Day.14 譲れないもの
空高くそびえ立つ白く大きな入道雲が、今日も太陽は休むことなく日本列島を灼熱に満たすことを朝っぱらから教えてくれる。
愉快な気持ちにはなれないそんなお知らせをビルの隙間に眺めながら、俺はキャリーケースを引いて歩いていた。
まだ本日の最高気温には到達していないお陰で幾分かはマシなものの暑いことには変わりなく、額や首筋に浮かんだ汗が、あちこちで玉となって肌を伝い落ちていく。
夏休みはそれほど長くなくとも、この暑さはまだまだ長引きそうだな。
八月の後半ともなれば、いよいよ手付かずの宿題を料理しなければならない時期。
結局この前ほとんど宿題を進められなかった峰岸は、今頃数字やアルファベットが並ぶノートを眉間に皺寄せて睨み付け、イコールが示す先を導きだしていることだろう。
しかしホントに大丈夫なのだろうか、少し心配になってきた。
あいつの勉学の弱さは残念ながら折り紙つきだ、何しろ動物保護の令を干物と結びつけるような思考回路だからな。
暑さのせいでそんな下らないことを考えながら歩いていると、並木駅の改札口が見えてきた。
真面目な姫百合のことだ、恐らく随分と早く待ち合わせ場所に着いて待っていることだろう。
それを見越して俺も早めに出てきてはいるが、あまり待たせてないといいが。
通行人が行き交う中を切符売場に近づいていくと、姫百合はすぐに見つかった。
というより、改札口にいる誰もがその存在に視線を向けていた。
今どき珍しい真っ白なワンピース。
ふわりと風で波打つその裾から覗く足にはちょこんとお洒落なサンダルを引っ掛けて、肩から指先にかけては綺麗な肌を見せている。
それだけでも目立つというのに、背筋を伸ばして凛と立っているものだから余計に目を引く。
でも何故か可愛い顔が緊張で強ばっているからか、多分俺が無関係だったとしても気になってしまうだろう。
面白いくらいに悪目立ちした姫百合に苦笑しながら近づいていくと、気づいた姫百合は急にパッと顔を明るくして手を挙げた。
「先輩っ、こっちです!」
「あぁ、おはよう姫百合。」
俺も姫百合に倣って手を挙げると、人混みを避けながら姫百合の前に到着する。
俺が笑いかけると照れ臭そうにはにかんで、肩からかけていた可愛らしいポーチからチケットを入れる用の封筒を取り出した。
出てきたのは新幹線の乗車券が二枚。
「あぁ、もう用意してくれてたのか。悪いな、幾ら出せばいい?」
俺がそう言って財布を出そうとすると、姫百合は大袈裟なくらい手を振ってそれを制した。
「大丈夫です、気にしないでください。私が無理を言って来てもらうのにお金なんて出させるわけにはいきません。」
「いやそうは言ってもな、新幹線のチケットって結構高いだろう。隣町までの切符とは桁から違うんだし、流石に気にするぞ。」
「ホントに大丈夫ですから、お気持ちだけ受け取っておきます。それに先輩が一緒にいてくれるだけでも心強いですから、これくらい安いです。」
「…まぁ、姫百合がいいならお言葉に甘えるが。でも奢られるのはこれだけだぞ、他は自分で出すから。」
「はい、わかりました。」
小さく頷いた姫百合からチケットを受け取って財布にしまうと、改札の上に表示された電光掲示板の時間に視線を向けた。
この街の電車は東京で言うところの山手線と同じような方式だから、どれに乗っても必ずどの駅にも停まるようになっていて、時間の調節もしやすくなっている。
10分おきに表示されている時間を見ながら、自分の腕時計を確認した。
「そろそろ電車が来るな。姫百合、時間的に余裕はあるのか?」
「それほどないですね、先輩の準備が良ければあれに乗りましょう。」
「よし、なら行こうか。」
「はいっ、よろしくお願いします!」
満面の笑みを浮かべた姫百合と一緒に改札を抜ける。
二人だけで穏やかな旅ってはならないだろうけど、せめて向こうに着くまでは姫百合が楽しめればいいと思いながら。
車窓を駆け抜けていく景色を眺めながら、俺たちは木野塚駅で買った駅弁で早めの昼食を摂っていた。
因みに俺は鳥の照り焼きが乗っているやつで、姫百合は海鮮系の弁当だ。
味はまぁ、こんなもんだろうって感じだが、こういうのは雰囲気が美味しさを割り増ししてくれるんだろうな。
普段莉乃姉の料理ばかり食べてるお陰で、人より舌が肥えてる可能性も否めないが。
逆に姫百合は海鮮弁当が気に入ったのか、美味しそうに顔を綻ばせて喜んでいる。
「先輩、このサーモン凄く美味しいです!脂が口の中でじゅわーってなります。」
「へぇ、よかったじゃないか。俺も海鮮にすればよかったかな。」
日頃から和食を食べてるからだろうか、つい食べ慣れた物を選んだのが失敗だった。
普段の味付けとの違いを違和感として感じてしまうとは、我ながら大人気なく思う。
そんな感情が面に出てしまっていたのか、姫百合が少し上目遣いになりながら俺を見つめてくる。
「あの…良かったら食べますか?」
「ん?あぁいや、そういうつもりで言ったんじゃないぞ?」
「でも、あんまり美味しそうじゃなさそうだから。」
「いやいや、これも十分に美味いよ。ただ普段から莉乃姉の料理を食べてるからか、ちょっと違和感を感じただけで。」
言いながら失敗したなと思う。
これじゃせっかくの雰囲気が台無しだ、姫百合の楽しそうな笑顔が曇ってしまった。
でも姫百合は箸を口に咥えたまま考えるような仕草をすると、あからさまに視線を窓の外に逸らしながら呟く。
「…その、口を開けてください。」
「は?」
「ですから……ちょっと口を開けてください。」
「あぁ。」
とりあえず頷いて、言われた通りに口を開ける。
すると姫百合は海鮮弁当の一角を箸で取ると、顔を赤らめながら身を乗り出した。
「あーん。」
「っ!?」
反射的に閉じようとした口を開けたまま、己の迂闊さを嘆く。
くっ、まさか姫百合がそうくるなんて、油断した。
莉乃姉ならいざ知らず、姫百合にこんなことされるなんて。
でも今更あとには引けない。
俺の失言から姫百合が恥ずかしがりながらも頑張っているんだ、ここで拒否するなんて最低すぎる。
めちゃくちゃに恥ずかしいが、甘んじて乗るしかないか。
意を決してゆっくりと口を近づけていく。
目の前にある姫百合の真っ赤な顔。
お互いに視線は定まらず、紅色の頬や桃色の唇にキョロキョロと動き回る。
そして漸く箸が俺の口へと弁当を届けた瞬間。
バッチリと視線が合った。
潤んだ綺麗な瞳に、狼狽した俺の顔が映っている。
一瞬がどれだけ長かったのか、見つめ合っていた俺たちには判らない。
「うふふ。」
そんな傍を歩いていった女性が溢した笑い声が、止まっていた俺たちの時間を動かしてくれた。
お互いにはっと我に返って、慌てて距離を離す。
急激に加速する胸の鼓動が、身体中を巡って体温を上げていく。
二人して深呼吸を繰り返し徐々に落ち着きを取り戻すと、それでも薄らと赤い頬のまま姫百合が苦笑する。
「あはは…は、恥ずかしいですねこれ。」
「あぁ、心臓が破裂するかと思ったぞ。」
「えへへ、でも一度くらいやってみたかったんですよ。願いが一つ叶っちゃいました。」
嬉しそうに笑顔を見せた姫百合に、俺はふと自分の弁当を見る。
照り焼きを食べやすいように小さくすると、金糸卵とご飯の上に乗せて、ゆっくりと姫百合に差し出す。
「ほら姫百合、口あけて。」
「えぇ!?わ、私もですか!?」
「姫百合もあーんってやられる側の気持ちを知っておけ、凄い恥ずかしいぞ。」
「うぅ、既に恥ずかしすぎて泣きそうですよ~。」
さっきよりも頬を赤くして、それでもその小さな口を開ける。
「姫百合、そんな小さく開けてても食べさせられないんだが?」
「はぅ、そんなこと言われても恥ずかしいですもん。」
「な、長引くとお互いに大変だろ?」
「……そ、そうですね。」
さっきよりも少しだけ大きく開いた口に、ゆっくりと箸を運んでいく。
零さないように気をつけていたらやっぱり顔は近づいてしまって、込み上げてくる恥ずかしさを誤魔化そうと、震える唇で声を出す。
「あ、あーん。」
「は、はいっ。」
咄嗟に目をつぶった姫百合の口に弁当を入れると、もぐもぐと咀嚼する姫百合を見ながら訊いてみる。
「美味いか?」
「………。」
恥ずかしそうに俺を見る姫百合は、飲み込んでから俯いて、か細い声で呟いた。
「何だか、ドキドキしすぎて味が判らなかったです。………なので、もう一回…とか。」
「えっ!?」
「ダメ……ですか?」
姫百合、その上目遣いは反則だろう、サッカーなら即レッドカードだ。
にしても柄にもないことをしてるな俺は、成り行きとはいえ普段なら絶対やらないのに、実は浮かれてるのか?
そうして何度かお互いに食べさせ合っていると、気がつけば弁当は二つとも空になっていて、少しは落ち着きも取り戻していた。
二人で食後の紅茶を飲んでいると、窓の外の景色が段々と変わっていく。
家々は平屋から二階建やアパートなどになり始め、庭の広さは徐々に狭くなる。
古いものが除かれて、新しいものに変えられていく。
この国の首都、それが段々と近づいてきた。
姫百合の方を見ると、その視線は真っ直ぐに、新幹線の行くその先を見ているようだ。
緊張しているのかその表情は硬く、唇はきゅっと結ばれている。
無理もない。
話に聞いただけでしかないが、姫百合はこれまでのあらゆることにケリをつけに行くのだから。
抑圧され封じられてきた思いや願い、それを叶えるために。
俺はそっと身を乗り出すと、姫百合の柔らかい髪を撫でた。
よほど集中していたのか、俺の手が触れた途端にびくっと肩を震わせると、不思議そうに俺を見上げてくる。
「え、急にどうしたんですか?」
「いや、随分緊張してるみたいだから解せたらなって。」
「あ、ありがとうございます。」
「せっかく可愛らしい格好してるのに、そんな怖い顔してちゃ台無しだ。今はまだ、気持ちを落ち着けていても良いんじゃないか?」
俺がそう言うと、姫百合は目を見開いて小さく頷き俯いてしまった。
あれ、もしかして余計なお世話だったか?
不躾に頭を撫でたりしてるし、真面目な雰囲気を茶化してしまったのかも。
不安になりながら撫でるのを止めて、元の位置に静かに座る。
そんな俺の不安とは裏腹に、姫百合は花咲くような笑顔を見せたかと思うと、ぴょこんと立ち上がって俺の隣に座ってきた。
しかもふわりとシャンプーの匂いがする頭を俺の肩へ押しつけるように寄せて、その手はそっと俺の手に重ねるように触れる。
「お言葉に甘えて、今はまだ真也先輩だけが知ってる姫百合でいさせてください。」
「…あぁ、そうしてくれ。逢坂次期当主なんて立場も責任も、そんなのは家に着いてから考えれば良いんだ。少なくとも、今は俺と姫百合の二人だけなんだから。」
「はい、ありがとうございます。」
安心しきった穏やかな表情で、姫百合は目を閉じた。
俺の腕から伝わってくる温もりを大切に感じながら、俺はまた姫百合の頭を優しく撫でていた。
「いや、結構な長旅だったな。」
「そうですね、電車だけでも疲れちゃいました。」
東京の端のとある駅の前で、俺たちはそんな呟きと共に空を見上げていた。
時刻はおやつの時間を少し過ぎた頃で、見える山々は夏の陽射しの中で緑の絨毯を敷き詰めたように生き生きとしている。
そのお陰なのか路面は熱く揺らめいていても、時折吹く風は冷たく、爽やかな涼しさを運んできた。
東京駅より明らかに少ない歩行者を眺めて、俺たちは一台だけ停まっていたタクシーに乗り込み、姫百合が行き先を告げる。
「逢坂までお願いします。」
そう姫百合が告げた途端、それまで笑顔を浮かべて応対してくれていた運転手が顔色を変えた。
「あ、逢坂でございますか?失礼ですが関係者の方で?」
「はい、現当主逢坂龍矢の孫です。必要であれば家紋をお見せしますが。」
「いえ滅相もございません。かしこまりました、すぐに向かわせていただきます。どうか失礼をお許しください。」
車内ミラー越しに深々と頭を下げた運転手に、姫百合は小さく頭を下げた。
「お気になさらず。それではお願いします。」
「ありがとうございます。それでは出発します。」
恭しくそう返した運転手は即座にエンジンをかけると、真剣な眼差しで車を発進させた。
明らかに異常な対応に俺が閉口していると、姫百合が小さく身体をこちらにずらして、口元を隠しながら囁く。
「後で歩きながら説明するので、三十分ほど静かに待っていてください。」
ただならぬ雰囲気に俺は声を出さずに頷くと、姫百合は申し訳なさそうに微笑んで視線を前に戻した。
俺たちが乗ったタクシーは山の方へと真っ直ぐに向かっている。
すれ違う車両は皆無どころか、駅を離れて暫く走った頃には農作業をする人すら見えなくなった。
車内は車が発する音以外、静寂に包まれている。
ミラー越しに見える運転手の表情ははっきりと強ばったままで、頑ななまでに視線すらこちらに向けようとしない。
ただひたすらに前だけ、近づいてくる山の麓を目指す道だけを見ているようだ。
姫百合も囁いてからはずっと目を閉じて何かを考えているようだし、車内の空気はこれでもかってほどに重い。
首を動かす程度の身動きさえ躊躇わせるような重圧に、俺も流石に緊張が強くなってくる。
駅から離れるにつれて狭くなってきた道は、コンクリートのものから舗装されていない土道に変わってきた。
しかしそれに反比例するように、タクシーの速度は段々と速くなっている気がする。
タクシーは上下に細かく揺れ始めているのに速度は落ちず、少なからず身の危険を感じ始めたくらいだ。
運転手がそうまでして嫌がる要因が、逢坂家にはあるのだろう。
そんなことを考えていると、前方に何か黒い柱のような物が見えてきた。
あれは…鳥居か?
はっきりと見える位置まで来て、確かにそれは真っ黒な鳥居だった。
夏の光に建つそれは、寒気がするほどに異質だ。
暗闇を切り出して造ったかのような黒は、そこだけその形に空間が抜け落ちたように見える。
良く見れば鳥居の両端からは縄が伸びていて、それが境界線のように山を囲っていた。
きっとあれが、逢坂の敷地。
その鳥居をタクシーがくぐった時、会話のない車内に驚くほどはっきりと固唾を飲む音が響く。
いよいよ逢坂の敷地内、タクシーはここで漸くスピードを落とすと、ゆっくりと走りながら運転手は急に辺りを伺い始めた。
挙動不審なまでに首を動かす姿は、まるで何かを探しているみたいだ。
すると、今まで黙して前だけを見つめていた姫百合が、ぞっとするような平坦な声で言葉を発した。
「この辺りでも結構ですよ運転手の方、ここまでありがとうございました。お気をつけてお帰りください。」
「は、はいっ!ありがとうございます!」
俺が呆然とそのやり取りを眺めている間に、タクシーは山の裾野を流れていた小川の傍で停車する。
彼は引き千切るようにシートベルトを外すと、タクシーから降りて姫百合が座っている側のドアを開けた。
姫百合は無表情にタクシーから降りると、運転手がトランクから出した荷物を受け取ってつかつかと道の先へ歩きだしてしまう。
俺も慌てて降りて荷物を受け取ると、小走りで姫百合の後を追った。
エンジン音に振り返ると、タクシーが逃げるように元来た道を走っていく。
明らかな異常に困惑していると、俺が追いついた途端に姫百合が謝ってきた。
「ごめんなさい先輩、何も説明しないままあんな態度になって。」
「いや、事情があるのは判るから構わないけど、あのタクシーの運転手は随分緊張っつうか、恐がってるみたいだったな。」
「それには色々と理由があるんですが、長くなりますから歩きながらにしましょうか。」
「あぁ、それに…。」
そこで言葉を切って上を見上げる。
姫百合はそんな俺に首をひねりながら繰り返した。
「それに?」
俺は空に燦々と輝く太陽を指差して、手のひらで顔を扇ぎながら苦笑いした。
「ここで話すには暑すぎるからな。」
そう言った俺に姫百合は一瞬だけ固まって、可笑しそうに小さく笑う。
「それもそうですね。山に入ると結構涼しいですから、もう少しの辛抱ですよ。」
「そりゃ助かる、でなきゃ今すぐに水浴びしたい気分だからな。」
実際タクシーの冷房とのギャップで、体感温度が随分増した気がする。
姫百合は嬉しそうに笑って、ワンピースの裾がふわりと揺れた。
「あはは、私も真也先輩と水遊びしたいです、帰ったら是非やりましょう。」
「あぁ、九十九川の上流とかなら昔元気な姉二人と遊びに行ったからな、あれは疲れた。」
そんな他愛ない会話で、少しは姫百合の緊張が解ければいいと思う。
真面目な話は、せめて涼しくなってからでもいいだろうし。
俺は徐々に空さえも覆ってしまいそうなくらい近づいてきた逢坂の山を見ながら、そんな風に考えていた。
姫百合が言っていた通り、山に入った途端に空気が変わった。
鬱陶しかった湿気は冷たさに変わり、火照った身体には心地いい。
辛うじて人が登れるように整備された土道を、俺たちは荷物を引きながら歩いていた。
アスファルトと違って、キャリーケースのローラーが上手く回らないせいで、山道との相乗効果で余計に重く感じる。
「すみません先輩、私の分まで運んでもらって。」
「姫百合にも俺の荷物を持ってもらってるんだしお互い様だよ。」
今俺は姫百合のキャリーケースも一緒に引いていて、変わりに財布や家の鍵などを姫百合の肩掛けポーチに入れてもらっていた。
それなりに大金を入れてきていたし、こんなところで落としたら探すのは困難になる。
多少鍛えていて助かったと内心思いながら、心配そうに俺を気にして歩く姫百合に笑いかけた。
「大丈夫だから、危ないしちゃんと足元に注意して歩けよ?」
「はいっ、ありがとうございます。」
頷いた姫百合は俺を気に掛けながらもきちんと前を見ながら歩き始める。
まぁ姫百合なら反射神経が良いから、仮に躓いても転ぶまでにはいたらないだろう、せいぜいがたたらを踏む程度だ。
それより両手が塞がっているからな、俺の方こそ足元には気をつけないといけない、躓いてもこれじゃ受け身が取れないし。
半ば転がすというより引き摺るようにキャリーケースを運びながら、俺は前を歩く姫百合に問い掛けた。
「そういやあのタクシーの運転手はどうしてあんな態度を取ったんだ?明らかに怯えている様子だったが。」
「………そうですね、今から話せば終わる頃には家に着いてるでしょう。」
可愛らしかった微笑みが一転し、平坦な表情で姫百合が俺を見つめる。
スイッチを切り替えたみたいに冷たい光を宿した瞳が、睨み付けるように森を、そして山へと移り、少し呆れたように彼女は溜め息を吐いた。
「昨日お話した、我が逢坂の一族が二つに分かれるより前のことです。武人が戦を左右できなくなって久しく、傭兵としての立場も危ぶまれた頃が始まりです。」
姫百合の口調は淡々としていて、正直話すのも嫌になると言わんばかりに事務的な声音だった。
俺はそうしてまで話そうとしてくれる姫百合の言葉を聞き逃すまいと、ケースを引きながら耳と思考に集中する。
「大事な収入源を失った一族は、そんな時代の変化の中で遂に隠れ忍ぶことが難しいと決断しました。その戦闘能力を麓の村の自警に用いて、田畑を耕すようにもなったのです。」
「へぇ、それは良い方向に力を使ってるんじゃないか?」
戦うばかりだった者たちが幕府や領主のためではなく、農民や商人のような一般人に力を貸す、話だけ聞くなら美談とも言える話だけ。
だが姫百合は小さく首を横に振って続きを話しだす。
「そんな関係が今日まで続いていたなら、先程の運転手のような態度にはならないと思いませんか?」
「そうだな。もしもそんな良好な付き合いだったなら、あそこまで恐がられるのは不自然だ。」
「はい。残念なことに私のご先祖はこともあろうに、お金の魔力に惹かれてしまったのです。」
それが、この地で逢坂が恐れられるきっかけとなったのだろう。
かつては様々な戦場で活躍した一族だけに、金銭的苦労はほとんどなかったはずだ。
姫百合は隣を歩きながら、残念そうに目を伏せた。
「護衛としての評判は瞬く間に広まり、いつしかそれはかつての財力を取り戻すほどの収入源となりました。しかもその時の龍矢は財力を使って裏の領主にまで成り上がり、この地の民に悪政を行っていたそうです。もちろん今はそんな力を持ちませんが。」
「……その頃からの確執が、今の今まで続いてるってことか。」
姫百合が無言で頷く。
悪政と一言に言っても様々だろうが、これほど長い年月を経てなお残る負の感情は、並大抵のものじゃない。
親から子へと語り継がれていく話の中に混じった怒りや憎しみ。
既に逢坂の領地ではなくとも、かつての当主が犯した罪は、末裔の姫百合にまで引き継がれてしまっている。
姫百合にそんなつもりはなくとも、お構いなしにぶつけられる異物の扱い。
ふと思うのは、現当主である逢坂龍矢のこと。
時が移り変わらない一族の中で育てられ、逢坂とは何たるかを体現する、戦闘に特化した最後の生き残り。
彼は今の時代に何を思い、姫百合のことをどう思っているのか。
それを見極めない限り、どんな交渉も恐らくは上手くいかないだろう。
それをどうやって引き出すか、それが重要だよな。
「……ぱい、………先輩?」
「え…あぁ、どうした?」
声をかけられていたのに気づかず、俺は慌てて姫百合に視線を向ける。
姫百合は楽しそうに笑って、道の先を指差した。
「もう間もなく到着ですよ、ほらあそこです。」
「ん?…これはまた、予想の上をいく荘厳さだな。」
木々の間から少しずつ見えてきたのは、重厚な樫の木の門と壁だった。
山の斜面に沿って造られたそれらは物語に出てくる忍者屋敷のようで、中は迷路になっているんじゃないかと勝手に想像してしまうほどそれらしい。
俺が驚きながら逢坂の家を眺めていると、姫百合が何故かくすりと笑った。
俺は首を傾げて姫百合に訊く。
「ん、何で笑ったんだ?」
俺の問い掛けに姫百合は微笑んで、胸に手を当てながら言った。
「学校で見かける真也先輩はいっつもクールで誰も寄せ付けない雰囲気だったのに、最近の先輩はたくさん表情を見せてくれて、それがちょっと嬉しくって。」
「……そんなに変わったか、俺は。」
「はい、きっと小湊先輩たちも同じように感じてると思いますよ。」
姫百合はそう言って前を、逢坂の本家の門へ視線を送る。
「でもそんな先輩から、皆は勇気を貰ってるんです。だから先輩、私にも力を貸してください。」
姫百合にとっての決戦場。
それを前にして強張った姫百合に、俺は力強く頷いた。
「ここまで来たんだ、後は存分にやるだけだ。」
「…はいっ、頑張ります!」
嬉しそうに言った姫百合が、そっと俺に寄り添う。
俺が戸惑っていると、姫百合は願いを祈るように言った。
「ここをまた出ることができたときは、こんなふうに先輩との距離が近くなってるといいなぁ。」
その呟きにどれだけの思いが籠もっていたのか、俺にはわからなかった。
立ち止まった俺の腕に押しつけられた顔の温もりが、少しだけ熱かった。
だから俺は、荷物が坂道を滑り落ちていかないようにして、その小さな身体を抱き締めたんだ。
少しだけ震える肩を包むように、溢れだす感情の雫を零さないように。
悩み苦しむその小さな後輩に、僅かでも安心が与えられたらと、そう思って。
漏れ聞こえる嗚咽に、俺の胸までもが鈍く痛む。
「………姫百合は姫百合だよ。今も、そして…これからも。もう、二度と逢坂龍矢なんて名乗らなくてもいいように、話をしに行こう。」
ぎこちなく言葉を紡いでいく。
下手くそな慰めに、俺の思いを込めるように。
少しの間だけ止まった時は、姫百合の頷きによって動き出す。
「ありがとうございます、先輩と一緒なら大丈夫ですね。」
背筋を伸ばし、真っ直ぐに前を見るその横顔は、もう迷いを湛えたものではなく、力強い意志を宿してるものだ。
新たな未来へ向けて、足を踏み出す。
永きに渡る過去へと、決着をつけるために。
大きな樫の門前で、姫百合は声を上げた。
「次期当主、逢坂姫百合が只今戻りました!」
深い山奥で木霊するその声に呼応するように、樫の門は低い音を立てて上へと引き上げられていく。
やがて門が一番上まで引き上げられると、突如目の前に和服の老人が姿を現した。
齢七十は越えていそうな風貌に長い白髪を後ろで結った彼は、皺だらけの顔に人の良い笑みを浮かべて、杖を突きながらゆっくりとこちらへ歩いてくる。
時の流れを飛び越えて来たかのような老人は、細めた目を姫百合に向けながらよく通る声で挨拶をしてきた。
「これはこれは姫様、無事にお戻り頂けて何よりでございます。使用人一同、心より喜びを申し上げます。」
「………。」
そんな丁寧な挨拶に対して、姫百合は何も返さない。
俺が不思議に思って姫百合の方を向いた時、老人から小さな呟きが漏れた。
「しかし………少々おふざけが過ぎるようですなぁ。」
背筋に走る悪寒。
身体中を駆け巡る危機感が、騒がしいくらいに警笛を鳴らす。
姫百合は涙を流していた、恐怖に引きつった顔で。
咄嗟に姫百合を守ろうと手を伸ばしたが遅かった。
俺が伸ばした腕は、いつの間にか傍に現れた老人の手にしっかりと掴まれ、姫百合の首筋には地面を突いていたはずの杖が寸でのところで止められている。
薄らと開かれた老人の目。
それは刀の切っ先のように鋭い、研ぎ澄まされた武人の眼光だった。
その瞳が今、怒りに揺れて姫百合を睨んでいる。
息もしづらいほどの威圧感が籠もった声で、老人は静かに言った。
「おかしいですな姫様、貴女は旦那様になるために並木の小峰様に預けられたはず。しかし貴女は今、明らかに女子の格好をしていらっしゃる。これは一体どんな事情がおありですかな?」
「あ………ぁ。」
恐怖で声が出ないのか、姫百合は地に上げられた魚のように、パクパクと浅い呼吸を繰り返している。
老人は呆れたように溜息を吐くと、残念そうに言う。
「これは旦那様にお叱りを頂く他にありませんな。菖蒲、桔梗、姫様を旦那様の所へお連れしなさい。」
『はい、龍影様。』
若い女性の声が二つ、何処からともなく響くと同時、俺と姫百合を挟むように少女が二人現れた。
二人とも割烹着のような姿ではあるものの、纏っている雰囲気は女中のそれではない。
凛と澄ました表情で歩いてくる二人を警戒しながら、俺は目の前の老人に向かって静かに言う。
「おい爺さん、姫百合をどうする気だ?」
「貴様には関わりのないこと、部外者には即刻帰ってもらおう。」
「そうはいかねぇんだよ。俺は姫百合を姫百合でいさせたくてここにいる、だからはいそうですかって帰るわけにはいかねぇ。」
俺はそう言って空いた手で老人の杖を掴むと、それを姫百合の首筋から離した。
茫然自失状態の姫百合に向かって、俺は正気に戻るよう叫んだ。
「しっかりしろ姫百合、俺はここにいるぞ!」
「あ……先輩。」
「涙を拭け、俺を見てろ!怖いものなんて何もない、俺がお前を必ず守るから!」
視線は目の前の老人に向けたまま、ありったけの声を吐き出す。
背後で涙を拭う気配がして、俺は口元に笑みを浮かべた。
それを見た老人が、鋭い目つきで睨みながら俺に言う。
「貴様、この行動がどんな意味を持つのか、正しく認識しているのだろうな?」
「アンタらと敵対する、姫百合を自由にするためにな。」
「なるほど、正しく認識していてこの愚行か。よもや我らを、そして旦那様の実力を知らぬなどとは言うまいな?」
「例え絶望的に勝ち目がなくてもな、俺は姫百合の力になるって約束したんだ。俺がここから帰る時は、姫百合も一緒にだ!」
「先輩…。」
叫んだからか、或いは開き直ったのか、頭は冷静になってくれた。
視野が広がって、周りの状況も少しずつ見えてくる。
相手は三人、しかも実力差は大きいだろう。
姫百合はとても動きやすい格好とは言えないから、戦力としては当てにできない。
ここは守りに徹して、相手が油断する隙を狙う。
龍鉄との鍛練を思い出せ、決して不可能なことじゃないはずだ。
この老人を先に倒せば、部下だと思われる他の二人は僅かにも動揺するはず、勝機はそれしかない。
二人の少女は俺たちのやり取りを見て様子を伺っている、チャンスは今。
俺が間合いを開くための攻撃を仕掛けるため姿勢を直した時、老人は何故か小さく笑みを浮かべた。
「若いわりに落ち着いているな、こういった状況に慣れていると見える。」
「はっ、そんなことアンタに関係あんのかよ?」
「もし貴様が我らが油断すると考えているなら無駄なことだ。我らは相手がどれほど取るに足らない小物であれ容赦はせん、あらゆる敗北の可能性を潰して行動する。それが人道に反すると言われるようなことであろうともな。」
「っ!?」
再びゆっくりと歩きだす二人の少女たち。
しくじった、素人が相手にできる範疇を越えてやがる。
驚いて身を固めた瞬間、老人は俺が掴んでいた杖をいともたやすく自由にし、素早く俺の視界から消えた。
それを合図にして距離を詰めてくる二人の少女を見て、俺は姫百合に叫んだ。
「姫百合、元来た道に走れ!明らかに分が悪い!」
「は、はいっ!」
慌てて振り返り走りだす姫百合を確認すると、俺は足元の土を爪先で左右に蹴り飛ばした。
跳ぶように近づいてきていた二人が反射的に顔を守るのを振り返りもせず、俺は即座に姫百合の後を追う。
すぐに体勢を立て直して向かってくる三人の気配を感じながら、姫百合に小さな声で囁いた。
「俺の気配が立ち止まったらすぐに反転して走れ、俺が三人を足止めする。」
姫百合は走りながら静かに頷く。
直後に俺は踵で再び足元の土を後ろへと蹴りあげた。
なるだけさっきよりも多くの量を、広範囲に向かってぶちまける。
「同じ手を繰り返すとは、我らを舐めていますね。」
そう言った少女は興ざめとでも言いたげな表情で前へ出ると、飛んできた腐葉土を手で素早く薙ぎ払った。
「舐めてるのはアンタらだって同じだろうが。」
「っ!?」
予想通り払われた土の向こうから、少女の驚いた顔が現れる。
俺は後ろへと土を蹴りあげた直後に、反転して拳を打ち込んでいたのだ。
完全に不意を突いた拳は、咄嗟に動いた少女の防御を容易く抜けていた。
ただでさえ不意討ちな上に、少女は土を払った直後で腕を横へと広げてしまっている。
腰を入れて打ち出す低い位置からのアッパーは、吸い込まれるように少女のみぞおちへとねじ込まれた。
「くはっ!」
水無月龍鉄直伝の一撃必倒。
肺から強引に吐き出された酸素を補給する暇もないまま、少女は後続の二人へと飛んでいく。
このまま飛んでくる少女に気を取られた二人の内、せめて一人は倒す。
だが俺の方こそ舐めていた。
初めに老人が言っていた言葉の意味を、はっきりと甘く見ていた。
「なっ!?」
こともあろうに、彼らは攻撃を受けて気を失っている仲間を見捨てたのだ。
飛んでいく少女の向こうに見えたもう一人の少女。
彼女は仲間である少女の前に躍り出ると、驚く素振りもなく身体を宙に浮かせたのだ。
そのまま躊躇いもせず放たれた回し蹴りは、先ほど土を払ったのと同じように、障害物を払い退けるために使われた。
「きゃあっ!」
悲鳴を上げて蹴り返された少女が、今度は俺に向かって飛んできた。
背骨を強打された痛みで苦悶に歪む少女の顔が間近に迫る。
「クソッ!」
慌てて体勢を立て直そうとするも間に合わず、どうにか少女を正面から抱き留めた俺は、バランスを崩して後ろへと勢い良く倒れこむ。
「先輩!」
俺と同じく反転していた姫百合が支えようとしてくれるも、勢いのついた二人分の体重は支えきれず、三人まとめて斜面を転がっていく。
土まみれになりながら漸く停止すると、前には葉の隙間から零れる光が見えて、身体の至るところから鈍い痛みが走った。
俺は首だけを起こして、俺の上で倒れている二人の安否を確認する。
転がりながらどうにか姫百合へと手を伸ばして、二人の頭を守っていたのだ。
幸いにも、二人に大きな傷は見えない。
姫百合は痛そうにしているが、大したダメージは負ってないだろう。
転がっている間ぎゅっと掴まれていた服も、今は力が緩んでいる。
辛そうなのは少女の方だ。
身体の前後を立て続けに強打されて無事なはずがない、暫らくは痛みで動けないだろう。
手で蹴られていた背中を撫でても、骨が折れているということもなさそうだ。
ひとまず安心しつつ、俺は二人に声をかけた。
「大丈夫か姫百合…と……君。」
「う……私は大丈夫です、先輩は無事ですか?」
「あぁ、ちょっと口の中が土っぽいくらいだよ。」
笑いかけながら姫百合の髪に付いていた土を優しく払ってやる。
するとやっと反応を示した少女が、小さく呻きながら、顔を上げた。
「良かった、大丈夫か?」
「う……貴方は。」
「悪いな、受けとめようとしたんだが失敗した。殴っておいてなんだが、痛いとこないか?」
「えっ………あの、…どうして?」
「どうしてもなにも、怪我してたら手当てしなきゃならないだろ。」
俺の言葉に驚いた表情をした少女は、顔を俺に押しつけて小さく言った。
「………痛みはしますけど、大丈夫そうです。」
「そうか、なら良かった。」
少女の土も払ってやりながら、俺は視線を辺りへ巡らせた。
見えたのはゆっくりと歩いてくる老人と少女。
老人は冷酷な色を宿した瞳で、まっすぐに俺を睨んでいる。
でもその後ろに着き従う少女の瞳は、どこか不安そうな色に見えた。
………クソッタレ、誰も彼も不幸じゃねぇか。
「…二人とも、ちょっと離れて下がっててくれないか?」
「え…先輩?」
「姫百合、その子を少しの間だけ頼むぞ。」
姫百合は不安そうな表情で頷くと、辛そうな少女を助けながら少し離れた所へ連れていってくれた。
悪いな姫百合、ちょっと見苦しいところを見せちまう。
でも………この怒りは止められそうにないんだ。
俺はゆっくりと立ち上がると、間合いを離して止まった老人を睨む。
「……さっき、アンタの仲間を蹴り飛ばさなかったか?」
そう言った俺に対し、老人は小さく笑う。
「それが何だと言うのだ?不覚にも貴様の攻撃を受け、我らの進行さえ邪魔をした孫娘など、敵を倒す道具として扱われようと文句は言えまい。」
「テメェ…本気で言ってんのか?」
「だから初めから言ってるであろう?我らは勝利のためならばどんな残酷な行為であれ躊躇わぬと。敵に隙を作り、動揺を誘うことができるならば、例え血縁の者であろうとも道具として扱う。我ら水無月の者はそうして逢坂に仕えてきたのだからな。」
「水無月…だと?」
聞き覚えのある名字に俺は動揺を隠せなかった。
すると老人は好機とばかりに口元を上げ、心底愉快だと言うように大声で笑う。
「はっはっはっはっはっ!やはりそうか、貴様の体術を見ていてまさかとは思うたが、貴様は水無月龍鉄の手解きを受けたのだな。」
「チッ、どういうことだ。」
「水無月龍鉄はな、水無月家の役目を投げ出し、卑しくも女と恋に落ち、我らから逃げ出した愚か者なのだよ。よもや未だおめおめと生きて、挙げ句に我らが技を他人に教えるとは、恥曝しも甚だしい。」
俺の向こうに龍鉄を見ているかのように、老人はゴミを見るような目で俺を睨んだ。
だが、そんな視線さえも既に気にならなくなっていた。
何しろ俺自身も、老人に対して同じような視線を向けていたから。
身体中の熱量が、冷水でもかけられたみたいに引いていく。
思考がクリアになって、痛みで重たかった全身が軽くなる。
自分でも驚くほど低く冷たい声が、喉の奥から吐き出された。
「なぁ、爺さんの後ろの君。」
「っ!?」
俺の声に驚いた少女が、一層不安の色を濃くして身を引いた。
それでも老人の側にいる以上引けないのか、少女は顔を無表情に戻しながら答える。
「何か?」
「姉妹なのか何なのかは知らないが、心配なら迷わず駆け寄れ。大切な人を失ってからじゃ、抱き締めることだってできなくなるんだ。」
「……それは。」
迷いを見せ始めた少女。
だが直後に老人が僅かに振り返り、殺意さえ込めた眼力で睨み付けた。
「菖蒲、貴様も袂を分かつのか?」
「………。」
それきり何も言わずに立ち尽くす菖蒲と呼ばれた少女。
老人はその無言を答えと受け取ったのか、吐き捨てるように言った。
「ならばアレを潰した後に、お主らも同じ末路を辿らせてやろう。使えなくなった道具は破棄せねばならぬ、でなければごく潰しが増えるだけじゃ。菖蒲、桔梗、貴様らもここで散れ。」
『っ!?』
二人の顔が恐怖に引きつる。
それを見て、俺は拳を握った。
「……なぁアンタ、寂しくないか?」
「何だと?」
「自分の孫までそうやって犠牲にして、それで勝利を得たとして、アンタは独り、寂しくないのかよ。」
「……無論、我は逢坂の家に…龍矢様に仕える者。そこに我の感情を挟むことなどない、全ては逢坂家にとって何が必要なのかだ、そのためなら我の命さえ…。」
「ふざけんじゃねぇ!」
俺の叫びが、彼方まで木霊する。
目を見開いた老人に向かって、俺は感情の塊となった言葉を、力の限り叫んだ。
「家族ってのは、そんな風に失っていいもんじゃねぇ!どんな理由も得るものも、命と引き換えられるものじゃねぇんだよ!失ってからしか後悔なんてできねぇ、それじゃ遅いんだ!アンタはそれがまるでわかってねぇ!」
「大口を叩くなよ貴様。それでも守らねばならぬことがある、それを知らぬ貴様に言われたくないわ!」
「そんな台詞が出てくる時点で、アンタは今までを後悔してるってことだろうが!」
言葉と同時に一歩を踏み出す。
柔らかな土を穿つように、力一杯大地を蹴る。
瞬く間に肉薄した互いの拳は既に握られ、それぞれの意志を込めてそれは放たれた。
頬骨に響く拳の感触。
もはや互いの足は動いていない。
老人は持ち前の速さを使わず、目の前の少年を真っ向から打ち倒すために拳を振るう。
だがその行動こそ、少年の言葉を否定できない自分がいるという、隠しようもない証拠だった。
「俺には永く続いてきた家の重さなんて解らねぇ!でもなぁ!そんなもんが誰かの涙より大切だなんて、これっぽっちも思えねぇんだよ!」
打ち出した拳が、老人の皺だらけの頬を殴る。
老人は口元に滲んだ血を拭おうともせず、年老いてなお衰えぬ眼力を煌めかせ、すぐさまカウンターの拳を振るう。
「解らぬのなら口を挟むな小僧!この世にはな、どれほど願おうとも叶わぬことがあるのだ!」
守護の家系として産まれた時から、逢坂の家を守るためだけに鍛えぬかれた拳打が、甘言を吐く少年を打ち砕くために放たれる。
確かな手応えが拳骨を伝って身体に響き、しかし一撃にて沈むはずの少年は倒れない。
「泣き言いってんなよ爺さん!そうやって諦めちまったら、誰がアンタの願いを叶えんだっ!」
腰の入った鋭い打ち込みを、老人は身体を捻って躱す。
返す右膝の蹴りは、少年の脇腹を綺麗に打ち抜き吹き飛ばし、三人の少女たちが小さく悲鳴を上げる中で、少年は地面を転がり、木の幹にぶつかって停止した。
ゆっくりと近寄りながら老人は言う。
「貴様が言う願いとは所詮世界を知らぬ餓鬼の戯れ言だ、偉そうなことを言いつつ地面に寝ているのがよい証拠だ。」
「………戯れ言も言えず夢を諦めんのが大人だってんなら、俺は餓鬼のまま、みっともなくてもいいから、誰かの願いを諦めたくない!」
俺は立ち上がり、真っ直ぐに老人を睨む。
痛みで内臓が引っ繰り返りそうなほど吐き気がするが、そんなこと構いはしない。
今はただ、目の前の分からず屋の目を覚まさせる。
震える足に喝を入れて、ゆっくりと前へ進む。
「例えどれだけ困難なことでも、諦めずに一歩を踏み出せば、必ず前に進める。」
自分の言葉を確かめるように、俺は一歩ずつ歩く。
「地べたを這いつくばったっていい、ボロボロになったっていい、それで願いへ近付けんなら安いもんだろ。」
顔に付いた泥を拭い、後ろを振り返る。
そこには不安そうに俺を見る姫百合がいた。
視線が合う。
すると姫百合は、ギュッと拳を握って頷いた。
大丈夫と、そう言うように。
前を向くと、動かずにいる老人の姿。
俺は、勢い良く走りだす。
「俺は必ず姫百合と一緒に帰るんだよ!皆のところに、ありのままでいられる姫百合を連れてな!だから…邪魔すんじゃねぇぇ!!」
駆け出した足は力強く、握り締めた拳は堅く、願いは迷わずに。
姫百合のために力を尽くす。
逢坂龍矢へ辿り着くために、こんなところで負けていられない。
Ryuei Side
老人は呟く。
「まったく、年老いたものだ。」
かつての自分を思い返しながら、ふと零れた言葉。
生まれる前から逢坂に仕えることが決まっていた己の運命を呪い、亡き両親へと募らせていた思いを爆発させた幼き頃の記憶。
まだ龍影の名を賜る前の、夕暮れの景色。
鍛練に命を削り、学校にも通えず、気を許せる友さえもいなかった灰色の幼少。
「私は絶対に逢坂へはこうべを垂れぬ!こんな山の中で朽ちてゆくなど御免だ!」
そう叫び、この少年のように立ち向かった。
水無月の一族が永きに渡り仕えてきた、逢坂龍矢という上位存在へと。
当時、既に逢坂と水無月の一族は徐々に山を降り始めていた。
そんな両家の繋がりに終止符が打たれようとしていた頃産声を上げた、史上最年少の当主。
弱冠十三歳にて龍矢を襲名した彼に対し、当時十六歳を過ぎていた我は立ち向かい、再び立ち向かおうとする心さえ生まれぬほど叩きのめされた。
我は水無月の中でも本家筋に連なる、逢坂へ仕えていた最後の血筋。
その跡取りとなるはずの我が主人へと牙を剥き、あまつさえ一太刀すら与えられなかったのだ。
一族を死に至らしめる我の独断は、考えうる限り最悪のカタチで終わりを迎えるはずだった。
しかし地に伏し、砂利を舐める我を見下ろす少年は、驚くほど落ち着いた声で言う。
「あの龍鉄に勝るとも劣らぬ太刀筋、称賛に値する。しかし謀反であることに変わりはない。」
そう告げて刀を振り上げた若き龍矢は、それを躊躇いなく振り下ろした。
今でも耳に残る、風切りの音。
しかし刃は我を斬り裂かずに、肩口でぴたりと停止していた。
「変わりはない、だがそなたの剣は殺すには惜しい。故に今、水無月の宗治はここで死んだ。これにより水無月への責は不問とし、これまで通りとする。」
張り詰めた空気の中に響く安堵の溜め息。
幸いにも親兄弟は殺されずに済む、それだけでも十分すぎる免責だ。
そして龍矢は静かに刀を納めると、我の傍にしゃがみこみこう言った。
「水無月宗治。」
「………はい。」
「そなたはこの時より、水無月龍影として生きよ。そして、その生涯は私が貰い受ける。…異存はあろうか?」
「私が…龍影の名を?」
「何度も言わせるな。他にそなたほどの使い手が居らぬ以上、その名を継ぐのはそなたしかおるまい。さぁ、こうべを上げよ龍影。」
水無月の当主となった私は、そうして生まれ変わった。
最初で最後の子供らしい笑みを浮かべた龍矢様の、背中を守る生涯の影として。
その結果を、後悔などしていない。
この少年が言うような後悔など、決してしてはいないのだ。
我には勿体ない伴侶を賜り、こうして孫まで生きている内に拝むことが叶った。
我は、十分すぎるほど幸せだ。
あの日死ぬはずだった私を傍に置いてくださった龍矢様には、生涯を捧げても足りぬご恩がある。
だからこそ、龍矢様が描いた理想のために、こうして鬼畜生にもなれるというもの。
龍矢様。
貴方のお役目、漸く終わりを迎えられそうですよ。
小さく、久方ぶりに笑みが浮かぶ。
手は抜かない、全力を以て正面から打ちのめす。
これから立ちはだかるものが容易いものではないと、彼らに証明するために。
歴史を、醜くも永く紡がれたものがどれほど堅いのかを、その身で味わうといい。
腰を入れて体を逸らす。
肩を下げ、左腕は左足に沿わせて五指を伸ばし、右は腰の後ろで握り込む。
水無月に伝わる迎撃の型。
少年は我の構えを見ると、不敵にも笑ってみせた。
見慣れているだろう、龍鉄の下で鍛えたのなら。
何しろこの構えは、隠密に戦うのが苦手だった龍鉄が組み上げた、水無月唯一の攻撃体勢なのだからな。
「来るがよい小僧、先の言葉を嘘にしないためにな!」
我の叫びに、目前まで迫る少年は言った。
「当たり前だ!俺ができることをする、そう誓ってんだよ!」
叫び声と同時に素早く打ち出された拳を、龍影は下げていた左手で軽くいなす。
そうして体勢を崩した少年の腹に向けて、隠していた拳を叩き込む。
直後に伝わる衝撃。
しかしそれは龍影の拳が少年を打つものではなく、少年の拳が龍影に裏拳を打ち込んだ衝撃だった。
「むぅっ!?」
素早く放した間合いを確認し、背中に走る痛みの理由を模索する。
少年は龍影が見たことのない構えをしながら、真剣な眼差しで呟いた。
「姫百合は、俺をあの苦しみから救い出してくれた。」
「……なに?」
訝しむ龍影に少年は続ける。
「勘違いして、苦しくて、でも自分一人じゃどうしようもなかった。きっとあの時、皆が手を伸ばしてくれてなかったら………俺は今も勘違いしたままで、感謝もできなかった。」
少年の独白に戸惑いながらも、龍影は静かにそれを聞いていた。
主語が抜けた話し方からは内容が解らないが、恐らくこれは、この少年がこうして拳を握る理由だ。
それを途中で阻むなど、龍影は考えもしなかった。
願いの独白。
それは龍影の役目ではなく、龍矢様が行うべきこと。
我はただ、この少年の言葉を受け取り、龍矢様の判断に従うだけ。
「誰かを救うことがどれだけ大変なのか、その一歩を踏み出すのにどれだけ勇気がいるのか、俺は皆からそれを教わった。だから……。」
驚くほどの速さで踏み込んできた少年に、龍影は一瞬反応が遅れた。
こやつ、体勢を維持できぬほどの加速を!?
踏み込む際に落ちる速さを落とさずに、勢いの余りさえ込めた諸刃の剣。
外せば一巻の終わり、僅かでも間合いとタイミングを誤れば威力は激減するその掌打。
だが上手くいったなら。
複雑で微妙なそれらの要素をクリアできるなら。
それは、困難さえ打ち砕く、最強の力になる。
「俺が姫百合のしがらみを、この手でブッ壊す!」
「先輩…!」
「ぬぅ!?」
完璧だった。
生まれてこの方、ひたすらに武術だけを修めてきた龍影が、何の疑問もなくそう思った。
外すかもしれない、負けるかもしれない。
そんな恐れを抱いては放てぬそれは、龍影の体捌きさえ間に合わぬ速度で、真っ直ぐに龍影の胸部を打ち抜いた。
恐らく当たりどころが悪ければ人を死に追いやるであろう威力。
殺人を躊躇わぬ者は人はいない。
いるとすれば、人の道を外れた殺戮者か、狂人のどちらかだ。
だが少年はそのどちらとも違う。
殺人を犯す可能性への恐怖を抱いたまま、それでも心を制御してみせた。
この強い精神力ならば、困難に遭遇したとしてもがむしゃらに身を滅ぼすことはないだろう。
ゆっくりと傾いでいく視界を閉じながら、龍影は真っ直ぐに自分を見る少年に、微笑みさえ浮かべて言った。
「よくやった。我の…負けだ。」
Ryuei Side End
技を放った格好のまま、俺は気絶した老人を眺めていた。
打ち込んだ技の反動で動けないわけではなく、単に目の前の光景が信じられないのだ。
何もかもが初めてだった。
命を削り合うような戦いも、相手を殺してしまうかもしれないと恐怖したことも。
でも、どうやら俺は勝てたらしい。
実感が湧かないまま構えを解くと、今更ながらに震えがやってきた。
ったく、情けないな。
震える指先は、もはや箸を握るのもかなわないくらいに力が入らない。
もし今爺さんが起きたら確実に終わりだな。
「先輩!」
『お祖父様!』
三人の少女たちが、戦いを終えた者たちの元へと駆け寄ってくる。
姫百合は泣きそうな顔で俺の腰に抱きつくと、痛いくらいに強く抱き締めてきた。
「先輩!心配したんですよ!」
「あぁ、ごめんな姫百合。」
「ホントに……ホントに、先輩のバカ!」
ポカポカと力なく叩いてくる姫百合の頭を撫でる。
柔らかな髪の毛の感触に、俺も漸く緊張の糸が切れてきた。
「っく!?」
「先輩…?」
「いや、大丈夫だ。」
アドレナリンが減って、身体の節々が痛みだす。
ったく、あの状況下で信じられねぇ爺さんだ。
脇腹を蝕む鈍い痛み。
俺の攻撃が防げないと見るや寸でのところで打ち込まれた拳が、俺の脇腹に容赦なく食い込んでいたのだ。
一矢報いたってところかよ爺さん。
満足そうに笑いながら気絶してる爺さんを恨めしく思いながら、俺は姫百合に言った。
「悪い姫百合、そろそろ限界だわ。」
「え?……ちょっ、先輩!?」
膝が崩れるように力が抜けて、姫百合を押し倒すように二人して倒れる。
薄れていく意識の中で姫百合の体温を感じながら、俺は一時の眠りに落ちていった。
「お疲れ様でした、先輩。」




