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Day.8 小休止、それぞれの思惑

 茹だるような熱気で、俺は目が覚めた。

 部屋の中は蒸し暑く、身体中に掻いた汗はシャツを張り付かせて最悪だ。

 窓の外から聴こえる蝉の騒々しい鳴き声は、夏の風物詩とは言っても五月蠅いことに変わりはない。

 そろそろ扇風機くらいは買おうか、そんなことを考え始めた夏の朝。

 シャワーを浴びて、鬱陶しい寝汗を洗い流す。

 少しぬるめに設定したお湯が、気持ち悪さも一緒に排水溝へと流していく。

 何の変哲もない、当たり前のように平和な夏の日。

 身嗜みを整えて部屋に戻ると、そこには誰もいない。

 あるのは飾り気のない家具類と、帰ってきてそのままの荷物。

 そして、俺のジャージにくるまり気持ち良さそうに眠る夏音。

 昨日の帰りに引き取った久し振りに会う小さな同居人は、優しく寂しさを埋めてくれた。

 決して辛くないわけじゃない。

 今までは当たり前に感じていた誰の気配もない部屋。

 今更になって感じる家族のいない現実は、想像以上に重く圧し掛かる。

 世界は確かに変わった。

 モノクロの景色には色がついて、いつもの青空にさえ温もりを感じるようになった。

 だが代わりに、今まで目を背けてきた物事が、改めて目の前に吊るされている感覚。

 独りではなくなったが、一人だと気づく悲しみ。

 漸く知りえた感情は、必ずしも幸せだけとは限らない。

 いや、もしかしたらそれも間違いかもな。

 姉さんが見ていたのは、美しさや楽しさに満たされた世界、そんな気がする。

 もっと変わったら、いつかは姉さんと同じ世界が見えるだろうか。

 床に座って、安らかに上下する夏音の身体を撫でる。


 ピンポーン。


 自然と浮かんだ笑みは、そんなインターホンの音で遮られた。

 疑問を感じて時計を見ると、時刻はそろそろ10時になろうというところ。

 誰だこんな早くから、莉乃姉か?

 頭に浮かんだ女性を予想して、すぐにそれは違うと頭を振る。

 もし莉乃姉なら勝手に鍵を開けて入ってくるはずだよな。

 ウチに郵便物の類は滅多に来ないし、莉乃姉以外に思い当たる来客がない。

 訝しみながらも私服に着替えて、今一度鳴ったインターホンを聞きながら玄関に向かう。


「今開ける。」


 一声かけて扉を開けると、そこには何故か御奈坂が立っていた。

 花柄のロングスカートに、夏らしい爽やかな色合いのTシャツ、それと肩から下がった小さなカバン。

 俺の家に来るには不釣り合いに少女らしい御奈坂は、いつものように申し訳なさそうにしながら、そっと笑った。


「おはようございます真也くん。」

「あ…あぁ、おはよう御奈坂。急に来てどうしたんだ、約束してたか?」

「ご、ごめんなさい、約束とかはしないで来ちゃいました!ご迷惑だったでしょうか?」

「いや、まぁ別に迷惑とかではないんだが…。」


 特に約束もなく会いに来るなんて、やはり腑に落ちない。

 嫌だとかそういうわけではなく、単純に理解が及ばなかった。

 それとも俺が慣れていないだけで、友達になると唐突に人の家に行きたくなるものなのだろうか。

 それに莉乃姉ならまだしも、御奈坂は事前に約束とかしそうに思っていたんだが。


「んで、何しに来たんだ?」

「えっと……真也くんって、昨日まで莉乃さんと旅行してましたよね?」

「は?……あぁ確かにそうだけど、それがどうかしたのか?」

「そうですよね……よし。」


 何だ、いつもと様子が違うな。

 俺は何も言えず、御奈坂の反応を待つ。


「真也くん、少しお話があります。」

「何だよ改まって、とりあえず中入るか?」

「はい、お邪魔します。」


 丁寧に頭を下げた御奈坂が入れるように場所を開けると、若干緊張した顔をして入ってくる。

 部屋に戻ると俺はベッドに座り、御奈坂にはソファーを示して座らせた。

 ここでも反応を待ってみたが、何故か御奈坂は下を向いたまま話そうとしない。

 何をそんな緊張してるんだろうな、黙られたら俺も辛いんだが。

 まぁいいか、落ち着くまで待つとしよう。

 俺はベッドから立ち上がると、飲み物を用意しにキッチンに歩いていく。

 いくら料理ができないとはいえ珈琲くらいは淹れられる、当然熱湯を注ぐだけのインスタントだが。

 紅茶は…またの機会に覚えるとしよう。


「御奈坂も何か飲むか?まぁ珈琲か水くらいしか出せないが。」

「あ、はい、いただきます!」


 で、何を飲むんだよ。

 俺はとりあえず珈琲を二杯淹れて、グラスに氷を放り込むとテーブルへと運んだ。

 ベッドに座って美味くも不味くもない黒い液体を口に運びながら、御奈坂が口を開くのを待つ。

 相変わらずのだんまりに痺れを切らした俺は、溜め息を小さく吐いて言う。


「よくわかんねぇけどさ、落ち着かないなら一口飲んだらどうだ?」

「あ、はい、いただきます!」


 思い出したようにカップを両手で持つ御奈坂。

 どうでもいいが、さっきから同じ台詞しか言わないなこいつ。

 あ、そういえば砂糖とか入れてないけど飲めるのか?

 思い出した頃には時既に遅く、御奈坂は珈琲を口にして苦そうに顔を歪めた。


「…苦いです。」


 やっぱりか、可哀想なことをしたな。

 だけど可愛らしく舌を出して目を瞑る姿は、少し面白い。


「あはは、悪かったな、お前が苦いのダメなの忘れてた。」

「………。」


 御奈坂が俺を見て、不思議そうな顔をする。


「何だよ、もしかして怒ったのか?」

「あ、いえ全然そんなことないです!……変わりましたね真也くん。」

「は?……具体的にどこが?」

「普通に笑ってるところです、私は初めて見ましたよ。」

「う、変だろう、慣れてないんだよ。」

「そんなことないです!自然に笑う真也くんはとっても素敵ですよ!」


 真面目な顔をして俺を見てくる。

 ったく、よくそんな恥ずかしいことを真顔で言えるな。

 俺は熱くなる顔を逸らして、御奈坂に問う。


「で、少しは落ち着いたかよ。」

「はい、ごめんなさい心配させてしまって。」

「ま、いいけどな。それで、今日は何か用か?」

「はい、ちょっと真也くんの予定を訊きに来ました。」

「俺の予定?」

「はい、夏休みは何か予定があるのかなって思って。」

「いや、特にこれといって予定はないが?」

「ホントですか!?良かった、なら遊んだりもできますよね?」

「まぁ、別に無理ではないが。」


 俺が遊ぶ光景を全くイメージできないな、今までろくに娯楽とかなかったし。

 当たり前のように起きて、学校に行き、楽しくもつまらなくもない毎日だった。

 生き続けることこそが生きる意味だったし、楽しいって感情が入る隙間なんてどこにもない。

 でもそうか、もうそんな無価値な生き方をしなくてもいいのか。

 元々それすらも無意味ではあったけど、これからは楽しさに時間を費やしたっていいんだ。

 確かに、これは世界が変わったといえるな。

 なら折角の申し出だ、新たな生活の第一歩として受けてみるのも悪くないか。


「それで……どうでしょうか?」

「わかった、俺でよければ付き合う。」

「わあっ!嬉しいです、ありがとうございます!実は断られるかもしれないって少しだけ怖かったんですよ。真也くんがいてくれたら凄く楽しそうです!」

「そ、そうか。」


 御奈坂が手を合わせて喜ぶ。

 俺もまさかそこまで喜ばれるとは思ってなかった。

 それに、こんな面白味のない人間と遊びたいだなんて物好きがいるということも。

 でも嬉しいもんだな、人に必要とされるのは。

 これも姉さんが俺を変えてくれたからかな。

 心の中で姉さんに感謝しつつ、俺は御奈坂に先を促す。


「なら何をするのか具体的に決めないとな……そういうのって決めるもの…だよな?」

「特に決めないで集まることもあるでしょうけど、今回は折角なので遠出とかしたいですね。」

「遠出か。」


 だがまさか二人でってことはないよな。

 だとしたら俺を誘うのは大間違いだ、俺には御奈坂を楽しませる術が解らない。


「皆さんにはもう話が行ってます。お二人が旅行中に集まって決めたことですから。」

「そうか、それは助かる。」

「え、助かるって?」

「こっちの話だ、気にするな。」

「はぁ。」


 皆ってことは恵恋も来るのか、あいつも賑やかなのに慣れてないだろうな。

 だとすると一緒に離れて並んでいそうだ。

 相変わらずの無表情で、小さく毒舌を吐いている姿が容易に想像できる。

 …意外に楽しみにしているな俺も、なんか変な感じだ。

 御奈坂は俺の様子に首を傾げながら、とりあえず話を続けていく。


「行き先は幾つか案を出してはいたんですが、莉乃さんも呼んで集まりませんか?フラトレスなんて丁度いいと思うんですけど。」

「あのイカレた店員が跋扈する狂気の喫茶店か?お前、よくあんなとこ通えるな。」

「あはは、そこまで言いますか。皆さんいい人ですよ、賑やかで楽しいじゃないですか。マスターだって慕われてますし。」

「そのマスターが一番胡散臭いがな。」


 御奈坂は苦笑する。

 あの店を賑やかだと楽しめるほど、俺は楽観的じゃない。

 マスターだって、私は何でもお見通しって雰囲気が癪に障る、姉さんも何であんな奴に相談なんかしたんだろうな。

 でも俺に知らない姉さんを知る数少ない人間の一人だ、今度ボコッて吐かせるか。

 ………あぁ、多分返り討ちに遭うな俺。


「じゃあ早速皆に連絡しましょう、真也くんは莉乃さんに連絡を頼めますか?」

「は、無理だが?」

「え、何でですか?」

「俺は電話を持ってない。」


 御奈坂が鞄から携帯電話を取り出した形で停止する。

 まぁ、そりゃそうか。

 この時代に高校生が携帯電話の一つも持っていないなんて、時代錯誤もいいところだ。

 我に返った御奈坂は、どうしていいか判らず困惑している。


「真也くんが使ってるの見たことありませんでしたけど、まさか持ってなかったなんて思いませんでした。てっきりあまり使わないってだけだとばかり。」

「連絡する相手もいないし、何より煩わしい。これだと持つ意味ないだろ。」

「ま、まぁ確かにそうなんですけど、学校からの連絡とかはどうしてたんですか?」

「そういうのは俺の…まぁ実家のような家の番号に繋がるよ、それにそんなことが起こらないように気をつけてたし。」

「莉乃さんにはどうやって連絡を?流石に長く一緒にいるんでしょうし番号くらいは知ってますよね?」

「莉乃姉のは強制的に暗記させられた、あん時はしつこかったな。まぁ俺から連絡しなくても勝手に来るから、特にこっちから呼んだことはない。」

「それは莉乃さんらしいですね。じゃあ皆には私から連絡するので、莉乃さんの番号だけ教えてもらえますか?」


 俺が莉乃姉の番号を口頭で伝えると、御奈坂は暫く電話をしていた。

 場所はフラトレス、時間は13時頃。

 一通り電話を終えると、御奈坂は小さな腕時計で時間を確認した。


「あ、そういえば真也くんはご飯食べました?」

「お前が来たのが寝起きだったからな、残念ながらまだ食べてない。」

「ごめんなさい、そうだったんですか!?そうとは知らずご迷惑を。」


 御奈坂がペコペコと頭を下げるのを手で制しながら、俺は珈琲を飲む。


「気にするな、朝飯なんて抜くほうが多いくらいだ。まぁ集まるってんならそろそろ食べようとは思うが、どちらにせよ一旦コンビニで買ってこないとな。」

「あ、でしたらお詫びも兼ねて私が作りましょうか?」

「は?」

「お口に合うか判りませんが、それなりに自信はありますよ?」


 御奈坂の飯か、悪くない提案だな。

 莉乃姉以外の飯なんてほとんど食べることもないし、折角だから作ってもらうか。

 どうせ買ってくる飯なんてたかが知れてるんだし。


「あぁ、なら頼むわ。」

「はいっ、お任せください!腕によりをかけて作らせてもらいます!」

「あーでも食材とかあったかな、いつも莉乃姉が管理してるからわからない。」

「でしたらまだ時間もありますしお買い物に行きましょう、勝手に使ってしまうのも心苦しいですし。」

「そうだな、ならそうしよう。」

「では早速行きましょう、猫さんは大丈夫ですか?」

「夏音か?まぁ少し出るだけなら大丈夫だろ、見ての通り寝てるし、餌を出しとけば勝手に食べるはずだ。」

「そうですか、なら平気ですね。」


 俺は立ち上がるとキッチンから餌の箱を取り出し、夏音と書かれた餌入れに適当な量を出して床に置く。

 大人しく待つ御奈坂は、俺の鞄の上で眠る夏音を微笑みながら眺めている。

 猫が好きなのかと、そんな他愛もないことを考えながら、財布と鍵をポケットに入れると御奈坂に合図した。

 頷きが返ってきて御奈坂も立ち上がると、二人揃って部屋を出る。

 すぐに襲ってくる蒸し暑さと、直談判のような蝉の喧騒に顔をしかめながら、俺たちは階段を下りて近くのスーパーに向かう。

 空は夏らしく爽やかな青色に染まり、大きな雲が風に運ばれて流れていく。

 御奈坂はそんな空を見上げて、気持ち良さそうに伸びをした。


「素敵な晴れ空ですねー!」

「あぁ、暑いけどな。」

「確かに今日は一段と暑いですけど、それもまた楽しいじゃないですか。」

「楽しい?」

「はいっ!たまに吹く風の気持ち良さとか、あの大きな雲が綺麗に見えるのとか、暑くないと感じられないものだと思うんですよ。寒いと風が吹くのは辛いし、雲も今みたいに素敵とは思えない気がします。」

「………。」


 自然と、言葉を失う。

 そんな風に自然を感じることができる人が、姉さんの他にもいるとは思わなかった。

 前から何となく似てるとは思ってたが、まさかこんなところまで似てるだなんてな。

 俺の少し前を歩く後姿を、俺は複雑な気持ちで見る。

 想いが切れていないから、こんなにも切ない。

 いつまでもこのままじゃ、やっぱダメだよな。

 姉さんにも言われたこと。

 幸せになる、姉さんからの願いで、俺は自分のためにすべきことだ。

 別にそれが恋愛とかに直結するってわけじゃないけど、今までよりも他人には関わるべきなんだろう。

 俺の中に幸せのカタチがないのなら、周りから見つけ出すしかない。

 焦ることじゃない、気長に探していこう。

 いつの日か、姉さんとの想い出を笑って話せるように。




「まったく真也は、少し目を放すとこれだ、まったく。」

「落ち着けよ莉乃姉、いつまでいじけてるつもりだ?」

「いじけてるんじゃない!油断も隙もあったもんじゃないと憤慨してるんだ!」

「はぁ、訳がわかんねぇよ。」

「莉乃さんごめんなさい、勝手なことして。」

「いや、緋結華は悪くないぞ。悪いのは真也だ。」

「ったく、もうそれでいい。」


 本人曰く憤慨しているらしいが、どう見てもいじけているようにしか見えない。

 買い物を終えて二人で戻ってくると、何故か莉乃姉が部屋で待っていた。

 しかも俺たちが帰ってくるのを待ち構えるように、腕を組んだ仁王立ちで。

 何でも御奈坂から電話を受けて嫌な予感を感じたらしく、この暑い中を大急ぎで走ってきたらしい。

 莉乃姉に詰め寄られる俺を見た御奈坂は、気まずそうにしながらも料理を始めたというところだ。


「うぅ、あたし以外の女の子を家に入れるなんて…。」

「何の問題があんだよ。」

「ここはあたしたちの家だ!」

「大声で冗談ぬかすな、いつから共用になったんだよ。」

「だって真也がここに来てからずっと管理してるもん、あたしに一言くらい言ってくれてもいいじゃないか、しかも入れたのが女の子なんて……。」


 わかりやすく指で床を弄りながら、餌を食べ終えた夏音を抱いている莉乃姉。

 はぁ、何でこんなことに。

 ただでさえ暑いのに、莉乃姉のテンションで部屋の温度も上昇中だ。

 大体御奈坂が昼飯を作ってくれるってだけで何をそんなに反応してんのか、たまに突拍子もなく騒ぐな莉乃姉は。

 まぁとりあえず機嫌を直してもらわないと後の話し合いもろくに進まなそうだし、ここは謝っておくべきか。


「悪かった、今後からは莉乃姉にちゃんと言うから。」

「………本当か?」

「あぁ、本当だ。」

「………なら許してやるか。」


 一応機嫌を直してくれたか、よかった。

 すると莉乃姉が立ち上がり、キッチンに向かって言う。


「緋結華、あたしも手伝おうか?」

「大丈夫ですよ、もう少しでできますから。莉乃さんはゆっくりしていてください。」

「そうか、ならお言葉に甘えようかな。」


 そう言うと莉乃姉は、ソファーに座る俺の膝の上に座った。


「おい、何してやがる?」

「ゆっくりしている。」

「それで俺の上に座る意味が解らないんだが?」

「真也とくっついているとあたしは落ち着く、どうだ立派な理由だろ。」

「どこがだよ、いいから降りろっつの。」

「何だ、あたしが重いとでも言うつもりか?」

「莉乃姉がとか関係なく重いわ!せめて隣に座ればいいだろ!」

「むぅ、ならこうしよう。真也、なるだけ端に座ってくれ。」


 莉乃姉は一旦俺から降りると、少しずれた俺の膝に頭を乗せて横たわった。


「おい、さっきより悪化してるように感じるのは気のせいか?」

「何を言う、真也に触れている面積は減っただろう。」

「はぁ、もういいよ。」


 どうせ何を言っても莉乃姉が決めたら変わらないし、観念した方が早いな。

 気持ち良さそうに俺の膝で目を閉じる莉乃姉から目を逸らすと、すらりと伸びた細い足が目に入る。

 陶磁器のように白く、よくできた人形のように均整のとれたそれは、シミやホクロさえなく綺麗だ。


「真也、そんなに見られると恥ずかしいんだが。」

「なっ、違う!」

「ふっふっふ、真也は足が好きなのか?」

「違うっつってんだろ。勘違いだ!」

「照れなくてもいいのに、恥ずかしいけど真也なら触ってもいいぞ?」

「触るわけないだろ、もう降りろよ!」

「やーだよ、あたしはここが気に入ったんだ。」


 顔を赤くしなからも笑いながら、莉乃姉は膝の上でゴロゴロと寝返りを打つ。

 迂闊だった、目を閉じているからとはいえ足に見惚れるだなんて。

 どんどん顔が熱くなっていく、しかも莉乃姉はまったく降りる気配がない。

 クソッ、いつも長いズボンを穿いてるのに、夏だからって太ももまで出しやがって。

 莉乃姉のこういうところ、反則だ。


「できましたー、並べるので待っててください。」


 ナイスタイミングだ御奈坂、助かった。


「並べるのぐらい手伝うぞ。ほら莉乃姉、退いてくれないと手伝えない。」

「むぅ、仕方ないなぁ。」


 莉乃姉は渋々といった素振りで俺から離れると、自分も手伝うためにキッチンに向かう。

 キッチンには綺麗な黄色のオムライスと、野菜がたくさん入ったスープが用意されていた。

 御奈坂が俺たちを見てお礼を言う。


「あ、ごめんなさい手伝ってもらって。」

「こっちこそ悪かったな、こんなことしか手伝えなくて。しかも材料費まで出してくれただろ。」

「それくらいいんですよ。外で食べたら一人でこれくらいの値段しますし、それにお米とかはここのものを使わせてもらいましたから。」

「まぁそれならいいんだが。」

「お、美味しそうだ!流石だな緋結華、いいお嫁さんになれそうだ。……真也は渡さないぞ!」

「えぇ!?」

「おい莉乃姉、御奈坂困るからそういう発言は控えろ。大体俺は莉乃姉のものじゃねぇ。」

「えぇ!?」

「いや、驚くとこじゃないだろ。」


 そんなやり取りをしつつ、三人でテーブルに料理を並べていく。

 それにしても美味しそうだ、莉乃姉はシチュー以外和食ばかりだしな。

 沙耶さんが作ってたのも和食中心だったし、こういう洋食を食べるのは久し振りだ。

 それぞれ席に着いて、いただきますと手を合わせた。

 オムライスにスプーンを入れると、程よく半熟な卵は抵抗も軽くスプーンを通す。

 凄いな、なんかこういうのって焼き加減とか難しいんじゃなかったか?

 それなのにこうも均一に焼いてあるなんて、日頃から料理してるんだろうな。

 暫く無言で食べていると、御奈坂がおずおずと口を開く。


「あの、お口に合いますか?」

「あぁ、美味い。」

「うん、美味しいぞ。やるな緋結華、あたしはこんなに上手くオムレツは焼けないから感激した。」

「わぁ、ありがとうございます。よかった、静かだから美味しくなかったかと思いました。」

「あぁ、俺はあんま飯食いながら喋らないんだ。普段から一人だからさ、莉乃姉がいないなら外で食べるし。」

「あ、それもそうですよね。でもそれだと食費がかさみませんか?」

「そうだな、光熱費より圧倒的に高い。かと言って俺は自炊が全くできないから。」

「困ったらウチに来いって言ってるんだけどな、面倒だって来ないんだよ。」

「飯のためにわざわざ木野塚まで行きたくない、それに迷惑だろ普通に。」

「真也ならお母さんだって気にしないのに、いっそ一緒に住めばいいんだ!」

「ありえねぇから、それに身の危険を感じる。」

「それはあたしの台詞のはずなんだけどなぁ。」

「あの、真也くん。」

「ん、どうした?」

「もしよかったら私が作りに来ましょうか?」

「………は?」


 作るって飯をってことだよな。

 俺が困惑していると、莉乃姉がすかさず反応した。


「ダメだ!真也の世話はあたしが見るんだ!」

「いやいや、それもおかしな話だからな?」

「真也は黙ってろ!」


 俺のことのはずなのにか?


「でもやっぱり真也くんも一人暮らしで大変でしょうし。」

「だからあたしが毎日来てるんだ、それで大丈夫だ。」

「でも莉乃さんにも予定がありますし、私が空いていればお手伝いできます。」

「む、確かにそうだが、でもな…。」

「私も真也くんに対してできることはしてあげたいです、もちろん無理にとは言いませんけど。」

「う…むぅ。」


 御奈坂ってこういう時押しが強いな、普段は大人しい感じなのに。

 つか、当事者の俺が完全に置いて行かれてるのはどういうわけなんだろうな。

 莉乃姉は真剣な顔をした御奈坂を見て、視線を俺に映す。

 そんな顔をされても困る、俺はそもそも会話に参加できてない。

 莉乃姉はかなり迷って、それでも不満そうに頷いた。


「まぁ、真也さえよければ…。」

「どうでしょうか真也くん。」


 莉乃姉が最後の希望に縋るような眼差しで俺を見る。

 対して御奈坂は比較的落ち着いた表情だ。

 既に負けてる気がするな莉乃姉は。

 でもそうだな、流石に可愛そうになってきたし助け舟出すか。


「御奈坂、せっかくの申し出だが遠慮しとくよ。莉乃姉には今までずっと世話になってるし、やっぱり安心するんだ。」

「そうですか……残念ですがわかりました、でも何か困ったらいつでもお手伝いしますね!」

「あぁ、そん時は頼むわ。」


 少し肩を落とす御奈坂と、御奈坂からは見えない位置で小さくガッツポーズする莉乃姉。

 俺が言えた義理じゃないが、そのガッツポーズはダメだろ、なんか年上として。

 それからは口数も少なく食事を終えて、莉乃姉が片付けくらいはとキッチンで食器を洗い始めた。

 俺はソファーに座り、御奈坂は隣で夏音の背中を撫でている。


「さっきは悪かったな。」

「え?…あ、気にしないでください、私も余計なこと言いましたから。会った頃から余計なお世話ばかりですね私、これじゃ真也くんに嫌われててしまいます。」


 苦笑しながら夏音を見つめる御奈坂。

 だが御奈坂の言うことは決定的に間違っていて、勘違いだ。


「余計じゃない…嫌うなんてないぞ、むしろ嫌われるのは俺の方だろ。散々最低な態度とってきたのに、お前はそれでも何かしてくれようとしてる。感謝こそすれ、嫌ったりはしないさ。」

「真也くん……ありがとうございます!あはは、よかった…嬉しいです。」


 御奈坂は両手を合わせると、満面の笑みで俺を見た。

 それは凄く綺麗な笑顔で、つられて俺も微笑んだ。

 なんか、人に笑ってもらうのって自分も嬉しくなるな。


「…真也くんの笑顔って素敵です、私も凄く嬉しくなります。」

「な、俺はお前が笑うから…。」

「あはは、なら二人とも嬉しくなったってことですね。」

「……まぁ、そうだな。」

「真也くんは笑っていてください、その方がとっても素敵ですよ。」

「あ、あぁ。」


 俺は恥ずかしくなって目を逸らす。

 ったく、自分が恥ずかしい台詞言ってるって自覚してくれ。


「なーに良い雰囲気になってるんだ真也ぁ。」

「なっ!?」


 驚いて顔を向けると、さっきよりよほど不機嫌そうな莉乃姉が俺を睨みつけていた。

 声を聞いた御奈坂も、背中の方から漂ってくる嫌な気配に顔が固まっている。

 ヤバいな、何だかわからないが蹴られるかもしれん。


「あのな莉乃姉、俺は普通に話してるだけだ、断じて莉乃姉が疑ってるような状況じゃない。」

「ほぉ、その割には随分顔が赤いような気がするぞ?」


 じりじりと笑顔の莉乃姉が近寄ってくるが、ダメだ目が笑ってない。


「俺は女子と話すのに慣れてない、だから目を見られたりするとキツいんだ。」

「へぇ、ならあたしが話し掛けた時も目を見て話せば赤くなるのか?」

「あぁ、できればなるだけ長時間合わせるのは勘弁してくれ、御奈坂もさ。」

「あ、はい、ごめんなさい!」

「………ふんっ、真也の馬鹿。夏音、おいで。」


 莉乃姉は悪態を吐くと、機嫌が悪いまま、近寄ってきた夏音を撫で始める。

 夏音のやつ、恐怖で毛が抜け落ちなければいいんだが。

 はぁ、今日は随分ご機嫌斜めだな莉乃姉。

 多分今のやり取りがトドメになって、さっきまでのも含めて完全にふて腐れてしまった。

 よく解らないが俺が悪いんだろうし、やっぱこのままは精神衛生上よろしくない。

 俺は莉乃姉を申し訳なさそうな目で見る御奈坂に声をかけた。


「御奈坂、悪いんだが先にフラトレスで席を確保しておいてくれないか?」

「えっと…あ、わかりました。真也くんたちは後から来ますか?」

「あぁ、そんなに遅れたりはしないから。そろそろ時間だし、あいつらにも伝えといてくれ。」

「了解です、じゃあお先に行ってますね。」


 御奈坂が立ち上がり、莉乃姉が見ていないのを確認すると小声で耳打ちしてきた。


「ごめんなさい真也くん、私も配慮が足りませんでした。」

「御奈坂が悪いんじゃないさ、とりあえず俺に任せてくれ。」

「はい、それじゃあ。」


 御奈坂は莉乃姉に頭を下げると、早足に出ていった。

 御奈坂には悪いことしたな、あとで謝っておこう。

 俺は静かになった部屋で、ひたすら夏音を撫でまわす莉乃姉を見る。

 さて、どうしたらいいのかね。




Hiyuka Side


 私は扉を閉めると小さく溜め息を吐いた。

 はぁ、やっちゃったなぁ。

 莉乃さんが嫌がるのも無理ないよね。

 ずっと自分が好きでしてたことを突然他人に奪われそうになったら、きっと私だって機嫌が悪くなる。

 ちゃんと謝らないと、莉乃さん許してくれるかな。

 扉から離れて、暑い陽射しの中をフラトレスへ向けて歩き出す。

 私、どうしたんだろ。

 友達が困ってたから助けようとした。

 だけどあそこまで意地になることじゃなかった、明らかに言いすぎだったよね。

 人助けの気持ちがあっても、他の誰かを傷つけたら意味がないのに。

 真也くんだって驚いたよね、もしかしたら嫌がられたかも。

 うぅ、それは嫌だな。

 せっかく仲良くなれたのに、またお話しできなくなるのは寂しい。

 クラスの皆は怖いとか不良だとか言うけど、本当は凄く周りを気にする優しい人だ。

 さっきだって真也くんは悪くないのに私にまで謝ってくれて、きっと今は莉乃さんにも謝ってる。

 前よりも笑ってくれるようになったし、雰囲気も柔らかくなったよね。

 買い物をしてる時も籠を持ってくれたり、人にぶつかって倒れそうになった私をすぐに支えてくれたり。

 ほんの少し合わないだけで、どんどん素敵になっていく。

 きっと、莉乃さんとの旅行がきっかけなんだろうな。

 何があったのかはわからない、何処に行ったのかも知らない。

 気にならないと言ったら嘘になるし、きっと訊けば教えてくれると思う。

 けど、まだやっぱり踏み込めない。

 私はもっと真也くんに信頼されないといけない、それも無しに真也くんのことを知るなんてできないよね。

 そのためにも、もっと頑張ってサポートしなくちゃ。

 ………。

 そういえば、どうして私はこんなにも真也くんが気になるのかな。

 うーん、上手く言葉にできない。

 でも気にすることじゃないよね。

 だって気になるんだから、それに友達だから助け合うのは普通だよ、うん。


「よーし、遊びに行ったら頑張るぞー!」


 皆で遊ぶのは初めてだから、思いっきり楽しもう。

 待っている楽しみな時間に思いを馳せながら、私はフラトレスへの道を急ぐのだった。




Rino Side


 緋結華が先に家を出てから、空気は重いままだ。

 視線は目の前の夏音に注いだまま、あたしは顔を上げられずにいた。

 はぁ、馬鹿だなあたし。

 真也のことになるとついむきになって、後輩には気を遣われて、本当に最悪な先輩だ。

 緋結華には悪いことしたな、後できちんと謝っておこう。

 真也だってあれじゃ困るよな、付き合いが長いとはいえやりすぎだ。

 でも、断ってくれたのは嬉しかったな。

 それって、あたしが必要とされてるってことだ。

 始まりの頃は無理矢理押しかけてたけど、最近では追い返されたりもされなくなった。

 信頼されている確かな証も、あたしの鞄に入っている。

 あぁ、やっぱり真也は素敵だ、大好きだ。

 二人になったし、今すぐ抱き締めたい。

 真也の胸に顔を埋めると、嫌なことも辛いことも忘れられる。

 ドキドキしすぎて苦しくなるけど、その苦しさは幸せだから感じられるんだ。

 でもそんなこと、こんな状況でできるはずがない。

 真也は黙ってるけど、怒ってるわけじゃないと思う。

 単にあたしにどう声をかけようか迷ってるだけだ。

 きっと真也は自分が悪いと思ってて、謝るタイミングを探してる。

 それを知ってて黙ってるあたしは、本当に嫌な人間だ。

 真也の優しさに甘えて、真也に守られてる。

 それなのに保護者面して、何がお姉さんなのか。

 はぁ、泣きたくなってきた。


「莉乃姉、大丈夫か?」

「………うん。」

「隣、座るぞ。」


 隣に真也が座ると、また静かになる。

 大丈夫かって、気遣わなきゃいけないのはあたしの方なのに。

 申し訳なさにまた泣きそうになる、でも泣いたらもっと真也が気まずくなる。

 謝らなきゃ、せっかく真也の方から来てくれたんだから。

 でも情けなくて、いつまでも顔を上げられない。

 そうこうしてる間に、真也が話しかけてきた。


「ごめんな莉乃姉、配慮が足りなかったよ。すぐに断らなきゃいけなかったのに、どうしたらいいのかわからなくて。」

「……違うよ真也、真也は悪くない。悪いのはあたしだ、下らないことですぐにいじけて、緋結華にも迷惑をかけてしまった。謝らなきゃいけないのはあたしの方だ、ごめん真也。」

「いや、俺も莉乃姉に甘えてたから、もっと自分でも色々できるようになってればこんな話にはならなかったからな。」

「………なぁ真也、あたしは邪魔だろうか。」

「は?」

「あたしが毎日のように来るとさ、真也の自由な時間を奪ってるのかなって思って。」


 今日だってあたしが来なければこんな嫌な雰囲気にもならなかったし、真也だって他の人と過ごす時間もあるんだ。

 せっかく緋結華や冴塚、峰岸や逢坂とも仲良くなれそうなのに、あたしがいたらまたこんな風に真也に迷惑をかけてしまうことだってあるかもしれない。

 あたしの存在が、真也の自由を阻害してしまうのは嫌だ。

 あたしは真也の役に立ちたい、真也に必要とされたい。

 でも一緒にいて邪魔になるなら、離れることも必要だ。

 答えが怖い。

 質問を肯定されたら、立ち直れないかもしれない。

 目を強く閉じて、来るべき言葉に備える。

 でも真也は溜め息を吐いて、そっとあたしの手に触れた。


「少し前までの俺はさ、どうしてこの人はずっと俺に構うんだろうって思ってた。誰かと一緒にいてはいけないとか、幸せな気持ちになってはいけないだなんて、そんな考えに支配されて。だからあの頃は苦しくて、八つ当たりみたいに莉乃姉を鬱陶しく感じたことも何度かあった。」


 深く心に突き刺さる言葉。

 そっか、やっぱりあたしは鬱陶しいのか。

 あの頃の真也はどこか消えてしまいそうな危うさがあった。

 まるで砂漠に浮かぶ蜃気楼のように、ぼんやりと揺らめき、決して近づくことのできない遠さ。

 真耶がいなくなった辛さと、真也までいなくなりそうな不安の中で、あたしは必死に平静を保とうとしていた。

 でもあたしよりも辛そうな真也を見ていられなくて、いつも真也の傍にいようとして、知らない内に鬱陶しく思われていたんだな。

 本当はそれさえも言い訳で、自分が辛いから大好きな真也の傍にいたかっただけなのに。


「でも莉乃姉だって辛かったんだよな。」

「え…?」

「莉乃姉は辛くても、腐ってた俺を支えてくれた。それを鬱陶しいだなんて、俺は本当に失礼な人間だ。」

「………。」

「俺は莉乃姉の優しさに甘えて、自分だけが辛いと勘違いしていた。本当は独りじゃ苦しくて、莉乃姉がいてくれる時は安心してたのに。だから今までごめん、莉乃姉には感謝してる、ありがとう。」


 真也がくれた謝罪と感謝の言葉。

 曇り空だったあたしの心は、たったそれだけで晴れていた。

 でも涙はもう我慢できなくて、あたしは真也に抱きついて泣く。

 優しく背中を撫でてくれる手のひらは温かくて、嬉しくて幸せで、あたしは暫くその温もりに身を委ねる。

 お互いの些細な勘違いは、ゆっくりと解けていく。

 あたしはその嬉しさに、強い安心を感じていた。




「こっちだ真也、そっちに行くと逆方向だぞ。」

「ん、マジか。」


 元気を取り戻した莉乃姉に連れられて、俺たちは木野塚町を歩いていた。

 涙で少しだけ腫れた目を見ると、胸の奥が少し痛む。

 俺がもっと気遣える人間なら、莉乃姉を何度も悲しませたり泣かせることはなかったんだ。

 少しずつ変わっていく俺と、変わっていく環境。

 元々人間関係は苦手だったけど、最近は特に実感するな。


「真也。」

「ん?」

「大好きだぞ!」

「なっ!?ちょ、そういうことを外で言うなっつうの!」

「この気持ちは誰にも止められないんだ!」

「わかったから落ち着け!」


 すれ違った何人かが口を押さえて過ぎていく。

 ったく、機嫌が直ったのはいいけどテンション上がりすぎだ。

 まぁ…抱き締めたりとか、流石にやりすぎたかとは思ってるけどさ。

 思い返すと恥ずかしさが込み上げてきて、俺は慌てて思考を止めた。

 でも誤解が解けたのは良かったな、莉乃姉は優しすぎるから抱え込むし。

 スキップでも踏みそうな莉乃姉と歩いていると、やっと木野塚商店街が見えてきた。

 人通りの少なくなったそこを進むと、見覚えのある胡散臭い店の前に着く。

 ホント、よく御奈坂はここを根城にできるな、明らかに怪しい店だぞ。

 俺が気にし過ぎなのかもしれないが、姉さんもここに来てたみたいだし、何か妙な集客力だな。

 扉を開けると、軽快なベルの音が鳴り響く。

 昼時を過ぎた店内は混んでおらず、見知らぬ女性がカウンターで仕事をしている。

 そして店の奥の席には、既に集まった四人がこっちを見て手を上げた。


「待ってましたよ、こっちです。」

「あぁ、悪かったな。」

「ごめんな待たせて、ちょっと色々あって遅れた。」

「小湊先輩なら全然オッケーッスよ!久し振りだな桐生!」

「そんなに久し振りだったか?終業式から一週間も経ってないぞ。」

「あれ、そうだっけ?」

「真也先輩、小湊先輩、こんにちは。」

「こんにちは逢坂、待たせてすまないな。」

「真也さん、遅いですよ。」

「悪いな、ちょっと用事だ。」

「わたしを待たせるなんてまったく、いいから早く座ってください。」


 騒がしくも挨拶を済ませ、空いている席に座る。

 俺たちがそれぞれ席に着くと、カウンターにいた女性がおしぼりを持ってやってきた。

 物腰の穏やかそうなかなり小柄な女性だ、恵恋と同じくらいだろうか。

 女性はおしぼりを開いて、莉乃姉から先に渡していく。


「はい、どうぞ。」

「あ、すみません。」

「ありがとうございます。」


 御奈坂は俺たちは受け取ったのを見ると、その女性に話しかけた。


「カオリさん、この二人も私のお友達です。」

「そうなんだ。初めまして、ヒロイカオリです。」

「あ、桐生真也です。」

「小湊莉乃です。」

「真也くん、この人が前に言ってたマスターの奥さんだよ。」

「は!?」


 俺は驚いて、カオリと名乗った女性を見る。

 どこから見ても普通の女性だ、武器を隠しているわけでも、強い気配があるわけでもない。

 あの化け物じみたマスターとは釣り合わない、よくできた人に見える。


「あ、カズくんには会ったんだね。今は揃って喫煙中だから、もう少ししたら戻ってくると思うよ。」


 微笑みながらそう告げられたが、あのマスターたちには正直あまり近寄りたくない。

 あれは常識の外側を闊歩する異常だ、近寄りすぎると、その非常識(猛毒)に侵される。


「お二人は何を飲みますか?」

「あたしは紅茶をミルクでお願いします。」

「俺はブレンドをブラックで。」

「かしこまりました、じゃあ少し待っててね。」


 注文をメモに書くと、女性はカウンターに戻って作業を始めた。

 それを確認すると、御奈坂がではと前置きして話し始める。


「今日集まってもらったのは、夏休みに皆で遊ぼうって話し合いをするためです。なので早速ですが自分が行きたいと思う場所、もしくはしたとことを言ってください。」


 行きたい場所か、どうすっかな。

 そもそも普段から遊ぶってことをしないし、計画して何処かに行くのはあまりない。

 そんなことを考えていると、峰岸が無駄に元気な声で手を上げた。


「はいっ、オレは温泉旅行がいいと思うぜ!」

「温泉旅行……。」

「と、とりあえず温泉旅行ですね。」


 御奈坂は几帳面にも鞄から取り出した小さなメモ用紙に、峰岸提案の温泉旅行と書き込んだ。

 何故か逢坂は気まずそうな顔をしているが、何か温泉に嫌な思い出でもあるのか?

 でも温泉か、真夏に行くのはありなのか?

 するといつも以上に冷たい眼をした恵恋が、溜め息を吐いて峰岸を見る。


「ここまで裏の読める提案とは、貴方の低俗っぷりが発揮されましたね峰岸さん。」

「な、何を言ってるんだ冴塚!オレは皆で温泉に浸かって日々の勉強に疲れた身体を休めようとだな…!」

「女性の湯上りを拝もうだなんて、変態はすぐにそういう思考に直結しますね、ある意味感服です。」

「違うんだ、話を聞いてくれ!」

「だがなぁ、確かに峰岸は覗きとかしそうで怪しいな。」

「小湊先輩までそんなこと言うんッスか!?」

「あはは、峰岸くんは信用されてないね。」

「笑い事じゃないって御奈坂!……御奈坂はオレを信じてくれるか?」

「………はい。」

「何なんだよ今の間は―!桐生、逢坂!お前らは信じてくれるよな!?」

「そんなこと考えてたのかよお前、ちょっと感心した俺が馬鹿だった。」

「………最低だね。」

「うぉぉ、オレには味方がいないのかよー!」


 頭を抱えて唸りだす峰岸。

 騒がしい奴だなと思っていると、注文した飲み物を持ってマスターの奥さんがやってきた。


「へぇ、楽しそうな話をしてるんだね。あ、飲み物お待たせしました。」

「あ、どうも。」

「ありがとうございますカオリさん。そうだ、カオリさんは遊ぶなら何処に行きたいですか?」

「え、あたし?」


 莉乃姉に聞かれた奥さんは、苦笑しながらも考え始める。


「あたしは海とかプールとか行きたいけどなぁ、夏だから暑いしね。」

「あぁ、やっぱり涼しい所が良いですよね。」

「夏だ!海だ!水着だ!」

「峰岸さん五月蠅いです。」

「冴塚はオレに対して冷たすぎるぞ!」

「恵恋は誰にでもこんな態度だろ。」

「いや、桐生には若干優しさが篭ってる気がするぞ!」

「そうでもねぇよ、昔から毒を吐かれてばっかだ。」

「失礼ですね、わたしは真也さんにそんな態度をとった覚えがありませんよ。」


 絶対嘘だ、結構容赦ないだろ。


「あの、真也くん。」

「ん、何だ?」

「どうして恵恋さんは名前で呼ぶのに、私のことは名前で呼んでくれないんですか?」

「………は?」


 御奈坂が少し拗ねた顔をして、やけに真面目な声色で問いかけてくる。

 は、名前でってどういうことだ?

 つかなんだよ、今日は周りのやつが揃って拗ねる日なのか?

 そして更に追い打ちをかけるように、御奈坂が話を続ける。


「莉乃さんも恵恋さんも名前なのに、私だけ名字で呼ばれてるのは変ですよ!」

「いやいや、別に変ではないだろ!?それになんだか話が急激に方向転換してないか!?」

「変ですよ!なら何で私は名前で呼んでくれないんですか?」


 クソッ、話を元に戻そうとしたが失敗した。

 こうなった御奈坂は妙な意地を張るからなぁ。


「そう呼ぶのに慣れたからだ、他に理由はない。」

「じゃあこれからもっと親しみやすくなるためにも下の名前で呼んでください、私はその方が嬉しいです!」

「はぁ、なんかよくわかんねぇけど…。」


 呼んだ時に誰だかすぐ判ればいいと思うけどな。

 でも話を逸らしても無駄だろうし、とりあえず呼んでみるか。


「………緋結華。」

「っ!…真也くん、もう一度お願いします。」

「あぁ!?もう言っただろ?」

「いいじゃないですか、これからそう呼ぶための練習です。」

「う……ったく、実は一番強引だよな緋結華って。」

「……何だか自分の名前が好きになれそうです。」

「何だそりゃ。」

「緋結華ばっかりズルい!真也、あたしの名前も呼べ!」

「いつも呼んでんだろ!」

「姉って付いてるだろ、名前だけで呼んでくれ!」

「何なんだよこの流れは……り、莉乃。」

「うはぁぁぁあ、あたし寝る、帰って寝る!この幸せな気持ちのまま夢の世界で真也と!」

「小湊先輩が壊れた!?」

「大丈夫だ逢坂、こうなった莉乃姉は放置するのが一番だ。前にも一度剣道場で暴走してただろ。」

「ふふ、名前くらいで大袈裟ですね皆さん。私は毎回名前で呼ばれてますよ。」

「冴塚、お前も気にしてるじゃないか。」

「気安いですよ変態、変な目で見ないでください。」

「桐生、泣いてもいいかな?」

「は、ウゼェから止めてくれ。」

「うわぁぁぁん!」


 もはや話し合いは何処へ行ったのか、テーブルは大騒ぎだ。

 勝ち誇る恵恋に、顔を赤らめる御奈坂。

 狂喜乱舞する莉乃姉と、俯せで泣いている峰岸。

 俺は逢坂と目を合わせると、揃って溜め息を吐いた。

 それから暫くして落ち着いた頃、漸く話し合いが再開される。


「それで、結局行くのは海になるのか?」

「えっと、皆さん異存がなければ海にしましょうか。」

「あたしは海がいいな、真也と泳げなかったから。」

「あぁ、そういや忘れてさっさと帰ってきちまったな。」

「海だ!断然海だ!」

「わたしも構いません、そして真也さんには日焼け止めを塗ってもらいます。」

「ざけんな、自分でやれ。」

「桐生!そんな素敵な申し出を断るなんて正気か!?」

「その薄汚い手でわたしに触れたら刻みますよ。」

「ひいっ!?」

「逢坂、お前も海で構わないか」

「あ、うん。皆がそれでいいなら。」


 周りを見渡すと、それぞれが頷きを返してきた。


「じゃあ海で決まりだな。」

「そうと決まれば次に行くのは駅前だな!」

「ん、何で駅前なんだ?」

「何でって、新しい水着を買うために決まってるだろ。」

「楽しみですね、どんな水着にしましょうか。」

「わたしもせっかくですし買うことにします。真也さん、荷物持ちは頼みましたよ?」

「は、自分で持てよそれくらい。」

「冴塚、オレが持ってやるよ!」

「判りました、自分で持ちます。」

「何か拒否られた。」

「とりあえず行きましょうか、時間も結構経ちましたし。」


 御奈坂の合図でそれぞれ立ち上がり、いつの間にか戻ってきていたマスターにお金を払う。

 そしてお礼を言って店を出ようとした時、俺はマスターに呼び止められた。


「真也くんだったな君は。」

「あ、何の用だよ。生憎と俺はあんたに用がない。」

「ははっ、どうやら随分と嫌われてるみたいだな俺は。」

「単に信用ならないだけだ。」

「まぁ構わないがね。………真耶さんには会えたのかな?」

「なっ!?」

「ふむ、その反応だけで十分だ。これからは周りだけじゃなく自分も大切にするといい、真耶さんはそればかりを願っていたのだから。」

「はっ、知った風な口を。」

「これは年寄りの戯言だが、信頼と友情はこの世界のどんなものより大切で得難く、また価値あるものだ。だから君がそれを手にしたとき、君にはどんなことだってできるだろう。その優しさを、いつまでも大切に持ち続けるんだ。」

「チッ、余計なことばっか言いやがって。」

「ははは、またいつでも来いよ。迷える若者の相談くらいは乗ってやる。」

「はっ、頼まれても来ねぇよ。」


 マスターに背を向けて扉に手をかける。

 チッ、相変わらず胡散臭い野郎だ。

 外へ出ると、不思議そうな顔で皆が待っていた。


「真也くん、忘れ物ですか?」

「いや、ちょっとな。」

「マスターですか?」

「何でわかった?」

「この前来たときに真也くんの話をしてましたから。」

「俺の話?」

「はい、凄く心配してましたから。その、真耶さんのことで。」

「ふん、余計なお世話だな。」

「でもマスターは凄く人のことを気にする方ですから、何かあったら私も相談してますし。」

「……ったく、俺はそんなに頼りないのかよ。」

「え?」

「何でもねぇ、待たせて悪かったな、行こう。」

「はい、行きましょう。」


 御奈坂が笑顔で応え、前を向く。

 莉乃姉も恵恋も逢坂も峰岸も、同じように俺に笑いかける。

 俺の周りの奴らは何故そんなにも俺を気にかけるんだ。

 確かに俺はまだまだガキだ、人間関係に関してはそこらの小学生にも劣るだろう。

 態度だって好くないと自負しているし、間違いなく嫌われる人間だ。

 それなのに、どうして揃ってそんな笑顔を向けてくれるんだよ。

 終業式でのことにしたって、俺は色々なことを皆に気づかせてもらった。

 そんな奴らに俺は何をどう返せばいいんだ。

 自分のいたらなさに情けなく思いながら、俺は楽しそうに前を歩く五人を眺めていた。




「じゃあ男たちはそこで待っているように、用があったら呼ぶからな。」

「はいっ、いつでも参上いたします小湊先輩!」

「真也はあたしと一緒に来い!」

「断る。」

「断られた!?」

「桐生!テメェこの野郎、オレと代われ!」

「峰岸はそこで待機。」

「イエッサー!」

「じゃあ龍矢くん、少しだけ待っててね。」

「はい緋結華さん、何かあったら呼んで下さい。」

「真也さん。」

「何だよ。」

「わたしに似合う水着を選びなさい。」

「知らん、適当に選べ。」

「冴塚、オレが選んでやるぜ。」

「少しでも店に入ってきたら塵に変えます。」

「男の中でダントツに扱い悪くないかオレ!?」


 そんなやり取りの後、女性陣はとあるデパートの水着売り場へと入っていった。

 取り残された俺たちは、申し訳程度に用意されたベンチに座る。

 はぁ、女の買い物は長いっていうし、一体どんだけ待たされんだろうな。

 隣を見ると、大人しく座っている逢坂が俯いていた。


「どうした逢坂、気分でも悪いのか?」

「え?……あ、違うよ、大丈夫だから。」

「そうは見えないんだが、疲れたのか?」

「ううん、それは平気。ごめんね真也先輩、ボクは元気だよ。」


 明らかに無理をした顔の逢坂が、それでも笑う。

 顔色が悪いってわけでもないから、体調が悪いってことではないんだろうが。


「いちいち遠慮すんな、何かキツいなら言えよ。会った頃の無遠慮さはどうした?」

「無遠慮って、あれはそういうのとは違うよ。でもありがとう、体調が悪いわけじゃないから気にしないで。」

「………まぁ強要はしないけどよ。」

「その気持ちだけで嬉しいよ真也先輩、いつか話すから。」

「ん、あぁ。」


 いつか話すって、問題なのは今の逢坂じゃないのか?

 すると突然、静かにしていた峰岸が勢いよく立ち上がった。


「桐生、オレは行く!」

「お前がそんなに塵になりたいとは驚きだな、俺は助けないぞ?」

「フッフッフ、冴塚はもう水着を選ぶのに夢中だろう。ならば気配を消して近づき、必ずや試着室から出てくる女性陣を見るのが我が務め………待っててください小湊先輩!」


 悠然と女性用水着売り場へと走りだす峰岸、どう見ても変態だ。


「真也先輩、止めなくて平気なの?」

「あぁ放っておけ、どうせすぐに帰ってくる。」

「グハァ!」


 言うが早いが、峰岸が売り場に一歩踏み出した瞬間、その顎には硬い木のサンダルがクリーンヒットしていた。

 大袈裟に倒れる峰岸と、その向こうで足を上げている恵恋。

 その顔にははっきりと、侮蔑の色が現れていた。


「わたしの忠告を無視してこの程度で済むことを神に感謝しなさいこの下衆。」

「な、何故オレが近づくのがわかった!?」

「虫の知らせというやつですよ、嫌な予感がしたので来てみれば案の定です。まったく、少しは大人しくしていられないのですか。」

「くそぅ、オレの作戦は完璧だったはず。」

「真也さん、あなたもきちんとそこのアホな蛆虫を見張ってください。」

「お前なら自分で勝手に撃退すんだろ。」

「その度にわたしは水着選びを中断しないといけないでしょう、そんなの面倒です。」

「あ、なら峰岸先輩はボクが見てるから、真也先輩は冴塚先輩の水着選びを手伝ってあげて。」

「は、何でそうなるんだよ。」

「だってその方が早く決まるし、冴塚先輩も真也先輩がいたら安心でしょ?」

「逢坂さん中々賢いですね、それに比べてこの愚か者は。」

「止めてくれ!その蔑みの目は止めてくれ!」

「では真也さん、早速行きますよ。」

「はぁ、俺は承諾した覚えがないんだがな。」


 恵恋の小さな身体に引っ張られて、俺は目がチカチカするほど色鮮やかな売り場へと連れられて行った。




Eko Side


「どうですかこの布の少ない水着は、流石の真也さんもわたしに欲情しましたか?」

「うるせぇな、いいから黙って選べよ。」

「ではこのほとんど肌の色と変わらない水着は?」

「お前、よくそんなもん見つけたな。」

「もういっそこの大人なエロ水着を。」

「おい恵恋、真面目に選ぶ気がないなら俺は戻るぞ?」

「やれやれ、真也さんは忍耐力がないですね。そんなことでは素敵な女性との出会いもふいにしてしまいますよ?」

「はっ、余計なお世話だ。」


 それきりそっぽを向いてしまう真也さん。

 だけど本当に戻ろうとはせず、私が移動するとちゃんとついてくる。

 何だかんだ文句を言いつつもこうして付き合ってくれるんですから、真也さんもとことんお人好しですね。

 わたしみたいな人間に対しても普通に接してくるし、最近では表情も柔らかくなったように思う。

 そして、その他の人たち。

 真也さんが孤独から少しでも解放されてほしいと集まった五人。

 理由はみんな違いますが、同じ目的を持った人たち。

 不思議ですね、その中にわたしが含まれているというのは。

 昔からあまり人付き合いは得意じゃありませんし、友達と呼べる人もいませんでした。

 高校に入ってもそれは変わらなくて、それでもいいと、どこかで諦めていた。

 色褪せてつまらない日常と、壊れた家庭。

 鏡を見る度に映るわたしの瞳には、いつしか色が無くなった。

 そんな時に突然父が連れてきた、傷だらけの一人の男性。

 桐生真也という名の彼は、わたしと同じ瞳をしていた。

 冷たく暗い色の瞳と、孤独感を漂わせる雰囲気。

 わたしと同じだとすぐに感じた。

 当たり前の日常に溶け込めず、苦しそうな顔をした男性。

 自然とわたしは、真也さんに声をかけていた。

 真也さんは驚いていましたが、わたしは彼を部屋に招き、色々な話をした。

 思えばあの時のわたしは、いつになく饒舌だったと思う。

 きっと嬉しかったんですね、わたしは。

 自分の感覚を理解してくれる相手の存在に、いつ以来かの安心を感じていたんです。

 だからわたしは、真也さんを信じることにした。

 そして最近になって、わたしを頼ってくれたことに喜びもした。

 それは恐らく、他の人たちも同じ。

 ねぇ真也さん、貴方は気づいていますか?

 わたしよりも人付き合いが得意でない貴方が、今はわたしたちの中心にいるということに。

 中には貴方を想っている人がいることも、気づいていないのでしょう?

 真耶さんとご両親の死を乗り越えた貴方は、少しずつ変わってきている。

 それは良いこと、喜ばしいこと。

 でもごめんなさい真也さん。

 わたしはやっぱり、素直に祝福してあげられない。

 貴方は変わっていくのに、わたしは置いていかれてしまう、そんな気がして。

 貴方の交友関係が広がるにつれて、わたしはまた孤独の中に立ち尽くす。

 真也さん、どうしたらそんな風に変われるのですか?

 不安が胸に溢れてきて、不意に苦しくなる。

 振り返るとそこにはちゃんと真也さんは立っているのに、途方もなく遠くにいるような寂しさ。

 わたしは無意識に、真也さんの手を握っていた。

 真也さんが驚くのが、俯いたままでもわかる。

 こんなこと急にされたら真也さんだって困りますよね。

 でも、不安に捕らわれたわたしは、その手を離せない。

 暫くそうしていると、わたしの頭にそっと真也さんの手が乗った。

 そのまま優しく撫でてくれながら、穏やかな声が降りてくる。


「別に何処にも行ったりしねぇから、ゆっくり選べよ。一人で選べないなら、まぁ意見くらいは言うからさ。」

「あ………。」


 その言葉を聞いただけで、胸に凝ったしこりが取れていった気がした。

 真也さんは水着のことを言ったのだろうけど、きっとこの人はなんだって同じだ。

 待っていてくれる、わたしが何かを選ぶまで。

 付き合うと決めたのなら、最後まで嘘にしない。

 ゆっくりでいいから、自分の納得できるものを選べと。

 独りにはならない、ちゃんとわたしを見ていてくれる人がいる。

 安心がそっと広がり、不安が穏やかに消えていく。

 でも恥ずかしくなって、わたしはいつもより少し冷たく返してしまう。


「ふん、当たり前です。今まで迷惑かけられた分しっかり待ってもらいますよ、覚悟してくださいね。」

「何だよ、急に元気になりやがって。」


 呆れたように溜め息を吐きながらも、何処かに行こうとはしない。

 わたしは真也さんに見えないように微笑むと、ふと目に入った白いフリルのビキニを手に取った。


「これは似合うと思いますか?」

「へぇ、恵恋は肌が白いから綺麗かもな。」

「う、なら着てみます。ちゃんと見て、感想を言ってくださいね。」

「大した感想は言えないからな、その辺は期待するなよ?」

「わかってます、真也さんに気の利いた感想は期待してませんから。」

「ったく、ホントに偉そうだなお前は。」


 また溜め息を吐いて、わたしの後に続く真也さん。

 試着室に入ると、来ていた浴衣を脱いで水着に着替える。

 起伏の乏しい自分の身体を見て、少しだけ凹む。

 浴衣ならまだしも、水着だとやっぱり目立つ。

 真也さんはどうなんでしょうか、大きい方が好みなんでしょうか。

 何度も話はしていても、好みの話は今までしたことがない。

 いっそ訊いてみてもいいが、やはり気が引けてしまう。

 というか、何故わたしは真也さんの好みを気にしているのだろうか。

 彼を大切な人だとは思うけれど、恋愛感情ではないと思う。

 それに彼を好きな人は他にもいる。

 他にも……あれ?

 判らなくなって頭を振った。

 どうしたんでしょうかわたしは。


「おい恵恋、大丈夫か?」

「あ、はい、待っていてください。」


 考えが迷走しそうになったところで、真也さんの声が我に返せる。

 落ち着きましょう、こんなのわたしらしくないです。

 気持ちを整えて、試着室のカーテンを開く。

 背中を向けていた真也さんがこちらに振り向き、わたしの姿を見る。

 急激に身体が熱くなる、何しろいつ以来か判らないくらいこういった水着を着ていない。

 学校では指定の水着だし、手足以外はほとんど隠れてしまう。

 だけどこれは、大事な部分しか隠していないのだ。

 今更になってこれを選んだことを後悔した時、真也さんが口を開いた。


「まぁ…その、似合ってると思うぞ。」


 顔を赤くしながらそう告げた真也さん。

 本当に止めてほしい、美人の照れの破壊力を自覚してくれないと困る。

 ただでさえ女性のような綺麗さなんですから、これ以上何を目指すんですか。

 でも、嘘を嫌う真也さんがそう言ってくれた。

 つまりさっきの言葉は、嘘偽りない本心ということだ。

 形容しがたい、だけど温かな気持ちに満たされて、わたしは頷く。


「じゃあ……これにします。」

「あぁ…そうだな。」

「あの、感想がまだなんですが?」

「あぁ、えっと……恵恋って綺麗な肌してるよな。」

「なっ!?」


 まったくこの人は鬼ですか、わたしを恥ずかしさで倒れさせるつもりですか!

 不意打ちの照れ褒め攻撃とは、小湊さんがデレデレなのも解る気がします。

 よし、ここは反撃のしどころですね。


「真也さ…。」

「し~ん~や~?」

「え?」


 わたしが口を開いた直後、地の底から響いてくるような声がそれを遮った。

 わたしの目の前では、既に諦めた顔の真也さんが軽い挨拶でもするように手を上げている。


「どうやら恵恋に付き合えるのはここまでのようだ。」

「そのようですね、わたしの分まで嫌味を受けてきてください。」

「まったく、他人事みたいに言いやがって。今日はなんか厄日っぽいのに。」

「うふふふふ、あたしを放置して楽しそうだなぁ真也。」


 素敵な笑顔に不穏なオーラを纏った小湊さんが、幽鬼よろしく陳列品の陰から姿を現す。

 あれだけ綺麗な笑顔なのに目は笑ってないって凄いですね、真也さんにはお別れを言うべきだったでしょうか。

 諦めて力を抜いている真也さんの腕を、小湊さんが絶対に逃がさないと言うようにしっかりと抱きしめる。


「冴塚の水着選びは終わったな?なら今度はあたしの番だ、真也の好みを絶対選んでもらうから。」

「好みなんてねぇよ、莉乃姉が好きなのを選びやがれ。」

「待たされた分のアドバンテージは確保する、必ず真也に選ばせるからな。さぁ、いざ出陣!」


 高笑いしながら真也さんを半ば引きずるようにして連れて行く小湊さん。

 真也さんはわたしを見て苦笑しながら嘆息すると、そのまま大きいサイズが集まっているエリアに向かっていった。

 わたしはそれを見送ると、試着室のカーテンを閉めて水着から浴衣に着替える。

 試着室から出ると、手にした白いフリルのビキニに視線を落とす。


「これはわたしに似合うと言ってくれましたが、真也さんの好みとは違うのでしょうか。」


 一人きり、疑問の独白を終えると、胸の中の靄を振り払うように頭を振る。

 その靄が寂しさという感情であることに気づかないように、足をレジへと向けた。

 似合ってると、そう言ってくれた、それだけで十分だ。

 高望みは身を滅ぼす。

 それが何故高望みだと思ってしまったのかはさておいて、思考を停止させる。

 せっかくの嬉しさを消してしまわない内に、わたしは珍しく増える私物を抱きしめるのだった。




 俺が漸く解放されて店を出ると、待っていた逢坂が笑いかけてきた。


「おかえり真也先輩……なんか疲れてるね。」

「あぁ、莉乃姉にやたらと振り回されたんだよ。その後で御奈坂にも捕まって散々だ。ったく、俺に似合うかどうか訊かれてもわからねぇっつの。」

「あはは、大人気だよね真也先輩は。」

「俺を困らせて楽しんでるだけだろ………で、あの馬鹿は何処に行ったんだ?」


 俺は周りを見回しても見つからない峰岸を探しながら、逢坂に尋ねる。


「峰岸先輩はお手洗いだけど…。」

「それならいいんだが、どうも不安だな。」

「せっかくカッコいいのに勿体ないよね、もう少し落ち着きがあればモテると思うんだけど。」


 後輩に冷静な分析をされてる時点で救いはなさそうだなとは、流石に口にはしない。

 学校でも憎めない馬鹿野郎として通ってるらしいが、あれはそれでいいのか?

 そうこうしている内に、水着売り場からそれぞれ紙袋を持った三人が出てきた。


「お待たせしました。」

「真也の選んでくれた水着だ、あっはっは!」

「大人しく待っていましたか、それならいいのです。」


 三者三様の言葉を発しながら、続くのは同じような台詞。


「あの、峰岸くんは?」

「峰岸のやつが見えないが?」

「憐れにも思えない稀代の愚者は何処へ?」


 あいつはある意味じゃ人気者だと思いつつ、逢坂と顔を見合わせて苦笑する。

 逢坂が俺にしたのと同じ説明をすると、御奈坂は苦笑、莉乃姉は呆れ、恵恋は明らかな苛立ちを顕わにした。

 そこに、空気も読めず水着売り場からのこのこと出てきた容疑者峰岸、いっそ狙ってたのかと訊きたくなるようなタイミングだ。

 数秒後には確実に恵恋のサンダルを食らうだろうアホは、清々しくも両手を広げて叫ぶ。


「ここはまさに楽園エデンであった!」

「月の裏側まで吹き飛びなさい女性の敵!」


 珍しく大声を上げて峰岸に断罪の一撃を叩き込む恵恋。

 まぁ仕方ないだろ、一撃で済んだだけでも儲けものだ。

 地に臥した峰岸に吐き捨てるような一瞥を向け、恵恋を先頭にした女性陣はすたすたと先に行ってしまった。

 逢坂も流石に庇いきれないのか、御奈坂について先に行く。

 俺は溜め息を吐くと、倒れた峰岸の隣にしゃがみ込む。


「おい、早く起きないと置いて行かれるぞ。」

「おぉ桐生、お前だけだぜオレを放置しないのは!これからは親愛を込めて真也と呼ばせてくれ!」

「はっ、断る。」

「なんですとっ!?」

「いいから起きろよ、そろそろ見えなくなるぞ。」

「それはマズいな、床も冷たいし起きるか。」


 それほどダメージはなかったのか、割とあっさり起き上がる峰岸。

 俺はそれを確認すると、振り返らずに歩き出す。

 隣に並んだ峰岸は、黙っていられないのか話しかけてきた。


「桐生はさ、好きな人とかいないのか?」

「は?また唐突だなお前は。」

「いやぁよく考えたらさ、オレってあんま桐生のこと知らないなって思ったのよ。」

「どうでもいいだろ俺のことなんて。」

「友達のことを知りたいって思うのは当然だと思うけどな、これから話すことだって増えるだろ?」

「……まぁ、そうなるのか?」

「何でそこで疑問形なんだよ、休みの日とか遊ぼうぜ!」

「俺と遊んでどうすんだよ。」

「桐生って見た目がスゲェじゃんか、一緒にいるだけで恩恵にあやかれそうだ。」

「くだらねぇな、大体お前は見た目悪くないんだ、あやかる必要もないだろうが。」


 素直な感想を述べると、予想外の台詞だったのか峰岸がテンションを上げて騒ぐ。


「おぉ、桐生にそう言われるとなんか自信がつくぜ!よっしゃ、早速女の子に声かけに行くぞ!」

「ったくテメェは、さっきの出来事はもう頭から抜け落ちてんのか?懲りないにもほどがあるぞ?」

「あのな桐生、過去に捕らわれてっと先へは進めないんだぜ!」

「…そうかもな。」

「何か意味深な反応だな、心当たりでもあんのか?」


 チッ、妙なところで目ざといな。

 だが今のは俺も悪い、あからさまな反応だった、今後は気をつけないと。


「何でもねぇよ、とっとと行くぞ。」

「ちょ、置いてくなって。」


 特に気にした様子もない峰岸を放置して先に進む。

 ホント、こいつが馬鹿でよかったと思ったのは初めてだ。

 そうして終わった半日。

 陽はまだ明るいが、明日のことを考慮して早めの解散となった。

 木野塚駅前で、俺は莉乃姉の隣に立ち四人に向き合う。


「真也のエスコート!」

「はいはい…じゃあ俺は莉乃姉を送ってから帰るわ。」

「はい、お気をつけて。また明日、並木駅前で会いましょう。」

「あぁ、そっちも明るいが気をつけろ。峰岸、ちゃんと送れよ。」

「任せとけ桐生、オレは女性をきちんとエスコートできる男さ!」

「……恵恋、逢坂、峰岸をちゃんと見張っとけ。」

「うん、気をつけろよ。」

「当然です、余計な素振りを見せようものならすぐにでも。」

「ちょっと待て、オレはすぐにでも何かされるのか!?」

「ふん、無事に家に帰りたければ大人しくすることですね。」

「桐生、オレを家まで送ってくれないか?」

「それは大人しくするつもりはないと受け取っていいのか?」

「やはり今の内にトドメを。」

「オーケー冴塚、植物のように大人しくしようじゃないか。」

「賢明な判断です、手間が省けるのはこちらとしても僥倖ですからね。」


 そんなやり取りに笑い合うと、俺たちは別れを告げて帰路についた。

 夏休み特有の人混みの中を、二人並んで歩いていく。

 すれ違う人達はどこか浮かれていて、さっきまでは自分も同じように見えていたのかと考えると、少し不思議に感じる。

 対照的に物憂げなのはスーツを着たサラリーマンたちで、疲れた身体に照り付ける太陽熱に小さく弱音を吐きながら、パタパタと忙しなく先を急ぐ。

 そんな暑さや喧騒もなんのそので、莉乃姉は手にした紙袋を大事そうに抱え、俺に話しかけてくる。


「ありがとな真也、凄く可愛いのを選んでくれて。」

「選んだっつっても、決めたのはほとんど莉乃姉だろ。お礼を言われるような働きはしてないと思うが?」

「いやぁ、あたしは買い物になると中々これって決められないからな、だからこうしてすぐに決められたのは真也のお陰だ。」

「まぁ満足いく買い物だったなら良かったが。」

「うん、明日はあたしの晴れ姿に括目せよ!真也なら特別にお触りも許す、因みに抱き締めてくれたら大はしゃぎです、お試しあれ!」

「そんなことできるか!」

「それはそうと真也、今日はウチに寄っていかないか?二人もたまには会いたいって言ってたし、夕飯くらい食べていけ。」


 莉乃姉の家か。

 確かに最近顔を出してないし、特に予定もないからな。


「まぁ構わないが、二人とも元気にしてるのか?」

「あぁ、休みの日とかはあたしも園の仕事を手伝ったりしてるからな。早くあたしたちの子供の面倒を見たいって張り切ってるぞ。」

「ったく、相変わらずだな。そういうことを臆面もなく言えるのは莉乃姉と一緒か。」

「ふっふっふ、小湊家の家訓は誠実に正直に、だからな。」


 自慢げに語る莉乃姉は、嬉しそうに笑う。

 莉乃姉のご両親は小さな保育園を営んでいる。

 優しく人当たりのいい性格のお陰か、近所では人気の保育園だ。

 莉乃姉も将来は跡を継ぐのだと意気込み、大学も県内の保育大学を目指している。

 たった二人で働いているからか、顔を合わせる度に「真也くんにも跡を継いでほしい。」だなんて言うもんだから、俺としては対応に困るのだが。


「わかった、なら今日はお邪魔する。」

「よし、なら早速行こう!」


 飛び跳ねそうなほど喜ぶ莉乃姉は、俺の手を取ると走りだす。

 俺は溜め息を吐いたけれど、不思議と呆れたものではなくて、嫌じゃない気分のまま莉乃姉の後に続いて走りだした。




 木野塚町の中でも南側の地区、少し歩けば並木町に入るような端に莉乃姉の自宅は建っている。

 ご両親が営んでいる保育園は別の場所にあるが、そこからもそれほど離れているというわけではない。

 暖色系の色彩が目立つ洋風の二階建て一軒家は、日中の陽射しの中では一層際立って見える。

 莉乃姉に連れられてやってきた俺は、何ヶ月ぶりかに目にしたその建物にちょっとした懐かしさを感じていた。


「この時間だとまだ二人は帰ってないから、真也はシャワーでも浴びて汗を流したらいい。」

「そこまで世話になれるか、入るなら莉乃姉が入ればいいだろ。」

「ふむ、風呂上がりの無防備さを晒して、真也の中の獣を呼び覚ますのも一つの手か。」

「それはないから、下らないこと言ってんな。」

「あっはっは、じゃああたしは入らせてもらうとするよ。身体中汗でべたべたして気持ち悪いんだ。」


 莉乃姉は笑いながら鍵を回すと、俺を中へと招き入れた。

 莉乃姉のただいまという言葉に続けてお邪魔しますと告げ、靴を脱いで上がり込む。

 鼻孔を抜ける莉乃姉の家の匂いは、何かの花を連想させた。

 莉乃姉が頑張っているであろう掃除の賜物か、見える範囲に汚れらしいものはない。

 玄関から左手に居間とダイニングがあり、奥には風呂場やお手洗いがあったはずだと記憶を辿る。

 右手に見える階段は、莉乃姉たちの自室に続いているはずだ。


「真也は先にあたしの部屋に行っててくれ、あたしはシャワーを浴びてから飲み物を持っていく。あとついでにこれも部屋に持っていってくれ。」

「あぁ、了解。」


 莉乃姉から紙袋を受け取ると、一階の奥に向かう莉乃姉を見送って一人階段を上がる。

 二階には部屋が四つあり、一番階段から遠い部屋が莉乃姉の部屋だ。

 扉の前に立つと、幾ばくかの間を開けてから部屋に入る。

 家の外観と同じように、優しい色で統一された部屋。

 壁際には竹刀と弓が立て掛けてあり、それだけがやはり浮いて見える。

 俺は床に置かれたクッションに座ると、紙袋をベッドの上に置いた。

 昔はよく真耶姉さんと遊びに来て、日が暮れるまで喋ったりしてたな。

 姉さんも母さんも父さんもいなくなってからはほとんど近寄らなくなったが、莉乃姉からはよく遊びに来いと誘われていた。

 数々の思い出に彩られた室内の景色は、はっきりとその光景まで目に浮かんでくる。

 だからこそ、独りだった俺はここに近寄ろうとしなかった。

 断る理由なんて毎回違ったけど、結局のところ根本にある理由は同じだったんだ。

 懐かしい光景の中にいるその姿に、俺は目を背けたかったから。

 まだ微笑みを浮かべて乗り切れたわけじゃない、二度目の別れはやはり辛かった。

 未練がましいけど、大切な人ほど痛みは強まる。

 でも今は、少しだけマシだ。

 叶うはずのなかった別れの言葉を、今度は互いに伝えることができたのだから。

 それは奇跡で、願えば叶うというものではなかった。

 だから俺は凄く幸運なのだろう。

 少なくとも、大切な人との永劫の別れがあれば、本当に二度と会えない。

 でも俺は再び出会い、言葉まで交わすことができた。

 なら落ち込んでいるなんて嘘だ、俺は頑張るためのきっかけを貰えたんだからな。


「お待たせ真也、麦茶でよかったか?」


 ノックの後で、麦茶の入ったグラスが二つ乗ったお盆を持った莉乃姉が入ってきた。

 扉を開けた際の風に乗って、ふわりとシャンプーの匂いが漂ってくる。

 普段は結んでいる髪を下している莉乃姉に少しドキッとしながらも、俺はお盆を受け取った。

 俺がお盆をテーブルに置くと、莉乃姉は俺の隣に座って頭を肩に預けてくる。

 その無防備さに呆れながら、しかし流石に嫌がりはせずに受け入れた。


「疲れてるのか?」

「え、どうして?」

「いや、最近よくこうしてくるからさ。前まではそうでもなかったのに、急にどうしたのかと思って。」

「解ってはいたけど、真也ってホントに鈍いよな。」

「鈍い?」


 何が鈍いのかいまいち判らない。

 こういうことをされるのは嫌ではないが、対応にはかなり困る。

 何かするべき反応があったのかもしれないが、どうにも俺はそういうのに疎い。

 浮かばない答えに首を傾げていると、今朝と同じように俺の膝に頭を乗せ替えた莉乃姉が、下から俺を見上げて問いかけてくる。


「緋結華たちとは仲良くなれそうか?」

「…そうだな。なれるかは判らないが、なりたいとは思えるようになった。」

「そうか…良いことだな。」


 目を閉じてそう頷いた莉乃姉。

 でもその仕草には何処か哀愁のようなものがあって、それが何故だか俺には判らない。


「あたしは真也が好きだ。」

「………。」

「なぁ真也、あたしはどうすれば真也に好きだと思ってもらえるんだ?」

「………俺にだって解らない。」

「どうして?」


 真剣な瞳で理由を問う声。

 俺は記憶の中からその理由を探す。

 真耶姉さんのことを好きだと気づくまでに、何か理由はきっかけがあったのかと。

 日々の仕草や、言葉の数々。

 共に過ごした時間は多い。

 だが同じくらい莉乃姉も同じ光景の中にいる。

 違いは何だったのか、どうして莉乃姉ではなく真耶姉さんだったのか。

 どれだけ考えても答えは出ない。

 でもそれも仕方がないことだろう。

 これはつまり、真耶姉さんにあり、莉乃姉は劣る部分を探す作業だ。

 そんな答えを、俺が出せるはずもない。

 答えはあっても見つけようとは思えない以上、それは無いのと変わらないな。


「俺には人を好きになる過程がわからないんだ。姉さんを好きになった時だって、いつからだったのかも定かじゃない。気がついたら好きになっていた。それが禁忌とされるようなことだとしても、そう思ってしまった。だから、その問いに答えるのは難しい。」

「……そうか。ごめんな真也、嫌な質問をしてしまった。」

「いや、気にしてない。俺も莉乃姉の告白への応えをずっと保留してるんだ、莉乃姉からの言葉にはできるだけ答えようと思ってる。だけど俺からも質問していいか?」

「うん、もちろんだ。」

「どうして突然そんな質問を?」

「………はぁ、まったく鈍いな真也は。まぁ気づいてしまったらきっと大変だろうけどな。」

「は?」


 どうしてそこで鈍いってまた言われなきゃいけないんだ。


「その答えはあたしだけが答えていいものじゃない、でも近いうちにきっとわかるだろうな。まぁあたしの答えとするならば、焦りだろうな。」

「焦り?」

「目的は同じでも、それに対して感じるものはそれぞれ違うってこと。」

「ますます解らないな、なぞなぞか?」

「頭が良くても鈍い真也にはわからないだろうな。」


 楽しそうに笑いながら莉乃姉はそう言った。

 何だそりゃ、訳が判らない。

 つか、ここまで鈍いと連呼される俺ってどれだけ鈍いんだろうな。


「さて、お喋りはここまでにしようか。真也の温もりは名残惜しいが、そろそろ夕飯の準備を始めないと。」

「あぁ、おじさんたちが帰ってくる頃か。」

「うん、今日は真也もいるし頑張って作るぞー!」

「それは楽しみだな、期待してる。」

「あーっはっはっは、任せとけ!あたしは真也のためならいくらでも頑張れるさ!」


 気合十分に立ち上がった莉乃姉は俺に麦茶のグラスを渡してきた。

 俺はその意味を察して笑いながらそれを受け取ると、腰に手を当ててグラスを掲げる。


「夏にはきちんと水分補給!」

「ははっ、だな。」


 グラスを打ち合って、そのまま一息に飲み干す。

 さっきまでの雰囲気を振り払う、そんな意味を含んだ一気飲み。

 少々強引だが仕方がない。

 やはり莉乃姉には笑顔がいい、それが俺のせいで曇ったのなら尚更に。

 できれば不安は解消してあげたいが、こればかりはそう簡単ではない。

 すぐに答えが出るのなら、とうの昔に俺たちは付き合っているだろうし。

 できるならばお互いが納得できる答えが出ることを願いつつ、俺たちは階下へと降りていった。




 莉乃姉が夕飯を作っている間、俺は料理をするその姿を眺めながら寛がせてもらっていた。

 リビングにはテレビと向かい合うように大きめのソファーが置いてあり、ダイニングキッチンにはテーブルと椅子が並んでいる。

 俺は椅子の一つに座りながら、てきぱきと料理を進めいていく莉乃姉を感心しながら眺める。


「ホント、何をしてるのかさっぱりわからないな。」

「これくらいのことでそんな、どれだけ普段から炊事をしないんだ真也は。そんなに難しいことをしているわけじゃないぞ、練習すれば真也にだってできる。」

「ふうん、そんなものか。そういえば俺も珈琲くらいは淹れられるようになったぞ。」

「ほぉ、それは進歩じゃないか。真也がマグカップをしまっている棚を知ったとは。」

「そっちかよ!?」

「でも真也、あたしに任せっきりでキッチンは未知の領域のままだろ?」

「う、まぁそれは否定できないが。」


 そもそも前だって真耶姉に任せてたからな、面倒だからいいやって覚えようともしてなかったし。


「料理は楽しいぞ、手間をかけた分だけ美味しくなってくれる。真也も朝食に出るものくらい作れるようになったらいいんじゃないか?」

「朝食?目玉焼きとかトーストとかか、確かにそれなら自分で用意できた方がいいな。」

「ふふふ、目玉焼きを綺麗に焼くのは難しかったりするんだぞ。」

「え、ただフライパンに卵を割り入れるんじゃないのか?」

「それだけだと上手く焼けないんだ、実はな…。」


 莉乃姉は料理の手を止めないまま、少しずつ俺に知識を教えてくれる。

 初めて聞くような単語が出てきたり、説明されてもさっぱりな話もあったが、それは意外なほど面白そうな内容だった。

 莉乃姉は人に興味を持たせるのが上手いのかもしれない。

 そんな中でも着々と莉乃姉の手は進み、そろそろ料理が出来上がるという頃、玄関の方で鍵を開ける音がした。


「あ、帰ってきたな。真也、悪いが出迎えてくれるか?」

「あぁ、もちろんだ。」


 頷いて玄関に向かう。

 リビングの扉を開けると、そこには手提げを持った男女が靴を脱いでいた。

 二人は俺の姿を認めると、柔和な笑顔で話しかけてくる。


「おや、久し振りじゃないか真也くん。」

「お久しぶりです幸弘さん、美鈴さん、お邪魔してます。」

「あらあら、ご丁寧に。相変わらず素敵ね真也くん。」

「いえ、そんなことは。」

「莉乃は部屋かな?」

「今はキッチンで夕食を作ってます、もう出来上がるかと。」

「そうか、それは楽しみだな。では私たちは荷物を部屋に置いてくるよ。」

「はい、莉乃姉にもそう伝えます。」


 笑顔の二人が階段を上がるのを見届けるとリビングへ戻る。

 丁度作り終えたところだったらしく、莉乃姉がエプロンを外しながらキッチンから出てきた。


「荷物を置いてくるってさ、すぐに降りてくるだろ。」

「そうか、ならもう準備をしてしまおう。」

「それくらいなら手伝うよ、こんくらいしか役に立てない。」

「ありがとう真也、お皿の場所はわかるよな。」

「あぁ、自分の家の棚よりは熟知してる。」


 勝手知ったる人の家。

 昔から何度も食事をご馳走になっているから、流石にその辺りは覚えている。

 和食に合いそうな皿を選んで並べると、莉乃姉が香り立つ料理をついでいく。

 その匂いを嗅ぐと、思い出したように空腹感が湧いてくる。

 そんな料理の数々を並べ終えた頃、リビングの扉が開いて二人が入ってきた。

 幸弘さんと美鈴さんは、準備を終えた料理を見て微笑む。


「素晴らしいな、まるで新婚夫婦のようじゃないか。」

「あっはっは、流石はお父さんわかってるな!」


 訂正だ、見てたのは料理じゃなくて働き合う俺たちの方か。

 仲良く笑い合う親子三人。

 それは微笑ましく、円満な家庭そのものだ。

 とある小さな現実なんて、この家族には障害にすらならない。

 二人は人格者だし、莉乃姉も悩んでるってわけじゃないなら、それはもう済んだことなんだ。

 まぁ、どちらにせよ溺愛が過ぎると思うがな。

 このやり取りだっていつもの通りだ、いつか自然に婚姻届を手渡されても不思議じゃない。

 それだけ二人からも信頼されている証ではあるが、ここまで開き直られると困る。

 柔和で口数の少ないイメージの二人も、この話題になると妙にテンションが上がるらしい。


「真也くん、孫の名前はもう決めたのかな?」

「幸弘さん、唐突に冗談はやめてください。」

「冗談なものか、ねぇ美鈴さん。」

「そうですよ、私も早く見たいわ。そうよ、真也と莉乃から一文字ずつ取って真莉しんりなんてどうかしら?」

「美鈴さん、今度こそ笑えません。」

「真也はあたしとの結婚が不満なのか!」

「水を得た魚のようにテンション上げんな、ここぞとばかりに反撃しやがって。そもそも付き合ってすらいないだろうが。」

「だから何度も言ってるだろう…好きです、付き合って真也!」

「おやおや美鈴さん、これはお赤飯が必要じゃないかな?」

「そうですね幸弘さん、私、今から買ってきますね。」

「ちょ、話が大事に!?」


 楽しそうに笑う小湊家族。

 この三人が揃うと途端にこれだ、俺も実は無意識にこれを避けてここに来なかったのかもしれん。

 いくら昔馴染みとはいえ、こうも臆面もなく結婚とか言われるのは困る。

 確かにこの世界で一番と言えるほど長く一緒にいるし、その分だけ仲もいいけど、流石に付き合ってすらいないのに結婚は無理だ。

 その好意には感謝するが、まだ俺には色々と早すぎる。

 姉さんに言われた、幸せになってほしいという言葉。

 その願いをカタチにするなら、簡単には選べない。

 だから答えが出るまでは、困らされるのも仕方ないな。


「さて、莉乃の作ったご馳走だ、冷ましてしまうのは忍びないな。早速頂こうか。」

「いつもありがとうね莉乃、お母さんも助かってますよ。」

「これくらいなんでもないよ、役に立ててるなら嬉しいし。」


 一家揃っての家族団欒はこうして始まり、料理はみるみる減っていく。

 美味しい食事に仲の良い親子。

 御奈坂の家もそうだったが、やはりこの地盤がなければまともな人格は形成されない。

 俺も姉さんがいなくて家で一人だったら、きっと今の俺はなかったはずだ。

 当たり前であるべきその光景を眺めながら、三人の会話に耳を傾ける。


「旅行はどうだったんだ莉乃、まだ話は聞いていなかったね。」

「素敵な場所だったよ、太古の森がいまだに残っているのは貴重だと思う。」

「それは素敵ね、私も行ってみたいわ。真也くんの保護者の方にも御挨拶しないといけませんものね。」

「龍鉄さんも沙耶さんも素敵な人たちだよ、娘さんの空さんはこっちで喫茶店を開いてるんだ。」

「ほぉ、それは立派だね。莉乃、負けるんじゃないぞ?」

「うん、真也が浮気しないようにあたしも努力する。」


 …なんつーか、この両親あっての娘だよなぁ。

 相変わらず俺を無視して繰り広げられる娘の恋愛関係の話を、俺は黙って聞いている。

 何か加わったら余計な事態を招きそうだ。

 放っておいても悪化はするだろうが、被害は少ないに越したことはない。

 話は既に俺と莉乃姉が結婚を前提に付き合っている体で進んでいくが、当然のことながらそんな事実はどこにもない、単に三人の中での事実だ。


「そうか、真也くんの周りにはそんなに素敵な女性が多いのか。」

「うん、これはうかうかしてられない。あたしのアドバンテージである幼馴染属性だって、今はあまり役に立ってないから。」

「それなら莉乃、もう既成事実を作ってしまえばいいのよ。」


 おいおい美鈴さん、娘にいう台詞じゃないですよ?


「やっぱりそれしかないのかな。できれば付き合ってからしっかりお互いの同意の上でがよかったけど、あたしも覚悟はずっと前からできてるし。」


 母親のとんでもねぇ発言に神妙な顔で頷く娘。

 莉乃姉、頼むから早まらないでくれ。


「せっかくだ、今日は泊まってもらいなさい。チャンスは生かさないともったいない、私たちもしっかりサポートしよう。今夜は家を空けるよ、それなら莉乃も気兼ね入らないだろう?」

「ありがとうお父さん、あたしも頑張って夜這いする!」

「うふふ、頑張るのよ莉乃。」


 今すぐ帰りたい。

 このままじゃほぼ強制で宿泊確定な上に、両親の口車に乗せられた莉乃姉に襲われる。

 つかご両親、サポートの仕方を間違えすぎだ。

 そして莉乃姉、チラッとこっちを見るな。

 はぁ、そろそろ参加しないとマズい流れだ。


「申し訳ないですが泊まれませんよ、家に夏音が待っているので。」

「夏音?…真也くん、まさか女性と同棲を?」

「違います。猫の名前ですよ、最近飼い始めた仔猫です。」

「そうか、それは安心だ。だが泊まれないのか、残念だね。」

「ホントよねぇ、またとないチャンスだと思ったのだけど。」


 そうですね美鈴さん、もうあまりここには来たいと思えません、身の危険を感じます。


「そうだ、明日は皆で海に遊びに行ってくるよ。」

「それはいいな、楽しんできなさい。因みに真也くんも行くのかな?」

「え、えぇ。」

「なんだ莉乃、まだチャンスはあるじゃないか。」

「うん、海であたしの魅力に真也を酔わせる!」

「うふふ、他の娘に取られちゃダメよ。」


 ダメだ、こいつらめげねぇ。

 それどころか明日にも関わるのかよ、勘弁してくれ。

 そんな賑やかさに急かされるように、莉乃姉の作った夕食はあっという間に空になった。

 莉乃姉が食器を洗っている間、俺は二人が見ているテレビを何となく眺める。

 他愛のないトーク番組を見ていると、幸弘さんが話しかけてきた。


「真也くん、明日は莉乃を頼むよ。」

「はい、大丈夫です。」

「君のそういう真面目で誠実なところは好きだよ、本当は君を息子として迎え入れたいくらいだ。」

「………。」


 穏やかで慈愛に満ちた瞳。

 あぁ、この人は本気だったのだと、否応なしに伝わってくる。


「でもよく考えたらダメだね、家族になってしまったら莉乃が結婚できない。」


 あぁはいはい、そういうことですね。


「そうよね、莉乃がそれでは辛いもの。

「あたしも真也と住みたいとは思うけど、姉と弟じゃ付き合えないからな。」

「はぁ、まったく。」


 凄まじい過保護っぷりだ、家族単位で将来を狙われるというのも怖い話だな。

 呆れつつも時計を見ると、時刻はもう19時を過ぎようとしていた。


「そろそろ俺は帰りますよ、明日の準備もまだですし。」

「おや、そうかい。残念だが仕方ないな。莉乃、真也くんが帰るそうだよ。」

「なにぃ!?本当に帰るのか真也!」

「当たり前だろ、夏音を放置できない。」

「なら夏音を連れてきたらいい、準備も済ませれば泊まれるだろ。」

「また戻って来いってか?流石にそれはない。」

「むぅ、ならせめて途中まで送るよ。」

「は?大丈夫だ、別に危険もないし、あっても俺は平気だ。」

「真也くん、少しでも長く一緒にいたいという気持ちを汲んでやってくれ。」

「…じゃあ、すぐそこまでな。」

「お父さんナイスアシスト!」


 無言でサムズアップする父親と、満面の笑みでガッツポーズする娘、なんだこの絵面。

 何か色々とツッコみどころ満載だが、とりあえず全てに声を出してたら疲れそうだから保留、いつかまとめて言おう。


「じゃあ二人とも、お邪魔しました。」

「邪魔なものか、またいつでも来なさい。さっきはああ言ったが、私たちは君を息子として見ているんだから。」

「自分の家に帰るのに遠慮なんていらないでしょう?」

「…ありがとうございます、そうさせてもらいます。」


 胸に溢れる感情が気恥ずかしくて、誤魔化すために俺は頭を深く下げた。

 四人で玄関まで行き、靴を履いてからもう一度お礼を言うと、莉乃姉と一緒の小湊家を出る。

 流石に夏とはいえ落陽を迎えた住宅街の中を、二人並んで歩いていく。

 その時間は短く、雪が地面に溶けていくような儚い一時。

 莉乃姉はそれを少しでも長引かせようと、いつもよりゆったりとした歩調だ。

 俺との時間を大切に思ってくれている莉乃姉、その気持ちに応えられないでいる自分。

 情けない話だが、俺はまだ恐れている。

 相手が誰であれ、大切な人を作ってしまうことを。

 大切だと感じる度に、事故の光景が痛みを伴って脳裏に焼きつく。

 これを乗り越えない限り、姉さんが言う幸せってやつには届かない気がする。

 だけどどうすればこの傷は癒えるんだ。

 心的外傷トラウマに対する薬なんてない。

 薬の代わりとなる何か、それを探さないと治らないんだ。

 でもそんなものどうしたら。


「真也は優しいよな。」

「……どうしたんだよ突然。」

「誰よりも辛い気持ちのはずなのに、それでも周りに気を遣うだろう?今の心と向き合おうとしてるんだ、普通なら自分のことだけで精一杯だろうに、あたしや他の人の気持ちも汲もうとする。それはやっぱり芯から優しくないとできないことだ。」


 穏やかに微笑みながら歩く莉乃姉の髪が、ふわりと風に揺れる。

 俺は無言で隣を歩きながら、莉乃姉の声に耳を傾けた。


「過去の痛みが癒えないままで恋愛なんかしたら、きっと真也は辛くなる。やっとそのことに気がつけたんだ、だから今までごめんな。」

「いや、謝ることじゃない。確かに莉乃姉の言う通り、俺はまだ大切な人を作ることに怯えている。」

「じゃあ少し意地悪な質問をするぞ?」

「なんだ?」

「大切ってどれくらいだ?今のあたしじゃ、大切な人には含まれないのか?」

「………。」


 俺は言葉を発せず、立ち止まった莉乃姉の目を見る。

 そうだ、大切な人と言うのなら、莉乃姉は既に十分大切な人だ。

 それなのに俺は何を怯えていた。

 既にいる大切な人を守るというのに、怯えていてはダメじゃないか。

 大切ってことは、失いたくないってことだ。

 俺はもう、莉乃姉もあいつらも、失いたくないと思っている。

 好きとか嫌いとか、大切の基準はそういうことじゃない。

 こんなことに気がつかなかったとは、何度も鈍いと言われるわけだ。


「ふふ、真也は考えすぎなんだ。もう少し肩の力を抜いて、前向きに物事を見てみたらいい。真耶だってそれができたから、あんなにも楽しそうだったのだろうし。」

「前向きに見る…か、そうだな。」

「あはは、憑き物が落ちたような顔になったな。」

「…あぁ、莉乃姉のお陰だな。」

「あっはっは、あたしも真也の役に立てるんだな。」

「何言ってんだ、莉乃姉はいつだって俺のことを助けてくれるだろ。」

「あはは、そう言ってもらえると嬉しいな。」

「うん、俺も前向きに見てみる。そうだな、まずは皆のことをもっと知ってみよう。」

「おぉ、それはいいな。」

「それで莉乃姉、告白への応えのことなんだが…。」

「あぁわかってる、まだ待つよ。真也が色々なことを知って、ちゃんと考えた上であたしのことを選んでくれたら、あたしも本当の意味で幸せになれるんだと思うから。」

「ごめんな、待たせてばかりで。」

「いい女は好きな男のためにいつまでも待つものだ、だから真也はゆっくり気持ちを整理してくれ。もしそれで真也があたしを選ばなかったとしても、それは仕方のないことだ。」


 莉乃姉は苦笑して、でもすぐに元気な笑顔を俺に向ける。


「でもな真也、あたしはただ黙って真也を見守るわけじゃない。あたしだってもっと女を磨いて、真也に選んでもらえるように努力するつもりだ。」

「莉乃姉には敵わないな、俺もまだまだだ。そりゃ鈍いって何度も言われても仕方ない、こんな単純なことにも気がつかなかったんだからな。」

「……はぁ、まぁそのこともあるんだけどさ、真也はやっぱり鈍いよ。」

「は?他に理由があるのか?」

「気にしなくていいよ、今はまだ知らなくてもいいんだ。自分のことが解ってないのは、きっと真也だけじゃないから。」

「ん?」


 謎かけのようなその言葉に、俺は首を傾げる。

 莉乃姉は口元に笑みを浮かべながら歩き出し、俺もそれに続いていく。

 やがて住宅地の入り口に辿り着くと、莉乃姉は俺に振り返った。


「よし、名残惜しいけどここまでにしておこうかな。」

「ありがとな、色々と。」

「いいや、あたしも朝から迷惑をかけてしまったしお互い様だな。明日はうんと楽しもう真也。」

「あぁ、そうだな。きっと皆のことを知るいい機会でもあるし、俺も変わっていくよ。」

「うぅーん、真也がどんどん素敵になっていく。あたしも釣り合うように頑張らなくちゃな!」


 莉乃姉の方がよほど素敵で、隣に並んで歩くなら俺の方こそ釣り合わなくちゃいけないけどな。

 そんなことを思いながら、俺は片手を上げて背を向ける。


「じゃあ、また明日。」

「うん、また明日。…明日は迎えに行ってもいいかな?」

「俺を?……まぁ、莉乃姉さえよければだが。」

「うん、もちろんだ!あはは、じゃあまたな真也!」

「あぁ、じゃあな。」


 俺が歩き出してからもずっと、莉乃姉は俺に向かって手を振っていた。

 変わり始めた日常。

 変わっていくのは俺だけじゃなくて、莉乃姉も変わっていく。

 不変なものなんてない、立ち止まらずに歩いている。

 俺はもう十分に立ち止まってしまったのだし、今までの遅れを取り戻さないと。

 まずはやっぱり、周りを知ることだ。

 少しずつ皆のことを知って、俺のことを皆に知ってもらう。

 鬱陶しいと思われてしまうかもしれないし、受け入れてもらえないこともあるだろうけど、諦めず、ゆっくりでも進んでいく。

 そうすればきっと、あいつらと本当の意味で友達になれるよな。

 あぁ、気持ちが変わるだけで随分と違う。

 今は明日が凄く楽しみだと思える自分がいる。

 前向きに、だな。

 楽しい時間を共有すれば、きっと皆のことを知るきっかけになるはずだ。

 ホント、莉乃姉には感謝だな。

 俺は家に帰る道すがら、明日のことに思いを馳せながら小さく笑っていた。

 きっと素晴らしい思い出になるだろうと、理由のわからない期待を抱きながら。


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