Day.13 古いしきたりと剣術少女
「ふむ、中々にやるようだが、貴様如きに孫は任せられんな!」
「はぁ……はぁ…、クソッ…化け物かよこの爺さんは。」
竹刀を支えに蹲りながら、圧倒的な威圧感を漂わせる巨大な老人を睨み付ける。
老人は口に笑みを浮かべながら、筋肉の盛り上がる腕を組んで豪快に笑った。
「ガッハッハ!化け物とは、誉め言葉に他ならぬな!されど世界は広いぞ小僧、我より強き者だっておるのだからな!さぁまだ立てるだろう、向かって来るがよい!して、我に一太刀入れてみせよ!」
「チッ、武神相手に一太刀とは………人生最大の難関かもなぁ!」
踏み込むように立ち上がった俺は、二振りの竹刀を構えなおす。
ニヤリと笑った老人は、かつて中国は長坂で無双を誇った武将のように、どんと構えて叫ぶ。
「かかって来るがよい桐生真也!お主はそんなものではなかろう!あの男が鍛えたのだからな!」
「チッ……言うほど上等なもんじゃねぇっつの!」
踏み出しながら、視界の端に映る姿を見る。
待ってろよ、とっとと終わらせて並木に帰ろう。
Three days back
並木町の住宅街。
地方都市の住宅街として機能しているここは、日中だと水を打ったように静かだ。
朝と夕方の通勤通学時間を除けば、人とすれ違うことさえ殆どない。
比較的新しい一軒家が立ち並び、区画整理もきちんと成されている。
機能的で住みやすくはあるのだが、椚町などと比べると緑は少ないそんな場所だ。
そういえば緋結華もこの辺りに住んでいたなとか考えながら、俺は穏やかだが厳しい暑さの中を歩いていく。
昨日の夜、逢坂の様子がおかしかった。
あの仲のいい緋結華にさえ隠すような何かを、俺に話そうとしていた。
莉乃姉を送った帰り道、色々と考えてみたが特に思いつかない。
判るのは、軽々しく他人には言えないような重要な秘密を、逢坂が俺に言おうとしているってことだけ。
そう思い至ったら、もう考えるのは止めた。
いずれにしてももうすぐわかることだ、その道場で。
さて、調べた感じだとそろそろ着くはずなんだが。
そう思って角を曲がる。
「あ、まさかこの壁って。」
真新しい一軒家が立ち並ぶ景色の中に、突如古めかしい壁が延びていた。
その壁づたいに歩いていくと、閂で施錠していそうな立派な門が姿を現す。
「ここだよな、多分。」
門の脇に掛けられた表札には、達筆な字で小峰と書いてある。
歴史書から飛び出してきたような武家屋敷。
そんな時代錯誤な家も必要に迫られたのか、表札の下には小さなインターホンが付いている。
俺は違和感全開の機械に近づくと、躊躇いながらもボタンを押す。
ブザーが鳴って暫らくすると、受話器を取る音がして誰かが出た。
「誰かの?」
威圧の籠もった印象を受ける、低くも鋭い声。
きっとこれが、逢坂の面倒を見ているという小峰宗十郎。
「突然の訪問失礼します。俺は桐生といいまして…。」
「貴様か、逢坂の孫が言っていたのは。待っておれ、今門を開ける。」
そう聞こえた直後、大きな門が音を立ててゆっくりと内側へ開き始めた。
意外に機械仕掛けだなと驚きながらそれを眺めていると、インターホンから声が響く。
「中に入ったら真っ直ぐに進め、母屋にて待っておるぞ。」
俺が応える間もなく、ぷつりと声は途絶えてしまった。
どうやら待っているのは逢坂ではなく小峰さんのようだ。
ったく、何の説明もなしに流されるままか、厄介だな。
だがまぁ、呼んでおいて逢坂が不在ってことはないだろうから、とりあえずは進むしかないか。
気が重いなとか思いながら、小峰宅の敷居を跨ぐ。
玉砂利の道を歩き始めると、背後で門が閉まる音が響いた。
一際低く大きな音と共に、辺りは途端に静寂に包まれる。
まるでこの敷地の中だけ世界から隔離されてしまったような、そんな馬鹿げた想像をしてしまうほど、ここは酷く静かだ。
玉砂利を踏みしめる乾いた音だけが、夏の青空へと拡散していく。
歩く道の左右には、道場と思われる平屋と、背の高い土蔵があった。
永い年月を越えてきたであろうそれらは、変わりゆく時代を無視するかのように、ただひっそりと建っている。
ここからでは屋根しか見えないが、奥の方にも幾つか建物があるらしい。
驚くほど広い敷地だ、入り口からあんな門だったのも頷けるな。
そして目の前に建っている巨大な屋敷。
その入り口の戸の前で、男は静かに俺を待っていた。
白い長髪を首の後ろで緩く結び、深く刻まれた皺が、相当の高齢であることを感じさせる。
しかし無言で立つその佇まいからは、見た目に反した力が発せられていた。
ひたすらに戦いの中に身を置き続けてきた男の威圧感。
あらゆる暇を剣に費やし、強さを手にした者の、それは唯一の存在証明。
身震いした。
この老人は、生き物としての次元が違う。
決して今の俺が戦ってはならないと、本能が奥底から訴えてくる。
自然と足が止まる、背中に冷や汗が滲み出る。
戦うつもりもないのに、いつでも反応できるように身体が無意識に身構える。
クソッ、とんでもねぇ所に来ちまったな。
俺が黙っていると、小峰老人はその鋭い眼光で俺を射ぬくように見ると、白い髭を蓄えた顎に手をやった。
「ふむ、高校生にしては中々の胆力を備えておるな。ワシを前にして恐れはすれど、決して逃げ腰ではないか。」
そう言った直後、息の詰まりそうな重圧が不意に薄れた。
ったく、寿命が縮まったんじゃねぇか?
俺は深呼吸すると、距離は保ったままで話し掛けた。
「手厚い歓迎と受け取っても良いんですか?」
「はっはっは、左様。貴様は思っていたほど凡人ではないようだ。試すような無礼、誠にすまなかったの。」
そう言って小峰老人は笑うと、俺の方へとゆっくり歩いて、目の前で立ち止まる。
「お初にお目にかかる。ワシは小峰宗十郎、この地にて剣術の継承を営む者。よくぞ参られた桐生真也殿、逢坂の孫はこの奥にて待っておる。では、そこまで案内いたそう。」
親しみさえも籠もった瞳に笑いかけられ、俺は漸く緊張の糸が解けた。
小さく頷きを返すと、先行して歩きだした小峰老人に続く。
母屋の中に入り靴を脱ぐと、板張りの長い廊下を進む。
左右には簡素な障子が並んでいるところを見ると、宴会でも開けそうなほど広い部屋があるようだ。
突き当たりまで着くと、廊下は左右に分かれていた。
右に曲がった小峰老人に続くと、そこは外へ向かう渡り廊下だ。
平たい飛び石の上を歩いた先、「瞑想の間」と書かれた板の打ち付けられた建物へと、二人で入る。
どうやら入り口の門から見えていた建物はこれだったらしい。
中はまさに、静謐という言葉がぴったりと当てはまるような空間だった。
艶やかな板の敷き詰められた床と、穏やかに窓から射し込む陽光。
奥の間には掛軸が飾ってあり、「泰然自若」と画かれている。
そんな部屋の中央に、逢坂はいた。
袴姿で静かに目を閉じ、背筋を伸ばした美しい形で正座している。
逢坂は髪の毛を後頭部で結んでいて、それが入り込む風に小さく揺れた。
俺は思わず息を呑んだ。
穏やかな横顔がいつもより大人びて見えて驚いたのもある。
だがそれよりもその姿から、神々しさを感じたんだ。
触れてはならない神聖なもの。
逢坂が俺たちに気づいて目を開けるまで、俺は息をすることすら忘れていた。
二つの瞳が小峰老人を見て、続けて俺を見る。
ゆったりとした動きで立ち上がった逢坂は、そこで漸く笑みをこぼした。
「おはよう真也先輩、今日はわざわざ来てくれてありがとう。」
「あ、いや気にすんな。」
「そう言ってもらえるとボクも気が楽だよ。…師匠、無理な話を聞いていただきありがとうございます。」
逢坂は隣にいる小峰老人にそう言って、深く頭を下げた。
「お主が頼みごとをしてくるなど珍しいからの、礼を言われるようなことはしとらんよ。」
そう言うと小峰老人は踵を返して出口に向かう。
「今日はワシが小間使いとなろう、お主は存分にこやつと語り合うがよい。」
「重ね重ねのご厚情、感謝致します師匠。」
逢坂は深く頭を下げる。
そんな二人のやり取りに唖然としていると、逢坂がいつもの笑顔で微笑んだ。
「ここじゃ暑いよね先輩、ボクの部屋に行こうか。」
「ん、そうだな。」
「うん、じゃあこっちに。」
袴姿の逢坂に連れられて歩きだした俺は、また長い廊下を進み、母屋の奥へと歩を進める。
時代劇の舞台に迷い込んだような感覚に陥りながら、目の前で揺れる小さなポニーテールを見つめていた。
水無月の家も似たような建物だが、これとは規模が違うもんなぁ。
そんなことを考えていると、逢坂がとある襖の前で止まった。
「真也先輩、ここがボクの部屋だよ。」
「あぁ、入っていいのか?」
「うん、何にもないけど。」
逢坂は襖を開けると、身体をずらして中へ招いてくれる。
そこは絵に描いたような和室だった。
小さな丸いちゃぶ台が部屋の中央にあって、隅には桐のタンスが異彩を放っている。
それ以外は何もない質素な部屋だ。
逢坂が用意してくれた座布団に腰を下ろすと、俺は窓から外を眺める逢坂に問い掛けた。
「それで逢坂、今日は何を話してくれるんだ?」
「あはは、やっぱり気づくよね。」
苦笑しながら振り向いた逢坂は、暫く俺をじっと見つめていた。
「大丈夫だ、俺は何でも聞くから。」
「…うん、ありがとう真也先輩。」
薄く笑った逢坂は、言葉を選ぶように目を閉じると、胸に手を添えて言った。
「じゃあお話します……私の秘密を。」
Aisaka Side
真也先輩は私の言葉を聞いて、僅かに首を傾げた。
多分、私の一人称が違うことに疑問を感じたんだろう。
胸がドキドキする。
隠してきた秘密を今から告げるのだと思うと、朝から続く緊張は急に強まった。
大丈夫、真也先輩ならきっと。
添えた手を少しだけ握って、私はゆっくりと言葉を紡ぎだす。
「私は…皆にずっと嘘を吐いていました。逢坂家現当主逢坂龍矢より命ぜられたそれを、私は並木高校を卒業するまでの三年間守らなければならなかったのです。」
真也先輩の瞳に疑問の色が浮かび、質問が投げ掛けられる。
「逢坂龍矢?それって、お前と同じ名前だよな?」
「はい。我が逢坂家は代々当主となるべき男児には、逢坂龍矢という名を拝命しています。」
永きに渡る古い風習。
代々受け継がれてきた家訓やしきたり。
あの本家には、数えきれないほどの縛りがある。
真也先輩は一応納得したような頷きを見せて、私を真剣な眼差しで見た。
「なら逢坂は次の当主になるべく生まれたわけだな。でも、その話と吐かなければならなかった嘘とは何の関係があるんだ?」
「それは、今からお見せする真実が教えてくれます。」
胸が破裂しそうなほどの羞恥心が、頭に血を上らせる。
でもこれは、言うよりも見せたほうが確実だ。
恥ずかしくとも、長い言葉を連ねるよりも、確かな証拠。
私は袴の帯に手をかけると、それを勢い良く引っ張った。
するりと、私の気持ちなど構わぬように、袴は脱げていく。
目を見開いた先輩を見て顔から火が出そうになっても、続けて上も脱いでしまう。
真也先輩は、驚いた顔をして言った。
「お前…その身体は…。」
「はい、私は女です先輩。」
Aisaka Side End
目の前で解かれていく、逢坂が吐いてきた嘘。
艶やかな肌は白く、綺麗なくびれに細い手足。
可愛らしい顔は恥ずかしさに染まり、大きな目と小さな口は固く閉じられている。
少女の様だとは、常々思っていた。
だが、あくまでもそれは思っていただけだ。
本当に女性だなんて、夢にも思わなかった。
ブラジャーとショーツに包まれた身体は、何の間違いもなく女性だと告げている。
男にはあるはずのものが無く、あるはずのない膨らみがある。
まごうことなき、その事実。
逢坂龍矢と名乗っていた少年は、見た目通りの少女だった。
暫し茫然としていた俺は、慌てて視線を逸らす。
「冗談とかではなさそう…だな。」
「はい、私は女であることを偽り、男として皆に接してきました。本当にごめんなさい。」
逢坂が頭を下げた気配に、俺は大きく頷いた。
「わかった、それはわかったから。その……服を着てくれないか?逢坂を辱めたくて来たわけじゃないから。あと、そんなに畏まらなくていいから。」
「……うん。ありがとう、真也先輩。」
逢坂はそう言うとタンスの方へ動いて、すぐに衣擦れの音が聞こえてきた。
ドキドキと心臓が跳ね回る。
莉乃姉がしょっちゅうそんな格好で誘ってくるとしても、恥ずかしいものは恥ずかしい。
女の子のあられもない姿を見てしまった罪悪感が、苦しくなるくらいに襲ってくる。
確かに最も効果的な告白だったけど。
凄く、綺麗だったけど。
クソッ、変態か俺は!?
「先輩、もう大丈夫だよ。」
「あ、あぁ。」
恐る恐る顔を戻す。
そこには、ふわりとした服に着替えた逢坂が座っていた。
女の子らしい格好になった逢坂は、一層可愛く見える。
俺はその変わりようにドキドキしながら、一生懸命に言葉を選ぶ。
「えっと、似合ってるぞ。」
「あ、ありがとう。」
お互い顔を真っ赤に染めながら苦笑して、それっきり黙ってしまう。
沈黙が痛い。
か、会話が思いつかねぇ。
とりあえず素直な感想を言ってみたけど、どうすんだよこの状況。
気まずさに冷や汗を流していると、逢坂が小さく呟いた。
「あの…先輩?」
「な、何だ!?」
「ごめんなさい。」
その謝罪に、恥ずかしさは吹き飛んだ。
どれだけの覚悟でこの場を設けたのか、今更になって気づいたから。
俺よりもずっと、逢坂の方が恥ずかしくて、辛かっただろう。
なら、俺は向き合わないと。
それが逢坂からの信頼に応えることだろうから。
「………謝ることじゃない。逢坂だって、好きでそうしていたわけじゃないだろう。」
「…うん。」
「なら気にするな。今日はとことん付き合うから、ゆっくり話してくれ。」
「ありがとう。」
可愛らしい顔が笑顔に変わる。
いつだってそうあってほしい、俺の望むのはそういうささやかで、だけど大切なこと。
大それたことかもしれない。
他人の笑顔を守るのが如何に難しいのか、俺は知っている。
でも、俺の笑顔を守ってくれたのは、他でもない皆だ。
なら、あらゆる困難や苦痛を浴びてもなお、俺は笑顔で居続けないと。
見えないところで繋いでいる皆の手を、離さないでいたいから。
俺はなるだけ逢坂が話しやすいように、一つずつ質問していくことにした。
「じゃあまずは、そのしきたりについて聞かせてもらえるか?」
「うん、そうだね。えっと、長くなっても平気?」
「構わないさ。今日は一日空けてあるんだ、最後まで付き合うよ。」
「ありがとう先輩。じゃあ、私の家の話から。」
小さな告白が、こうして始まった。
Aisaka Side
静かに微笑みながら私の言葉を待つ真也先輩にドキドキしながら、私は本家の歴史を話し始めた。
「逢坂家は、織田信長が桶狭間にて今川義元を討ち果たすより以前から、時の大名や官軍などに雇われる傭兵集団として盛えていました。」
「織田信長って、随分長い歴史だな。」
真也先輩が壮大なその歴史に苦笑する。
私は同じように苦笑しながら頷いて、呆れるような歴史の一端を言葉で紡いでいく。
「武を奉じ、生涯は高みに至るためにあるのだと本気で信じていた彼らは、一族の長に龍矢の名を据え、あらゆる戦場でその武を振るいました。」
「それが逢坂家の本質ってことか?」
「はい。私の家は特定の主人を求めず、一族を強くするために戦場を駆けた武家です。自らの武に対する誇りと一族のしきたりに従って、日々鍛練に励んでしました。」
人らしい営みよりも、強くなることに重きを置いた一つの種族。
だがそんな一族が、変わりゆく社会の中に適合できるはずがない。
強さという言葉の意味が少しずつ移り変わって、いつしか逢坂が目指す強さがただの暴力であると、そう言われ始めた頃。
それは起こったのだ。
「ですが戦場の形式が個の強さより物量の時代になって久しい頃、一族の中でとある変化が起こりました。」
「変化?……なるほど、他の連中とは意見を異にする奴が現われたのか。」
やっぱり真也先輩は賢い。
学校で常に成績優秀なのは、単に努力を怠らないだけじゃないと思う。
与えられたバラバラの情報が上手く繋がるような道筋を、凄い早さで組み立てていく。
敵わないと思いつつ、私は真也先輩の言葉に頷いた。
「そうです。そしてその人物が、逢坂家を縮小させるきっかけになりました。元々当時の排他的な体制に疑問を感じていた人達も少なからずいたみたいです。結果として一族の重鎮を残し、方々へ散っていきました。」
「ならお前は、残った一族の末裔ってことになるんだな。」
「お察しの通りです。当時残された逢坂の当主候補が、現当主である私の祖父です。と言っても、当時はまだ大祖母のお腹の中だったそうですが。」
一族の解散という大事件が起こってしまったせいで、祖父は生まれる前から意思を剥奪された。
自由などなく、旧態依然とした逢坂の家を存続させるためだけに育てられた、人柱としての存在。
真也先輩はその意味が解ったんだろう。
悲しそうに目を細めて、小さく首を横に振った。
どれだけ辛い境遇だったのか、私たちには想像することしかできない。
私が女であると告白することさえ、もし同じ立場だったとしても与えられなかっただろうから。
だから、考えても仕方ないんだ。
同情したところで、祖父の過去が変わるわけじゃない。
湿っぽくなった空気を振り払うように、私は話を続けた。
「祖父はそんな人ですが、私の両親はいたって普通の夫婦でした。当然祖父には反発し、逢坂の家を出ていきました。……まだ生まれたばかりの私を置いて。」
「なん…だと?」
「気にしないで下さい、顔も知らないので寂しいとかそういった感情はないんです。」
「…そうか。」
「私にとっての両親は祖父と祖母、だから本当の両親がいない不自由はありません。それよりも問題は、かろうじて生まれた末裔が女だったことなんです。」
そして始まりに返る。
何故私が性別を偽る必要があったのか。
「龍矢という名は、当主は男性であるべきだと示唆しています。ですが私は女として生を受け、他に子はいません。そこで祖父は苦肉の策を採ることにしました。もう、真也先輩なら解りますよね?」
「お前を男として育てることで、完全な女性当主という肩書きを誤魔化そうとしたのか。」
「その通りです。男としての判断力や物の見方、雰囲気や態度。そういったものを幼い頃から考えさせることで、内面だけでも男にしようとしたんです。」
だけどそれは失敗に終わった。
私がこうして真也先輩に話している時点で……いえ、話したいと考え始めた時点で失敗だったんです。
成長するにつれて、身体は無視できないほど女性的に変わっていった。
いつしか胸にはさらしを巻き始め、男性としては低すぎる身長は、嫌でも女性なのだと意識してしまう。
始めから破綻した計画だったのだ。
でも祖父は絶対の存在。
徹底的に逢坂の人間である祖父の命令は、あの家で暮らしている以上あらがえなかった。
最終試験としてこの地にやってきて、男として三年間を終える。
でもその命令に、私は逆らった。
従うのが当たり前だったのに、初めてそれが嫌だと思ったんだ。
それはきっと、皆がいたから。
初めて友達らしい友達に出会えて、楽しいと思える日々に触れた。
偽りに包まれた私だけど、時には役目を忘れて楽しんでいた。
まぁ、緋結華さんに初日から見抜かれてしまったのは誤算だったけど。
でも言わないでいてくれた、嘘を吐いている私を嫌わないでいてくれた。
それが何より嬉しくて、同時に苦しくて。
騙しているという罪悪感が、日に日に強くなっていった。
言ってしまいたい、だけど祖父の存在が怖い。
でも真也先輩が一生懸命に変わろうとしているのを見ていたら、少しずつ勇気が湧いてきた。
私も変わりたい、もう皆に嘘を吐きたくない。
先輩に言おうと思ったのは、その勇気を分けてほしかったから。
いつからか目で追うようになった先輩なら、大丈夫って思えたから。
「…先輩。」
「ん?」
「私…もう嘘を吐きたくない。」
「………あぁ、俺も逢坂には辛くあってほしくないよ。」
「先輩!」
気がつけば私は、無意識に先輩の胸に抱きついていた。
だけど先輩はそっと私を受け止めて、頭を優しく撫でてくれる。
それが凄く心地よくて、安心して。
泣きそうになるのを我慢しながら、胸に顔を押しつけた。
細いのに力強い胸板が、妙に私をドキドキさせる。
本当に、どうしようもなく。
私はこの人を…。
「逢坂。」
「は、はいっ!?」
「本当の名前、教えてくれないか?」
「え?」
驚いて顔を上げる。
そこには照れ臭そうに笑う先輩の顔があって、私はすぐに顔を戻した。
「逢坂?」
「……ひめゆり。」
「え?」
「逢坂姫百合、それが私の本当の名前なんです。」
「姫百合か、可愛い名前だな。」
「はぅっ!?」
「ど、どうした!?」
「あの…暫くこうしててもいいですか?」
「まぁ、姫百合がそうしたいなら。」
「えへへ、ありがとう先輩。」
呼ばれた名前が、優しく心を暖めてくれる。
嬉しくて、何度も呼ばれたいけど。
今はこのささやかな幸せを、独り占めしていたい。
初めて感じる胸の高鳴りが治まるまで、私は先輩の鼓動の音に耳を傾けていた。
Himeyuri Side End
落ち着きを取り戻した姫百合が、今はちゃぶ台を挟んだ向かい側に戻っている。
その顔は憑き物が取れたみたいに、晴れ晴れとした笑顔を浮かべている。
嬉しかったんだろうな、誰かに認めてもらえて。
俺が皆の差し出してくれた手に救われたのと同じように、俺も姫百合の助けに少しはなれたのだろうか。
それにしても姫百合か。
何かと百合に縁があるのかな、まぁ特別な意味はないだろうけど。
そんなことを考えていると、照れ臭そうにした姫百合が小さく呟いた。
「あの…先輩?」
「ん、どうかしたか?」
「あの……えっとですね。」
もじもじと言いにくそうにしながらも、勇気を振り絞ったといった感じで姫百合は身を乗り出して言った。
「もう一度、名前で呼んでください!」
「っ!?…いやまぁ、構わないけどさ。」
勢いに任せるように言われたから何かと身構えたが、驚くほどのことじゃなかった。
今まで隠してきた本当の名前だもんな、呼ばれたいって気持ちも解らなくはない。
例えが悪いけど、きっと新しいオモチャを買ってもらって自慢したい子供のような心境なのだろう。
真面目で、見た目に反して落ち着いてると思っていたけど、可愛らしいとこもあるじゃないか。
俺ははしゃぐ子供にするみたいに、同じく身を乗り出して、姫百合の頭に手をやった。
そのまま髪を手櫛で梳かすように撫でながら、微笑みながら名前を呼んでやる。
「姫百合。」
「っ………。」
姫百合は目を見開いて、何故かそのまま固まってしまった。
すると徐々に顔が赤くなって、耳まで真っ赤になったかと思ったら、口を酸欠の魚みたいにパクパクやり始める。
あれ、もしかして怒らせちまったか?
「おーい姫百合?大丈夫か?」
「………。」
呼び掛けてみるも反応なし。
こりゃ調子に乗りすぎたか、確かに子供扱いしちまったしな。
俺は撫でていた手を離す。
すると我に返った姫百合が俺の手を眺めて、今度は悲しそうに形のいい眉を下げた。
む、もしかして違ったのか?
でも顔は赤いままだし…。
「あ、もしかして体調が悪いのか?」
「え?」
慌てて俺は姫百合の額に手を当てる。
手の平からじんわりと姫百合の熱が伝わってきて、自分の体温より高いことは容易に判った。
「やっぱ熱があるな。話はちゃんと聞くから、とりあえずちょっと横になれ、傍にいてやるから。」
「え…あ、大丈…。」
「いいから、ほら、俺の膝を使えよ。」
慌てて否定しようとする姫百合の方に近づいて、なるだけゆっくりと俺の膝に寝かせた。
きっとこの話をするにあたって相当緊張してたんだろう、もしかしたら昨日からあまり寝れなかったのかもしれない。
単に寝不足で熱っぽいだけなら、短時間の睡眠でも落ち着くはずだ。
サラサラの髪を顔にかからないように退かしてやりながら、空いた手でささやかながら扇いでやる。
「大丈夫か?もしかして寝不足じゃないか?」
「えっと……あの、確かにあまり寝てないけど、それが原因ってわけじゃなくて。」
「無理すんな、俺もこの前夏風邪引いた時は結構キツかったし。莉乃姉と緋結華が看病してくれたからすぐに治ったけど、そうなる前に治れば楽だからさ。」
「か、風邪とは違うんだけど。あぁでも、まったく違うってわけでも……。」
あたふたしてる間にも、顔の赤みはちょっとずつ増してきているように思える。
思った以上に重症なのか?
首に負担がかからないように膝の高さを下げながら、顔色の変化を見逃さないように視線を合わせる。
「あのね先輩。」
「ん、どうした?」
「……あんまり見つめられると、は、恥ずかしいから。」
「っ!わ、悪い。」
「だ、大丈夫だよ!うん、もう熱も大丈夫だから。」
「あ、あぁわかった。」
今更になって気づく根本的なこと。
そうか、恥ずかしかったのか、どうりで顔が赤くなるはずだ。
つーか俺、凄い色々と強引に…。
気づいてしまってからはもう遅い。
二人して顔を赤くしながら、動けないまま時間が過ぎていく。
視線がバッチリ合ったまま、姫百合は俺の膝の上から動かない。
柔らかい色を湛えた大きな瞳、細い筆ですっと払ったように綺麗な眉。
小さくもバランスのいい鼻梁に、桜の色を写したようなふっくらとした唇。
それらを完璧とも言える位置にまとめた小さな顔が、すぐ目の前にある。
女の子だと知った今だから言えることかもしれないが、この顔を男だと疑いもなく信じていたとは不思議な話だ。
贔屓目に見たって可愛いと評価できる姫百合は、今更ながら完全に女の子にしか見えない。
ホントに、先入観や慣れってのは恐ろしいな。
前はどれだけ近くても平気だったのに、今はこんなにも胸がドキドキと跳ねている。
クソッ、落ち着けよ俺。
そんなとき、開いていた窓からそよ風が部屋を抜けていった。
火照った身体に、心地いい清涼感が広がった。
「…せ、先輩。」
「ど、どうした?」
「こ、このまま話の続き、してもいいですか?えっとですね、凄く心地いいので。」
「あぁ、もちろん構わないぞ。」
静寂を姫百合が破ってくれたお陰で、幾分かドキドキが弱くなった。
「大事な話をする体勢じゃないかもしれないけど、真也先輩にこうしてもらってる方が気持ちも落ち着くので。」
「そ、そうか。それならまぁ、好きにしてくれ。」
だが何だろう、もう大事な話は聞き終わったと思っていたんだが。
性別を偽っていたことよりも大事ってことは、それに関わる今後の話だろうか?
まぁ、考えなくともすぐに聞ける。
俺は気持ちを切り替えながら、姫百合の言葉を待つ。
「先輩、明日からお暇でしょうか?」
「明日…から?」
「はい、二三日ほど予定は空いていませんか?是非一緒に来てほしいところがあるんです。」
「まぁ特にこれといって予定はないんだが、莉乃姉が毎日飽きもせず不法侵入してくるからな。」
今朝だって前日から電話であれだけ来るなと言っておいたのに、起きたらいつものように夜這いならぬ朝這いをしようとしてたからな。
理由を訊いたら、誰か別の女の子との逢瀬じゃないかと思うと不安になって家を飛び出し、俺が一人で寝ているのを見たら安心ついでに添い寝したくなったと、はた迷惑な勘違いに付き合わされただけだったのだ。
駄々をこねる莉乃姉を必死に説得して振り切ってから、後をつけられないように右へ左へ遠回りしてここに着いたのである。
恐らく家に帰れば待ちかねたとばかりに莉乃姉が現れ、何処へ行ってたのかとか誰に会ってたのかとか、嫁の粗を探すのにご執心な姑の如く質問責めにあうだろう。
たった一日所在を秘密にしただけでこの予想通りのことが起こるとすると、二三日も家を無断で空けたら一週間毎日付きっきりで相手をしなきゃならなくなるのは想像に難くない。
「やっぱり駄目かな?」
「あ、いや…。」
決して姫百合の申し出を断ろうとは思っていない。
思っていないのだが、莉乃姉が完全でなくとも納得し、明日とりあえず妨害もしくは着いて来ようとするのを思い止まらせる言い訳を、今からスパコン並に脳ミソをフル回転させて考えださなきゃならないな。
あらゆる言い訳に対して大人気なく駄々をこねて拒否し、どうにかして自分もその予定にねじ込もうとする賢い姉を説き伏せるのは、弁護士を雇わずに自力で法廷で勝利するのと同じくらい困難だ。
でもこの話は軽々しく他人に流布してもいい内容じゃないし、その困難をどうにかして乗り越えて明日を迎える他ない。
……まぁ、どうとでもなるさ。
それに、こんなことより困難な無理難題が息を潜めているような、そんな予感もあるからな。
俺は不安そうに俺を見上げる逢坂の頭を撫でると、安心できるように笑った。
「答えは初めから決まってるからな、その間の過程なんて幾らでも乗り越えてやるよ。」
「え、それって…。」
「何処へなりとお供しよう。姫百合が俺を必要としてくれるなら、俺はお前の剣にも盾にもなってやるさ。それに見合う…いや、それでもお釣りを返さなきゃならないほどの対価を、俺は既に貰ってるからな。」
「………先輩………ありがとう。」
姫百合の瞳が、きらきらした涙で潤んでいく。
身体を起こして拭いてみても、それは頬を伝って流れ落ちた。
でも姫百合は笑顔で、頬は薄く赤くなっていて。
今まで姫百合が浮かべたどんな笑顔よりも、その笑顔は美しく見えた。
あぁ良かった。
その涙が、心が曇ったから流れたものじゃなくて。
「それで姫百合、行き先は何処になるんだ?」
再び向かい合った姫百合に問い掛けるのは、申し出を受けたからには聞いておかなければならないこと。
何処へ向かい、そこで何をするのか。
徒手空拳の手ぶらで行くような雰囲気ではないのは確かだし、今晩莉乃姉を説得しながら準備すべき物もそれでおのずと定まってくるはずだ。
姫百合は真剣な表情をすると、居住まいを正して行き先を告げた。
「行き先は私の実家がある東京の奥多摩、その更に奥の山中にある逢坂本家です。」
「……え、東京?姫百合って都民なのか?」
「あ、はい一応。でも東京でも田舎の方しか知らないので、皆さんが東京と聞いて思い浮べるような物には殆ど触れていません。」
「あ、まぁそれはいいんだ。話の腰を折って悪い、続けてくれ。」
「?」
姫百合が不思議そうに首を傾げている。
いやホントに大したことじゃない。
相当に古い家系みたいだし、てっきりド田舎の霊山の麓とか中腹辺りにどんと居を構えてるかと思いきや、まさか日本の首都だとは思わなかっただけだ。
だけど東京なら新幹線や特急を使えばそれほど遠くない、こっちより交通の便だって圧倒的に良い。
まぁ更に奥の山中ってのが気になるが、まぁそこの住人が付いてるんだし問題ないだろう。
さて、場所に関しては納得だが、何をすれば良いんだろうな。
一日で手短に済むようなことじゃなさそうだし、前置きとして当主の命に背いたんだ、それほど軽い内容じゃないのは間違いないだろう。
俺は途切れさせてしまった話を再開するため、単刀直入に疑問を投げ掛けてみた。
「それで、俺はその姫百合の実家に行って何をすればいいんだ?あまり穏やかな雰囲気とは言い難い気もするが。」
「…そうですね、場合によってはそのような状況に陥る可能性も無いとは言えません。もちろん最大限の交渉はしますし、先輩はいるだけで済むように話すつもりです。」
「なるほどな、まぁ概ね理解した。詳細にどうなるかは姫百合にも判らないってことか。」
「はい、ごめんなさい。」
「いや構わないよ、何が起ころうと途中下車するつもりはない。乗り掛かった船だ、姫百合の望む結末に辿り着くまで付き合うさ。」
「あ、ありがとうございます先輩!」
不安そうながらも笑顔を浮かべる姫百合。
そうだ、場所もするべきことも重要じゃない。
俺はただ、姫百合の笑顔を守るために動くだけだ。
それもできれば、素性を偽らずにここへ戻ってこられるように。
話の流れからして、姫百合は戦いに行くんだろう。
逢坂家当主、逢坂龍矢との直接対決をしに。
交渉と言っていたし、基本的には話し合いによる解決を姫百合は望んでいるんだろう。
だが相手は武を奉じ、言葉ではなく拳にて語ってきた一族の長、望むかたちで事が済むとは思えない。
それを姫百合は十分に理解していて、それでも戦いたくはないと思っている。
今のところは何事もないことを願うくらいしかできることはないか。
何があってもその場で対処するしかないわけだし、諦めずに望みは捨てないよう努力しよう。
「一応一通りの話は済みましたけど、まだ気になることはありますか?」
「うーん、特にはないかな。しいて言うなら持っていく物で特別必要な物はあるか?」
「持ち物ですか?えーっと、大丈夫だと思いますよ?家まで少し山道が険しいのであまり底の堅い靴はお薦めできませんけど。」
「なるほどな、まぁそれは大丈夫だろ。」
普段からブーツを履いているし、あれは確か荒い道でも適していたはずだからな。
俺は明日からの数日間を想像しながら、ふと時計を見た。
あぁ、もう12時を回ってたのか、どうりで腹も減るはずだな。
話も済んだみたいだし、そろそろ帰るとするか。
今日は莉乃姉も夜まで来ないはずだから、帰りにコンビニかなんか寄って昼飯を買っていかないと。
俺は同じく部屋の壁掛け時計を眺めていた姫百合に顔を向けると、片膝をつきながら言った。
「んじゃ明日からよろしくな、何時頃何処に向かえばいい?」
「こちらこそお願いします!えっと、木野塚駅から新幹線に乗るので、朝の7時くらいには並木駅前にお願いします。」
「了解した、なら切符売り場辺りで落ち合おう。」
「はいっ、待ってます!」
姫百合は大変な交渉に向かうというのに、何故か嬉しそうな笑みを浮かべて頭を下げてくる。
何だろう、そんな楽しいことあるか?
よく解らないが、まぁ緊張なんて行きの車内で嫌というほどするだろうから、今から無闇に表情が堅いよりはいいのかもしれないな。
そう納得すると、俺はいよいよ腰を上げて、忘れ物がないかを確認する。
「じゃあそろそろ俺は帰るよ、大事な話もちゃんと聞けたしな。」
昼時に人様の家にいるのは良くないだろう、きっと俺と違って自炊してるんだろうし。
そう考えていたが、姫百合は嬉しそうな顔から一変して、不安そうに俺を見上げてきた。
「あの、先輩はこのあとどうしますか?」
「ん?どうするって、適当に飯を買って帰るけど?あぁ、久しぶりに空姉さんの喫茶店もありかもな。」
売り上げが低いってことはないだろうけど、たまには貢献しに行かないと。
まぁ空姉さんは美人で人気者だし夜は物凄く混んでるらしいから、昼時くらいしか一人で行きづらいしな。
…いつもお代は要らないと言われるが、今日こそきちんと払わなければ。
そう思っていた矢先、姫百合がおずおずとこんなことを言ってきた。
「あの、もし良かったら私の料理を食べてください!」
「………は?」
「私も莉乃先輩には及びませんけど、少しは料理の腕に覚えはあります。だがらその、お礼も兼ねてお昼をご馳走できたらなって思いまして。……ダメでしょうか?」
上目遣いに俺を見つめてくる姫百合。
う、その笑顔は反則だろ。
もちろん願ってもない申し出だし断る理由はない、ないのだけど…。
多分あの尋常じゃない雰囲気を醸し出す小峰宗十郎とも相席になりそうだ、まともに飯が喉を通るかどうか。
………まぁ別に、全部俺が我慢すべき問題なんだしいっか。
俺はそう結論づけると、腹に手を当てながら言った。
「じゃあ姫百合の味を堪能させてもらおうかな。」
「はぅっ!?わ、私ですか!?」
「え、だって姫百合が飯を作ってくれるんだろ?」
「あ………はいっ、お任せください!」
姫百合は何故か顔を真っ赤に染めながら大きく頷いた。
何だろう今の間は。
落ち着きなく立ち上がった姫百合はちょこちょこと俺の脇を抜けると、こちらですと言ってそそくさと歩きだした。
腕に覚えがあるとは言っていたが、実は緊張してるのだろうか。
薄暗い板張りの廊下を姫百合の後ろに着いて歩きながら、その後ろ姿を観察する。
線の細い身体は、恵恋と比べても変わらないくらいの細身だ。
まぁ恵恋と違って運動はかなりしてるからか、細身ながらも弱々しさは微塵も感じられない。
動作の一つ一つもきびきびとしていて、なるほど厳しい躾と戒律の中で生きてきたことを思わせる優雅さもある。
まぁそれは前からそうだったから性別どうこうは関係ないけど。
でも今まで背伸びしたような肩肘張ったようなそんな雰囲気があったけど、今は自然体というか、気持ちを楽にした感じがする。
秘密を打ち明けた俺といることで、少しは精神的負担が減れば良いんだけどな。
「私の味を……ううん、あれは料理のって意味だから。真也先輩がいきなりそんなこと……。」
何やら小さな声で姫百合が呟いている。
蚊の鳴くような声量だから内容までは聞き取れないが、見ると耳が赤くなっていた。
やっぱり緊張してるのだろうか、或いは自信がないのか?
「どうした?何か言ったか姫百合?」
「いえいえいえいえっ、何でもないです!」
振り返らずに首を勢い良く横に振りながら、何故か歩調が小走りに変わった。
いやいや、何でもないって反応じゃないぞそれ。
走っちゃいけない徒競走があるとしたらブッチギリで一位を狙えそうな速さで、姫百合は俺から逃げるように廊下を突き進んでいく。
俺、何か困らせるようなこと言ったか?
首を傾げながら追い掛ける。
といってもそもそも体格差が著しいから、ゆっくりだった歩調を少し早めるだけで追いつけてしまうのだけど。
て、広いとはいえあくまで家の中、厨房にはすぐに着いてしまう。
廊下より一段下がった床に降りると、そこは想像以上に広々していた。
奥の壁から左右に沿うようにして調理台が伸び、それ自体はかなり古くから使われているもののようだ。
所々に修理した形跡や壊れたままの部分があり、今も尚まんべんなく使われているわけではないと容易に見て取れる。
そして時代もちぐはぐだ。
土でできた釜があると思えば、水道などはウチと同じくステンレスになっていたり、囲炉裏に吊されていそうな鉄の鍋の隣には、誰でも知っているメーカーの炊飯器が何食わぬ顔で鎮座していた。
ある意味では長い時間の流れを感じることができるが、それにしても物凄い違和感と生活感が混雑している。
建物が重要文化財にでも登録されそうな物だから、目の前の厨房が余計に浮いて見えて、思わず苦笑が零れてしまう。
姫百合もそれは解っているからか、自室からここまで見せなかった顔を苦笑に変えて、恥ずかしそうに小さく呟いた。
「変ですよね、何だかごちゃごちゃしていて。」
「いや、まぁ仕方ないと思うぞ。この時代に薪で起こした火で鉄釜を使って米を炊くとか、かなり面倒だとは思うしな。」
「小峰の家はあまり形や風習に拘らないらしくて、使えるなら見た目は気にしないし、不便よりは便利を選ぶらしいです。」
なるほど、だから立派な門が電動で開いたりもするわけか、見た目は閂で施錠してそうな門なのに。
「その割には建物自体はそのままだな、庭の方も随分と手入れされた日本庭園だったし。」
「それは単純に師匠の趣味です。でも料理は全くできないらしいので、とりあえず亡くなった奥様が使いやすいように改装してしまったんだとか。」
「それはまた、改装業者も困っただろうな。」
何せ誰が見ても長い歴史を感じさせる建築物なんだ、それの一部をブッ壊してステンレスのシンクを取り付けろと言われたら俺は多分断るぞ。
しかしあの雰囲気に呑まれたらやるしかなかったんだろうな、まぁ仕事だから仕方ないだろうが。
「それより先輩、座っていてください。すぐに作りますから。」
「あぁ、悪いな。」
厨房の真ん中に置かれた椅子に座ると、姫百合がいそいそと大きめな冷蔵庫を開きながら言う。
「真也先輩は嫌いなものってありますか?」
「いや、特にないよ。」
「じゃあ和食でも平気ですか?莉乃先輩がいつも和食だと聞いていたので、もしかしたらたまには違うの食べたいとか…。」
「確かに莉乃姉は和食が多いけど、他のジャンルがないってことはないぞ。それに莉乃姉が来ない時はコンビニ弁当で済ませてるし、飽きたりはしないよ。」
「なら良かったです、下拵えしたのが無駄にならずに済みました。」
姫百合は顔だけをこちらに向けて嬉しそうに笑うと、ラップのかかったボール等を冷蔵庫から取り出していく。
つか下拵えって、そこまで手が込んでると恐縮してしまうな。
それだけ俺との食事を楽しみにしてくれてたのは伝わってくるけど、そんなに嬉しいものなのか?
一緒に食事っていうなら海に行った時とか昨日とか、それほど珍しいことでもないと思うが。
まぁせっかく手間暇かけて用意してくれるんだ、ありがたく姫百合の料理を堪能させてもらおう。
開き直ってしまえばどうということはない、単に後輩の女の子が昼飯に手料理をご馳走してくれるってだけだ。
当然初めてだから思わず期待してしまうのも仕方がない、莉乃姉とは違った味の和食というのも新鮮な感じだし。
ひとまずは楽しみに待たせてもらうとしよう。
Himeyuri Side
醤油とみりんが織り成す和食ならではの匂いが、二人暮しで使うには大きすぎる厨房に漂う。
屋敷の雰囲気にはぴったりの匂いではあるのだが、意外にも洋食を好む師匠との生活ではあまり嗅ぐことの少ない匂いだ。
ここにきて普段作らなかった洋食のレシピを覚えてみて料理のレパートリーは増えたものの、やはり自身が得意としている和食の腕を振るえないのは中々に寂しかった。
でも真也先輩は日頃から和食を食べ慣れているし、流石に嫌いということはないはず。
と思って昨日から準備していたけど、食べてもらえそうで本当に良かったと今は安心している。
もしも今日の話をして先輩が受け入れてくれなかったなら、ここでこうして背を向けて調理を始めることなんてできなかったのだから。
本当に良かった。
昨日の夜は緊張と恐怖で身体が震えていたし、全くと言っていいほどに眠気はやってこなかったのだ。
拒絶されたらどうしよう、嫌われたらどうしよう。
考えがとめどなく浮かんでは胸を締め付け、漸く意識を手放したのも多分明け方になった頃だ。
そんな心境などお構いなしに、身体はいつもの生活リズムで六時には目覚め、重たい身体を無理矢理に動かして朝食を作った。
それからは気を紛らわせるために掃除や洗濯をし、少しでも平静を取り戻そうと道場で瞑想をしていたら先輩が来たというところである。
部屋に案内し、誤解を生まずに真実を伝える方法を実行して、今この穏やかな自分に行き着けた。
………やっぱりあの方法は恥ずかしすぎたかも。
時間がかかっても言葉を並べていけば、裸を見せるなんて暴挙に出なくても済んだのに…。
ううん、仕方なかったよね。
私は甘く評価しても女性的な魅力は少ないし、胸もさらしを巻くだけで女だってばれないくらいしか膨らんでない。
今まで男だと言っていた人が女の格好で出てきても、変な趣味ですって暴露してるようにしか見えないもん。
だからやっぱり、あの方法が一番確実に信じてもらえる方法だったんだ。
…そう考えないと恥ずかしくて自爆しそうだし。
葱を包丁で薄く刻みながら、自分の決断に踏ん切りをつける。
あれこれ過ぎたことを考えるのはやめよう、結果として失敗したわけではないのだから。
寧ろ上々だと喜んでもいいくらいの状況だ、願ってもない今という時間を神に感謝してもいい。
たくさんの不安要素がある中で思い描いた希望は、驚くほど自分の望んだ形で収まってくれた。
それもひとえに、今後ろに感じている先輩のお陰だ。
ほとんど裏切りに近い嘘を怒りもせず否定もせず、私を気遣う余裕さえ持って、受け入れてくれたんだから。
そう思うと、胸に温かさが満ちていく。
不思議なその温もりはゆっくりと指先まで広がって、胸がドキドキして顔も熱くなるけど、思わずニコニコしてしまうくらい嬉しさが溢れてくる。
知らず知らずのうちに鼻歌を口ずさみ、小さな頃、遠足の前日に感じていたようなウキウキした気持ちが、メロディに乗って厨房に響く。
最後にこうなったのはいつだったか忘れてしまったけど、はっきりと断言できるくらいに、今の私はハイテンションなのだ。
「ご機嫌だな姫百合、料理が好きなのか?」
「料理は好きですけど、ちょっと違います。」
「うん?」
「えへへ、何でもないですよ~。」
確かに料理は楽しいけど、いつも繰り返していることでここまでウキウキはしない。
うん、やっぱりそうだ。
ありのまま、本当の私。
先輩がちゃんと私を見てくれてる、逢坂龍矢じゃなく、逢坂姫百合を見てくれてる。
私が私として先輩と一緒にいて、頑張って練習した手料理を振る舞える。
そんな皆が当たり前にできることを私もできてるってことが、嬉しくて幸せで、呆れるほどはしゃいでしまうんだ。
「姫百合。」
不意に呼ばれた私の名前に、いつもと違う特別な響きがあるような気がして、私は包丁を動かしていた手を止めた。
少しだけ不安になった。
きっと、心の中に染み渡っていくような真也先輩の声が、冷水をかけられたみたいに私を冷静にしてくれたから、そう思いたいけど…。
私は臆病になっているんだ。
その不安は大抵が私の勘違いで、気にしすぎだと言われてしまうようなものだから。
だからなるべく自然に、少し前の無邪気なまま、振り返って笑顔を向けよう。
「はい、何ですか先輩?」
「ありがとう。」
「え?」
予想していなかった言葉に、一瞬前の決意は泡が弾けるみたいに消えてしまった。
言われた言葉の意味は解るけど理由が解らなくて、そっと聞き返す。
「あの…私、お礼を言われるようなことしましたか?」
「姫百合が明かしてくれた秘密は、姫百合にとって簡単には言えない、凄く大事な秘密だっただろ。それが姫百合自身が望んだものでなかったとしても、口にするまでには随分と葛藤があったはずだ。」
「……はい、凄く怖かったです。せっかく仲良くなれた先輩に嫌われてしまうかもしれない、先輩が離れていってしまうかもしれない。そう思うと、とても平静ではいられませんでした。」
言いながら声が震える。
いくら済んだこととはいえ、まだ笑い話にできるほど時間は経っていない。
まざまざと思い返される不安や恐怖が、昨晩の震えまで鮮明に繰り返させる。
先ほどまでの幸福感を忘れないようにぎゅっと手を握りながら、祈るように口にした。
「だから私は貴方と一緒にいたい!初めてそう思えた先輩とずっと、私のままで隣にいたい!」
叫んだ、力一杯に。
不器用で、だけど誰かのために無理にでも頑張ってしまえる、そんな人だから。
本当に大切なことを、誰よりも解っている人だから。
人の痛みを考えて、理解しようとして、勇気をくれる人だから。
この気持ちは嘘じゃない。
男として接していた僅かばかりの日々の中で、私に道を変えるきっかけを抱かせてくれた。
予感はある、それもほとんど確信に近い予感が。
それでもやっぱり、私は伝えてみたい。
ごめんなさい緋結華さん、私は裏切り者です。
だけどもう、自分に嘘を吐くのは止めたんだ。
「私は先輩が好きです!他の誰よりも大好きです!そんな貴方と一緒にいられる道を、私に歩かせてください!」
目をつぶって祈る。
例え叶わないと知っていても、願わずにはいられない。
私は弱虫だから、波が荒立たないようにしかできないけど。
勇気を出しても、LoveをLikeに受け取られても不思議じゃない言い方しかできなかった。
だから先輩はきっとLikeの意味で受け取って、それでも全力で力を貸してくれる。
十分すぎるほど満たされている、そのはずなのに、心は強欲で、満たされた途端に次の願いを思い描く。
もしも叶うなら、私の言葉の意味を感じて、先輩とそんな関係になりたいと。
「姫百合。」
呼ばれた名前に、私の胸がどくんと跳ねる。
「そう思ってくれてありがとう、俺も姫百合のことは好きだよ。」
好きという言葉が、単純な私の心に響く。
だけど淡い気持ちは、近づけば見えなくなる蜃気楼のように儚く消えた。
「俺を信じて頼ってくれた姫百合のためなら、俺は微力ながら最善を尽くそう。それが姫百合が俺にしてくれたことへの、せめてもの恩返しだ。」
あぁ、やっぱり届かなかった。
本当にこの人の鈍さというか気づかなさには舌を巻く、もしかしたらわざとやっているのかもって勘ぐるくらいに。
人の痛みや苦しみには驚くほど敏感なくせに、人からの好意には泣きたくなるほど鈍感だなんて。
でも、凄く嬉しい。
例え一番伝えたい想いは届かなくても、一歩前には進めたんだ。
愛しさと涙が同時に溢れてくる。
「ありがとう……ございます先輩!」
「あぁ、一緒に頑張ろう。」
そっと頭に乗せられた手の平。
大きくて力強くて、自然と安心できるその手が、優しく撫でてくれる。
あぁ、皆が苦労するはずだ。
どれだけこっちが決死の思いで放つ言葉も、この人は躱すどころか受けとめて、何をされたのかさえ解っていない。
まさに難攻不落、お祖父様と正面から戦って勝つよりも難しいのではないだろうか。
まったく、何にせよとんでもなく女泣かせな人だ。
しかも本人は無自覚なんだから始末が悪い。
周りは匙を投げたくなるほどの強敵揃いだし、恋愛なんて初心者だし、恋の女神様がいるのだとしたらきっととんでもなく意地悪なんだろうって思う。
それでも諦めたくないって思うから、恋愛って難しいんだよね。
だけど今は、この喜びを噛み締めておこう。
先輩から頭を撫でてもらえるなんて、ささやかだけど大切な幸せを。
Himeyuri Side End
蝉の鳴き声が徐々に穏やかになってきて、少しずつ虫の音が変わりつつある時間。
空にはキラキラと星が瞬いて、沈みかけた太陽の代わりに月が世界を照らし始める頃。
俺は姫百合と小峰師範に見送られて、開け放たれた門の前にいた。
泣き止んだ姫百合が作ってくれた莉乃姉に勝るとも劣らない和食を堪能した後、上機嫌な姫百合に屋敷を案内されたり、茶室でお茶を立ててもらったり、縁側でのんびりと雑談に花咲かせたりもしていた。
驚くほど多芸に秀でている姫百合は、まるで急に良家のお嬢様になったかのような所作の数々を披露して、俺も笑ったり驚いたりと楽しんだ。
明日の準備もあるからと頃合いを見て口に出したが、姫百合はまだまだ一緒にいたいと言うように寂しそうな表情を浮かべ、しかし納得して見送りに出てきた。
きっと本来の自分で心置きなく過ごせることにはしゃいでいたんだろうな。
今まで溜まっていた鬱憤を晴らすみたいに、今日の姫百合は積極的で元気だったし。
まぁ準備には莉乃姉の説得という過酷な任務も含まれているし、かなりの条件を呑まされそうな気がするが、甘んじて受け入れよう。
俺は門の内側でしゅんと落ち込んでいる姫百合に振り返ると、できるだけ安心させるように微笑んで言った。
「じゃあな姫百合、また明日からよろしくな。」
「はい、こちらこそよろしくお願いします。」
「その…またすぐに会えるから、ちょっとの間だけ我慢な。」
「あ…はいっ、待ってます!」
少しだけ元気を取り戻した姫百合に俺自身も安心していると、母屋の方から小峰師範が歩いてきた。不思議がって視線を向けると、小峰師範は姫百合の隣に止まって腕を組み、小さく頭を下げた。
「ワシからも頼んでおくぞ桐生真也殿。逢坂の娘……いや、姫百合を頼む。」
「師匠?」
姫百合が驚いて小峰師範を見上げると、彼は愛しみを込めた瞳で彼女を見て笑う。
「ワシは子供に恵まれなかったからの、僅かな間ではあったが娘ができたようで嬉しかったのじゃ。だから寂しくはあるが、その門出を祝い、困難を憂うのは当然のこと。初対面のそなたに頼むのは些か以上に無礼と承知じゃが、どうかこの老いぼれの頼みを聞き入れてはもらえまいか?」
俺みたいなガキを相手に跪き、こうべを垂れる小峰師範。
俺も静かに膝を折ると、同じくこうべを垂れて応えた。
「御意、小峰宗十郎殿。若輩者故至らぬこと多々あれど、全力を以てお供致します。」
顔を上げるとそこには、子を思う親の顔が微笑んでいた。
二人で立ち上がると、姫百合が瞳をうるうると煌めかせ、俺たちを交互に見ながら言う。
「二人共……ありがとうございます!」
「礼なら彼に言えば十分じゃ、ワシはもう何もできんからの。」
「そんなことないです!これからもたくさん技を教えてください、色んな話を聞かせてください、もう終わりみたいに言わないでください!」
「………。」
姫百合の言葉に小峰師範は面食らったように目を開き、やがて穏やかな微笑みを浮かべながら、姫百合の頭を一度だけ撫でた。
それは本当の親子のようで、俺までもつられて笑ってしまうほど幸せな光景だ。
小峰師範は改めて俺に向き直ると、真剣な表情で告げる。
「逢坂龍矢は生半可な覚悟で立ち向かって勝てる相手ではない、故に真なる力を示すのじゃ。」
「真なる力、ですか?」
「左様。力とは即ち武力ではない。それをそなたが示すこと叶えば、奴はおのずと刃を引くじゃろう。二人が望む結末を得て帰って来ることをワシは祈っておる、頼むぞ桐生真也殿。」
「はい。約束はできなくても、姫百合の笑顔だけは必ず守ります。」
俺は誰かの望みを叶えてやれるような大層な人間じゃない。
それでも、俺にできる最大限を出さずに、大切な友人の幸福を諦めたりはしない。
例えどれだけの困難が待ち受けていようとも、二人で挑まずにする後悔ほど無益なことはないから。
「姫百合。」
「はい。」
「安心しろとは言えない。けど、お前が願いを諦めようと思えないくらい、俺は姫百合の前で立ち続ける。」
「……はいっ!」
笑顔を浮かべた姫百合に俺も頷きを返すと、なるべくいつもの調子で一時の別れを告げる。
「じゃあな姫百合、小峰師範もまた。」
「うむ、吉報を待っておる。」
「また明日です先輩!」
小さく振る手。
気合いは十分、後は願いをカタチにするだけだ。
姫百合が姫百合として、仲間でいられるように。
家の扉は当然のように鍵が開いていた。
玄関には夏らしいヒールサンダルが丁寧に揃えてあって、奥の扉の向こうにいるであろう持ち主は、家主の帰宅に挨拶さえせずに不機嫌オーラを放出しているようだ。
想像していた以上に行き先を秘密にしたことを怒っているらしい、或いは拗ねているかのどちらかだな。
静かに靴を脱ぐと、何となく莉乃姉のサンダルの隣に綺麗に並べた。
既にちょっと弱気になり始めているとか、別にそういうわけじゃない。
言い方は悪いが、莉乃姉くらいに怯んでいるようでは、明日からの旅行に勝機などない、まだまだ序盤戦なんだから。
少し深呼吸してから、いつものように扉を開ける。
「ただいま莉乃ね……。」
あぁ、後者の方だったか。
ベッドの上で背を向けて体育座りする莉乃姉は、俺の言葉に反応することなく俯いている。
ここまで落ち込んでいるとは、これはかなり色々しないと機嫌直してくれそうにないな。
テーブルを見ると二人分の夕食がラップをかけて用意してあった。
ラップの内側が湯気で曇っているとこを見るに、作ってからそれほど時間は経っていないらしい。
しかも今日は珍しく中華に挑戦したようで、麻婆豆腐や春巻など、ご飯が進みそうなおかずの数々が皿の上で口に入るのを待っている。
普段しないことをして気を紛らわせたのか、やけに手が込んでいるな。
美味さは食べる前から保証付きとして、問題は食べるに到れるのかだ。
姫百合からの話が他言しない方が良さそうだったのもあって、秘密を押し通して家を出てしまったからな。
事情が事情とはいえ俺が撒いた種だ、まさか放置するわけにもいかない。
俺はそっと莉乃姉に近づくと、静かにその隣に腰掛けた。
莉乃姉はぴくりとも動かずに、じっと今の体勢を維持している。
これでいつもみたいに抱きついてきてくれたらどれだけいいだろうかと、そんな都合のいいことを考えながら少しだけ距離を詰めた。
あまり誉められたことじゃないが、こうなりゃなりふり構うのは愚策だな、話を聞いてもらう足掛かりくらいは作らないとにっちもさっちもいかない。
背中合わせになったところで身体ごと振り返ると、そっと後ろから莉乃姉を抱き締めた。
力は込めず、覆いかぶさるようにして小さな背中を包み込むと、いい匂いがする頭に額を押しつける。
恥ずかしさで顔が急激に熱くなり、心臓がドキドキと早鐘を打ち始めた。
姫百合の一糸纏わぬ姿を見てしまった時とは違う異様な緊張感が、言葉を紡ごうとする口をカラカラに渇かしていく。
何故だかそのドキドキに懐かしさを感じながら、俺は深呼吸してから話し始めた。
Rino Side
背中に優しい温もりを感じて、あたしは微睡みの中から浮上した。
そっか、疲れて寝ちゃったんだな。
結局真也は何処に行くのか話してくれないまま出かけてしまって、誰もいない部屋に凄い寂しくなって…。
真也が、あたしを置いて行ってしまう気がした。
ちょっと涙が出そうになって、気晴らしにおもいっきり掃除をしてやろうって張り切ったんだ。
最近、ことあるごとに泣いてる気がするな。
それもこれも、全部真也に関わることなんだけど。
最近、真也と二人きりの時間が減ったなぁ。
昔はあたしと真也と真耶の三人しかいなくて、それがあたしの全てで、何よりも大事なものだった。
真也はいつも側にいてくれたし、真耶以外の誰よりも近い距離にいたのに。
今の真也は素敵になった。
あたしが自分の気持ちに気づいた時よりもずっと格好よくて、凄く優しくて、人の気持ちには敏感なくせに、想いになると鈍感で。
たくさんの女の子が想いを寄せているって知っていても、それでもあたしと真也の距離は変わらなかったから、だから周りを寄せ付けないくらいのアピールだってできた。
でも、もうそうじゃないのかなって、最近はふと考えてしまう。
御奈坂と冴塚。
二人は絶対真也のことが好きだ。
冴塚はクールな表情だけど、出会ってからずっと好きだったりするし、御奈坂も少しずつ真也に惹かれ始めてる。
あたしはあたし、周りが真也をどんな風に思っていても関係ない。
そのいわばポリシーのような考え方が、どうしようもない不安で塗り替えられていく。
冷静さを侵す焦りと不安が、想いが膨らむほど比例して強くなる。
距離が近くなりすぎたのか?
真也はもう、誰かを好きにはならないのかも。
わからない。
わからないけど、とりあえず起きよう。
今何時かわからないけど、きっと真也が帰ってくる気がするし。
そういえば、背中の温もりと重さは何だろう。
布団は被らなかったと思うんだが。
「ごめんな莉乃姉。ずっと待っててくれたんだよな。」
え、真也?
驚きで飛び跳ねそうになる身体をなんとか抑えて、思考を整理する。
もしかして背中から抱き締めてくれてるのって真也か?
あたしが寝ている間に帰ってきてたってことだよな。
でも何であたし抱き締められてるんだ?
胸の高鳴りはどんどん強くなって、触れ合っているところから真也に伝わってしまいそうなくらいに激しくなってきた。
どうしよう、動けない。
理由はわからないけど、棚からぼた餅的な幸福に感謝する。
もしやこのままあたしを押し倒したりとか…。
………それはないな、真也に限ってそんな乱暴はしない。
でも心の奥で期待してしまうのは、あたしがはしたない女だからなのかな?
採らぬ狸の皮算用と言われればそれまでだけど、真也とキスしたり抱き締め合ったりそれ以上のことを望んでしまう。
前はそこまで先は考えてなかった。
何度も告白して、その度にはぐらかされたり先延ばしにされて、口ではそれでも良いだなんて言っても、心は早く早くとせがんでる。
だってあたしはずっとずっと、真也が大好きなんだから。
動かないようにして、真也の温もりを愛おしく感じる。
あたしが動かなければ、きっと暫らくはこのままだ。
それになんだか、真也の言葉も聞ける気がする。
卑怯かもしれないけど、もう少しこのままでいよう。
そう思う矢先から、真也は言葉を続けた。
「そのままで良いから、少しだけ話を聞いてくれ。」
その声色に、少し予感はした。
きっとこの話は、あたしにとって喜べる話ではないんだろうという、そんな予感。
首の後ろから聞こえる真也の声は、謝るような声だったから。
「逢坂のことで、二三日東京に行くことになった。実は今日出かけてたのも、それに関わることだったんだ。」
え……東京?
何でそんな遠くに逢坂と?
突然言われた予想外の話に、頭が混乱する。
「理由は…今はまだ言えない。でも帰ってきたら話すから、少し待っててほしい。」
ドキドキと心臓がうるさい。
それはもう抱き締められてる喜びからではなく、やるかたない不安からだ。
嫌だ。
離れたくない、離したくない。
真耶はもういない、それに真也まであたしから離れてしまったら。
あたしの世界は、どうなってしまうんだ?
気持ちがぐちゃぐちゃになって、胸が苦しくなる。
我が儘なのは判っていても、気持ちがそれを解ろうとしない。
黙っていられなくなって、気持ちが口から溢れだす。
「嫌だ…あたしは真也がいなくなるのは嫌だ!」
あたしの声に真也が驚くのを感じた。
でも真也は離れずに、そのまま話し続ける。
「莉乃姉。」
「嫌だって言ったら嫌なんだ!」
我が儘、そんな自分が嫌になる。
それでも一度溢れだした気持ちは止められなくて、次々と溜め込んでいた思いが口に出てしまう。
「ずっと一緒だったのに真也が離れていくみたいで、苦しくて寂しくて、だけどあたしは年長者だし、彼女でもないけど、それでも大好きだから、離れたくないから!」
文法なんてあったものじゃない。
我が儘は思いつく端から飛び出していって、ぐちゃぐちゃした感情が勢いに乗って叫びに変わる。
「胸が痛いくらい大好きなんだ!真也が他の女の子と仲良くしてると不安なんだ!でもどうすることもできなくて、皆との関係だって大切で、苦しいよ真也!」
あたしの声が反響して、緩やかに消えていく。
耳が痛いほどの静寂が部屋に満ちて、二人の息遣いだけが、波間に響くさざ波のように聞こえている。
言ってしまった。
これが真也を絡めてしまう茨だと知っていて、言ってしまった。
真也はもう無視できなくなる。
真也は優しいから、あたしの気持ちを受け止めすぎて、身動きが取れなくなる。
皆との関係に絡むことまで言ってしまったんだ、もしかしなくても真也をあたしは困らせた。
ホントに、最低だなあたしは。
真也の姉としても、年長者としても、女としても。
真也を困らせてばかりだ、嫌われたとしても引かれたとしても不思議じゃない。
あたしはあたしが大切に思っていた世界を、自らの手で破壊してしまった。
良くも悪くも、もうお終い。
だからお願いだ真也。
何でもいい、沈黙が痛くて辛い。
涙が、すぐそこまで来てるから。
真也の言葉が聞きたいよ。
「………ホントに、俺は最低だな。」
「…え?」
「莉乃姉を苦しめてたことに、こうして莉乃姉の口から聞くまで気づかなかったんだから。」
真也の口から紡がれた謝罪。
どうして真也が謝るの?
悪いのは嫉妬深いあたしで、真也は誰かのために頑張っていたのに。
今きっと真也はどんな顔をしてるんだろう。
きっと申し訳なさそうにしてる、そんな希望じみた自分勝手な考えが脳裏をよぎる。
普通は呆れた顔で嗜められてもおかしくないのに、どうして真也は悲しそうな声を出すの?
「俺はさ、莉乃姉に甘えてきた。姉さんがいなくなってからも、皆に救われてからも、どっかで莉乃姉は傍にいてくれる、俺が間違えそうになった時、いつもの自信に満ちた笑顔で教えてくれる、そんな風に思っちまってた。でもそこには莉乃姉の気持ちなんて考えてない俺がいて、自分のことばっか考えてた。」
真也の言葉に胸が熱くなる。
違うよって叫びたくなる。
自分のことばかり考えてたのはあたしで、真也はそんなことないんだよって。
でもあたしの口は動こうとしなかった。
真也の気持ちをもっと聞きたいだなんて、そんな欲張りな感情が恥ずかしげもなくあたしを黙らせる。
「莉乃姉から大切な想いを打ち明けられといて、答えも返さずに好き勝手やってて、莉乃姉がそんな風に考えるのも無理はない。だからごめんな莉乃姉、苦しめてしまってごめん。」
「ぐず……真也ぁ!」
我慢できなくて、あたしは振り返って真也を押し倒していた。
驚いたはずの真也も、そっと背中を撫でてくれる。
あたしは涙でぐしゃぐしゃになった顔を真也の胸に埋めて、ぎゅって強く抱きついて、迷子の子供が親に会えたみたいに、離れないように、声を出して泣いた。
嬉しい気持ちが涙になって、不安や痛みを幸せに変えていく。
心の中で謝った。
何度も何度も不安になって、偉そうに嫉妬して、真也を困らせてごめんって。
きっとこの先も、例えあたしの望まぬ結末が訪れたとしても、迷惑かけちゃうから。
だけど今は、別の言葉を選ぼう。
「ありがとう、大好きだよ真也。」
「あぁ、俺の方こそありがとう莉乃姉。」
やっと見えた二本の糸。
バラバラだと思っていたそれは、ちゃんと繋がってた。
でもあたしは欲張りだ。
もっと強くしっかりと繋がっていたいと思ってしまう。
だからあたしも、もう一歩前に出てみよう。
真耶、ごめん。
あたしももう、お姉ちゃんだけじゃ嫌なんだ!
「真也。」
「ん?」
「答えも全部、真也が終わったと思ってからでいい。逢坂のことも、あたしは何も今は訊かない。」
「あ……すまん、ありがとう。」
「だけど一つだけ、我が儘をさせてもらう。…それくらい、いいかな?」
「う……あんま無茶は言わないでくれればまぁ。」
「大丈夫だ、真也は何もしなくていい。」
「は?それってどういう……!?」
真也の驚いた顔が目の前にある。
時間が止まってしまったかのような一瞬。
女の子みたいに柔らかくて温かな感触が、あたしの唇に触れている。
自制心を最大限に発揮して、ゆっくりと顔を離した。
何かを言おうとして言葉が見つからずわなわなと口を震わせる真也が、何故か妙におかしく見える。
でも安心しろ真也。
あたしの心臓も爆発寸前にドキドキしてるんだ。
だってファーストキスを、真也に捧げたんだから。
幸福感があたしを狂わせてしまいそうなほど、今の心は幸せで満たされている。
痛いくらいに胸の奥で大暴れしている心臓も、あたしを溶かしてしまいそうなくらい熱い血流も、何もかも無視してニヤニヤが止まらない。
もうずっとこのままなんじゃないかって思うほどに、恥ずかしさと嬉しさが顔を笑みに固定する。
あぁ、こんなにドキドキしたら、真也に聞こえてるなきっと。
遂に一線を越えてしまった。
あたし自身が越えないように、越えたらダメだと決めていた一線。
多分歯止めが利かなくなるって考えてのことだったけど、それは間違いじゃなかったみたいだ。
だって今のあたしは、数分前の何倍も真也を求めてしまっている。
キスの心地よさだけじゃ、足りない。
もっと先を期待してしまう。
まだ混乱している真也相手なら、あたしでもリードできるんじゃないかって考えが浮かぶ。
………ダメだ、いざとなると恥ずかしすぎる。
これだけ身体を密着させてキスまでしたのに、描いた妄想は現実にならない。
今や幸福感より羞恥心が勝り始めて、ドキドキが激しくなってきた。
そもそも嫌がられてたら最悪だ、嫌われるための第一歩を勢いで踏み出したようなものじゃないか。
段々と不安が心に舞い戻ってきて、冷静さなんて感情の濁流に流されて何処かに消えた。
どうしよう、全力で逃げ出したくなってきたぞ。
とりあえず誤魔化すように真也の胸で顔を隠す。
真也の胸からもあたしと同じくらい強い鼓動が、ドキドキとあたしの額に響く。
あはは、真也もすっごくドキドキしてるじゃないか。
嫌だと思うことをされてドキドキするとしたら、それは怖いことや驚かされたときくらいだと思う。
恐る恐る顔を上げる。
そこには真っ赤に染まった顔を恥ずかしそうに逸らす真也がいた。
あたしと一瞬視線が合って、真也は小さな声で呟く。
「…あのさ、莉乃姉?」
「う…うん、なんだ真也?」
「い、今さ…キス……しなかったか?」
「……えへへ………気持ち良かったぞ真也。」
「っ!?」
ぱくぱくと口だけ動かしながらぎゅっと目を閉じた真也は、鼓動のリズムを早めながら言った。
「そういうことは、お互いの同意の上でって言ってなかったか?」
「あ………あはは、やっちゃった。」
「ま、まぁもうしちまったもんは仕方ないからな、うん。」
「あのさ真也。」
「なんだ?」
「嫌だったか?」
あたしの言葉に真也が目を開いてあたしを見つめてくる。
真っ直ぐ見つめてくる視線は恥ずかしさを含んでいるけど、気持ちを伝えようとする一生懸命さがはっきりと見えた。
再び唇が触れ合いそうなほど近い互いの顔。
「…嫌なはずがあるかよ。」
耳に届く、真也の声。
恥ずかしがりながらも、真摯な言葉。
「この胸の鼓動の強さは、決して嫌悪からくるものじゃない、それだけは断言できる。俺は莉乃姉を嫌だとか思ったことなんて、一度だってないんだから。」
「………うん。」
不安は、まるで初めからなかったみたいになくなっていた。
今のあたしは、温かな安心感で満ち足りている。
ホントに、好きという感情は凄い。
真也の言葉を聞いただけで、こんなにも穏やかになれるのだから。
思わず強く真也に抱きついて、何度だってしたくなるキスの衝動を押さえ付けた。
絞りだすように出した声は、呆れるくらいに嬉しさが含まれた声で、冷静な自分が俯瞰できるならきっと浮かれすぎだって怒るだろう。
「じゃあ、その気持ちはどんな気持ちなんだ?」
一瞬の沈黙。
真也は頬を指先で掻きながら、一層小さい声で言う。
「この状況は卑怯だぞ莉乃姉、流れが悪すぎる。」
「そんなことない、かつてないほど最高の流れだよ!さぁ、是非あたしが発狂する幸せな言葉を!」
「さっきは答えは最後でいいって言ってただろ。それに、俺はまだ決められないんだ。」
「え…どうして?」
「……真耶姉さんとの約束だからな。」
あたしはその一言で言葉を失っていた。
真耶と真也が交わした約束。
それはあたしの知らない、二人だけの約束だ。
それを真也が何よりも大切にしていることくらい、付き合いがこれだけ長ければわかる。
気にならないとは言わない、けどあたしから訊いていい内容でもない。
だけどきっと表情に出ていたんだろう。
真也はあたしを見ながら苦笑して、宥めるように頭を撫でてきた。
「あの丘で姉さんと再会できた時、姉さんは消える間際に言ったんだ。…幸せになってほしいって。俺が誰かを好きになって、その人と結ばれて、幸せになってくれってことだと思う。沈んでいく夕陽を背にして、そう約束したんだ。」
穏やかに語る真也の顔を見て、あたしは改めて理解した。
真耶はどこまでも深く、真也を愛していたということを。
そうでなければ、自分の好きな人に他の人を好きになれだなんて言えない。
真也はあたしの頭を撫でながら、申し訳なさそうな顔で続ける。
「俺が一緒にいて幸せだと思える人は、もしかしたら莉乃姉以外にもいるかもしれない。緋結華や恵恋、或いはまだ知らない誰か。自惚れてるつもりはないけど、俺は時間をかけてそれを考えてみたい。」
その約束を守るというのなら、確かに今答えを出すのは性急だろうな。
真也は選ばなければならない。
これからたくさんある出会いの中で、自分の幸せを共に歩める人を。
それがあたしという保証はどこにもない、だからこそ真也は見極めようとしてるんだ。
あたしから告げられた想いに答えを出すために、一つの期限を設けて。
全部が終わる頃、多分遅くとも卒業までに。
もしあたしの卒業を期限にしてくれてるなら、遅くとも来年まで。
「だから答えは既にあるけど、もう少しだけ待っててほしい。答えを言っているようなものだけど、その……莉乃姉は誰よりも大切だからさ。」
「え…それって…。」
「よしっ、この話はこれで終わりだ!」
「えぇっ!?ちょっ、真也!?」
強引に話を打ち切った真也はそっとあたしの下から抜け出ると、立ち上がって背中を向けたまま言う。
「ずるいのは解ってる、だけど今は勘弁してくれな。それほど遠くない未来で、答えは話すからさ。」
そう言った真也の背中は、天変地異が起きても変わらなそうな決意に満ちていた。
まったく、そんな背中を見せられたら、もうあたしの返答なんて一つしかないじゃないか。
「………まぁ、仕方ないな。真也が決めたことだ、あたしが我儘言っても変えないんだろ?」
「あぁ、こればかりは俺の我儘でもあるからな。」
「なら待つさ。それにな真也。」
「ん?」
あたしはそんな真也の背中にくっつくと、小さく笑って言う。
「これからも全力でアピールは続けるから覚悟しとけよ!」
「なっ………あはは、そうだな、それは大変そうだ。」
「ふふふ、そうだろ。」
二人で笑い合う。
不安がないわけじゃない。
この話の前と後では、不安のカタチも違う。
けど、嬉しさも加わったんだ。
近すぎたとか、そんなの単なる思い過しだって気づけたから。
あたしにもまだまだ、チャンスはあるんだってことがわかったんだ。
だから今は、真也の背中を押してやろう。
それが何よりも、真也が答えを出すための手助けになるんだから。
Rino Side End
鞄に着替えや日用品を詰め込んで、片付いた部屋を見渡してみる。
忘れ物はなさそうだな、まぁないと困るものはあらかた入れただろう。
寝る前の最終チェックを終えて、ベッドに横になる。
同じ部屋の住人である夏音は、莉乃姉が恵恋に連絡を入れて連れていった。
二三日家を空けるんだし、きちんと面倒見れるのはやはり恵恋が一番だと思ったのだ。
「はぁ…またですか、まったく夏音より世話のかかる人ですね真也さんは。まぁいいです、旅行なら気の効いたお土産を期待してますから、適当なもの買ってきたら夏音を返しませんよ?」
電話口でも小言は聞かされたが、恵恋は行き先も誰と行くのかも訊いてこなかった。
あまりにもあっさり承諾されて呆気にとられた俺は、つい機嫌でもいいのかと尋ねてみたら、物凄く深く溜め息を吐かれたのだ。
「はぁ………わたしは無駄なことはしないんです。貴方がわたしのあずかり知らぬ所で決めたことなら、今更何を言っても拗れるだけでしょう?だったらさっさと受け入れて、貴方の願いが叶うことを祈るくらいしかすることがありませんからね。………バカ。」
何もできないことへの抵抗のように呟かれたその最後の言葉を聞いて、俺は電話の向こうの恵恋に頭を下げてお礼を言った。
恵恋にはホント世話になりっぱなしだし、帰ってきたら礼の一つもしないとな。
…さぁ、そろそろ寝ないと。
明日から何が起こるのかはっきりとは判らないが、寝不足でどうにかなるほど簡単なことじゃないだろう。
電気を消して暗闇に身を投じると、月明かりの射し込む夜空を見上げた。
半分に欠けた月は、それでも輝きを損なうことなく空にある。
満月まではもう半月ほどだろうか、失われたように見えるもう半分はその暗い影の向こうに今もあって、太陽の光を浴びれる夜を今か今かと待っている。
もしかしたら、心もそうなのかもしれないな。
自分自身のことだから見えないだけで、ただの一度だって失われてはいないのだ。
見失っただけで、時が経てば少しずつ見えてくる。
そうであれば、きっとそれは悪いことじゃない。
忘れるわけじゃないんだ、だから大丈夫。
左腕に着けていたブレスレットを外して、テーブルにそっと乗せる。
明日からまた出かけてくるけど、見守っててくれよな…姉さん。
小さく笑みを零すと、俺は緩やかな眠りの中に入っていった。




