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Day.12 それは誰よりも美しかった

ジリジリと照りつける真夏の太陽の下で、厚かましくも泣き喚く蝉の軍勢が、一本の木に押し合いへし合い張りついている。

熱されたアスファルトから立ち上る陽炎は、肌が痛くなる程の日光を物語っていた。

おまけに風はほとんど吹いておらず、ニュースでは今年一番の気温だと言っていたらしい。

でもそれとは無縁の空間を作り出せるのが、文明の利器ってやつだ。

俺たちは夏休みの宿題を片付けるために、集まって勉強会を開いている。

場所は何故か皆の希望で俺の家。

何でも中立地帯だとかどうとか緋結華が言っていた気がするが、勿論さっぱり意味は解らない。

狭いワンルームに六人も顔を突き合わせて、小さなテーブルに何冊もノートやプリントを展開している。

五人が互いに身を寄せ合いながら囲むテーブルを横目に、俺は窮屈だなと他人事みたいに思っていた。

俺は夏休み早々に宿題は終えてしまったから、正直一人だけ手持ちぶさただ。

冷房を利かせた部屋には、カリカリとシャーペンの奔る音が響いている。

俺はベッドの縁に座って本を読んでいて、別に家に集まらなくても良かっただろうと思案していた。


「頼む桐生!」


そんな一言を叫んだ峰岸に、一生懸命に手を動かしていた皆が止まった。

俺は本日何度目かのその叫びに溜め息を吐きながら、読んでいた文庫本に栞を挟む。


「何だ、今度は何が解らねぇって?」

「因数分解の問3だ!これだよ!」


峰岸は藁半紙に印刷された問題用紙の一ヶ所を指差しながら、グラスに入った麦茶を一息に飲み干した。

俺は呆れながら峰岸の隣に移動すると、珍しく結んでない髪を掻き上げながら言う。


「これはこのXを…おい、俺にシャーペンを持たせるな。」

「いやだってさ、桐生がやった方が早いじゃんか!」


悪びれもせずに笑う峰岸に、俺はシャーペンを投げつけた。


「アホか、それじゃ覚えねぇだろうが。」

「あっはっは、馬鹿は何度やろうと覚えられぬ!」

「知らねぇよ、真面目にやりやがれ。」

「それより桐生、今日は髪を結んでないんだな。美人すぎて、さっき出迎えてくれた時に抱き締めそうになったぞ。」

「マジでそんなことしたら殴り倒す。つか話変えて誤魔化すな。」

「へぇ~い。」


ふざけた態度の峰岸に呆れながら、俺は丁寧に解き方を教えていく。

こうしておけば何度も読書の邪魔をされることもなくなるし、何よりこの馬鹿にあまり構っていると疲れる。

自分のノートまで引っ張りだしてきて、数学のページを開いた。

峰岸はそれを見て、興奮したようにはしゃぐ。


「すげぇな桐生のノート、教科書みたいに細かいぞ!」

「んなことに感心してないでさっさとペンを動かせ、少しは黙ってやってる皆を見習えっつぅの。」


そう言うと峰岸はつまらなそうに口を尖らせて、だぁっと足を投げ出した。


「む、桐生は見た目に反して真面目すぎるぜ。もう少し息抜きも大事だぞ?」

「テメェは見た目に違わずアホだな、やる気ねぇなら追い出すぞ。」

「解ったって、頑張る頑張る!」



そう言って峰岸は俺のノートを隣に置くと、黙ってシャーペンを動かし始めた。

やれやれ、やっと読書に戻れるな。

俺が再びベッドに戻ろうとすると、今まで静かだった莉乃姉が顔を上げた。


「どうした莉乃姉、休憩か?」

「真也…あたしはもう、我慢できない。」

「ホントにどうした!?」

「あたしも真也とイチャイチャしたいぞ!」


そう言って立ち上がった莉乃姉は、テーブルを挟んで俺と対峙する。

チッ、禁断症状みたいになってやがるな。

俺がジリジリと動きながら距離を取っていると、恵恋が無表情に顔を上げて言った。


「真也さん、物凄く気が散るのでいっそ一思いに捕まって下さい。」

「恵恋、保証してやる。俺が捕まった場合、きっと今の状況より鬱陶しくなるぞ。」

「はぁ、どちらにせよ鬱陶しいんですね。」

「くぅぅ、桐生ばっかイチャイチャしやがって!」

「真也くん、私もここが解りません。」

「真也先輩大人気だね。」


どうやら皆の集中力は、峰岸を皮切りに途切れてしまったらしい。

唯一シャーペンを置いてないのは恵恋だけで、他のメンバーは既に休憩といった感じで俺たちを眺めている。

まぁそれも仕方ないか、朝から集まって始めてから結構経っている、峰岸なんか頑張った方だろう。

俺は時計をちらっと見てから、なんかヤバい莉乃姉に力説する。


「莉乃姉、それよりそろそろ昼飯の準備をしないか?勉強も疲れただろうし、なんか休憩モードだしな。」

「お昼ご飯か…うむ、じゃあシャワー浴びてくる!」

「は?」

「料理する前に食材を洗うだろ?それと同じさ!」


元気良く意味不明な理由を告げる莉乃姉。

莉乃姉は胸の前で指先同士をツンツンしながら、顔を赤らめて俯く。


「真也にはぁ、網目模様に包まれたメロンとぉ、新鮮なあわ…むぐぅ。」

「莉乃さん!ダメですよ!」


慌てて立ち上がった緋結華が、話す途中の莉乃姉の口を押さえ込む。

何だ、何を言おうとしてたんだ?

すると峰岸が立ち上がり、ファイティングポーズをとって叫ぶ。


「貴様桐生!そんな贅沢、神が許そうともオレが絶対に許さない!」

「何なんだよテメェは!?」

「真也さん、本当に鈍いですね。」


恵恋まで真相に気付いたようで、冷たい視線を俺に投げ掛けてくる。


「あ、ボクたち帰った方がいいかな?」

「は?突然どうした逢坂?」

「だって……恥ずかしいから。」


俺は言葉を失っていた。

恥ずかしいからって何だ、何でもじもじしてんだよ。


「ダメだ逢坂!桐生と姐御を二人きりにしてはならない!」

「そうだよ龍矢くん、だから莉乃さんを止めないと!」

「高級海鮮物に高級フルーツなんて桐生にはまだ早い!あぁ羨ましい!」

「峰岸さん、どさくさ紛れに本音がだだ漏れで気持ち悪いです変態。ド腐れ発情犬と同じ空気を吸ったら肺が犯されるので、速やかに荷物を纏めて失せるが良いですよ。」

「どさくさ紛れにすげぇ罵倒された!?つかそれじゃ結局桐生がハーレムじゃん!」


落ち込んだり叫んだりを繰り返しながら騒ぐ峰岸に、ビシッと指差された。

つまらなそうに俺を見た恵恋は、小さく溜め息を吐いて峰岸に言う。


「安心しなさい、どうせ真也さんはこの状況の特異性なんかに気づいてませんから。」

「は?こんだけ騒げばしっかり特異性あんだろ?」


恵恋は俺の台詞を聞いてまた溜め息を吐く。


「ほら、案の定です。」

「あぁ、なんか無駄に安心したぞ。」

「何なんだよテメェらは、言いたいことあんなら言えよ。」

「いえ別に。それより真也さん。」

「何だ?」

「御奈坂さんがそろそろ限界です。」

「うがー!」

「ひゃあっ!?」


俺が振り向いた時には、丁度莉乃姉を押さえ切れなくなった緋結華が、ベッドにもたれるところだった。

何だか獣じみた笑顔で迫ってくる莉乃姉。

誰もがこれは危険だと、静かに俺から距離を取った。

はぁ、朝からついてない。

腰を低く落とした莉乃姉に、俺は何となく声をかけた。


「莉乃姉、その距離で飛び込むつもりか?」

「うん、ちゃんと受けとめてね真也!」


楽しそうに跳びだした莉乃姉を見ながら誰もが思った。


あぁ、何か勉強どころじゃないなと。






強制的に中断された勉強は一旦片付けて、俺たちは早めの昼食をとっていた。

莉乃姉は俺から離れず、緋結華も何か疲れ切っていたから、恵恋が仕方なさそうにキッチンに立ってくれたのだ。

途中恵恋の手料理が食えるとはしゃいだ峰岸は、危うく挽肉に加えられるところだったが。

やたらと美味い炒飯を食べ終えた頃、峰岸が退屈げに呟いた。


「と言うわけで、何して遊ぼうか?」

「ふざけたことぬかすな、宿題するために集まったんじゃねぇのかよ?」

「いや、ふざけた状態なのは桐生の方だろう。」

「う……。」

「うにゃぁ、真也の腕が温かいなぁ。」


俺は俺の腕を抱いて、頭を肩に預けてくる莉乃姉を見る。

完全に寛ぎモードなのは言うまでもないが、暫く我慢していた反動でくっつき方が二人きりの時と同じだ。

半身をぴったりとくっつけて、腕を胸に挟み込むように抱き締めて恍惚の笑みを浮かべている。

峰岸の言う通り、周りに人がいる中でこれはやりすぎだ。

俺は恥ずかしさで高鳴る鼓動を押さえながら、莉乃姉を揺り動かす。


「おい莉乃姉、流石に離れろって。」

「嫌だ、このまま最後までいくんだ!」


莉乃姉の発言に、恵恋と峰岸の冷たい視線が何故か俺へと集中する。

待て待て、俺は何も悪くないはずだ。

クソッ、面倒な。


「ほら、このままじゃ勉強できないだろ?」

「だって真也と同じ空間にいながら一言も話せないなんて、あんな苦痛は二度と御免だ!勉強なんてやってられるか!」


学校一の優等生の台詞じゃないぞ莉乃姉。

俺は峰岸の方を見ると、視線だけで訴えかける。


(頼む峰岸、何か馬鹿なことやって場の空気を変えてくれ。)


峰岸は俺の視線に気づくと、何かを察したのか首を傾げた。


(何だ桐生、その視線は。)

(よしっ、解ってくれたみたいだな。)

(ん~…ダメだ、何が言いたいんだ?)

(お、何か考え始めたぞ。そうだ、うんと馬鹿なことをやれ。)

(お、そういえばせっかく作ってきたのに忘れてたぜ!)


峰岸は鞄をごそごそと引っ繰り返すと、何やら棒のようなものを幾つか取り出した。

得意気な峰岸が、皆に向かって高々とそれを掲げる。


「ほら皆、これで遊ばないか?」

「先輩、割り箸なんか取り出してどうしたの?」


逢坂が皆を代表して問い掛けると、峰岸は悪戯っぽく笑って宣言した。


「王様ゲーム!」

「……何だそれは?」

「え、姐御知らないんスか!?」

「あぁ、名前は何となく聞き覚えがあるが、何をするのかは知らないな。」

「ふっふっふ、ではお教えいたしましょう!」


王様ゲームは、王様と数字の書かれたクジのようなものを毎回引き、王様を手にした人は自分の指定した番号の人に簡単な命令ができるという遊びだ。

誰が何番を引いたのかは毎回わからないから、特定の人物を狙うことはできない。

命令は基本的にその場で実行可能なものに限られるが、その塩梅は集まった人が決める。

そんな説明を峰岸がすると、莉乃姉は楽しそうに頷いた。


「なるほど、面白そうだな!」

「でしょう!いやぁ、姐御ならそう言ってくれると思いました!」


峰岸は最強の味方を得たとばかりに、他のメンバーにも訊いていく。


「逢坂はどうだ?」

「うん、ボクはいいと思うよ。」

「冴塚は?」

「構いませんが、あまりおかしな命令は嫌ですね。」

「大丈夫だ、流石に酷いのは多数決取るから。」

「ふむ、まぁいいでしょう。」

「御奈坂はどうだろうか?」

「私も恵恋さんと一緒です、変なものでなければ良いですよ。」


皆の同意を得て頷いた峰岸は、俺を見てニヤリと笑う。


「さぁ桐生、お前はどうする?」

「何だよ、俺が断っても無視すんだろ?」

「まさか、そんなことはしない。だがな、お前にはできれば頷いてほしい。」

「何でだよ、多数決ってんならもう結果は決まったようなもんだろ。」

「違うね、残念ながら違う。」


峰岸は君はまるで解ってないと言わんばかりに首を振る、無性にウザい。


「オレの予想だと、お前が拒否したら皆手のひら返しに答えを変える気がするんだよ。」

「いや、それは流石に…。」

「ほぉ、峰岸にしては良い予想だな。あたしに関してはその通りだ。」

「何でだよ莉乃姉。」


俺が問い掛けると、莉乃姉は顔だけ俺に向けて笑う。


「真也が嫌がることをあたしがするはずないだろう?」

「なら今すぐに離れてくれ。」

「嫌だ。」

「嫌がることするじゃねぇか。」

「むぅ、なら力ずくで押し退けてくれ。それなら流石にあたしも離れるよ。」

「く……ズルいな莉乃姉。」

「あっはっは、真也は優しいからな。うふふ~。」


嬉しそうに頬擦りしてくる莉乃姉に呆れて、俺は仕方ないなと溜め息を吐いた。


「おい桐生、イチャイチャすんな!」

「何だよ、俺が楽しそうにしてるように見えんのか?」

「見えないから余計に悔しいんだよ!チクショウ、イケメンは神か!?」

「何を訳の解らねぇことを叫んでんだよ、そういうお前だって十分にイケメンだろうが。」

「桐生……一生友達でいような!」

「断る。」

「即答かよ!?」


一人で漫才してるようにしか見えない峰岸を放置して、俺は皆に訊く。


「で、話が脱線したが、峰岸はあぁ言ってたが実際そんなことないよな?」

「いえ、わたしも小湊さんと同意見です。元々それほど乗り気というわけでもないですし。」

「予想してたけど冴塚はマジで容赦ないな!」

「所詮はその程度の関係ということです。」

「泣いてもいいですか!?」

「お願いですから気持ち悪いので止めて頂けますか?先程食べた昼食を戻したくありませんので。」

「うわぁぁぁん。」


恵恋が無表情に峰岸を切り捨てた、何か哀れだな峰岸。

懇切丁寧に酷いこと言われた峰岸は、暫く嘘泣きをしてから立ち上がる。


「えぇい、まだ二人残ってるさ!逢坂!」

「は、はいっ!」


大声に驚いた逢坂が、ゆっくりと視線を峰岸に向けた。


「お前は先輩の問い掛けに一度は頷いておきながら、それでも意見を変えられる男か?」

「う…それは。」

「最低な先輩ですね峰岸真幸、パワハラって言うのですよそれは。」

「ふ、オレは単にお願いしているだけだぜ!」


不様にもサムズアップしてみせる峰岸を、恵恋がマグマさえ凍らせそうな冷たい視線で引く。


「どこまで必死なんですか、これじゃ裏があると暴露しているようなものでしょう。真也さんの意見に関わらずわたしは却下に変更します。」

「ぐあっ、誤解だ冴塚!」


いやいや、流石に嫌な予感しかしなくなってきたぞ?

逢坂は困ったように視線を彷徨わせ、やがて小さく呟いた。


「ボクは…賛成のままで。」

「いょっしゃー!」


ガッツポーズを決めた峰岸。

逢坂は下を向いて、明らかに失敗したと言うように溜め息を吐いていた。

さて、残るは一人だ。

峰岸は最後の標的に向くと、最高の笑顔で手を差し出した。


「御奈坂!」

「は、はいっ!」

「もし同意を示してくれるならば、オレの手を取ってくれ!」


何気なく手を握ろうとしている辺り、峰岸も意外に抜け目ない。

別にこれで決まるってわけでもないし、そもそも俺はまだ肯定も否定もしていないのに、緋結華に最終判断が任されたような体裁になっている。

まぁ、正直俺はどちらでもいいんだ。

だって勉強のために集まったはずなのに、皆の集中力ややる気は既に彼方へと置いてかれている。

今更宿題進めろと言っても仕方ないし、恐らく集まらないと困るのは峰岸くらいだろう。

なら、せっかく集まって遊ぼうとしているのだし、水を差すのも可哀相だ。

俺は緋結華の答えを待つより先に、峰岸に向かって言った。


「俺は別に構わないぞ、どうせもう宿題は終わりだろ?」

「あ、なら私も良いですよ?」

「何っ!?あれ?」

「なら早速準備するぞ、峰岸は指示を出せ。」

「あ、了解ッス姐御。」


莉乃姉の指示で、峰岸は伸ばしていた手を敬礼の形に変える。

だが峰岸は何かが腑に落ちないのか、首を傾げながら自分の鞄を漁りだした。

緋結華の手を握れなかったことに気づいてないようだが、何か初めから手を取るつもりもなかったみたいだしいいだろう。

やがて峰岸が鞄から取り出したのは、小さく分割された画用紙だった。

それを一人三枚ずつ配ると、峰岸の説明が始まる。


「じゃあその紙にそれぞれ命令を書いてくれ。んで、書き終わったらオレが集める。」


莉乃姉が小さな画用紙を持ち上げながら手を上げる。


「質問、書き方に指定はあるか?」

「特にないッス。でも番号まで指定しないで下さい、王様の特権が薄れるんで。」

「解った、何をするのかだけ書けばいいんだな。」


莉乃姉は頷いてシャーペンを取ると、すぐに笑みを浮かべながら命令を書き始める。

できれば簡単なものにしてほしいと願いながら、俺もペンケースを開けた。

真っ白な画用紙を眺めながら俺は適当でいいかと思いながらも、その内容を思いつけない。

そもそも何が簡単なんだ、パッとできることか?

一発ギャグとか、変な顔をするとか……。

俺は緋結華や恵恋が変な顔をする姿を想像しようとしたが、何か禁断の宝箱を開ける気分になって慌てて打ち消した。

クッ、思ってたよりも難しいじゃねぇか。

深く考えず安易に同意なんてするもんじゃねぇなと心に刻み込みながら、俺は顔を上げて周りを見回した。

恵恋は意外に真剣な顔で、何やら一生懸命に書き込んでいる。

あれは…確実に食らったらハズレだろうな、えげつなさ過ぎて却下されそうだが。

次に緋結華と逢坂だが、こちらは比較的のんびりしていた。

ただ時折赤面したかと思うと、すぐに消しゴムを手にして書き替えている。

……一体どんなこと書いてんだよ二人とも。

峰岸は……スゲェ邪悪な笑みを浮かべながら、チラチラと緋結華の方に視線を飛ばしていた。

よし、アレが書いたものは即却下だ、一つとしてまともじゃないだろうし。

しかし、意外に皆書けているみたいだな、白紙なのは俺だけか。


「どうした真也、書かないのか?」


下から見上げてくる莉乃姉に、俺は頷きをもって応えた。

どうやら莉乃姉は既に三枚とも書いてしまったらしく、裏返した画用紙の上にシャーペンが乗せられている。

莉乃姉はもぞもぞと態勢を変えて俺の足の間に収まると、シャンプーの匂いが漂う頭を胸に預けてきた。


「何でもいいんだよ、誰かにやらせたいことならさ。まぁ誰に当たるか判らないから、誰にでも当てはまることじゃないと面白くはならないけど。」


俺が悩んでいる意図を察したのか、俺の左腕を抱き締めながらそんなことを言ってくる。


「誰かにやらせたいことか、特にねぇな。」


本末転倒なのは百も承知だが、考えたこともないことを突然考える羽目になっているのだから仕方ない。

莉乃姉は俺の腕を自分のお腹の辺りに落ち着かせると、うりうりと動いて顔を俺に向けた。


「誰かの頬っぺたにキスなんてどうだ?」


莉乃姉の発言に、その場の誰もが一瞬硬直した。

峰岸なんてずっと固まっているところを見ると、一枚はそれで決めていたらしい。

俺は溜め息を吐くと、呆れ顔で莉乃姉に言う。


「それは真っ先に馬鹿馬鹿しいって除外したんだよ。考えてもみろ、野郎同士に当たったらゾッとしないだろ。」

「だが、真也が三人の内の誰かにってこともあるかもじゃないか。」


莉乃姉は半ば棒読みでそんなことを言った。

なら尚のことと前置きして、俺はそのふざけた問いに答える。


「そういうのは互いに好きな者同士がするもんだ、遊びでするもんじゃねぇだろ。」

「真也の誠実さを改めて確認できて良かったよ。」

「いいよそういうのは、変なこと言わせやがって。」


俺の答えに莉乃姉は微笑んで、頭をまた胸に預けた。


「変なことじゃないさ、誰もが気になる大切なことだ。つまり、真也の唇を奪えた女の子は、本当に真也から好かれてるってことなんだろう?」

「う…あんま恥ずかしいこと言わせようとすんなっ。ったく、話が脱線してる、この話はこれで終わりだ。」


顔が熱くなるのを感じながら、無理矢理話を終わらせる。

莉乃姉も深くするつもりはなかったらしく、あっさりと引き下がった。


「そうだな、そろそろ皆も書き終わるし、真也もつまらないことでいいから書いてしまえ。真也の命令を受けた人は当たりって感じになるだろ。」

「なるほど、それでも良いのか。」


俺は納得して、シャーペンを持ち直す。

莉乃姉も俺が書きやすいように、俺の隣に移動した。

さて、そんなことなら軽く書いてしまおう。

シャーペンを素早く走らせて三枚を書き終えると、待っていた峰岸が皆に言った。


「じゃあそれぞれ書き終わったな、回収するぞ。」


頷きを返した皆が、峰岸の手に裏返した画用紙を乗せていく。

裏向きのまま枚数を数えた峰岸は、テーブルの上にそれを並べた。

十八枚の画用紙が、己の中身を晒すまで、テーブルの上で整列を完了する。

楽しさを抑えられないのか、峰岸がニヤニヤしながら言った。


「じゃあ早速始めようぜ。王様だーれだ、って言いながら棒を引いてくれ。王冠マークが王様だから、引いた人だけ宣言してカードを捲ってくれ。」

「うむ、あたしも楽しくなってきたぞ。」

「うふふ、誰がわたしの命令を食らうでしょうね。」

「おい恵恋、どんだけえげつないのにしたんだ。」

「それは捲ってからのお楽しみですよ真也さん。」

「ドキドキするね龍矢くん。」

「はい緋結華さん。」


何だかんだと楽しそうな皆を見回して、峰岸が開始の合図を示した。


「よしっ、それじゃ一回目!」

『王様だーれだ?』


口を揃えて言いながら、一斉に棒を引き抜く。

峰岸は余った棒を確認しながら、周りを見回した。


「うっし、王様は名乗りを上げてカードを捲れ!」

「わ、私です。」


初めに名乗りを上げたのは、照れ臭そうにしている緋結華だ。

緋結華は指でカードの上を彷徨って、漸く一枚のカードを選び出した。

ゆっくりとカードを捲る。

緋結華は捲ったカードを見て、皆に聞こえるように読み上げる。


「絶対に笑えない漫才をする。」

『………。』


誰もが無言。

誰が書いたのかは判らないが、笑えないことをわざわざやらせるのは普通に漫才するよりきつい。

しかも独りだ、やってる間にどれだけ精神的ダメージがあるか想像に難しくない、泣きたくなるだろう。

俺は何となく視線を緋結華から逸らし、無表情に自分の棒先を見つめる恵恋を見た。

ばっちりと視線がぶつかる。

恵恋は不満そうに俺を見ると、小さく首を横に振った。

恵恋じゃないだと?

だとしたら誰だ、こんな容赦ない罰ゲームを書いたのは。

そんな疑問を皆が感じていると、逢坂がおずおずと手を挙げた。


「それ、ボクが書いたやつです。」

「逢坂、結構鬼だな。」


峰岸が恐怖の対象を見るような目でそう言うと、逢坂も慌てて弁明する。


「ち、違うんだよっ。こういうのって罰ゲームっぽいことを書くのかと思って、前に親戚同士で集まった時に一発ギャグを言った人がいて。それがその…あんまり面白くなくて、食事の席が静かになったことがあったから、あぁこれは恥ずかしいだろうなって…。」

「実際の体験から抜き出したのか。」

「そうなんだよっ、だからこれは……真也先輩。」


助けてと言うように俺を見た逢坂に、俺は小さく頷いた。


「あぁまぁ、いいんじゃねぇか?中途半端に罰ゲームやっても面白くはないだろ。」

「そうだな、ムチャクチャ言ってるわけでもない。問題は誰がやるかだが…。」


莉乃姉がそう言うと、皆は王様である緋結華を注視する。

緋結華は困ってしまって、番号を決めかねているようだ。


「気にすんな緋結華、お前がやるわけじゃねぇ。別に遊びで怒ったりとかねぇから、気軽に好きな数字を言っちまえ。」

「は、はい。……じゃあ、二番の人、お願いします。」


俺は自分の棒を確認する、三番だ。

幸いにも俺じゃないらしいが、このキツいのをやるのはさて誰か。

顔を上げると、安心した表情の並ぶ中、一人だけ口元が引きつっているやつがいた。


「お…オレか。」


どうやらことの発端となった男が最初の犠牲者らしい。

俺は戦慄におののく峰岸を見て、小さく声をかけた。


「峰岸…。」

「あぁ、わかってるよ。少しだけ、気持ちの準備をさせてほしい。」


峰岸は俯いて、多分笑えないネタを考えてるんだろう。

その姿にいたたまれなくなったのか、緋結華が申し訳なさそうに謝った。


「峰岸くん、ごめんね。」

「いや、御奈坂が悪いんじゃないぜ。さて、待たせちゃ悪いからさっさと済ませるか!」


最後は自分に気合いを入れるためか、勢い良く立ち上がった。

咳払い一つ、峰岸は皆を一瞥する。


「んじゃ、いくぜ。」


真剣な顔をしている峰岸を見て既に薄ら恵恋が笑っているが、見なかったことにしよう。


「てへっ、きゃぴっ、ぷぅ!」


変な声を出しながら様々なポーズをかました峰岸。

思わず吹き出してしまいそうになるのを必死になって止めた。

ダメだ、笑ったらダメだ。

絶対に笑えないネタなんだから、笑ってしまったらやり直しになりかねない。

こんな痴態、一度で終わらせてやらないと流石に不憫だ。

見れば他のやつらも、一生懸命に口元を手で押さえている。

峰岸は恥ずかしさのあまり、変なポーズで天井を見上げたまま動かない。

落ち着け俺、落ち着いたらすぐに終わらせよう。

峰岸はよく頑張った、酷い恥を曝しながらも遣り遂げたんだ。

俺は深呼吸して笑いを彼方へ飛ばすと、なるだけ無表情で言う。


「峰岸、そんなんじゃ誰も笑わないぜ。だから、合格だ。」

「……ありがとう桐生、恩に着るよ。」


漸く解放された峰岸が、まるで剣道の試合を終えた後のように達成感に満ちた顔で座った。

キツい、一回目からこれはキツい。

この命令が一番キツいのか、或いは簡単だったのかは判らないが、皆の心に不安が満ちたのは間違いないだろう。

もう止めにしよう、そう俺が言いかけた時、峰岸が手を出した。


「さぁ、二回目を始めるぞ。」

「お前…本気か?」


俺が皆の意見を代弁すると、峰岸は笑う。


「当たり前だ、まだ始まったばかりじゃないか。よし、棒を一旦集めるぞ。」


その言葉に皆が渋々といった様子で、持っていた棒を峰岸に手渡す。

悪夢はどうやら続くらしい。

峰岸が混ぜた棒を皆がまた引く。


『王様だーれだ?』


心なしか弱くなった声を無視するように峰岸は問う。


「さぁ、王様は誰だ。」

「ふむ、あたしだな。」


莉乃姉が王冠マークの棒を皆に見えるようにテーブルへ置いた。


「姐御、早速カードを選んじゃって下さい!」

「ふっふっふ、あたしが書いたやつはどれかな?」


どうやら莉乃姉はまだ楽しんでいるらしい。

緋結華と同じく指を彷徨わせて、端っこにあった一枚を捲った。

莉乃姉がにやりと笑ってそれを読み上げる。


「誰かが誰かを十秒間優しく抱き締める。」

「あ、それ書いたのオレだ。」


一斉に女性陣が峰岸を見た。

特に恵恋なんかは、薄汚いものを見るような目で睨み付けている。


「下衆だ変態だと思っていましたが、とうとう化けの皮が剥がれましたね。」

「待て冴塚、こういうのは王様ゲームの定番であってだな。」

「ふんっ、そんな理由を付けても下心は隠せてませんよ、最低です。」


ぐうの音も出せないままうなだれる峰岸、まぁ自業自得といえばそうだろう。

恵恋は本気で嫌そうに、峰岸を視界から外した。


「酷い命令なら却下できるんでしたね、わたしは反対です。アレに抱き締められたら生きた心地がしません。」

「そこまで言いますか!?」

「ボクも、流石に恥ずかしいかも。」

「逢坂もか!?」


二人が早々に却下を宣言して、いよいよ流れるかと思われたその時、莉乃姉が言った。


「なら片方はあたし、王様ってことでも構わないか?」

「ん……あぁ、なるほどな。」

「え、どういうことっすか姐御。」


峰岸は莉乃姉の真意が読めないのか、きょとんとしている。


「片方が莉乃姉で確定ってことは、少なくとも恵恋や逢坂が峰岸と当たるってことはないんだよ。」

「うむ、それなら不安は少ないだろ?あたしとでも嫌だと言うのなら却下でもいいけどな。」


莉乃姉がそう言うと、恵恋と逢坂も頷いた。


「いえ、小湊さんなら問題ありません。」

「ボクは…莉乃先輩さえ良ければ。」

「よし、なら決まりだな。」


莉乃姉は満足したように頷くと、峰岸を見た。


「これでいいだろ峰岸。」

「流石ッス姐御、大丈夫ッスよ。」

「よしっ、なら番号言うぞ。」


莉乃姉はくるりと俺に向き直って、微笑みながら言った。


「あたしは必ずや真也の番号を当ててみせる!愛の力で!」

「はいはい、早く言っちまえ。」

「よし……一番だ!」

「………。」


俺は手にした棒を折ってしまいたくなった。

そこにはいやにくっきりと、一という漢数字が刻まれていたのだから。

皆が俺の様子に気づいて苦笑いする。

結局、全て杞憂だったんだ。

莉乃姉が王様になってあの命令を引いた瞬間、何となく予感はしていた。

だからまぁ、いつも通りか。


「クソッ、オレも姐御の熱い抱擁を受けたかった!」

「この組合せならいつも通りだね。」


と、男性陣。


「迂闊でした、その可能性を見落としていました。」

「うぅ、羨ましい…。」


と、何故か悔しそうな女性陣。

莉乃姉は嬉しそうに立ち上がると、躊躇う俺に手を差し出した。


「さぁ真也、あたしを優しく抱き締めてくれ。」

「え、莉乃姉が俺に抱きつくんじゃないのか!?」

「あたしは一度も、王様が一番を優しく抱き締めるなんて言ってないぞ。」

『な!?』


確かに、そんなことは一言も言ってない。

莉乃姉は二人の内片方は自分がやると言っただけで、抱き締める側だとは決まっていなかった。

だが峰岸に抱き締められたくないという話の流れから、無意識に勘違いをしていたんだ。

峰岸もさっき、莉乃姉から抱き締めてもらえるのが羨ましいと言っていた。

俺は渋々立ち上がり、莉乃姉と相対する。

莉乃姉は後頭部に手を動かすと、空色の大きなシュシュをするりと外した。

ふわりと舞う、サラサラの黒髪。

莉乃姉は期待に満ちた瞳を潤ませて、頬を朱に染めた。


「真也…。」

「う…。」

「抱いて…くれるか?」

「明らかに言い方がおかしい!」

「なら……あたしを、女の子にしてくれ。」

「莉乃姉は…十分に、女の子だろ。」

「お願いだ真也、この胸のドキドキを、一緒に感じてくれないか?」

「うぐっ。」


なんつー破壊的な表情しやがるんだ莉乃姉、抱き締めるだけなのに異常なほど難易度が上がってるぞ!?

ほら、皆も恥ずかしくなって目を逸らしてるじゃないか。

だからそういう言い回しは止めよう。

そう言いたいはずなのに、口は思うように動かない。

莉乃姉の瞳を見ていると、魅入られたように思考が働かなくなった。

そっと両手を広げた莉乃姉。

破裂しそうなほど跳ねる鼓動を感じながら、俺は莉乃姉を抱き締めた。

柔らかな感触が、カタチを変えて俺の身体に触れている。

優しく包んだ頭からは同じ人とは思えないくらい良い匂いがして、更に鼓動を加速させる。

背中に手を回されて、その温もりがじわりと感じられた時、ゆっくりと莉乃姉が顔を上げた。


「真也…。」


その声は蜂蜜のように甘く、俺の鼓膜を震わせた。

上気した頬、潤んだ瞳。

艶やかな桃色の唇が、静かに迫ってくる。

いつの間にか両手は首筋を撫でるように抱き、莉乃姉は背伸びをしながらそっと目を閉じた。

逃れようもない。

思考なんて、彼方まで吹き飛んでしまっている。

普段から見慣れているはずの莉乃姉が、今は別人のように見えるのだ。

室内に吹いた風が、莉乃姉の髪を揺らす。

俺は為す術もないまま莉乃姉を受け入れようとして、


「はい!もう十秒経ちました!離れてください!」


緋結華の発した聞いたこともない大声に止められたのだ。

金縛りから解けたように、俺は莉乃姉から慌てて離れた。

ドクンドクンと激しく跳ねる胸を押さえながら、俺は深呼吸する。

危なかった、緋結華が止めてくれなきゃ大切な一線を踏み越えるところだった。

しかも友達とはいえ衆人環視の中でだ、そんなのとても心臓が耐えられない。

漸く落ち着きを取り戻しつつある心臓に安心しながら、俺はよろよろと視線を上げた。

そこには俺と同じように気持ちを落ち着けている皆と、心底安心したような緋結華と、物凄く悔しそうな莉乃姉がいた。

莉乃姉はもういつもの莉乃姉だったが、頬を膨らませて地団駄を踏んでいる。


「むぅ、あと少しで真也も受け入れてくれそうだったのに!既成事実ができそうだったのに!十秒じゃ短いぞ峰岸!ムード創る間に終わってしまった!」

「はいっ、すんません姐御!」


何故か正座で謝る峰岸、決してお前は悪くないはずだが。

逢坂は真っ赤な顔を両手で包みながら、まだ目を逸らしている。


「ボ、ボクには刺激が強すぎるよ。」

「前から思ってたが、姐御は色々と尋常じゃないな…。桐生もよく今まで耐えてきたもんだ。」


いや峰岸、今日のはレベルが違ったよ、危うかったからな。

恵恋を見てみると、姿勢こそ変わっていないものの、無表情が保てていない。


「真也さんともあろう人が皆の前で獣になりかけるなど、小湊さんは侮れませんね。」

「にしても御奈坂の声デカかったな、びっくりしたぜ。」

「あ…えっと。」


黙っていた緋結華が、誤魔化すように両手を振る。


「わ、私も恥ずかしくて、その…勢いで大声になっちゃって。あはは、驚かせてごめんなさい。」


ナイスタイミングだったぞ緋結華。

心の中で礼を言うと、峰岸が手を叩く。


「よっしゃ、何か二連続で凄いのが来たがもう大丈夫だろ。次いってみるか!」

「そうだな、次こそは真也と…うっふっふ。」


莉乃姉も同意して棒を返却する。

俺たちはノリノリな二人に流されるように棒を返却し、言葉と同時にクジを引く。

二度あることは三度あるなんてことわざかあったなと思いながら、俺は引いた棒の先端を確認する。

やれやれ、今度は俺の番か。

俺は王冠マークを皆に見せると、反応を確認してからカードを手近な捲った。


「ちょっと恥ずかしい昔話をする……か、まぁ軽いんじゃないか?。」


誰でも少しくらいはあるものだし、過ぎたことなら言っても支障は少ないだろう。


「んじゃ適当に、二番の人。」

「あ、ボクだね。えっと、恥ずかしい昔話かぁ。」


当たった逢坂が、気楽な雰囲気で記憶を探る。

やがて何かに思い到ったのか、本当に少しだけ恥ずかしそうに語りだした。


「そんなにまだ経ってないことなんだけど、ボクがまだ並木高校に入学する前の話をするね。」

「まだ俺たちと会ってない頃の話か、面白そうだな。」

「うん、二月くらいの話なんだけど。まだこっちに住んでなかったボクは、学校の休みを使って下見に来たことがあったんだ。」


新しく生活する土地を見に行ってみるのは解る、必要な物を揃えられるのかとか知っとかないといけないからな。

皆が楽しげな表情で続きを待っていると、逢坂は言葉を選ぶように続きを話す。


「一日歩いて雰囲気を感じようとしてたんだけど、うっかり路地裏に迷い込んでから道が解らなくなっちゃったんだよね。で、不安になりながら人混みの中をうろうろしてたら、「君一人?」って声をかけてきた人がいたんだ。ボクはびっくりしてたんだけど、その人は「案内しようか」とか、「寒くない?どっかで暖まらない?」とか、結構積極的で。」

「おいおい、それってナンパじゃね?あはは、逢坂は男だよなぁ。」

「逢坂さんの容姿なら勘違いしても不思議はないですが、その男はよほど目が節穴なんでしょうね。人の往来の中でナンパして、しかも男だと気づかないとは愚かです。」


逢坂は二人の意見に苦笑しながら、気まずそうに続けた。


「断ってもしつこいから、とりあえず案内してもらうことにしたんだ。もし何かされそうになっても自衛くらいはできるし、何となく弱そうだったから。」

「なんつーか、そいつは哀れだな。」

「でもね、その人は一生懸命案内してくれたよ。来年度から来るんだって言ったら色々連れていってくれたし、話も面白かったから。」

「ふむ、良い奴じゃないか。まぁ動機はあまり感心しないが。」

「意外にあっさりしてるのですね、薄汚い欲望が感じられません。」

「うん、多分初めからそんなつもりはなかったんだと思う。それで一通り回り終わって帰る時間になったから、駅まで見送りに着いてきてくれたんだ。」


ここまで聞く限りだと恥ずかしい内容じゃないと思うが、その男も悪いやつじゃなさそうだし。


「電車の時間が近づいていて、ボクは丁寧にお礼を言ったんだ。もしまた会うことがあったら、またお話しましょうって。その人も嬉しそうに笑ってたし、握手までしたんだよ。」

「へぇ、結構美談だね。私もそんな人なら会ってみたいかも。」

「えっと、うん。…ボクは別れを告げて改札を抜けたんだけど、その人に呼び止められたんだ。振り返ったらその人顔を真っ赤にしてて、どうしたんだろうって思ってたら、周りに人がいるのに大声で叫んだんだ。」

「お、面白そうな展開だな。あたしはそういう話が好きだ。何て叫んだんだ?」

「あの…「今日一日で心を奪われた!付き合ってくれ!」って。」

『おぉっ!』


皆が感心する。


「中々に根性入ってますね、見直しました。ただのナンパ野郎じゃなさそうです。」

「あっはっは、凄い告白を受けたな!」

「凄いです、私も見習わないと。」


口々に言われる男への感想に苦笑しながら、逢坂は終わりを語る。


「ボクは恥ずかしくて、どうしていいか判らなくなったんだ。周りの人たちの視線がボクたちに集中して、顔から火が出そうなほど恥ずかしくて…それで。」


逢坂は思い出して顔を赤くしながら、小さな声で言った。


「ボクは男です!って叫んで、走って電車に乗っちゃったんです。」

「それはまた、確かに恥ずかしい昔話だな。」


自分が恥ずかしいことをしたわけじゃないが、ここまで熱烈な勘違いを受けると大変だ。


「それで、その男にはこっちに来てから会ったのか?」


莉乃姉が質問すると、逢坂は物凄く気まずそうに躊躇ったあと、小さく頷いた。

その反応には皆が驚いて、緋結華までもがウキウキした様子で質問する。


「じゃあ相手の名前とかも今はわかるの?」

「う、うん。」

「連絡先はどうです?」

「一応、知ってます。」

「よし逢坂、あたしが会いたがっているとメールするんだ!」

「えぇ!?……はい、じゃあ送ります。」


逢坂は携帯電話を取り出すと、苦虫を噛み潰したような表情でメールを打った。


「お、送るよ?」


皆が頷くと、逢坂は祈るような仕草で送信ボタンを押した。

さぁ後は相手からの返事を待つだけだ、誰もがそう思っていた。

しんと静まりかえった室内。

響くのは蝉の鳴き声と、クーラーが風を吐き出す音。

それと誰かの携帯が鳴る音だ。

バイブレーションが告げるのは、メールの着信。

携帯を開いたのは、何故か顔が真っ青になっている峰岸だ。

そういえばさっきから一言も発してなかったなこいつ。

……あ、まさか。

俺は残念な真相に思い到って、あまりに不憫な馬鹿の顔を見ていられなかった。

峰岸は自分の携帯と逢坂の顔を見比べて、震える手つきでメールを開く。


「……莉乃先輩が会いたがってますよ、峰岸先輩。」


峰岸が読み上げたメール。

俺以外の皆が、豆鉄砲を食らった鳩みたいな顔をして峰岸に振り返る。

まぁ、さっきから誉めまくってたしな、峰岸とは知らずに。

数秒の沈黙があって、皆が大爆笑し始めた。


「あはははははっ、まさか峰岸だったとは。流石は男だな!」

「ちょっ姐御!勘弁して下さいよ!」


腹を抱えて笑う莉乃姉を前に、峰岸があたふたする。

笑うのも無理はない、すぐ隣に件の男がいるなんて誰も思わないな。

申し訳なさそうな逢坂の隣で、緋結華が笑いを堪えようと必死に口元を押さえている。


「御奈坂!お前まで!?」

「ご、ごめんなさいっ。でも…峰岸くん素敵でしたよ?」

「笑いながら言われても嬉しくねぇよ!?しかもオレ、馬鹿丸出しじゃんか!」


それについても仕方がない。

何しろ相手は逢坂だ、服装の雰囲気によっては俺も勘違いしただろうからな。

恵恋は二人と違って、何だか機嫌が悪そうだ。


「屈辱です、この馬鹿を誉めてしまうなんて。酷い失態です、罠としか思えません。」

「そこまで言わなくてもいいだろ冴塚!」


自分の過去を消し去ろうとするように、峰岸は頭を掻き毟る。

結局逢坂の罰ゲームというより、峰岸の方がダメージが多いよなこれは。

運がないな峰岸、きっといつか良い日があるさ。

精神的にボロクソにされた峰岸は、逢坂に言った。


「あのさ逢坂、何で今まで黙ってたんだ?」

「だって先輩がボクを見ても全然気づかないから、もしかしたら人違いかなって思ってたんだよ。でも途中で気づいたんだ、言わないほうが良いのかもって。」

「なら今になって暴露すんなよ!」


顔を赤くしながら凹む峰岸に逢坂は苦笑する。

莉乃姉は笑い終わったのか、蹲る峰岸に問い掛けた。


「で、峰岸。男だと知らされてお前はどうしたんだ?」

「姐御は鬼ッスか!?まだ過去を掘り起こすんですか!」

「あっはっは、もう今更隠すこともないだろう。」

「まぁいいッスけど。逢坂が男だって叫んで走っていった後は、とりあえず周りにいたサラリーマンに慰められてました。」


どこまでも不憫に見えたんだろうな、何しろ相手は女ですらなかったんだから。

俺は静かに立ち上がって峰岸の傍に膝をつくと、肩に手を置いて言った。


「お疲れ峰岸、お前の罰ゲームは終わりだよ。」

「オレの罰ゲームじゃねぇよ!?逢坂だったはずなんだよ!」

「トドメを刺しにいくとは、真也さんも侮れませんね。」


いやそんなつもりはなかったんだ恵恋、もう遅いけど。

峰岸は暫くじっとしていたが、復活して立ち上がると手を突き出した。


「ここまでくれば自棄だ、次々いくぜ!もう怖いものなんてねえ!」

「おぉヤル気満々だな、やっぱり男だな峰岸!」


莉乃姉に誉められて守るべきものを諦めたのか、峰岸は躊躇いなく棒をシャッフルする。

そんな棒同士が触れ合って起こすじゃらじゃらという音が、髑髏が腹を抱えて笑っているように聞こえるのはきっと俺の気のせいなんだろう。

もはやテンション最高潮に楽しそうな峰岸から、皆が流れに身を任せるように棒を引き抜く。

もう勢いだった。

峰岸に急かされるように俺たちは棒を引き、カードを捲る。

内容もさっきまでと比べれば優しいものばかりで、無意識に皆も安心していたと思う。

俺も子供の頃の失敗談を話したくらいで、結構楽しんでいたんだ。

そしてカードは残り一枚。

峰岸が楽しそうに最後のシャッフルを済ませて、皆の前に棒を握り締めた拳を突き出す。


「いよいよ最後になっちまったな。」

「結構面白かったじゃないか、峰岸もたまにはやるな。」

「お褒めに与り光栄です姐御。」


莉乃姉が笑い、逢坂は頷く。


「恥ずかしかったけど、ボクも楽しめたよ。」

「わたしも、ひたすら王様になれたので満足です。」

「確かに尋常じゃない運の良さだったな。」


三連続王様になった恵恋は、的確に峰岸を狙い打ちしていたしな、あれには驚いた。

俺は緋結華と目が合ったから、笑いかけて訊いてみる。


「緋結華はどうだった?」

「はい、楽しかったですよ。最初は躊躇ってましたけど、やってる内に次はどんなカードかなって思うようになって。」

「そうか。だってよ峰岸、良かったな。」

「おう!楽しんでもらえたなら良かったよ、昨日から用意してたからな。」


嬉しそうに笑う峰岸に、皆も笑い返した。

これで最後か、漸く終わりだな。

結局勉強なんてそっちのけだったが、まぁまた集まる口実にするのも悪くないか。

そんなことを思いながら、最後の合言葉を言う。


『王様だーれだ!』


一斉に引き抜かれた棒の先をそれぞれが確認する。

俺は一番か、王様にはなれなかったな。

すると峰岸が立ち上がり、高々と棒を前に突き出した。


「よっしゃー!本日初の王様だぜー!」

「そういや初めてだったな。」


これだけ回数を重ねておいて一度も引けなかったとは、その運の無さに苦笑を浮かべる。

峰岸は棒をくるくる指先で弄びながら、漸く巡ってきたチャンスに歓喜の雄叫びを上げた。


「うぉぉぉぉし、最後の命令はコイツだぁ!」


掠め取るようにしてテーブルのカードを取った峰岸は、注目する皆に向かって命令を下す。


「一番の人!女装or男装!そしてコンビニまで皆と買い物!」

「………は?」


おかしな命令が聞こえたが、きっと気のせいだろう。

そんな命令があっていいはずがない、まったく何の冗談だ。

峰岸も最後だからってはしゃいだんだろう、少々度が過ぎる話だからな。

俺は知らず引きつった笑みを浮かべながら、改めて訊く。


「なぁ峰岸、もう一度言ってくれないか?」

「ん、一番の人が女装or男装して皆とコンビニまで買い物。」

「ははは、なるほどな。」


自分でも驚くほど渇いた声で笑う。

あぁ、そんな罰ゲームってありかよ。

俺の様子がおかしいことに気づいた逢坂が、恐る恐る訊いてくる。


「真也先輩…何番?」

「………一番だ。」

「なにっ、真也が!」

「真也くんが罰ゲーム?」

「真也さんが女装……。」


女性陣三人が、急に目の色を変えた。

チッ、嫌な気配しかしねぇ。

そう思った矢先、莉乃姉が最高に嬉しそうな顔で手を挙げる。


「賛成の人、速やかに挙手!」

『はいっ!』


女性陣三人、迷うことなく五本の指が天井に向く。

クソッ、誰だ多数決なんて方式を採用した奴は。

俺は最悪の事態を避けるため、王様の峰岸に抗議する。


「おいコラ峰岸、そんな命令はやりすぎに入るだろ!」

「いや、多数決で承認された以上はルール適応だ。つーかオレも見てみたい。」

「ふざけろよ、そもそもこの命令書いたのもテメェか!」

「こら真也、峰岸を悪く言うな。」


莉乃姉、こんな時ばっか峰岸の擁護に入るのか!?


「真也さんともあろう人がみっともない、諦めて新たな世界に一歩踏み出しなさい。」

「踏み出せるか!」

「真也くんが女装…、化粧道具は任せてください!」


おい緋結華、何げに一番ヤル気満々か!?

皆のムカつくほど楽しそうな瞳が俺に集中する。

………マジかよ。

逃げられないのか?

いやいや、だって女装だぞ?

そういうのは好きでやってる奴だけで十分だろ。

最後の希望を胸に、俺は皆に訊いた。


「や、止めようぜ。確実に、ろくなことにならないからさ。」

『いや、絶対いける。』


何も声まで揃えて言わなくてもいいじゃねぇか、お前らグルか?

クソッ、逃げられないのか。

はぁ、泣きたくなってきた。

真耶姉、俺は今から笑い物になります。

俺は観念すると、盛大に溜め息を吐いて言った。


「もう、好きにしろよ。」

「よっしゃ、最高の美女を作り出すぞ!」

「まずはどんなスタイルにするかだな。」

「真也くんは綺麗系にしたほうが素敵だと思います!」

「服はどうするんですか?」

「姉貴に言って借りてきた、一通り揃ってるぜ!もちろんカツラもな。」


用意が良すぎる、初めから仕組んでやがったな峰岸の野郎。


「よく先輩のお姉さんも貸してくれたね。」

「最高の美少女か美男子を写真に収めてきてやるって言ったら、結構すんなり貸してくれたぞ!」


チッ、姉弟揃っていらんとこが似てやがる、お祭り好きか。

峰岸が玄関に置いてきたらしい鞄を取りに行くため立ち上がると、次は緋結華が鞄から大きなポーチを取り出して俺の前にやってきた。


「真也くん、私頑張りますから!」

「あのな緋結華、そんなヤル気に満ちた表情されても俺はまったく嬉しくないからな?」

「う…でも真也くんなら大丈夫です、絶対美人さんになりますから!」

「そうか…なりたくないな。」


いくら力説されたところで、女装すること自体が嫌なのだからどうしようもない。

峰岸がデカい旅行鞄を持ってくると、女性陣はいよいよテンションがおかしくなってきた。

莉乃姉が早速峰岸の鞄を開け、その品揃えに満足そうに頷く。


「ふっふっふ、これだけあれば真也をどんな美少女にだって変えられるぞ。あーっはっはっは!」

「ではわたしは髪型を整えましょう、バランスが大事です。」

「ナチュラルメイクなら慣れてるから任せてください!」


俺は一人だけ温度差を感じながら、苦笑している逢坂に言う。


「なぁ逢坂、俺は無事に帰ってこれるだろうか?」

「えっと…待ってるからね真也先輩。」


頼むからそこで遠い目をするな。


「さぁ桐生、お着替えタイムの始まりだ。お嬢様方、後はお任せします!」


チッ、後で覚えとけよ。


「あぁ任せろ峰岸!」

「私の願いを叶えてくれてありがとう峰岸くん。」


おい待て緋結華、そんなこと願ってたのか。


「うふふ、完成したらバッチリ写真に収めて待ち受け画面に設定です。」


それだけは断固として阻止しなければ。

俺は捕まった宇宙人のように莉乃姉と緋結華に左右を支えられ、引きずられるように風呂場へと連行された。






風呂場の脱衣場に立たされた俺は、鏡の前で難しい顔をしていた。

隣では服装を吟味する三人が、楽しそうに鞄を漁っている。


「真也は引き締まってるとはいえ肩幅とかちょっと広いからな、肩とか出したらすぐにバレてしまう。」

「ならやっぱり薄手のジャケットは必要ですよね、それなら多少は隠せそうです。」

「銀髪も隠すとなるとカツラも長髪になります、肩に掛ければ偽装できそうですね。」

「よしっ、ならクールな感じに仕上げつつ女らしさを出そう。」


俺にとってかなり嫌な会議は、思った以上に滞りなく進む。

まぁ、このいたたまれなさが長引くよりマシか。

できるだけ早く終わってくれ、じゃなけりゃ俺の精神が保たない。

そんな願いが少しでも届いたのか、会議は早く終わってくれた。

莉乃姉が俺の前に来ると、顔を赤らめながら言う。


「じゃあ…脱がすね真也。」

「いや、自分でやるから。」

「そうか…、なら…あたしを脱がせて?」

「何でだよ!?」

「だって、真也が脱ぐならあたしも脱がないと。」

「ダメです莉乃さん!そういうのは!」

「小湊先輩、毎回それでは先に進めませんよ。早く真也さんをひん剥きましょう。」

「お前の言ってることも何かおかしいけどな!」


ったく、先が思いやられるなこれは。

俺は着ていたシャツのボタンを外して上裸になると、緋結華が持っていた女性用のシャツを渡してきた。

そして一緒に渡される、サテン生地の下着シャツ。

え、これも着るのか?

俺の視線に気づいた恵恋が、にやりと笑って言う。


「どうしたんですか?女性はシャツを着るときキャミソールも着るんですよ。」

「俺は…男なんだが?」

「今から女性になりきるんですから、躊躇わずに袖を通して下さい。」

「チッ、最悪だ。」


サラサラした生地のそれを、俺は悪夢でも見ている気分で身に付ける。

あぁ、こんなにも逃げ出したいのは初めてだ。

なるべく見られないように続けてシャツを着ると、次は流れるようにスーツパンツが渡されてくる。

あぁ、これはまだマシだ、似たような物を俺も履くからな。

しかし俺が着てもサイズ的にそんな違和感がないな、峰岸の姉も相当身体が大きいだろ。

そうこうしてる間に、鏡には女性用スーツを着た俺が映されている。

緋結華がにっこり笑いながらパフを俺の頬に当てて、恵恋が頭に被せてきた茶髪ロングのカツラを丁寧に編み始めた。

莉乃姉はジャケットを俺に着せると、自分が着けていたネックレスを俺の首に着けなおす。

どんどん様変わりしていく自分を見るのがこんなにも精神的にキツいものだとは知らなかった、きっと聡明だった両親だって知らないに違いない。

そして予想されていたことだけど、これじゃまるで…。

完成した俺の新たな姿に、莉乃姉が苦笑する。


「あたしも途中から気づいてはいたんだが、やっぱり…。」

「凄い凄い!真也くんが素敵な女の子になりました!」

「これは…貴方はどこまでスペックを高めるつもりですか。」

「できれば高めたくはなかったけどな。」

「ほら真也くん、もう少し声を高めに、口調も柔らかく。」


チッ、緋結華が一番楽しんでやがるな。

はぁ、口調を柔らかくか。

本日何度目かの溜め息を吐いて、俺は引っ繰り返りそうな高い声を出してみる。


「こんにちは緋結華さん、今日も暑いわね。」

「うゎあああ!ドキッとしました、素敵です真也くん!」

「女性さえファンにつきそうなほどの美人ですね、目を奪われましたよ真也さん。」

「そ、そうかしら?」


うわぁ、この場からいなくなりてぇ。

喋り方もこの格好も、ただのイカレ野郎じゃねぇか。

それに莉乃姉は、今更素直に楽しめてねぇし。

まぁでも、気にされるくらいなら俺から言っちまうか。

俺は莉乃姉に向いて、苦笑しながら言った。


「まさかこんなにも俺と真耶姉さんが似てるとは思わなかったな、服装は姉さんと全然雰囲気違うけどさ。」

「あ……あぁ、顔だけ見たら殆ど変わらないぞ。流石にあたしには細かな違いも判るけど。」


俺とは目元や口元も違ったし、似てるのは顔の雰囲気だけだった。

でも髪型や服装をもっと合わせたら、その違和感も少しずつ判らなくなる程度には似ているんだろう。

ふと視線を向けると、恵恋が少し気まずそうに俺を見ていた。

それは緋結華も同じだったみたいで、会話に入っても良いのか図りかねているようだ。

俺は小さく微笑んで、二人の頭に手を置いた。


「大丈夫だよ、もうおかしなことにはならねぇから。」

「えっと、すみません気を遣わせてしまって。」

「謝ることじゃねぇよ。残念ながら写真はないんだが、今の俺の姿が俺と莉乃姉には真耶姉さんに見えたんだ。実際は当然、野郎の変身した姿より圧倒的に綺麗な人だったけど。」


ほんの少しだけ、胸に哀愁が飛来する。

でも、ちゃんと過去として口にできるくらいにはなったわけだ。

姉さんのことを、ただ痛みと苦しみだけの存在にしなくて済んだんだな。

それに安心していると、幾分雰囲気が軽くなった恵恋が訊いてくる。


「真耶さんは今の真也さんより美人だったと言うのですか?」

「あぁ、弟として見ても姉さんは綺麗に見えたぞ。まぁ本人は莉乃姉を目標に掲げてたみたいだが。」

「莉乃さんと真也くんと真耶さんはいつも一緒にいたんですか?」


緋結華の質問に俺は頷く。


「あぁ、幼なじみだしな。学校にいる間からずっと一緒だったぞ。」

「それはまた、誰もが迂闊に攻められなかったでしょうね。」

「は?」

「いえ、こちらの話です。」

「恵恋さんの言う通りです、勝ち目がないと思っちゃいます。」

「だから何の話だよ。」

「真也に声をかけたくてもあたしや真耶がいて、あたしや真耶に声をかけたくても真也がいる。それだと、確かに声はかけづらいな。」

「何だそれ、別に普通に話しかけてくれりゃいいだろ。」


俺がそう言うと、三人は溜め息を吐いた。

意味が解らねぇっつの。


「さて、じゃあ男子にもお披露目といこうか。」

「う、スゲェ嫌だな。」

「行きますよ真也さん、きっと峰岸がカメラ構えて待ってます。」

「もう少し行きたくなるような台詞は言えねぇのか?」

「どちらにしても行きたくないなら、何を言っても意味がないでしょう?」


う、確かにその通りだけど。

もう一度鏡に映った俺を見てみる。

多少の違和感は残っているが、初見では男と思われそうにない。

胸がないのは当たり前だが、まぁ多分大丈夫だろう。

まったく驚くほど三人共上手く加工したもんだな、お陰で短時間ならバレそうにない。

何が怖いって、外に出たときバレるのが一番怖いんだから。

帰って来るまで気づかれなければとりあえずは安心だ、精神衛生は非常に良くない状況だけど。

莉乃姉に手を引かれて、二人の待つ部屋に戻ってきた。

既に焚き付けた後なのか、二人は待ちわびたように俺を見上げる。

その顔が揃って驚愕に変わった。

女子バレー選手並に高い身長に、背中まで伸びた茶髪は緩く編み込んである。

緋結華のナチュラルメイクで、俺の男っぽさはどこかに消えてしまったらしい。

長袖を軽く折り返すことで女性っぽくしつつ腕の筋肉を隠し、後で拳は手袋でカバーする。

元々着けていたブレスレットが、ちょっとしたお洒落をする真面目な女性っぽくなって、もう嫌ってほど隙がない。

ぽかんと見ていた峰岸はおもむろに立ち上がると、カメラを構えて叫んだ。


「神様ありがとう!例え偽りでも、絶世の美女を見れてオレは感動した!」

「チッ、うるせぇから黙っとけ。」

「でもホントに、凄く綺麗だよ真也先輩。」


逢坂が身を乗り出すようにして頷く。


「あのな逢坂、綺麗だよとか言われても全然嬉しくはないぞ。」

「女性陣に感謝!姉貴に感謝!桐生のポテンシャルに感謝!」

「うるせぇっつってんだろクソッタレ!」

「グハァッ!」


騒がしい峰岸を黙らせて、俺は三人に振り返る。


「一分一秒でも早く着替えたい、罰ゲームならとっとと終わらせよう。」

「あら、真也さんはそんなに女装で表を歩いてみたかったんですか?」

「恵恋、流石にキレんぞ。」

「まぁまぁ真也くん、落ち着いてください。」

「あたしたちがエスコートするから、真也は安心してくれ。」

「どの世界に趣味でもない女装して安心できる奴がいんだよ。」


さっきまでは大丈夫かもだなんて思ってたけど、段々不安が増してきた。

うだうだしてても終わらない、でも頭では理解してるのに気持ちが追い付かない。

その間に皆は準備を整え、楽しそうに玄関へと向かう。


「ボクもフォローするから、頑張って真也先輩。」


逢坂は俺に手袋を差し出すと、元気づけるように微笑んだ。

しかし逢坂、その憧れの女性を見るような視線は止めろ、俺は男だぞ。

憂鬱な気分で重たい足を引き摺るように動かし、玄関にポツンと置かれたパンプスを溜め息吐きながら履く。

越えたくなかった境界線を越えると、真夏の暑さが余計に気分を悪くした。

天空は冴え青々と澄み渡り、撫でゆく風は嫌気が差すほど生温い。

たった今までいた冷房の涼しさが懐かしく思えるほど、凶悪な熱気が長い茶髪をふわりと持ち上げた。


「さぁ真也、先頭きってコンビニへゴーだ。」

「俺が先頭かよっ!?」

「ダメですよ真也くん、外に出たら口調からなりきらないと。知らない人が見たらすぐにバレてしまいます。」

「う…い、行くわよ皆、暑いから早く帰りたいわ。」

「エスコートしますぜ桐生の姐御!」

「あら峰岸くん、サンドバックになりたかったなんて驚きだわ?」

「マ…マジ怖かった今の笑顔。」


あぁ、俺も今の自分が怖いぞ峰岸。

暑苦しい髪を手で払いながら、コンビニへ向けて歩きだす。

いつもの道がまるで異界に迷い込んだみたいに不安で満ちている。

すれ違う人もいつもなら気にも止めないのに、今日は誰もが自分の嘘を見抜く裁判官みたいに見えてしまう。

実際、何人も目が合った。

その度に驚いたように目を見開き、チラチラと視線を向けてくる。

バレてるわけじゃないと解ってはいても、この初めて感じる不安はどう深呼吸しても消えてくれない。

莉乃姉が隣に並んで、楽しそうに声をかけてきた。


「さっきすれ違った人、振り返ってまで見つめてたぞ。」

「寒気がするようなこと言うな、暑いのに掻いてるの冷や汗だぞ?」

「ほら真也、声。」

「……まったく、こんなにコンビニは遠かったかしら?」

「う、可愛いな真也。」

「嬉しくないですわ、止めて下さる?」


そんなやり取りをしていると、漸くコンビニのある通りに出た。

道路を渡った所にある小さなコンビニが、今は砂漠にあるオアシスにさえ見える。

やっと見えた、早く買い物を済ませよう。

走りだしたい衝動を抑えて、信号が青に変わるのを待つ。

すると隣に立ったやんちゃそうな少年が、俺を見上げてすぐに携帯を取り出した。

何事かを操作しながら、チラチラと俺を盗み見る。

はぁ、男の性とはいえ、向けられると嫌なものだな。

信号が青に変わっても少年は渡らずに、ずっとこちらを見ながら何処かへと歩いていった。


「真也くん大人気ですね。」

「さっきからすれ違う野郎の好奇のまなざしに曝される気持ちはどうですか?」

「恵恋たちの気持ちが少しは解りましたわ。」


嫌だ、不意に話し掛けられても普通に女言葉が出てくる。


「わたしたちの気持ち?」

「恵恋たちもしょっちゅうチラチラ見られてるでしょう、だからです。」

「うふふ、慣れてしまえばそんな視線、そこらの石ころと変わりませんよ。」

「そ、そうなのね。」


つまり峰岸みたいなのは相手にすらされてないってことだ、不憫だな。


「え、私って見られてます?」

「人気は高いらしいですよ、ねぇ峰岸くん?」

「あぁ、御奈坂は世間知らずのお嬢様っぽいって人気だぜ!」

「せ、世間知らずですか…。」


微妙な表情で笑う緋結華。

まぁ世間知らずとまではいかないまでも、考え方がズレてる気はするけどな。

何かと他人が優先だし、誰でも信じるし、それが緋結華の長所でもあるんだけど。

莉乃姉は嬉しそうに俺の手を取ると、満面の笑みで言う。


「やっぱりあたしの真也は何でも一番だな!」

「こんなことで一番とか言われても嬉しくない、何度も言うけどな。」

「ダメだぞ真也、そろそろコンビニ着くんだから口調には気をつけないと。」

「く、さっさと買うもの買って帰りましょう。」


見慣れたコンビニに入ると、冷房の冷たい風が火照った身体を冷ましてくれた。

長い髪を掻き上げて熱を逃がしながら、俺は真っ先にアイスの保冷庫へと向かった五人に続く。

どれにしようかと顔を寄せ合う五人の後ろで店内を見回していると、カウンターでぼーっと作業する店員と目が合った。

途端にビシッと姿勢を正してぎこちない笑みを浮かべると、チラチラとこちらを窺いながらてきぱきと作業を続ける。

はぁ、そんな真面目アピールされても俺の好感度は上がらないぞ。

呆れて溜め息を吐くと、逢坂が振り返って言う。


「先輩はどれにするんですか?」

「ん、アイスはそんなに好みとかないので…逢坂くんが適当に選んでおいて下さい。」

「あ、ボクもあんまり食べないんだ。じゃあこれにしようかな。」


そう言って逢坂が選んだのは、ボトルの形をした容器が二つくっついた、珈琲味でお馴染みのアイスだ。


「あぁ、それなら私も食べられますわ。」

「良かった、先輩も食べれるものが選べて。」


安心した笑みを浮かべた逢坂に笑みを返していると、莉乃姉が目ざとくそれを見つけてしまった。


「あ、あたしも真也と半分こしたい!」

「莉乃姉とも半分こしたら食べきれませんわ、今日は諦めて好きなもの食べて下さい。」

「うー、あたしも真也とお揃いで食べたいぞ!」


莉乃姉の声が店内に響いて、店員は驚いたように聞き耳をたて始めた。

俺は慌てて莉乃姉に顔を近づけて、小声で囁く。


「莉乃姉、ここでその呼び方はマズイだろ。」

「あ、そうだったな。ごめん…えっと、真耶。」

「その呼び方かよ、まぁ良いけど。」


少し複雑な気分だけど、とりあえず今日だけだからな、我慢しよう。

聞いていた他の四人も小さく頷いたのを見て、ひとまずそれで落ち着いた。

各自がアイスを選び終わると、俺が籠に入れてレジへと持っていく。

頼むからバレないでくれ、俺の人生が終わってしまう。


「こ、これお願いします。」

「は、はい。」


俺も男性店員も緊張しながら向かい合う。

距離が近いから、体格の違和感に気づかれるかもしれない。

声もなるだけ高くはしているが、女性にしてはかなり低いだろう。

後ろから感じる視線のせいで、鼓動の早さは最高潮に達している。

嫌な汗が冷房で冷えて、鳥肌が立ちそうだ。

店員がバーコードを読み取るのがこんなにも遅く感じたことはない。

表情は穏やかに微笑んだままで、心中は祈るように終わりを願う。

全部のアイスを読み取ると、表示された金額を店員に支払う。


「ありがとうございました。」


お礼を言って立ち去ろうとすると、慌てて店員が俺を呼び止めた。


「あのっ!お名前を訊いても良いですか!」


何いらん勇気振り絞ってんだよクソッタレ、叶わぬ願いに全力過ぎるだろ!

その熱い気持ちは是非とも他の女性に注いでくれ、無駄に君が俺を追い掛けても仕方ないんだ。

俺は振り返って微笑むと、その勇気に敬意を払いつつ告げた。


「ごめんなさい、私には好きな人がいるのよ。それじゃ、お仕事頑張ってね。」


呆然と俺を見つめる彼に背を向けて、俺はコンビニを出た。

まさか罰ゲーム中に男子の勇気を打ち砕くことになろうとは、嫌な気分だな。

先に出ていた五人は、それぞれ色々な表情を浮かべていた。

緋結華と逢坂は、彼の思いを間近で見てしまったことにドキドキしているようだ。


「ビックリしました、結構大胆にいきますね。」

「ボクはあんな風に積極的にはなれないなぁ、だって初対面だよね?」

「少なくともこの格好で出歩いたことなんてないからな。」

「私も見習わないといけません、先手必勝ですね。」

「何だ、緋結華は誰かと勝負でもしてるのか?」

「え、あ、そうですね……強敵が多いので頑張らないといけません。」


握りこぶしを胸の前で握ってみせた緋結華は、楽しそうに笑ってくるりと回る。

俺はそんな緋結華に微笑み返すと、緋結華は悔しそうに頬を膨らませた。


「やっぱり真耶さんは可愛いすぎます。」

「だから、そんなこと言われても嬉しくないですわ。」

「でもよ桐生、実際半端ないぜその格好。思わず間違いを抱いちまいそうだ。」

「冗談じゃねぇ、テメェに好かれるとか悪夢だ。」

「桐生はオレが嫌いなのか!?」

「さっきの台詞で嫌いになりそうだ。」

「峰岸、真也に手を出したら本気で怒るからな。」

「姐御!?」


笑い声が起こる。

こいつらと一緒にいるようになってから賑やかさがなくならない。

感謝してもしきれないな、こんなにも楽しい気持ちにしてもらってるのは。


「先輩。」

「ん?」


前を行く四人を見ていたら、ジャケットの裾を後ろから逢坂に引っ張られた。

立ち止まって振り返ると、俯いて顔の見えない逢坂がいる。

何となく解る、小さな意思表示。

俺はその小さな頭に手を置いて、くしゃくしゃっと撫でた。


「どうしたよ、暑くて疲れたか?」

「えっと、ううん、大丈夫だよ。…あのさ先輩、訊いてもいいかな?」

「あぁ、俺に答えられることならな。」

「うん、寧ろ今の先輩にこそ訊きたいことなんだ。」


逢坂はそこで顔を上げて、俺の目をしっかりと見た。


「自分の本当を偽りながら他人と接するのって、やっぱり大変?」

「は?」


本当を偽る。

確かに今の俺は男であるという本当を偽りながら、女性として他人と接した。

男性からの色々な好意や好奇に曝されて、精神的に疲れる。

何よりさっきの彼に対しては、騙してしまった罪悪感だって感じた。

俺は思い返しながら自分の姿を見直して、苦笑して答える。


「そうだな、こんな短い時間でも凄く疲れるよ。自分自身が嘘みたいで落ち着かないしな。」

「そうだよね、嘘は吐きたくないよね。」

「あぁ、まぁな。どうした逢坂、何かあったのか?」

「えっと、何でもないよ。ごめんね、変なこと訊いちゃって。」


逢坂はそう言って苦笑いする。

俺はそれがどこか泣きそうに見えて、思わずまた頭を撫でていた。


「俺で力になれっか判らねぇけどさ、いつでもその気になったら話してくれ。どんなことでも聞くからさ。」

「あ、ありがとう。」


顔を赤らめながら俯く逢坂の肩を叩いて歩きだす。

なんだって構わない。

俺はこの五人に感謝してるんだから、返せないほどの恩を受けたんだから。

かけがえのないこの友人たちを、俺は助けたいんだ。

俺が少しでも役に立てるなら、いくらでも力になりたい。


「何ですかいきなり!」

「だからさぁ、さっきのスーツの女は何処よっていってんだろ?」

「何の用だよテメェら。」

「ハーレム気取りの王子様は黙っとけやコラ!」

「チッ、何だよあいつらは。」


前を歩いていた五人に、がらの悪い連中が群れをなして絡んでいた。

俺が小走りに追いつくと、俺に気づいた奴らの一人が声を上げる。


「あ、こいつッスよ先輩。凄くないすか?」


俺を指差して先輩と呼んだ奴の肩を叩く。

あ、こいつさっき信号渡らなかった奴じゃねぇか?

チッ、わざわざ仲間を呼び寄せてナンパとは相当暇してるな。

後輩に言われて俺に顔を向けたチビな先輩とやらは、俺を見ながらウザい笑みを浮かべた。


「良いじゃねぇか、胸はねぇけど顔は最高だな。背がデケェのは結構困るけどよ。」


その台詞に寒気を感じながら、揃って笑うやつらを見据える。

俺は五人を後ろに下げて、そいつを睨む。

十人か、暑いからあんま動きたくねぇんだけどな。

すると峰岸も前に出てきて、俺の隣に並んだ。

視線を向けると、やるなら手伝うぜと言うように笑みを浮かべた。

やれやれ、できれば穏便に済ませたいんだけどな。

俺は溜め息を吐いてから、馬鹿の群れに向かって言う。


「何だか私に用があるみたいだけど、一体何かしら?」

「俺らも暇でさぁ、涼しい所で女とお喋りしたいんだわ。つーわけでお前らさぁ、俺らと来いよ。」

「お断りですわね、暇ならゲームセンターにでも行って涼めばいいじゃない。」

「何だよ、どうせ帰ったらそこの野郎と一発ヤルんだろ?だったら俺らも混ぜろや。」


揃って笑うやつらを冷たい視線で一瞥すると、隣を見た。

最高潮に怒り心頭といった様子の峰岸が、初めて見るような目つきで彼らを睨み付けている。

こりゃ穏便になんてなりそうもないか。

諦めて喧嘩を覚悟すると、俺は後ろを振り返る。

莉乃姉と恵恋は恐がってはいないが、薄らと緊張感が伝わってきた。

逢坂は怖がる緋結華に寄り添って手を握りながら、ボクに任せてと言うように頷く。


「黙ってんなよそこの野郎、まさか怖くて足が動かねぇか?」

「おいおい姉ちゃん、そんな雑魚よりも俺らの方がよっぽど楽しませてやれるぜ?」

「今からそこのアホをボコるからさぁ、そしたら皆で遊びに行こうぜ?」

「後ろの女の子も待ってなよ、こんなビビりより気持ち良くしてやっから。」


………すまん緋結華、流石に黙ってらんなくなってきたわ。

俺も峰岸も、そろそろキレそうだ。


「緋結華さん、ごめんなさいね。」


嫌いな喧嘩を目の前でしてしまうことを謝っておく。

俺だけなら良かった。

緋結華に余計なものを見せなくて済むから。

俺はいくら傷ついたっていいから、こいつらだけは傷つけたくなかったのに。


「真耶さん。」


真っ直ぐに、迷いを断つように強い瞳。

俺が驚いていると、緋結華は言った。


「私も、彼らを許したくありません。だから…これを最後にしましょう。」

「…えぇ、そうしましょうか。」


覚悟を決めたと、そう瞳は告げていた。

当たり前のように他人を傷つけ、同じように痛みを伴っていた日々。

互いの理不尽をぶつけ合って、報復されることで贖いの代わりにして、自分を慰めていた。

緋結華も、自身の過去から他人からの心情を異常に気にするようになっている。

争いを生まないために、想いや願いを捨ててまで。

その気持ちを守りたくて、あれ以来喧嘩をしないようにしてきた。

でも、それでも。

面白半分で仲間を侮辱したこいつらには、本気でキレたぞ。


「峰岸さん、私はこれでこんなことは最後にしようと思います。」

「あぁ、そりゃ御奈坂も喜ぶな。」


嬉しそうに頷く峰岸に、俺は考えが伝わったことを感じた。

そのことに感謝しながら、俺は小さく微笑む。

最後がこんな格好と口調なんて、ホントに下らないな。

でも、下らないことにケリをつけるには、これも悪くない。

俺は振り返らずに、後ろにいる四人に言う。


「皆さん、少し刺激が強いかもしれないけれど、我慢してくださいね。」

「あぁ、あたしたちの分まで、終わらせてこい真耶!」

「何をごちゃごちゃ言ってんだよこのアマァ!」

「何って、君たちがこんなことから抜け出せるように、ちょっとお灸を据えるって話よ!」

「女のくせに舐めてんじゃねぇよ!」

「テメェらこそ、この人を舐めてんじゃねぇよ。何しろこの人はなぁ…、」


峰岸が踏み出しながら拳を握る。


「ここらじゃ無敵を誇った人なんだからな!」






リーダー格の少年が俺の蹴りで吹き飛んだところで、彼らは蜘蛛の子を散らすように逃げていった。

俺は額から流れる汗を拭いながら、傷だらけで倒れてる峰岸に声をかける。


「助かったぞ峰岸、大丈夫か?」

「んなもん、大丈夫だって。」


口元に血を滲ませて、峰岸は誇らしげに笑ってみせた。

誇って然るべきだ。

俺の脇を抜けて莉乃姉たちに手を出そうとした馬鹿共から、こいつは身体を張って護りぬいたんだから。

お陰で無傷の俺に対して、峰岸はボロボロだ。

少なくとも、焼けたコンクリートの地面からすぐに起き上がれない程度には消耗したらしい。

俺は峰岸を起こそうと手を差し出す。

しかしそれを遮るように、緋結華の手が峰岸の手を握っていた。


「峰岸くん、立てますか?」

「当たり前だぜ、ありがとう御奈坂。」

「帰ったら手当てしますから、行きましょう。」

「御奈坂に手当てしてもらえるなら、少しは頑張った甲斐もあるかな。」

「反対側はボクに任せて。」

「サンキュー逢坂。いやぁ、美少女に挟まれるなんて、役得だなこれ。」

「ありがとう峰岸くん、格好よかったですよ。」

「うん、守ってくれてありがとう峰岸先輩。」

「マジか、二人に言われると嬉しいぜ。」


緋結華と逢坂に肩を借りながら歩きだした峰岸を見て、俺は微笑んだ。

良かった、あれくらいで済んで。


「真也さん、大丈夫ですか?」


振り返ると、恵恋が俺を見上げて心配そうな顔をしていた。

よく見ると、瞳は僅かに潤み、いつもより少し小さく見える。

やっぱり、怖かったんだな。

俺は笑ってその頭を撫でてやると、少し震えている手を握って言う。


「安心しろ、俺は無傷だ。」

「そうですか、まぁ真也さんならそれくらい当然でしょうね。」

「いやいや、偶然だって。……怖がらせて悪かったな、もう大丈夫だよ。」

「……はい。」


目を閉じて笑みを浮かべた恵恋は、一歩前に踏み出した。


「わたしはもう平気ですから、一番心配している人を安心させてあげてください。」

「あぁ、そうだな。」


俺は頷いて、静かに佇む莉乃姉に歩み寄る。

今にも泣きそうな顔の莉乃姉の前に立つと、胸の前で祈るように固く握られた手に触れた。


「心配かけてごめんな、もう大丈夫だよ莉乃姉。」

「うぅ、真也ぁ!」


勢い良く抱きついてきた莉乃姉を受け止めると、背中を優しく撫でる。


「大丈夫か、怪我とかしてないよな!?」

「あぁ、どこも怪我してないよ。」


ぎゅっと俺を抱き締める莉乃姉は、胸に顔を埋めながら言う。


「初めて真也が喧嘩してるところを見て、こんなにも怖いだなんて知らなかった。何度も話には聞いていたのに、実際に見たら不安で仕方なかった。」

「うん、ごめんな。」

「もうダメだぞ、喧嘩なんて絶対にダメだからな!」

「あぁ、もうしないよ。さっきので最後だ、もう心配かけないから。」

「うん……うん。」


俺の答えを確かめるみたいに頷く莉乃姉は、やっぱりどれだけ気が強くても女の子だ。

俺が守らないといけない、大切な女の子。

怖がらせたり傷つけたり、そんなことにならないようにする。

喧嘩のしすぎで堅くなってしまった拳を見ながら、俺は皆と居続ける為の誓いを、心に刻んでいた。






漸く家に着くと、俺はすぐさまシャワーを浴びて着替えた。


「勿体ない!そんなに美少女なのに勿体ない!」


苦笑する緋結華に手当てを受けながら、峰岸が変態的な抗議をしてきたが当然無視した。

いつまでもおかしな趣味を持ってるみたいな格好してるなんて冗談じゃない。

漸く偽物の殻を脱いだ時には、その解放感から思わず胸を撫で下ろしたくらいだ。

部屋に戻ってくると、女性陣による夕食作りが始まっていた。

どうやらアイスは食後のデザートに回されたらしく、野郎は揃って手持ちぶさたに座卓を囲んでいる。


「俺が言えた義理じゃないが、二人とも料理とかできんのか?」

「ん~、ボクは少しだけできるよ。居候させてもらってる家の家事をやらせてもらってるから。」

「オレはレシピを見ながらなら大丈夫だぜ、それにお菓子作りは趣味でかなりやってるな。」

「………は?お前がお菓子作り?」

「凄く意外だね。」

「だろ?なんか楽しいんだよな、甘いの好きだから自分も美味しいし。」


見た目爽やかなイケメン馬鹿な峰岸が、ボウルに泡立て器を突っ込んで回している光景を想像してみる。

…意外に違和感ないな、納得はいかないけど。

するとこちらの会話が聞こえていたのか、女性陣のテンションが上がり始めた。


「なんだ峰岸、お菓子を作れるのか?」

「はい姐御!何でも一通り作れますよ!」


立ち上がってカウンター越しにキッチンを覗き込みながら、峰岸が笑う。


「お菓子とは中々やりますね、今度わたしにゼリーを作ってきて下さい。」

「冴塚はゼリーが好きなのか?任せとけ、味は何がいい?」

「そうですね、柑橘類が好きです。」

「おう、オレも柑橘類の味はさっぱりしてて好きだな。」

「あの峰岸くん、私にもお願いします。」

「わかった、なら皆の分を作ってくるよ。」


爽やかな笑顔を浮かべ、峰岸が快諾するのを見て、俺は逢坂に顔を向けて笑う。


「凄いなあいつ、あっという間に大人気だ。」

「お菓子には女の子を笑顔にする魔法がかかってるからね、それを作れるなんて素敵じゃないかな。」

「なるほどな、それは大人気にもなる。」

「それに一年生の間でも峰岸先輩って人気だよ、何か無邪気な感じが良いんだって。」

「あぁ、それは納得できるな。」


男の俺には解らないが、あれはあれで可愛らしくも見えるだろうし、そもそも顔はいいわけだし。

優良物件なのに浮ついた話がないのは、きっと緋結華に一途だからだろうな。


「あいつって告白とかされてんのか?」

「されてるはずだよ?少なくとも夏休み入る前にクラスの子が一人、あの様子だと受けなかったみたいだけど。」

「なるほどな、見直したかも。」


学生同士だと、そういう恋愛絡みの話は驚くほど早く広まる。

しかも大抵は変な尾びれが付いて、振られた方が傷つくような揶揄が付いたり、振った方が急に非難されたりするものだ。

そんな噂話が流れていない、しかもただの一度も。

恐らく峰岸が相手の負担にならないように、色々と手を尽くしているはずだ。

アフターケアまで完璧、だっていうのに。


「ひゆ……御奈坂はどんなお菓子が好きなんだ?」

「私ですか?そうですね、シュークリームとかパフェとか、生クリームが好きです!」

「しゅ、シュークリームか…難しいが頑張って練習してみるぜ!」

「わぁ、楽しみにしてますね峰岸くん。」


名前すら呼べてないなんて、しかも何か緊張してるっぽいし。

前途多難そうだな、頑張れよ峰岸。






それから暫くして、女性陣が作った豪華な夕食が座卓に所狭しと並んだ。

和洋折衷どころじゃないくらい節操がないが、どれもこれも美味しそうだった。


「怪我した峰岸はたくさん食べて早く治すんだぞ。」

「了解ッス姐御!」

「真也さんも、わたしの料理に舌鼓を打つといいですよ。」

「あぁ、そうさせてもらう。」

「龍矢くんはどれが食べたいですか?取ってあげますね。」

「じゃあ緋結華さんが作ったのが食べたいな。」

「にゃあ。」

「お、夏音、お前何処に行ってたんだ?」


朝からいつものように何処かへ行っていたらしい夏音は、料理に誘われたのか俺の膝の上に乗ってきた。

すぐに莉乃姉が猫缶を持ってきて、夏音用の皿に出して俺に渡してくれる。

一足早く食べ始めた夏音を眺めながら、俺たちも手を合わせて食べ始めた。

莉乃姉にどかどかと料理を積まれる峰岸を尻目に、俺は恵恋に同じようなことをされ、逢坂と緋結華は苦笑しながらのんびりと食べている。

賑やかな食事の後には、頑張って買ってきたアイスを堪能して、賑やかな一日は終わりを迎えた。

街灯が照らすアパートの下で、俺は帰る準備の整った五人を見送る。


「結局ほとんど勉強してねぇじゃねぇか。」

「まぁまぁ桐生、たまには集まって馬鹿やんのも楽しいじゃないか。」

「あのな峰岸、宿題を協力してできないで困るのはお前くらいだぞ?」

「……グワッ、しまった!」

「また集まりましょうよ、楽しいですから。」

「御奈坂に賛成!」


喜ぶ峰岸に、緋結華が楽しそうに笑う。

そんな峰岸の横っ腹を、恵恋が容赦なくつねった。


「痛いっ!?」

「いつまで鼻の下伸ばしてるんですか、暑いんですからとっとと行きますよ。」


恵恋と峰岸は何げに家の方向が一緒だったな、帰り道どんな仕打ちを受け続けるのか見てみたいもんだ。


「悪い冴塚。でもな、別れを惜しむ気持ちも解ってくれ。」

「またいつでも会えるでしょう?集まるのでしたら、この六人なんですから。」


恵恋の言葉に、俺たちは顔を見合わせて笑った。


「そうだな、楽しいのはまだまだ続くんだ。なぁ真也?」

「あぁ、またすぐに顔を合わせるだろ。夏休みだって半分くらい残ってる。」

「そうですね、じゃあ今日のところは帰りましょう。」

「緋結華さんはボクが送るからね。」

「ありがとう龍矢くん。」

「よっしゃ、なら帰るか冴塚。」

「ふん、わかってます。」

「あたしは真也についてきてもらおうかな。」

「あぁ、そうだな。」


互いにパートナーを見つけ、頷き合う。


「じゃあな皆、また連絡するぜ!」


峰岸がそう言うと、先に歩きだしていた恵恋と並んで歩いていく。


「俺たちも行くか。」

「そうですね、じゃあ途中まで。」


緋結華と頷いて、四人で歩きだす。

莉乃姉と緋結華は、今日の俺の醜態を楽しそうに話していて、俺は話が飛び火しないように少し歩幅を緩めた。

すると後ろを着いてきていた逢坂の歩幅と、ちょうど重なるような感じで隣に並んだ。

男にしては随分と小さく、可愛らしい顔をした後輩。

緋結華を大切に思い、初めの頃は喧嘩までした間柄。

そんな逢坂が、今では親愛の色を宿した瞳で俺を見上げている。


「どうしたの真也先輩、二人と話さないの?」

「いや、今日の俺の格好について談義しているらしくてな、できれば関わりたくない。」

「あはは、凄く美人だったから皆気になるんだよ。」

「勘弁してくれ、俺は二度とあんな格好になりたくないぞ。」


逢坂は笑う。

なのにそれが妙な違和感をもって、俺の目には見えてしまった。

何か違う、逢坂の笑顔はこんなじゃないっていう、そんな感覚。


「なぁ逢坂。」

「どうしたの真也先輩、急に改まって。」

「辛いことでもあったのか?」

「………え?」


笑顔のまま固まった逢坂。

俺の感じていた違和感の正体が、少しずつ確信に変わっていく。

予想外の質問だったみたいに、引きつった笑みを浮かべたままの逢坂は、何だか泣きそうに見える。

逢坂は暫くして落ち着いたのか、溜め息を吐いて首を振った。


「真也先輩ってズルいよね。」

「何だよ突然。」

「前に踏み出そうか躊躇ってる人の背中を、目ざとく気づいて押しちゃうんだもん。」

「意味がわかんねぇよ。」

「何でもないよ、でも…真也先輩にならもう……ううん、ボク自身が言いたいって思ってる。」


逢坂は一人小さく何かを呟くと、笑顔で顔を上げて俺を見た。


「嘘なんて、もう嫌だよね?」

「いや、さっきからどうした?」

「明日!」

「あ、明日!?」

「ボクが居候してる家に来てくれませんか?」


突然の申し出に、今度は俺が固まった。

逢坂は緊張しているのか、ぎこちなく笑いながら続ける。


「宗十郎さんには話しておくから、明日の都合がいい時間帯に来て下さい。」

「来いって、何処に?」

「並木町にある、小峰剣術道場。ボクが本家に言われてお世話になってる古い道場です。」

「そこで何をするんだ?」

「今は話せないんだ、今晩頑張って纏めておくから。」

「どうしたんだ大きな声を出して、何かあったのか?」

「あ、何でもないよ莉乃先輩、驚かせてごめんなさい。」


逢坂が振り返った莉乃姉に手を振って笑った。

俺はそれを見て首を傾げていた。

雰囲気から察するに重要な話っぽいのは判る。

でも何だろう、俺を選ぶ理由は。

前の二人はさっきの声で驚いているのに、何でもないと誤魔化した。

俺にしか話せない話なのか。

理由も内容も解らないが、ともかくそういうことらしい。

二人は疑問に感じながらも頷いて、また二人の会話に戻る。

俺は曖昧に笑っていた顔を元に戻すと、逢坂の頭に手を置いた。

追求されると思ったのか怯えたように俺を見上げる逢坂に、俺は安心させようと笑いかける。


「じゃあ明日の昼頃、一人でその道場に行くよ。莉乃姉には上手く言っとく。」

「……ありがとう真也先輩、気を遣ってくれて。」

「いいさ、大したことはしてない。それよりほら、待ってるみたいだぞ?」


前を見れば、そこでは莉乃姉と緋結華がそれぞれ向かう道に別れて、護衛の俺たちを待っている。

逢坂は頷いて、緋結華の隣に収まった。

俺も莉乃姉の隣に立つと、緋結華と逢坂に手を上げる。


「それじゃまたな二人とも、気をつけて帰れよ。」

「一日中いてしまってすみませんでした真也くん。」

「構わないさ。普段は静かすぎる分、たまには騒がしいのもありだろ。」

「そう言ってもらえると嬉しいです、また遊びましょう。」

「あぁ、でも今度は女装なしで頼む。」

「真也先輩、軽くトラウマになっちゃったね。」

「可愛いのに、真也の女装。」

「あれを素直に受け入れる俺が良いのか?」

「あはは、それは凄く困りますね。」

「そうだろ?っと、話してたら遅くなるな。」

「そうだな、じゃあな二人とも。」

「はい、お二人も気をつけて。」


互いに背中を向けて歩きだす。

すぐに腕を絡めてきた莉乃姉に苦笑しながら、俺は何時に帰れるかななんて考えていた。






Aisaka Side


緋結華さんを送り届けてから、薄暗い夜道を一人で歩く。

考えるのは明日のことばかりで、しかも全然まとまりそうにない。

どうしよう、何から話せば良いんだろう。

始まりから? それとも今の結果から?

真也先輩ならきっと、真面目に聞いてくれる。

でも、受け入れてくれるかどうかは、流石に判らない。

大丈夫、大丈夫だよって、自分自身に言い聞かせる。

きっとあの人は怒ったり、人に言い触らしたりしないはずだ。

始まりは悪かったけど、凄く優しい人だって知ったから。

ただ不器用で、人付き合いが苦手で、そんな自分に関わらせないように周りに冷たくする。

ちょっとしたことも、見た目には悪くなってしまっても、いつだって周りの皆が嫌な思いをしないように、ずっと先のことまで考えてるんだ。

傍にいる時間は、誰よりも短くて、長くもならないと思う。

けど、気になるんだよ先輩。

町を歩いてる時、師匠と鍛練している時、ちょっとした不思議に出くわした時。

ふとそんな時に、あなたの顔が浮かぶんだ。

先輩ならどう思うかとか、どんな手で攻めるかとか。

この気持ちが何なのか、もう知らんぷりできないんだよ。

だからこそ、我慢できなくなったんだ。


――もう、嘘つきでいたくない。


もしも受け入れてもらえなくても、騙しているよりはずっといい。

勇気を出せ、誘うことはできたんだから。

思ったことを、本当のことを言おう。


「うん、私は頑張るよ!」


故郷にいるお祖父様には怒られるだろうけど、それでも私は言うんだ。

ボクは、もう終わりにしたい。


好きな人に、本当の自分で向き合えるように。

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