱ぎたてパンティだ!」

「こいつアホだ。」

「なにぃ!?何故だ!あたしのパンティだぞ、脱ぎたてだぞ、普通食いつくだろ!」

「ふざけんなボケ!誰がシチューまみれの下着に食いつくんだ!お前は俺をどんな性癖にしたいんだよ変態め!食べ物粗末にすんなアホ!」

「ボケとかアホとか言いすぎだ!……いやしかし、真也がここまで興奮するとは、やはり入れて正解か!?」

「んなわけあるか!これを正解だとぬかす奴は頭がイカレてるわ!」

「そうか、真也はブラの方が良かったか、迂闊だった!次は失敗しないぞ!」

「次なんてねぇよ!もし入れやがったらお前の口に無理矢理捻じ込んでやるからな。」

「つまらん奴だなぁ、素直にわーいお姉ちゃんのブラだはぁはぁと欲情できんのか。」

「よーし歯を食いしばれ、重いの一発いくぞ。」

「あーっはっはっは!さて学校行くか真也。」

「誰がお前みたいな変態と一緒に行くか。」

「いいじゃないか、手を繋いで行けばあたしとの親密度アップだぞ。」

「はぁ、もう黙っててくれ、頭が痛くなる。」

「お、なら勝負はあたしの勝ちだな!まだまだあたしには勝てないな真也は、はっはっは!」

「ったく、いつから勝負に発展したんだよ。」

「人生は何事も勝負なのだ!」

「訳わかんねぇ。」

「あっはっは、真也は可愛いな、ついつい苛めたくなる。」

「莉乃姉は馬鹿だな、もう話したくなくなる。」

「し、真也に嫌われた!?何故だ!?」

「嫌われないと思っていたことが何故だ?」

「あっはっは、学校行くか!待っていろ、すぐに食器を洗ってしまうからな!」


莉乃姉はシチューとサラダにラップをして冷蔵庫にしまうと、素早く汚れた食器を洗い始める。

ふざけていない時の莉乃姉は普通に絵になるのだが、どうにもここではテンションが上がるようだな。

それだけ普段から他じゃ気を張っているということなのか。

ふと莉乃姉の手元を見ると、一生懸命さっきのパンツを洗っていた。

………まさか、あれをまた穿くのか!?


「よし終わった、行こうか真也。」

「あ、あぁ。」


腑に落ちないまま頷くと、莉乃姉は食器と一緒にパンツを乾かし始めた。


「そこに干すのかよ!?」

「え、ダメか?」

「そこは食器を乾かすところだろうが!」

「それもそうだな。よしっ、ちゃんとベランダに干そう。」

「そうだな……って、いやいや持って帰れよ!」

「何だ、ベランダに干す分には自然だろう。」

「男の一人暮らしのベランダに女物の下着が干してあったら十分不自然だ!」

「違うぞ真也。」

「あ?」

「パンツではなくパンティだ!」

「どうでもいいわ!」

「いや大事だろ!なんかこう……エロさが。」

「いいから持って帰れ、このビニール袋にでも入れろ。」

「チッ、仕方ないな。」


渋々といった表情でアヒルみたいに唇を尖らせながら、莉乃姉は洗った下着をビニールに詰めていた。

やっとボケが終わった、まったく疲れる。

鍵をかけて歩道に出ると、莉乃姉が大きく伸びをした。

空を見上げると、遠くの空に雨雲らしき灰色の雲が見える。

今日は降りそうだな、まぁ濡れて帰ればいいか。

隣を向くと、莉乃姉がスカートを押さえて顔を赤らめていた。


「どうした莉乃姉?」

「やっぱりパンティ穿いてないとスース―するな。」

「マジで穿いてきたのをシチューに入れやがったのか!?挙句替えの物も持ってきてないと?」

「あーっはっはっは、やっちまったぜ!」

「言ってる場合か!とりあえず部屋に戻ってドライヤーで乾かすか。」

「いや流石に冗談だぞ?」

「この女…。」


高笑いしながら先を歩いていく莉乃姉。

はぁ、溜め息しか出ねぇよ。

朝から壮絶に疲れながら、俺は学校へと歩きだした。



「おはようございます姉御!」

「うむ、おはよう。」

「今日も姉御は凛々しいッス!」

「そうだろうそうだろう。」


目の前で繰り広げられるコントに呆れて、俺は足早に離れていく。

何か後ろで莉乃姉が叫んでいる気がしなくもないが、面倒なので無視する。

彼らは毎朝莉乃姉を慕って挨拶に来る運動部の男たちだ。

かつて、莉乃姉が入学したての頃。

莉乃姉は体験入部した全ての運動部で、天は二物を与えずなんて言葉を余裕でぶっちぎるくらいに大暴れで活躍したらしい。

結局剣道部と弓道部に入ることにしたのだが、各部では彼女が卒業するまでは勧誘を続けていくことになっているようだ。

まぁ莉乃姉も気まぐれに助っ人を引き受けたりするみたいだし、勧誘し甲斐もあるだろう。

まさに生ける伝説と化した莉乃姉は、まるで家来を引き連れた女王のように堂々と校舎へ歩いていく。

あれで何故か同じ女子連中からも嫌われたりせずにいるらしい、流石は姉御肌といったところか。

まったく、あれが今朝からかましたボケを晒したらあいつらどんな反応すんのかね。


「桐生くん、おはようございます。」

「あ?」


後ろから突然挨拶されて振り返る。

そこには少し遠慮がちな笑みを浮かべた御奈坂が立っていた。

またこいつか、関わるなと言ったのに。


「昨日はごめんなさい。」


今度は突然謝られた。

思考が追いつかない、こいつとは相性が悪いのか?

なんていうか、考えがここまで読めないのは気分が悪い。

しかも、そのどれもが、完全な不意打ちのような言葉ばかりだから。


「……挨拶されるような間柄か?」

「え?」

「まぁ、お前の理論ではどうだか知らないが、少なくとも俺は挨拶される覚えはない。俺に関わるなと言っただろ。」

「う、うん。でも!」

「いいから、構うんじゃねぇよ。俺の近くにいると教師から注意されるぞ、それにろくなことにもならない。」


何か言おうとした御奈坂を置いて先に行く。

クラスメイトだから同じ場所に行くことにはなるが、なるだけ人と一緒にはいたくない。

特に…御奈坂はダメだ。

何となくだが、何かが変わってしまいそうで……、


……どうしようもなく不安になるんだ。


だがこれだけキツく突き放せば、もう関わろうとはしないだろう。

そもそもあいつといると調子が狂う、話さない方がいい。

…さて、今日も早く着いてしまったし、また屋上で暇を持て余すとするかな。



ノートを書く音が響く四時限目の教室。

ウチのクラスは真面目な奴が多いのか、他のクラスに比べてかなり静かだ。

俺は黒板に書かれたものをノートに写しながら、ふと視線を感じで顔を上げた。

…やっぱり御奈坂か、何なんだ一体。

朝のことがあってから、ずっと俺を見ては目を逸らすことを繰り返している。

休み時間には恐るおそる話し掛けようと寄って来るのだが、俺はそれが鬱陶しくて、毎回無視を決め込んで教室から出ていくようにしていた。

ったく、何で俺が逃げるような真似をしなくちゃならないんだ。

そもそも何が楽しくて俺に関わろうとするのかが判らない。

他の奴らなんて、俺の怪我を見ただけで距離をおこうとするのに。

何か用なのか、もしかしたらこの包帯を返してほしいのか?

それならそうと早く言えばいいんだ、手短に済ませられるだろうに。

なら、明日にでも新しい物を持ってくればいいかな。

そうしたら、このよく判らない状態も終わるだろう。


「よし、なら生類憐みの令とは何か、峰岸、言ってみろ。」

「オレッスか!?え、えーっと、生類…なまるいだから……生物は可哀想だから全て干物にしろ!みたいな感じで、大正解でしょ!」

「……はぁ、そうだな、もうそれでいい。」

「よっしゃ、たまにはやるぜオレも!」


ガッツポーズした彼を見て、教室中が笑いに溢れ、教師は頭を抱えて呆れる。

何だあれ、恐ろしいほどにアホだな。


「やれやれ。…すまないが桐生、答えてくれるか?」

「江戸時代に徳川綱吉が出した複数のお触れの総称で、こういった名前の法令があったわけではありません。犬が有名ですが、他にも魚や虫、人間の乳幼児まで範囲は広く決められていました。しかし綱吉が丙戌年だったため、特に犬が保護されました。」

「上出来だ、よく勉強しているな。峰岸も、桐生を見習って少しは勉強しろ!」

「へ―い。」

「では続けるぞ……、」


退屈。

勉強も、することがないから暇潰しに始めた。

でも最初の理由は、姉さんだったな。


「暇ならあたしを助けてよ、真也は勉強できるでしょ?」


 まったく、今更だが我が儘な理屈だ。

それに素直に従う俺もどうかと思うが、まぁ無駄にはならないからって始めたんだったな。

もう、教える相手はいないけど。

ふと、窓の外を見る。

黒い雲が、近づいていた。



昼休みになった。

さて、飯でも食べに行くか。

そう思い席を立つと、またも御奈坂がこちらへと歩いてきた。

いい加減ウザい、しつこいにもほどがある。


「あの、桐生くん…。」

「包帯…、」

「え?」

「返せばもうつきまとわないか?」

「そ、そういうつもりじゃないよ。返してもらう物でもないから。」

「じゃあ何だ?昨日と今朝の俺の言葉、聞いてなかったわけじゃないだろ?」

「勿論聞いてたけど、渡したい物があって。」

「何にせよ余計なお世話だな、俺は何も頼んでない。」

「でも、折角持ってきたから。」

「…はぁ、何だよ一体。」

「これなんだけど…。」


御奈坂が何かを差し出してくる。

それは女の子らしいハンカチに包まれた、四角い箱状の物体。

弁当…なのか?


「これを俺に?」

「うん、お母さんが渡しなさいって。」

「意味が判らねぇ、何故だ?」

「昨日桐生くんが買ってた物を見て、これじゃ栄養が偏るからダメだって。」

「はぁ!?」


お人好し一家かよ、度が過ぎるぞこれは。

なんだって突然倒れてやってきた娘のクラスメイトの食事まで気にする人間がいる、他人を気にかけないと死ぬ珍しい病でも患ってるのか?


「桐生くんいつも学食だし、私もその方が良いなって思ったから、うん。」

「あのなぁ御奈坂、別に俺の食生活に偏りがあったところでお前には関係ないだろ?それともお前は、周りの人間みんなの食生活を管理する委員会にでも所属してるのか?」

「違うけど……折角だから食べてほしい。」


クソッ、こいつ馬鹿だ。

こいつあれか、栄養バランスの大切さを伝えてまわる食の伝道師か?

……馬鹿馬鹿しい、アホか俺は。

はぁ、どうもこいつといると素が出そうになるな。

…仕方ねぇ、受け取らないと逃げられそうにないか。

こいつは妙に意思を曲げない節がある。

…こんなとこまで姉さんにそっくりかよ。


「判ったよ、今回だけはありがたく頂く。」

「ホントですか!?」

「ただし、今度こそ俺に関わるのは止めろ。」

「それより何処で食べましょうか?」

「………は?」

「ですから、何処かお昼休みでも空いてる所はないですかと。」

「ちょっと待て、一緒に食うのか!?」

「え、私も同じお弁当ですし。」

「いやいやおかしいだろ、お前いつも他の奴と食ってるじゃねぇか!」

「姫百合ちゃん…じゃなくて、龍矢くんには今朝から了承を得てます、今日はお友達と食べるからって。」


この状況も朝から計画してたってのかよ、ったく。


「………お前、結構強引なのな。」

「そうですか?」

「はぁ、もういい。なら屋上行くぞ。」

「でも屋上って人気高いですよね?」

「今ならまだ購買組は来てないだろうし、まだ間に合うだろう。」

「それなら行きましょう、昼休みは短いですしね。」


何か楽しそうに先行して歩き出す御奈坂。

ったく、振り回されてるな俺。

階段を上り、分厚い扉の前に並ぶ。

ワクワクしてますと言わんばかりのオーラを出す御奈坂をよそに、俺は扉を押し開けた。

案の定、まだ人もまばらな屋上。

主にカップルや女子同士が占拠していて、既に大半のベンチも埋まっている。

どうにもこうにも、入口に立っただけで居心地が悪い。

この空間で食うのか…やっぱやめよう、気まずすぎる。


「なぁ、言いだしておいてなんだがやっぱ別の場所に…。」

「あ、あそこのベンチ空いてますよ!誰か座らないうちに早く座っちゃいましょう!」


とてとてと小走りで端っこのベンチに向かう御奈坂。

おいおい、あいつ周りの状況お構いなしか?

溜め息一つして、嫌々ながらそちらに向かう。

御奈坂は既に弁当を膝の上に広げ、ビシッと箸まで構えていた。

その光景にまた溜め息を吐いて、仕方なく隣に座る。

なるだけ距離を離し、少しだけ背を向けた。

溜め息が止まらない、何だこの状況は。

学校でも成績が悪くなれば即退学になりそうな素行の俺が、このカップルの巣窟で、女子から貰った弁当持って、その女子と並んで飯を食おうとしてる。

……うわ、寒気のする構図だ。

莉乃姉に見られたら嬉々として高笑いしながら写真を撮りそうだ、想像するだけでウザったい。

食欲なくなってきたな。

ふと隣を見ると、御奈坂が嬉しそうに弁当を食べ始めていた。

…俺より弁当箱デカくないか?


「よく食うなお前。」

「ごふっ!」


急に話し掛けられて驚いたのかむせ始める御奈坂。

俺は溜め息を吐いてポケットに手を突っ込むと、御奈坂から逃げる口実に休み時間に買った珈琲を取り出して、御奈坂に放った。

手で口を押さえながらぺこぺこと頭を下げて、プルタブを開けると一気に飲む。


「苦いっ!」

「まぁブラックなんだから当然だな。」

「けほっけほっ、よくブラックなんて飲めますね?」

「甘いのは苦手なんでな。」

「私は甘いのしか飲めないので、いつもマスターに甘くしてもらってます。」

「マスター?」

「木野塚町にあるカフェのマスターです、とっても気さくな人ですよ。良かったら今度一緒に行きませんか?」

「行かねぇよ、珈琲なら家でも飲める。大体何で毎回お前は一緒になんだよ、誰彼構わず誘ってんのか?」

「誰彼構わずってわけじゃないですけど、一人より二人の方が楽しいじゃないですか?」

「俺は一人がいいんだよ、他を当たれ。」

「そんなこと言わずに行きましょうよ。」

「テメェ、俺の台詞全部聞き流してるだろ。」

「いえいえ、そんなことないです。それより、お弁当食べないんですか」


俺は手元にある封を解いていない弁当を見る。

やっぱ食わないと納得しないか。

御奈坂は既に食べ終わり、食後のプリンまで食べ始めている。

にしてもよく食うなこいつ、その割には太ってもいないし。

部活を頑張ってれば自然に痩せもするだろうが、それにしたってこの量は…。

まぁ関係ないか、もう今日限り話すことはない。

仕方なしに弁当を開ける。

中には色とりどりのおかずと、おかかを乗せた白米が詰まっていた。

う、普通に美味そうだ、コンビニ弁当じゃこうはいかない。

隣で笑みを浮かべている御奈坂を無視して、とりあえず一口食べてみる。

………美味いな、妙に癪だが。

二口目を口に運ぶ。

程よい出汁加減の卵焼き、こんなの中々食べられない。

その反応だけで十分だったのか、御奈坂は嬉しそうにプリンを食べ始めた。

チッ、まぁ別に弁当は悪くないからな、大人しく食べよう。

暫く無言で食べ続ける。

御奈坂はプリンまで食べ終えたのか、手持ち無沙汰に足をぶらぶらと揺らす。


「桐生くんって部活とかしないんですか?」

「さぁな、聞いてどうする?」

「やや、もしよければ剣道部なんて如何でしょうと思いまして。桐生くんって実はかなり鍛えてますよね?」


……何故気づいた。

確かに俺は日頃から武道を嗜んでいるが、そんなの莉乃姉くらいしか知らないはずだぞ。

莉乃姉は喋るとは思えないが、あの人は剣道部も部長を務めてるからな、こいつが話の弾みに聞いていてもおかしくはない。


「何故そう思う?」

「歩き方とか仕草に落ち着きを感じますし、立ち居振る舞いにも凛とした雰囲気があります。いい加減な鍛え方では中々そんな雰囲気出せませんし、実は相当の実力者なのではと思ったのですよ。」


…抜けてる奴かと思いきや、こいつ鋭い所に目をつけるな。

それにさっきまでと目つきが違う。

チッ、甘く見てたな。

物事の本質を見極める目を持ってる、多分本人は気付いていないが。


「さてね、知らねぇよ。俺は暇じゃないし、他人と馴れ合うのも嫌いだ、部活なんて興味ないな。」

「…桐生くんはもっと友達とか作った方が良いですよ。」

「黙れ、余計なお世話だ。何様でお前は俺に説教してやがる。」

「いえ…そんなつもりじゃ。」

「チッ、ウゼェ。俺のことに口を出すな、友達気取りも止めろ、鬱陶しいし迷惑だ。」

「うぅ。」

「お前の楽しみに俺を巻き込むな、誰もがお前みたいにはいかないんだよ。」

「差し出がましく友達作れとか言ったのは謝ります!でも、私は本当に桐生くんと友達になれたらなって思っただけで!」

「俺は望んでないしなりたくもない、お前の望みも知ったこっちゃない。もう二度と話し掛けるな。」


冗談じゃないふざけやがって。

ただの他人が指図だと?

少し話したくらいで調子に乗って、俺のことを知った風な口を。

弁当をたたみ、御奈坂に突き返す。

俺はそのまま無言で立ち上がると、俯いたまま動かない御奈坂を置いて、一人屋上を後にした。



放課後の並木通り。

俺は花を取り換えにまたここへ足を運んでいた。

だが気分は最高に悪い。

あの昼休みの後、流石にもう話し掛けてくることはなくなった。

それは喜ぶべきことで、本来ならいつもの俺に戻らないとおかしいのに。

何故、未だ気が晴れない。

クソッ、まさか今更になって罪悪感を感じてるのか俺は?

馬鹿馬鹿しい、あいつは他人だろう。

チッ、何なんだよ。

目の前で揺れる花弁に視線を落とす。

なぁ姉さん、俺は間違えたのか?


―――しんや、にげないで。


え?

今、姉さんの声がした…気がする。

幻聴とは、そんなにまいってたのか俺は。

でも、逃げないで…か。

逃げてたんだろうな、俺。

大切だと思える人を作りたくない。

だから、人から逃げてた。

でも、俺はまだまだ弱いんだよ姉さん。

もう、大切な人を失うのは嫌なんだ。

俺の手は、二つしかないから。

左手首を見る。

そこには、女性用のシルバーブレスレット。

真耶姉さんの形見。

触れる。

いつまでも変わらないそれは、今の俺みたいだ。

重たい気分のまま、俺は立ち上がった。

こんな時は、あそこに行こう。

昨日の今日だし、また邪魔が入るかもしれないけど、今は静かな場所にいたい。

駅に向かって歩き出す。

黒い雲が、もうそこまで来ていた。



何の妨害もなく、無事に公園に辿り着いた。

まぁあれだけ多数で攻めて負けたんだ、暫くは大人しくしているだろう。

長い階段を登っていく。

周りには生い茂る木々や、草が揺れる音に満ちている。

鳥の声はしない。

恐らく雨が近づいているからだろう、巣に戻っているのかもしれない。

湿った空気は、まだ涼しげに感じられる。

葉の隙間から零れ落ちてくる光は、少しだけ暗い。

着いたらすぐに降り出しそうだな、あまり長居はできないか。

階段を登りきると、そこは急に開けた場所になる。

小さなベンチが一つだけあり、その向こうには木の手摺りと、この街が見渡せるのだ。

人気スポットになりそうなものだが、ここまで来るのに恐ろしく長い階段を登らなきゃならないから、ここで人に会うことは稀だ。

だが、今日は違った。

一つだけのベンチ。

そこに誰かが座って、街を見下ろしている。

あれはウチの学校の制服だな、男か。

わざわざこんなとこまで足を運ぶ暇人が俺以外にもいたとはな、それもあの階段を登ってまで。

でも、今日は一人になりたくて来たんだ。

仕方ない、今日は諦めて帰るか。

だがちょうど背を向けようとした時、ベンチに座っていた男がこちらに振り返った。


「え、桐生?」

「お前は確か………ダメだ思い出せない、もしかしてクラスメイトか?」

「ちょ、オレのこと判らないのか!?」

「あ?知らねぇよ。」


睨みを利かせると、そいつは顔を引きつらせて一歩引いた。

だが別に逃げ出そうとするわけでもないらしい、まぁ俺も危害を加えるつもりはないんだけど。

つか、こいつって。


「桐生ってさ、クラスメイトの名前覚えてないだろ。」

「へぇ、生物は全て干物にするような奴も、それくらいは判るんだな。」

「覚えてんじゃねぇか!」

「あんな馬鹿げた解答する奴が他にもいたら、日本の将来が心配になる。」

「何っ!?あれはやはり間違っていたのか!?」

「いや、間違えたのは俺の方さ。お前のが大正解だ。」

「マジかよ!ふぅ、焦ったぜ。ならオレの名前も判るよな?」

「は?知るかボケ。」

「酷っ!?峰岸だよ峰岸!峰岸真幸!」

「興味がないし覚える気もない。」

「頼むよ!覚えてくれよ!覚えてもらえないと寂しいだろ!」

「そうかよ、じゃあ俺は帰る。」

「まぁまぁ待てよ桐生、一人じゃ退屈だから少し喋っていこうぜ!」


………最近の俺はしつこい奴に絡まれる傾向にあるのか

大体退屈なら一人でこんなとこまで来るなよ、やっぱ馬鹿だなこいつ。


「俺はお前に用もないし話すこともない。」

「ぬぉぉぉ!断られただとぉ!?桐生ってオレのこと嫌いか!?」

「好きでもないし嫌いとも思わない、そもそもまるで興味がない。」

「む、嫌われてないってことは喋ってくれるのか?」

「何を聞いてたんだお前、脳ミソ入ってねぇのか?」

「自慢じゃないが入ってないぜ!ってうぉぉ、オレは今どうやって生きてるんだ!?」

「一人でやってろ。」


今度こそ歩き出す。

茶番に付き合わされて疲れる一日だ、帰って休もう。

だが、不意に腕を掴まれて止められた。


「待ってくれ、聞きたいことがあるんだ。」

「離せ、馴れ馴れしいんだよテメェ。それに答えてやる義理もない、ウゼェぞ!」

「御奈坂に何かしたのか?」

「あ?」

「今日の昼休み、御奈坂と二人で何処かに行ったよな?それで桐生だけ先に帰ってきて、後から来た御奈坂は何か辛そうな顔をしてた。」

「だからどうだってんだ?」

「もし桐生が何かして御奈坂の元気がなくなったなら、オレは桐生を許せない。」

「何だテメェ、正義のヒーローのつもりかよ。」

「違う!オレは御奈坂が好きなんだ。だから御奈坂の顔を曇らせる奴は許せない!」

「はっ、知るかんなこと。で?俺が犯人ならどうするつもりだ?」

「やっぱり桐生なのか?」

「鬱陶しいから二度と話し掛けんなと怒鳴りつけただけだ、しつけぇんだよあの女は。」

「テメェ…。」

「何だ、やるのか?殴れるならやってみろよ、お調子者の馬鹿野郎が。」

「許さねぇ…ぜってー許さねぇ!お前に勝って御奈坂に謝らせてやる!」

「そりゃ面白くもねぇ冗談だ。やってみろよ、俺もちょうどイライラしてたとこだ!」


大振りな右拳が、俺の顔に向かって振るわれる。

はっ、所詮は素人の拳か、つまらないな。

腕を掴まれたままでも容易く躱せる。

上体を反らし、拳が過ぎたところでそのままヘッドバットを食らわせた。


「ぐわっ!」


掴まれていた腕も自由になり、たたらを踏んで体勢が崩れた峰岸の腹に蹴りを打ち込む。

くの時に折れた峰岸は、すぐに膝をつく。

手加減してこの程度か、話にならないな。

苦しそうに呻く峰岸を見下ろすと、そのまま鳩尾に爪先で蹴りを入れた。

もう暫くは動けないだろ。


「ざまあないな、これじゃ気も晴れやしねぇ。」

「………待てよ。」

「あん?」

「まだ………オレはやれるぞ!」

「はっ、下らねぇ虚勢を張んなよ。地べたに這いつくばって汚ぇもん垂れ流すお前がまだやれるだと?笑わせんなよテメェ、大人しく寝てろ。」

「お前に……謝らせるまで、………オレは…ゴホッ………諦めねえ!」


チッ、根性だけは人一倍か。

気絶すれば楽になんのに、無駄に耐えやがって。

…仕方ないな。

俺はもう一度鳩尾に蹴りを入れる。

声にならない呻きを上げて、峰岸はそのまま気絶した。

さて、面倒だが運ぶか。

不良なら放置するところだが、流石に学校関係者はまずいだろ。

あの病院、今日は開いてんだろうなぁ。

気紛れだからなあのオッサン、寝てなきゃいいんだが。

峰岸の鞄を掴み、峰岸の身体を担ぎ上げる。

ん、結構鍛えてあんなこいつ。

何かの運動部にでも入ってるんだろう、今日は部活サボりか?

肩に担いだまま下を見る。

そこには、長い長い階段。

………はぁ、かったりぃ。

俺は一歩ずつ、足元を確かめるように階段を降り始めた。



できる限り人気の少ない道を選びながら、俺は漸く件の病院に辿り着いた。

いい加減重い、流石に距離が長すぎたか。

冴塚診療所と書かれた建物の敷居を跨ぎ、ガラスの自動ドアを開けて中に入る。

しんと静まり返った診療所には、一切の照明が点いていない。

まぁいつものことだ、ここが開いてるかどうかも怪しいのは。

勝手に奥の診療室に向かう。

幾つか並んだベッドの一つに峰岸を寝かせ、鞄を適当に置いておく。

さて、とりあえずオッサン探すか。

無人の病院内を歩き、階段に行きつく。

二階は自宅になっていて、オッサンは呼びに行かないと降りてこない。

階段を登ると、きちんとと言うかおかしいと言うか、ちゃんと呼び鈴と扉がある。

一応チャイムを鳴らす。

……まぁ、出てきたことないからな。

勝手に扉を開けて中に入ると、靴を脱いで上がりこむ。

ったく、鍵くらいかけとけよ、無用心すぎるだろ。

入ってすぐの扉を開ければ、生活感のないリビング。

そのリビングのソファーで、白衣のオッサンはだらしなく寝ていた。

無精髭に癖の強い長髪。

医者としては最低の部類に入る見た目の悪さだ、よく医者になれたものだと感心する。

俺はいつもみたく、棚に置いてあるベルを軽く叩いた。

真鍮のベルが、高い音を響かせる。

音を聴いてもぞもぞと起き上がるオッサン。


「よぉ、起きたかよオッサン。」

「………チッ、何だテメェか真也。また喧嘩でもしたのか?飽きないねぇお前も。」

「何も言ってねぇだろ。とにかく起きろ、怪我人がいんだよ。」

「あ?今日はお前じゃねぇのかよ、珍しいな人を連れてくるなんて。」

「四の五の言ってねぇで下来いよ、じゃなきゃどうせずっと寝てんだろ?」

「ふ、まあな。」

「何でそんなに偉そうなんだよアホ。」

「チッ、わーったよ面倒だな。」


チッ、相変わらず医者の風上にも置けねぇオッサンだ。

頭をボリボリと掻きながら立ち上がる。

俺さえ見上げる長身、だらしないが整った顔立ち。

これで四十手前とか嘘だろって言いたくなるくらいに見た目が若い、それこそ最初は疑った。

だけど俺と同い年の娘に会ってしまっては、まぁ信じざるを得ない。

釈然としないが、腕もかなり良いらしい。

だらだらと歩くオッサンを引き連れ、峰岸が寝ているベッドに向かう。

…まだ気絶してんのか、こりゃヤバいとこ入ったかな。

起きてたらまた気絶させるつもりだったから、どちらでもいいっちゃいいんだが。


「こいつ起きたら手当しといてくれ。」

「お前と同じ制服だな、お前がやったのか?」

「だから何だよ?」

「いつものように放置してこいよ、わざわざ連れてくんな。」

「はぁ、アンタそれでも医者か?」

「資格持ってるって意味じゃ医者だな。」

「つまり特に自覚はしてねぇってことかよ。」

「あぁ、してねぇ。ま、とりあえず診といてやっから。」

「ん、頼むわ。」

「こいつ起きたら何て言えばいいんだ?」

「別に、何も言わなくていいぞ。適当に手当てしたら追い出せ。」

「お前のダチじゃねぇよな、何故わざわざ連れてきた?」

「詮索すんな、関係あるか?」

「まぁ、治療には関係ねぇな。」

「んじゃ、帰るわ。」

「テメェみてぇな糞ガキ、もう来んなよ。」

「はいはい、アンタもたまには娘の面倒見ろよ。」


悪態を吐きあって病院を後にする。

よくこんな関係が続くもんだ、普通なら殴り合ってても不思議はない。

冴塚恵(さえづかめぐみ)

高校に入ったばかりの頃、路上喧嘩して倒れてたのを助けられて以来こんな関係が続いている。

お互い他人には無関心なものだから、名前くらいしか知らない。

何故か金は取られない上にあまり詮索もしないから、俺としては助かってる。

オッサンの素性もいつかは知ることもあるだろうが、今は興味がない。

さて、無駄足食ったし、早く帰って休むかな。

ふと、空を見上げる。

あぁ、今頃になってなのか。

朝から優れなかった天気は、今になって雨雲に変わり、


―――雨が降り出した。


傘は持っていない。

まぁ駅までそう遠くない、急げばそれほど濡れないだろう。

走り出す。

暗く重い雲は、何故か俺を不安にさせた。



自宅の最寄駅に降り立った。

ここから暫く歩くことになるが、急げば大した時間でもない。

このもやもやした気持ちも、雨に濡れたら流されていくだろうか。

雨は本降りになってきたらしい、雨粒も大きなものになってきた。

段々と制服が重くなっていく。

長い前髪は、顔に張り付いて気持ち悪い。

体温は雨に奪われ、身体が冷たくなっていく。

このまま死ねないかな、そう頭をよぎるが、振り払う。

俺は死ねない、それだけはできない。

俺を守るために死んでしまった姉さんの分まで、少しでも長く生きなければ。

生きるのは辛い。

けどそれは俺への罰であり、償いでもある。

今の俺を生かしている、鎖。

断ち切られないように、強くならないと。

交差点に差し掛かった。

中央分離帯がある、大きな交差点だ。

ここを超えれば家はもうすぐ。


……にゃぁ。


ん?

今、何か聞こえた気がする。

………気のせいか?

この雨の音じゃ、小さな音は聞こえないだろう。

黙って信号が変わるのを待つ。

車の交通量は多い、雨だから車を使う人が増えたのだろう。

視線を動かす。

中央分離帯を見ると、一匹の黒猫がいた。

住処の一つにしているのか、植木の隙間に潜り込んでいる。

雨に濡れて、弱っているみたいだ。

健気に生きてるんだな。

すると、その猫と目が合った。

だがすぐに気付く。

その瞳は、俺を見てるわけではない。

足元を見ると、小さな黒猫が縮こまっていた。

あぁ、こいつの親なのか。

きっと子供だけが渡りそこなって、あそこで待っているんだ。


「お前、ちゃんとついて行けよ。」

「……にゃぁ。」


弱々しい返事が返ってきた。

きっと早く親の体温で暖まりたいのだろう。

人懐っこいのか、単に温もりを求めたのか、小さな黒猫は俺の足に擦り寄ってきた。

小さな黒猫は落ち着かない性格なのか、俺の周りを回り始める。

危ないから大人しくしていろ。

そう言おうとした瞬間、


―――小さな黒猫は道路へと飛び出していた。


即座に反応するが、小さな黒猫は既に手の届かない位置まで駈け出していた。

そして俺の目には、迫ってくる一台のトラックが映る。

一瞬、躊躇ってしまった。

小さな黒猫はトラックに気付かず、一直線に親猫の元へ向かう。

親猫もどうしていいか判らないのか、植木の中で動けないでいた。

雨の音が消える。


―――バンッ!


呆気ない音が、嫌に耳にこべりついた。

信号が青になる。

車は一斉に止まり、歩行者が歩き出す。

俺と黒猫だけ、時間が止まったまま。

漸く、足が動く。

俺は、離れた場所で動かなくなった小さな黒猫を抱き上げた。

それはとても軽く、取り返しがつかないくらいに冷たい。

涙が、とめどなく溢れ出す。

心に満ちた感情は、自己嫌悪。

どうして、あそこで躊躇った。

間に合ったかもしれないのに、この黒猫はまだ息をして、親猫と温めあってたかもしれないのに。

数分前まで足に擦り寄ってきた命は、もうない。

理不尽に、唐突にそれは失われた。

俺は小さな黒猫を抱いて立ち上がる。

横断歩道を渡り、後ろを振り返った。

そこには俺を、その手元を見つめる黒猫。

ごめんな………守れなかったよ。

本当に……ごめん。

お前も、独りになっちまったな。


…にゃぁ。


涙で目が霞む。

しゃがみこむと、黒猫は俺の腕に乗って、仔猫の顔を舐め始めた。

動かなくなった仔猫を、ずっと舐め続けた。



あれから暫くして、俺は雨の中を歩き続けていた。 

胸には未だ、冷たい仔猫を抱えている。 

黒猫はずっと後ろに着いてきていた。

まだ理解ができていないのか、仔猫を抱える俺から離れない。

その姿はまるで、かつての俺だ。

真耶姉の死を受け入れられず、虚ろな瞳で莉乃姉の後ろを歩いていた俺と。

あの頃から、心にぽっかりと空いた孔。

そこへ吹く隙間風は、俺の目から、世界の色を消していった。

毎日に、何も感じなくなる。

己自身に、価値を見いだせなくなる。

こいつにはそうなってほしくない。

顔を上げると、小さな公園にいた。

遠回りして、家の近くまで来ていたようだ。

俺は一番奥の木の下に歩いていく。

幸いにもそこは、あまり雨が滲みていない地面があった。

しゃがみこみ、鞄を開く。

確か筆箱にアルミ製の定規が入っていたはずだ。

濡れて皺だらけになったノートなどを押し退けて筆箱を取り出すと、中から定規を手にした。

それを使って、地面に穴を掘る。

固い土を少しずつ掘り返し、脇に山を作っていく。

片手しか使えないから、あまり効率は良くない。

あっという間に定規が歪み、手も泥だらけになった。

それでも根気よく、何も考えずに地面を掘る。

隣には、大人しく静かにそれを見つめる黒猫。

どれくらい経っただろう。

気が付けば目の前には、数十センチほどの穴が開いていた。

黒猫が歩み寄り、掘られた穴を覗き込むと、俺と目を合わせ、鳴く。

あぁ、お前の子供はちゃんと埋めるよ。

定規を放り捨て、両手でそっと仔猫を穴に下ろす。

あとは、埋めるだけだ。

山になった土を掬う。

だが、そこで俺は動けなくなった。

親猫が穴に飛び込み、仔猫に寄り添ったのだ。

泥のついた仔猫の顔を、一生懸命舐めて綺麗にしようとしている。

だが、どれだけ舐めても仔猫は動かない。

親猫が俺を見上げた。

その瞳はまるで、このまま一緒に埋めてくれ、そう言っているように感じる。

それはもう、生きる意味を感じていない者の答え。

あらゆる未来を諦め、幸せを失い、絶望の淵に沈む決断。

………俺には、できなかった決断だ。


「くっそぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」


後悔。

あの日から続く自責、目の前の現実。

叫ばずにはいられなかった。

再び溢れ出す涙。

俺にはこの黒猫の決断を止められない。

掬った土を落としていく。

黒猫は動かない。

未練などないかのように、土に埋もれていく。


「真也!」


振り返ると、そこには莉乃姉が立っていた。

莉乃姉が歩み寄ってくる。

そして俺がしていることを見た途端、思いっ切り蹴り飛ばされた。

泥にまみれ、雨を浴びる。

もう、立ち上がる気力さえなかった。

灰色の空を、無心で見る。

視界の端に、親猫を抱きかかえた莉乃姉が見えた。

仔猫は埋めてくれたのか、両手は土で汚れている。

表情は苦痛に歪んでいて、まるで泣いているみたいだ。


「お前……自分が何をしていたのか分かっているのか!」

「………。」

「馬鹿真也!お前は助かった命の尊さを一番判っているはずだろうが!そのお前が何故こんなことをした!」

「…………俺には、止められなかったんだ。」

「だからって!命を(なげう)つ者を後押しするな!真耶だって絶対に止めるぞ!」

「っ!…俺は莉乃姉みたいに強くない!………弱いんだよ。」


莉乃姉は当たり前のように救い出そうとする。

それはたまらなく眩しくて、俺が望む強さだ。

間違っていることを間違っていると言えることは、強くないとできない。

でも、絶望に満たされた心のまま生きていくのは、辛いんだよ。

例えその選択が間違っていると知っていても、自分を騙さないと耐えられないんだ。

だから黒猫の気持ちは、痛いほど良く判る。


「……もういい、とりあえず真也の家に行くぞ。立て、ここにいては風邪を引く。」


莉乃姉に引っ張られて立ち上がると、傘と鞄を手渡された。

ここにきて初めてちゃんと莉乃姉を見る。

私服姿の莉乃姉は、既にかなり雨に濡れていた。

おそらくは先に俺の家に行ってみたらいなかったから、傘を持って探しに来たのだろう。

さっきの叫び声に気付いて来てみたら、俺が生きた猫を埋めようとしていたわけだ。

流石は莉乃姉だよ、ここぞという時に現れて、大切なものを守れる。

もし仔猫が飛び出した時に莉乃姉がいたら、助かっただろうか。

…助かっただろう、いや、莉乃姉なら助けただろう。

己の身の危険さえ考慮に入れて、仔猫も助ける。

それをできる強さを、莉乃姉は持ってるから。

ホントに、眩しい。

莉乃姉が俺の手を握り、歩き出す。

その手は雨に濡れていても温かくて、冷たくなった俺に伝わってきた。


「………ありがとう莉乃姉。」

「ん。」


短い返事。

それに含まれた優しさに胸が温かくなる。

俺にもまだ、温かくなる心があったのか。

それっきり家に着くまで、莉乃姉は話し掛けてこなかった。

玄関を開けて中に入ると、莉乃姉が風呂場に行き、二枚のタオルを持ってくる。


「真也はすぐに風呂に入れ、制服も洗わないと。」

「あぁ、そうだな。」


土まみれの制服は洗面所に置いて、シャワーを浴びる。

冷めきった身体に、人口の温かい雨が降り注ぐ。

髪留めを外すと、長い髪の隙間をお湯が通り抜けて心地いい。

暫く身体を温めていた。

予想以上に体温を奪われていたらしい、少しだけ寒気がする。

風呂から上がり部屋着に着替えると、リビングに行く。

そこではソファーに座った莉乃姉と、その膝で小さくなっている黒猫がいた。

いつの間にか綺麗になった黒猫は、優しく撫でられて寝てしまったようだ。

そういえば、昔の俺もああやって撫でられてたな。


「莉乃姉。」

「お、上がったのか。ならあたしも入ろうかな。」

「………は?」

「どうした真也、きょとんとした顔して。」

「ウチで風呂入っていくのか?」

「そりゃああたしも雨に濡れてるし、入らないと流石に寒いぞ。」

「いや、まぁそうなんだが…。」

「よし、では風呂を借りるぞ。」


この人は恥じらいという感情が欠落しているらしい。

幼馴染とはいえ普通はそろそろ躊躇うような年齢だろ、そりゃ何もしないけどさ。

信頼されてるのは判るんだが、少しだけ複雑な気分だ。


「入るのは構わないが、着替えはどうするんだ?」

「まぁ濡れてしまってまた着るのは嫌だしな、真也のを借りる。」

「まぁ良いけど、その……下着とかどうすんだ?」

「おや?おやおやおや?何を期待してるんだ真也ぁ?」

「黙れ、純粋に心配してんのに邪推すんな!」

「あーっはっはっは、面白いな真也は。安心しろ、大丈夫だ。」

「ったく、早く入れ。」

「一緒に入るか?」

「頭イカレてんのか?」

「あたしは別に構わないぞ、真也になら見せてもいい、なんなら触ってみるか?」

「………。」

「あーっはっはっは!顔が赤くなってるぞ?可愛いなぁ真也は。」

「追い出すぞコラ!」


最高に楽しいと言わんばかりに、随分ご機嫌なまま莉乃姉は風呂に消えていった。

いや、気を遣われたんだ。

俺が落ち込んで塞ぎ込む隙を与えないように、必要以上に明るく振る舞ってくれる。

ったく、流石だよ。

溜め息を吐いてから、ソファーを見る。

いつから起きていたのか、黒猫が俺の方をじっと見つめていた。

ソファーに座ると、俺の膝の上に登ってくる。

人懐っこいな、それとも同類の匂いが判るのか?

………ここってペット大丈夫だったよな。

何を買えばいいんだろう、トイレとかか。

まぁ、明日は休みだし、買いに行くかな。

今日は疲れた。

………。


「真也、ちゃんとベッドで寝ろ。」

「ん………上がったのか莉乃姉。」


重い瞼を開けると、俺の部屋着を着た莉乃姉が顔を覗き込んでいた。

サイズが大きいせいで、かなり裾が余っている。

膝に視線を向けると、黒猫の腹が穏やかに上下していた。

起こさないようにそっと持ち上げて、ソファーに下ろす。


「あたしも疲れたよ、ご飯は明日にしようか。」

「…あぁ。」

「それじゃあ、少し早いが寝よう。」

「そうだな、くたくただ。」


ふらふらとした足取りで立ち上がる。

疲れと眠さで、意識ははっきりしない。

ベッドに潜り込む。

莉乃姉も入ってきたから、なるだけ奥に潜った。

莉乃姉を背にして、目を閉じる。

すると、後ろでもぞもぞ動いて、莉乃姉が俺を抱きしめた。


「あまり無理をするな真也、たまにはあたしを頼れ。」

「あぁ、そうするよ。」

「おやすみ真也、ゆっくり眠れ。」

「…おやすみ。」


深く沈んでいく。

俺の意識はあっさりと、眠りに溶けていった。


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