Day.9 福音は鳴った1
朝の駅前は忙しない。
大きい駅前ほどそれは如実で、人々は吸い込まれるように改札へと歩いていく。
改札付近に開いている売店では、店員たちが休むことなく缶珈琲や惣菜パンのバーコードに赤い光を当てている。
僅かな楽しみを求めて買った週刊雑誌を小脇に抱えて走る者や、出張なのか大きな荷物に四苦八苦する者と、その格好も様々だ。
まだ惰眠を貪るようなこの時間帯は、そんな一家の大黒柱で溢れている。
だが夏という季節は無情にも世界の気温を上げていき、日本の特徴である蒸し暑さが、働きに出かける彼らの不快指数を上げていく。
その他の人を気にかける余裕のない並木駅の前で、俺はボストンバックを肩から下げて立っていた。
昨夜準備に手間取り少し寝不足気味な脳みそが、欠伸を行使して貪欲に酸素を取り込んだ。
何しろ海水浴なんて久し振りで、水着以外に何を用意すべきなのか判らなかった。
昔真耶姉と行った時の記憶を呼び起こしながら、日付が変わるまで部屋のあらゆる引き出しを開けていたのだ。
再び出た欠伸を噛み殺していると、売店の方から莉乃姉が歩いてきた。
動きやすさを考慮した活動的な薄着。
肌を見せすぎてる気がするが、俺が言うことじゃないからと口にはしない。
それにこれは俺への攻撃のような気がしてならないんだ。
昨日莉乃姉の足に不覚にも見惚れていたのを覚えているんだろう、嫌がらせしたいのか莉乃姉は。
「お待たせ真也、適当におにぎりを買ってきたぞ。」
「あぁ、ありがとう。」
今朝莉乃姉が迎えに来てくれる寸前まで寝ていた俺は、当然ながら朝食を食べ損ね、莉乃姉は俺を待ち合わせ場所に立たせて買いに行ってくれていた。
小さなビニール袋には幾つかのおにぎりと、ペットボトルの緑茶が入っている。
「俺も莉乃姉のお陰ですっかり和食派になったな。」
「はっはっは、そうしてやがてはあたしの作ったご飯しか食べれない身体にしてやるのさ!」
「地味に怖いこと言うなよ、変な物入れて中毒性持たせるとか止めてくれよ?」
「ふふふ、あたしの愛がたくさん入っているからな、もうそろそろあたししか見えなくなるぞ。」
「視力をダメにするとは、とんでもない猛毒だな。」
「酷いっ!あたしの愛は隠し味だ!」
「いや、自分から暴露したら意味ないだろ。」
「よぉ、おはようお二人さん。」
こんな朝から元気な莉乃姉と話していると、後ろから声をかけられて振り返った。
そこには見た目爽やかな好青年、もとい馬鹿一号峰岸が、何故か俺を恨めしそうな顔で睨んでいる。
「おはよう峰岸……何か不機嫌そうだなお前。」
「当たり前だろ!朝っぱらから今日は水着が見れる―!ってテンション上げて来てんのに、待ち合わせ場所に来てみたら桐生が小湊先輩とイチャイチャしてるんだ、これが不機嫌にならず何になるか!」
「峰岸、あたしたちはどう見えた?」
「仲睦まじいカップルそのものですよ!その幸せをオレにも分けて下さい!」
「あーっはっはっは!真也真也!あたしたちラブラブカップルだって!」
「はぁ、元気だなお前ら。」
ハイテンションとローテンションの二人に溜め息を吐きながらふと視線を変えると、人の流れの中に御奈坂と逢坂を見つけた。
二人は俺たちを見つけて手を振った後、荒ぶる二人を見て苦笑する。
御奈坂は麦わら帽子が似合いそうな水色のワンピースを着ていて、女の子らしいお洒落だ。
隣の逢坂は莉乃姉みたいに動きやすそうなラフさで、身長が低いからか少年のように見える。
「おはよう真也くん、今日は来てくれてありがとう。」
「いや、俺こそ誘ってくれてありがとう。」
「真也くんならいつでも大歓迎です、都合がいい時は遊びましょう!」
「あぁ、そうだな。逢坂もおはよう。」
「おはよう真也先輩、何だか雰囲気変わった?」
「そうか?まぁ、悪いことじゃないだろ。」
「うん、凄くいいと思うよ。……あの二人はどうしたの?」
逢坂が俺の後ろで自分の世界に入っている二人を指して訊いてくる。
「まぁ深く気にするな、良くない病気が発病したんだ。」
「あはは…。」
御奈坂と逢坂は苦笑して、周りを見回す。
残り一人、恵恋の姿を探しているのだろう。
「恵恋はまだみたいだな。」
「失礼ですね、後ろにいますよ。」
「ぬなっ!?」
突然後ろからかかった声に驚いて振り返ると、いつも通りに浴衣を着た恵恋が無表情に立っていた。
因みに、今日の浴衣はレモン色だ。
「なんですか真也さん、まさか小さくて見えなかっただなんて言いませんよね?」
「悪い、見えなかったわけじゃなくて気がつかなかっただけだ。」
「似たようなものです、罰としてわたしの荷物を持ちなさい。」
「何でだよ。」
「人が気にしていることを指摘するようなことをしたからです、重いんですから早く。」
「はぁ、後半の方が理由だろどうせ。」
仕方なしに差し出された荷物を受け取る。
ズシリと腕にかかる重みは、確かに恵恋には重いだろう。
「なんだこれ、どんだけ荷物入ってんだよ。」
「皆さんの分のお昼…お弁当を用意したんです、感謝しなさい。」
「へぇ、恵恋が自ら弁当を作ってきたのか?」
「ふん、たまには腕を振るおうと思っただけですよ、深い意味なんてありません。」
「何!?冴塚のお手製弁当だと!?」
「峰岸さんには米粒一つとしてあげませんから安心してください。」
「何故!?どこにも安心できる要素がないぞ!?」
「何となく貴方に食べられるのは嫌だからです。」
「やっぱり冴塚はオレに対して冷たすぎる!」
二人のそんなやり取りに、皆で笑い合う。
始まりは賑やかに。
青く澄んだ空は何処までも深く、白い入道雲が自由気ままに大きく浮かぶ。
楽しい雰囲気に急かされるみたいに、気持ちは加速し、高まっていく。
夏の海には、きっとそれだけの魔法がかかっているのだ。
「それじゃ、行くか。」
『おぉー!』
改札に向けて歩き出す。
遠い日々の名残。
隣に立つ人は変わっても、俺は確かにここにいる。
姉さんと一緒の頃とは違うけど、きっと違った楽しみがあるだろう。
皆のことを知るためにも、せっかくだし楽しまないとな。
新たな自分に歩み寄るために。
電車を乗り継ぎ、段々と変わっていく風景。
降り立った駅前には水着や浮き輪などを売っている店が並び、子連れの家族や、若い男女で犇めき合っている。
この夏の熱気に加えてこの人数、まさに圧倒される光景だ。
遠くの路面には陽炎が立ち上り、しかしそれさえも人の流れにかき消されてしまう。
「なんか…凄いなこれは。」
「そうですね、まさかこんなに人がいるなんて。」
「おぉ、人がいっぱいだな!」
「冴塚、はぐれないようにオレが手を繋いでやるよ!」
「海に辿り着く前からお盛んですね、砂浜に着いたらその一部に加えてあげますよ。」
「粉々にされる!?」
「こんなに人がいっぱいいるの初めて見たよボク。」
「とりあえずマジではぐれないようにしよう。目的地は同じでも、再会するのは骨が折れそうだ。」
「真也くんの言う通りですね、皆さんがよければホントに手を繋ぎますか?」
「御奈坂、いいこと言ったな!」
「真也の右手はあたしが予約だ!」
「ではわたしは左手を。」
「御奈坂!オレと繋ごうぜ!」
「いいですよ、龍矢くんも一緒ですね。」
「うん、よろしくね緋結華さん。」
三人一組で手を繋ぐと、峰岸が俺に向かってガッツポーズしてきた。
あぁそういえばあいつ、御奈坂のこと好きだったっけか。
峰岸も結構頑張ってるんだな、よく判らないけど。
俺はとりあえず頷きだけ返して、浜辺に向かう人の流れに乗った。
俺は二人を守るように引き寄せながら、ゆっくりと前へ進む。
「わーい、真也が抱き締めてくれるぞー!」
「ちょ、莉乃姉!?」
「真也さん、わたしのことは守ってくれないんですね。」
「そういうわけじゃねえ、っておい、あんまりくっつかれると歩きづらいっつうの!」
「こんなに密着できるなんて、あたしの理性が持たないぞ真也!」
「頼むから今暴れるのはやめてくれ!」
「あぁ、手が離れそうです、真也さんがわたしの方だけ力を緩めてますね。」
「そんなことねぇから!つか莉乃姉、そんなにくっつかなくても歩けるだろ!」
「なんか向こうは随分賑やかだな。」
「あはは、真也くん大変ですね。」
「まぁ小湊先輩一人でもああなったとは思うけどね。」
好き勝手な二人に四苦八苦しながら、俺たちは漸く目的地へと辿り着いた。
そこは驚くほどの熱気に満ちていた。
白い砂浜と、打ち寄せる波。
並木駅の前で見上げた空と同じはずなのに、ここではそれが何倍も綺麗に見える。
風には潮の香りが混ざっていて、それだけで心地よく感じてしまう。
砂浜の防波堤沿いには海の家が立ち並び、定番の焼きそばやかき氷などを売るこの時期限定の出店たちが、互いに凌ぎを削る商売競争に励んでいた。
白い砂の上の各所に広げられたパラソルやレジャーシートは鮮やかに、それらの周りには更に色とりどりの色が動き回っている。
そんな海水浴場の喧騒に、俺たちは自然と笑顔になっていた。
「よっしゃー!水着のお姉さんがいっぱいだぜー!」
「チッ、この愚かな人を今すぐ海の藻屑に変えてやりましょう、そうでないと気が休まりません。」
「冴塚さん、それだけはご勘弁ください!」
「うるさいですよ変態、近寄らないでください!」
「今までにないほど本気で拒否された!?」
「まぁ、お前も懲りないよな。」
「あたしは真也一筋だぞ、安心しろ!」
「いや、何故このタイミングでそんな告白をした?」
「凄いね龍矢くん、人がいっぱいいるよ。」
「そうだね緋結華さん、凄く賑やかだ。」
「よし、あたしたちの本拠地を決めるぞ!レジャーシート用意!」
「はいはい。」
テンション上がりまくりの莉乃姉が号令をかけ、俺はバックから大きめのレジャーシートを出す。
昨日の夜これを探し出すのに随分と手間取った、使わなければ俺の頑張りが浮かばれねぇ。
海まで比較的近い位置に隙間を見つけ、少々強引に場所を確保する。
それぞれの荷物を重石代わりにして四隅を固めると、早速水着の入った袋を手にして立ち上がった。
目指すのは今も人が多く出入りする海の家。
着替えるためのロッカーやスペースはあの場所を借りるしかない。
非常に気は進まないが、あの人の海の中へと飛び込むしかないようだ。
「さて、真也の視線をあたしに釘づけにするためにも早速着替えに行くか!」
「気をつけろよ莉乃姉、開放的になってる分危ない奴も多そうなんだからな。」
「真也が心配してくれた……もう結婚しかないな!」
「話が飛躍しすぎだ!」
「でも気をつけないといけませんね。」
「わたしに触れようものなら容赦なく峰岸さんと同じ末路を辿っていただきますから。」
「オレってどうなっちまうんだ!?」
「ボクらがついて行くわけにはいかないし、本当に気をつけてもらうしかないよね。」
「まぁ周りに人もいっぱいいるし、多分大丈夫だろう。それじゃあ出陣!」
蜻蛉でも揺らめきそうな砂の上を、俺たち六人は揃って戦場へと歩き出した。
大混雑していた戦場からどうにか帰還した俺と峰岸は、砂浜に拵えた休憩所でその疲労を癒していた。
「まったく、着替えるだけで大仕事だな。」
「オレたちなんてまだマシだぞ、何せほとんど脱ぐだけで済むからな。でも御奈坂たちは大変だ、向こうの方が混んでそうだしな。」
「それもそうだな、人数も多いし。」
俺たちは二人だから狭いスペースでも平気だったが、あっちは三人だ。
あれ……そういえば逢坂は何処に行った?
あまりの混雑ぶりに失念していたが、逢坂が一緒にいないのはおかしい。
周りを見回してもそれらしい姿は見えず、荷物もないから一度戻ってきたって事もないだろう。
「おい峰岸、逢坂はどうした?」
「は?……そういやいつの間にかいなくなってるな。」
峰岸も気づいてなかったのか、俺と同じく周りを見渡して首を傾げる。
男とはいえ心配だ。
逢坂は身体も小柄だし、顔にいたっては女性に間違われるくらいだ。
何かあっても強いから大丈夫だとは思うが、一応探しに行ったほうが良さそうだな。
「ちょっと逢坂探してくるわ、10分経ったら戻るからお前はここにいてくれ。」
「おう、留守番は任せろ。」
手をひらひらと振る峰岸を残して、俺は先ほど着替えた海の家に歩いていく。
歩きながらも視線は動かしているが、なかなか見つからない。
「あのぉ、お一人なんですかぁ~?」
「は?」
いきなり声をかけられて足を止めると、知らない女性が四人ほど立っていた。
誰だこいつら、会ったことあったかな。
何故話しかけられたのか判らず声を出せずにいると、四人の内の一人が話しかけてくる。
「私たち四人で来たんですけど、良かったら一緒に遊びませんか?」
「いや、何で俺が?」
「女四人だと退屈なんですよ~、だからお兄さんの話とか聞きたいなぁって。」
「あっちので店でカクテルでも飲みながらとかどうですか?」
「あぁ、俺は未成年だから酒は飲めない。」
「大丈夫ですよ~、お兄さん大人っぽいしバレませんって。」
「カッコいいだけでも許してくれそうだよね~、あはは!」
何なんだこいつら、まったく話が通じない。
それにやっぱり知らないやつらだ、記憶を探してもわからないし。
クソッ、早く逢坂を探さないといけないのに。
「あたしの真也に何か用か?」
俺の後ろからかかった声に、目の前の四人があからさまな嫌悪を示す。
振り返るとそこには、水着姿の莉乃姉が立っていた。
明るい赤色のビキニを着た莉乃姉は、俺の隣に立つと腕を抱きしめる。
「お待たせ真也、ごめんな待たせて。」
「いや…大丈夫だ。」
「な~んだ、連れがいたんだ。」
「残念、やっぱりカッコいい男はダメだったかぁ。」
「いこいこ、お兄さんまたね~。」
つまらなそうに莉乃姉を一瞥して、四人はさっさと行ってしまった。
俺は溜め息を吐いて、隣の莉乃姉にお礼を言う。
「ありがとう莉乃姉、助かったよ。」
「あたしの真也をナンパするやつは許さん、真也も声をかけられたら適当に断れ。」
「あぁ、今のナンパだったのか。知り合いだったかと思って困ってたんだ。」
「はぁ、それなら名前で呼ぶだろ?もしまた声をかけられたらあたしを呼べ、すぐに飛んでくるぞ!」
「あぁ、そうさせてもらう。」
「代わりにあたしが声をかけられてたら彼氏になってくれ。」
「彼氏のフリな、彼氏にはならないから。」
「ちぇっ、上手く約束させようと思ったのに。」
「……それより莉乃姉、そろそろ離れてくれないか?」
「やだ、助けたご褒美に暫く真也の温もりに浸るんだ。」
そう言うと莉乃姉は更に身体を押し付けてきた。
俺の腕を柔らかいものが挟むようにくっつき、薄い布はその形まではっきりと伝えてくる。
いつもはこんなことがあっても寝間着や私服だ、こんない薄いことはない。
心臓が早鐘を打ち始め、身体中が熱くなっていく。
マズい、流石にこれ以上は。
「莉乃姉の魅力は十分伝わってるから、ホントこれ以上は勘弁してくれ。」
「うっふっふ、仕方ないなぁ。」
すこぶる楽しそうな笑顔を浮かべて、莉乃姉が離れていく。
「それで?」
「何がだよ?」
「あたしの胸は気持ち良かったかなぁって。」
「なっ!?」
「あっはっは、その反応は良かったってことだな。」
「あぁもう、言わなくていい!」
「この調子で今日こそ真也にあたしを襲わせてみせる!」
「常軌を逸した宣言だな。」
「そういえば真也は何でこんな所に一人で立ってたんだ?……まさかあたし以外の水着に見惚れてたのか!そんなの許さないぞ!」
信じられない速度で自己完結しやがった、勘違いも甚だしい。
話が通じないって一点においてはさっきのやつらとそれほど大差ないなこれは。
「違うって、逢坂を探してたんだ。一緒に着替えに行ったはずなんだがはぐれてな、まだ向こうにも戻ってなかったから。」
「ホントか、それは大変だな。これだけ混んでると探すのも一苦労だぞ。よし任せろ、あたしも一緒に探す。」
「助かる、見つけられなくてもいいから10分したら戻ってくれ。」
「うむ、心得た。」
頷き合うと、それぞれ逆の方向に足を向ける。
莉乃姉は俺たちが着替えたのとは違う海の家、俺は一応元の海の家へ。
行き交う人の隙間にも視線を向けて、小柄な後輩を探す。
まったく、何処に行ったんだろうな。
あの顔だとそれこそナンパに遭いかねない、残念ながら男に声をかけられそうだが。
逢坂は驚くほど女性的な顔をしている、正直あれが女の格好をしていて男だと知らなければ素直に信じてしまうだろう。
男の格好だからこそ中性的に見えているだけで、単純な見た目は女子だからな。
まぁそこらの奴らには負けないほど強いが、あの強さは一体どこで鍛えたんだ?
そんな益体もないことを考えていたとき、漸く目的の人物の姿を発見した。
俺は一人で途方に暮れている逢坂に近づくと、その頭を軽く小突く。
「あいた。」
「ったく、やっと見つけたぞ。」
「あ、真也先輩。」
「いつの間にかいなくなりやがって、気がついたらいないから驚いたぞ。」
「ごめん、人の波に流されて。」
「まぁいいや、無事に見つかったし良かった。それより、何でお前は着替えてないんだ?」
「それが、その……水着を忘れたみたいなんだ。」
「はぁ!?…はぁ、何しに海まで来たんだよ。」
「ごめん…。」
「別に謝ることじゃないけどよ、どうすっかな。」
水着がないんじゃ話にならない。
せっかく来たのに海に入れないのは流石に不憫だ、壁の花とは違うが、一人でいるにはここは少々賑やか過ぎる。
どうにかして代わりの水着を手に入れるしかないか。
「その辺の売店には売ってないのか?」
「水着自体は売ってるんだけどね、ボクに合うサイズってなかなか見つからなくって。」
「あぁ、男にしては小柄だしなお前は。」
「失敬だなぁ、ボクの成長期は少し遅れてるだけだよ。」
「随分と望みは薄そうだけどな。」
「うるさいなぁ、そんなに言うなら真也先輩の身長分けてよ。」
「そんな技術が開発されたら考えてやるよ。」
「まったく、酷いなぁ。」
そう言いつつも苦笑する逢坂。
とはいえ本当にどうするか、流石に服のままってわけにはいかないし。
俺が頭を悩ませていると、逢坂は笑いながら俺の顔を見上げてきた。
「大丈夫、真也先輩が気にすることじゃないんだから。ボクは皆の荷物の番をしてるからさ、気にせず遊べばいいんだよ。」
「いや、でもなぁ。」
「ふふっ、真也先輩って本当にお人好しだね。忘れたのはボクの落ち度なんだし、心配しなくても大丈夫なのに。」
「だけどそれじゃお前が退屈だろう。」
「実を言うとね、ちょっと人混みが苦手で疲れちゃうんだ。だから皆のことを見ながら休ませてもらうし……ボクの意思を立てると思って。」
「…まぁ、お前がそう決めたならいいけどよ。」
「うん、だから行こう?あんまり皆を待たせるのも悪いから。」
後ろに回り込んで背中を押してくる逢坂に急かされ、俺は皆が待っている方へと歩きだす。
「ねぇ真也先輩?」
「ん、どうした?」
「何でわざわざ探しに来てくれたの?放っておいても勝手に帰ってくるかもしれないのに。」
「そりゃ一緒にいたはずの人間がいなくなってたら誰でも探すだろ。」
「そうだろうけどさ、こんな場所ですれ違ったりしたら面倒じゃない?」
「あのなぁ、俺だってお前が友達じゃなけりゃわざわざ探しに出たりしねぇよ。」
「あ……。」
俺の言葉に驚いた顔をして見せた逢坂は、すぐに笑顔になって頷いた。
「ありがとう真也先輩。じゃあもしまたボクが先輩の前からいなくなったら、その時もちゃんと探してね。」
「あぁ、見つけてやるよ。」
「うん、よかった。」
満足そうに笑う逢坂。
何故こんな質問をしたのかは解らないが、どうやら納得いく答えを俺は返せたらしい。
まぁ、嬉しそうだし気にすることじゃないか。
上機嫌な逢坂と一緒にシートの所まで戻ると、そこには莉乃姉含めた四人が集まっていた。
歩いてくる俺たちに気づいた皆は、安心したように笑いかけてくる。
「おぉ逢坂、無事で何よりだ。流石は真也だな、ちゃんと逢坂を見つけられたか。」
「莉乃姉も悪かったな、無駄足踏ませた。」
「なに気にするな、別れて探したんだから片方は見つからなくて当然だ。」
「ごめんなさい小湊先輩、それに皆にもご迷惑おかけしました。」
「気にすんなよ逢坂、オレは荷物の守り人になってただけだからな。」
「龍矢くん大丈夫ですか?いなくなったって聞いて驚きましたよ。」
「心配かけてごめんね緋結華さん。」
「まぁ真也さんなら必ず探し出すと思ってましたよ。」
「偶然見つけただけだ。」
「そういえば龍矢くん、どうして水着じゃないんですか?」
「あ、それなんだけど。」
逢坂は水着を忘れてきたことを他の四人にも説明した。
「マジかよ逢坂、やっちまったな。」
「真也、代わりの水着は用意できそうにないのか?」
「逢坂も見て回ったらしいんだが、どうやらこの身長に合う男物はなさそうだ。」
「む、それはちょっとどうしようもないな。」
「多少大きくても紐を結べば着れるのではないですか?」
「龍矢くんはウエスト細いから、もしかしたら脱げちゃうかも。」
それぞれが意見を出し合って、どうにか逢坂も遊べるように思考を巡らせる。
それに対して逢坂は申し訳なさそうに、しかしはっきりと口にした。
「皆さん、もう考えなくても大丈夫です。ボクは荷物の番をしますから、皆さんは気にせず遊んできてください。」
「むぅ、しかしそれでは。」
みんな莉乃姉と同じ思いなのか、困ったような表情を浮かべる。
こりゃ俺の時より長引きそうだし、助け舟出しとくか。
「莉乃姉、俺も同じ考えだったが、当の本人が決めたならいいんじゃないか?寧ろ俺たちが気にして楽しまない方が逢坂も辛いだろ。」
「ありがとう真也先輩、うん、そうしてくれた方がボクも助かるかな。」
「そっか、逢坂がそう決めたならあたしがどうこう言うのはおかしいな。」
「よっしゃ、ならオレは逢坂の分まで楽しませてもらうぜ!」
「緋結華さんに変なことしないで下さいよ峰岸先輩?」
「しねぇよ!?オレってそんなに信用ないのか!?」
「では休憩用にと持ってきた本を貸してあげます、暇だったら読んでみるといいですよ。」
「ありがとうございます冴塚先輩、お借りしますね。」
「龍矢くん…。」
「緋結華さん、ボクは大丈夫だからそんな顔しないで。緋結華さんが楽しんでくれないとボクも辛いから。」
御奈坂は僅かに考えたあと、仕方ないと頷いた。
まぁとりあえずこれで一段落って感じか。
「よし、なら早速海に突撃といくか!ついてこい真也!」
「はいはい、だろうと思ったよ。」
「わたしを置いて行かないでください真也さん。」
「御奈坂、オレたちも行こうぜ!」
「うん……じゃあ龍矢くん、行ってきます。」
「行ってらっしゃい緋結華さん、思いっきり楽しんでね。」
「そうするね、ありがとう。」
逢坂を一人残し、俺たちは大きな入道雲の浮かぶ青い海へと入っていく。
真夏の太陽にさらされた熱い砂浜から、水を吸って色の変わった砂へと足を踏み入れる。
寄せては返す波が足の裏から砂を持っていく感覚は、ここでしか味わえない。
何とも言えない心地よさと、冷たい水の清々しさに目を細める。
昔真耶姉さんと一緒に歩いたあの町の砂浜を思い出しながら、ゆっくりと身体を海へと沈めていく。
肌に当たる陽射しの熱さも、足元から抜けていくようだ。
「とぉぉりゃぁぁ!」
「のわっ!?」
まぁそんな風情もへったくれもなく、突然飛びかかってきた莉乃姉によって、俺は勢いよく海面へとダイブした。
口の中に塩辛い水が容赦なく流れ込み、慌てて身体を起こす。
「ゴホッゴホッ……この馬鹿姉!危ねぇだろ!」
「あーっはっはっは!冷たくて気持ちいいだろ真也。」
腰にまとわりついた莉乃姉が、楽しそうに笑う。
またわざと際どい位置に張りついてるし、質の悪い嫌がらせだ。
「とお!」
「んなっ!?」
予期せぬ二人目登場。
二度も塩水を飲まされて、口の中が大惨事だ、塩分過多で倒れるんじゃなかろうか。
今度は莉乃姉も一緒にむせながら海から顔を出すと、不敵に笑う恵恋が俺を見下ろしてやがった。
「ふふっ、真也さんともあろう人がわたしの攻撃に倒れるとは、腕が鈍りましたか?」
「莉乃姉が重くて反応できなかったんだよ!」
「酷い!あたしが太ってると言いたいのか!」
「大袈裟にとらえすぎだ!そういう意味で言ったんじゃねぇ!」
「桐生、女性に重いという単語はご法度だぞ。」
「峰岸に諭されるとか…真也、自分をしっかり持て。」
「小湊先輩の中のオレってどんなイメージなんすか!?」
「元気いっぱいのお馬鹿だな。」
「御奈坂!オレの味方はお前だけだ!」
「えぇ!?」
「失礼ですね、わたしは初めから除外ですか?」
「冴塚がオレの味方だなんて、高熱出して意識が朦朧としてたって思えない!」
「あら、空っぽの頭の割には朦朧なんて言葉がインプットされているんですね、驚きましたよ。」
「味方になるつもりが欠片も感じられない罵倒っぷりだな!」
「まぁまぁ恵恋さん、あんまり峰岸くんを苛めると可哀想ですよ。」
「やっぱ御奈坂だけがオレの味方だぜ!」
無駄にテンションを上げる峰岸、やはり元気いっぱいのお馬鹿ってのは的を射てるかもな。
にしても、面倒な感じだ。
俺は賑やかな皆から視線を外すと、周りを見渡した。
いくつかの視線が合い、すぐに逸らされる。
まぁ、この面子じゃ仕方ないか。
まず莉乃姉。
俺が選ばされた水色のビキニに、モデル顔負けのスタイル。
さっき砂浜で会った時ですら人目を集めてたんだ、遊び始めたからってその注目度が下がるはずもない。
場所が場所なら良くないスカウトが来てもおかしくないし、気をつけておかないとな。
それに御奈坂。
花柄のビキニにオレンジ色のパレオを着ていて、物腰のせいもあってか良家のお嬢様みたいな雰囲気を出している。
恵恋は白いフリルのビキニが似合っていて、肌の白さと合わさって百合のような可憐さだ。
性格はまぁあれだが、見た目だけなら目を引く。
峰岸も顔は綺麗なタイプだし、剣道で鍛えているから身体も思ってた以上に均整がとれていて引き締まっている。
さっきの俺のことといい、何も起こらなければいいんだが。
「あはははは!あはははは!」
「チッ、笑いながら水をかけるな莉乃姉。」
ったく、人が真面目に考えてるのに。
「真也さん、諦めましょう。」
「あ?」
峰岸に標的を移した莉乃姉を眺めていると、隣の恵恋がこちらを見上げていた。
「人目を引くのは仕方がありませんよ、皆さん揃ってそういう人たちですから。」
「ナチュラルに人の考えを読むんじゃねぇよ。」
「あら、違いました?真也さんは感情が顔に出やすいですから、なんとなく理由を推理してみたのですが。」
「チッ、余計なことを。」
顔に出やすいなんて知るわけがない、自分じゃ鏡でもない限り見えないし。
今後は気をつけるしかないな、なるだけ表情に出さないように。
「無駄な足掻きはやめて、素直に楽しんだら如何です?」
「…ま、俺が考えても仕方のないことか。」
「そうですね。考えたところで対策が見つかるでもなし、ならいっそ無視して楽しむのがいいと思いますよ。」
「それもそうだな。」
「大体ですね、一番人目を引くのは真也さん、間違いなく貴方ですよ?」
「なにを言ってやがんだ、俺みたいな奴なんて駅前探せばごまんといるぞ。」
「……はぁ、もう少しご自分が周りにどう見えているのかを自覚した方がいいですね真也さんは。」
「ただの銀髪で柄の悪い男だろ。」
「やれやれ、まぁあまり自覚するのも変な話ですし、忘れてください。」
「自覚しろだの忘れろだの、何が言いたいんだお前は。」
「何かあったとしても、貴方なら守ってくれるのでしょう?」
柔らかな微笑さえ浮かべて、恵恋は俺を見ながらそう言った。
俺はすぐに答えを返せずに、しかし恵恋は真っ直ぐに俺の目を見て話す。
ったく、急にそんな話をされても困る。
そんな信頼の色を示されたら、素直に頷くしかないだろうが。
「ならわたしはそれだけで十分ですし、せっかくの機会ですから、わたしも何かを得ようと思いまして。」
「どうした急に、何かあったのか?」
「そうですね…少し置いて行かれそうなので、わたしも頑張ろうと思っただけですよ。」
「ん?」
突然そっぽを向いてそんなことを言う恵恋。
何だか判らないが、笑ったり不機嫌になったり忙しいなこいつは。
俺が首を傾げていると、恵恋は軽く伸びをしてから前へ出た。
「さて、ではわたしも峰岸さん弄りに参加させてもらいましょう。」
「間違いなく苛めの筆頭はお前だぞ。」
「虐めとは失礼な。これは友人としての親愛の証ですよ、一緒にしないでください。」
「そりゃ随分と迷惑な親愛の証だな。」
歩きだした恵恋の背中にそう告げると、俺は爪先の向きを変えて海から出る。
濡れた足裏に砂が張り付く感覚にこそばゆいものを感じながら、荷物の置いてあるシートの方へ。
そこにはやはり寂しそうに座っている逢坂がいて、近づいてきた俺を不思議そうな眼差しで見ている。
俺は砂を払い落としてから、その隣に座った。
「どうしたの真也先輩、皆と遊ばないの?」
「そうだな、まぁ少し俺も疲れたみたいだ。慣れない状況ってのは思ってる以上に体力を使うらしい。」
「………ボクのことを気にかけてくれてありがとう。」
「そんなんじゃねぇよ、ホントに疲れたから休憩ってだけだ。」
「うん、じゃあそういうことにしておくね。」
まぁ、流石にこんな言い訳は通用しないか。
でも隣を見ると、さっきまでの寂しそうな雰囲気の薄れた逢坂が、海から吹く風に目を細めていた。
…こんな顔になったなら、変な言い訳も少しは役に立ったかもな。
賑やかな人々の声と、耳に響く潮騒の音色。
こんなにも騒がしい場所なのに、不思議と心地よさも感じる。
空はどこも同じに見えるけど、やっぱり海の音は同じには聴こえないな。
かつての記憶との微かな違いを楽しみながら、俺は自然と鼻歌を歌う。
昔同じような状況で、俺とは違う高く綺麗な声で歌っていた姉さんを真似るように。
「先輩、その曲って何て名前なの?」
「ん?あぁ、「遠い夏のメロディ」って名前だったかな。」
「へぇ、聞いたことない名前だなぁ。誰の歌?」
「…桐生真耶。」
「え、それって先輩のお姉さんの名前。」
「あぁ、そうだよ。これは姉さんがよく歌っていた曲だ。」
「お姉さんって音楽が好きだったの?」
「楽器の演奏とかは苦手だったけど、歌うことに関しては巧かったよ。」
そう、その声はまるで清流のように清らかで、鈴の音のように澄んだ声だった。
人前で歌えば誰もが口を閉ざし、思わず聴き入ってしまうような、そんな歌声。
「それは…ボクも聴いてみたかったな。」
「あぁ、俺も聴かせてやりたかった。」
「……ねぇ真也先輩。」
「何だ?」
「お姉さんとどんな日々を過ごしてきたのか、辛くない程度で聞かせてくれないかな?」
「………そうだな、たまにはいいかもな。」
俺は懐かしい記憶を呼び起こすように、ゆっくりと話し始める。
それは遠い夏の物語。
まだ俺が姉さんを好きだと気づいていない、そんな頃。
ちょうど今みたいに、二人であの町の海で遊んでいた時の話。
5 years ago
波が白い砂浜に寄せて、細かい砂を海へと引き寄せていく。
夏の陽射しは肌を焼くように熱く、水面に反射した光がキラキラと輝いていて、俺は大きなパラソルの下で伸びをした。
潮騒は子守歌みたいで、風は揺り籠のように俺の眠気を誘ってくる。
このまま眠ったらさぞ気持ちいいだろうと瞼を落とした時、後ろからのしかかる重さに振り返った。
「何だよ姉さん、ちょうど眠気がいい感じだったのに。」
「むぅ、私がいるのに寝ようとするなんて酷いよ。せっかく二人で遊んでるのに、遊ぼうよ真也!」
「海に来たからってはしゃぐような歳でもないだろ、とりあえずわかったから降りろよ。」
「やった、なら遊ぼう!」
背中にかかる重さがなくなって、俺の前に回り込んでくる人影。
真っ白なビキニを着た真耶姉さんは、楽しそうな笑顔を浮かべながら俺に手を差し出す。
しっかりとその手を握ると、抗いもせずに引っ張り上げられて立ち上がる。
俺よりも頭一つ分と少し小さな姉さんは、太陽みたいに笑うと、海に向かって走り出す。
まったく、その子供っぽさは中学に上がっても変わらないよな。
憧れと呆れが半々で、俺はゆっくりと砂浜を歩きだす。
俺たち以外には誰もいない、一時のプライベートビーチ。
そばを通る道路にすらほとんど車も通らず、辺りは潮騒とカモメの鳴き声だけが響く穏やかさ。
これだけ綺麗な砂浜を二人だけで使えるというのは、ほんの少しだけ得した気分だ。
遠くに見える水平線から上に伸びる入道雲が、大地と空を分かつ境界線みたいで美しい。
波打ち際でそんなことを考えていると、姉さんが両手で水をかけてきた。
咄嗟に躱して、俺は笑いながら言う。
「よくもやったな姉さん。」
「残念、遠くを見てたから今ならいけるって思ったのにな~。」
「甘いな、姉さんのやろうとすることなんてお見通しだ。」
「むぅ、流石は真也だね。でもたくさん攻撃したら避けられないでしょ!」
そう言った姉さんは、それー!とか掛け声までつけて連続で水をかけてくる。
ったく、躱せなかったら俺の負けだとか言い出すんだろうな。
仕方なにし、クソジジイから教わった武術の動きを使って、水飛沫を躱していく。
にしてもやっぱり地面の上よりも動きづらいな、なかなか躱すのが難しい。
「うっふっふー、真也は私の罠にかかるのだ!」
「罠?なんだそりゃ…。」
そう言った直後、何か白いものが俺の視界を遮るように飛んできた。
咄嗟に手を出して掴むと、それは俺の手にあってはならないもので、本来あるべきそこは、目を向けてはならない状況になっているはずだ。
冷静さなんて彼方へと吹き飛び、俺は慌てて視線を明後日の方向に向ける。
直後に連続で飛んできた海水を、俺は躱すどころか動けずに浴びた。
口の中には塩水が入り込み、涙が出るほど塩辛い。
ひとしきり水をかけて満足したのか、姉さんの声が聞こえてきた。
「私の作戦成功だねっ!」
「……ったく、やり口が段々莉乃姉に似てきたよな。」
「あはは、そうかも。じゃあ真也、それを返してくれると助かるなぁ。」
「わかったから早く着けてくれ、そろそろ首が痛いぞ。」
「あ、ごめんね。…恥ずかしいからこっち見ないでね真也。」
「だったら初めから莉乃姉みたいなことするなっつうの。」
俺は呆れた顔をしながら手にした水着を前に差し出すと、近づいてきた気配がそれを静かに取った。
暫く波の音だけがして、海はいつもの静けさを取り戻す。
腰までの海水は緩やかに揺れて、心地よい冷たさと、次いで優しい暖かさも運んでくる。
その相反しつつも共存する感覚に笑みを零して、また水平線の向こうを眺めていた。
まるで世界には二人しかいないみたいだと、そんな感覚に陥るほど、ここは始まりの雰囲気を醸し出している。
山々に抱かれたこの海岸は、それほどに人工の物もなければ音もしない。
何か、気を抜いたら世界に融けてしまいそうだな。
そんなとりとめのないことを想像して、馬鹿馬鹿しいと内心で笑う。
夢を見るにはまだ早い時間だ、そんな下らない幻想に意識を委ねるのは眠りの中だけで十分。
今はただ、この穏やかな時間を楽しめばいい。
「ごめんね真也、もう大丈夫だよ。」
「ん、もうそういうことはするなよ。ここは人がいないけど、絶対じゃないんだからな。」
「うん、恥ずかしいからもうしないよ。でも、心配してくれてありがとね真也。」
微笑みながら素直に頷いた姉さんは、俺の腕を握ると寄り添ってきた。
確かな温もりと水に濡れた肌が妙に艶めかしくて、どくんと鼓動が跳ねる。
落ち着け俺、相手は姉さんだぞ。
だが姉弟とはいえ、普段からこんなにくっついたりしない。
女の子特有の柔らかさに、俺の顔に熱が集まってくるみたいだ。
体温は腕と顔にしかなくて、他は機能していないかのように冷えていく。
姉に感じるにはおかしい気持ちに、俺は慌てて首を振った。
「どうしたの真也、急に首を振って。もしかして痛めちゃった?」
「いや、それは大丈夫だから気にするな。それより何でくっついてるんだ?」
「え、ダメ?」
上目遣いに問うてくる姉さん。
俺と同じ顔なのに、全然違って見える。
きっと内面の素直さや綺麗さが、顔に出てきているんだろうな。
また、どくんと鼓動が跳ねた。
何なんだ、この感覚は。
知らない感覚に戸惑いながら、冷静になろうと深呼吸する。
いつもより熱心に血液を送り出す心臓は、どういうわけか酸素を取り込んでも大人しくならない。
壊れてしまったのか、或いはまだ酸素が足りていないのか。
でもなるだけなら早く直ってほしい。
何しろ姉さんの問いに返事を返せないほどに、俺の身体は熱くなっているんだから。
そんな熱が伝わってしまったのか、姉さんが不思議そうに俺を見上げてくる。
「どうしたの真也?なんか熱くなってない?」
「気にするな、きっと疲れただけだ。」
「そぉ?ならシートに戻ろう?ごめんね、少しはしゃぎすぎたみたい。」
「いや、大丈夫だ。それに姉さんから元気さをなくしたら姉さんらしくない。」
「あはは、そうかな。」
無邪気に笑って俺から少し離れると、付き添うように海岸へ歩きだす姉さん。
少しだけ治まった鼓動と、何かが抜け落ちたような感覚。
これがどうして起きた感覚なのか解らない。
ただ俺は何故だか、それが寂しいのだと理解している。
いつも隣にいる姉さんは今もこうして手を握っているのに、さっきまでより、少しだけ寂しい。
薄らと浮上するその理由を、俺は無理矢理忘れることにした。
気づいてはいけない。
その気持ちの種に、誤って水を撒いてしまわないように。
咲かせてはいけない花もある。
咲いてしまったら最後、それは抗いがたい猛毒のように、世界と自分を隔離してしまう。
俺たちはシートに座って、打ち寄せる波間に視線を向けながら、ただ無言で時を過ごす。
手は握られたままで、姉弟とはいえ仲が良すぎる姿を周りに晒しながら、姉さんは優しいその声で詩を歌う。
身体に澄み渡るように、心地よい声が海岸に響く。
「穏やかな夢のような奇跡、丘の上に咲き誇る向日葵の、鮮やかなその黄色い花を、もう忘れない。」
「向日葵って、やっぱあの丘のやつか?」
「うん、そうだよ。よくわかったね真也。」
「そりゃそこまで解りやすい歌詞なら気づくだろ。」
「でもわかるのは私と真也の二人だけだよね。」
「まぁ…そうなるな。」
「えへへ、やった。」
何が嬉しいのかわからないが、照れくさそうに笑う姉さんは、さりげなく俺の腕を抱きしめた。
女性だけの膨らみが当たっているのに、本人はまるで気にした風でもない。
「姉さん……当たってるんだけど。」
「姉弟なんだし気にしないよ?」
「姉弟だからこそくっつきすぎだと思うが?」
「いいんだよ、姉が弟を大好きなのは当たり前のことなのです。」
「普通はそんなに仲良くないって聞くけどな。」
「そんなの寂しいよね、せっかく姉弟なんだから仲良くしないと!」
「そんなもんか?」
「うん、そうだよ!」
そう言って姉さんは更に強く抱きしめてくる。
まぁ仲が悪いよりはずっといいのかもしれないな。
それに俺も、正直嫌ってことはないから。
さっきまでの寂しさも、認めたくないが埋まっている。
抱かれた腕からじんわりと広がるように、胸は暖かな気持ちで満たされた。
これじゃどれだけ気づかないふりをしても無駄かもな。
何しろ既に気づいているのと変わらない。
だが暫くは誤魔化し続けよう。
この気持ちは甘えで、異常だから。
誰に告げられることもなく、俺の中で消えていくべき想いだ。
気持ちに蓋をするように、俺は目を閉じた。
未練がましくも、姉の無垢な優しさに身を委ねたまま。
「なんていうか……こっちまでドキドキするような話だね。」
「言わなくていい、この話を選んでしまったことに軽く後悔してるんだ。」
「海にいるから無意識に同じような状況の話を選んだんじゃない?」
「…そうかもな。」
ここまで賑やかではなかったが、空の色はあの頃と変わらない。
熱い陽射しも、薫る潮風も。
他愛もない日々のワンシーン。
でも少しだけ、話してよかったとも思える。
桐生真耶という人が確かにいたのだと、俺を通して誰かに思い出してもらえるなら。
いずれ消えゆく記憶だとしても、少しでも長くこの世界に留まれるように。
「でも凄いよね真耶さんって。」
「どうしてだ?」
「だっていなくなってしまっても、こんなにも強く真也先輩の中で生きてるんだもん。」
「………。」
俺が驚いた顔で逢坂を見ると、逢坂は穏やかな微笑で俺を見た。
「それってさ、真也先輩が生きている限り、真耶さんも生きてるってことだよね。」
「……あぁ。」
何だか救われた気持ちに満たされて、俺は頷いた。
本当に消えてしまうのは、誰もが忘れてしまった時だ。
だけど姉さんも両親も、俺は忘れない。
確かに肉体はなくなってしまって、それはやっぱり悲しいことだけど、でもまだ俺の中で生きてる。
心に晴れ間が覗くような、そんな嬉しさ。
こんな気持ちにさせてくれるとは、逢坂には感謝だな。
「あはは、ちょっと妬けちゃうなぁ。」
「何がだ?」
「陽に焼けちゃうから日焼け止め塗らないとねって。」
「あぁ、そういうことか。」
確かに陽射しは痛いくらいに熱い。
これは男とはいえ、俺も気にした方がよさそうだな。
「真也ー!」
海から走ってきた莉乃姉が、思いっきりテンション高く俺に向かって飛び込んできた。
俺は慌てて立ち上がると、その身体をしっかりと抱きとめる。
「危ねぇだろ莉乃姉、怪我したらどうすんだ!」
「真也なら絶対受け止めてくれると信じてたぞ!」
「まぁいいけどよ、急に戻ってきてどうしたんだ?」
「いやぁ、日焼け止め塗るのをすっかり忘れてたなって。だから真也、塗ってくれ。」
「自分で塗ればいいだろそれくらい。」
「だって背中とか一人じゃ塗れないだろ?」
「まぁ確かにそうだけど、女同士で塗りあうんじゃダメなのか?」
「あたしは真也に塗ってほしいんだ!」
「真也先輩、塗ってあげたら?」
「ったく仕方ねぇな、わかったよ。」
「やったね、ありがとう真也!」
嬉しそうの俺から離れると、早速シートに横になる莉乃姉。
そしてナチュラルにビキニの紐を解くと、その綺麗な背中を晒す。
いや、そうすべきってのは解るが、マジで塗るのか?
「莉乃さん……やっぱり綺麗な肌だなぁ。」
「同じ女性とは思えませんね。」
後からやってきた御奈坂と恵恋は、この光景にそんな感想を漏らした。
「マジで毎回桐生ばっかり美味しい思いしてズルいぞ!」
「いや、別に嬉しいとか思ってないから。」
「…真也、そういう悲しいことはせめてあたしのいないところで言ってくれ。」
「さめざめと泣くなっつうの、ちゃんと塗るから待ってろよ。」
「そもそも峰岸さんがそういう思いをできないのは、美味しいとか羨ましいとかそんな台詞を言ってるからですよ。」
「そうだったのか!?」
「真也さんを見習いなさい。この人はそんな雰囲気を少しも出さないどころか、嬉しいわけじゃないだなんて言いつつしっかり塗るというツンデレを上手く使ってますよ。」
「そのまるで俺は内心喜んでるみたいな言い方やめろや。」
「桐生のツンデレ!」
「テメェ……次にその台詞を吐いたら二度と口をきかねぇからな。」
「やめて!そんなことになったら寂しくて引きこもりになるから!」
「ウゼェな。」
「いやぁそれにしても、桐生もオレの仲間かぁ。」
「ざけんな、一緒にするんじゃねぇよ。」
「ねぇ真也ー、まだ塗ってくれないのかー?」
「ったく、次から次へと騒がしいな。」
「あはは、真也くんは人気者ですね。」
「面倒事は御免なんだがな。」
溜め息を吐きつつシートに座ると、置いてあった日焼け止めを手のひらに出して広げる。
間近で見ると、莉乃姉の肌は驚くほどきめ細かく、滑らかだ。
二人が羨むのも無理はない。
まるで神様が悪戯に造り上げたみたいに、この賑やかな姉さんは綺麗だ。
俺は躊躇いながらもゆっくりと手を伸ばし、莉乃姉の背中に触れた。
「んあっ!」
「…莉乃姉、次にその声出したら止めるからな。」
「えぇー、せっかく雰囲気出そうと思ったのに。それに普通にくすぐったいんだぞ?」
「なら止めるか?」
「ごめんごめん!わかったよ、声を出さないように我慢するから。」
「そうしてくれ。」
「むぅ、真也が塗ってくれてるのにつまらないなぁ。」
「黙っとけ、続けるぞ。」
気を取り直して手を動かす。
莉乃姉の背中は引き締まっていて、無駄な贅肉がない。
それなのに柔らかくすべすべしていて、日焼け止めは難なく広がっていく。
塗りやすいな、これならすぐに終わるか。
無言で手を動かしていると、莉乃姉が足をパタパタと動かしながら訊いてきた。
「真也、なんか妙に手つきが慣れてないか?」
「ん、まぁ姉さんに毎年やらされてたからな。」
「なるほど……あたしとは海に行かないのに、真耶とは行ってたのか?」
「毎年あの町に行ってたからな、毎日のように海か山に連れてかれてたんだ。」
「よーし、あたしもこの夏休みは真也を連れ回すぞ!」
「迷惑な決心を固めるな。」
莉乃姉のテンションにつき合わされたら体力がもたない。
「でも私も真也くんといっぱい遊ぼうと思ってますよ?」
「は?」
「わたしだって夏音について深く語り合う予定ですが?」
「いやいやちょっと待て、何を勝手なことを…。」
「オレと逢坂も三人で遊ぼうとか考えてたぞ!」
「俺の予定を勝手に作るな!」
「仕方ないよ真也先輩。みんな今まで遊べなかった分、真也先輩と一緒にいたいんだから。」
「んなこと言われてもなぁ。」
淀みなく手を動かしつつ、何故か期待を含んだ視線に晒される。
はぁ、観念するしかなさそうだ。
今年の夏はいつになく騒がしいものになりそうだと確信しながら、俺は諦めて溜め息を吐いた。
それだけで俺の意志は伝わったのか、皆は楽しそうに笑い合う。
姉さん、どうやら俺はとんでもなく賑やかな日々を過ごすことになりそうだよ。
「真也くん、気持ちいいですね。」
「あぁ、そうだな。」
「空も綺麗だし、来て良かったです。」
「あぁ、確かに。」
真夏の太陽に身を焦がしながら、俺と御奈坂は持ってきたエアマットの上に寝転がり、プカプカと波に揺られていた。
マットからはみ出した足を水をつけて、のんびりとした時間を過ごしている。
眩しい光を腕で遮ると、思わず眠ってしまいそうになる心地よさだ。
御奈坂も同じなのか、手を翳しながら、余った方の手で水面をパシャパシャと撫でている。
「真也くん。」
「何だ?」
「楽しんでくれていますか?」
「そうだな、少なくともつまらないとは思わない。だけど賑やかなのに慣れてないからさ、少し戸惑ってるよ。」
「そういう時は今みたいに、のんびりしていいんですよ。」
「そうなのか?」
「はい。友達は気を遣わないで、一緒にいて気持ちが休まる人のことですから。疲れた時はお喋りだけでもいいんです、私でよければお相手できますから。」
「それは助かるけど、俺と話しても楽しくないぞ?話題だって考えるの苦手だからな。」
「なら私が質問したりすればいいですか?」
「そうだな、そうしてくれたら答えられる。」
「わかりました、そうですねぇ……。」
御奈坂は少しだけ悩むと、俺の方を向いて訊いてきた。
「真也くんって好きな人とかいるんですか?」
「よりによってそんな質問かよ、大体いるように見えるか?」
「あの、莉乃さんのこととかどう思っているのかなって。だって毎日のように告白みたいなこと言われてますし、実はもう付き合ったりしてるのかなって。」
「あれは朝の挨拶みたいなもんだろ、それに莉乃姉は素敵な人だと思うが、まだ恋愛をしようとは考えてないな。」
「まだってことは、可能性はあるってことですよね?」
「まぁあまりはっきりと言うことじゃないが、それこそまだ自分でも判らない。何しろ漸くまともになったんだ、或いは莉乃姉以外の可能性だってあるかもしれないだろ。」
どちらにしても莉乃姉の想いには答えを出さないといけないけどな。
「……それはとっても素敵な可能性ですね。」
「まぁ誰ともそうはならない可能性だってあるんだがな。」
「そうかもしれないですけど、真也くんは一人でいるより誰かと一緒の方が素敵だと思います。」
「何だそりゃ。」
「真也くんはカッコいいですけど、内面の良さは誰かと触れ合わないと伝わりませんから。」
「俺の内面?」
「峰岸くんみたいな親しみやすさってないかもしれませんけど、誰かを守ろうって気持ちは誰よりも強いですよね。でもその気持ちが強すぎて、真也くん自身のことを軽んじている気がします。」
「………そうかもな。」
相変わらず物事の大事な部分をよく見抜くな御奈坂は。
しっかりと考えてそう言っているのか、動物的な勘なのかは判らないが。
実際俺は家族を失って何もできなかったから、もう誰も失いたくないから、自分のことなんて二の次になってるのは確かだ。
献身的ではなく犠牲的、個人として間違った生き方。
でも…。
「俺は今まで自分の命なんてどうでもよかった。だけどもう俺は命を軽んじない。じゃないと両親と、何より俺を救ってくれた姉さんに顔向けできないからな。」
「……はい、私もそうしてほしいです。真也くんは今までの分、思いっきり幸せにならないとダメです。」
そういって俺を見る御奈坂は、まるで自分が嬉しいみたいに微笑む。
その微笑に俺も少しだけ嬉しくなって、小さく頷いた。
御奈坂は少しずつ、俺に歩み寄ろうとしてくれている。
なら俺も、少し御奈坂のことを知っていかないとな。
「じゃあ今度は俺の番だな。御奈坂は休日とか何をしてるんだ?」
「緋結華、ですよ真也くん。」
「…緋結華はいつも休みはどうしてるんだ?」
「私はのんびり本を読んだりもしますけど、お買い物とか友達と遊んだりとか色々ですね。」
「あぁ、やっぱり学生っぽいことしてるんだな。」
「あはは、結構楽しんでるかもです。あとは道場に行ったりもしてますよ。」
「道場?」
「並木町にある小峰道場って所です、小峰宗十郎という方が師範代をされてて、龍矢くんはそこに下宿してるんです。」
「へぇ、そんな道場があったのか。じゃあ御奈坂も結構強いってことか?」
「どうなんでしょう。昨年度の武闘大会ではそれなりに上位でしたけど。」
「武闘大会なんてあるのか?」
「えぇ、四つの町からそれぞれメンバーを選出して、優勝者の所属する町には優先して予算が割り振られるって話でした。因みにフラトレスの従業員は皆さん出場されてましたよ。」
「あの店の連中が…。」
そりゃ随分と理不尽な戦いになっただろうな、無事に終わったのが不思議なくらいだ。
しかも御奈坂はその中でも上位なのか、案外こいつも化け物みたいに強いのかもな。
怒らせないように気をつけよう、あれと同じレベルの強さなら俺じゃ敵わない。
「ん、逢坂って下宿してるのか?」
「はい。なんでもお父様が宗十郎さんと昔馴染みらしくて、剣術修行のために高校三年間はこっちに来ているらしいです。」
「修行って……逢坂の家はどっかの武家なのか?」
「地元では有名な武家らしいですね、今では地主という色が強いみたいですが。」
「へぇ、立ち振る舞いが綺麗だと思ってたがそういう理由か。」
「厳しいお父様みたいですからね、きっと小さい頃から躾けられたのかもしれません。」
つまりあいつは次期当主って感じなのか、見た目に反して随分と古風な背景だな。
「つか、いつの間にか逢坂の話になっちまったな。」
「あはは、そうですね。」
「そうだな……同じ質問を返すようで悪いが、緋結華には好きな人がいるのか?」
「……まさか真也くんからそんな質問が来るとは思いませんでした。」
「悪かったな思いつかなくて。」
「いえ、全然大丈夫ですよ。あはは…えっと、その。」
御奈坂は少しだけ顔を赤らめて、照れくさそうに笑う。
「好きかどうかは判りませんが、気になっている人はいますよ。」
「へぇ、俺の知ってる奴なのか?まぁあんま知り合いっていないけどさ。」
「えっと、知らないと変っていうか、何と言いますか…。」
言うのを躊躇うような緋結華は、珍しく歯切れの悪い言葉を続ける。
やっぱり質問を間違えたか、そりゃ気になってる奴の名前を言うのは躊躇するよな。
暫く唸り続けてから、意を決したように御奈坂が俺を見た。
「私が気になっている人は……。」




