Day.21 似ている二人
並木駅に降り立った俺たちは、なんというか…早速揉めていた。
「何でだ!何で真也が御奈坂を送っていくんだ!」
莉乃姉が俺を正面からがっしりとホールドして、駄々を捏ねているのである。
まぁ予想はしていたんだけど、気分が良さそうだったしあっさり許してくれっかなだなんて甘い期待がなかったわけじゃない、外れたけど。
「いや、何でと言われてもな。明るいとはいえ女の子の一人歩きは危ないだろ?」
「それならこの三人の誰にも当てはまるじゃないか、御奈坂だけっていうのはズルい!」
「いや、莉乃姉も姫百合も普通に強いし、自分の身を守るくらい余裕かと…。」
…そうだな、この発言は失敗だった。
緋結華が苦笑しながら数歩後ろへ下がったと同時に、俺の背骨がミシミシと悲鳴を上げ始める。
失態に気づいた時にはもう遅い。
俺の背中に回されていた莉乃姉の腕が、捕縛の形から圧迫の形に変わったのだ。
徐々に背骨への圧力が増えていって、段々と呼吸が苦しくなる。
俺の胸に顔を埋めていた莉乃姉を見ると、悪鬼の顔に無理矢理笑顔を貼り付けたみたいな表情で、楽しそうに俺を見上げていた。
「ねぇ真也、今のってどういう意味だ?」
「あ、その、今のは言葉のあやで。」
「あたしにはさ、まるであたしと逢坂がゴリラ女で、守るべき女の子は御奈坂だけ、みたいに聞こえたぞ?………なぁ逢坂?」
「…はい、小湊先輩。ボクにもそう聞こえたよ真也先輩?」
「っ!?」
いつの間にか俺の後ろへと回り込んだ姫百合が、莉乃姉のような笑顔で抱きついてくる。
前後をしっかりと密着されて、身動きなんてまるでできない。
感触は悩ましいほどに柔らかくて温かいのに、どうして感じるのは痛みなのか。
………呆けている場合じゃない、マジでこのままじゃ中身が出る!
「なぁ二人とも、謝るからそろそろ離してくれ。」
「あっはっは、面白いことを言うな真也。」
「謝ってもらったところで、真也先輩がボクたちに抱いていた事実は変わらないのに。」
「ならあたしはゴリラらしく、力一杯の愛を込めて真也を抱き締めたくなったんだ。」
「ボクの体温を、思いっきり感じてほしいな。」
姫百合の素敵すぎる笑顔と共に、俺の中枢神経を詰め込んだ背骨が更に悲鳴を上げる。
「ゴリラだなんて一言も言ってないだろ!?」
「あはは、もう真也に公然と抱きつける口実ができたからいいんだよあたしは!」
「何だとっ!?」
「でも真也先輩、少しは反省してほしいな。普通女の子って強いとか言われても嬉しくないんだよ?男の子が可愛いって言われても嬉しくないみたいにさ。」
「………スゲェ解りやすい例えだった。」
「そうでしょ?だから先輩、ちょっとだけお仕置きだよ。ね、小湊先輩?」
そう姫百合が言った途端、二人の腕から力が緩む。
背骨があらぬ方向に曲がることは避けられたものの、結局姫百合の言うお仕置きってのは続いているらしい。
いや、確かにこれはキツいな。
今の俺の状況は、傍目から見ればただ公衆の面前、しかも駅前という人の往来が多い所で、可愛い女の子二人に前後から抱きつかれているようにしか見えない。
しかもそれを緋結華が近くで見ているから、なんか俺が三人に対して思いっきりやらかしたみたいに見える。
クソッ、押し退けて逃げるわけにもいかねぇから、これじゃやられっぱなしだ。
そんな俺の考えを知ってか知らずか、背中で姫百合がもぞもぞと顔を押し付けてくる。
「どぉかな先輩、恥ずかしかったりする?」
「………勘弁してくれ。」
「ボクの身体、気持ちいいかな?」
「そういう台詞は誤解を生むから止めてくれ。」
「誤解?ボクは真也先輩との関係を誤解されるなら嬉しいけど。」
「うぐ。」
強敵だ、女の子になった姫百合は強敵すぎる。
なんというか、男の心の弱点を知り尽くしているんじゃないかってくらい台詞が容赦ない。
多分他意はないのに出てくるんだろうな、恐ろしい天然ぶりだ。
いや、それはともかくだ、この状況を早くなんとかしないと。
緋結華を送るのは外せないし、ここはどうにかして二人に折れてもらわないと。
つか、いい加減に周りの視線が痛すぎる。
男からは明らかに敵意の視線を向けられているし、ここ最近は絡まれることも減ったとはいえ、ここじゃいつ皆を危険に曝すかわからない。
過去の自分が蒔いた危険で、今を壊すのだけはなんとしても死守しねぇと。
だがそんな俺の考えは杞憂だったらしい。
二人を納得させる言葉を選んでいる間に、二人は自然と俺から離れていった。
莉乃姉が呆れたように首を横に振って、人差し指をピンと立てる。
「御奈坂を送るんだろ?なら早く行ってこい、あたしは買い物してから帰るから。」
「え、いいのか莉乃姉?」
「あたしが嫌がっても真也は御奈坂を送るさ、あたしが本気で止めない限りはさ。どうせあたしたちが貼り付いている間も、どうにかしてあたしたちを納得させる理由でも考えてたんだろ?」
「うぐっ。」
図星すぎて何も言い返せない。
莉乃姉、やっぱ誰より俺のことを知ってるな。
顔に出てたのかもしれないけど、多分俺を知り尽くしてる莉乃姉だからこその洞察力だろう。
これは、誤魔化そうと考えたことを反省しないとな。
「悪い、ごめんな莉乃姉。」
「何を謝るんだ?真也は女の子を家まで送る、悪いことじゃないんだし謝ることじゃない。あたしこそ我が儘言って真也を困らせてるんだし、今回は無かったことにしよう。」
「助かる。」
莉乃姉は苦笑して、隣に並んだ姫百合に訊く。
「逢坂も別にいいよな?」
「はい、ボクもちょっと悪のりが過ぎたかなって思いますし。そもそも緋結華さんを真也先輩が送ってくれるなら確実に安全ですから、寧ろお願いしたいくらいです。」
そう答えた姫百合に莉乃姉が頷いて、胸の前で腕を組む。
「うむ、なら決まりだな。真也、早速だが御奈坂を送ってこい。夕食までには帰るんだぞ?」
「あぁ、わかってる。シチュー、楽しみだからな。」
「うん、美味しいの作って待ってるよ。」
莉乃姉は得意気に笑うと、いつも買い物に行くスーパーがある方向へと歩いていった。
潔いというか、颯爽と歩く姿はどこかカッコいい。
美人がそんな風に歩いているものだから、道行く男どもが何人も振り返って見ていた。
莉乃姉を見送ると、姫百合も俺の前に寄ってきて俺を見上げる。
「じゃあ真也先輩、緋結華さんをお願いね?」
「あぁ、大丈夫だよ。」
「まぁボクのお爺ちゃんに勝ったくらいだから、そういう心配はしてないんだけどね。」
「それでも気をつけるさ、安心しろ。」
俺がそう言って頭を軽く撫でると、姫百合は顎の下を撫でられた仔犬のように目を細める。
「えへへ、先輩に頭撫でられるの好きだよ。」
「そうか、特別な撫で方ってわけでもないけどな。」
「そういうんじゃないよ、何かね、真也先輩に撫でられると、そっと優しく心に触れられたような、そんな心地よさなんだよ。」
「そんな誉めても何も出ないぞ?」
「いいですよ~、もう十分撫でてもらったから。」
姫百合は撫でていた俺の手を握ると、少しだけ両手で包むようにしてから手を離した。
「じゃあね真也先輩、緋結華さん。ボクも帰ったら宗十郎さんのご飯を作らないと。」
「あぁ、美味いもの作ってやれよ。」
「うん、また明日、新学期に!」
元気よく手を振って歩いていく姫百合に、俺も手を振り返しながらふと思う。
少しだけ、嫌な予感がしたんだ。
俺が二人と話している間、静かに黙っていた緋結華。
それは常時の緋結華と比較すれば明らかに違和感があって、異常だったんだから。
振り返り、夕陽を背にして立っている緋結華を見る。
その表情は、何かに怯えていた。
自らを抱くように身を縮こまらせて、莉乃姉や姫百合が帰っていった方角を呆然と見つめている。
「おい緋結華、どうしたんだ!?」
「…私、我儘ですよね?」
「え?」
「二人とも真也くんが好きなのに、引き離してしまうなんて。」
「いや、別に二人とも怒ったりしてないだろ。」
「でも、私が一緒に帰りたいだなんて言い出さなければ…。」
「………とにかく、帰ろうか。話、俺でも良ければいくらでも聞くからさ。」
「ごめんなさい。」
俯いた緋結華の手を取って、俺は記憶を頼りに緋結華の家を目指して歩き出す。
震える小さな手を、しっかりと握りながら。
Hiyuka side
心の中を渦巻く暗い感情を、私はどうしても制御できなかった。
どれだけ親しくなっても…ううん、逆に親しくなれたからこそ、私は怖れてしまう。
幸せそうに真也くんにくっついている莉乃さんと姫百合ちゃん。
そんな姿を見たら、覚悟が揺らいでしまいそうだった。
今の私のまま、これからも自分の心に蓋をして、痛みを我慢し続ける。
そう思っていても、私の無意識がそんな思考さえ停止させて、囁くんだ。
――二人の幸せな時間を、私の願いのために奪うの?
もう、心がどうにかなりそうだった。
傷だらけで血を流したもう一人の私が、思考の片隅でいつも私を見ている気がする。
冷たい視線で、過去の私を否定するような眼で。
傲慢にも、人の幸福や願望を打ち砕くのかと。
真也くんに連れられて歩く道さえも、ほとんど覚えていない。
真也くんに何か言われた気がするけど、それは音として消えていった。
「お前のせいで、アイツは夢を諦めたんだ!」
耳元でずっと、かつて向けられた敵意が囁いていたから。
他には何も聞こえなくて、視界はなんだかボヤけて、それなのに囁く声だけは妙に鮮明で。
あぁ、だけど一つだけ確かなものがあった。
私の手を包む温もりだけは、優しい意思に満ちている。
思考は既に纏まらないけど、この手の感触だけはしっかりと感じられる。
離したくなくて、ボケた意識で懸命に握り返す。
ちゃんと力が伝わったのか判らないけど、きっと気づいてくれたと思う。
だって私は、この温もりの一番でありたいと思ってしまっているんだから。
Hiyuka side End
緋結華の家に着いたのはすっかり日も沈んだ頃だった。
こんな状況下でも俺の方向感覚はどうにも上手く働かないようで、住宅地に入った辺りから無様にも迷子になっていたのだ。
緋結華は声をかけても返事がないし、目は開いてるけど寝ているように反応がなかった。
ただ一応歩いてはくれるし、俺が握った手はしっかりと握り返してきたから、家に連れていくのが正解だと思ったのだ。
どうして突然こんな風になってしまったのかは解らないが、きっとご両親は何か知ってるはず。
きっと緋結華の言っていた話というのもこの状況についてだったように思う。
緋結華は言っていた、自分は我儘かと。
いつもの快活さはなく、怯えるような弱々しさで溢した言葉。
どうにかしたい。
俺なんかが力になれるかは判らないけど、事情を聞いて、少しでもその痛みが和らげばいい。
声にならない叫びを聞いた俺にできることを。
インターホンを押すと、間もなくして母親らしき人がスピーカーの向こうに出た。
「はい、御奈坂です。」
「遅くにすみません、桐生と申します。」
「桐生?………あぁ!真也くんね、久し振りじゃない?」
「えっと、そうですね、お久し振りです。」
「ごめんなさいね、まだ緋結華は帰ってきてないのよ。」
「その事なんですが、緋結華は俺の後ろにいるんです。ですが、その…。」
「………またなのね。今開けるから入って。」
「はい。」
また?
以前にもこういうことがあったってことなのか?
受話器を置く音が聞こえてから、すぐに玄関の扉が開いて母親が顔を覗かせた。
その表情は心配する母親のもので、俺の後ろで呆然とする緋結華を見ると、潤んだ瞳が揺れた。
そしてすぐに俺へと向き直ると、小さく微笑んだ。
「いらっしゃい真也くん、わざわざありがとう。」
「いえ、大したことないですから。それより、緋結華を。」
「そうね、部屋に連れていきましょうか。どうぞ入って。」
「はい、お邪魔します。」
俺が緋結華を連れて中に入ると、母親は緋結華の靴を脱がせて、覗き込むように顔を見て笑う。
「お帰り緋結華、おでかけは楽しかった?疲れてるみたいだし、少しお部屋で休みましょうね。」
反応がない緋結華に辛そうな表情を見せて、母親はそっと目元を拭う。
娘を心配する気持ちが雫となって瞳から零れる様子は、やはりいたたまれない気持ちになる。
迷う、このまま立ち去るべきかと。
俺は部外者で、事情を知る家族がいるのなら、俺がしようとしていることはお節介で、ともすれば不躾な野次馬とも取れてしまう。
緋結華は確かに話があるとは言っていたが、それが必ずしもこの件に関わることかは判らない。
だけど、何もしないで任せてしまうことが、俺にはできそうになかった。
「あの…。」
「うん?どうかした真也くん?」
「俺にも何か、できることはありませんか?」
俺のその申し出に、緋結華の母親は驚いた表情を見せた。
だがすぐに嬉しそうな微笑みを浮かべ、小さく頷いた。
「えぇ、ありがとう真也くん。じゃあ一緒にこの子の部屋まで来てくれる?」
「わかりました。」
良かった、どうやら余計なお世話にはならなかったみたいだ。
俺も靴を脱いで家に上がると、緋結華の母親と協力して二階の部屋まで緋結華を誘導する。
部屋に入るとそのままベッドに寝かせて、緋結華の母親は傍の縁に腰かけた。
「真也くんも良かったらその椅子を使って下さいね。」
「あぁ、すみません。」
俺は緋結華の机から椅子を借りて、緋結華の母親と向かい合うように座った。
虚空を見つめるように力なく天井を見続ける緋結華が痛々しくて、胸が締め付けられるように痛む。
どうしてこうなったのだろう、何か俺は間違えたのか?
色々な考えが脳裏を過っては消えて、何も言葉が出ない。
緋結華の髪を撫でるように手を添える母親の姿に、どうしようもない罪悪感が沸いてくる。
傍にいたのに、何も気づいてやれなかった罪悪感が。
「真也くんは、どうして緋結華のためにここまでしてくれるのかしら?」
「え?」
唐突に向けられた質問に、俺は驚きつつも答えを返す。
「俺は、緋結華に救われたから。だから、俺も緋結華の力になりたいって思って。」
「救われた?迷惑でなければ少し話してもらってもいいかしら?」
俺は頷いて、緋結華とこれまで過ごした時間のことを話し始める。
俺の家族のことや真耶姉さんのこと、怪我をしていた俺を気にかけてくれたこと、終業式での出来事も。
いくらもう乗り越えていることでも、言葉にすると少しだが心に刺さる。
それが表情に出てしまっていたんだと思う。
緋結華の母親は俺の悲しみを共有するように目を伏せて、しかし一言一句聞き逃すまいとするように耳を傾けてくれていた。
長くなってしまったが、今日の出来事まで話し終えた時、緋結華の母親はそっと俺の手を握ってきた。
「たくさん辛い思いをしてきたのね、話してくれてありがとう。ごめんなさいね。」
「いえ、大丈夫です。皆が俺を支えてくれたので。」
そうだ、だからこそ緋結華を俺も救いたいんだ。
緋結華の母親は優しい眼差しで娘を見て、囁くように言う。
「緋結華、とても善いことをできたわね。それに、凄く素敵なお友だちがいるじゃない。だからもう、こんな風に迷惑かけちゃダメよ?」
緋結華の母親は言い終わると俺に向き直り、俺の目を真っ直ぐに見つめてきた。
「今から少し昔話をするわね。大事な話だから、良かったら真剣に聞いてほしいの。…でも、真也くんなら余計な心配ね。」
「いえ、話して頂けるならありがたいです。そこに俺ができることのヒントがあるかもしれないので。」
緋結華がこうなってしまった原因が解れば、恐らくはそこに解決の糸口が掴めるはずだ。
そう考えていると、何故か緋結華の母親は悪戯っぽく笑った。
「うふふ、そうね。でもきっと、それはもう解決していることなのよ。」
「え?」
「謎かけみたいでごめんなさいね。じゃあ、お話ししましょうか。」
「緋結華はね、中学生までずっとアイススケートをやっていたのよ。」
「アイススケート?」
つい鸚鵡返しに聞いてしまったが、それは初耳だった。
そんな話は今まで一度も触れたことがないし、正直言って予想外だ。
緋結華は剣道部でも結構強い方だと莉乃姉から聞かされていたし、てっきり昔から剣道を続けていたものだと勝手に思い込んでいた。
俺の意外そうな表情を見て、緋結華の母親はやっぱりと苦笑した。
「多分話してないでしょうね、この子にとっては楽しく話せることじゃないでしょうから。」
「そうですね、聞いたことがありません。」
それどころか緋結華から“昔は”だとかそういう話を聞いたことがない。
聞こうとも思わなかったし意識もしていなかったが、意図してそういった話をしないようにしていたのかもしれないな。
恐らくは姫百合さえ知らないだろう、二人が出会ったのは少なくとも緋結華が並木高校に入学してからになるはずだから。
「緋結華はスケートが好きでね、お父さんも楽しそうな緋結華を見たいからって、休日になるとしょっちゅうスケートリンクに連れていってたわ。そうしたらどんどん上達してね、気がつけばほら、そんなにたくさん。」
緋結華の母親に示された先には、タンスの上に並んだ金や銀のトロフィー。
あぁそういえば、以前ここに来たときも目にしていたが、俺は勝手に剣道で貰ったものだと勘違いしていたらしい。
何しろ傍に立て掛けてあるのは竹刀で、スケート靴も衣装も全く見当たらないんだから。
でもこれだけトロフィーを貰うってことは、少なくともこの辺りではかなり優秀な選手だったんだろう。
………やっぱり、そうだよな。
俺はその違和感の正体を理解して、少し気持ちが楽になった。
「あの、トロフィーを見る限り、常に一番ではなかったようですね。」
「そうね、当時はもう一人凄く上手い女の子がいたのよ。二人の妖精だなんて言っている人もいたみたいよ、彼女も美人だったから。」
「そうだったんですか。確かに緋結華は綺麗ですからね、氷の上を滑る姿は妖精が舞っているように見えるかもしれません。」
「あら、うふふ。」
娘を誉められて嬉しいのか、緋結華の母親はまるで自分のことのように微笑む。
緋結華の中学時代がどんなだったか見たことはないが、きっと今よりもちょっと幼さのある可愛さで、会場にいた多くを魅了していたんだろう。
俺も見てみたいと思うが、しかし。
俺はそろそろかと身構えるように、緋結華の母親の目を見た。
その構えに応えるように、緋結華の母親も表情をほんの少し固くする。
「そうね、本題はここからになるわ。緋結華はスケートが好きで、週末に行くリンクでの練習もあくまで楽しいから、趣味の範囲でしかなかったの。それがたまたま実力の向上に繋がって、大会でも結果が出るようになった。それだけだったのよ。」
「…なるほど。それじゃあもう一人の妖精は悔しかったでしょうね。」
「えぇ、そうだったのよ。やっぱり賢いわね真也くんは。そこに気を回せていたら、もしかしたらなんて考えてしまうわ。」
緋結華の母親は、それが己の間違いだったとでも言うように悲しそうな顔をした。
無自覚の才能、これがそもそもの原因だったのだ。
もう一人の妖精は本気で努力していた、きっと真剣に将来を見据えていただろう。
努力して、上達して、挫折して、それでも願いのために立ち上がって前を向く。
そうして手にした栄光のトロフィーを糧にして、あるいは色々な誘惑さえ犠牲にしていたかもしれない。
そんな彼女に対して、緋結華は才能の塊だった。
趣味の範囲で遊んでいるだけなのに、それだけで時に自分の努力さえ上回る結果を出してしまう。
そしてそれほど実力が肉薄している相手が、まるで自分なぞ眼中にないように滑っていて、将来さえ別段気にした様子さえない。
多少は緋結華の中にもビジョンがあったかもしれないし、やがては勝ちたいと願って滑ることもあっただろう。
だがそんなことは、その努力や意識の圧倒的な差を埋めるにまるで足りていない。
悔しいと同時に絶望しただろう。
それほどの差を以てして同程度、なら同じレベルの努力を緋結華がしたらどうなるか。
それはもう侵略に他ならない。
天才は無自覚のままに才能を撒き散らし、他のあらゆる努力を蹂躙する。
緋結華が初めから同じように努力を重ね、圧倒的な差を見せつけていたならば諦めもついただろう、憧れさえも抱いたかもしれない。
だが共に同じ舞台で滑る内に気づかされる、二人の間にある大きな溝。
ただそれだけで、心は別の方向を向いてしまうから。
「彼女も初めの頃は緋結華と仲良くしていたのよ。一緒に滑って、楽しそうに笑っていたの。ただ彼女は毎日のようにコーチと放課後に練習していて、緋結華は週末に数時間だけ。」
「そしていつからか、その子は緋結華を敵視するようになったんですね。」
「そう、それこそ修復は不可能だろうってくらいに。緋結華を憎んでるようにも見えたわ。」
「………お母さん、もう言わないで。」
「緋結華、目が覚めたのか。」
「真也くん…。」
ゆっくりと上体を起こした緋結華は、母親に支えられながら俺の方へ向いて頭を下げた。
「ごめんなさいご迷惑をおかけして。」
「いや、謝るようなことじゃないだろ、特別なことは何もしてないし。いいから頭を上げてくれよ。」
「でも、こんな所まで来ていただいてますし。」
「気にするな、元々送るって約束だったし。それより身体の具合はどうだ?」
「はい、お陰さまで大丈夫です。それに、どこが悪いということもないですし。」
頭を上げて苦笑する緋結華は、少し俯いてから俺の目を真っ直ぐに見た。
「お母さんからある程度話は聞きましたよね、じゃあ続きは私の方から話します。………そのために真也くんに送ってもらいたかったので。」
「わかった。」
「お母さんごめんね、ちょっと二人きりにしてもらえる?」
緋結華の母親は小さく頷くと、部屋を出るために立ち上がる。
「そうね、ならお母さんは下で夕食の用意を始めちゃおうかしら。………勝手に話してしまってごめんなさいね緋結華。」
「大丈夫だよお母さん、気にしてるわけじゃないから。ただ、自分で話さないといけないことだって思ったから。」
「そうね、真也くんなら聞いてくれるわ。じゃあ真也くん、後はお願いね。」
「はい。」
緋結華の母親は微笑みを残して扉を閉めた。
階段を降りていく足音が少しの間だけ聞こえて、やがてささやかな静寂が訪れる。
蝉の鳴き声は遠く、窓の外を夜が満たしつつあることを去り際に伝えていた。
俺は思考の端でそんなことを思いながら、ベッドの上で膝を抱えて座る緋結華に視線を向ける。
そこにいつもの快活さはない。
優しく前向きな笑顔も、素頓狂なことを突然言い出す口も今は静かに閉じられている。
すると緋結華は顔を上げて、開いていた窓の外へと視線を向けた。
時折吹いてくる風が、緋結華のウェーブがかった栗色の髪を優しく揺らす。
「私は、最低なことをしたんですよ。人の努力を気にも止めないで、勘違いしたまま踏み躙った。そのせいで一人の女の子が、自分の夢を諦めてしまったんです。」
そう呟いた横顔の向こうにある表情は見えない。
でもそれが深い後悔に染まっていることは容易に想像できた。
かつての自分が犯した過ちに思いを馳せるように、緋結華はそのまま続きを話す。
「遥香ちゃんはとてもスケートが上手でした。学校が終われば毎日のようにリンクへ行って、日が暮れても練習していて、体力作りにランニングしたり、自分の全てをスケートに捧げている女の子だったんです。見た目も可愛くて、ずっと将来を期待されていたんです。この町からも世界を目指せる妖精が生まれたんじゃないかって。」
「それを本人も誇りにして頑張ってたってことか。」
それは年頃の少女にとってどれほどに誇らしげなことだっただろう。
周囲から期待され、不安定な思春期の少女に確固たる目標を描かせた。
自分は他の人とは違う特別な人間で、そうあるためには努力して更に期待に応えていく。
その努力のために友人との放課後の時間も休日さえも擲っていた。
「遥香ちゃんは地元の大会でも常に一番でしたし、実際他の大きな大会でも結果を残していました。周囲の人たちからの声援や期待もどんどん大きくなって、本人もそれに応えようと練習を重ねていた。…なのに。」
そこで緋結華が顔を伏せて、後悔の色を強めた瞳で薄っすらと涙を浮かべた。
「私は馬鹿で、何にも解ってなくて、遥香ちゃんが築いた彼女の世界を土足で踏み荒らしたんです。それさえも気づかずに、自覚もなく、彼女も一緒に楽しんでくれてるだなんて勘違いしたままで!」
「緋結華。」
「私が彼女から一番を奪ってしまった!彼女の居場所を壊してしまった!私は一番になっちゃいけないんです、望んじゃいけないんです!もう誰も悲しませたくない!」
大粒の涙と共に溢れた感情が、部屋の中で木霊した。
しんと静まり返った部屋に、緋結華の嗚咽だけが聞こえている。
己の過去を悔やみ苦しむ緋結華の、それは長年閉じ込めてきた軋みだ。
俺が皆と仲良くしている光景や、緋結華自身が喜びや楽しさを感じる度にその歪みは大きくなって、緋結華の中で軋む。
それが今回のことで、現実に聞こえてしまうほどの限界を迎えてしまった。
俺に相談しようという思いが、或いは心の緩みになってしまったのかもしれない。
…でも、良かったよ。
俺は椅子から立ち上がると、緋結華の隣に並ぶようにベッドの縁へ腰かけた。
「緋結華。」
そっと、手を差し伸べるように語りかける。
「ちょっとだけ、俺の話を聞いてくれないか?」
「………。」
返事はない。
だけど小さく頷いたような気配を感じて、俺は話し始めた。
「俺には昔の緋結華がしたことも見ていないし、遥香って子のことも知らない。緋結華がどんな思いでその子と接して、どんなに今まで悩み苦しんだのかもわからない。俺は緋結華じゃないから、想像でしか共有はしてあげれない。」
そうだ、俺はどれだけ緋結華と一緒にいて仲良くなっても、僅かもズレなく理解をすることはできない。
それが様々なコミュニケーション方法を持つ人間の、一つの限界だ。
「でもさ、このことに関してなら俺は、自信を持って言えることがあるよ。」
そう、今回のことはコミュニケーションの不十分さなど関係ない。
緋結華のすべきことは、その前にあるから。
「贖罪は、緋結華も遥香さんも、どちらも幸せにしたりしないんだ。ましてや緋結華。緋結華が抱いている思いは、はっきり言って間違ってる。」
「………どうしてそんなことが言えるんですか?私のことを解らない、過去のことも知らない真也くんが、どうしてそんなことを言えるんですか!」
緋結華が敵意を向けて俺を睨んでくる。
俺が裏切ったように今の緋結華は感じているんだろう。
その瞳には敵意の裏で困惑に揺れていた。
ここで目を逸らしてしまえば、それは俺が裏切ったという勘違いを決定的にしてしまうだろう。
ここは真っ直ぐに、緋結華の瞳に語りかけないと。
「なぁ緋結華、夏休みに入る前の俺を覚えているか?」
「え?」
突然の質問に驚いている緋結華に、俺は小さく笑いながら続けた。
「あの頃の俺ときたら、真耶姉のことで勘違いして、加害者気取りで勝手に自分を追い詰めて、誰とも関わらなきゃいいとか思ってたんだ。」
誰も俺を責めてない、寧ろ心配してくれていたのに。
「そんな風に思ってるくせに莉乃姉には甘えて、自分の贖罪さえ満足にできない。しかもまた勝手に凹んで、莉乃姉には心配ばっかりかけてた。」
「………そうでしたね。」
俺の話で少し気が紛れたのか、強かった敵意が弱まった。
思い出すように頷く緋結華を見ながら、俺は苦笑して続けていく。
「変わらないままの自分を責め続けて、あげくにはそれを真耶姉のせいにしてた。最低な自分だったと今でも凄く思う。でもさ…。」
俺はそっと緋結華の手を握って、二人の目線の高さまで持ち上げた。
「そんな俺の間違いを正してくれたのは皆で、緋結華で、この手なんだよ。この手を差し出してくれたから、それを掴めたから、今の俺はここにいられるんだ。真耶姉と会って話すなんて奇跡も、あの時この手がなければあり得なかった。だから凄く、緋結華には感謝してるんだぜ?」
「…そうだとしても、だけど、それが私の過去を消してくれるわけじゃないでしょう?」
少し視線を逸らした緋結華は、それでも俺の手を振りほどかない。
大丈夫だ、ちゃんと繋がってる。
俺は緋結華の問いに答えるために、悪戯っぽく笑う。
「やっぱり、俺と緋結華は似ているよ。」
「えっと、どこがですか?」
「自分のせいで誰かを傷つけて、自分の存在を消してしまいたくなるくらい後悔して、贖罪をすることで謝り続けて、大勢の中で孤独になっている。………もう、気づいたんじゃないか?」
「何を……。」
そう呟いた直後、緋結華が何かに気づいて顔を上げた。
その瞳を見て、俺は頷いてみせる。
「俺も緋結華も、状況は違えどやってることは似ている。ただ緋結華の方が隠すのが上手かったから、俺も気づいてやれなかったけど。」
「上手いって、全然嬉しくないですね。」
緋結華が苦笑するのを見て、俺は漸く安心した。
大丈夫、緋結華は変われる。
そっと空いた手で頭を撫でてやると、緋結華は頬を赤らめた。
「確かに緋結華は色々なことを気づいてやれなかったかもしれない、それで辛い言葉を投げられたこともあるんだろう。」
「………はい。事実私は遥香ちゃんが行きたがっていた運動系が強い高校から推薦を受けました、でも私はそれを断ってます。彼女は…もうスケートを辞めてしまいました、高校入学と同時に。」
綻んでいた表情が再び曇る。
でも俺は頭を撫でることを止めずに、そのまま話し続ける。
「緋結華、彼女は確かに緋結華を原因にして辞めたのかもしれない。でもさそれは何処ででも起こっていることだよ。」
「え?」
「だってそうだろう?スポーツだなんて勝負の世界では、強い選手とぶつかるなんて壁はいくらでもある。強敵に負けたり勝ったりして、そうして前へ進んでいくものだ。当然努力の質も量も全然違う相手だ。そこで挫折してしまうなら、例えどれほど才能があろうと強くはなれないよ。」
「………。」
「彼女が緋結華との差に苦しんで、結果としてスケートを辞めてしまった。でもそれは知らないってだけで、他でも起こっていることだ。それを気にしてスポーツやってたら、はっきり言ってキリがない。」
「………そうかもしれませんね。」
憑き物が落ちたみたいに緋結華は小さく頷いた。
これは緋結華が優しすぎたからこそ起きた問題で、本来なら悩むようなことじゃなかったことなんだ。
それでも緋結華は責任を感じ、今日まで苦しんできた。
「緋結華が責任を感じたのは間違いじゃないし、寧ろ正しいことだとも思う。でもさ緋結華、もう少し楽に生きてもいいと思うんだよ。それは他でもない、緋結華たちが教えてくれたことなんだから。」
「私が?」
キョトンとした緋結華に俺は笑いかける。
「誰かのために苦しみを背負うことはない、辛いことは分けあえばいい。俺の苦しみを緋結華が一緒に背負ってくれたみたいに、今度は俺が緋結華の苦しみを背負う番だ。いきなり全て楽になるなんてできないと思う、俺もそうだったからさ。でも少しずつ、ゆっくりでいいから、俺にも分けてほしい。」
「………真也くん!」
緋結華の瞳に涙が浮かぶ。
でもそれはもう、苦しみから生まれる涙じゃない。
抱きついてきた緋結華を、俺は優しく受け止めた。
「もう…諦めなくていいんですよね?私は、一番に憧れてもいいんですよね?」
「あぁ、勿論だ。緋結華は苦しまなくていいんだ、自分に嘘を吐かなくていいんだよ。」
「ありがとう真也くん!…ありがとう。」
今は、思いっきり泣いてもいい。
だってたくさん雨が降った次には、何処までも青い空が広がるはずだから。
Hiyuka Side
どれくらい泣いていただろう。
真也くんの温かな胸の中に包まれて、私は思いっきり泣いた。
今まで溜め込んでいた思いを吐き出すみたいに、真也くんに背中を撫でられながら。
一緒に背負ってくれるという言葉が温かくて、甘えるようにすがりつく。
嬉しかった。
形容する言葉が見当たらないくらいに、私は幸せを感じられた。
今まで一人で泣く夜もあって、皆と一緒にいる時にはより強く罪悪感が付きまとうこともあった。
でも、もう一人で泣かなくてもいいんだよね?
皆と一緒にいても、苦しまなくていいんだよね?
いきなりは難しいと思う、私がしてしまったことがなくなるわけじゃない。
だけど真也くんが、認めてくれたから。
私の過去を知って、今の私を知って、それを認めた上で共にいてくれると言ってくれた。
遥香ちゃん、ごめんね。
私がどんな風に思っていたとしても、遥香ちゃんの苦しみに気づかずとった態度は誉められるものじゃないと思う。
真也くんが言ってくれたことは事実だし、勝負の世界では当たり前のことだろうけど、それでもこうなる前に私ができることはあったはずだ。
それをできなかった自分を責めていた、でももう責めるのは止めようと思う。
自分を責めることを反省に変えて、私は自分のために幸せを願いたい。
だから遥香ちゃん、ごめんね。
償うことはもうできないけど、いつか落ち着いたらちゃんと謝りに行くよ。
もしも許されるなら、また初めの頃みたいに仲良くできたらいいけど。
「緋結華、落ち着いたか?」
頭上からかけられたその言葉に、私は小さく頷いた。
本当はもっとこうしていたいけど、そろそろ時間切れだよね。
この温もりも幸せとも、少しお別れだ。
私はそっと真也くんから離れると、目元を拭って笑う。
「もう大丈夫です、ありがとう真也くん。」
「そうか、それなら良かったよ。」
優しく微笑んでくれる真也くんに、私の心が温かくなる。
自然と私も笑えている、それが真也くんから貰った力だ。
大切にしたい。
これまでの時間も、これからの時間も。
真也くんがそうだったように、私も少しずつ自分を認めていこう。
責め続けて否定するのではなく、思いを肯定して前へと進む。
それがきっと、引っ張ってくれた真也くんへの恩返しになるはずだから。
真也くんはもう一度私の頭を撫でてくれると、静かにベッドから立ち上がった。
「悪い緋結華、俺そろそろ…。」
「はい、莉乃さんが待ってますもんね。大丈夫です、次に会うときにはいつもの私ですから。………いえ、違いましたね。」
「ん?」
私はそこで言葉を切ると、首を傾げている真也くんに笑顔を向けた。
「自分の気持ちに素直になった私ですね。」
「…あぁ、そうだな。」
優しく、嬉しそうに笑う真也くん。
そうだよ、私は変われるんだ。
生きていれば色々な衝突がある、それは避けられない。
喧嘩だってするし、互いの思いがぶつかることもある。
今まではそれが嫌だった、だから自分は一番にならなくていい、同じ過ちを繰り返したくないって逃げてた。
でももう逃げない。
私は欲張りだから、自分の気持ちも、相手との関係も全部諦めない。
そうできるように考えて努力していく、それがこれからの私だから。
だから真也くん、私も負けないよ。
一緒に玄関まで降りて、お母さんと一緒に真也くんを見送る。
「本当にありがとうね真也くん、私頑張るからね。」
「あはは、そうだな。でも、張り切りすぎて空回りしないようにな。」
「もうっ、大丈夫ですよっ。」
するとお母さんがリビングからやって来て、真也くんと私の姿を見て微笑んだ。
「ふふっ、真也くんに任せて正解だったみたいね。緋結華、素敵なお友だちに恵まれたわね。」
「お母さん。…うん、そうだね。」
「うふふ、久しぶりに緋結華のそんな笑顔を見れた気がするわ。真也くん、本当にありがとう。」
深々と頭を下げたお母さんに倣って、私ももう一度頭を下げる。
「いやいや、どうか頭を上げてください。」
「うふふ、ちょっと堅苦しかったかしらね。良かったら夕食を一緒にと思っていたけれど、先約があるのかしら?」
「はい、家で待ってる人がいるので、あんまり待たせると何をされるか。」
「その人はもしかして彼女さんなのかしら?」
「いやそういうわけじゃ、幼馴染みなんです。」
「そうなのね……うふふ、これは緋結華も大変そうね。」
「もうっ、お母さん!」
「ん?」
「何でもないですから真也くん、気にしないでください。」
「おぉ、わかった。」
楽しそうに笑うお母さんと驚いた表情の真也くんを見て溜め息が出る。
でも、やっぱり気にしてほしいかも。
気にされないってことはやっぱりそういうことだし、真也くんそういうのに物凄く鈍いからはっきりさせないといけないことだから。
………私も、もう諦観するのは終わりにするんだ。
すると真也くんがドアノブに手を掛けて、小さく頭を下げた。
「それじゃあそろそろおいとまします、お邪魔しました。」
「邪魔だなんてありえないわ、いつでもいらっしゃって下さいね真也くん。その時は是非夕食を食べていってね。」
「ありがとうございます。緋結華もまた明日、久し振りの学校でな。」
「はい、そうですね。…お母さん、外まで見送ってくるね。」
「そうね、そうしてあげなさい。」
真也くんと一緒に玄関を出ると、夜風が心地よく吹き抜けた。
火照った身体を少しだけ冷ましてくれて、私は大きく深呼吸してみる。
………よし。
やんわりと周囲を見渡して、誰もいないことを確認した。
大丈夫、今なら。
真也くんが道路に出て振り返り、私に小さく笑いかける。
「出てきてもらって悪かったな、ありがとう。」
「お礼を言うのは私ですよ、本当にありがとうございます真也くん。」
「気にするな、俺は大したことをしてないよ。それじゃあ、またな。」
軽く手を上げて背を向ける真也くん。
「ねぇ、真也くん。」
「ん、なんだ?」
振り返る真也くんを正面から見る。
不意打ちなんかじゃない、私は真っ直ぐに自分の想いを伝えたいから。
「あのね真也くん、言わなきゃいけないことがあるの。」
「何か言い忘れてたか?」
「うん、凄く大切なことなの。」
真也くんの綺麗な瞳を真っ直ぐに見つめた。
胸がドキドキと激しく鼓動する。
恥ずかしくて、心臓がどうにかなりそう。
思考は上手く回らなくて、考えていた言葉なんて何処かに飛んでいってしまった。
でも、伝えなきゃ。
震える手を握りしめて、大事な一歩を踏み出す。
真也くんに助けてもらった私が最初に望むもの、そのための第一歩を。
「わ…私ね、真也くんの言葉で変わっていけると思うんです。新しい自分に、素直な私に。」
「そうか、俺も嬉しいぞ緋結華。」
「うん、だから私も変わりたい。傍で見ているだけじゃなくて、私も求めていきたいんです。」
「えっと、話がよくわかんねぇんだが?」
困惑した様子の真也くんの傍まできて、私はその素敵な顔を見上げた。
「だから、私だって負けません。相手が誰であっても、私は真也くんの一番になりたいんです!」
「ちょっ、緋結華っ!?」
「んっ………。」
柔らかな、女の子みたいな感触。
腕を真也くんの首に絡めて、抱きつくように身体を密着させた。
胸のドキドキを伝えたくて、私の想いが届くように。
初めてのキスを、貴方に捧げたこの気持ちを。
「………ん。」
「ひ………緋結華!?」
「そういう……ことですから!」
そっと離れて、少しだけ下がった。
もう迷わずに、身体は自然と玄関へと走り出す。
呆然とする真也くんを置き去りにして、気づけば私は玄関で踞っていた。
胸のドキドキはもうどうしようもないくらい酷くなっていて、顔はきっと真っ赤になっていると思う。
身体が熱くて、呼吸を整えようと深呼吸する。
震える指先で自分の唇に触れた。
「………えへへ。」
幸せな気持ちが溢れてくる。
大好きだよ真也くん。
出会ってから今日まで、どんどん好きになっていったよ。
いつも視線で追ってしまうくらい、気がつけば貴方の存在が大きくなっていた。
だけど好きになればなるほど、過去に縛られた私は罪の意識に潰れそうになってしまう。
でも自分の気持ちを抑えられなくて、周りの皆が気持ちを伝えていく姿を見て、遂に心が追いつかなくなってしまった。
「でも真也くんが救ってくれたよ。嬉しいよ、真也くん。」
こんな素敵な人を好きになれて嬉しい。
だから負けない、私は真也くんの隣を歩きたいんだから。
「………うふふ、幸せそうねぇ緋結華。それに、結構大胆なのね。」
「………へ?」
不意に聞こえた声に顔を上げる。
そこにはニコニコと笑うお母さんが、私の前で座って覗き込んでいた。
「なっ…ななな…。」
「うふふ、真也くん驚いてたわね。でも流石はお母さんの娘ね、ちゃんと正面からキスしに行くなんて。」
………まさか、見てたの?
「………お母さん?」
「なぁに緋結華?」
「もうっ!見てるなんて酷いよぉ!」
「わぁ、緋結華が怒った~!」
笑いながら逃げ出すお母さんを追いかけてリビングへ走り出す。
笑顔で、二人の未来を夢見ながら。




