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Day.15 波乱の予感

目覚めると、俺は温かな布団の中にいた。

惚けた意識で起き上がり、だがすぐに痛みで眠気は吹き飛んだ。


「痛っ」


脇腹に感じる鈍痛に顔をしかめながら、自分の状況を確認する。

上半身裸にされた身体の至るところには絆創膏や包帯が巻かれ、消毒薬と湿布の臭いが鼻についた。

部屋は物がほとんどない質素な和室。

襖二枚の入り口と八畳の畳が敷かれ、板間には短刀が二振り、部屋の隅には何も乗っていない小さな机と樫のつづらが置いてある。


枕元には綺麗に畳まれた俺の服が置いてあって、その上には何故か小さな真鍮製の呼び鈴が乗っていた。


「何だこれ、起きたら呼べってことなのか?」


試しに一度鳴らしてみる。

その瞬間、待ち構えてたみたいに襖が開いて、三つ指を立てて正座した少女が現れた。


「うわっ!?」

「も、申し訳ありません!驚かせてしまいました!」


深々と頭を下げる少女の顔は見えないが、何となく俺が受け止めた方の少女のような気がした。

えっと、確か桔梗って名前だったよな?

あの爺さんが後ろにいた方を菖蒲って呼んでたから、多分桔梗で合ってるはず。


「あの…桔梗さん、でいいんだよな?」

「は、はい、私は水無月桔梗でございます。」


慌てて答えたせいか上ずった声でそう言った桔梗は、何故か顔を上げようとしない。

俺は訝しみながら恐る恐る声をかける。


「あの…桔梗さん?ずっとそうされてると俺も居心地が悪いんだが。」

「す、すみませんっ!」


力一杯に謝って、しかし顔は上がらない。

うーん、何か事情があるのか?

………とりあえず服を着るか。

畳んであったシャツに袖を通してから、改めて桔梗に向き直る。

相変わらず頭を下げたまま微動だにしない桔梗を見ていると、何だか酷くいたたまれない気分になるな。

なんとかこの状況を変えるために立ち上がり近づこうと一歩を進む。

それと同じだけ格好は変わらないまま後ろへと下がる桔梗。

………あれ?

もう一歩進む。

少しだけ下がる。

………うーん。

もしかして怒っているのだろうか、もしくは嫌われているのか。

何しろ思いっきり殴っちまったし、よく見ると耳が赤くなってるし。

そもそも俺は桔梗にとって爺さんを倒しちまった敵なんだよな、嫌われたとしても当然か。

仕方なく近づくのは諦めて、その場で座る。

とりあえず無言だと空気が重すぎるし、色々訊いてみるか。


「えーっと、もう身体の調子は良いのか?」

「あ……はい、痛みはもうありません。」

「そ、そうか、なら良かった。」

「………。」

「………。」


つ、続かねぇ。

訊きたいことはたくさんあるのに、気まずさからか頭が上手く回らない。

そういえば、俺を手当てしてくれたのは誰なんだ?

それに姫百合も姿が見えないし、この後どうするかも考えなきゃな。


「あのさ、俺を手当てしてくれたのって桔梗さんなのか?」

「は、はい!もしかしてどこか痛みますか!?」

「いやそうじゃなくて、ありがとう。」

「…え?」


予想外の言葉だったのか、桔梗は漸く顔だけを俺に向けてくれた。

まだ幼さが残る顔は整っていて、大きな瞳が今は驚きから見開かれている。

地毛なのか緋結華みたいに茶色のショートヘアを可愛らしく編み込み、飾りの付いた紅色の結紐が後頭部辺りから垂れていて、きっと彼女なりのオシャレなんだろう。

歳は多分中学生くらいだろうか、ほっそりした身体からはとても戦えるようには見えない。

そんな桔梗は俺と目が合うと慌ててまた頭を下げた態勢になってしまった。


「そ、そんなお礼の言葉など、私には勿体ないです!」

「いや、勿体ないって…。……はぁ、もうそういうのやめないか?」

「え?」

「水無月家の決まりなのかは知らないけどさ、俺たち歳もそんなに離れてないだろ?なら敬語なんてなしで、気楽に話さないか?いつまでも頭を下げられっぱなしなのも居心地悪いし。」

「あ……わかりました。」


恐る恐る身体を起こした桔梗は、一瞬だけ俺と目を合わせると、すぐに耳まで赤くして顔を逸らしてしまった。

もしかして、凄く人見知りだったりするのか?

気まずさは解消されないままだが、しかし少しは状況も変わった。

俺はどうしたらいいか迷っている様子の桔梗に、できるだけ優しげな口調で話しかけてみる。


「とりあえず自己紹介からさせてもらうな。俺は桐生真也、姫百合と同じ高校の二年生だ。」

「わ、私は水無月桔梗です。えぇと、姫様とは同い年です。」

「そうだったのか、なら姫百合とは遊んだりとかしてたのか?」

「いえ、立場上そういったことは…会話とかもほとんど……ありません。」


今にも消えてしまいそうな声だが、一応ちゃんと答えてはくれるみたいだな。

それにしても姫百合と同い年だったとは、こういうのを童顔って言うんだろうか。

………でもやっぱり、関係性はあくまで主従なんだな。

同じ敷地内にいながらも会話すらろくになかったのだとしたら、その関係性は厳しく徹底されてたんだろう、呼び方も姫様だし。

学校には通ってなさそうだな、わざわざ比較対照に姫百合を持ち出したくらいだ、学年という概念に疎いのかも。

まぁ想像したって仕方ない、それより話を聞こう。


「それじゃ桔梗さん、幾つか訊きたいんだけど。」

「あの…えっと、桔梗って呼び捨てでお願いします。桐生様は年上ですし、助けていただきましたから。」


顔を赤らめて緊張の面持ちでそう言ってきた桔梗に、俺は微笑みながら頷いた。


「わかった、なら桔梗も俺に様をつけるのは無しだ。もっと気楽にしてくれ…って、俺が言う状況じゃないか。」


俺が苦笑いすると、桔梗はわたわたと両手を振って言った。


「あのその……はい、じゃあ真也さんと呼ばせていただきますね。」

「そうしてくれると話しやすい。じゃあ桔梗、悪いんだが今の状況を教えてくれ。」


そう言うと桔梗は姿勢を正して、真剣な口調で話しだす。


「まずここは水無月の離れの一室で…その、私の部屋です。」

「………ごめんな、布団まで借りちまって。」

「いえいえそんなつもりじゃ!」


またわたわたと手を振り始めた桔梗に苦笑して、話の腰を折ってしまったことを詫びる。


「ごほんっ……悪い、続けてくれ。」

「…はい。えぇと、真也さんはあれから四時間ほど眠っておられました。今はそろそろ夕方という頃ですね。」


マジかよ、そんなに長いこと寝てたとは、龍鉄に聞かれたら鍛え方が足りねぇって言われんだろうな。

それよりもマズいな、四時間も姫百合を一人にしちまってんのか。


「わかった、それで姫百合は何処にいる?」

「姫様は…その…。」


小さな声で歯切れの悪い返事をした桔梗は、言葉を選ぶように話しだした。


「姫様は今、龍矢様とお話をされています。」

「っ!」

「落ち着いて下さい真也さんっ。」


行き先もわからないのに立ち上がろうとした俺を桔梗が嗜める。

そんな俺の心境を解ってくれているのか、桔梗は俺の片方の手を両手で包みながら、穏やかな口調で話してくれる。


「それが何だか様子が違うんです。龍矢様も龍影様も心配するなと仰って、人が変わったみたいに笑顔になられて。」

「何だそれ、聞いていた話とそれじゃだいぶ違うんだが。」


姫百合の話では、体罰の後で監禁するなんてのも辞さないような人間だと勝手に思っていた。

笑顔なんかとは無縁な、それこそ修羅か羅刹のような武人だと。

桔梗も同じような考えだったのか、疑問が抜けないような表情で続ける。


「私には真也さんの手当てを命じて、菖蒲姉様には夕食の準備をするようにと。しかも可能な限り豪勢にしろとまで仰って。」

「はぁ?」


いつもは見せないような笑顔に豪勢な食事。

話だけ聞くと歓迎されているように聞こえてくる。

いやでも、何故そうなるんだ?


「今までにそんなことってあったか?例えば大事な客を迎えるからとかさ。」

「えっと、随分前に他の四神の方がおみえになったときくらいでしょうか。あの時は龍矢様も機嫌がよろしかったと思います。」

「………四神ってなんだ?」

「四神は、えっと…解りやすく言うなら日本で最も強い四人です。正式に国が認めたわけではないですけど、武道家の方々からは畏怖と尊敬の念を込めてそう呼ばれています。」


…またおかしな奴らが出てきたな。

つまり最強の四人の内の一人に、姫百合の爺さんが含まれてるってわけか。


「逢坂、百瀬、鷺澤、小峰。古くから続く武家の中でも特にこの四つの家は関係が深く、互いに切磋琢磨していたらしいです。」

「小峰宗十郎さんも入ってんのか、どうりで尋常じゃない気配を纏ってるわけだ。」


だから姫百合を信用の置ける小峰に預けたんだな、細かい事情なんかも融通が利きそうだし。


「でも最近龍矢様が小峰の所に行ってくると言ってお出かけになられたんですが、帰ってくるなり龍影様に我より強い男がいただなんて仰っていました。あ、でも多分今回のこととは関係ないですね。」


桔梗が苦笑して首を傾げる。

確かに関係はなさそうだが、最強と言われてる奴より強いって、化け物にでも遭遇したんだろうか。


「ともかくだ、問題はそんな特別な状況と今回の対応が似通ってるってことだよな。俺はどちらかと言うなら追い返される側だ、逢坂に喧嘩を売りに来たわけだし。」

「そうですね。私たちもお二人が来たとわかった時点で迎撃するように言われました、特に今回は姫様が女性として帰ってこられたものですから。」

「うーん、考えても答えは出そうにないな。」

「この後は全員で食事会ですから、話をする機会はあると思いますよ。」

「そうだな、今は大人しくしておくよ。」


桔梗が微笑んで頷いた。

少しの間だけ頑張ってくれ姫百合、すぐに傍に行くから。






夕刻。

肌を蒸らす夏の暑さも少し落ち着いて、太陽が西の地平線に触れそうなくらい降りてきた頃。

俺は桔梗に連れられて、逢坂の家の大広間へ向かっていた。

小峰の屋敷のような薄暗い廊下を進み、幾つもの障子を通り過ぎると、目的の部屋に到着する。


「桔梗です、桐生真也様をお連れいたしました。」

「入れ、もう準備はできている。」


桔梗の言葉に答えた龍影の声に頷き、彼女が障子を開ける。

そこは三十畳はあろうかという、まさに大広間と言うに相応しい部屋だった。

左右の板の間には様々な姿形の甲冑や刀などが置かれ、部屋の明かりを受けて鈍く煌めいている。

壁には逢坂と水無月の家系図が奥から手前へと木の根のように伸びていて、その長さが改めて両家の歴史の深さを物語っている。

そして、そんな歴史の最奥に、当代の龍矢は座っていた。

視線が合う。

直後、俺の身体は自由を奪われていた。

猛獣さえ素手で捻り潰してしまいそうなほど鍛えぬかれた肉体が、単着物の生地を盛り上げ、異様なほどの威圧感を放っている。

座っているために正確な高さは判らないが、背丈はゆうに190cmを越えているだろう。

そんな男の刀の切っ先のような目が、俺を値踏みするように睨んでいるのだ。

僅かに動かせるのは瞳だけ。

その威圧感から、無意識に視線を逸らしそうになる。

だが俺は必死に逸らさないよう、視線にだけ意識を集中した。

逢坂龍矢の隣に、小さく縮こまるように正座する姫百合が見えたからだ。

嫌な予感が脳裏をよぎる。

視線を僅かにも逸らせば何かが終わる、そんな予感が。

時間にしたらほんの一瞬だったのだろう。


「?………真也さん?」


桔梗にそう話し掛けられた時、逢坂龍矢は豪快に笑った。


「ガッハッハ!いつまで突っ立っている、早く座らぬか。」

「………はぁ。」


よく言うぜクソッ、動けなくしたのはそっちだろうが。

桔梗に案内されて席に着くと、桔梗が何も言わずに俺のグラスへ飲み物を注いだ。

つかその一升瓶、どう見ても酒だよな?

そんな未成年に対する配慮もないまま満たされたグラスを眺めていると、逢坂龍矢が真っ赤な盃を高く掲げながら俺を見て言う。


「こんな辺境の家まで遠路遥々よくぞ参った。積もる話はあるだろうが、まずは空腹を満たそうではないか!今宵の食事は菖蒲が腕によりをかけて作ったものだ、存分に食べるが良い。」

「はぁ、ありがとうございます。」

「ガッハッハ!無礼講だ、何も気にせず酒を楽しめ!では、孫娘の友人に乾杯!」

「か、乾杯。」


俺も一応グラスを持ち上げると、途端に喉を鳴らして飲み干した龍矢は、幸せそうに笑い、自分で二杯目を注ぎだした。

俺が展開についていけずに固まっていると、龍矢は隣で黙っている姫百合に言う。


「姫百合、もう良いぞ。せっかく友人がお前のために来てくれたのだ、傍にいてやれ。」

「は、はい。」


姫百合は小さく頭を下げると、すぐに俺の隣へと移動した。

桔梗が姫百合の前に膳を運んでくると、静かに俺たちの後ろに座る。

すると龍矢の後ろに控えていた龍影が、それぞれ左右の壁近くに控えていた桔梗と菖蒲に向かって言った。


「菖蒲、桔梗。今日は我らも共に食べるぞ、用意してくれ。」

「え……は、はい。」


返事をした菖蒲が慌てて部屋を出ていき、桔梗も後に続く。

俺は何がなんだか解らずに、とりあえずグラスに注がれた酒を口に含んだ。

焼酎なのか、すっきりした甘さが口の中に広がる。


「あ、美味いなこれ。」

「ガッハッハ、そうであろう!我が懇意にしている酒蔵の主人が用意した中でも最高の物だ、気に入ったのなら持ち帰ってもいいぞ。」

「いや、流石に未成年なんで。」

「ガッハッハ、そうであったな。」


上機嫌に酒を飲みながら料理を口に運ぶ龍矢は、どこから見てもただのデカい爺さんだった。

とてもさっきのような目つきができるようには見えない。

でも油断はできない、こいつは姫百合を苦しめてきた張本人なんだ、いつ手のひら返したように攻撃してきても不思議じゃないんだ。

そんな考えを読まれたのか、龍矢は目を細めて俺を眺めると、何杯目かの酒を注ぎながら言った。


「そう警戒しなくともよい、別にお主と争おうなどとは考えていない。さっきも言ったように今宵はお主の歓迎も兼ねている、話は食事を終えてからでも遅くはないだろう。」

「………信用しろと?」

「だからそう言っている、だがまぁいきなり気楽にとはいかないのも承知している。しかしお主を追い返すつもりなら、お主がその席に座ることなどありえなかった、そうではないか?」

「………確かにそうだな。」


もし追い返すなら俺が気絶している間にどうとでもできたはずだ、そもそも敵意が残っているなら治療なんてしないだろう。


「そうだろう?ならば警戒していても疲れるだけだ、今はのんびりと力を抜くべき時だぞ桐生真也。せっかくの宴だ、しっかり食って英気を養うのが礼儀だろう。食事には何の罪もない、無駄にすることは許さぬぞ。」

「…そうですね、今はお言葉に甘えさせてもらいます。」


実際腹は減っている、しかも目の前の食事が美味そうな匂いを漂わせているせいで、さっきから腹の虫が泣き喚いている。

俺が箸を取ったのを見ると、龍矢は満足気に頷いて笑う。


「うむ、若い者は食べ過ぎるくらいが丁度よい。ほら姫百合、お前もちゃんと食べぬか。少食では伸びるものも大きくなるものも成長せんぞ。」

「っ!………いただきます!」


何故か急に顔を真っ赤に染めて食べ始めた姫百合と、それを見て楽しげに笑う龍矢。

聞いていた話とのギャップに戸惑いながらも、俺は汁がかかった揚げ出し豆腐を口に入れた。

…な、美味いなこれは。

莉乃姉の飯で舌が肥えてきたとは思っていたが、それでもこの味わいは感動できるレベルだ。

空腹も手伝って、俺は次々と料理を口に運んでいく。

丁度そんな時、水無月の三人も広間に戻ってきた。

三人は龍矢を挟んで俺たちの向かい側に腰を下ろすと、龍矢に一礼してから箸を取った。

ふと視線に気づいて料理から顔を上げると、姉妹と目が合う。

つか、並ばれるとほとんど違いが判らないな。

編み込みの茶髪が桔梗なのは判るが、髪型以外はほとんど一緒だ。

菖蒲の方は黒い艶やかな髪をポニーテールにして、蒼い紐で結んでいる。

後は瞳だろうか。

桔梗は大人しい印象を受ける雰囲気だが、菖蒲の方は好奇心旺盛そうな……何だか関わると物凄い疲れそうな予感がする瞳だ。

そんな菖蒲が、いかにも話し掛けたくて仕方ないといった雰囲気でこちらを見ている。

…まぁ、無視するのも失礼だよな、美味い飯を食わせてもらってんだし。

俺は箸を置くと、笑顔になって菖蒲に話し掛けた。


「この料理凄い美味しいな、ありがとう菖蒲さん。」

「ホントにっ!?良かった~、頑張った甲斐がありますよ~!」


花が咲くような笑顔を見せた菖蒲は、自分が食べるより話すことを優先したのか、俺の方へ身を乗り出してきた。

戦っていた時の雰囲気など微塵も感じさせず、まるで幼なじみの後輩みたいな感じがする。


「真也くん、どれが一番かなっ?あたし的には揚げ出し豆腐が自信作なんだっ!あ、でも、真也くんが好きな料理があったら教えて!あたし頑張って作るからね!」

「あ、あぁ。ありがとう菖蒲さん。」

「真也くんの方が年上なんだからさんなんていらないよ~、菖蒲って呼んでよっ!」

「そ、そうか、悪かったな菖蒲。」

「謝らなくていいよ~!えへへ~、名前で呼んでもらえると嬉しいね!ねぇ、桔梗も呼んでもらいなよっ。」

「えぇ!?わ、私は大丈夫だよ!?」

「何でよ~、せっかくの機会なのにもったいないよ。」


………テンション高いな。

ハイテンションモードの莉乃姉だってもう少し…いや、あんま変わらないか?

莉乃姉の場合際どいスキンシップも始まるから、菖蒲の方が幾分マシかもしれない、今のところはだけど。

姉妹である桔梗さえ苦笑してるし、もしかしていつもこんな感じなのか?

俺は隣で同じく苦笑している姫百合に訊いてみようとして、その無防備な脇腹にツンと人差し指を立てた。


「うひゃうっ!?」

「わっ、ごめん姫百合!」

「うぅ~、いきなり何をするんですか先輩。」


涙目で顔を赤らめた姫百合が抗議の視線を向けてくる。


「いや、話し掛けようとしただけなんだ、悪かった。」

「変な声出しちゃって恥ずかしいですよ、私脇腹弱いんですから。」


姫百合が恥ずかしそうに俯いたのを見て、俺は首を傾げた。


「そうか?結構可愛らしい声だったけど。」

「えぇ!?………うぅ、先輩が私を虐める。」

「いやいや、全然そんなことないから!?」

「えへへ、冗談ですよ先輩。」


姫百合は一転して悪戯っぽい笑みを浮かべて、小さく舌を出してみせる。


「な……はぁ、嫌われたかと思って焦ったぞ。」

「そ、そんなわけないですっ。私が先輩を嫌うなんて絶対ないですっ!」

「お、おう。ありがとう。」

「いえ…どういたしまして。」


お互いに恥ずかしくなって顔を背ける。

しかも照れてる姫百合が妙に可愛く見えて、もしかしたら俺って性格悪いのかもしれない。


「姫様ばっかりズルい!あたしともイチャイチャしてよ真也くん!」

「はぁっ!?」


菖蒲はそんな意味不明な台詞を言うと、こちらに回り込んできてべったりと俺にくっついてくる。


「ちょっ、菖蒲!?」

「わぁ、やっぱり細いけどしっかり鍛えられてるね!ねぇねぇ、今晩あたしの部屋でお話しようよ!色んなこと教えてね、真也くんのこともっ。」

「俺はそういうことしに来たんじゃないんだって、つかくっつきすぎだ。」

「えぇ~、あたしにくっつかれるの嫌なの?」

「嫌だとかそういうんじゃ……姫百合、姫百合からも何か言ってやってくれないか?」

「………先輩のバカ、知りません。」


何でそうなるんだっ!?

唇を尖らせてそっぽを向いてしまった姫百合の助け船はなく、菖蒲は尚も莉乃姉みたいにくっつき、離れたところで桔梗があたふたしている。


「食事くらい大人しくせぬか菖蒲!」

「は、はいっ!」


龍影による一喝。

元気いっぱいだった菖蒲が慌てて席に戻り、俺たちや桔梗を固まらせるには十分すぎる迫力だ。

唯一人龍矢だけがマイペースに酒を煽りながら、楽しげに笑っている。

しかしありがたい、これで菖蒲のスキンシップから解放された。

姫百合の雰囲気も戻るし、落ち着いて飯を食えるな。

そう思っていた矢先、龍矢が龍影に言った。


「そう叱ってやるな龍影、歳の近い客人など珍しいから菖蒲も嬉しいのだろう。」

「しかし無礼講とはいえあまりに騒がしくみっともない。」

「酒の席とは元来そうあるべきだ、今宵くらいは大目に見てやれ。」

「……やれやれ、年寄りになると小言を言ってしまって嫌ですな。」

「ガッハッハ、まったくだ!」


龍矢と龍影は笑い合うと、菖蒲に向かって言った。


「菖蒲、騒ぐのは構わんぞ、だが先に食事を終えてしまえ。せっかくお前が作った美味い料理がもったいない。」

「わかりました龍矢様!」

「我も宴の席で無粋だったな、食べてからなら構わぬ。桔梗もせっかくだ、歳の近い男と話してみなさい、その人見知りも少しは直るかもしれぬ。」

「わ、わかりました。」


………結果事態は悪化したな。

ほら、姫百合の表情が固くなった、理由は解らないが。

凄い勢いで箸を動かす菖蒲を苦笑して眺めて、隣でゆっくりと味わうように食べる姫百合を見る。

その表情は固く、まだこの状況に慣れてないように見えた。

俺も聞いていた雰囲気との差に驚いてはいるが、初めて会ったからか驚きは少ない。

でも姫百合は今までがある。

恐らくこれまで逢坂の家で過ごしてきた日々の中に、こんな団欒はなかったんだろう。

だからこそこの状況は、姫百合にとって異質に映るはずだ。

この当たり前の家族との団欒が。


「あまり考えないで、今は素直に受け入れよう。」

「………でも、それなら今まで私は何を恐れていたんですか?」

「それを確かめるためにこの場がある。俺が傍にいるから、今は少し気持ちを落ち着けよう。……俺がいるだけじゃ不安か?」

「…その質問はズルいです。不満なはず…ないじゃないですか。」


俺を見上げて微笑んだ姫百合。

俺はその微笑みを守ろうと心に誓って、優しく姫百合を頭を撫でてやった。






食事が終わり、菖蒲からのマシンガントークも済んでヘトヘトに疲れた頃。

二人が片付けのために席を外すと、逢坂龍矢はおもむろに酒の入ったお猪口を差し出してきた。


「話の前に、まずは一杯やろう。」

「酔って話すようなことですか?」

「ふぅ、堅いな。真剣なのは良いが、相手の流れに乗ってやる余裕がなければ敵わぬぞ。」

「…頂きます。」


俺と姫百合、龍矢と龍影。

向かい合った四人はお猪口を小さく掲げてから、静かに飲み干して下に置いた。

弓道の残心のように、宴の余韻を緩やかに締める。

目の前には武人の瞳を揺らす逢坂龍矢。

彼は大きな手で自分の顎に触れながら、俺に向かって問うてきた。


「さて桐生真也、先ず改めて訊いておこう。お前は何用で我が孫娘とこの地へ来たのだ?」


俺は背筋を伸ばして顔を上げると、凄まじい眼力を放つその瞳を真っ直ぐに見て答えた。


「俺は、逢坂姫百合が逢坂姫百合として生きていけるように、誰かに嘘を吐かなくてよくなるように、貴方と交渉に来ました逢坂龍矢さん。」

「ふむ、ならばお前の望みとは何だ?」

「姫百合が次代の龍矢ではなく、女の子の姫百合として自由を手にすることです。」


龍矢は俺の言葉に鼻を鳴らすと、睨むように視線を姫百合に移した。


「彼はそう言っているが、お前はどうなのだ姫百合。我が課した命を反故にするくらいだ、相応の覚悟で願ったのだろうな?」

「………。」


姫百合がその眼力に萎縮してしまったのが、隣から感じる雰囲気だけでも伝わってくる。

ぎゅっと唇を噛み締めて膝の上で拳を握る姿が、嫌でも思い浮かぶ。

だけどここで姫百合に声をかけることはできない。

龍矢はあくまでも姫百合に問い掛けている。

姫百合がこの交渉にかける思いの強さを言葉にして声に出し、意志を示せなければきっと話はここで終わってしまうだろう。

俺は心の中で姫百合を応援しながら、ただ待つことしかできない。

頑張れ姫百合、願いを叫べ。

もう嘘を吐きたくないってあの言葉を、思いっきりぶつけてやれ!


「……やなんです。」


小さな呟きが、姫百合の声で紡がれる。

それを聞いた龍矢が、怒鳴るように尋ねた。


「聞こえぬぞ!はっきりと言わぬか!」


そう言われた姫百合が、俯いていた顔を勢い良く上げて、涙目になりながらも力強く叫んだ。


「私はもう男でいるのは嫌なんです!もう大切な人達に嘘を吐きながら一緒にいたくない!ありのままの私でいたい!」


姫百合の想いは、きっと屋敷中の空気を震わせただろう。

それくらい大きな、今まで聞いたことないほど強い想いが、大人しい姫百合の口から発せられたのだ。

静まり返る大広間。

聞こえてくるのは姫百合の息使いと、森で騒めく虫たちの鳴き声だけだ。

姫百合は睨むように見つめてくる龍矢の黒く深い瞳を、唇をきゅっと引き結んで見つめ返している。


「よく言った我が孫娘よ!」


突然そう叫んだ龍矢の顔に笑みが浮かぶと、隣に控えていた龍影に向かって嬉しそうに頷く。


「この孫娘はちゃんと大きくなっていたようだな龍影よ。」

「左様ですな龍矢様。姫様は並木の街にて真に強くなられてきたようです。」

「え?……どういうこと?」

「いや、わからないが。」


疑問符を頭に浮かべた姫百合と顔を見合わせる。

さっきまで厳しい口調と表情を見せていた二人が急に嬉しそうな笑顔に変わって、俺自身も展開についていけない。

目の前の二人は早速盃に酒を注ぎ合うと、一息に飲み干して俺たちを見た。


「我らの悲願が漸く叶ったのだ、これが喜ばすにいられようか。」

「左様ですな、本当に長い月日をかけた。それが我らの代で叶ったとは、素晴らしいことです。」


勝手に盛り上がる二人に首を傾げたままの俺たちに、龍矢はまた酒を注ぎながら言った。


「不思議に思っておるのだろう?孫娘を我らから解き放つために遥々やってきたお前からすれば、目覚めてからというもの、ずっと違和感があったはずだ。」

「そうですね、今もそれは変わらない。むしろ違和感どころか疑問さえ感じています。」

「ガッハッハ!だろうな、でなければ我らの演技が小僧すら欺けぬ稚拙なものだったことになってしまう。」

「………どういうことですかお祖父様。」


姫百合が疑問を投げ掛けると、龍矢はニヤリと笑って真実を告げた。


「我は初めから、姫百合を女として生きさせるつもりだったんだよ。」

『………は?』


俺と姫百合の声が重なる。

何しろおかしな台詞が聞こえてきたからだ。

初めから女として生きさせるつもりだった?

それじゃ今までの姫百合の苦悩はなんだったんだ。

並木高校での生活も、あの涙も、全部意味がなかったと?

俺は納得がいかず、つい龍矢に怒鳴ってしまっていた。


「ふざけんな!なら姫百合は何のために今まで苦痛を強いられてきたってんだよ!」

「そう声を荒らげるな桐生真也、当然無意味などではない。今から理由を話してやるから、ひとまず大人しくせい。」

「………納得いく説明なんだろうな?」

「それは何とも言えぬ。お前は我らの、長く続く家の厄介さを知らぬからな、我らの考えに共感できぬ内容もあるかもしれぬ。だが結果として、お前たちに必要だったのだ、特に姫百合にはな。」


そう言われて、俺は仕方なく立ち上がりかけた腰を下ろす。

龍矢は頷くと姿勢を正して、ゆっくりと事の経緯を話し始めた。


「まず初めの前提として、我は逢坂龍矢となる以前から、この逢坂家を終わらせようと考えていた。」

「え!?」


姫百合の顔が驚愕に変わる。

俺も同じく驚いていたが、先を促すために質問を返した。


「その終わらせるってのはどういう意味なんだ?」

「この部屋に連なる家系図、それに刻まれた龍矢を継がせないという意味だ。」

「つまり姫百合は、逢坂龍矢にならずに済むってことだな?」

「無論だ。これからは逢坂姫百合として人生を謳歌し、嘘もなく、恋愛さえ自由にすることができる。」


その言葉を聞いて、姫百合が俺を見上げた。

信じられないという感情が、見開かれた瞳に宿っている。

俺はそんな姫百合の頭に手を乗せると、微笑んで頷く。


「もう、嘘を吐かなくて大丈夫だな。」

「っ………はいっ!」


涙を瞳から零しながら、姫百合が抱きついてきた。

力いっぱいに腕を背中に回し、見られているのも構わずに身体を寄せてくる。

俺は苦笑しながらも、頭を撫でてやりながら笑っていた。

嬉しいのは俺も同じだ、二人きりなら抱きしめ返したいくらいに。

そんな俺たちを見た龍矢は豪快に笑い、龍影は咳払いを一つして俺たちを諫めた。


「こほんっ、お気持ちは察しますが姫様、もう少しおしとやかさというものをですな…。」

「あ………ご、ごめんなさい。」


顔を真っ赤にしながら姫百合が離れ、恥ずかしそうに俯いた。


「ガッハッハ!別に構わぬだろう龍影よ、周りをはばからぬのも若さの特権だ。良いぞ姫百合、存分に抱き合え、なんなら接吻も構わぬぞ。」

「そ、そんなことできるわけありません!何言ってるんですかお祖父様!」

「そうですよ!そういうことは好きな人ができたときにするものです!」

『…………え?』

「うん?」


何故か龍矢と龍影は驚き、姫百合は小さく溜め息を吐いた。

何だ?何か間違ったこと言っただろうか。

キスは誰とでもするものじゃないって言ったつもりなんだが、もちろん日本ではだけど。

目の前の二人は首を傾げる俺と、視線を逸らして乾いた笑いを浮かべる姫百合を交互に見て、呆れたように姫百合に言った。


「姫百合よ、これはもしや最大の難関なのではないか?こやつ、中々に厄介な性格をしておるようだ。」

「はぁ………解ってはいるんです、でも今更自分を騙しても仕方ないですから。」

「ガッハッハ!なぁに時間はまだまだある、ゆっくりと打ち解ければ良かろう。」

「姫百合、何の話をしてるんだ?」

「とある頭のいい人が溜め息を吐きたくなるくらい鈍感だって話です。」

「は?何で急にそんな話を?」


俺が首を傾げていると、三人が揃って深い溜め息を吐いた。


「姫様、どうか望みは捨てぬよう。」

「はい、ライバルも強敵なので負けてられません。」

「それでこそ我が孫娘だ、諦めずに挑むことこそ強敵を倒す最も強い力だ。」

「頑張りますお祖父様!」


楽しそうな会話から置いていかれた俺は、反撃とばかりに話を振った。


「その鈍感な奴のことより、お二人の願いを聞かせてくれませんか?」

「おぉそうだったな、話が脱線していた。」


龍矢はさてと前置きすると、再び真剣な顔つきになって話し始める。


「我が最後の龍矢となろうと考えたのはな、幼い我にも判るほど逢坂が古臭く閉鎖的だったからだ。」


龍矢の言葉に姫百合が頷く。

俺が姫百合から聞いた話も、男性主体の古い武家そのものという印象だった。


「些細な事柄に固執して変化を受け入れられぬなど愚の骨頂、だが我以前までの龍矢どもはそんな下らぬ思想に染まっていることも事実。いくら我が当主となったからといって、生き残る老人を黙らせるにはちと力が足りぬ。故に騙すしかなかったのだ。」

「騙すって、逢坂家をってことだな?」

「うむ、理解が早いな。姫百合を男性として育て当主とするは一族の決定事項だった、力ずくで変更しようとすれば諍いは必至、場合によっては姫百合にまで被害が及ぶ、それだけは避けたかったのだ。何しろ我ら一族は物事の解決法を一つしか持たぬからな。」


龍矢が呆れたように苦笑する。

一族内での諍いになれば、問題の中心である姫百合にも危険が及ぶってことか。

そうなれば問題は片付くだろうが、色々とリスクが高くなる。


「我が望む筋書きを達成させるには一族の内乱を起こすわけにはいかぬ、だからある瞬間までは従順な逢坂龍矢でいる必要があった。」

「ある瞬間とは何ですかお祖父様?」


姫百合にそう問われると、龍矢はニヤリと悪そうな笑みを浮かべ、壁を指差した。

指差す方には、歴代の逢坂龍矢の写真や絵が飾られている。


「前逢坂龍矢の死亡、それを待つことにしたんだよ。」

「………なるほどな、そうすれば穏便に貴方が最高権力者になれるわけか。」

「ガッハッハ!そういうことだな桐生真也、それにそれ以上の効果もある。」

「というと?」

「最高権力者の死というものは少なからず動揺と混乱を伴うもの、故に下の者は早急に指導者を求める。逢坂本家に現存する者たちを説得するのにこれほど適した時期もあるまい、元々離れていかずとも不満を抱えていた者も多いからな。」

「力ずくの解決をしていたら、恐らくそんな人たちさえ敵に回る可能性もあったわけだ。」

「そうだ。姫百合よ、お前がパートナーに選んだ男は中々に頭の回転も早いようだな。」

「パ、パートナーってそんな…。」


照れながらそう言った姫百合に対し、龍矢は首を横に振る。


「パートナー選びは重要なことだ。信頼でき裏切らぬ強い絆こそが、大事を成すには必要なんだよ。我も龍影が力を貸してくれたからこそ、このような大それた変革を達成できそうなのだ。」

「勿体ないお言葉です龍矢様、我は何もできませぬ。」

「謙遜するな龍影よ、我は心から感謝しているのだ。策のためとはいえ、大切な孫娘たちを謀るなど心苦しかっただろう。」

「…しかし、それも今日まででございましょう。これからは龍矢様が描く新たな逢坂と水無月が始まるのですから。」

「ガッハッハ、然り。」


固い絆で結ばれている二人が、悲願の成就に笑い合う。

姫百合もそんな二人を眺めて、そっと微笑みを浮かべている。

この光景こそ、逢坂龍矢が目指した新たな逢坂なのだろう。

俺はそんな変革の瞬間に立ち合えたことを嬉しく思いながら、緊張の糸がようやく解けていくのを感じた。

龍矢は龍影の盃に酒を注いでやると、恭しく受け取った龍影が高く掲げてから飲み干す。

満足気に頷いた龍矢は、俺たちの方へ向き直ると、小さく頭を下げた。


「姫百合には悪いことをした。いかんせん学が足りぬ故に、かようなやり方しか思いつかなんだ。これまで苦労や苦痛を与えてしまったこと、我の頭を以て許してはくれぬか?」


不意に告げられた謝罪の言葉。

姫百合は驚いたあと首を振って、自らも深く頭を下げた。


「私こそ申し訳ありません。お祖父様にそのような考えがあったとは存じず、影で私を守って下さっていたのに、あまつさえ一族外の者を巻き込み反乱擬いのことをするなど、今は反省しています。」

「構わぬのだ、そこまで期待するは誰であろうと酷である。それに、お前が彼をここまで導くのは我が望んだことだからな。」

「え?」

「どういうことですか?」


俺たちは意味が解らずに龍矢を見る。

すると龍矢は隣に座る龍影を見てから口を開いた。


「先ほども言ったように、大事を成すには信頼できるパートナーが必要だ。お前が女で在ろうとするために単身進言することはない、そうなるように今まで接してきた。だがお前が男として扱われることに疑問を持っていたのは気づいていたからな、だからこそ並木の宗十郎へと預けたのだ。」

「仰ってる意味が解りません、それが先輩とどう繋がるんですか?」

「常に曝されていた恐怖から離れれば、やがては自身にかけていた制約が薄れてくる。そうなれば苦痛を解消しようと心が無意識に動きだし、抑圧されていた不満が大きくなってくる。宗十郎には家の中でだけ女でいることを許すように言っておいたからな、学校という相談相手が多い場所ならば誰かに話してしまうのにそれほど時間はかからないと考えたのだ。」


姫百合は自分の行動が見透かされていたことにムッと表情を変えたが、すぐに納得したのか頷いて俺を見た。


「確かに私は先輩に話しました。この人なら信頼できると思って、その………大丈夫かなって。」


あの状況を思い出して赤面する姫百合に俺も視線を逸らした。

ったく、俺まで思い出したらマズイだろ、早く忘れよう。

にしてもこの人、てっきり武術にばかり傾倒してるかと思ってたけど、とんでもなく頭が回るな。

姫百合の心理を的確に予想した上で前もって手を打っていたし、一族全てを騙してことを進められる演技力といい、正面から交渉なんてしても勝てなかっただろう。

改めて逢坂龍矢の凄さを思い知らされながら、俺は話の先を促した。


「だが俺が話を聞いてここまで着いてくるなんて、それは絶対じゃないでしょう?」

「うむ、だからその一点だけは完全に運試しだった。姫百合が選ぶ者が真に姫百合のために行動でき、かつ危険を承知で着いていける者かどうか、そればかりはいくら我が頭を回しても手が出せぬ領域だからな。まぁもし卒業まで何事も起こらぬようなら、こちらから息のかかった者を送ろうかとは考えていたが、それは余計な憂慮であったな。」

「…ホント、とんでもない人ですね貴方は。」

「ガッハッハ、誉めても何もやれぬぞ。」


龍矢は上機嫌に酒を飲みながら、ふと遠くを見るような瞳で家系図の描かれた壁を見た。


「しかしそれも漸く終わる。桐生真也、お前のお陰でな。この恩は我の頭を以てしても返せぬが、せめて感謝の言葉は述べさせてもらおう。」


龍矢と龍影は共に俺に身体を向けると深く頭を下げた。


「真に感謝する桐生真也殿。お主が姫百合の痛みを知り、苦しみを感じなければ、我らが悲願の成就は成らなかった。本当にありがとう。」

「……貴方が姫百合の幸せを願ってくれたからこそ、俺はここまで導かれたと思います。お陰で俺は姫百合を助ける手伝いができました、俺の方こそありがとうございます。」


俺が頭を上げると、龍矢が自分の盃に酒を注ぎ、俺へと差し出してきた。


「我ら逢坂家は、何かあれば必ずお主の力になると約束しよう。だからどうか姫百合をよろしく頼む、これからも良き関係でいてくれ。」

「はい、俺も微力ながら力になります。」


受け取った盃を口に当てて傾ける。

鼻腔を抜ける良い香りと喉を通る温かなアルコールの熱。

じわりと身体が温まって、穏やかな気持ちに包まれる。

すると姫百合が一歩後ろに下がると、俺たちに向いて頭を下げた。


「私からも感謝を。お祖父様と龍影様のお陰で、私は逢坂姫百合として生きていけます。本当にありがとうございました。」

「我らは礼を言われる立場にありませぬよ姫様、だからどうかお顔を上げて下さいませ。」

「そうだな。それに姫百合よ、もうお祖父様などと堅苦しい呼び方は終わりだ。我らもせっかくだし孫娘からはお爺ちゃんと呼ばれてみたいぞ?」

「ふえっ!?そんないきなりですか!?」


思わず顔を上げた姫百合に悪戯っぽい笑みを浮かべて、龍矢はその大きな手で姫百合の頭を撫でる。


「それに敬語も止めよ、これからはお前にとってただの爺さんだ、気軽に話せ。十六年間も無駄にしたんだ、我が共にいられる残りの時間くらいはそうしてくれ。」

「あ………うん、ありがとうおじいちゃん。」


涙を流しながら笑った姫百合は、凄く幸せそうで、とても可愛らしかった。

その言葉に照れ隠しで少し強く頭を撫でる龍矢の姿も、とても嬉しそうだ。

良かったと素直に思う。

この家族がこうしてしっかりと繋がることができたのだから。

もしかしたら姫百合は、このまま実家に戻るかもしれない。

もう誰かを騙す必要もなくなったし、小峰宗十郎の家に居候する理由がなくなった。

こちらの学校に通うという選択肢も生まれ、龍矢の言葉を考えるなら姫百合は傍にいようとするかもしれない。

だがその時は素直に見送ろう。

姫百合の旅路が、やっと動きだしたんだから。

会えなくなるわけじゃない、また来ればいいんだ、今は喜んでいよう。


「姫様~!」

「姉さん、走っちゃダメだよ。」


そんな声と一緒にドタドタと足音が近づいてきて、初めに菖蒲が勢い良く障子を開いて参上し、桔梗が遅れてパタパタと小走りでやってきた。

菖蒲は驚いて振り返った姫百合を見つけるやいなや、ほとんど飛び掛かる勢いで姫百合に抱きつく。

「話は聞いたよっ!これからはホントに友達で………ううん、家族でいられるね!」

「家族…。」

「そうだよ!さっき言われたよ、もう主従関係もなくていいって、姫様と…姫百合ちゃんと仲良くしなさいって!そうだよね桔梗?」

「はい、もう普通の家族だって。私も、姫百合さんと仲良くしたいです。」


大人しい桔梗までもが姫百合にそっと近寄って、嬉しそうに姫百合を抱き締めた。

戸惑った姫百合と目が合って、俺は笑いながら小さく言う。


「良かったな姫百合。」

「はい……はい。」


涙目になりながら頷いた姫百合が、長年続いた主従関係を捨て去るように二人を強く抱き締める。

俺の角度からじゃ見えないが、きっと二人も泣いているんだろう。

嬉し泣きが聞こえる大広間で、凍っていた両家の時間が、暖かな涙でゆっくりと解けていった。






月明かりが覗く森の夜更け。

夏でも涼しい夜風を受けながら、俺は逢坂の屋敷の縁側で涼んでいた。

風呂上がりの浴衣姿で、虫たちの奏でる合奏を肴にいただいたお茶セットを堪能する。

緑茶は多分玉露で少し抹茶も含まれているらしく、深い旨味のお茶と甘い和菓子の組み合わせに、俺は知らず上機嫌でのんびりとした時間を楽しんでいた。


「ふぅ~、今日は流石に疲れたな。」


一人呟くと、木々の隙間から吹いてくる風に目を閉じて今日を思い返す。

どうにか目的は達した、それも考えうる限り最高の結果を得られたと思う。

姫百合は女の子として生きていけるし、長年敵のように考えていた祖父の本心を知ることもできた。

大団円とはこのことだろう、それは皆の笑顔と嬉し涙が証明している。

でも、明日はどうなるのか。

俺の役目は終わった、だから長々とここでご厄介になる理由もないし、明日には引き上げよう。

残してきた莉乃姉のためにも、早く並木に帰って話をしなきゃいけない。

だけど姫百合は違う。

姫百合は目的が完遂された時点で並木に帰る必要がなくなった。

そもそもが亡くなった先代の龍矢たちを欺くための居候だ、欺く相手がいないならここで改めて生活を始める方が自然だろう。

ここには菖蒲と桔梗もいて、こっちの学校に通うならきっと三人とも同じ学校だ。

あの二人が今学校でどうしてるかわからないが、少なくとも三人一緒なら馴染みやすいはず。

積極的に友達を作るタイプとは言えない姫百合と桔梗を、菖蒲が楽しそうに引っ張り回す。

…あはは、スゲー想像しやすいな。


「…そうなったら、やっぱ寂しいよな。」

「何が寂しいんですか?」

「うわっ!?」


突然声をかけられて振り返ると、腕を伸ばしたまま固まっている姫百合がいた。

薄い青の生地に金魚が優雅に泳ぐ浴衣を着て、シャンプーの匂いがする髪の毛は結ばずに下ろしている。

目をぱちくりさせて俺を見る姫百合の顔が、悪戯っぽく笑顔に変わった。


「珍しいですね、先輩が私の気配に気づかないなんて。」


俺は言われて身体を姫百合に向けると苦笑を返す。


「いや、俺は別に気を感じられるような武術の達人でもなんでもないぞ、ただの高校生だ。」

「ただの高校生が水無月龍影に勝ってしまうなんてありえません、もう少し自信を持ってもいいと思います。」

「偶然の勝利を自信には繋げられないよ。」

「むぅ、でも先輩は…。」


何故だか姫百合が悔しそうにして、でもすぐに苦笑した。


「えっと、隣に座ってもいいですか?」

「ん、俺なんかの隣で良ければ。生憎と湯飲みは一つしかないんだが。」

「あ、それならせっかくなので新しい急須を持ってきます、もう冷めてますか?」


俺が急須に触れて頷くと、姫百合は笑顔で急須を受け取って台所へと走っていった。

暫くぼんやりと月を眺めていると、楽しそうな笑顔を浮かべた姫百合が、お盆に新しいお茶セットを載せて戻ってくる。

隣に腰を下ろすと、二人の間にお盆を置いて、香りたつ温かいお茶を二人の湯飲みに注いだ。

見るとお盆の上の皿には大きなどら焼まで載っていて、姫百合が恥ずかしそうに笑う。


「えっと…二人とお喋りしていたら小腹が空いてしまって。」

「俺は何も言ってないぞ?」

「でも口元が少し笑ってますよ先輩?」

「いや、寝る前に結構大きいの食べるなぁって。」

「むぅ、意地悪です先輩。太るって言いたいんですよね!」


頬をぷっくり膨らませて怒る姫百合が何だかリスみたいで、俺は思わずまた笑ってしまった。

そんな俺を見る姫百合も、クスクスと笑いだす。

胸の中のしこりが取れたからだろうか、笑い声はこの夜空みたいに澄んでいて、とても朗らかだ。

そんなに面白いことでもないのに可笑しくて、平穏で、幸せで。

こうして二人、笑いながら一緒にいられることが、嬉しくて仕方なかったんだ。

やがて二人の笑い声が空に抜けていくと、微笑みの中で大きく息を吐き出した。

そよそよと頬を撫でる風に姫百合のシャンプーの匂いが漂ってくる。


「…先輩?」

「ん、どうした?」

「そっちに、行っても良いですか?」


俺が視線を向けると、姫百合は顔を薄く朱に染めながら俯いて、お盆と俺の間を指差していた。

俺は気恥ずかしさに苦笑しながらもそっとお盆を姫百合と反対側へと退かすと、姫百合が座るスペースを空けてやる。


「これで大丈夫か?」

「はい!」


ぱぁっと明るく笑った姫百合がはにかみながら俺の傍に寄ると、ぴったりと俺に寄り掛かってくる。

そのまま上目遣いに俺を見上げると、瞳で"ダメですか?"と言うように不安そうな顔をした。


「むぅ……まぁ、姫百合も頑張ったからな。」

「えへへ、やったー!」


姫百合は無邪気に喜んで更に体重を預けてきた。

それでも小柄な姫百合の身体は軽く、柔らかな温もりが俺の右腕にかかるだけだ。

恥ずかしさから心臓の鼓動が激しくなるのを感じて、もしかしたら腕から姫百合に伝わってしまうんじゃないかと妙な不安が膨らんで、俺はむず痒い緊張感から余計に姫百合を意識してしまった。

でも、不思議だな。

まさかこうして肩を並べて、東京の山奥で空を見上げることになるなんて想像もしなかったよ。

何ヶ月か前、俺が二年に進級し、逢坂龍矢が入学してきた。

その頃は互いに知らなくて、きっとすれ違っても記憶にすら留まらない存在だっただろう。

俺の世界には莉乃姉しかいなくて、心は真耶姉さんしかいなかったのに。

今は姫百合が隣にいて、心には莉乃姉も緋結華も恵恋も…まぁ峰岸も入れといてやろう。

大切な人がいる、その人のために頑張ることがこんなにも力になるだなんて知らなかった。

こんなにも世界が色を変えて見えるだなんて、勿体なかったな。

友達っていいものだな姉さん。


「真也先輩。」

「何だ?」

「ありがとう。」


小さく囁かれたお礼の言葉。

俺は照れ臭くなって、姫百合の頭をくしゃくしゃっと撫でながら笑ってみせた。


「俺は何もできなかったよ、龍矢さんも言ってただろ?今回のことは姫百合が勇気を出して一歩を踏み出せるかどうかにかかっていたって、初めから仕組まれていたことだったんだ。それなのに俺は龍影さんと戦って、そのせいで桔梗には痛い思いをさせてしまった。」


僅かな時間しか一緒にいないけど、桔梗も菖蒲も素直で優しい娘だ。

それなのに俺は、この手で桔梗を攻撃してしまった。

他にやりようもあったろうに、ちゃんと謝らないと。

でも姫百合は頭に置かれた俺の手を取ると、両手で包み込むようにしながら胸の前で強く握った。


「そんなことないです。私は何度もこの手に救われました、何度も先輩の心に癒されました。だからあの日、先輩に打ち明けられて、こうして今があるんです。だからそんな風に言わないでください。」


祈るように告げられた言葉が俺の心に伝わってきた。

それは優しくて甘く、姫百合の花が咲き誇るように、穏やかな言葉。

俺は小さく頷いて、包まれていた手で姫百合の手を握り返す。


「そっか、姫百合の役に立てたか。」

「そうですよ。真也先輩は私の恩人です、返すのが大変なくらい色んなものを貰いました。だからずっと一緒にいてください、じゃないと返せませんから。」


柔らかな微笑みと一緒に、姫百合が俺に抱きついてきた。

胸に顔を埋めるように、横からいっぱいに腕を伸ばして。

俺は身体の向きを変えて姫百合を抱き留めながら、苦笑してまた頭を撫でた。

あぁ、どうやら俺の不安や寂しさは杞憂だったみたいだな。

一緒にいてほしいってことは、これからも並木の町にいるってことだろう。

まるで寂しがり屋みたいだなと思い、少しだけ気恥ずかしい。


「別に何処にも行ったりしないさ。それよりも姫百合はこれからが大変だぞ?」

「…そうですよね。」


気恥ずかしさを誤魔化すように言った言葉に、抱きついたままで姫百合が顔を上げる。


「まずはホントは女の子だってことを学校に伝えないといけないな、凄い反響だと思うけど。」

「そうですね。それができることは嬉しくもあるんですけど、やっぱり一番怖いことですから。」


姫百合が不安そうに眉じりを下げる。

誰もが簡単に理解してくれるものじゃない、中には理由をしつこく訊いてくる奴もいるかもしれない。

根も葉もない噂話や、奇異の視線に曝されることもあるだろう。

女の子の友達と普通に接することもなかっただろうから、女子とのズレも気になる。

だからこそ龍矢さんは、俺のような人物を欲した。

姫百合が一人で苦しまなくて済むように、痛みを共有できる仲間が必要だったんだ。

ホント、孫思いのいい爺さんだな。


「大丈夫だよ、俺たちは変わらないさ。それに、問題はもっと別にある。」

「別にって?」

「男だと思っていた奴がある日突然可愛らしい女の子だったと知らされるんだ、きっと姫百合なら何人も告白してくるぞ?」

「うぁ………。」


ちょっと嫌そうに苦笑する姫百合に笑いかける。


「これからは女の子として扱われるんだから、男子には辟易することもあるかもな。」

「あはは…。あ、そしたら私には真也先輩がいますって答えてもいいですか?」


悪戯っぽい笑みを浮かべて言われた言葉に俺は顔をしかめた。


「勘弁してくれよ、ただでさえ莉乃姉とのことで困る噂も立ってるらしいのに、姫百合までそんな風にふざけたら闇討ちに遭いそうだ。」


峰岸からの又聞きでしかないけど、相当妬みも買ってしまってるみたいだからな。

すると姫百合は急に寂しそうな顔をすると、上げていた顔を伏せた。


「………ふざけてなんかないのに、先輩のバカ。」

「え?」

「ふんだ、鈍感な先輩なんて知りません。」


可愛らしく頬を膨らませた姫百合は、しかし寂しそうに空を見上げた。

俺、また無神経なことを言ってしまったんだろうか。

どうも自分は女心というものが解らない。

以前も何度か莉乃姉が不機嫌になるのを見ているし、大抵それは俺が何かを言った後だった。

何が悪かったのか教えてくれたらいいのに、莉乃姉も他の女の子も決して理由を教えてはくれない。

でも何となく俺から訊くのはもっと無神経な気がして、結局解らないままだ。

それはどんな勉強よりも難しいと思う。

数学みたいな方程式に当てはめられるものじゃないし、暗記すれば解けるものでもない。

昔から人付き合いは苦手だ。

表面上は会話くらいできるし笑顔だって浮かべられるが、結局最後まで相手が解らない。

今まではそれでもどうにかなっていた、時々誰かと話すだけなら解らなくても困らないから。

でもこれからは、きっと違う。

俺は皆と一緒いる中で、学んでいかないといけない。

悲しませたくないから、皆が笑顔であってほしいから。

それに、新学期からは俺も目標があるからな、そのためにももっと人付き合いに慣れておかないと。


「なぁ姫百合。」

「………何ですか?」


少しだけ不機嫌そうに答えた姫百合に苦笑して俺は続ける。


「ありがとな。」

「え?」


何でお礼を言われたのか解らないと言うようにきょとんとした姫百合が俺を見上げてくる。

俺は気恥ずかしさから空を見上げたままで、気持ちが届くように願いながら星を眺めた。


「ずっと一緒にいてほしいって言ってくれただろ?それは今までの俺じゃ言ってもらえない言葉だった。俯いて後ろ…過去にばかり目がいっていた俺の顔を上げさせてくれた、そんな姫百合たちがいるこの世界が綺麗に見えるようになって、一緒に明日を見たいだなんて思える。それだけでも幸せだと感じているのに、こんな俺と姫百合は一緒にいたいと言ってくれた。だから、ありがとう。俺も姫百合と一緒にいたいよ。」


言い切って、俺は視線を姫百合に移す。

姫百合は何て答えようか迷うように口をパクパクさせて、恥ずかしそうに顔を赤らめた。

まだ一月ほどしか経っていないのに、あの体育館での出来事が随分昔のことのように感じて、また嬉しくなる。

腐っていた時間の方が圧倒的に長いのに、あの日から今日までの時間の方がよほど濃密で、キラキラと輝いていた。

辛かった記憶が、幸せな今によって霞んでいく。

よく嫌な思い出の方が強いと言うし、実際中々忘れられないものだ。

でもこの幸せがずっと続くと信じている、繋がった思いは途切れない。

信じている限り、幸せはどんな辛いことよりも強いんだ。


「私、逢坂龍矢で良かったです。」

「どうしたんだよ急に、やっと姫百合としていられるのに。」


今度は俺が戸惑っていると、姫百合が顔を赤らめたまま満面の笑みで言った。


「だって龍矢として生きていたからこそ、こんなに素敵で…大好きになれる人に出逢えたんですから。」

「なっ!?」


俺が驚いて身を固めた隙に、姫百合の潤んだ綺麗な瞳が目の前に迫ってくる。

視界が姫百合で埋め尽くされて、柔らかな温もりが触れて、すぐに離れていく。

姫百合は素早く立ち上がると、そのまま凄い速さで部屋へと走り去ってしまった。


「っ!?」


暫く呆然と見送った俺は、されたことが何だったのか漸く脳に伝わって、ばくばくと暴れる心臓を落ち着けようとして飲んだお茶は、自分に呆れるほど冷たくなっていた。






Himeyuri Side


廊下を走り自分の部屋に着いた頃には、浴衣が汗でびっしょりになっていた。

その暑さの原因が夏の熱気ではなく、唇から発せられたものだというのは良く解っている。

障子を後ろ手に閉めて、震える指先で自分の唇に触れた。

自分では固いのか柔らかいのか判らないけど、そこには先輩の温もりが残っているんじゃないかってくらい熱い。

鼓動はこれでもかというほどに昂ぶっていて、とてもすぐには落ち着きそうになかった。

自分からしておいておかしな話だけど、頭の中は大混乱だ。

あの時、先輩の優しい気持ちが私の中で溢れて、嬉しさで舞い上がりそうだった。

いや、実際舞い上がっていた、じゃなきゃあんなことできるはずがない。

唇をなぞるように指先を動かしてみる。

そこはもう乾いていたけど、胸のドキドキは余計に増してしまった。


「うぅ、とりあえず着替えないと。」


深呼吸しながらそう呟くと、腰帯を緩めながらつい表情が緩む。

キス…しちゃった、凄く気持ち良かったなぁ。

ほんの一瞬だけだったのに、胸がきゅぅってなって、ふわって気持ちになった。

痛いくらいに跳ねる鼓動も、融けそうなほど熱い身体も、全部が心地いい。

夢心地ってきっと今みたいな気持ちのことを言うのだろうと、タンスから新しい浴衣を取出しながら考える。

火照る身体を浴衣で包みながら、ふと自分の身体を見下ろしてみた。

筋肉質で、女性らしい柔らかさなんてないであろう肉付き。

太ってはいないと思うが、比例するように二つの膨らみには乏しく、決して大きいとは言えない。

どうしたら莉乃先輩みたいにスタイル抜群になれるんだろう、緋結華さんだって着痩せしてるだけでかなり大きいし。

体格が似ている恵恋先輩だって儚げな少女らしさがあって、肌も雪のように白くて綺麗だし、顔も莉乃先輩とは違った美人だ。

私には彼女達のような強みがない、先輩との距離もきっと一番遠い。

ネガティブになっていく自分に溜め息を吐きながら、大切な仲間である恋敵に複雑な気持ちになる。

先輩は、誰かを選ぶのかな。

今はまだ先輩が皆に同じように接しているから、鈍感さにやきもきすることはあるけど可能性は残ってる。

だけどもし誰かを選ぶのなら、仲間以上の関係に進んだのなら、選ばれなかった人たちはどうなっちゃうのかな。

離れ離れにはならないと思う、けど絶対に辛い。

目の前に望む人がいるのに手が届かないのは嫌だし悲しい、でも皆を嫌いになんてなりたくないなら受け入れるしかないんだ。

きっとその時にならないとわからないだろうな、自分がどうするかなんて。

………何で私たちがこんなに悩んでるのに、先輩はあぁも鈍感なのかな。

むぅ、もう少し私たちの気持ちに気づいてくれてもいいと思う、違うとは解ってるけど不公平だ。


「先輩のバカ、大好きなんだからちょっとくらい応えてよ…。」


意味のない呟きをしてみるも、当然ながら応えはない。

もう寝よう、明日には並木町に帰らなくちゃ。

先輩だって莉乃先輩に無理を言って来てくれたんだから、なるべく早く戻らなくちゃいけないよね。

それにお爺ちゃんとは和解できたんだし、これからはいつでも帰ってこれるんだ。

皆にも早く会いたい、逢坂姫百合として。

驚くだろうなぁ、緋結華さんだけはもう知ってるから喜んでくれるかな?

そういえば峰岸先輩は何げに正解だったんだよね、あの時は男だって言わざるをえなかったけど。

緊張と嬉しさが半分ずつ、私の胸に満ちていく。

苦しくないドキドキに包まれながら布団に入ると、急に疲れが出てきて微睡み始めた。

今日は疲れたなぁ、でも嬉しいことがたくさんあったから、この微睡みが心地いい。

先輩、格好よかった。

…いつか、先輩の特別になりたいな。

天井の向こうにある満天の星空に願い事をしながら、私はゆっくりと温かな眠りに落ちていった。


Himeyuri Side End






夜明け前、朝靄が漂う森の中を、俺は龍矢さんに連れられて歩いていた。

薄らと明るくなり始めた獣道を進んだ先に見えるのは、大きな武道場。

冷たく静謐な空気の中で佇む質素なそれは、古く傷みを伴っていようとも、力強く健在だ。

そもそも俺がこの建物を眺めている理由は、およそ半刻ほど前にある。

障子を叩く音で目覚めた俺は、黙って部屋の入り口に立つ龍矢さんを見て、ただ一言を告げられて起き上がった。


「桐生真也、我と手合わせ願おうか。」


まぁ、なんとなくこうなるような気がしていたんだ。

実力至上主義であろう逢坂家の当主が、まぐれでも水無月龍影を破った人間の力を直接測らないはずがないだろうと。

案の定予想は当たってしまい、この時に至るわけだ。

厳かな雰囲気を醸し出す引き戸を開けると、少し埃っぽく湿った空気が鼻腔を抜ける。


「すまないな、適度に掃除はしているんだが、なにぶん古い建物だ。」

「いえ、大丈夫です。」


龍矢さんは小さく苦笑しながら、次々と障子窓を開けて空気を入れ換えていく。

埃っぽかった臭いは、すぐに森の涼やかな空気に追い出される。

全ての窓を開け終えると、龍矢さんは道場の中心に正座して、奥の間に向けて頭を下げた。

そこに鎮座する、歴代当主たちの位牌へと。

俺は黙って入り口に立ち尽くしながら、静かに龍矢さんの動きを眺めていた。

何分かそうしていた龍矢さんは不意に立ち上がると、隅に立て掛けてある竹刀の方へ歩いていき、二本を手に取ると俺に投げて寄越した。


「お主は二刀流だと思ったんだが、違うかな?」

「………よくお判りになりましたね。何か理由が?」


そう問うた俺に、龍矢さんは小さく笑う。


「逢坂家最後の龍矢としての勘だな。」

「ご冗談を。貴方は見た目に反して知能的だ、相手を分析するのに勘は使わないでしょう?」


俺が笑みを返してみると、龍矢さんは悪戯がばれた子供のように笑った。


「ガハハハハハ!買いかぶりすぎだな、我も勘に頼ることはあろうよ。」

「そうかもしれません。でも俺ごとき素人を相手に勘なんて使うまでもなさそうですが?」


俺の問い掛けに薄く笑った龍矢さんは、自分も竹刀を手に取りながら答える。


「過ぎたる謙遜は時に挑発とも取られるぞ?いやしかし実に見事、伊達に龍鉄の下で修行したわけではないようだな。」

「………何故俺が二刀流だと?」

「お主の身体を見ていれば判る。お主はよく鍛えた上で左右対称だ、体幹もブレがない。」

「………流石は四神ですか。」


龍矢さんと一緒にいた時間はごく僅か、しかもそのほとんどは食事の席で座っていた。

出入りの際の歩き方や食事の所作で見抜かれたのだとしたら、とても自分では相手にならない。

そんな考えさえも見抜かれたのか、龍矢さんは竹刀を片手で構えながら笑った。


「我に勝とうなどと考えているのならやめておけ。お主は確かに鍛えられているようだが、それはあくまでも"普通"に生きている"人間"の中ではという話だ。」

「………貴方は人間じゃないとでも?」


俺の質問にニヤリと口角を上げた龍矢さんは、丸太のような己の腕を見ながら言う。


「そうだな、我はこの領域に達した時点で己を人間だと思ったことはない。人間として生まれてはきたが、今は人間のカタチをしているだけだ。理想も、思想も、手段も、あらゆることが人の枠組みから逸脱している。」

「よく解りませんが?」

「ガッハッハ、解らずとも構わぬ!我と思考を分かち合えるのはこの世に二人だけだ。」


楽しげに語る龍矢さんは、竹刀を指先だけで弄びながら窓の外を見る。

その横顔が少し寂しそうで、しかしその二人だけというのが誰なのか、どうしても気になってしまった。


「誰なんです、その二人って?」

「ん?あぁ、一人はお主も面識のある小峰だよ。あやつは我に最も近しい存在だ。もう一人は…。」


そこで何故か言葉を切った龍矢さんは、静かに首を横に振った。


「もう一人は我らより重症だな。あそこまで到達してしまうと、恐らく見えている世界を共有できるモノなどいないだろう。過ぎた力は奴を孤高の牢獄に幽閉してしまった、生涯抜け出すことは叶うまい。」

「………確かに、話の次元が違いすぎて理解できそうにないですね。」

「ガッハッハ!左様、我らも理解してもらおうなとど考えておらぬ。人は誰かに理解してもらいたがるが、我らは互いに同類が解るからな、嫌でも近寄ってしまうのだ。………まぁ、そんな話はもう終わりにしようか。」


朗らかに笑っていた龍矢さんが、一変して武人の気配を纏う。

ビリビリと肌が焼けるような重圧が、ただ立っているだけの龍矢さんから伝わってくる。

まるで抜き身の刀を首筋にあてられて、今にも首を落とされる感覚。

呼吸が苦しい。

冷や汗が溢れて背中を伝い、逃げ出したくなる気持ちをなんとか振り払う。

掛け値無しに、あれはヤバい。

真剣に、冗談も何もなく、俺はあれは単体で街を一つ壊し尽くせると、そう思った。

あの人にとって竹刀は武器じゃない。

竹刀が壊れない程度に力を制御するための、いわば手枷なんだろう。

龍矢さんは薄く笑うと、和ませるような口調で言った。


「力を見るだけだから緊張せんでもいいぞ、当然手加減はするからな。この竹刀は盾として持ってるだけだ、我はお主に攻撃するつもりはないぞ。」

「…そりゃあ貴方に攻撃されたら、粉砕骨折でも軽傷だと思えますからね。」

「ガッハッハ、違いない。まぁお主が我に一太刀でも浴びせられたら合格だな。姫百合の傍にいる男として、せめてそれくらいはできねば困るからな。龍鉄に鍛えられた実力、存分に発揮してみせよ。」

「そんなこと言われたら、姫百合のためにも一太刀入れるしかないですね。」


両手の竹刀に力を込めると、真っ直ぐに龍矢さんを見据えて腰を落とす。

相手は俺とは次元の異なる武人、ならば工夫が必要だ。

ただ力任せに潰せる不良などとは比べるのも失礼な相手、そんな人を安心させるためにもこの試練、打ち勝たなければ。

龍矢さんが笑みを浮かべ、竹刀を俺に向ける。


「見事その手で道を切り開いてみせよ桐生真也!」

「はい、お願いします。」

「うむ。では四神が一柱、剛勇の逢坂龍矢、推して参る!」


大気を震わす轟声と共に、俺は強大な壁に始まりの一太刀を入れるため、強く一歩を踏み出した。






Himeyuri Side


「姫百合ちゃん起きて、真也さんが!」


そんな言葉で飛び起きた私は、着替える間も惜しんで桔梗さんと一緒に道場へと走っていた。

先輩がお爺ちゃんと道場で戦ってると聞いた時は、心臓が止まるかと思うほど驚いて、同時に何故なのかと訝しんだ。

だって二人が戦う理由なんて、既に解決したものだと思い込んでいたから。

でも考えてみたら不思議なことはなかったのだ。

武を重んじているお爺ちゃんが、龍影さんを破った先輩の実力を直接確かめないはずがなかった。

しかも先輩は、かつてお爺ちゃんと対等に渡り合ったと言われている水無月龍鉄さんに鍛えられたと聞いている。

止めなくちゃ。

もう先輩には戦ってほしくない、怪我してほしくない。

お爺ちゃんは私が止めることも知っていて、だからこんな早朝から先輩を呼び出したんだと思う。

疑問は晴れて、代わりに怒りに変わる。

まだ先輩は昨日の傷だって痛むはずなのに、それなのに武神と呼ばれるお爺ちゃんと戦うなんて、悪化しても不思議じゃない。

断ってほしかった、けど先輩は全力で立ち向かっていく気がする。

私が関わっている以上、先輩は自分の状況なんて後回しにしてしまうから、そういう人だから。


「先輩……お願いだから無理はしないで。」


その優しさは嬉しい、だけど辛いのだ。

あの人は誰かのためなら無茶なことでもやってしまう、そうできてしまう強さがある。

だけどそれじゃ、先輩が救われない。

いつか取り返しのつかないことになるかもしれない、そんな不安が付きまとうのだ。

普段どれだけ大変なことでも平気な顔をしてこなしてしまうから、ついつい甘えて、忘れてしまうけど。

先輩の傍にいる私たちがそれじゃダメなんだ。


「音がする…姫百合ちゃん!」

「うん、止めさせなきゃ。」


辿り着いた道場の戸を勢い良く開く。

と同時に、先輩が目の前で壁に激突した音が響いた。


「先輩!?」

「っつ、姫百合か。」


先輩は竹刀を支えに立ち上がりながら、正面に立つお爺ちゃんを見据える。

お爺ちゃんは私を一瞥すると、すぐに先輩に視線を戻して笑う。


「今のは速かったが、お前は力任せに戦うのに向いていない。次は速さにもっと意識を向けよ。」

「チッ、よく言うぜ。どうせ止まって見えてんだろ?」

「ガッハッハ、まぁそれは仕方あるまい。」


楽しげに笑うお爺ちゃんと、痛みを我慢しながら竹刀を構える先輩。

私は思わず大声で叫んでいた。


「お爺ちゃんもうやめて!こんなことしてどうするの!?」

「む、どうするとは何だ?」

「先輩の実力を測る意味なんてあるのかって訊いてるの!」


私の大声に驚いたお爺ちゃんが、先輩から視線を外して私に向く。


「孫娘を預ける男の実力を測るのは当主として当然だろう!」

「全っ然当然なんかじゃないよ!時代錯誤なことは止めて逢坂を変えていくって言ってたのに、どうしてそこだけ時代錯誤なままなの!せっかく仲直りできて見直したのに、こんなの酷いよ!」

「む、むぅ…。」

「姫百合、あんまり龍矢さんを責めるのは…。」

「先輩は大人しく休んでください!まだ怪我だって治ってないんですから!」

「むぅ…。」


私の雰囲気に驚いた先輩が、言い掛けた言葉を引っ込めて小さくなる。

ごめんなさい先輩、でも私は今とっても怒ってるんです。


「姫様、龍矢様も色々と考えがあってですね…。」

「龍影さん、ちょっと黙っててください。私はお爺ちゃんと話をしてるんです。」

「………。」


私とお爺ちゃんを交互に見た龍影さんは、諦めたように首を振りながら後ろでぽかんとしている姉妹の傍に引き下がった。

私はお爺ちゃんを睨み付け、驚いたままの先輩に近づいて手を差し出す。


「行きましょう先輩、今日は部屋で休まないと身体に障ります。」

「………姫百合、今回は見逃してくれないか?」

「え?」


予想外の返答に、今度は私が困惑する。


「どうしてですか先輩!?昨日の傷が痛むんでしょう?」

「そうなんだけどさ、龍矢さんの気持ちを考えたら引けないなって。」

「何ですか、お爺ちゃんの気持ちって?」


先輩は小さく笑ってみせると、しっかり立ち上がって私の頭を撫でた。

くすぐったさと心地よさに目を細めていると、先輩はお爺ちゃんを見ながら私に言う。


「この孫娘を溺愛する不器用な武神の気持ちを考えたら、目に入れても痛くない孫娘の傍にいる男として、ちゃんと認めてもらわないとなって。」

「なっ…貴様小僧!何を余計なことを言っている!?」


珍しく狼狽するお爺ちゃんに優しい微笑みを浮かべながら、先輩は竹刀を構え直す。


「龍矢さんが大切に想う女の子を、俺も同じくらい大切に守れるって、皆の前で証明してやる。…そうでしょう龍矢さん?」

「む…当然だ!我に一太刀も入れられん男に姫百合を任せられるか!」


先輩のフォローを受けて開き直ったお爺ちゃんは、恥ずかしさを紛らわすためなのかオーバーリアクション気味に胸を張る。

その様子に苦笑した先輩は、私に顔を向けて笑いかけると、構えを解いて宥めるように頭を撫でてくれた。


「だから…な?龍矢さんの気持ちを汲んで、ちょっと待っててくれるか?」


それは、最上級の微笑みだった。

さっきまでの勢いも憤りも、春の柔らかな陽射しが雪を解かすように、優しく消してしまった。


「………反則です先輩、そんな風にされたら私が悪者みたいです。」

「そんなことない。姫百合が俺の身を案じてくれたのは凄く嬉しいよ。」

「うぅ…。それに、先輩はもう決めてしまったんでしょう?」

「あぁ、ごめんな。」

「もう…いいです。だから…あの偉そうにしてるお爺ちゃんにおもいっきり打ち込んでください。」

「あぁ、約束だ。俺も姫百合の傍にいたいからな。」


そう言って笑った先輩に、私は顔を埋めるように抱きついた。

驚いて、だけどちゃんと背中に手を回してくれる先輩に私は言う。


「無理しちゃ…ダメですよ?」

「大丈夫だよ。」

「先輩の大丈夫は信用できません。」

「じゃあ、今回は信用してくれ。」

「……はい、先輩なら大丈夫です。」


先輩から離れると、すぐに背を向けた。

だって、きっと私は泣きながら笑ってるから。

顔を真っ赤に染めて、嬉しくて幸せで涙が出るのに、先輩が好きで好きで、そんな先輩があんなことを言ってくれるから、嬉しくて幸せで笑ってしまうのだ。

痛いくらいに早い鼓動。

もうダメだよ先輩、私…抑えきれない。

もう本当に、どうしようもないくらいに、このドキドキが教えてくれる。


―――私は真也先輩が、大好きなんだ。


Himeyuri Side End






壁ぎわに移動した姫百合を見届けて、俺は龍矢さんに向き直った。


「龍矢さん、お待たせしました。続きをお願いします。」

「貴様…随分と見せ付けてくれるじゃないか。」

「あ……いや、あのですね。」

「我のことまで曝しおって…もうよいわ!手加減などせぬ!我から孫娘を奪う悪漢は我が武の奥義でもって一瞬で粉砕してくれる!ガッハッハッハッハ!」

「えぇっ!?」

「………お爺ちゃん、最低。」


豪快に理不尽だった龍矢さんが、絶対零度のその言葉に停止した。

錆付いた機械が無理矢理動くように顔を姫百合に向けた龍矢さんは、世界の終わりに遭遇したみたいに言う。


「………嘘であろう?」

「………。」


もう口も利きたくないのか、姫百合は完全に視線を逸らしてしまっている。

そんな絶望感に打ち拉がれる龍矢さんに、更なる追撃が襲った。


「あたしも今のは大人気ないと思うな龍矢様。」

「えっと…私もそう思います。」

「はぁ…龍矢様。」

「お前たちまで!?」


唯一敵にはならなそうな龍影さんにまで溜め息を吐かれ、愕然と竹刀を取り落とす龍矢さん。

最強の武神の心が叩き折られた史上初?の大事件だ。

俺は苦笑すると、脱け殻と化した龍矢さんに近づいて竹刀を拾う。


「龍矢さん、俺は気にしてませんからやりましょう?まぁ、できれば差し支えない程度に手加減はしてほしいですが…。」

「………敵である我に情けをかけると言うのか?」

「俺は貴方を敵とは思ってませんよ。孫娘がいないので正確にとはいきませんが、貴方の気持ちも解るつもりです。」

「おぉ、解ってくれるか!」

「はい、ですからお手柔らかに…くっ!?」


半端じゃない衝撃と同時に、龍矢さんが遠ざかる。

気配に反応して咄嗟に竹刀を盾にしなければ危なかった。

いつの間にか俺の手から奪った竹刀を振り抜いた形で止まっている龍矢さんが、ニヤリと口元に笑みを浮かべたと思うと、構えを崩して大声で笑う。


「ガッハッハッハッハ!今の一太刀を防ぐとは見事なり桐生真也!」

「っつ!?すみません、流石に今のは嫌がらせだと思いました。」

「お爺ちゃん!」

「ガッハッハ!もう我は開き直ったのだ!」


腰に手を当てて豪快に笑う最強の子供っぽさは、愛する孫娘の言葉にも動じずに竹刀を俺に向ける。


「我の気持ちを解っていて先ほどの所業、貴様こそ嫌がらせだろう桐生真也!」

「いや、だからあれは…。」

「問答無用!…と言いたいところだが、味方になってくれたのも事実。故に今ので仕返しは終わりだ、ここからは始めと同じ条件でいくぞ。」

「……なるほど、では改めていきますよ!」


言葉と同時に踏み出して、格闘も織り交ぜた連撃を打ち込んでいく。

それを竹刀一振りで捌いた龍矢さんの薙払いが、容赦なく俺を間合いの外に弾き飛ばす。

大口を叩いたのはいいが、昨日の傷が痛んで身体が重い。

不敵に笑う龍矢さんは、満足そうに言いながら腕を組む。


「ふむ、中々にやるようだが、貴様如きに孫は任せられんな!」

「はぁ……はぁ…、クソッ…化け物かよこの爺さんは。」


竹刀を支えに蹲りながら、圧倒的威圧感を漂わせる巨大な老人を見上げる。

龍矢さんは口に笑みを浮かべながら、筋肉の盛り上がる腕を組んで豪快に笑った。


「ガッハッハ!化け物とは誉め言葉に他ならぬな!されど世界は広いぞ小僧、我より強き者だっておるのだからな!さぁまだ立てるだろう、向かってくるがよい!して、我に一太刀入れてみせよ!」

「チッ、武神相手に一太刀とは………人生最大の難関かもなぁ!」


踏み込むように立ち上がった俺は、二振りの竹刀を構えなおす。

ニヤリと笑った龍矢さんは、かつて中国は長坂で無双を誇った武将のように、どんと構えて叫ぶ。


「かかって来るがよい桐生真也!お主はそんなものではなかろう!あの男が鍛えたのだからな!」

「チッ………言うほど上等なもんじゃねぇっつの!」


踏み出しながら、視界の端に映る姫百合を見る。

待ってろよ、とっとと終わらせて並木に帰ろう。

心配そうな表情に向けて気づくかどうかもわからない小さな笑みを浮かべ、痛みと疲労で倒れそうになる身体に鞭を打つ。

これは姫百合のためじゃない、男のプライドを賭けた戦いだ。

だから龍矢さん、あんたには認めてもらうぞ!






Himeyuri Side


その小さな笑みを見て、私はこの戦いを止めるのを諦めた。

一見無益な戦いだけど、きっと私には解らない譲れない理由があるんだろうってわかったから。

なら黙って待つのも、先輩の傍にいる女の子の務めだ。


「おぉ…凄いね真也さん、気迫が痛いくらいに伝わってくるよ。」


桔梗が感嘆の声を上げて、誰ともなく呟く。

私は桔梗の言葉に頷きで返しながらも、先輩の動きに夢中になっていた。

まるでダンスを踊っているかのように流動的な剣技は、激しくも美しい鳥の羽ばたきに似ている。

翼を使って飛び立つように、竹刀は四方八方から次々とお爺ちゃんを包み込み、その合間に不意に打ち出される蹴り。

ただそれほどの技であっても、お爺ちゃんは竹刀一振りで捌いてしまう。

先輩の動きを先読みして、攻撃より速く竹刀が二人の間に滑り込む。

手加減はしているだろうけど、あれじゃ悪戯に体力を消耗していくだけだ。


「真也さん…辛そうですね。」

「………うん、傷もかなり痛いんだと思う。」

「止めなくて…いいんですか?」


隣でそう言った菖蒲に、私は小さく首を横に振った。


「きっと止めても先輩は戦うと思う。あの人は誰かのためならどんな無茶でもしてしまうから。」

「…そんな気がします。」


菖蒲は頷いてみせ、でもと前置きしてから私を見た。


「もう姫……百合さんのために戦わなくていいのに、真也さんは誰のために戦ってるんですか?」


私の呼び方を口ごもった菖蒲に親しみを感じながら、私は楽しそうに笑っているお爺ちゃんを見る。


「先輩はね、お爺ちゃんのために戦ってるんだよ。」

「龍矢様のために?」

「うん。私を心配してくれてるお爺ちゃんを少しでも安心させるために、ちゃんと認めてもらおうとしてる。」

「…お人好しすぎますね。」


菖蒲は柔らかく微笑んだ。

真也先輩がそういう人で嬉しいと言うように。


「きっとお爺ちゃんはとっくに先輩を認めてるのに、素直じゃないよね。」

「そうですね。真也さんが姫百合さんと一緒にここまで来た時点で、龍矢様は認めていたんだと思います。」

「まったく、それなのにお爺ちゃんは。絶対楽しそうだからって先輩を呼び出したんだよ。」

「はっはっは、まぁまぁ姫様、どうぞ龍矢様を許してやってください。」


それまで二人の戦いを黙って眺めていた龍影さんが、お爺ちゃんみたいに楽しそうな笑みを浮かべて言った。


「確かに戯れに一勝負したかったのもあるでしょうが、我々のような者はどうしてもこういった接し方しか知らぬのです。」

「…拳で語り合うみたいなものですか?」

「左様。戦いとは本能を剥き出しにして、互いの気持ちや気迫をぶつけ合うもの。それは言葉に表すよりも素直で、我々には聞き取りやすいのです。故に龍矢様は改めて確かめたかったのでしょうな。」

「何を確かめるんですか?」


私の問いかけに龍影さんは小さく笑うと、私を見て微笑んだ。


「あの少年が、真剣に姫様を大切に思っているかということですよ。」

「…っ!」


言われた意味に気がついて、顔が一気に熱くなる。

龍影さんは満足そうに頷いてから、何度弾かれても立ち向かう先輩に視線を移した。


「彼は確かにお人好しで、姫様のためにここまで来て戦った。しかしどうやら彼は姫様の気持ちには気づいていないようです。」

「龍影さんっ!?」


私が続きを遮ろうとすると、龍影さんは初めて見る朗らかさで笑う。


「良いではありませぬか。我らが姫様の頃の時代、恋愛などは無縁でございました。互いに想いを伝合って結ばれるなど、願う感覚すら持ち合わせぬ寂しい家柄でした。しかし今、彼が姫様を解き放ってくれたことで、我らは大手を振ってその想いを見守ることができます。」

「………龍影さん。」

「悲しいお顔をなさらぬよう。我とてそのような時代の中でも、妻を愛する気持ちに偽りなどなかったのです。しかし声に出して想いを伝えるのが憚られる故、結局最期まで伝えること叶わなかった。それは龍矢様とて同じこと。だから姫様には、我らと違う今、想い、伝えることができる自由を満喫してほしいのです。もちろん桔梗と菖蒲にもな。」


優しい、家族としての微笑みを浮かべた龍影さんに、二人は嬉しそうに頷く。


「お祖父様……。」

「うん…そうだね。ありがとうお祖父様。」

「礼なら彼に言ってやりなさい。逢坂と水無月の鎖を断ち切ってくれたのは他でもない彼だ、我と龍矢様はその下準備をしたにすぎぬ。彼は我らさえ、しがらみから解放してくれたのだから。」

「はい、そうします。」

「あはは、真也さんには頭が上がらないね。」

「左様。故に二人とも、存分に生きよ。それこそ彼への恩返しになろう。」

『はいっ!』


力強く返事をする二人に龍影さんは満足そうに頷くと、先輩に視線を向けて言った。


「彼はきっとこれから様々な人を幸せにして生きていくのでしょう。ですがそれは茨の道、決して楽な道中ではござらぬ。それこそ、龍矢様に一太刀さえ入れられぬようでは到底叶わぬほどに過酷だ。だからこの戦いは、龍矢様から桐生真也への激励なのですよ姫様。彼が道中膝をついてしまわない強さを持っているのか、困難を打ち砕く意志を貫けるのか、それを確かめているのです。」

「………はい。」


そう、龍影さんの言う通りだ。

先輩はきっとたくさん苦労する。

これからも誰かのために、一生懸命になって困難と戦い続ける。

それは確固たる強さを持っていなければ挫けてしまう生き方だ。

ほとんどの人は途中で諦めてしまう、そんな生き方。

でも、先輩は諦めないと思う。

だって、自分のためだけに生きている先輩を、私はまったく想像できないのだ。

………支えたい。

私はそんな先輩を、傍で支えて、力になりたい。

大好きだから、尊敬してるから、ただ傍にいるだけじゃなく、羽ばたき続ける先輩が心から安らげる止まり木のような、そんな存在でいたい。

胸の前で組んだ手に力を込める。

身勝手な願いかもしれないけど、どうかお願い。


「…先輩。」


強く強く、願う。


「先輩!負けるなー!!」



Himeyuri Side End






「先輩!負けるなー!!」


龍矢さんに打ち込む竹刀の音をかき消すような声援が、朝の冷たい道場の空気を震わせた。

直後に打ち込まれた龍矢さんの一太刀を躱すと、横薙の一閃で牽制しつつ後退する。

龍矢さんが追撃してこないことを警戒しながら、竹刀を杖に深呼吸した。

腹部の痛みが激しい、おまけに握力も徐々に落ちてきている。

だけど不思議と、失いかけていた気力は回復した。

自然と笑みが浮かぶ。

あの予想外の声援は、心地よかった。

本当に一太刀入れられるのかだなんて迷いを、ものの見事に吹き飛ばしてくれたんだ。

そうだな、負けたくないさ。

深く長い呼吸で、身体の中の弱気を吐き出す。

きっと体力的に次の攻撃でラストだ、そういう気持ちで全てを賭ける。

届けよ俺、あの鉄壁をブチ破れ。

しっかりと立ち上がって両手の竹刀を下段に構えると、真っ直ぐに龍矢さんの目を見た。

龍矢さんはニヤリと笑うと、感心したような声を出す。


「ほぉ、まだそんな目ができるとは、伊達に龍鉄に鍛えられてないな。思うに、次で決めるつもりだろう?」

「はい、姫百合の気持ちに応えたいですから。」

「……まったく、苦労しそうだな我が孫娘は。」

「はい?」

「気にするな、それだけの価値がお主にはあろうよ。」

「はぁ。」


意味が解らず疑問符を浮かべていると、龍矢さんが構えた。


「さぁ来るがよい!我に渾身の一太刀を入れてみせよ桐生真也!」

「…あぁ、遂げてみせるぜ。姫百合の声援を無駄にしないためにもな!」


走りだす。

揺るぎない思いを両手に携えて、歩きだした華奢な女の子の不安や苦悩を、分かち合える存在と認められるために。

貴方の孫娘を愛する気持ちに、少しでも報えるのなら。

強く踏み出した一歩が、自らを弾丸の如く撃ちだす。

刹那に辿り着く最高速。

急接近する龍矢さんに向けて、速さを生かした連撃を打ち込んだ。

容易く捌かれた直後、腕を振り払う力を使って素早く攻撃位置を変えていく。

度重なる酷使で、引き千切れそうな痛みが両腕を駆け抜けた。

それでも止めはしない。

僅かな時間でも龍矢さんの視界から外れるように、ギリギリの距離まで肉薄し、攻撃しながらも脇を擦り抜ける。

一つは視界の中から、もう一つは視界の外から。

技の練度も身体能力でも圧倒的に劣る俺が一撃を入れるなら、たった一度のチャンスに賭けるしかない。

もう、そろそろだ。

失敗すれば今まで以上に手痛い反撃を受けることになる。

でもきっと、龍矢さんなら大丈夫だ。

信じてるぜ龍矢さん、アンタの最強ってやつを。

さぁ、行くぞ!

約三歩の間合いを離し、すぐさま跳ね返るように間合いを詰める。

左足を前に出して、右腕を大きく上げた。

二歩目の右足を前に出すと同時に、短く息を吐いて右腕を上段から振り下ろす。

そしてその勢いを以て、竹刀を槍のように投てきした。


「む?」

「はあっ!」


間髪入れず、左足を前へ。

竹刀を投げた動きで掴んだ竹刀を、身体の影から両手で振り抜く。

先ほどよりも僅かに速い一太刀。

慣れ始めていた速さの上をいく速さで、先に投げた竹刀と同時に左右から叩き込む。


「届けよ!」

「ぬぅ!甘いわ!」


龍矢さんの化け物じみた速さが僅かな動作で飛んできた竹刀を弾くと、返す刀で俺の握る竹刀をも叩き落としにくる。

目の前を掠めていく神速の一太刀が、逆袈裟から振り上げた俺の竹刀に直撃した。


「ならもう一発だ!」

「何っ!?」


龍矢さんの攻撃に耐えきれなかった竹刀が、爆発したように派手な音を響かせて破砕する。

掴んでいる俺の手のひらごと砕きそうな破壊力。

だがその衝撃も、今の俺には届かない。

二つ目の竹刀さえ手放した、今の俺には。


「はぁぁぁぁあ!」


四歩目の右足を軸にして、龍矢さんの左腕側面を擦り抜ける。

視線の先には、竹刀を振り下ろしたままの姿でこちらを振り返る龍矢さんの背中。

そして床を跳ね上がる、龍矢さんが弾いた一つ目の竹刀。

視線は龍矢さんに向けたまま身体を回しながら、左腕を精一杯伸ばす。

これを掴めなければ、一太刀は入らない。

届け………届け!

パシッ!

手のひらから伝わってくる確かな感触。

細い細い微かな可能性たちが、俺の手の中で紡がれる。

届いたぜ姫百合、一か八かの綱渡りが。

もうアンコールはないから、よく見ておいてくれよ。


「うぉぉぉぉ!!」

「見事なり!」


満足げに笑う龍矢さんの背中に、俺の竹刀がブチ当たる。


「ぐぁっ!」


龍矢さんの鋼の肉体に当たった竹刀から、痺れるほどの衝撃が返ってくる。

思わず放した竹刀が、音を立てて転がっていった。

だがこれで、


「俺の…勝ちですね。」

「あぁ、我の負けだな。」


ニヤリと笑った龍矢さんが、痛みに蹲っている俺に手を差し出す。


「真也、孫娘を頼むぞ。」

「………友達ですから。」


笑い返してその手を掴む。

そして僅かな静寂ののち、弾けるような歓声が道場に満たされた。






「その傷で帰ろうなどとは、お主もやけにせっかちだな。もう一晩休んでいっても変わらぬだろうに。」

「いや、待たせると後が怖い人を残してきてるので。」

「ほぉ、さてはこれじゃな?」

「ち、違います!姉みたいな人ですよ。」


ニヤニヤ笑いながら小指だけを立てた龍矢さんに説明しながら、俺はまとめた荷物を持ち直す。

お昼にさしかかった逢坂家の門前。

俺たちは並木へと帰るために、出発前の別れを惜しんでいた。

少し離れた所では、水無月姉妹に囲まれた姫百合が、涙目になりながらお別れに抱き合っている。

それを俺と龍矢さん、龍影さんの三人で眺めながら、ふと龍矢さんが訊いてきた。


「そういえば、龍鉄の奴は元気にしているのか?」

「はい、無駄に元気ですよ。この前も帰った途端に組み手だの仕事だのと付き合わされて、俺としてはもう少し大人しくしてほしいです。」

「ガッハッハ、それは何よりだ。うむ、元気ならばそれでよい。」


感慨深そうに目を細めて笑う龍矢さんは、肩の荷が降りたように安心しているように見えた。

きっとずっと気にしていたんだろう。

かつて道を違えてしまった友人の安否を、再び歩み寄れるそんな機会が来ることを。


「そういえば真也、何故あのような戦法を選べたのだ?一つでも上手くいかなければ失敗するような動きだっただろう。」

「あぁっと…龍矢さんを見てたら一度も竹刀以外で俺に反撃してこなかったし、防御の時も竹刀しか使わなかったからですね。」


それは公言していないだけで、龍矢さんが絶対に守る手加減だと思ったのだ。

だから竹刀を如何にして封じるか、それが上手くいくかが綱渡りだった。

速さの誤差も、投げた竹刀が弾かれる位置も、それを一度のチャンスで掴めるのかも、どれが失敗してもあの一太刀は生まれない。


「龍矢さんが竹刀でしか攻撃も防御もしないだろうと仮定して、一連の動きを組み立てました。ただそれでも、最後の瞬間は恐かった。」

「あそこまで遣り遂げて、何が恐かったのだ?」

「あの一太刀を打ち込む瞬間、龍矢さんが武神の反射運動で直接蹴りを入れてくる可能性があったからです。当然打ち込まれたら命はないでしょうから。」

「ガッハッハ!大した度胸だな、よくぞその恐怖を打ち破った。」


豪快に笑う龍矢さんは嬉しそうで、満足してもらえたみたいだ。

すると隣で話を聞いていた龍影さんが俺へと歩み出て、袖の下から手のひらほどの大きさの丸い箱を取り出した。


「我が調合した水無月秘伝の塗り薬だ、打ち身の箇所に薄く塗って包帯を巻いておくとよい、市販の湿布よりは治りが早かろう。」

「あ、すみませんわざわざ。ありがとうございます。」

「なに礼には及ばぬ、むしろ我こそ感謝している。ありがとう桐生真也、お主には感謝してもしきれぬ。」


龍影さんから薬を受け取りながら、互いに頭を下げた。

二人にとって長い戦いが今、ようやく終わりを迎えたんだ。

俺が笑顔を向けると、二人は顔を見合わせてから小さな笑みを浮かべて、拳を突き出してきた。


「また来るがよい真也、今度は二人の友人も連れてな。」

「その時は最後の当主が、最高のもてなしをしよう。」

「はい、また会いに来ます。」


自分の拳を、二人の拳に軽くぶつける。

姫百合も別れを終えて、俺の方へと小走りにやってきた。

姫百合が柔らかく微笑んで、弾むように言う。


「帰りましょう先輩、私たちの街に。」

「そうだな、逢坂姫百合として再出発だ。」

「…はいっ!」


ようやく咲き誇る姫百合の花が、木漏れ日の下でキラキラと輝いた。


「バイバーイ二人ともー!また会いに来てねー!」

「お料理の腕を、もっと研いておきます。」

「我も更なる鍛練をしておこうかの。次は本気でいくぞ真也殿。」


遠ざかっていく三人が、手を振りながら笑っている。


「真也!姫百合!」


武神の咆哮に似た声が、逢坂の森を震わせた。

俺たちは立ち止まり、腕を組んでニヤリと笑う龍矢さんを仰ぎ見る。

龍矢さんは拳を突き出して、高らかに叫ぶ。


「紡いでいけ、お前たちの物語を!」


その言葉に俺たちは顔を見合わせ、拳を返した。

俺たちのありがとうが、龍矢さんに届くように。

ゆっくりと遠ざかっていく四人に手を振りながら、俺たちは並木への帰路についたのだった。






夜も遅く、星たちが月と共に明るく空に瞬く頃。

並木駅へと降り立った俺たちは、どっぷりと身体を支配する疲労感に肩を落としていた。

もはや指を引っ掛けているだけのキャリーケースを引きながら、馴れ親しんだ改札を抜けて外へと出る。

夏のじめっとした夜風が頬を撫でて、昨晩の山の冷たい風を思い出して恋しくなるほどだ。

おまけに身体中に痛みがあり、割高だがタクシーを本気で使おうか迷ってしまう。

隣を見ると疲れからかどんよりとした雰囲気の姫百合が、今にも寝てしまいそうな表情で俺を見上げていた。


「やっと帰ってこれましたね先輩。」

「あぁ、流石に疲れたな。」

「えっと…家まで大変でしょうから、良かったらウチにでも、師匠も事情は知っていますから。」

「あぁ…いや、それは悪い…。」

「そうだな、真也は今から朝まであたしとお話だ。」

『っ!?』


突然話に紛れ込んだ聞き覚えがありすぎる声に、二人して顔を見合わせたまま固まった。

油を差してない機械のようにギクシャクした動きで声のした方を向くと、部屋着にサンダルを引っ掛けただけの姿で腕を組み仁王立ちする莉乃姉が、結んでない綺麗な長い黒髪を夏の風になびかせてこちらを睨んでいる。

いや、実際は満面の笑みを浮かべているのだが、それは何処からか極上の笑顔をプリントアウトして貼りつけたみたいに薄っぺらな擬態だ。

暑さが原因ではない汗が背中をびっしょりに濡らし、今すぐ逃げ出したい衝動をなんとか押さえ込んでどうにか笑顔を作る。


「よ、よぉ莉乃姉、そんな格好でこんな時間にどうした?か、買い物か?」


ダメだ噛んだ終わった。

大体木野塚商店街の間近に住んでる莉乃姉がわざわざ隣町を横断するほど遠い駅前まで買い物なんて、話を逸らすにしたってあまりに酷い。

しかも上ずった声で言うなんて、誰が聞いてても溜め息を吐きたくなる無様さだ。

案の定莉乃姉の口元がピクピクと震え始め、僅かだが眉間にも皺が寄っている。


「あぁそうだよ真也、ちょっと買い物に来たんだ。早急に入り用でな、しかもこの時間の並木駅でしか手に入らないと思ってな。」

「そ、それは大変だな。良かったら送って行くぞ、夜道は危ないからさ。」

「あはは、わざわざすまないな真也。」

「き、気にするなよ莉乃姉。」


正直に言おう、龍矢さんや龍影さんと対峙した時の方が幾分か怖くない。

話を合わせてくるのも怖いが、さっきから嵐の前の静けさみたいに笑ったままの莉乃姉が、既に爆発数秒前なんだとなんとなく解ってしまった。

隣の姫百合は莉乃姉から伝わる威圧感にあてられて、直立不動のまま薄ら涙目になっている。

マズい、多分莉乃姉の怒りを収めない限り朝まで付き合わされかねない。

自分の身の安静と無事に姫百合を帰すためには、受け答えに失敗しないよう細心の注意を払わないと。

俺は荷物から手を離すと、爆弾処理班のような気分でゆっくりと莉乃姉に歩み寄った。


「えっと…、ただいま莉乃姉。」

「あぁおかえり真也、何だか雰囲気がやたらと可愛くなった逢坂との旅は楽しかったか?」

「う、それにはちゃんと事情があってだな。」

「それについてはきちんと説明してくれるって言ってたからな、明日にでも二人からゆっくり聞かせてもらうよ。」

「あ、あぁ。そうだな。」


手に汗にぎるとはこのことかと、まさに実感していた。

莉乃姉は変わらずに表情を崩さないが、だがどうにか会話にはなっている。

このままとりあえず姫百合だけでも帰せればどうにか。


「ごめんなさい莉乃先輩!私が無理を言って真也先輩についてきてもらったんです!だからその、あまり先輩を怒らないであげてください!」


いきなり後ろから響いた謝罪に俺が振り返ると、姫百合が直角に腰を折って頭を下げていた。

どうやら状況を見兼ねて助け船を出してくれたらしい。


「私?真也先輩?」

「あ、ちょい姫百合…。」

「姫百合ぃ?」


むしろ火に油だった、しかも名前を呼んだことで灯油を放り込んだのは俺らしい。

もはや笑顔を保てなくなった莉乃姉が、俺の腕を引いて抱き締めると姫百合から距離を取った。

つか異様に感触が生々しいんだが、もしかして莉乃姉下に何も着てないんじゃ。


「真也は渡さないぞ逢坂!…姫百合って名前の女の子になったのか?だとしたら余計にダメだ!大体二日も占有してたんだからもう十分だな、よし真也帰るぞ!」

「ちょっ莉乃姉!?」

「先輩を乱暴にしないてください!」


今度は反対側の腕を姫百合に抱き締められ、ぐいぐいと引っ張られる。


「先輩は私のために頑張ってくれて疲れてるんです!だから私が癒えるまで面倒を見るのが当然です、今夜はここから近いウチに泊まってもらうんです!」

「いや姫百合、俺は家に帰りたいんだが…。」

「一人じゃ身体の全部に薬は塗れませんよね?私がお手伝いしますから、先輩はゆっくりしていていいですから。」

「うぐ…。」


姫百合の言う通りではあるんだが、ついていったら余計に疲れそうな気がするんだ、主に精神的な面で。

すると今度は莉乃姉が更に腕を強く抱いて、身体を密着させてきた。

洒落にならない感触に加えて、心配そうに潤んだ瞳で俺を見上げてくる。


「怪我してるのか真也?」

「ん、あぁ…ちょっとだけな。」

「何で早くそれを言わないんだ!荷物持ってやるから早く帰ろう、すぐに手当てしてやるから。」

「あ、いや大丈夫だって、自分でやるからさ。」


むしろ離れてほしい、俺の自制心が崩壊しないうちに。

さっきから腕を包み込む感触が精神衛生上大変よろしくない。


「先輩を看病するのは私です莉乃先輩、そもそも私が原因なんですから。」


そこで更なる爆弾を投下する姫百合に対し、莉乃姉も対抗意識を燃え上がらせた。


「何だと?あたしは真也の幼なじみだぞ、誰よりも真也のことを知っている!」

「わ、私だって、その…先輩の唇の感触まで知っていますから!」

「っ!?」


莉乃姉が言葉をなくして俺を見上げる。

あぁ姫百合、なんつう核爆弾を投げるんだ。

でもあれは姫百合が勝手に、だなんてことは言えない。

ははは、俺は今日無事に帰れるのか?

まさか並木町に帰ってきてからラスボスだとは思ってもみなかったなぁ。


「ぅぅっ………真也!あたしとももう一回!」

「ちょっ、待て莉乃姉!?」


おもむろに俺の首に腕を絡めてきた莉乃姉が唇を近づけてくる。

それを見た姫百合も不満そうに頬を膨らませて俺の腕を強く抱く。


「先輩、もう一回って何ですか?莉乃先輩ともキスしたんですか!?」

「いやその、色々あってだな…。」

「言ってやれ真也、あたしたちはもう結婚を約束した仲だって!そしてもう一回誓いの口づけを!」

「そんなの不公平です!私にももう一回!」

「あのな、二人して無茶は…。」

「真也!」

「先輩!」

「あぁ、もう。」


帰って来たのがこの時間で良かった、帰宅ラッシュが終わってるから幾分周りを歩いている人も少ない。

でも通行人からの突き刺さるような視線が、着実に俺の疲労感を増加させていく。

そんな目で見ないでほしい、羨ましいと言うなら代わってやるから。

なぁ姉さん、俺はどこから間違えたんだろうな。

………あ、恵恋にお土産買ってきてねぇ。

ぐらぐらと左右から揺らされながら、明日は大変だろうな何て他人事みたいに考えていた。

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