Day.11 決意の夕暮れ
晴れ渡る青空の広さにはしゃぐように、鳥たちが鳴きながら飛んでいく。
巨大な入道雲が君臨するその空に目を細めながら、ぼやけた意識で窓を開ける。
じめっとした温い風が吹き込んできて、おまけに蝉の奏でる騒音まで流れ込んできた。
夏音がぴょこんと俺の上に飛び乗って、退屈そうに外と俺を交互に見る。
「…暇だから遊べってか?」
頷きを返すように小さく鳴いた夏音は、暫く俺を覗き込んだあと、諦めたように窓の外へ飛び出していった。
はぁ、ちゃんと帰って来るんだろうな。
輪郭が薄れたみたいな景色を眺めて、俺は大きく咳き込んだ。
「ゴホッゴホッ、…チッ、かったりぃなぁ。」
俺は、夏風邪を引いたのだ。
「大丈夫ですか真也くん。」
「ん、とりあえずな。」
冷たい濡れタオルを俺の額に乗せながら、緋結華が微笑む。
「何か食べましたか?」
「いや、作れないし食ってないな。」
「なら私が作りますね、食欲はありますか?」
「あぁ、でも少しでいいからな。」
「はい、ちょっと待っててくださいね。」
甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる緋結華に視線を向けて、柄にもなく任せてしまおうと起きるのを諦めた。
夏休みの宿題なんて物を片付けようとして、緋結華曰く成績の良い俺の所に来たらしい。
どうせ夏休みは莉乃姉に振り回されて暇がないだろうと宿題は早々に片付けてはいたが、まさか莉乃姉以外の役に立つとはな。
だけど流石にマズイな、早めに帰そう。
キッチンで何かを作り出した緋結華に向かって俺は声をかける。
「緋結華、それ作ったら帰ってくれ。宿題は持っていって構わねぇからさ。」
俺の言葉に驚いた顔をした緋結華が、申し訳なさそうに訊いてくる。
「えっと、もしかして迷惑でしたか?」
う、何で悲しそうな顔をすんだよ。
俺は身体を起こして首を振る。
「違う、風邪が移ったら困るからだよ。ほっといても治るから、宿題は家でやったほうがいい。」
「大丈夫です、移りませんから。」
どっからその自信は湧いてくんだよ。
安心したように微笑みながら緋結華は料理を再開する。
「それに私が真也くんの風邪を貰えばきっとすぐに治りますよ、寧ろ移して早く治しましょう!」
「ふざけんな、そういう治し方は本気で御免だ。」
「真也くんはそう言うと思いました。ならしっかり食べて、ゆっくり寝ましょう。今日は一日予定もないですし、付き添い看病しちゃいますよ!」
嬉しそうに笑う緋結華。
はぁ、移っても知らねぇぞ。
諦めて布団に倒れこむと、風が吹き込む窓の外を見上げる。
恵恋は親父と仲良くできてんのかな、昨日の様子なら大丈夫だと思うけど。
…ん?
何か忘れてる気がするな、しかも多分大事なことだ。
……ぼーっとして解んねぇ、もしかして気のせいか?
「できました~、ちょっと温めのお粥です。」
キッチンで緋結華が上げた声で、考えていたことが何処かに吹き飛んでしまった。
まぁいいか、きっと大したことじゃなかったんだろう。
お盆に湯気の上がる小さい土鍋を乗せた緋結華が、何だか上機嫌に歩いてくる。
その姿は、見覚えのあるエプロン姿。
「お前、それ…。」
「あ、勝手に借りてごめんなさい。このエプロン、真也くんのですか?」
「あぁ、一応な。」
昔莉乃姉が新婚夫婦みたいに並んで料理がしたいと言って、面倒ながら一緒に買いに行った水色チェック柄のエプロン。
莉乃姉が選んで着てみたはいいものの、俺が料理に挫折して一度しか使われなかった物だ。
まだあったとは、莉乃姉は諦めてないのか?
俺がぼーっとしていると、お盆を置いた緋結華が立ち上がって尋ねてくる。
「どうですか真也くん、私にも似合いますか?」
「ん、まぁ似合ってるな。」
「ホントですか!?嬉しいです!」
満面の笑みでくるりと回ると、軽やかに白いスカートが舞う。
ふわりとした白い服装の緋結華が水色を着けているから、何となく春の空みたいだ。
見た目だけでも十分に料理ができそうってのは、更に女の子らしいな。
少なくとも俺が着るよりは適任だ。
「うふふ、私もお揃いのエプロン買おうかなぁ~。」
「それは構わないが、既に莉乃姉がお揃いの赤色だぞ?」
「あはは、やっぱり先を越されてましたか。」
緋結華はちょっと残念そうにエプロンを外すと、ベッドの脇に座って蓮華を取る。
それで土鍋からお粥を掬うと、息を吹き掛けて冷ましてくれた。
空いた手でそっと髪を掻き上げる仕草。
見た目は違うのに、それは少し真耶姉さんに似ていた。
「えっと…どうかしましたか真也くん?」
「あ、いや…何でもない。」
「そうですか?」
チッ、思わず懐かしくて見惚れてた。
心臓がドキドキして、顔が熱い。
クソッ、きっと風邪のせいで惚けてやがるんだな。
…そういえばこれって、二人きりじゃねぇか。
緋結華が無防備なのはいつものことだけど、普通男の…彼氏でもない奴の家に一人で来るか?
クッ、何もない、少なくとも俺は何もない。
「ふぅ……それじゃあ真也くん、あーん。」
「なっ!?」
冷ましたお粥を俺の口元へと差し出す緋結華。
俺は驚いて、その不意討ちに顔を真っ赤に染める。
「おい緋結華、いくらなんでもそれは……。」
「うぅ、私だって恥ずかしいですよ。でもこうしたいんです。」
緋結華は俺と同じく真っ赤になりながら、俯きがちに呟いた。
「や、でもなぁ…。」
これじゃまるで、恋人同士みたいじゃないか?
ダメだ、何か色々マズイ。
頬を赤く染めてちょっと悲しそうに俺を見上げる緋結華が、何か別人みたいに俺の視線を釘づけにする。
冗談だろ、落ち着けよ俺の心臓。
「あの……ダメですか?」
「クッ………わかったよ。」
うだうだしてても緋結華は引かない、何かそんな気がする。
緋結華は嬉しそうに身体を乗り出してくると、はにかみながら言う。
「えへへ、良かったです。それでは改めて、あーん。」
「あ、あぁ。」
大人しく口を開けて緋結華に顔を近付ける。
互いの息が感じあえる距離。
緋結華の可愛らしい顔がすぐ目の前に…。
「おっはよー真也ー!デートに行くぞー!」
「おわっ!?」
「きゃっ!?」
元気いっぱいに玄関から無許可侵入をしてきた莉乃姉が、リビングの扉を開け放つ。
照れくさそうに入ってきた莉乃姉は伏し目がちにもじもじして、床を見ながら嬉しそうに言う。
「えっと、昨日はありがとな真也。一日会えないと思ってたから、会えてホントに嬉しかった。だからな……今日はあたしを貰って…くれ?」
そこで顔を上げた莉乃姉が、目を見開いて固まった。
目の前には当然、顔を近付けている俺と緋結華がいる。
莉乃姉が持っていた紙袋を取り落とし、わなわなと震えだす。
俺は混乱が一周していっそ冷静に、あぁ最悪だと覚悟を決めた。
「お、おはよう莉乃姉。」
ダメだ、覚悟してもやっぱ嫌だわ。
だって確実に、こんな光景を莉乃姉は。
「うわぁぁぁあ!真也が寝取られるー!」
即時取り乱して跳んでくる。
緋結華が慌ててベッドから離れたのを確認して、俺は抱き留める体勢で身構えた。
背後は壁、しかも窓枠だから角。
いくら莉乃姉が軽くても、抱き留めたら痛いだろうな、主に背骨と後頭部が。
絶対逃がさないと叫んでそうな表情の莉乃姉が、軽やかに両手を広げて跳んだ。
俺は身を乗り出して自ら近づくと、莉乃姉を守るように抱き締めた。
柔らかい感触と、直後背中に鈍い痛みが走る。
「つっ。」
「あ、ごめん真也!」
「あぁ、大丈夫だ。それより莉乃姉は怪我してないか?」
「う、うん。でも何か温かい物がここに…。」
「は?」
莉乃姉が苦笑しながら落とした視線の先。
シャツの間に覗く莉乃姉の豊満なそれに、先ほどまで緋結華が持っていたはずの蓮華……から零れた物が付いていた。
白くどろっとしていて、人肌くらいに温かい…お粥。
それは莉乃姉の首筋からゆっくりと肌を下って、深い谷間へと沈んでいく。
莉乃姉がこれはチャンスと言うように顔を上げて、色っぽい声で俺に問い掛ける。
「ねぇ、真也。これ、凄く熱いよ。…触ってもいいから、拭いてよ真也。」
「なっ……。」
何を言ってやがんだ莉乃姉!
そう叫んで離れたいのに、どういうわけか身体が上手く動かない。
顔が熱くて、心臓はブッ壊れたみたいにドキドキと激しく鼓動を打つ。
視線を逸らしたいのに、莉乃姉の綺麗な瞳から逸らせない。
互いの息遣いが近くて、莉乃姉から漂ってくる仄かに甘い香りが、力強く抱き締めてしまえと脳に働き掛けてくる。
莉乃姉の肩を掴んでいる手に、莉乃姉が触れた。
「ねぇ真也、今日はあたし…大丈夫だからな?」
「う…。」
「だから…あたしを抱……。」
「ストーーップ!!」
「うわっ!?」
二人の間に割って入ってきた緋結華が、顔を真っ赤に染めながら引き離した。
二人してベッドに倒れこみ、緋結華に振り返る。
胸を押さえながら俺たちを見下ろす緋結華が、大変にご立腹の様子で頬を膨らませていた。
「莉乃さん!そういうのはダメです!ここに来てから行動が早すぎます!」
「はいっ、ご、ごめんなさい。」
「真也くんが弱ってるからって、もう少し節度を守って下さい!私が隣にいるのにあんなこと言って、凄くドキドキしたんですよ!」
「す、すまん。」
「私だって今日は頑張ってたのに……。」
「は?」
「何でもないです!とにかく、莉乃さんはシャワーでお粥を流してきてください!」
「わ、わかったよ。」
緋結華の剣幕に驚きっぱなしの莉乃姉が、慌てて風呂場に走っていく。
残された俺は、肩で息をする緋結華を見上げながら、どうしたものかと思考を巡らせる。
今のは俺たちが悪かったな、色々わきまえてなかった。
とりあえず、まずは謝らないと。
「悪かったな緋結華、俺もどうかしてたよ。」
「え、あ、真也くんは悪くないですよ!?いえあの、莉乃さんも悪くはないんですけど…。」
一変して急にしおらしくなった緋結華は、わたわたと手を振ってベッドに座り込む。
何だろう、どうも挙動不審だなこいつ。
もしかして俺、知らない内に気に障ることしてたか?
だとしたら謝り方が足りないかも。
「悪い、何か悪いこと他にしてたか俺は?」
「いえ、悪いこととかじゃないです。……ちょっと、羨ましいなって。」
俯きながらぼそぼそと言うものだから、話が途切れて聞き取れない。
聞き返すのも失礼だが、理由もはっきりしないで謝るのも変だよな。
俺は聞こえるように、少し緋結華に近づいた。
「し、真也くん!?」
「ん?」
「な、何で迫ってきてますか!?」
「いや、緋結華との距離がちょっと遠かったから?」
「ふぇぇ!?」
「……そんなに嫌なら頑張ってみるが?」
聞こえないのは注意力が足りないわけだし、気をつければ聞こえるだろうし。
だが何故か緋結華は顔を真っ赤にしながら、むしろ自分から近づいてきた。
「わ、私も!」
「はぁ!?」
「私ももっと頑張ります!」
「おぉ?」
「だから真也くん!」
「な、何だ?」
「お粥、食べましょう。」
「………わ、わかった。」
何故か凄い勢いでお粥食えと言われた俺は、改めて蓮華を持ってきた緋結華を前にベッドの縁に座る。
緋結華は床に座って、俺を見上げる形で蓮華を差し出してきた。
「は、はい真也くん、あーん。」
「あ、あぁ。」
零さないようにゆっくりと迫ってくるお粥に口を近づける。
ふと、視線が緋結華の方に向いてしまった。
可愛らしい顔だよな、控え目に見ても。
薄く朱に染まった頬や、色素の薄い大きな瞳。
ウェーブがかった栗毛が、小さな顔に良く似合ってる。
莉乃姉とは違う甘い香り。
鼓動が早くなってきて、見なきゃよかったと後悔した。
緋結華が俺の視線に気づいて、更に顔を赤くする。
互いに動けなくなった。
鼓動が強すぎて、緋結華に聞こえてしまいそうだ。
「あのさ……食って良いんだよな?」
「あ、ごめんなさい。じゃあ、どうぞ。」
改めて口を開き、緋結華の手が伸びて…。
「真也ー!シャツ貸してくれー!」
「っ!?」
突然響いた莉乃姉の声に、緋結華がびっくりして震えた。
その拍子に手を離れる蓮華。
二人して下を向くと、俺の足の間にお粥が落ちてしまっていた。
「あぁ!ごめんなさい、今拭きますから!」
「ちょ、待てそこは…。」
布団に付いたお粥を布巾で拭き始めた緋結華。
そこにやって来る莉乃姉。
バスタオルを巻いただけのとんでもない姿で現れた莉乃姉は、俺と緋結華を見て目を見開く。
あぁ解ってるよ、何かヤバい絵面になってることくらい。
二人の位置と体勢が、これでもかってくらいに最悪だ。
莉乃姉と目が合う。
その表情は笑ってるのに、背後に阿修羅が立ってるように見えるのはきっと気のせいじゃねぇんだろうな。
恐らく勘違いしている莉乃姉に、俺は無駄な足掻きを試みる。
「莉乃姉、これはお粥がだな。」
「………。」
「なぁ、緋結華からも何か言って…。」
「は、はい。」
顔を上げて振り返る緋結華。
何故か涙目で、顔も赤い。
そんな緋結華が、混乱した頭で状況説明。
「あの、真也くんのズボンが汚れちゃいそうだったので、その……。」
そこで説明を迷わないでくれ!
莉乃姉はいよいよ楽しい顔になっていて、俺は何か色々諦めた。
「真也のバカ、そういうことはあたしに言ってくれれば…。」
「いやだからな、ただお粥が…。」
「あたしが初めてがいいんだー!」
「違うって言ってんだろうがー!」
バスタオルのまま走ってきた莉乃姉。
当然激しく動けば、巻いただけのタオルは緩み。
「真也くんダメです!目を閉じてー!」
「のわっ!?」
飛び掛かるように緋結華に両目を塞がれ、直後に莉乃姉が緋結華を退かしに跳んでくる。
「ダメだ御奈坂!真也の唇を奪うのはあたしだ!」
「えぇ!?違いますよ莉乃さん!ともかく服を着てください!」
「俺の上で暴れんな二人とも!」
「真也!あたしの唇はここだぞ!」
「んなこと言われても見えねぇよ!」
「見えれば良いんだな?よし御奈坂、その手を離せ!」
「ダメです!それじゃ莉乃さんの裸が見えちゃいますよ!」
「真也になら何だって見せてやる!」
「見ねぇから!見ねぇから暴れんな、莉乃姉も服を着ろ!ゴホッゴホッ!」
滅茶苦茶に暴れたせいで咳き込むと、二人が慌てて退いてくれた。
目を閉じたまま深呼吸して、溜め息を吐きながら言う。
「とりあえず、ゴホッ、落ち着いてくれ二人とも。」
「ごめんなさい、もうしません。」
「う、ごめん真也。」
「誤解させて悪かった、でも何もないからさ、莉乃姉は好きなシャツを着てくれ。」
「うん、ありがとう。」
莉乃姉の気配が離れていき、タンスを開ける音がする。
「緋結華、莉乃姉が着替えたら教えてくれるか?」
「は、はい。あの、真也くん。」
「ん?」
「布団、汚れてしまったので洗いますか?」
「あぁ、そういやそうだな。」
流石にお粥がついたまま寝るわけにもいかないか、乾いたら落ちないし。
「うん、ソファーで寝ればいいし洗おう。」
「じゃあ私が洗いますね、汚したの私ですし。」
「む、別に気にしなくていいぞ。一応布団くらいは洗えるし。」
最近は洗濯機も使えるようになったのだ、それくらいはな。
「ここまで騒いでおいて変ですけど、真也くんは病人なんです。改めてお粥も作りますので、それを食べたら休んでください。」
「あぁ、ならそうさせてもらうよ。」
叫んだおかげで喉の痛みも増したし、体温も高い。
ちょっと騒ぎすぎたか、少しぼーっとし始めたな。
「着替えたぞ真也。」
「ん、なら目を開けてもいいか?」
「………。」
「…なぁ、何で無言なんだよ。」
「真也、全く見てないのか?」
「何がだよ?」
「目の前で女の子が着替えてて、特に誰も押さえたりしてないのに、薄目でチラッと見ようとか、そういうのないのか?」
「アホか、何でそんなことするんだ。」
見たら色々マズイだろ、ただでさえ全裸だっただろうに。
だが聞こえてきたのは溜め息一つ。
「はぁ、あたしって魅力ないのかな…。」
「まぁまぁ、真也くんはそういう人ですから。」
「解ってるんだけどな、こうまでスルーされるとそれはそれで乙女心がな。」
「あはは、確かにそうかもですね。」
いやいや、普通は恥じらうべきだろ乙女なら。
「くそぅ、真也なら見てもいいのに。峰岸なら間違いなく見るだろうな。」
「えぇと、そうかもです。」
哀れ峰岸、お前変態扱いだぞ。
しかも緋結華にまで肯定されて、本人が聞いたら泣くな。
しかし何だろう。
莉乃姉はいつも通りとして、緋結華まで何か変に積極的だ。
どうしてか、最近の緋結華は妙に色っぽくなった気がする。
仕草も言葉も、何か前と違う。
何か変わったんだろうな、こいつの中で。
でも単に親切なだけか、どちらかと言うと。
そう納得して目を開ける。
暫く閉じていたからか、少し眩しいな。
視界にピントが合うと、苦笑いした緋結華と、ラフな格好の莉乃姉が見えた。
莉乃姉は俺のカーゴパンツに白いシャツ姿で、やっぱかなりだぼっとしている。
…つか、ボタン開けすぎだ。
俺は視界に入らないように目を逸らし、緋結華を見る。
「緋結華、まだお粥は無事か?」
「あ、一応まだ残ってますけど。でも冷めちゃってますよ?」
「熱があるからちょうど良い、土鍋ごとひっくり返す前にいただくよ。」
「あはは、それならどうぞ。布団洗っちゃいますからソファーで食べててください。」
「あぁ、ありがとう。」
微笑む緋結華から綺麗な蓮華と土鍋を受け取って、俺はソファーに腰掛ける。
早速一口食べてみると、出汁の効いたお粥が旨味を残して喉を抜けていく。
確かに冷めてるが、十分に美味いな。
布団を畳み始めた緋結華に向かって、俺は感想を口にした。
「美味いよこれ、風邪も早く治りそうだ。」
そう言うと緋結華は両手を合わせて笑った。
「ホントですか、良かったです。夕飯はもっと期待してくださいね。」
「夕飯?いや、そこまでさせるのは悪い。それにホント風邪が移る。」
「気にしないでください、好きでやってますから。それに、真也くんの風邪なら移ってもいいんですよ?」
「あのなぁ…。」
「えへへ、布団洗ってきます。」
嬉しそうに笑って風呂場へと歩いていく緋結華。
何か解らないが、楽しそうだし任せるかな。
二口目を食べようとして、ふと視線を上げる。
そこには寂しいようないじけてるみたいな、いっそ泣いてしまいそうな表情の莉乃姉が離れて俺を見ていた。
あ、嫌な予感がする。
このまま放置したら確実に何か爆発して暴走して、恐らく俺の風邪は劇的に悪化する、そんな予感。
いやまぁ、確かに俺の態度も悪いな。
俺は蓮華を置くと、隣に莉乃姉が座れるようにソファーを少し空けた。
「莉乃姉。」
「う、うん!」
一変してキラキラした笑顔になると、嬉しそうに俺の隣に座った。
すぐにぴったりくっついて、肩に頭を預けてくる。
「うふふ、真也だぁ、えへへ~。」
「あんまりくっつくと風邪が移るぞ?」
「真也のなら何だって貰うぞ!あ、キスしたら移るかな?」
「移るかなとか関係なくしねぇから。」
「良いじゃないか、減らないし。」
「そういう問題じゃねぇよ。」
呆れて溜め息を吐きながら、そういえばと思って訊いてみる。
「莉乃姉ってさ、凄い格好で突っ込んできたり一緒に寝てたりするけど、無理矢理キスを迫ったりはしないよな。」
「え、してもいいのか!?」
「いや違うけど、何かあんのかなってさ。」
「えぇと、あのな…笑うなよ?」
俺が首を傾げると、莉乃姉は顔を赤くしながら俺を見上げた。
「ファーストキスは、ちゃんと互いの同意の上でしたいから。」
「……っ!?」
恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべた莉乃姉に、ドクンと心臓が跳ねる。
ったく、反則だろその笑顔は。
見慣れているはずの莉乃姉が、やっぱりとんでもない美少女なんだってことを思い知らされる。
知らず熱くなる顔を見られないように顔を逸らしながら、俺は答えた。
「その気持ちは嬉しいけどさ、俺が莉乃姉を選ぶかどうか判らねぇだろ?」
「それでも待つさ。それに真也が誰かを好きになった時、あたしがもうキスしてたら寂しいだろ。だから我慢する、夜這いするのも……なるだけ。」
「いや、後半の方こそ自重してくれ。」
だけど、よく待っててくれてるな莉乃姉は。
こうやって定期的に寂しくなるのも、仕方ないことだよな。
俺が真耶姉さんにもやもやしてたみたいに、考えてるだけだと凄い辛いし。
顔を戻すと、莉乃姉がお粥を見ながら俺に言う。
「なぁ真也、あーんってしてもいいか?」
「……緋結華もそうだけど、それって流行ってるのか?」
「なにっ、御奈坂もだと!?むぅ、何げに強敵だな…。」
「何だよ強敵って、戦いでもしてんのか?」
俺がそう言うと、莉乃姉は呆れたように首を振る。
「……あたしもそうだけど、皆報われないな。」
「は?」
「何でもない、乙女たちの秘密だ。」
「よく解らねぇけど、女の子って大変そうだな。」
「真也が余計大変にしてるんだけどな。」
「何だよそれ。」
俺が悪いらしいのだが、どうも解らない。
言ってくれないと、バカだから察するとかできないんだが。
「それで真也、あーんってしてもいいのか?」
「う、もう勘弁してくれ。それをやろうとして二度も食べ損なったんだ。」
「…それを言われると弱いな、二度目の原因あたしだし。」
「それにいい加減そろそろ休みたい、熱も上がってきちまった。」
さっきからダルさも出てきてるし、明日は予定もあるから早く治したい。
すると莉乃姉がそっと俺の顔を両手で包むと、やおら顔を近づけてきた。
驚く暇もなく、莉乃姉の綺麗な顔が俺に触れる。
額同士が触れ合って、体温が交じり合う。
「む、かなり熱が高いじゃないか。これはあたしが添い寝をしないとダメだな。」
「気になって余計に寝れなくなるわ、どのみちこのソファーじゃ二人は寝れないぞ。」
「そんなの、あたしが真也に抱きつけば解決じゃないか。」
「冗談じゃない、それじゃ治らないっつの。」
大体こんな薄着の莉乃姉にくっつかれたら、きっと心臓が破裂しちまう。
俺はすっかり冷めたお粥を手早く食べ終えると、土鍋をさっと洗ってソファーに横になる。
莉乃姉が出してきたタオルケットを掛けてくれて、俺の前髪を優しく撫でた。
「おやすみ真也、騒がしくして悪かったな。」
「構わねぇよ、この部屋で大人しい莉乃姉の方が心配になる。」
「ははっ、それもそうだな。…今日は傍にいてもいいか?」
「ん、移っても知らないからな。」
「あぁ、わかってるよ。」
「ならまぁ……、その方が…安心……する。」
ゆっくりと意識が沈んでいく。
莉乃姉がずっと撫でていてくれて、何だか凄く、安心していた。
Hiyuka Side
小さなお風呂場で、私は裸足になって布団を洗濯していた。
シーツカバーを洗濯機で洗いながら、布団の汚れた箇所にシャワーを当てて手で擦る。
二度も暴れてしまったせいで、結構色んな所に飛んでしまってますね。
そういえば結局、あーんってできませんでした。
莉乃さんが悪いわけじゃないですけど、やっぱり残念です。
真也くんと二人きりって機会はあまりないですし、やってあげたかったのに。
………やっぱり、私は真也くんが気になってますね。
真也くんってクールで人を寄せ付けない雰囲気だけど、いつも周りを気に掛けていて、誰よりも優しい。
女の私よりも美人でモデルみたいだし、勉強も学年トップで、あの龍矢くんを倒しちゃうくらい強いらしいですし。
…本当に、気にしすぎですね私は。
一番にはもうならないって決めたはずなのに。
あんな思いを二度としたくないから、当たり障りなくしようって思ってたのに、ふとした隙に考えてしまう。
今日だって、服を選ぶのに随分かかってしまいました。
普段はそんなことないのに、どれを着たら可愛いって言ってくれるかな、なんて考えたりして。
そもそも宿題だって自分でやらなきゃいけないのに、こうやって真也くんに会う理由にしてる。
「はぁ、私ってズルいですね。」
自分の気持ちに嘘をついて、でもこうして会いに来てる。
想いは少しずつ強くなってるのに、どこかで諦めてしまってる。
きっと一番にはなれない、私じゃお友達で終わってしまう。
それが正しいのに、誰も傷つかなくて済むのに。
期待してしまう、もし願いが届くならどれだけ幸せなのかなって。
何か寂しくて灰色に感じる景色が、前みたいに色づいて見えるかも知れない。
布団を擦る手を見る。
この指先を優しく包む手を想像して、胸がドクンと跳ねた。
ドキドキと胸が苦しくて、顔が熱くなってくる。
認めなくちゃダメ、自分の気持ちを。
でも口にしちゃダメ、何があっても。
私は当たり障りなく、ただの友達で終わらなくちゃ。
辛くても、それが正しいはずだから。
「御奈坂、大丈夫か~?」
「は、はいっ!?」
突然響いた声に驚く。
振り返ると、風呂場の入り口から莉乃さんが覗き込んでいた。
私は手を止めて、莉乃さんに微笑み返す。
「どうかしましたか?」
「いや、真也が寝てしまったし何か手伝おうかと思ってな。」
「大丈夫ですよ、これを洗ったらもう何もできませんから。」
「確かにな、真也を起こしたくないし。」
「さっき騒いでしまいましたから、きちんと休ませないと。」
そういえばお粥は食べてくれたでしょうか、今度はちゃんと温かい物を食べてほしいです。
莉乃さんの影響で和食が多いみたいですし、私はたまの洋食担当になれたらいいですね。
パスタとか嫌いだったりするのかな、ピラフとかスープも色々作ってあげたいなぁ。
とりあえず、早速今夜にでも。
洗い終わった布団をベランダに干してから、真也くんの汗を起こさないように拭く。
少し顔色は悪いけど、やっぱり綺麗な肌ですね。
寝てると美人のお姉さんって感じだし、髪の毛だって染めてるのに凄くサラサラしてる。
睫毛も長くて、眉毛も筆でさっと引いたみたい。
何か、負けてしまいそうですね。
もっと色々頑張らないと、隣に並ぶのも躊躇われます。
一通り拭き終わって、濡れたタオルを額に乗せる。
乗せるとき前髪を退かしたら、隠れていた部分が顕になった。
そういえば、どうしてこんなに前髪を伸ばしているんでしょう。
髪型と言ってしまえばそれまでですけど、お手入れとか大変ですよね。
何故だかとても気になって、私は後ろで眺めていた莉乃さんに訊いてみた。
「あの、莉乃さん。」
「ん?どうかしたか?」
「真也くんって、どうしてこの髪型と色なんでしょうか。銀色って男の子でも珍しい色ですよね?」
「あぁ、そのことか。」
莉乃さんが苦笑して、小さく微笑む。
「真耶がな、好きだったんだよ。髪型も色も真也なら似合うって言ってな。実際やってみたら似合ってて、それをそのまま続けてるんだ。」
「真耶さんが………真也くんは、お姉さんと仲良しだったんですね。」
「あぁ、中学でも有名だったよ。学校一の美人姉弟だって、誰もが認めていた。二人とも人気があってな、まぁ真也は嫌がっていたが。」
それは想像に難しくない。
真也くんと莉乃さんだって十分過ぎるほど美人なのに、加えて真也くんそっくりの真耶さんまでいたら有名にもなる。
きっと告白とかも良くされていたんだろうし、誰かと付き合ったこともあるのかも。
…ちょっと、それは寂しいですけど。
「真耶さんって、どんな人だったんですか?」
「真耶は元気なやつだよ、かなり天然が入っていて、いつも笑顔だった。人のことをすぐ気に掛けて、いつも誰かと一緒にいるくらい人気だったな。」
莉乃さんはそこで笑いながら私を見て、人差し指を立てた。
「そうだな、御奈坂は真耶に雰囲気や仕草が似ている。顔こそ違うが、人のために一生懸命なところとかな。」
「私が、真耶さんに似てるんですか。」
驚いたと同時に、複雑な気持ちになった。
亡くなった真耶さんと私が似ている。
それはきっと、否応なしに真也くんに真耶さんを思い起こさせるのではないか。
それがいいことなのか悪いことなのか、私には判らない。
それに、大切なお姉さんに似ているから、私は傍にいられるのかな。
だとしたらちょっとだけ、寂しいかも。
だってそれは…。
「御奈坂?」
急に黙ってしまった私を心配するように、莉乃さんが顔を覗き込んでくる。
綺麗な瞳が、凄く優しい。
私が知らない真也くんをずっと見てきたその瞳が、羨ましいと思ってしまう。
真也くんの色んな表情。
笑ったり悲しんだり、きっと莉乃さんにしか見せない表情もあるんでしょうね。
本当に、この気持ちは厄介です。
叶えてはいけない夢を抱くほど、辛いことはないのに。
切り替えないと、いつまでもこれじゃ周りに気づかれてしまいますね。
私は精一杯の笑顔で、莉乃さんに微笑み返す。
「大丈夫ですよ、何でもありませんから。」
「………。」
莉乃さんは私の笑顔を見て暫く無言でいると、真面目な表情で言う。
「御奈坂、何を悩み、何に苦しんでいるのかあたしには判らない。だけどな、それがどんな内容であっても、あたしは相談に乗るぞ?」
「………。」
私はその言葉に、何も返せなかった。
見抜かれてる、私の笑顔の向こう側を。
この笑顔が偽物だって、莉乃さんは解ってるんだ。
はぁ、かないませんね莉乃さんには。
頭がいいだけじゃない、ちゃんと人の機微にも気がつく。
本当に、どこまで素敵な人なんですか?
莉乃さんがいれば、真也くんの隣には誰も必要ない。
隣にいることも、私には叶わないんでしょうか。
「…莉乃さんにはきっと、私の気持ちは解らないと思います。」
つい口をついた言葉に、私自身がはっとする。
莉乃さんはそんな私を見て、申し訳なさそうな顔をした。
「……そうか。」
小さく呟かれた言葉。
それは心の底から無力な自分を悲しむような、そんな声だ。
違うんですと叫びたくなった、今のは間違いだったと。
でも私の口は動かなくて、表情も固いまま。
最低だ私。
私のことを思ってくれた莉乃さんに、なんて冷たい言葉を告げたんだろう。
腹いせ?
真也くんに一番近い人への、嫉妬からくる嫌味。
そんなことを、していいはずがない。
私が真耶さんに似ているなんて、そんなの嘘です。
だって真也くんが大切に思っていた人が、こんな最低なはずがないから。
私は無言で鞄を掴むと、早足で玄関に向かう。
ごめんなさい莉乃さん。
泣きそうになりながら、逃げるようにその場を後にする。
莉乃さんは最後まで、黙って私を見送っていた。
Hiyuka Side End
Rino Side
あたしは去っていく御奈坂を見送って、暫く動けずにいた。
何を間違えたんだろうな、あたしは。
理由は解らないが、御奈坂を傷つけてしまったのは確かだ。
御奈坂が心から笑っていないことは、薄々気づいていた。
だけどそれは、触れてはいけないことだったんだろうな。
少なくとも、あたしはその資格を持っていなかった。
仲良くできていた、だから勘違いしたんだ。
あたしはまだ、御奈坂の心に触れていい立場じゃなかったのか。
胸が痛くなる。
明らかな拒絶、しかも共に手を取り合った御奈坂から。
あはは、結構効くもんだな。
振り返って、寝ている真也を見る。
ダメだ、すぐに真也に縋っちゃ。
真也は弱ってるんだ、あたしが頼られる側なんだから。
そう思っているのに、身体は吸い寄せられるように真也へと近づいていく。
ソファーで浅く寝息を立てる真也の傍に座る。
そこで手を伸ばそうとして、慌てて引っ込めた。
「最低だなあたしは。」
真也に慰めてもらいたいだなんて、そんなことしていいはずがない。
慰めてもらいたいのは、御奈坂の方なのに。
御奈坂を追いかけて謝らないといけないのに、自分の痛みを先に和らげようなんて。
薄ら涙が滲んでくる。
弱音が口から零れそうになる。
気づいたら、真也の手を握ってしまっていた。
いつもより少しだけ熱い手が、あたしの指に絡む。
たったそれだけで、じんわりと胸が安心で満たされた。
それと同時に襲ってくる罪悪感が、あたしの中でぐちゃぐちゃになる。
ダメだった。
溢れだす涙は止められなくて、堪えていた嗚咽が漏れる。
無意識に強く握った手。
真也がゆっくりと目を開けて、頭だけ起こしてあたしを見た。
「どうした莉乃姉?」
「くずっ…真也ぁ…。」
「って、何でいきなり泣いてんだよ!?」
驚いた真也が飛び起きて、あたしの顔を覗き込んでくる。
「何かあったのか莉乃姉?」
「あたし……勘違いして…御奈坂を…。」
「落ち着けよ莉乃姉、ゆっくりでいいから。」
真也の手が、優しく背中を撫でてくれる。
乱れていた心が、落ち着きを取り戻していく。
あたしは深呼吸して、真也の手を自分の胸に寄せる。
いつもなら嫌がって手を引くのに、今は何も言わずに力を抜いていてくれた。
真也の温もりを、心臓に一番近い位置で感じる。
安心して、あったかくて、あたしは真也の顔を見上げた。
真面目な表情であたしを心配する真也が、背中を撫でながら問い掛けてくる。
「落ち着いたか?」
「うん、ありがとう真也。」
「話せそうか?」
「あぁ、大丈夫。」
あたしはゆっくりと、さっきあったことを話していく。
御奈坂の笑顔のこと、その相談に乗ろうとしたこと。
そして、御奈坂を知らず傷つけ、拒絶されてしまったことを。
静かにあたしの言葉を聞いていた真也は、話し終えると小さく頷いた。
「そうか…。」
「あんな御奈坂を初めて見たんだ。でもそれだけ、あたしが御奈坂のことを知らなかったってことなんだな。」
「仕方ないさ。俺たちはまだ知り合って間もない、これから少しずつ知り合っていけばいい。」
「…うん。」
「莉乃姉は莉乃姉なりに、御奈坂を知ろうとした。それは間違ってないから、そんなに落ち込むな?」
「…あぁ、ありがとう真也。」
真也は微笑んで、優しく頭を撫でてくれる。
その感触が心地よくて、あたしは暫く撫でられていた。
「よし、んじゃ行ってくるか。」
そう言って真也は立ち上がると、タンスに近づいていく。
「莉乃姉、着替えるからこっち向くなよ?」
「え、ダメなのか?」
「いくら莉乃姉相手でもな、あまり見られたくはねぇよ。」
「そうか、残念だ。」
背中越しに聞こえる衣擦れの音。
風邪を引いていて辛いはずの真也が、それでも外に出ようとする理由。
「……御奈坂を追うのか?」
「あぁ。行き先に心当たりはあるか?」
「いや、わからない。」
「ん、ならちょっと探してみるか。」
「真也…。」
「どうした莉乃姉?」
「……ごめん、ありがとう。」
「いや、いいよ。」
落ち着いた声が、あたしの心に響いていく。
今、はっきりと解る。
あたしは真也が好きで、だけど今までお姉さんとして、真也の世話をしたいと思ってきた。
でも違ったんだな。
気に掛けてくれていたのは、真也の方だ。
いつもさりげなく、でも一番効果的な方法を探して、あたしを助けてくれてた。
今だって、動けないあたしの代わりに、御奈坂を探しに行こうとしてる。
きっと、それは正解なんだ。
あたしが行っても、恐らく話はできないだろう。
また避けられて、それでお終いだ。
でも真也なら、多分大丈夫。
あたしたちの中心にいる真也なら、御奈坂も心を開く。
だってきっと、御奈坂もあたしも、真也に抱く想いは同じだろうから。
衣擦れが終わる。
背中を向けたままのあたしに、真也は言った。
「じゃあ、行ってくる。」
「うん、御奈坂を頼むよ。」
「あぁ。莉乃姉は少しだけ、ここで待っててくれな。」
「うん、ありがとう。」
足音が遠ざかって、真也が外へと出ていった。
一人になり、蝉の鳴き声が窓から響いてくる。
待とう。
無責任に任せてしまったけど、今のあたしには待つ以外にできることがない。
ふと窓の外を見ると、ちょうど夏音が帰ってきたところだった。
青い瞳があたしを向き、すぐにぴょんと膝の上に乗る。
小さな温もりが、そのまま気持ちよさそうに目を閉じた。
あたしはその背中を撫でながら、小さく呟く。
「お前のご主人様はな、とっても素敵なんだぞ。優しくて格好よくて、あたしの大切な人なんだ。」
あたしの声に顔を向けた夏音の顎を下から撫でると、優しく抱き上げた。
胸に収まった夏音をソファーに乗せると、薄暗い部屋を見渡す。
「ただ待っていても仕方ないからな、せっかくだし綺麗にするか!」
不安を振り払うように声を出して、あたしは唐突な大掃除を開始するのだった。
Rino Side End
夏の熱い陽射しが、体調不良の身体に容赦なく照りつけてくる。
体温は依然高いままで、嫌な汗は止まらない。
クソッ、頼むからもってくれよ俺。
まだ倒れるには早いんだ、だからもう少し頑張ってくれ。
額から流れてくる汗を無視して、周りに視線を動かしながら走り続ける。
きっと家には帰ってないな。
だとすれば何処だろうと、ぼやけた頭で必死に思考する。
チッ、あいつが行きそうな所なんて知らねぇぞ。
もしかして道場か?
確か前に道場通ってるって言ってたっけな、場所を聞いとくんだった。
道場の名前すらわからないんじゃ探しようがないし、とりあえず除外しよう。
もしそこだったら完全にアウトだが、そうでないことを祈るしかねぇ。
記憶から呼び起こせるのは、緋結華と行ったことのある場所だけ。
でも緋結華と一緒に行ったとこなんて……そうか。
一ヶ所だけ思い浮かんだとある喫茶店。
胡散臭いマスターと、頭のおかしな従業員が働くカフェ、フラトレス。
できれば行きたくない店だが、あそこなら見つからないまでもヒントくらいはあるかもしれない。
直感を頼りに方向を変える。
少し距離はあるが、走れない距離じゃない。
覚えてる限り最短の道を選びながら、速度を落とさずに走り続けた。
時間制限があるわけでもないのに、何故か身体は勝手に全力を出している。
放っておいたら、何かが絶望的に変わってしまうきがして、無我夢中で足を動かした。
並木町を抜けて、木野塚町に入る。
目指す商店街の入り口が見えた辺りで、足からいきなり力が抜けた。
足がもつれて、往来の真ん中で派手に転ぶ。
「いってぇな。」
どこか擦り剥けたのか、身体の節々にヒリヒリとした痛みが走る。
周りの人たちが、何事かと視線を向けてきた。
ったく、動きやがれ。
力を振り絞って立ち上がり、商店街に入っていく。
道行く人たちが、息も絶え絶えに走る俺を見てくる。
漸く見覚えのある看板が見えた頃には、体調不良もピークに達していた。
ヤバいな、無茶しすぎたか。
でも、或いはここに緋結華がいる。
倒れそうになりながら、木製のアンティークな扉を押す。
渇いたベルの音が響いて、それに気づいた男がカウンター越しに笑いかける。
「いらっしゃいませ……ほぅ、珍しいお客様だな。」
「ハァ…ハァ……緋結華は、いるか?」
「緋結華?いや、今日は来ていないが。」
チッ、ここじゃなかったか。
疑問を浮かべるマスターに若干苛立ちながら、俺は踵を返す。
「待て桐生真也、そんな身体で何処へ行く。緋結華がどうかしたのか?」
「うるせぇな、あんたには関係ねぇよ。邪魔したな。」
そう言って扉を開けようと手を伸ばしたのに、何故か届かない。
クソッ、限界か?
前のめりに倒れそうになったところで、マスターに支えられた。
ったく、いつの間にカウンターから出てきやがったんだ。
カウンター席に座らされた俺の前に、水の入ったグラスが置かれる。
「飲め、その身体で動き回るには、今日は少々厳しいぞ。」
「うるせぇな、急いでんだよ。」
「何があったのかは知らないが、緋結華の行動範囲はそれほど広くない。少し休んでから探しても時間はかからないさ。」
「チッ。」
確かに一旦休まないと動けそうにない。
俺は出されたグラスを勢いよく掴むと、一息に飲み干した。
冷たい水が、火照った身体に染み渡る。
俺は続けて渡されたおしぼりで汗を拭いながら、マスターに訊く。
「なぁ、緋結華は普段何処に行く?」
「休みには小峰のジジイの所でハルバートでも振るってるんじゃないかな。」
「ハルバート?」
「すまない気にするな、今は恐らく道場にはいないな。それより、簡単で構わないから事情を話してくれ。そうでないと予想が立てられない。」
「あぁ。」
俺は莉乃姉と緋結華の間に起こった出来事を、かいつまんで説明した。
マスターは黙って聞いていたが、やがてなるほどと一言口にすると、上着のボタンを外す。
「すまないがここからは口調を変えさせてもらう、いい加減丁寧な話し方も疲れるんでな。」
「はっ、初めから望んでねぇよ。」
「ふん、そうだろうな。さて桐生真也。俺は緋結華の居場所に心当たりがあるが、聞きたいか?」
不敵に笑うマスターが、煙草に火を点けながら訊いてくる。
「お断わりだな。あんたからの施しは、この水だけで十分だ。」
「あぁ、ならこれは俺の独り言だ、お前に聞く義理はないな。」
そう言ってマスターは煙草を深く吸い込み、紫煙を吐き出す。
クソッ、回りくどいオッサンだな。
「物語の中心にいるのは桐生真也。そして緋結華が向かうのは、彼と親しくなるきっかけとなった場所だ。そして一人で考え事をするに適した所……連れていってやるよ桐生真也、お前はその場所に覚えがあるだろう?」
「チッ、いつか返すぞ。」
「なに、必要ないな。俺は緋結華のために、アンチダイエットミルクティーの出前をするだけだ。」
「何だそのアンチなんたらってのは。」
「ははは、作るから少しだけ休んでろ。味は緋結華と話しながらでも確かめるんだな。」
マスターは笑いながらカウンターに入ると、手際よく紅茶を淹れ始めた。
ったく、とんだお人好しだなこの人も。
突然やってきた生意気なガキに怒りもせず、手助けまでしてくれるとは。
俺もたまには、ちゃんと珈琲でも飲みに来てみるか。
暫く待っていると、大きめの魔法瓶にミルクティーを入れたマスターが、それを紙袋に入れて渡してきた。
「中に紙コップも入ってる、二人で飲め。さて…それじゃ行くか、配達にな。配達先は何処だ?」
「並木高校の……屋上。」
「見つけたな、なら行くぞ。」
二人で初めて昼飯を食べた場所。
落ち着いて話をしたのも、あいつが俺を気に掛けて絡みだしたのも、あの場所からだ。
あそこなら考え事をするのにちょうど良い、何しろ俺も使ってたんだから。
マスターはジャケットを脱いでハンガーに掛けると、奥の方へ手招きした。
「表からじゃ目立つからな、裏から出るぞ。」
「あ、あぁ。」
目立つって何だと思いながら、慌ててマスターについていく。
厨房に入ると、見覚えのある二人の従業員が談笑していた。
マスターは舌打ちしてから、躊躇いなく二人を蹴り飛ばす。
話の途中で吹き飛んだ二人は、すぐさま起き上がると叫ぶ。
「いきなりなにすんのさ兄さん!」
「そうだ!暇だから喋ってたくらいで蹴ることないだろ!」
「黙れ馬鹿共。俺は少し出てくる、きちんと店番しとけ。」
『なら蹴る前にそう言って!』
「ウゼェな、次は気をつけてやっから早くキヨシは表出やがれ。」
言うだけ言ってつかつかと奥へ歩いていくマスターについていく。
裏口の扉を開けると、マスターが振り返る。
「おい桐生真也。」
「何だよ?」
「今から起こることは全て夢だ、何もかも忘れてしまえ。」
「は?どういう意味だ?」
「現実にありえないことが起ころうとも、お前は自分の目的だけを見て動け。」
「あ、あぁ。」
何を言ってるのか解らないが、とにかく今は頼るしかない。
マスターは仕方なさそうに頷くと、いきなり俺を肩に担いだ。
「ちょ、何すんだよ!」
「黙ってねぇと舌噛むぞ。んじゃ、行くぜ?」
それは確かに夢だと思った。
きっと限界を超えて茹った頭が見せる幻想、それくらい受け入れがたい状況。
俺は飛んでいた。
正しくは、マスターが俺を抱えたまま、現実離れした高さまで跳躍したのだ。
急激に彼方へと遠ざかる景色に、俺は一瞬何もかもを忘れた。
マスターは家々やビルの屋根を伝って、信じられない速度で移動していく。
過ぎ去る景色を眺めながら、俺はマスターに叫ぶ。
「おい!あんたいったい何者だ!」
「ん?そうだな……愚かにも人を越えてしまった化け物かな。」
「クソッ、マジで夢でも見てるらしいな俺は。」
「そう思う方が自然だな、世界観からして違うのだから。まぁ時間軸は同じなんだが、気にしないのが懸命だろう。さ、そろそろ着いたぞ。」
急激に落下して、小さな衝撃と共にマスターは歩道に着地した。
未だ夢の中にいるような気分の中で、俺はマスターから下ろされる。
幸いにも周囲に人はおらず、特に騒ぎにもなってないようだ。
アドレナリンのお陰で、限界だった身体も比較的満足に動く。
俺は視線を学校に向けた。
部活をしている奴らでもいるのか、微かに人の声も聞こえてくる。
ここに、いるだろうか。
もし違っていれば、体力的にも次はない。
緋結華がウチを飛び出してからそれなりに時間も立ってるし、急がないとな。
きっと、一人で凹んでる。
俺は振り返ってマスターに向くと、深く頭を下げた。
「助かったよマスター、ありがとう。」
「慣れないことをするな、それより急げよ。礼なんて、元気な緋結華と一緒に珈琲飲みに来れば十分だ。またあの賑やかなメンバーでも連れて遊びに来い。」
「あぁ、そうさせてもらう。」
俺はそう言って笑うと、校舎に向けて走りだす。
「桐生真也。」
呼び止められて、俺は足を止めた。
「何だよ?」
「最初に紅茶を渡してしまえ、少しは話しやすくなるはずだ。」
「なるほど、わかったよ。」
俺は別れの手を挙げて屋上を目指す。
その背中を見送るマスターは、煙草に火を点けて笑う。
「まったく、楽しそうな青春送ってやがるなあいつは。」
ふと見上げた校舎の屋上。
マスターはそこに感じる気配に小さく微笑むと、一瞬でその場からいなくなっていた。
いつもは大したことない階段が、今は妙に長く感じる。
手摺りを掴みながら、なるだけ早く上へと登っていく。
呼吸は荒く、身体は動くが重い。
だが立ち止まるわけにはいかないな。
緋結華に何を言うのかなんて考えてないけど、とにかく会って話をしよう。
莉乃姉は緋結華を傷つけようとしたんじゃないって、ちゃんと伝えないと。
漸く最上階を越えて、屋上への階段にさしかかる。
気合いを入れて一息に登ると、重い鉄の扉を開けた。
夏の暑い風が頬を撫でる。
頭上を越えた太陽は、沈み始めながらもその勢いは衰えない。
俺はすぐに目的の人物を発見した。
焼けたコンクリートから立ち上る陽炎の向こう。
フェンス近くに設置されたベンチで、緋結華は校庭を見下ろしていた。
ウェーブのかかった栗色の髪が、風に揺れている。
俺は何も言わずに緋結華に近づくと、その背中に声をかけた。
「こんな所にいたら、日射病で倒れちまうぞ?」
びくっと肩を震わせた緋結華が、恐る恐る振り返る。
そして俺の姿を認めると、慌てて立ち上がって近づいてきた。
「真也くん!?どうしてここにいるんですか!?」
「お前を探しに来たんだよ。」
「あ………で、でも真也くん風邪を引いてるのに!」
「風邪っぴきの俺よりも、緋結華の方が弱ってそうだからな。」
俺がそう言って笑いかけると、緋結華の瞳に涙が浮かぶ。
もたれかかるように俺に抱きつくと、小さく嗚咽を漏らす。
俺は背中に手を回して、その背をさする。
緋結華の手が、俺のシャツを強く握った。
「うぁぁ…くずっ……。」
「悪いな、探すのに少してこずったんだ。」
「私に……ぐすっ…私なんかに………優しく、しないで。」
「どうしてだ?」
「私みたいに…嫌な人間に………そんな…資格ないんです。」
「緋結華は嫌な人間なんかじゃねぇよ。」
「え…?」
「嫌な奴なら、俺はここに来ない。緋結華があんな台詞を言ったのにはちゃんと理由があるって思ったから、ただ冷たく言う奴じゃないって知ってるから来たんだ。」
「……真也くん。」
「ん?」
「ちょっとだけ……こうしててもいいですか?」
「まぁ、緋結華さえ良ければな。」
「はい……ありがとう。」
俺の背中に回った腕が、強く抱き締めてくる。
そのまま緋結華は泣いていた。
俺はただ慰めるように頭を撫でながら、この涙が悲しみではなく、安心から流す涙であってほしいと願う。
真夏の蝉たちは、雰囲気を読んだように、遠くにて鳴いていた。
Hiyuka Side
私は幸せだと思う。
あれだけのことを言ってしまって、もう皆と一緒にはいられないかもしれないって、一人屋上で覚悟していたはずなのに。
彼は来てくれた。
初めてお弁当を一緒に食べて、笑いながらお喋りして、真也くんを怒らせてしまった場所に。
風邪を引いてるのに、身体は辛いはずなのに、この暑い中を来てくれた。
それが嬉しくて、幸せすぎて、私は真也くんの胸の中で泣く。
想いはどんどん強くなって、今はもう我慢が効かなくなっている。
どうしてこんなにも、真也くんは優しいの?
心の何処かで願っていた思いを、真也くんはそっと叶えてくれる。
でも、今はその優しさが辛くて、私は涙を流す。
自分のトラウマから逃げようとする心と、真也くんを求めようとする心が、私の中でせめぎ合っている。
辛いけど嬉しい。
強く感じる温もりで乗り越えようとするみたいに、私は真也くんを抱き締める。
背中に回った腕と、撫でてくれる手。
夢にまで見た感覚に、私は身体を委ねていた。
「落ち着いたか?」
心配してくれる声が、頭の上から降ってくる。
私は今更恥ずかしくなりながら、ゆっくりと顔を上げた。
綺麗な顔が優しく微笑んでいて、胸がドキッと跳ねる。
うぅ、恥ずかしい。
迷惑かけて散々泣いて、抱き締められながら心配されてる。
冷静になってくると、自分が何をしてしまったのか、漸く実感した。
震えそうになる唇で、どうにか言葉を紡ぎだす。
「ひゃい、大丈夫です!」
「そうか、なら良かった。」
安心したように笑う真也くん。
でも次の瞬間、ぐらりと私に体重を預けてきた。
慌ててしっかりと支える。
荒い呼吸をしながら、真也くんは苦笑した。
「悪いな緋結華、安心したら力が抜けちまった。」
「だ、大丈夫ですか!?」
「あぁ、少しだけ休めば大丈夫だ。とりあえず移動しないか?ここは暑くてな。」
「はいっ!私に掴まってください!」
真也くんの体重を支えながら、ゆっくりと出口に歩いていく。
こんな身体で、本当は寝てなくちゃダメなのに…。
保健室は開いてるかな、あそこならベッドも薬もあるはず。
せめて少しでも休める場所で看病しないと。
鉄の扉を開けて校舎内に入ると、真也くんが壁に倒れこむ。
「真也くん!?」
「大丈夫だ、軽い目眩がするだけだよ。とりあえずここでいいや、外よりは涼しいし。」
「でも、保健室ならベッドもありますよ?」
「休日とはいえ部活をしてただろ?なら保健室に来ることもあるかもしれない。話をするなら、誰も来ないここでいい。緋結華には悪いが、ここで構わないか?」
「あ、はい。」
真也くんは頷くと、そのまま壁を背にして座り込む。
私はどうしたらいいか判らなくて、真也くんの隣に座った。
冷たいリノリウムの感触に少しだけ心地よさを感じながら、私は隣の真也くんを見る。
明らかに顔色か悪い。
額には脂汗が浮かび、呼吸は苦しそうだ。
健康な人でも茹ってしまいそうなこの真夏の暑さの中を、彼は私を探して動き回っていたんだ。
平気なはずがない、こんなところで座っていていい状態じゃない。
でも、真也くんがそうしてくれた理由が、胸が苦しくなるくらい解る。
ただ心配してくれた。
きっと莉乃さんから話を聞いて、すぐに出てきてくれたんだ。
また泣いてしまいそうになる。
そして思う。
こんなに素敵な人の心を独り占めしたいだなんて、どんなに強欲な願いなんだろうって。
特別な人として隣に並びたいだなんて、叶わない夢を抱いたんだろう。
それでも私は、諦める勇気が出ないんだ。
かつて諦めた夢よりも、傷になってしまった過去よりも、それはダメだと訴えてくる胸の痛みさえも。
全部を無視して、いつかを願う。
でも、まずはやらなくちゃいけないことがある。
私はまだ、スタートラインにも立っていない。
見た目だけ傍にあっても、心は未だ遠いまま。
今まで訊けなかったこと、今まで言えなかったこと。
全部を話そう。
私を、真也くんに知ってもらうために。
「真也くん。」
「どうした?」
「少しだけ、昔話に付き合ってもらえますか?」
「……あぁ、俺なんかで良ければ。」
「あはは、真也くんじゃないと話せません。私の、つまらない失敗談ですから。」
そう、あれはまだ私がたくさん間違えたんだ。
それを未だに引きずっていて、今回みたいなことが起こる。
なら終わらせよう、もうあの頃の私じゃないんだから。
小さく深呼吸する。
心臓が早鐘を打ち、薄ら気持ち悪くなってきた。
話す前からこれじゃ、先が思いやられますね。
意を決して、私は口を開いた。
「私は小さな頃、虐められていました。原因は私の勘違いと、幼い自信からくる強がり。結果として私は夢を諦めて、自分に一つのルールを課すことになったんです。」
「…そうか。」
真也くんは静かに頷いた。
先を促すことも、質問を返すこともしない。
私の懺悔をただ聞いてくれる、教会の神父さまのように。
私は少しだけ安心して、続きを話す。
「私は幼い頃からフィギュアスケートをやっていて、大会などではいつも優勝をしていました。たくさんの表彰状とトロフィーを貰って、周りの大人からは天才が現れただなんて言われていました。私はそれで、調子に乗ってしまったんです。」
思い出される、間違いだらけの日々。
それは今から七年ほど前の話。
私がまだ、小学生の時の物語。
7 years ago
「緋結華ちゃん凄いねー!また優勝したんでしょ?」
「まあね~、だって私は天才って言われてるんだもん。」
「凄いなあ~、年上だって緋結華ちゃんには敵わないなんて。」
「あはは、次の大会までまた忙しいなー。」
あの頃の私は大人たちの言葉に気を良くして、周りに偉そうな態度を取っていました。
持て囃されて調子に乗って、お母さんたちには注意されていたのに、他には何もできないのにリーダー気取りで。
いつも何人か引きつれて、お姫様みたいな気分でした。
「何だよ御奈坂のやつ、偉そうにしやがって。」
「この前だって命令してきやがってよ、ムカつくぜ。」
「なぁ、あいつの持ち物に悪戯してやろうぜ?」
「いいなそれ、スケートの靴とか隠しちゃうか!」
「ねぇ、わたしたちもその話混ぜてよ。」
「お、女子も乗ってきたな。」
「あいつ調子に乗りすぎ、ムカつく。」
「皆でやっちまおうぜ。」
私は何も知らないままで、暫くの時が過ぎました。
そして大会の直前、彼らに呼び出されたんです。
会場の裏で、皆に取り囲まれました。
それでも最初は、応援に来てくれた人たちなんだって、信じて疑わなかったんです。
でも突然胸ぐらを掴まれて、冷たい言葉を浴びせられました。
「お前ウザいんだよ、いっつも命令しやがって。」
「一番になったからって威張らないでよ!偉そうに!」
「可愛こぶって、何様のつもりだよ!」
「負けちまえよ、お前なんか。」
「誰もお前なんか好きじゃないんだよ!死ね!」
何も言い返せませんでした。
私は初めて、自分がしてきたことが酷いことだって思い知らされたんです。
ただ持て囃されて調子に乗った、嫌われ者なんだって。
愕然として、身体は震えていました。
当然出場した試合でもまともに滑れなくて、酷い演技でした。
しかも彼らは、私のスケートブーツに悪戯してたんです。
滑っている最中、ブレードが取れてしまいました。
結果は惨敗、誰もが落胆していました。
周りの大人からも誉められなくなり、学校でも一人になりました。
それから何度かリンクで滑ろうとしても、氷の上に立つことすらできません。
そうして私は、二度とリンクに立つことはなくなりました。
………。
……。
…。
「学校でも一人で過ごして、卒業と同時に、私はこの街に引っ越してきました。」
「そうだったのか。」
「はい。それ以来、私は一番になることを嫌いました。物事にもなるだけ当たり障りなく、いつも笑顔を浮かべて誤魔化す、そんな生活が始まったんです。」
蝉の声が遠い。
トラウマを掘り返したからか、気持ちは重く沈んでいる。
でも言えた、やっと誰かに話せた。
少しだけ軽くなった気がする。
静かな時が流れて、私は真也くんの言葉を待った。
過去から逃げ出した私に、真也くんはどんな言葉をかけるだろうか。
震える手を自分で握る。
そんな私の手を、真也くんが握ってくれた。
「一人で、よく頑張ったな。」
「……はい。」
「話してくれてありがとう、辛い思いをさせてごめんな。」
「…いいえ。」
じわりと涙が浮かぶ。
認めてくれて、慰めてくれて、ずっとほしかった言葉をもらえた。
優しく握られた手が、どうしようもなく愛おしい。
抑えられなくなって、私は真也くんの胸に飛び込んだ。
涙が止まらなくて、でも震えはいつの間にか止まっていた。
嬉しくて、もう歯止めが利かない。
強く真也くんに抱きつくと、そっと背中に手が触れた。
「俺は緋結華の友達だ。緋結華がどんな過去を持っていようと、俺は離れたりしないさ。だから今は、好きなだけ泣いていい。」
「はい……ぐず………ありがとう真也くん。」
嬉しくて幸せで、私は泣き続ける。
辛かった過去を、涙で洗い流すように。
落ち着きを取り戻した緋結華と共に、夏の夕方を歩いていく。
暑さは少しだけ落ち着いて、吹き抜けていく風が心地いい。
緋結華が泣いている間に休んだお陰か、重かった身体も幾分かマシになっていた。
それにしてもそろそろ限界か。
身体は今朝よりも熱っぽく、血液が水銀になってしまったかのように重い。
自然ゆったりとした歩調で歩く間、俺は緋結華と手を繋いだままだった。
離すタイミングを逃したってのもあるし、緋結華がやんわり力を込めたままだからってのもある。
少しだけそれが恥ずかしくて、さっきから会話はない。
無言で歩き続ける俺たちは、見慣れた通学路を眺めている。
いつの間にか蝉の声はひぐらしに変わっていて、哀愁漂うその声が少し鬱陶しかった。
そんな静寂を破るように、緋結華が話し掛けてくる。
「あの…真也くん。」
「どうした緋結華?」
「今日は色々ごめんなさい。」
「いや、構わねぇよ。その甲斐あって、漸くお前との距離が近づいた気がするからな。」
今までの緋結華が偽りだと言うのなら、俺は今日、緋結華に出会ったんだ。
俺を見上げている緋結華に顔を向けると、笑いながら言う。
「初めまして御奈坂緋結華、良かったら俺と友達になってくれるか?」
「あ……はいっ、喜んで!」
満面の笑顔で頷く緋結華に、俺も笑う。
たったそれだけで、俺たちの足取りは軽くなった。
二人で踏み出す一歩は小さくても、やっと始められたんだ。
「実はな、俺も初めてなんだ。」
「え、何がですか?」
「友達になってくれなんて、ちゃんと言葉にしたこと。」
「じゃあ……えへへ、真也くんの初めて、貰っちゃいました。」
ニコニコと笑う緋結華は、嬉しそうに俺を見てくる。
「う、そんな嬉しそうにされても困る。」
「だって、嬉しいんです!私だけってことは、一番ってことですよね?」
「ん、まぁ一人しかいないなら一番だけど。」
「変わることができた私が最初に取った一番が真也くんのことなんて、嬉しくないはずがないです!だって莉乃さんにも言ってないですよね?」
「まぁ、莉乃姉はいつの間にかって感じだったから、言葉にはしてないな。」
「うふふ~、私も頑張るぞー!」
「おい、お前まで莉乃姉みたいになってるぞ?」
はしゃぐ緋結華に苦笑する。
ま、たまにはこんな緋結華でも悪くないか。
漸く辿り着いた家の玄関を開けると、奥から莉乃姉が走ってきた。
「真也!」
「おぉ、ただいま。」
「心配したぞ!身体は大丈夫か?」
「正直かなりキツいわ、ちょっと肩貸してくれ。」
「あぁ、しっかり掴まれ。」
倒れこむように莉乃姉に体重を預ける。
触れた俺の体温に、莉乃姉が驚いた。
「な、凄い熱だぞ!?」
「まぁ、流石に風邪引いたまま真夏の外を動き回ればなぁ。」
「布団は乾いてるから、早くベッドに。」
本格的に重い身体を引きずって、そのままベッドに倒れこむ。
夏の陽射しで干された布団は、驚くほどふかふかで気持ち良かった。
そのまま意識が落ちそうになりながら、俺はタオルを濡らしに行った莉乃姉に声をかける。
「莉乃姉、俺はいいから緋結華を頼む。」
「え…そうだ緋結華!緋結華はどうなった!?」
「大丈夫、外で待ってる。なんか莉乃姉に酷いこと言ったから入りづらいって。だから莉乃姉が入れてやってくれ。」
「わかった………ありがとな真也。」
俺の額にタオルを乗せると、すぐに玄関へ走っていく。
やっと、一休みできるか。
今日はホント、疲れた。
沈んでいく意識を止められない。
朝から大変だったけど、結果としては良かったのかな。
ぼやけていく視界。
最後に見えたのは、泣いている緋結華を宥める莉乃姉の姿だった。
次に目が醒めたのは、十分に陽が落ちた頃だった。
鼻孔をくすぐる美味そうな匂いに、俺の腹が空腹を訴える。
でもそれは嗅ぎ慣れた和食の匂いではなく、バターの匂いだ。
珍しいな、ウチで洋食なんて。
ゆっくりした動作で身体を起こすと、傍で本を読んでいた莉乃姉が顔を上げる。
「お、起きたな真也。身体の具合はどうだ?」
「あぁ、お陰様で少しはマシになったよ。それよりこの匂いは…?」
「うむ、緋結華が張り切っていてな、夕食を作ってくれてるんだ。シチュー以外では久し振りの洋食だぞ。」
確かに、莉乃姉が作るのは栄養価が高くて何日も食えるシチューくらいだ。
だから調味料なんかも、醤油とか塩しか置いてない。
俺は立ち上がると、気になってキッチンを覗いてみる。
そこには見慣れない料理と、それらを手際よく作る緋結華がいた。
俺に視線を向けた緋結華が、すぐに申し訳なさそうな顔をして手を止める。
「あ、真也くん。……あの、大丈夫ですか?」
「あぁ、大丈夫だ。少なくとも空腹で目が醒める程度には回復したらしい。」
そう言うと、緋結華の表情がぱあっと明るくなる。
「良かったです!私のせいで無茶をさせてしまって、だからせめてできることをしようと思って。」
「気にすんな、別に大したことはしてねぇよ。でもせっかくだ、夕食は期待させてもらうぜ?」
「はいっ、任せてください!」
元気良く頷く緋結華。
良かった、もう大丈夫そうだな。
笑顔だって、さっぱりしたものだ。
事の始まりは唐突だったが、それでも悪くない結果に収まった。
誰かと離れたりすんのは、もう味わいたくないからな。
こうやって少しずつ距離を縮めていけばいい。
まだ触れるには遠くても、いつか皆が仲良く、本当に信頼できる時が来るだろうから。
俺がその関係になるために、頑張っていけばいいんだ。
ソファーに座ると、莉乃姉がすかさず隣に跳んできた。
ベタベタと擦り寄ってきながら、莉乃姉は俺の顔を覗き込む。
「よしっ、あたしにキスして早く移せ!」
「キスすんのも移すのも嫌だっつってんだろ、つか二人ともマスクとかしてくれ。」
「この家にマスクの買い置きがあるはずないだろう、あっはっは!」
「う…まぁ俺が買ってないのが悪いんだよな。」
「うん、だから罰としてキスして?」
「ったく、もう移って熱でも出てんじゃないか?」
「莉乃さん、抜け駆けはズルいですよ!」
「抜け駆け?」
「わぁっ、真也くんは気にしないでください!」
ふざけた会話。
でもきっと、こんな会話はこれからも続いていく。
まったく、疲れる。
けどまぁ、楽しくはあるかもな。
賑やかなのは性に合わないと思ってたけど、悪くないのかも。
「どうした真也、何か嬉しそうだな。」
「いや、何でもねぇよ。」
「いいじゃないか、試しにお姉さんに言ってみなさい。」
「うっせぇな、何でもねぇって。」
「はーい、ご飯ができましたー!」
「ほら莉乃姉、できたってよ。」
「むぅ仕方ない、今日は見逃してやろう。よしっ、運ぶの手伝うぞ!」
「あぁ、そうだな。」
守ることができた団欒。
珍しく嬉しいだなんて思いながら、俺は莉乃姉とキッチンへ向かったのだった。
今度は皆が揃って、そう考えながら。
Tea Break
「御奈坂!」
莉乃が扉を開けると、そこには怯えたような表情の緋結華が待っていた。
およそ数時間振りに再会した二人の間に、僅かな沈黙が訪れる。
緋結華はただ、語る言葉が見当たらない。
冷たい言葉を吐き捨てるように言って出てきた。
嫌われたかもしれない。
真也くんは大丈夫だと言っていたが、やはり不安は拭えなかった。
どうしたらいいのか緋結華が迷っていると、柔らかな感触が身体を包んだ。
莉乃が抱き締めてくれたんだと気づくまで、しばしの時間がかかった。
緋結華は驚き、莉乃は静かに囁く。
「おかえり。」
「あ………ただいま、莉乃さん。」
その優しさに、緋結華は涙を流した。
嫌われてなんかいない、そんなことを莉乃は考えなかったのだ。
緋結華は自分の浅はかさに反省し、莉乃は緋結華の無事を喜ぶ。
己の浅慮が招いた僅かな亀裂。
それが修復できたことが、何よりもお互いに嬉しかった。
暫く抱き合ってから、莉乃は緋結華の手を取る。
「さぁ、中に入ろう。」
「はいっ……ありがとう…ございます。」
泣きじゃくる緋結華を連れて、莉乃は玄関を開ける。
部屋に入ると、二人でベッドを見た。
そこにはぐっすりと眠る真也の姿がある。
「真也?」
莉乃が話し掛けても、真也から反応はない。
莉乃は安心したように微笑むと、真也の傍に座ってタオルで汗を拭う。
緋結華はそんな莉乃を見ながら、その隣に腰掛けた。
「真也くんが、話を聞いてくれました。私の、昔の話を。」
「そうか…きっと真也のことだ、黙って聞いてくれただろ?」
「はい、それがとても嬉しかったです。それで、もし良かったら、莉乃さんも聞いてもらえますか?」
「あぁ、聞かせてもらえるか?」
それから緋結華は、真也に話したのと同じように、昔話を始めた。
幼い頃してしまった過ちと、それに伴う虐めの話。
偉そうにしてしまっていたこと、独りになったこと、関係を修復できずに逃げ出したこと。
包み隠さず、ありのままを伝えた。
しかし真也に話したことで、気持ちは落ち着いている。
認められて、どこかで許してもらえたと思えたからだろう。
実際に嫌な思いをしてしまった相手には許してもらえていないけれど、それでも一つの区切りにはなりえた。
緋結華にとってそれは、何よりも大切なことだったのだ。
再び歩きだせたのは、他でもない真也のお陰だと緋結華は語る。
莉乃は静かに聞き終えて、そっと笑った。
「そうか、御奈坂は漸く自分を取り戻せたんだな。」
「はい、真也くんと……莉乃さんのお陰です。」
「真也くんが聞いてくれた、莉乃さんも嫌わないでくれた。どちらが欠けても、私は今、ここにいられませんでした。」
「嫌ったりするもんか、御奈坂は大切な友達だからな。」
満面の笑みで緋結華を見る莉乃。
また滲みだした涙を拭って、緋結華は告げる。
「もう私は、自分の気持ちから逃げません。だから莉乃さん、私は負けません。」
「………真也か。」
「はい、私は真也くんが好きです。もう諦めたり、勝手に譲るだなんて考えません。だから莉乃さん、私はもっと自分を磨きます。」
「ふふ、それは強敵になりそうだな。あたしもうかうかしてられないか。」
「はいっ、油断してたら私が追い抜いちゃいますから。」
初めて互いを意識した瞬間だった。
これまで、何となく想いの向く先は同じだろうと感じてはいても、はっきりと言葉にはしていなかった。
でも今目の前にいるのは、一つしかない空席を奪い合う、椅子取りゲームの挑戦者。
先に座った方の勝ち、選ばれた方が幸せを手にする。
或いはどちらも、選ばれない可能性だってある。
互いに椅子を意識した。
曲は既に流れていて、音が止むタイミングは自分次第。
そのタイミングが当たりなのか外れなのか、それも積み重ね次第。
駆け引きのメロディが、二人の間でリンクする。
「真也はあたしのだ。」
「いいえ、真也くんには私を選んでもらいます。」
二人は静かに互いを見て、そっと笑った。
「でもまずは真也に治ってもらわなきゃな。」
「はいっ、早速夕食の準備をしなくてはいけませんね。」
「なら買い物、一緒に行こうか。」
「はい、行きましょう。」
楽しそうに笑い合う。
きっとどちらかが選ばれることになろうとも、この関係を続けていきたいと願いながら。




