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Day.22 荒れる新学期

夏も残すところあと一月ほどだと言うのに、今朝も蝉の声が鳴り止むことなく騒がしい。

アスファルトはいまだ陽炎に揺れて、視界の先では逃げ水がさざめいている。

目に痛いほどの陽射しは相変わらず容赦なく、背筋を伝う汗に今から不快感が上がっていく。

そんな中を俺は、久し振りの通学路を牛歩の如き早さで歩いていた。

別に体調が優れないということはない、まぁ寝不足ではあるがそんなことは些細なことだ。

問題は昨晩のことを発端として、これから学校に行かなければならないこと。

あぁ、俺はどうするべきなんだよ。

今も緋結華の唇の感触が残っている気がして、そう思う度に胸の奥から恥ずかしさが沸き上がってくる。

告白だよなあれは。

まさか緋結華のトラウマの克服があんな展開に繋がるだなんて思いもしなかった。

しかも言葉を発する暇もなく、緋結華は凄い早さで家に入っちまったし。

取り残されて暫く動けず、身体の熱が抜けるまで立ち尽くしていた。

家に戻ると莉乃姉が抱きついてきて、直後に高かったテンションが急下降して俺を睨んだ。


「女の子の匂いがする。…真也、まさか緋結華と。」


たったそれだけで何かを悟ってしまう女の鋭さに驚きつつ、今度は機嫌が悪い莉乃姉の隣で夜を明かすはめになった。

お陰で酷い寝不足だ、いや、原因はきっと俺なんだろうけど。

昨日の夕食も今朝の朝食も美味しかったのに、どうにもはっきりと味を覚えていない。

気がつけば既に莉乃姉は出ていったらしく、部屋には先に行ってるとメモ書きが残されていた。

莉乃姉にもちゃんとお礼を言わないといけないのに、それすら満足にできない体たらくだ。

はぁ、前途多難な新学期だよ、ったく。

今日は色々と考えてる内に一日が終わりそうだな。

どうせ今日は始業式と簡単なHRだけで終わるだろうから、午後は莉乃姉でも誘って埋め合わせくらいしないとな。

そんなことを考えながら歩いていたからか、気がつけばそろそろ校門が見えてくる所まで来ていたようだ。

蝉の声に混ざって、遠くから朝の挨拶をする声が聞こえてくる。

生徒会や風紀委員による身嗜みチェックだろう、新学期直後は何かと羽目を外した連中が多いって莉乃姉がボヤいてたっけ。

俺のせいで色々とフリーとなった莉乃姉はいないはずだし、もう教室に向かったのだろうか。

方々から徐々に合流してくる生徒の波に紛れて、俺も正面から校門をくぐる。

ただ何だろう、何か違和感を感じた。

慣れない感覚というか、いつもと雰囲気が違う気がする。

正体の判らない違和感に周りに視線を向けてみるが、何人かと目が合っただけで別段おかしなところはない。

…久し振りの登校だからなのか?

もしくは終業式での一件がまだ尾を引いていて、それで興味の視線を向けられているとか?

時間は随分空いているとはいえかなり大事だった上、すぐ夏休みに入ってしまったから、恐らくその後どうなったのかを知らない人も多いのだろう。

それならさっきから妙に視線が合うのも頷ける。

何しろ俺は事の当事者だ、興味があるなしに関わらず、俺を見ればいやが上にも思い出す。

………まぁ、誰も話しかけてこないんだから俺には関係ないか、何かできそうにもないことだし。

他の面々には大変な一日になるかもしれないことを内心で謝りつつ、靴を履き替えて階段を上っていく。


「…って、あれ?」


眠さからボケッとしていたからか、気がつけば俺は屋上に来ていた。

それなりに長い期間毎日通っていたからだな、無意識に来てしまうとは、習慣ってのは怖い。

ただ陽射しは暑いものの、屋上だけあって風はよく吹いていた。

どうせ教室で始業式まで待ってても居心地悪いだけだし、ここでギリギリまでのんびりしていようかな。

二学期初日の朝っぱらから屋上に上がる物好きは俺だけのようで、幸いにも他には誰もいない。

俺は適当なベンチに鞄を置いて、いつものように横になろうと腰かけた。


「っ!?あっつ!」


慌てて飛び起きて鞄共々ベンチから距離を取る。

そりゃそうだ、朝からこの陽射しに晒され続けていたベンチだぞ、冷たいわけがない。

あぁ、相当今日はボケているな、警戒心が明らかに希薄だ。

自分の間抜けさに呆れつつ、ベンチは諦めてフェンスに寄りかかる。

首だけを動かして振り返れば、眼下には賑わいだした校門が見える。

久し振りの再会やそれに伴う変化、夏休みの思い出話に花を咲かせているんだろう、誰も彼も楽しげに昇降口へと歩いていく。

教室はもっと騒がしいだろうから、やっぱ屋上へ来てしまって正解だったかもしれないな。

吹いてくる風の心地よさに目を細めていると、不意に屋上のドアが軋みながら開いた。

驚いて目を向けると、制服に身を包んだ恵恋がこちらへと歩いてくる。


「おはよう恵恋、珍しいなこんな所で。」

「えぇ、おはようございます真也さん。朝からこんな所で黄昏てるなんて、何かあったんですか?」

「いや、黄昏てるってわけじゃないんだが…。まぁ正直言って、教室にいたくなくてな。」

「ふふ、やっぱりそうでしたか。わたしも同じです、鞄だけ置いて逃げてきました。」


苦笑する恵恋の手には、確かに何も握られていない。

恵恋は俺の隣で同じようにフェンスに寄りかかると、風で靡く黒髪を押さえながら小さく笑う。


「校門をくぐったら屋上に真也さんが見えて、あぁきっとわたしと同じ気持ちなんだろうなって思いました。」

「やっぱ教室は騒がしかったか?」

「えぇ、それはもう鬱陶しい賑やかさで、久し振りに苛っとしました。」

「笑顔で黒いこと言われると怖いぞ恵恋。」


素敵な笑顔を浮かべられるようになった反面、毒舌を発揮した時の怖さが倍増しやがった。

恵恋は俺の言葉を気にした風もなく、眩しそうに額の辺りで手を翳している。

するとそっと伸びてきた小さな手のひらが、俺の手を握った。

俺が驚いて目を向けると、暑さだけじゃない赤みを頬に浮かべながら、恵恋がぎゅっと目を瞑っている。

俺が何も言えずに握り返してやると、恵恋はおそるおそる俺を見上げた。


「はしたないって思いますか?」

「何故だ?恵恋をそんな風に思ったことなんてないぞ?」

「だって、わたしは真也さんに朝から会えるって思っていただけなのに、傍にいたら、真也さんに触れたいという衝動が抑えきれなくなりました。我慢できずに真也さんを求めてしまうなんて、はしたないでしょう?」

「いや、そこまで重く捉えることはないだろ。そりゃ流石にそれ以上を求められたら困っちまうけど。」

「そうですね、それは真也さんがわたしを選んでくれた時のお楽しみっていうことで。………でも真也さん?」


恵恋は握っていた手を離すと、何かを企んでいそうな笑みを浮かべて言った。


「わたしは真也さんを独り占めしたいって、本気で思っていますからね。」


呆気にとられていると、恵恋はそのまま屋上から出ていった。

ホント、あぁいう笑い方が似合いすぎなんだよ。

小悪魔的というか、恵恋の平常運転は色々と容赦ないというか。


―――キーン、コーン、カーン、コーン。


はっ!?

無情にもスピーカーから響く始まりのチャイム。

俺は考えるより先に走りだし、新学期早々の遅刻を覚悟した。






「長い休みが明けると、どうしても気持ちが浮わついたままになりがちです。ですから皆さんには並木高校の生徒としての節度を意識し………。」


外にいた方がまだマシと思えるような熱気が、朝の体育館に満ちていた。

ウチみたいな県立高校が体育館に冷暖房を完備できるほど裕福なはずもなく、誰もが暑さに顔をしかめている中で始業式は進行していく。

唯一風が抜ける両端の一列さえ話なんて聞いておらず、時折吹いてくるぬるい風に意識を集中している。

俺も例に漏れず校長先生の有難い話を列の一番後ろで聞き流しながら、走ったせいで少し乱れた髪の毛を結び直していた。

クソッ、恵恋のやつ、自分だけ先に行きやがって。

一足先に屋上から出ていった恵恋は、きっとこのクソ暑い体育館においても涼しい顔をしているのだろう。

はぁ、あの笑いはそういうことだったのか。

早く行かないと遅刻しますよという一言がどうして出ないんだ、ったく。

心の中で悪態を吐いていると、いつの間にか校長の話は終わって、連絡事項が順番に読み上げられていた。

体育祭に文化祭、それに生徒会総選挙、俺達二年生は修学旅行なんてものまで随分とイベントが犇めいている。

こりゃ忙しいんだろうな、どうにかして実行委員だけは避けなくてはならない。

その分、準備はしっかり手伝おう。

去年はどちらも不参加を決め込んでいたから手伝わないのもそれほど心が痛まなかったが、別に今はそういうアウトローを気取る必要もなくなったからな。

積極的にとまでは言わないが、頼まれれば応じようと思っている。

………まぁ、今のところは俺に好きこのんで近寄ってくる奴が皆無だが。

ゆっくり慣らしていけば良いだろう、急に変わるほど俺がやってきたことは浅くないのだし。


「以上で始業式を終わります。この後教室でHRを行ったら今日は終了となりますが、羽目を外さないように。」


先生の号令が掛かって、生徒達はぞろぞろと各自の教室へ移動していく。

号令の通りHRが教室で始まると、夏休みの課題の提出や幾つかの話があり、二学期初日は滞りなく終わった。

峰岸が絶望に頭を抱えていたところを見るに、どうやら課題は全て終わらなかったようだが。

さて、まずは莉乃姉を探しに行こう。

二学期が始まったとはいえ、莉乃姉が実家に戻るという選択肢を取るとは考えにくい。

となると昨日の夜から始まった雰囲気を払拭しておかないと、自宅に居ても気が休まらない。

結局何処に連れていこうか決まらなかったが、莉乃姉に行きたい所を聞いてみるのも…。


「真也くん、おはよう!」

「ん、おはよう緋結華。」


鞄を取って立ち上がりながら、俺は同じく鞄を持って傍に来ていた緋結華に笑いかける。

その表情は晴れやかで、いつもの緋結華だ、暗い雰囲気はどこにもない。

良かった、心配は杞憂だったかな。

昨日の今日だし多少は引きずるかと思ってたけど、緋結華はやはりしっかりしていたみたいだな。

人を嬉しい気持ちにさせる笑顔が曇るのは、俺としてもいたたまれない。

そんな緋結華はおもむろに俺の手を取ると、少し頬を赤らめながら俺に言った。


「真也くん、この後はお暇ですか?」

「あぁその、ちょっと莉乃姉に会いに行かなきゃいけないんだが、急ぎの用事か?」

「莉乃さんに?………もしかして私のことで何かあったんですか?」


心配そうに俺を見上げる緋結華に、俺は苦笑しながら首を横に振った。


「緋結華が気にすることじゃないぞ、俺の説明も良くなかったのかもしれないし。だからそんな顔すんな。」


俺が言いながら緋結華の頭をそっと撫でてやると、緋結華は顔を赤くして俯きながら小さく頷いた。


「真也くんが、そう言うなら…。」

「ごめんな緋結華、心配させて。」


俺がそう言うと、緋結華は笑顔で顔を上げて答えた。


「えへへ、頭撫でてもらえたので気にしてません。ホントは一緒に帰ったりしたかったですけど、今日は我慢します。」

「そうだな、悪いがそれはまた今度ってことで。」

「はいっ、約束ですよ?」


緋結華がはにかみながら差し出してきた小指を見て、俺も笑ってそれに応える。


「あぁ、約束だな。」


約束のおまじないを交わすと、緋結華は嬉しそうに敬礼してみせる。


「それじゃあ真也くん、私は友達の所に突撃してきます!」

「うん、楽しんできな。」

「はいっ、じゃあまた明日ですね!」


緋結華はくるりと回って背を向けると、教室の出入り口で不安そうにこちらを窺っていた女子達の中へ入っていった。

あいつらは確か、前にも緋結華を心配してたな。

大方俺に声を掛けてくると言って来たものだから、心配して待っていたのだろう。

心配も尤もだ。

俺の内面がどれほど変わろうとも、俺が自分で付けた不良というレッテルはそう簡単に剥がれるものじゃない。

別に馴れ馴れしくしたいわけじゃないし、見た目には銀髪から変化もないし、放っておけばいい問題だろう。

やることは変わらず、今まで通りしっかり勉強に励めばいい。

俺は何か言われてあたふたした様子の緋結華から視線を外すと、莉乃姉を探すために教室を後にした。






Hiyuka Side


残念です、デートのお誘いは儚くも失敗です。

私はいつも仲良くしている友達と一緒に、放課後のティータイムを楽しんでいた。

カフェ・フラトレスのテーブル席で、マスター謹製のロイヤルミルクティーをちびちびと飲んでいる。


「またあれかよ、よくあんな糖分の塊みたいなの摂取できるよな。アンチダイエットってネーミングは間違いじゃないだろ。」


マスターはそう言って笑ってたけど、女の子が飲む物にそんな名前を付けるなんて酷いよね。

はぁ、本当は真也くんと一緒に来たかったけど、莉乃さんに関わることなら今回は仕方ないか。

元はと言えば私があんなことしたのが悪いんだろうし、鋭い莉乃さんなら何となく何があったのか察してるだろうし。

ごめんね真也くん、無事に仲直りできることを祈ってるよ。

そんなことを考えながら、甘くて美味しいミルクティーを口に含む。

のんびりした気分で美味しさに浸りつつ、カウンターでコーヒーをドリップしてるマスターを眺めていた。


「ねぇ緋結華、あの人のこと好きなの?」

「えぇ!?なに、突然?」


いきなり投げられた質問に、私は危うくミルクティーをこぼしかけた。

視線を戻すと、さっきまで一生懸命携帯を弄っていた百代ちゃんが、私とマスターを交互に見て顔を寄せてくる。


「だってずっとあのマスターを見てたじゃない?」

「いやいや、ただ何となく眺めてただけだよ?」

「でも随分と親しそうだったじゃない、下の名前で呼ばれてたし。」

「常連だからだよ。それにマスターは私より一回りくらい年上だったような…。」

「なぁ緋結華、それ以上“オッサン”扱いしてるとお前だけこれやらねぇぞ?」


声に驚いて顔を上げると、マスターが満面の笑みで修羅の如く立っていた。

私が冷や汗を流しながら乾いた笑みを浮かべると、マスターは呆れたように溜め息を吐いて、私たちのテーブルにケーキの乗った小皿を置く。


「ったく、確かに女子高生と比べたら年を食ってるが、そこまでオッサンじゃねぇっつの。」

「あはは、ごめんねマスター。」

「ふん、まぁいいさ。あぁ、そいつはあのゴリラが作った新作だ。まだ売るか決めてねぇから、食ってみて味の感想を聞かせてくれ。好評ならまぁ、ゴリラにもうちっと作らせるから。」


そう言いながらカウンター席に腰かけたマスターは、さっき淹れてたコーヒーを飲みながら煙草に火を着けた。

お客さんが私たちだけだから、きっと休憩みたいなものなんだろう。


「ありがとうマスター、いただきます。」

「あ、あのっ、ありがとうございます!」


私は笑顔で、百代ちゃんは緊張した風にお礼を言うと、マスターは気にすんなと言うように手をヒラヒラと振った。

改めてケーキを見てみると、普通のモンブランに見える。

でも何だろう、甘い匂いが強いような。

二人でフォークを手に取ると、頷き合ってケーキを一口食べた。


「あ、甘い!」

「美味しい、ハチミツかな?」

「正解だお嬢さん、ハチミツを凍らせた物を粉末にしてかけてある。作り方は秘密だが。」

「ハチミツって凍るんですか?」

「ん?あぁその、特別な方法で凍らせてるんだが、普通の冷凍庫じゃ凍らないだろうな。」

「へぇ、何か凄そうですね。」


百代ちゃんは楽しそうにマスターと会話している。

最初は近寄りがたい雰囲気を持ってる人だけど、打ち解けると凄く世話焼きだからなぁマスターは。

そんなことをぼんやり考えていると、マスターがごゆっくりと言って奥へと引っ込んでいった。

百代ちゃんは私に向き直ると、何だか嬉しそうに笑う。


「いい人だねマスターって、ちょっと最初は怖かったけど。」

「そうかもね、でも色々相談にも乗ってくれるよ。」

「あたしも常連になっちゃいそうだなぁ。…ところで緋結華、訊きたいことがあるんだけど。」


笑顔から一変して真剣な表情になった百代ちゃんを見て私は首を傾げた。


「なぁに?」

「桐生くんさ、何か雰囲気変わった?」

「え?」


予想外の質問に戸惑っていると、百代ちゃんは腕組みしながら続ける。


「さっき緋結華が話しかけてた時も凄く雰囲気柔らかい感じだったし、しかも頭撫でてもらってたよね?しかも何故か指切りまで。」

「うん、今度一緒に帰ろうねって約束したんだよ?撫でてくれたのはきっと、真也くん的にはお詫びのつもりだと思うけど。」


個人的にはお詫びとしてではなく、特別な関係として撫でて欲しいけど、流石にこれは言えない。

でも私の答えだけで百代ちゃんには衝撃だったらしく、驚いた表情の後で難しい顔をした。


「うぅん、じゃああの噂はホントだったのかな。」

「あの噂って?」

「桐生くんが不良じゃなくなったって話。何か街で女の子から声をかけられてる桐生くん見たって子がいるんだけど、凄く優しい笑顔で断ってたみたいなこと言ってたし。他にも遊園地でバイトしてた子が小湊先輩とかと一緒に来た桐生くんに声をかけちゃったらしいんだけど、その時も凄く優しく笑ってたって。」


前半は知らないけど、後半の話はつい昨日の話だと思う。

それより真也くん、街で声かけられるって、むぅ。

やっぱり真也くんは目を離したら危険だ、真也くんが悪いわけじゃ全然ないんだけど。

私が心の中でモヤモヤしていると、百代ちゃんは続きを話してくれる。


「女の子に声をかけられてるって目撃談は多いんだけど、前は完全無視か睨みつけて追い払う感じだった、あたしも見たし。ほら、桐生くんってあの雰囲気除けば完璧じゃない?見た目は良くてモデルみたいだし、勉強だって学年トップだし、凄い強いらしいじゃない?」

「えっと、そうだね。」


思ってた以上に高い評価を得ている真也くんに驚きつつ、一抹の不安が脳裏を過る。

嫌な予感がする、それも最大級の困難が迫っている予感が。

それを見事に的中させることを、百代ちゃんが続けていく。


「まだ噂の範囲を出てないけど、もしホントに桐生くんが変わったなら、これから凄い人気が出るんじゃないかな?」

「………。」

「元々近寄れないだけで隠れたファンは多いからね桐生くんは。だからあの雰囲気が優しくなったなら、皆ちょっとずつでも攻めに入るかもね。」

「………。」

「って緋結華?おーい、緋結華ー?」


百代ちゃんの言葉は聞こえているけど、私は思考が停止状態だった。

真也くんが多くの女の子に狙われる。

真也くんの変化は嬉しいことだけど、これは思わぬ弊害だ。

真也くんが誘いに乗るとは思えないけど、何か対策が必要かもしれませんね。

一先ず皆にこの事を知らせておかないと。

私は携帯電話を取り出すと、皆へのメールを急いで打ち始めるのだった。


Hiyuka Side End






俺は階段を上って三年生のフロアに足を延ばしていた。

足を踏み入れた途端に訝しげな視線に晒される。

ま、そりゃそうだよな。

不良がこの学年に何の用だって思われてるんだろう、特に男子生徒からの視線には敵意さえ感じる。

俺は気にすることなく目的の教室へと歩いていく。

とある教室に辿り着くと、開いていた入り口から中を覗き込んだ。

中では久し振りに会った友人たちと談笑する光景が広がっていたが、見渡した限り莉乃姉の姿は確認できない。

…仕方ないか、ちょっと訊いてみよう。

俺は近くにいた先輩に声をかけた。


「すみません、ちょっとお訊ねしたいんですけど…。」

「え、桐生くん!?」


驚いて距離を取った女子生徒が、身を守るように手を前に出した。


「私、何かしたかな!?ごめんなさい!」


本気で意味が解らないまま謝罪する女子生徒に、何事かとクラスどころか周りの生徒までやって来る。

ヤバいな、騒ぎが大きくなっちまった。

つぅかただ莉乃姉は何処か知らないかって訊きたいだけだったのに、ここまで怖がられると流石に傷つくな。

こういう時ってどうすりゃ良いんだろう、下手に何か言うだけじゃ余計に怖がらせちまうだけなんじゃねぇか?

はぁ、莉乃姉探しに来ただけでなんて厄介な。

俺がどうしようか迷っていると、騒ぎを見に来た野次馬の中から、見知らぬ男子生徒が間に割り込んできた。


「テメェ桐生だな、そいつに何かしたのか!」

「は?」


割り込んできた奴はどうも血の気が多いのか、今にも掴みかかってきそうな剣幕で俺を睨んできた。

あぁクソ、まさか声をかけただけでこんな騒ぎになるとは。

それだけ俺が撒いてきたイメージが悪かったってことか、自業自得だな。

どうすっかな、こんなことで喧嘩するわけにもいかねぇし、穏便に済ますならさっさと立ち去るべきか。

仕方ない、莉乃姉探しは別の方法を考えるかな。

俺は睨んでくる先輩に身体を向けると、首を横に振った。


「誤解ですよ先輩、俺は別に危害を加えたくてここに来たんじゃない。騒ぎを起こして悪かった、俺は帰ります。」


俺の言葉に驚いた顔をした先輩に背を向けて、俺はもと来た廊下を歩き出す。

野次馬達も巻き込まれるのを恐れてか、すんなり道を開けてくれた。

ったく、何処行ったんだよ莉乃姉。

いつも何処からともなく現れては一緒にいるのに、会おうと思うと会えないなんて、まったく間の悪い話だ。

さて、とりあえず一旦家に帰るか。

この暑さの中で人探しをするなんて予定に若干の憂鬱さを感じながら、俺は昇降口へ向かうため階段を降りていった。






Eko Side


どうやら一足遅かったようですね。

少し時間がかかったHRを終えて真也さんの教室へ来てみましたが、既に真也さんの姿は何処にもありません。

基本的に放課後教室にいる理由のない真也さんは早々に帰ってしまいますから、会おうとするなら真也さんより早くHRが終わらないと間に合わない。

もしくは事前に約束すべきだったのでしょうけど、今朝の悪ふざけのことがありますし、流石にすぐに会いに行くことができなくなって…。

はぁ、失敗しましたね。

放課後夏音のことを口実に真也さんの家にお邪魔しようと思っていたのですが、これは日を改めた方が良さそうです。

わたしは踵を返すと、若干気を落としながら昇降口へと向かう。


「ん、恵恋、今帰りか?」

「え?」


聞き覚えのある声に顔を上げると、何故か階段を降りてくる真也さんが笑顔で手を挙げていた。

これは、千載一遇のチャンス!

どんな理由で真也さんがまだ学校にいたかは知りませんが、たまには神様に感謝してあげてもいいかもしれませんね。

今朝のことを謝って、そのまま一緒に帰って、あわよくば二人っきりの時間を。

こんな打算を一瞬で組み立てたわたしは、興奮しそうになる気持ちを抑え、いつも通りの反応を心がける。


「珍しいですね、真也さんがまだ校内に残っているだなんて。」

「あぁ、莉乃姉を探してたんだが見つからなくてな、丁度帰ろうと思ってたんだ。」


そんなことを言いながら真也さんがわたしの隣に並ぶ。

…はぁ、何だかいきなり出鼻を挫かれましたね。

小湊さんを探してたってことは、用事があるのか約束をしていたのかのどちらかです。

これじゃ二人っきりなんて望めそうにないですね、はしゃいでた自分が馬鹿じゃないですか。

昇降口で真也さんと一旦別れても気分が切り替わらず、思いっきり下がった気分で靴を履き替えると、二人で陽炎揺らめく炎天下の通学路へと歩き出す。

思った以上に打算に期待していた自分が情けない。

真也さんの人気を考えれば仕方のないこと、寧ろ朝一番に会っていて約束をしなかった自分が甘かったのだ。


「おい恵恋、具合でも悪いのか?」


ずっと黙ったままだったからか、真也さんが心配そうにわたしを見る。

そんな顔をされると、何だか悪いことをしてるみたいですね。

わたしは心配要らないと言うように笑って真也さんを見上げた。


「いいえ、別にそういうわけじゃ。」


その一言で真也さんは小さく笑うと、曲がり角で立ち止まる。


「それならいいが、無理はするなよ?じゃあ悪いけど莉乃姉探すから俺はここで…」

「あぁ暑さで具合が悪いです、そんなわたしを置いて真也さんは別の女性を探しに行くんですか?薄情な人ですね。」

「………家まで送るよ。」


苦笑した真也さんが駅へと歩き出すと、わたしもその後に続く。

………やってしまった。

いくらなんでも、今の台詞は酷かったですね。

でもまだ一緒にいたかっただなんて言えない。

恥ずかしくてっていうのもありますけど、どちらかと言えば悔しさ。

声を上げなければ、わたしは小湊さんより優先されないんじゃないかって、そんな勝手なことを考えてしまったんです。

許してくださいね真也さん、わたしの我が儘で予定を崩してしまって。

でもこうして二人で自然にいられる時間が、最近ではどこか懐かしくなって、寂しい。

以前は今より会話はないけれど、会うこと自体が特別で、わたしは毒ばかり吐いていたのに、真也さんはわたしを嫌ったりしなかった。

特別な関係じゃなくても、真也さんと一緒にいられる数少ない人間なんだって、心のどこかで喜んでたんですよ。

今が嫌だなんて一欠片も思わない。

でも新しく真也さんの周りに集まった人達は皆魅力的で、可愛くて、綺麗で、真也さんのことを真剣に好きだと思っている。

だから焦って、落ち込んで、不安になって、今みたいに子供の駄々みたいな言葉まで言ってしまう。

だから、見捨てないでと、心の中で願った。

胸が苦しくて泣きそうになりながら、我慢しないとと歯を食い縛る。


「恵恋、大丈夫だから。俺の気が利かなかっただけで、恵恋は悪くないよ。」

「え?」


真也さんの声に立ち止まると、優しい笑顔がそこにはあった。

わたしをドキッとさせ、同時に安心させてくれる笑顔が。

いつの間にか伸ばしていたわたしの手は、真也さんのシャツをすがるように掴んでいた。

…本当に、普段はこちらが呆れるほど鈍いくせに、こういう心の機微だけはすぐに察してくれるんですから。

そうやって許されてしまったら、余計に頼ってしまうのに。

真也さんはシャツを掴んでいたわたしの手を取ると、繋いだままでわたしの目を見る。


「俺は恵恋を嫌いになんてならない、例え恵恋が俺を嫌いになったとしてもな。だからってわけじゃないけど、恵恋が安心するなら…こうしていようか。」

「………ありがとうございます。」


かぁっと熱くなる頬を隠すように俯いて、返事と共に強く握り返す。

ありがとう真也さん、大好きですよ。

心の中でそう呟いて、一時の幸せを胸に抱いて、わたしは真也さんと並んで駅へと歩き出した。


Eko Side End






「ありがとうございます真也さん、ここまでで大丈夫です。」

「そうか?別に家まででもいいが?」


そう言った俺を見て、恵恋は呆れたとばかりに溜め息を吐くと、背を向けて言う。


「わたしといてくれるのは凄く嬉しいですけど、これ以上真也さんの予定を崩したくありません。早く小湊さんを探しに行ってください。」

「……気を遣わせて悪いな、ありがとう。」

「お礼を言うのはわたしの方ですよ、我が儘に付き合わせたんですから。それじゃ、また学校で。」

「あぁそうだな、気をつけて帰れよ。」


軽く手を挙げながらそう言うと、恵恋は振り返らずに改札へと歩き出す。

だがすぐに立ち止まった恵恋はこちらへ振り返ると、小走りに寄ってきて言った。


「今度…その、また遊びに来てください。な、夏音も…一緒に。」


真っ赤な顔でそう呟くと、俺の返事も待たずに踵を返して改札を抜けていってしまった。

………あぁ、夏音と一緒に行くよ。

届かない返事を小さく呟いてから、俺も踵を返して歩き出す。

恵恋の気遣いを無駄にしないように、早いとこ莉乃姉を見つけよう。

学校には恐らく既にいなかった筈だから、可能性としては俺の家か実家ぐらいしか思いつかない。

俺の家なら歩くし、莉乃姉の家ならここから電車に乗った方が早いが、どちらも外れという可能性も高いんだよな。

さてどうするか、この暑さで無駄足はできれば踏みたくない。

考えつつ辺りを見回したとき、今時珍しい物が視界に入った。

…苦手だが、今回ばかりは使うが吉か。

緑色の公衆電話に近寄って財布から硬貨を入れると、記憶の中から殆ど使うことがない数字を思い出してダイアルを押す。

最後にかけたのは一体いつだったか、もう思い出せないな。

耳に当てた受話器の向こうで、莉乃姉の携帯を呼び出すコール音が響く。

どうにも苦手だ、電話っていうのは。

相手の顔が見えないし状況もわからない、変な気を遣わなきゃいけない、色々と面倒だ。

何度も莉乃姉からは携帯を持つように言われてるけど、こればかりはいまだに持ちたくないな。


「はい、小湊です。」

「あ、莉乃姉?俺だけど。」

「真也?珍しいな電話してくるなんて、凄い久し振りだ。」


受話器の向こうではしゃぐような声が響いて、俺は緊張が少しだけほぐれた気がした。


「えっと、今は電話しても大丈夫か?」

「あぁ、問題ないぞ。何か用事があったのか?」

「そうだな、ちょっと会えないかなって。」

「え、真也があたしに会いたいってことか?」

「…あぁ。」

「………。」


急に静かになる莉乃姉。

あぁこういうのが嫌なんだよ、何の沈黙だこれは。

わからないことに対する不安感が、一秒ごとに募っていく。

嫌がられているのか、考えているのか、それとも何かあったのか。

どの予想も確認ができない、そんなもどかしさが俺に変な緊張を強いる。


「………莉乃姉?」


恐る恐る名前を呼ぶと、直後こちらの不安を吹き飛ばしてくれる笑い声が鼓膜を突き抜けた。


「真也からお誘いだー!あははははははは!これはもう結婚するしかない!うへへへへ、一緒に市役所行こう真也!」

「………落ち着け莉乃姉、飛躍しすぎだ。」

「愛してるぞ真也、大好きだ!今夜は二人の将来を話し合おうな!そうだ、今日の夕食は精がつく物を作るぞ、最初が肝心だからな!」


聞いちゃいねぇ。

既にトップギアで暴走を始めた莉乃姉を止めようにも、残念ながら目の前にいないどころか居場所もわからねぇ。

はぁ、電話って疲れるな。


「莉乃姉、とりあえず聞いてくれ。今何処にいるんだ?」

「あたしはまだ学校だぞ、生徒会で引き継ぎしてたからな。」


なるほど、電話して正解だったらしい、無駄足を踏まずに済んだ。

しかし引き継ぎか、それじゃあまだかかるかもな。

俺は何やら俺にとって良くない欲望が漏れ聞こえる受話器を持ち直す。


「じゃあ莉乃姉は忙しいってことか。」

「いや、真也からのお誘いだ、今すぐに事情を話して切り上げるぞ!何処の市役所で待ち合わせだ?」

「いや、ちゃんと引き継いでやれよ。それと市役所には行かねぇぞ?」

「何でだ!?……あぁそうか、まずは互いの愛を確かめ合ってからだな!うへへへへ。」

「いやいや、それもないから。それと莉乃姉、学校なんだからそういうことを大声で叫ばないでくれ。」


不純異性交遊まっしぐらな台詞をよりにもよって前生徒会長が生徒会室前で叫ぶなど、先生に聞かれたら説教確実だ。

ったく、どうにかして莉乃姉の暴走を止めたいが、電話越しじゃどうしようもない。

しかし、引き継ぎを途中で切り上げさせるわけにはいかないな。

俺の誘いがなくてもどうやら元気そうだということもあるが、何より引き継ぎは急務だ、次の会長が決まるまでは副会長が頑張っているのだろうし。

それにそんな事態を引き起こした原因である俺が、自分の都合でその作業を邪魔する権利なんてない。

俺は一呼吸置いて考えを整理すると、俺の制止などまるで聞いてない様子の莉乃姉に言う。


「わかった、とりあえず莉乃姉は引き継ぎ作業を継続してくれ。」

「なっ!?嫌だ!あたしは真也とキャッキャウフフするんだ!」

「流石にそれはできないが、今日もウチに帰ってくるのか?」

「うん、特に戻ってくるように言われてないしな。」


つまり俺の安寧は莉乃姉のご両親に掛かっているらしい、なんて絶望的な。


「じゃあ…ちゃんと引き継ぎをしてくれたら、今夜だけ一緒に寝る、それでいいか?」

「………襲うのはアリか?」

「ナシだっつうの!」

「ちぇっ、残念だな。」


そんなこと許すわけないだろうが、大体立場が逆だろうに。


「まぁ仕方ない、それで譲歩しよう。あたしとしては棚からぼた餅みたいなものだからな。」


…確かに、今回は俺の間が悪かったとしか言えない、誘いをかけてすぐに撤回するためこんなことになったんだから。

ったくツイてない、そもそも自分が招いた原因もあるんだが愚痴りたくもなる。

俺は溜め息一つ吐いて、莉乃姉に念を押す。


「じゃあ面倒かけてる副会長のためにも頑張ってくれ。」

「あぁ任せろ。思わぬご褒美も待ってることだし、俄然やる気も出てきたぞ。」

「………じゃあまた家でな。」

「うむ、楽しみにしてるぞ!」


複雑な気分で受話器を置く。

はぁ、また寝不足は覚悟しなきゃな。

暑さと莉乃姉からの色仕掛けによる二重苦だ、まともな安眠は期待しない方がいいだろう。

さて、急にすることがなくなったな。

丁度駅にいることだし、墓参りにでも行こうか。

俺の家族が眠るあそこに行くのも、以前より気持ちも軽くなったからな。

花は忠勝さんの所で買うには遠回りだし、何処か途中で買っていこう。

昼飯はまぁ、その後で考えるか。

のんびりと予定を組み立てながら、俺は切符を買って改札を抜けていった。






Himeyuri Side


はぁ、今日は疲れたなぁ。

職員室を出て早速思ったのはそんな言葉だった。

でもこれは嬉しい悲鳴というものだ、何しろ漸く自分を偽らずに済むのだから。

真也先輩のお陰で手に入れた本当の自分で学校に通う初めての日は、不安と苦笑の連続だった。

まず大変だったのは説明だ。

事前に連絡をしていたとはいえ先生方の驚きようには苦笑を返すしかなかったし、何よりクラスでの質問攻めには辟易した。

それも当然だとは思う、夏休み明けて学校に来てみたら、今まで男だと言っていた人間が突然実は女でしただなんて驚かない方が珍しい。

しかもその理由が時代錯誤な“当主男子とすべし”なんてものなのだから、それはもう刺激を好む高校生にとっては大いに面白そうなことだろう。

元々正体がバレる可能性を減らすために特定の友人も作らず、クラスでは物静かで協調性の弱い人間を演じていただけに、ミステリアスなんて私に似合わないイメージが強くなったみたいだけど。

男子からは口々に「男にしては綺麗すぎると思ってた。」だとか、「俺が特殊な嗜好の持ち主じゃなかったって証明されて良かった。」だとか、クラスに女子が増えたことを喜ぶような言葉をかけられた。

女子からは逆に「私、龍矢くんに告白するところだった。」とか、「あのミステリアスな龍矢くんはもう見られないんだね。」と少しだけ残念がられた、女の子としてこれからは遊べるねと言ってもらえたことは素直に嬉しかったけど。

そんなこんなで放課後まで家のことや正体を明かすことになった理由などを延々と訊かれていたが、それを苦笑で躱し、職員室に呼ばれてるからと言って逃げてきたのだ。

職員室では姫百合として通うために必要な書類を色々と書かされながら、生徒ほどではないにせよ興味津々といった先生方に同じような質問を受けていた。

入学当初から事情を知っていた校長先生がやんわり注意してくれていなければ、まだ応接室内で苦笑を浮かべていただろう。

はぁ、ホントに疲れたなぁ。

こうなることは予想していたとはいえ、いざ現実になるとあっさりと覚悟を上回る。

…真也先輩に会いたかったな、そうしたら力が出たのに。

今日は自分のことで一杯で、一度も姿を見ていない。

連絡して今から会おうにも、先輩は携帯持ってないし。

携帯くらいは持っていてほしいと思うけど、こればっかりは本人が決めることだ、私なんかが口出しすべき事柄じゃない。

…とりあえず、お腹すいた。

既にお昼を回って久しく、家では宗十郎さんがお腹を空かせているだろう。

早く帰って作ってあげなきゃ、武道にしか興味ない人だからきっと食事の時間さえ気にせず道場にいるだろうから。

一応電話を入れようと思って携帯を取り出すと、着信を示すランプが点滅していた。

誰だろう、連絡してくる人なんていないと思うけど。

首を傾げながら開いてみると、緋結華さんからのメールのようだ。


「…真也くんのことで話したいことがあるから、カフェ・フラトレスに来れる?」


先輩のことで話したいことって何だろう。

浮かんでくる話題は一つしかないような気もするけど、だとしたらきっと四人全員が呼ばれているだろうな。

莉乃先輩は言うに及ばず、私も恵恋先輩も、緋結華さんもきっと真也先輩が好きなのだから。

となれば自然と内容には予想がつく、改めて互いの意思を確認するような話し合い。

宗十郎さん、ごめんなさい、まだ帰るのは後になりそうです。

私は、私を変えてくれた先輩を諦めない、例え誰が相手であっても。

了解した旨のメールを送信すると、私は木野塚町への道を歩き始めた。


Himeyuri Side End






「………暑い。」


花束を抱えながらそんな言葉を溢して、俺は霊園の入り口をくぐった。

空いた手には水の入った桶を持って、家族の眠る墓の前に立つ。

借りたブラシで汚れを落とすと、買ってきた花を供えていく。

何度もやっていることだけに、その動作自体は淀みなく、慣れたものだ。

余った水を柄杓で撒きながら、のんびりと風に揺れる雑草を抜いていく。

嫌だとかそういう気持ちはないにしても、もう少し涼しい日を選ぶべきだったかと若干の後悔は否めない。

一通りの作業を終えて一息つくと、風がふわりと頬を撫でていく。

その心地よさに目を細めて、俺は改めて桐生家の墓に向き直る。

石に刻まれた三人の名前。

寂しさや悲しみといった感情はもう殆どない。

ただ、この年齢で血縁が一人もいないというのは、なんとも言えない孤独がある。

水無月の家は血縁ではないし、あれはどちらかと言えば姫百合の縁者だ。

両祖父母は俺が生まれる前に亡くなっているし、ものの見事に誰も残っていない。

幸いにも両親が多くを残してくれているお陰で、俺はまるで収入がなくとも大学を目指して余りある生活が送れる。

ただそうだとしても、俺には喜怒哀楽を分かち合う家族がいないということに変わりはない。

まぁでも、それを言葉にして発することはできないよな。

だって莉乃姉も、血縁がいないんだから。

………さて、感傷に浸ってないでお参りを済まそう、ここは暑すぎる。

手を合わせて目を閉じると、簡単にだが報告をしていく。


「父さん、母さん、真耶姉、俺は元気にやってるよ。多分全部見ていて知っているかもしれないけど、一応言っておく。最近、告白されたんだが、正直かなり迷ってる。だって皆を大切に感じる思いに優劣がないし、付き合ってきた時間の長さでは測れないくらい大事なんだ。だから決めかねてる。」


こればかりはどうしようもない、何せ本当のことだから。

俺を救ってくれたことも、楽しい時間を共有できていることも、俺を大切に思ってくれていることも、どれもこれもが優劣をつけることじゃない。

恋愛は正直不得手な話だし、真耶姉の時とは状況が違う。

それに、俺は未だ誰かと一緒になるということをイメージできないでいる。

相手を幸せにしていく自信もなければ、そもそも付き合うという行為自体が不明瞭だ。

こんなことに頭を悩ませていることが世間では重いと称されることも知っていて、それでも真剣に考えるほど思考が迷子になっていく。

だって誰かを選ぶということは、他の誰かを悲しませるということ。

その覚悟が決まらない限り、俺は立ち止まったままだ。


「どうすりゃいいんだろうな、俺は。」


峰岸なんかは贅沢すぎる悩みだとか言って怒るのだろうし、そもそもアイツは緋結華が好きなんだから、なおのこと相談ができない。

なぁ姉さん、わからないよ。

姉さんを好きになった気持ち、それが何処から来たもので、理由なんて自分でも解らなかった。

ただ側にいると嬉しくて、一緒にいたいという想いがあって、例え似ている顔の姉弟であっても、いつの間にか好きになってたんだ。

恋をする、好きになるきっかけって何なんだ?

来年までしかない制限時間までに答えが出るのだろうか。

本当に、難しいな。

…っと、これじゃ報告じゃないじゃないか。

こんな女々しい思いをぶつけられたら、眠るものも眠れない。

俺は気持ちを切り替えて、夏休みに起こったことを話していった。

水無月の家に行ったこと、恵恋と恵の話、逢坂家の戦いや、昨日緋結華に伝えたこと。

うん、これで全部言えたと思う。


「さて、今日はここまでにしておくよ。また来るから。」


俺は水桶を持って墓を後にする。

できれば次はもう少しマシな報告ができればいいけどな。

水桶を返して霊園を出ると、手持ち無沙汰に時計を見た。

昼も随分過ぎている、家に帰っても当然だが飯はない。

ん、どうせコンビニで買って家で食うくらいなら、折角だし食べてから帰ろう。

当てはあるし、そろそろ空いてくる頃合いだろうから落ち着いて食べれるな。

俺は繁華街の裏路地にある店へと、逃げ水に濡れるアスファルトを歩き始めた。






Another Side


「一大事…だな。」


小湊莉乃はそう呟くと、珈琲の満たされたカップを口元へと運ぶ。

彼女の反応に真剣な表情を向けているのは、緋結華と逢坂姫百合、それと冴塚恵恋だ。

離れたカウンター席で退屈そうに頬杖をつく百代のことなど気にも留めず、彼女たち四人は集まる口実となった議題について頭を悩ませていた。

俺が溜め息混じりに百代へと追加のデザートを出したところで、重い雰囲気のなか声を出したのは姫百合だ。


「その…どうしたら止められるでしょうか?」


悲痛な声音でそう告げた彼女に、三人は各々意見を口にする。


「真也はあたしが守る、誰にも渡さないぞ!」

「言われるまでもなくそれは皆同意見です。だからこそこうして集まり、今後の対策を練ろうということになったのでしょう。」

「でも、邪魔をしてもいいことではないですよね。それに相手の数もタイミングもわかっていない状態では、効率的な対応を取るのは難しそうですね。」


彼女らの言葉を聞いて、俺は静かに溜め息を吐く。

あぁ、この午後の穏やかな昼下がり、馬鹿どもを休憩に追い出して手に入れた平和、それが何処かの色男をめぐる会議に潰されるとは俺もツイてない。

緋結華と、俺の目の前でのけ者にされ不貞腐れている百代とかいう少女の会話から推察するに、どうやら真也が良い方へ変化していることが、彼女らにとって悪い副産物を生んだらしかった。

曰く、このままでは真也の魅力が他の人にもバレて、好意を寄せる者が増えてしまう、らしい。

あぁ、馬鹿どもを休憩に出していて良かったと心底思う。

じゃなきゃ今頃、真也は原子の一欠片すら残さずミンチにされていただろうからな。


「…ねぇマスター、紅茶のお代わり欲しいです。」

「………今日は俺の奢りにしてやるよ。」


百代はさも不満そうにその会議を見つめ、俺が出したシフォンケーキをモソモソと口に運んでいる。

それがあまりに不憫に見えて、俺は淹れなおしたアールグレイのミルクティーをそっと百代の前に置いた。


「そうだ!あたしが真也と付き合ってることにしてしまえば解決じゃないか!」

「気のせいですか?冗談にしては笑えない案が出たようですが。」

「何故だ?あたしが公に付き合っていると触れ回れば、大抵の女子は諦めると思うんだが?」

「代わりにわたしたちは指を加えて二人が一緒にいるのを見ていろと言うのですか?既に同棲すらしていることさえ抜け駆けに近いというのに、それ以上を見逃せと?」

「まぁまぁ二人とも、ちょっと落ち着きましょう?」


莉乃を恵恋が険悪な言葉で牽制したのを見て、緋結華が慌てて止めに入る。


「でも緋結華さん、ボクも恵恋先輩の意見には賛成だよ。ボクとしても流石に莉乃先輩の案には頷けない。緋結華さんだってそうでしょ?」

「………そうですね、私も莉乃さんの案には同意できません。」

「ならあたし以外の誰かがそうするのか?」

「いいえ、それも納得する人はこの場に一人もいません。だって真也くんが好きなんですから、成り行きだとしても嫌です。」


緋結華の言葉に、三人が無言で肯定を示す。

そして緋結華は小さく笑みを浮かべると、人差し指を立てた。


「でも方向性は莉乃さんの案で間違っていないと思います。要は真也くんに告白するということは、敵が多いということだと広めれば良いんです。」

「確かにそうですね。そうすれば完全にとはいかないまでも、かなりの数の人が告白を躊躇するでしょう。」

「莉乃先輩が公言してたことで生まれている牽制効果を、更に強めていくってことだね。」

「ふむ、なるほどな。それで、具体的にはどう動く?」

「それはですね…。」


何故か小声で交わされる話し合いを聞きながら、俺は煙草に火を着ける。

まったく、恋する乙女たちは凄い。

噂でしかないことにさえ事前の対策を練ることも、その情報源の友達を華麗に放置する集中ぶりもだ。

お陰で俺は手持ち無沙汰に目の前でだれる百代の頭をぽふぽふやっていたら、どうやらお気に召したのか好意を含んだ瞳まで見せるようになってしまった。


「はぁ~、気持ちいぃ~。ボッチの寂しさが癒されてく~。」


…可哀想に。

紫煙を吐きながら白熱していく議論を眺め、心の中で一つだけ意見を言ってみる。

なぁ、真也自身の意志は何処にいったんだろうな?


Another Side End






そんな会議が行われる少し前。

俺にとって重要な結論が出されるはずの未来なんて露知らず、俺は賑やかな繁華街を歩いていた。

石畳で綺麗に舗装された道を少し歩くと、店と店の間に狭い路地が見えてくる。

基本的には裏口なんかが集まるその路地に、一軒だけ入り口を構える喫茶店があった。

十六夜と書かれたそこに入ると、静かな店内にお客は疎らだ。

昼の忙しさを終えた穏やかな雰囲気の中で、カウンターの向こうで洗い物をしていたらしい女性が顔を上げた。


「いらっしゃいませ。あ、真也くんじゃない。」

「お久し振りです空さん、こんにちは。」

「来てくれて嬉しいよ、どうぞ座って。」


春の陽射しのような微笑みを浮かべるこの美人は、どんな奇跡かあの水無月龍鉄の娘さんだったりする。

水無月空さん、カフェ・十六夜のマスターで、俺の身内のような人。

俺はカウンター席に腰を下ろすと、涼しい店内に頬が緩む。

そんな俺を空さんは本当に嬉しそうな笑顔で迎えながら、冷たい水を出してくれた。


「外は暑かったでしょう?ゆっくり涼んでいってね。」

「えぇ、こう暑いと墓参りでも一苦労ですよ。」

「あぁ、家族に会いに来てたのね。お話はできた?」

「はい、最近のこととか色々と。」

「あはは、それは良かった。」


長い艶やかな黒髪を結った紐の鈴を鳴らしながら、その綺麗で澄んだ音色のような笑顔。

やっぱり龍鉄の娘だなんて嘘だろと思うほど美人だ、意識しないと見惚れてしまいそうだな。

自然な気遣いや雰囲気はこの人の美徳だ、惹かれる男性が後を絶たないのも頷ける。

空さんは洗い物を素早く片付けると、冷蔵庫を開けながら訊いてくる。


「お昼は食べちゃったかな?もしまだだったら一緒に食べようよ。」

「まだ食べてないので是非お願いします。」

「私のお任せでも大丈夫?」

「空さんが作ってくれるなら何でも美味しいですから。」

「あはは、照れちゃうなぁ。よしっ、じゃあ真也くんの期待に応えようかな。」


楽しそうに声を弾ませる空さんに、俺も自然と笑顔になる。

てきぱきと調理を始める空さんを眺めながら、俺はふと思いつく。

そうだ、空さんに相談してみるのはどうだろう。

四人から告白されたことも、今の俺では応えることができないことも、空さんなら何か考えるきっかけをくれるかもしれない。

俺一人で考え続けても前進できない気がするし、話すことで気づけるものもあると思う。

うん、落ち着いたら少し話してみよう。

水を飲みながらのんびりと待っていると、フライパンからケチャップの焦げる匂いが漂ってきた。

それはふわふわの卵に包まれて、空腹を誘う匂いに変わっていく。


「たまには洋食もいいかなぁって、いつもここに来ると和食でしょ?」

「そうですね、空さんがこういうのを作るの初めて見ました。」

「うふふ、どうぞ召し上がれ。」


得意気に浮かべた笑顔と共に、俺の前には美味しそうなオムライスが出てきた。

金色の半熟卵が、見ているだけで食欲をそそる。


「ケチャップは水無月家のトマトを使った自家製なの、昨日お父さんがいっぱい送ってきたから作ってみたんだ。」

「美味そうですね、頂きます。」


自分の分を作り始めた空さんに手を合わせて、早速スプーンでその一角を口に運ぶ。

少しだけ酸味の強いケチャップライスをバターの風味と卵が包み、なんとも絶妙な美味しさだ。

和食が主な食生活をしているから洋食が久し振りなのも相まって、その美味しさが何倍にも感じられる。

俺が無言でパクパクと食べていくのを見て空さんは微笑み、自分の分が出来上がると、エプロンをとって俺の隣に座った。


「どうかな、美味しいかな?」

「美味しすぎて驚きました、また食べたくなる味です。」

「あはは、いつでも食べに来てくれていいのに。」


そう言ってくれた空さんも自分のを食べ始め、暫く二人でのんびりと食事を楽しんだ。

二人とも食べ終わると、俺は食器や調理器具を洗う手伝いをしたり、フロアの掃除をした。

空さんは料理をしたり、お客さんの相手をしたりと忙しそうで、話すタイミングがなかったからだ。

そうして時間が過ぎた頃、店内にはお客さんがいなくなっていた。

お客さんが帰った後のテーブルを拭き終えると、布巾をカウンターに戻す。


「ふぅ、落ち着いたかな?」

「ごめんね真也くん、手伝ってもらっちゃって。」


空さんも洗い物を終えて、申し訳なさそうに手を合わせた。


「いいんですよこれくらい、いつも空さんには世話になってるんだから。」

「私がしたくてしてることなんだから気にしないで、寧ろもっと来てくれた方が嬉しいかな。」

「じゃあこれからはもう少し会いに来るようにしますね、お店の手伝いにでも。」

「あはは、じゃあ忙しい日はお願いしちゃおっかな。」


無邪気な笑顔に俺も笑顔を返すと、空さんはグラスに冷たい麦茶を注いで出してくれた。


「私もちょっと休憩しようかな、せっかく真也くん来てくれてるからね。」


空さんと並んでカウンターに座りながら、乾いた喉を麦茶で潤す。

慣れないことをしたけど、この疲労感は心地いい。

空さんといるのは楽しいし、心が落ち着ける気がする。

穏やかな気持ちで一息ついていると、不意に俺の肩へ空さんが頭を預けてきた。


「え、空さん?」

「えへへ、ちょっと甘えちゃお。」


可愛らしい笑顔で目を閉じた空さんは、椅子を寄せてくると腕を絡めてきた。

シャンプーの匂いだろうか、甘い花のような香りが漂ってきて、空さんの柔らかさや温かさに俺の鼓動が激しくなる。

整った横顔がすぐ傍にあって、女性らしい稜線がどうしても視界に入ってしまう。

う、これは不意打ち過ぎるぞ。

莉乃姉だって相当にスタイルが良いけど、空さんはどこか人間離れした綺麗さだ。

全体のバランスが整いすぎていて、神様が真剣に作り出した美しさだと言われれば即座に納得する。

ドキドキと早鐘を打つ心臓の音が聞こえてしまうんじゃないかと、そんな思考が余計に緊張を強めていく。

油断してた、普段スキンシップしてくる人じゃないから冷静さが保てない。

かといって離れてくれとは言えず困っていると、空さんが小さく呟いた。


「私ね、この街に来て良かったと思ってるんだ。」

「え?」


突然の言葉に俺が上手く返せないでいると、空さんはそのまま続ける。


「綺麗な街だし、実家とは違った楽しさや驚きが沢山あるし、関わった人たちはいい人ばかりだった。変な理由でこっちにお店を出すことにしたのは、真也くんも知っているでしょ?」

「はい、教えてくれましたよね。男性から声をかけられることが多すぎたからだって。」

「………それはね、本当の理由じゃないんだよ。」

「え?」


立て続けの不意打ちに思考が追いつかない。

本当の理由じゃないってことは、別にもっと大きな理由があるってことだ。

俺の疑問に答えるように、空さんは俺を見上げてきた。


「本当の理由はね、真也くんがいるから。」

「俺が?」

「そう、本当の理由は真也くんなんだ。最初の頃はたまに遊びに来る友達姉弟って感覚だったし、少し歳も離れてるから、面倒を見なくちゃとか思ってた。でもお父さんが後見人になったと教えてくれて、それでこの街にお店を出そうって決めたの。真也くんに色んなことが降りかかって、丁度お店を出そうと思っていた私にはそれがきっかけになった。うん、私が傍に行って支えなくちゃって。」


そこまで言って、空さんは思い出すように苦笑する。


「オープンしてから暫くして、成長した真也くんがお店に来てくれた。凄くカッコよくなってたし背も高いから驚いたんだ。でもそれよりも、暗く沈んだ雰囲気で浮かべた笑顔が、私にはどうしようもなく悲しかった。」


その頃は家族を失って、丁度独り暮らしを始めた頃だろう。

あの頃は何もできず、ただ灰色の毎日を無駄に過ごすのが精一杯だった。

でも久し振りに会う空さん相手にどうにか笑おうとして、見事に逆効果だったというわけだ。


「どうにかして笑顔を取り戻してもらいたい、初めはずっとそう考えてたの。すぐには無理でも、私ができることをしていこうって、励まし続けようって。そうしたら真也くん、少しずつ笑顔が増えてくれた。少なくともここにいる時は自然に笑ってくれた、それが凄く嬉しかった。」

「空さんと一緒にいると落ち着くというか、凄く安心するんです。だからここに来るのが楽しみだったんですよ。」

「ホント!?…とっても嬉しいよ!」


心の底から嬉しいと言うように笑った空さんに、俺も微笑みを返す。


「あの頃はホントにまいってて、誰かに甘えていたかったんです。でも罪悪感からそれができなくて、莉乃姉にもなるべく関わらないようにしてた。でもここだと、空さんの傍にいると無意識に安心して、そんな気持ちを少しだけ忘れることができた。凄く感謝してます。もしそれすらなかったら、俺はきっと一人で潰れていた。」


灰色の世界の中で唯一の光に見えたのが空さんだったから。

莉乃姉だって空さんよりも良くしてくれていたけど、距離が近すぎて逆に迷惑をかけたくなかったし、自分に関わらせたくなかった。

でもここならただ夕食を食べに来るだけ、頻繁じゃなければ絡んでくる奴らも気づかない。

それにいるだけでいい、短い時間だけ安らげれば。

状況が空さんの存在を強めた、それが俺を癒してくれていたんだ。

だから話してくれた空さんに言わなきゃいけない言葉がある。


「ありがとう空さん、俺は空さんに支えられていたからこそ、皆に救われるその日まで頑張れたんだ。本当に感謝してます。」

「真也くん…。うん、これからも傍にいるからね。」


花咲くようなその笑顔に、俺の心に春風のような優しさがそよぐのを感じた。

本当の家族ではないけど、この人がいてくれて良かったと思う。

この人になら相談できる、俺のことも、皆とのことも。

そう思い口を開こうとしたその時、空さんが少し俯く。

俺が首を傾げていると、顔を上げた空さんが、俺の瞳を真っ直ぐに見つめてきた。


「さっきね、初めは支えようって考えてたって言ったでしょう?」

「え?あぁ、そう言ってましたね。」

「今はね、違う気持ちになったんだ。」

「違う気持ち?」


俺が鸚鵡返しに疑問を返すと、空さんはぎゅっと俺の腕を抱き締めた。

少しだけ震えているのが伝わってきて、俺は戸惑いながら空さんの言葉を待つ。

暫くそうして待っていると、空さんは意を決したように力を緩めた。


「真也くんを傍で見ていて、少しずつ笑顔が増えていって、今はこうして穏やかな気持ちで一緒にいられる。それは私が夢見たことで、叶ったことが本当に嬉しい。………でもね。」


そこで空さんは言葉を切って、俺の手をそっと握った。


「私は欲張りで、次を求めてしまったの。自分を騙すことさえできず、胸の内に芽生えた気持ちを制御できなかった。それは段々と成長して、伸びた蔦が私の心を締め付ける。真也くんといると、胸がぎゅって苦しくなるの。」

「それは、俺もドキドキしてますしおあいこです。今も正直言うと、心臓がどうにかなりそうですし。」

「違うの真也くん。…そうじゃないの。」


消え入りそうな声でそう告げた空さんの顔は、初めてほど真っ赤に染まっていた。

触れている柔らかい身体からは、空さんの鼓動が伝わってきている。

あぁ解ってる、流石に気づかないじゃ誤魔化せないことくらい。

ここんとこ頻繁に体験した予兆だ、いくら鈍いと言われようと察してる。

俺の悩みが、更に肥大化しそうなことくらい。

空さんは赤く染めた頬のままで、俺の瞳を見つめてきた。


「好きだよ真也くん。弟のような存在としてでもなく、一人の女として真也くんを好きになったの。」

「空さん…。」

「真也くんの状況はお母さんから聞いてる、それでもこの気持ちは伝えたかった。真也くんを困らせると知っていて、それでも言わないまま終わらせたくなかったの。」


必死に想いを伝えようとする言葉の重さが、俺の心を強く揺さぶった。

鼓動は壊れそうなほど早く、それが痛みとなって胸を締め付ける。

応えを待つ空さんの潤んだ瞳。

普段は輝くように笑うその顔が、今は辛そうに歪んでいる。

俺のせいで心を痛めて苦しんで、それなのに俺はきっと、もっと傷つけるんだ。

クソ、俺はどうしようもないな。

どうしてこんなにも、誰かを傷つけることしかできないんだろう。

こんなにも強い言葉、どれだけ覚悟をしてみても慣れるものじゃない。

でも、応えは出さないと。

本気の気持ちには、しっかり自分で考えた応えを出そう。

俺はすがるように見上げてくる空さんを真剣に見つめ返した。


「空さん。」

「……はい。」

「今はまだ、その気持ちに応えを返せない。知っていると思うけど、俺の応えを待たせている人が他にもいるから。」

「うん。」

「ごめん、気持ちは嬉しい。空さんほどの女性に好いてもらえるなんて、俺には過ぎた贅沢だ。先延ばしにするなんて最低だと思うけど、もし良ければ待っていてくれませんか?」


空さんはじっと俺の瞳を見つめて、やがて目を閉じながら微笑んだ。


「うん、待ってる。ちゃんと真也くんの状況は解ってるから。だから我が儘は言わないよ。」

「…ありがとう、空さん。」


いつもの優しい笑顔を浮かべて、空さんはでも、と前置きする。

そして俺の首筋へ手を回したかと思うと、頬に口づけしてきたのだ。


「もし素敵な返事がもらえる時は、私のここにお返ししてね。」


顔を真っ赤に染めながら、人差し指で自分の唇を撫でる空さん。

一瞬で血液が沸騰するかと思うほど、それは扇情的で、鼓動は高まった。

瑞々しく潤った桃色の唇も、漂ってきた甘い匂いも、少しだけ触れた柔らかく女性的な膨らみも、自分が理性を保てたことが奇跡だと思えたくらいだ。

大人っぽく可愛らしい普段の空さんにはない艶やかさ。

あぁホントに、龍鉄の娘だなんて嘘だろう。

恥ずかしさで苦しい、このままここにいたらどうにかなりそうだ。

どうしようもなく気まずい雰囲気に、俺も空さんも目を合わせられないでいる。

暫くそんな状態が続いた頃、空さんが急に立ち上がって言った。


「わ、私ね、夜の分の買い物をしなくちゃいけないの!」

「あ…あぁ、じゃあ俺は邪魔しちゃ悪いしそろそろおいとましようかな。」

「ご、ごめんね真也くん、追い出すみたいで。」

「いやいや、気にしないで下さい。長々いるのも悪いですし。」


無茶苦茶だったが、もう空さんが作ってくれた流れに乗るしかなかった。

正直どうしたらいいのかまるで思い浮かばなかったし、下手をすればずっと空さんの手を握ったままだっただろうし。

本当は買い物くらい付き合って荷物持ちをするべきなんだろうけど、今回ばかりは引き上げよう。

俺はさっと立ち上がって出入り口に向かうと、それじゃあと言って店を出ようとした。

でもすぐに背中に軽い衝撃を受けて、俺は戸に手をかけたまま動けなくなる。


「空さん?」

「………また、来てね?ご飯食べに来るだけじゃなくて、お喋りだけでもいいから。」

「…はい、空さんに会いに来ますね。」

「………ありがとう。」


そっと離れた感触に後ろ髪を引かれるような思いを抱きながらも、俺は振り返らずに十六夜を後にした。






Rino Side


うぅん、遅いな。

夕飯の炊き込みご飯が炊けるのをぼんやりと待っているあたしは、何度目か忘れるほど時計へと視線を送る。

フラトレスでの緊急会議を終えて帰ったのが15時も過ぎた頃。

真也はとっくに帰っていると思ってドキドキしながら帰ってきたのに、折角だしとシャツの胸元を玄関前で大きく開けて家に入ったのに、何でか部屋には夏音しかいなかった。

おかしい、真也がこの暑い中を外出だなんて。

いつもなら家に直帰して勉強してるか本を読んでるはずなのに。

今までなら珍しいこともあるんだなと済ませたが、今日はちょっとそういう風に自分を誤魔化せそうにない。

密かに人気を集め始めた真也。

有り体な言い方だけど頭脳明晰、眉目秀麗、才色兼備、そんな四字熟語で例えられるような真也だ。

そんな真也が今まで誰かの告白を受けて来なかったのは、単に真也の態度や雰囲気が他を拒絶するものだったから。

甘く見ていたな、あたしは。

今の真也なら、間違いなく素敵だ。

元々がハイスペックだし、唯一のネガティブ要素がなくなってきた真也なら、仮にあたしが真也と深い仲じゃなくても惹かれているだろうし。

素敵になっていく真也を嬉しく思うけど、あの頃みたいにあたしとしか満足に話さない安心感が懐かしくなる。

嫌な奴だなあたし、自分のことばっかり考えてて卑しい。

何だか最近、あたしがどんどん嫌な女になっていく気がする。

真也が誰かに好かれる、皆と笑い合って楽しい時間を過ごす。

それはあたしだって望んでいた、そうなることが正しいと思っていた。

それなのに、いざそうなった今は、真也が自分から離れてしまうんじゃないかって恐れてる。

ただ真也が帰ってきていないだけで、こんなにも不安になる。

しかもその不安は真也の身を案じてのことではなくて、大好きな真也が他の誰かに取られてしまうんじゃないかって、そんな自分本意な不安だ。

御奈坂も、冴塚も、逢坂も、皆素敵な友人で仲間だ。

それなのに未だ下の名前で呼ぶことができないのも、恋敵という言葉が先に出て、あたしが壁を作ってしまっているからだ。

何て狭量な器なのだろうと、自己嫌悪に陥ることもある。

でも変わらない、ただそれだけなんだ。

まるで自分の要求を突きつけるだけの子供。

彼女たちはあたしの真也に対する想いを知っていて、それでも偽らざる気持ちで挑んできている。

それでも今日の会議みたいに、仲間であるということを優先してて、恋敵という意識を持って接していない。

それが覚悟なのだとすれば、あたしは立場に胡座をかいて甘えているだけ。

甘えを抱く心が戦いに勝てるはずがない。

それは武道でも恋愛でもきっと同じだろう。

ならあたしは、どうすれば甘えを捨てられるんだ?

今こうして真也の家に居座っているのも、立場を利用した甘えだとすればそうだろう。

立場を捨て去ることは、きっとできない。

だってあたしは、どうしたって真也と幼馴染みであることに変わりはないんだから。

なぁ真也、あたしは卑怯なのかな?


「ただいま。あ、莉乃姉帰ってたのか。」

「真也?」


玄関から真也の声が聞こえて、あたしはフラフラとした足取りで玄関へ向かおうとする。

でも何故か足に力が入らなくて、その場にぺたんと座り込んでしまった。

どうして、という疑問を浮かべる前に真也が入ってきて、座り込んだあたしを見て驚く。


「おい莉乃姉!どうした、顔が真っ青だぞ!」

「え?」


真っ青?

不思議に思って自分の顔に手を伸ばすが、顔色なんて触れたところで判るはずもない。

真也は鞄を放ってあたしに近寄ると、すぐに抱き抱えてベッドまで運んでくれた。

真也から伝わってくる温もりと匂いに、少しだけ安心する。

あたしをベッドに寝かせた真也は、ひんやりした手をあたしの額に当てて熱を計ろうとした。


「熱はないみたいだな、どこか不調はあるか莉乃姉?」

「えっと、特にないけど…。」

「それならいいけど…あ、少し顔色が良くなったか?」


真也が心配そうな表情であたしの顔を覗き込んでくる。

大好きな真也の綺麗な顔が間近に迫って、胸のドキドキが激しくなっていく。

う、自分から近寄るより恥ずかしいぞこれは。

いつもあたしから攻めてばかりだからか、真也からあたしに近寄ることは少ない。

だからだろうか、凄くドキドキして恥ずかしい。

不安なんて霧散して、胸の高まりにかき消される。

あぁもう、ホント現金だなあたしは。

不安の次には欲望が顔を覗かせて、あたしの手は無意識に真也を求めた。

指を絡めるように真也の手を取って引き寄せると、真也の澄んだ瞳を見つめながら言う。


「真也…腕枕してほしい。」

「は!?」

「そしたら元気になる、ご飯も作る。」

「………はぁ、まぁそれで元気になるってんならいいけどよ。」


真也は顔を赤らめながら隣に横になると、空いている腕をあたしの頭の下に差し入れた。

力強くてちょっと硬い真也の腕に頭を乗せて、寄り添うように密着する。

恥ずかしそうにしている真也はそっぽを向いていても、触れた身体の温かさと、繋いだ手の感触だけでも十分だ。

欲を言うならこのまま愛の言葉を耳元で囁かれてって展開だが、流石にそんな可能性がないことくらいあたしでも解る。

こんなことして、もしかしたら嫌がられてるのかな。

勢いで頼んでしまったけど、どんどん嫌われていってるなんてことは…。

新しい不安に、あたしは真也へとすがりついた。

驚いた真也がこちらに振り返って、心配そうな瞳を向けてくる。


「どうした莉乃姉。」

「真也は、あたしのこと鬱陶しいとか思うか?」

「は?」

「すり寄ってきてウザいとか、こうして家に居座って邪魔だとか思うか?」

「いや、そんなこと思ってないけど?寧ろ家事全般やってくれて助かってるくらいだし。」


何故そんなことを訊くのかと返すような表情の真也が、訝しむように眉根を寄せる。


「何かあったのか?今までだってあったことを気にするなんてらしくないだろ?」

「らしくない………あたしらしいってどんなだ?」

「………こりゃ重症っぽいな、ったく。」


真也は半ば呆れたように溜め息を吐くと、いいかと前置きしてあたしをじっと見つめた。


「好きなようにしたらいいだろ、莉乃姉はさ。」

「好きなように?」

「あぁ。何に悩んでるか知らないけどさ、莉乃姉はいつだって真っ直ぐに自分の求めるものを目指してきただろ。周りの目も憚らず、自分の願いを口にして、そうやってきただろ。」

「………あたしって、そんなだったか?」

「そうだよ。俺が知る限り、莉乃姉ほどアクティブで欲望に忠実な人はいない。」


笑みを浮かべながらそう言った真也は、繋いでいた手を離してあたしの頭を撫でる。


「ともかくさ、迷ったなら一度原点に帰ってみたらいい。莉乃姉が何を望み、それには某必要なことなのか。その為なら恥も人の目も気にせず、真っ直ぐに目指してみたらいいだろ。それこそ莉乃姉らしいぞ。」

「………うん。」


胸の奥が温かい気持ちで満たされる。

じわりと、真也の優しさが心に広がって、あたしの中で幸せに変わっていく。

あたしのことをちゃんと知ってくれていることが嬉しくて、落ち込んでるあたしを引っ張ってくれる気遣いが温かくて。

気がつけばあたしの頬を、幸せの雫が一筋流れていた。

真也は微笑んでその雫を指先で拭うと、ベッドから起きて立ち上がると、あたしに手を伸ばす。


「じゃあ今日も、美味い飯を食べさせてくれ。」

「………あぁ!任せておけ!」


その手をしっかりと握って立ち上がる。

心が、身体が軽い。

そうだ、真也の言う通りじゃないか。

あたしは真也の恋人として一緒にいたい。

その為なら何でもしよう、あたしにできることを。

真也との関係も、今の立場も、そんなもの個性でしかない。

誰だって同じ立場じゃないんだ、この関係も含めてあたしなんだから。

もう負い目は感じなくなっていた。

あたしには積み重ねてきた時間がある、それをなかったことにして平等にする必要なんてない。

強敵なんだ、彼女たちは。

だからこそ全力で、全てを出しきって勝たないと意味がない。

この繋いだ手を離さないように、真っ直ぐに、あたしらしく。

あたしが望む未来まで、迷わずにいこう。

だって真也が、あたしを認めてくれてるんだからな。


「真也っ!」

「うおっ!?」


身体を押し付けるように真也に抱きつく。

うん、あたしはもっと幸せになるぞ。

顔を赤くする真也の顔を覗き込みながら、あたしは胸に誓った。


「よしっ、久し振りに隠し味としてあたしのパン…。」

「ちょっ、それは勘弁してくれ!」

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