Day.10 すれ違ったり、振り返ったり
その訪問者は容赦がなかった。
まるで自分は早起きして来ているのだからとっとと起きて出てこいと言わんばかりに、こちらの事情なんて構わず玄関のチャイムを連打してくる。
一度しか鳴らないチャイムは来客を告げる音だが、ここまで音が連なっているといっそ騒音だ。
誰が犯人かは判らないが、朝っぱらからなんて質の悪い嫌がらせをしやがる。
俺は海での疲れが微妙に残る身体をベッドから起こすと、最高に機嫌が悪い顔でのろのろと歩きだす。
峰岸辺りだったらとりあえず蹴り飛ばして安眠に戻ろうと誓って、俺は連打を止めさせるために玄関の戸を開けた。
「あら、やっと起きましたか。まったく、出るのが遅すぎますね真也さん。」
いきなり不躾な台詞を吐いてきたのは、浴衣で慎ましく立っているのに偉そうな小さい少女だった。
俺は成程と納得して迷わずに扉を閉め、淀みない動作で鍵とチェーンを掛けようと手を伸ばす。
ピポピポピポピポピンポーン!!
……チッ。
仕方なく、本当に仕方なく扉を開けると、無表情にチャイムを連打する恵恋が、尚も押し続けながら俺を見上げた。
「わたしを閉め出そうとするなんて、貴方は鬼ですか?」
「疲れて寝てる俺を嫌がらせに起こすお前は何なんだよ、あとうるせぇからチャイム押すな。」
「わたしだって海には行きましたから疲れてますよ、それに外は暑いです。でも確かに五月蠅いですね、チャイムは止めてあげましょう。」
偉そうに鼻を鳴らして手を止める恵恋、デコピンくらい食らわせていいだろうか。
ったく、何で朝からこの和服少女は面倒を起こしに来やがったんだよ。
「もう入ってもいいですか?ここは凄く暑いんです。」
「はぁ、もう好きにしろよ。」
色々と諦めて恵恋を中に入れると、恵恋はちょこちょこと部屋に歩いていく。
そして俺のベッドに無言で飛び込むと、そのまま目を閉じた。
「おいコラ恵恋、俺を起こしといてテメェは寝るのかよ。」
「わたしは海の疲れも抜けきらぬまま早くから真也さんを起こしに来たのです、少しくらい休ませるのが筋ではないですか?」
「だったらウチに来ないで自分の部屋で寝やがれ。」
「真也さんの家の方が居心地がいいのです、だから仕方ありません。」
恵恋はそう言うと、それきり背中を向けて黙ってしまった。
はぁ、かったりぃなぁ。
とりあえず、朝飯でも用意するか。
自由奔放プチ姫様を華麗に放置して、俺はキッチンで電気ポットのスイッチを入れる。
これが沸くまでにシャワーでも浴びてこよう、恵恋がいつまであの冗談を続けるか判らねぇしな。
風呂に入ると、早めに起こされたせいで未だ残る眠気を冷たい水で冷まし、時間潰しも兼ねてゆったりとシャワーを浴びた。
真っ盛りの熱帯夜で掻いた汗が流れていって、一時の清涼感が心地よい。
風呂場を出て身嗜みを整えると、そのままキッチンに戻り珈琲を淹れる。
結局紅茶の淹れ方は覚えちゃいないが、まぁ俺は珈琲しか飲まないし関係ないか。
「真也さん、わたしにも紅茶を下さい。」
そう言われて手元から視線を上げると、ベッドに腰掛けた恵恋が何だか半目で俺を睨んでいた。
まったく、人の決定をのっけからひっくり返しやがって。
「起きたのか。悪いが俺は紅茶を淹れられないぞ、やり方なんて知らないからな。」
「真也さんにそこまで本格派を期待してません、ティーバックで構いませんよ。」
やれやれといった風に肩を竦める恵恋。
チッ、何でこいつは朝から偉そうなんだ。
「生憎とティーバックなんて物を置いてない、紅茶の葉はあるけど。」
「何で淹れられない人の家に紅茶の葉だけあるんですか?」
「莉乃姉は淹れられるからな、どっかから持ち込んだんだろう。他にも俺が関与してない内に増えた物が沢山ある。」
俺が珈琲を淹れながら説明すると、小さな溜息がベッドの方から聞こえてきた。
「………貴方は本当に家事ができないんですね。」
「今時そんなにできなくても生活できんだよ、何か文句でもあるのか?」
「そうですね、言いたいことはたくさんありますけど、とりあえず紅茶の淹れ方くらい覚えてもらいましょう。」
仕方ないですねとでも言いたげな雰囲気でキッチンにやってきた恵恋は、色々な棚を次々と開けていく。
黙ってそれを眺めていると、やがて目的の物を見つけたのか、何かを奥から取り出した。
あぁ、莉乃姉がたまに使ってるティーポットか、そんな所に仕舞ってあったとは。
一緒に入っていた紅茶葉も取り出した恵恋は、他人事みたいに珈琲を啜る俺を見上げて言う。
「さぁ、教えてあげますから有り難く傍聴なさい。」
「いや、頼んでもないのに何故ありがたがらなければならない?」
「黙りなさい、少しは小湊さんに頼らない生活を覚えなさい。」
う、即座に言い返せない自分が情けない。
確かに莉乃姉に頼りっぱなしはそろそろマズイよな、まぁ断っても世話を止めるとは考えづらいが。
でもせめて一人でいる時くらいは努力しないと。
「そうだな、恵恋の言う通り家事くらい覚えないとな。」
「そうです、物分かりがいいのは偉いですね。」
「……だけどな恵恋。」
俺は恵恋の肩を掴むと、呆れた顔で言った。
「まず初めに紅茶の淹れ方って、完全に私利私欲だよなぁ?」
「………チガイマスヨ?」
そそそ~って擬音が付きそうな動きで視線を逸らした恵恋。
はぁ、動揺してカタコトになってるぞ。
だが何かに気づいたのか、ちょっと胸を張ってまた見上げてくる。
「紅茶の淹れ方を覚えることで、いつもお世話になっている小湊さんへの恩返しをすることができるでしょう。美味しい紅茶を淹れてあげれば、小湊さんからの好感度アップ間違いなしです!」
「確かに莉乃姉は紅茶派だが、最近は俺に合わせて珈琲も普通に飲むぞ?それに今更好感度も何も……。」
「甘いですね、角砂糖みたいに甘いです。」
何故か人差し指を立てて首を振る恵恋、何で微妙にテンション高いんだろうこいつは。
「珈琲を飲むのだって真也さんに合わせてのこと、本当は紅茶を飲みたいはずです。そして小湊さんがここに来た時に、貴方が紅茶を用意して待っていたら感激で抱きしめてくれますよ。」
「………。」
そう力説されたものの、それが紅茶の有る無しに係わらず日常茶飯事だということはとても口にできない。
でもまぁ俺も紅茶は嫌いではないからな、覚えるのもやぶさかではないか。
「じゃあ頼むわ恵恋。」
「えぇ、任せてください。さぁそうと決まれば早速勉強です、まずはお湯の温度ですが…。」
恵恋のやる気スイッチが入ってしまい、本格的な紅茶の淹れ方教室が始まってしまった。
お湯の温度から始まり、茶葉を蒸らす時間やカップの扱いまで、まったく何処で覚えたのかと感心する細かさだ。
そうして一通りの流れを聞き、実際に俺が淹れた紅茶がテーブルに並んだ頃には、既に随分と時間が経っていた。
俺のベッドに腰掛けてカップを傾ける恵恋が、溜め息交じりに一息つく。
「本当に、真也さんは壊滅的に家事がダメですね。」
「一応人が気にしていることをはっきり言うな。」
『言われても仕方ないくらいの手際の悪さでしたから、小湊さんが世話を焼きたがる理由が解りました。』
「んなこと言われても慣れないことは仕方ないだろうが。」
「わたしもあれを見せられたら世話を焼きたくなります、何だか助けないといけない人みたいです。」
まぁ、何も言い返せない。
何しろ自分でもどうかと思うくらい手際は悪かったからな。
情けない話だ、どれだけ頼ってきたのか。
でも恵恋は文句を言いながらも、カップに注がれた琥珀色の飲み物を少しずつ飲んでいく。
「まぁでも……それなりに飲める物は淹れられるようになりましたね。」
「へぇ、そうなのか?」
「でも調子には乗らず、これからも練習あるのみです。紅茶は丁寧さを忘れてはいけませんよ。」
「はいはい、恵恋先生のご指導を忘れないようにするさ。」
「よろしい、そうでなければ。」
満足そうに微笑みを浮かべる恵恋は、珍しく上機嫌なようだ。
何があったかは知らないが、まぁ悪いことじゃないんだろう。
…さて、そろそろ訊いてみるか。
俺も紅茶のカップを手に取りながら、何気なく訊いてみた。
「それで?ここに来た理由は何なんだよ、まさかお喋りするために疲れてるのに早起きはしないよな?」
「……今朝は無性に真也さんに会いたかったんです。」
「とぼけなくていい、恵恋が理由もなくこんな朝からここには来ないだろ。何か用があったんじゃないのか?」
俺の問い掛けに恵恋は無表情だが、瞳は僅かに躊躇うような動きを見せた。
俺が黙って待っていると、恵恋は観念したように小さく溜め息を吐く。
「はぁ、家事をする時もそれくらい頭が回ればいいでしょうに。」
「余計なお世話だ、誰しもできないことくらいあるぞ。で、用事は何だ?」
「せっかちさんですね、まずはゆっくり紅茶を飲みましょう。」
「朝っぱらから叩き起こしたんだ、一つくらい素直になれよ。」
恵恋は俺の言葉にムッとしたが、諦めて口を開いた。
「そうですね、確かに朝からやりすぎました。……実は真也さんに付き合ってほしいことがあるんです。」
そこで僅かに間を置いて、恵恋は複雑な表情で続ける。
「わたしと一緒に買い物に行ってほしいのです。」
「…何か裏がありそうだな、まぁ行くのは構わないけどよ。」
「……いいんですか?裏があると思っていて簡単に了承しても。」
恵恋は不安そうな上目遣いで俺を見る。
俺は紅茶のカップを置きながら何でもなく答えた。
「裏があるにしても、お前は俺が本気で嫌がるようなことはしないだろしな。なら後はきちんと内容を聞いてみるだけだ。」
「……真也さん。」
どこか嬉しそうに目を閉じた恵恋は、残った紅茶をゆっくりと飲み干した。
こんな朝から来たんだ、用事がない方がおかしい。
しかも来たのは恵恋だ、よほど人に聞かれたくない内容なのかもな。
恵恋は咳払いを前置きにして、その驚愕の内容を話し出した。
「買い物のメンバーは、わたしと真也さんと……わたしの父親です。」
「………は?」
夏休みとはいえ、世間の就労者たちには学生のような休みはない。
故に平時と変わらず、日曜はいつもより人の流れが多い。
家族連れや学生ではなさそうなカップルなど、駅前はたまの休日を楽しむ人々で溢れていた。
そんな大型デパートなどが開店して賑やかな中で、俺たち三人は三者三様の表情で歩いている。
即ち無表情、疲れ気味、不機嫌だ。
俺はたまに視線だけ左右に向けるが、まるで会話のない二人に溜め息を吐いた。
本当に、朝から疲れる。
「はぁ。」
「おい真也、鬱陶しいから溜め息吐くな。」
「誰のせいで吐いたのか、言葉にしないと伝わらないか?」
「生意気言ってんなよ、大体何でテメェがここにいるんだ?」
「それはアンタの娘に訊いてくれ、俺は言われた通りについてきただけだ。」
というよりは引っ張られてきたってのが正しいけどな。
内容を聞かずに了承したとはいえ、多少は歩幅も狭まる。
「おい恵恋、何でこんなガキを連れてきた?」
「何かいけませんか?わたしは必要だと思ったからそうしたまでです。」
「何だそりゃ、乳繰り合いてぇだけなら俺は帰るぞ。」
「何ですかその言い方は、下品な台詞しか喋れないんですか?」
二人はそこで口喧嘩を始めてしまった。
頼むから俺を挟んで罵り合うのは勘弁してくれ。
そうこうしている内に、目的地の前に辿り着いた。
沢山のテナントが入った大型のデパートは、休日を楽しむ人々を次々とその入り口から呑み込んでいく。
「ほら二人とも、もう着いたんだから騒ぐの止めろ。」
「あら、意外に早かったですね。」
「おい真也、ここで何すんだよ。」
「だから俺に訊くなっつうの、買い物だろ。」
いつの間にか俺が先頭になってデパートに入る。
開店してから間もないにも拘らず、既に店内には沢山の買い物客で賑わっていた。
一階の多目的スペースでは、日本各地の物産展が催されているようで、それが今日一番の客引きらしい。
へぇ、何か美味そうな匂いがしてるな。
結局恵恋の講座によって紅茶の淹れ方は形になったけど、代わりに朝飯を食べ損ねたからな。
俺は後ろを振り返ると、相変わらず無表情と不機嫌な二人に問いかける。
「あのさ、二人とも腹減ってたりしないか?」
「お腹ですか?確かに朝ご飯は食べていませんね。」
「何だ、何か食うのか?」
少しは興味を抱いたのか、一応同じような反応を返してくる二人。
はぁ、これでまた口喧嘩が始まったら面倒になって帰ってたかもしれない。
「ほら、あそこで物産展やってるだろ。朝飯食べてないからさ、面白そうだし覗いてみないか?」
「テメェにしては悪くない案だな、俺も恵恋が作って行かなかったから何も食ってねぇし。」
「たまにが自分でも作ってください、わたしがいないといつも食べてないんですか?」
「俺が飯を作れると思ってたのか?」
「自慢げに言わないでください、まったくわたしの周りの男性ときたら…。」
「う、さりげなく俺まで攻撃しやがって。とりあえず恵恋も賛成でいいのか?」
「はい、わたしもお腹は空いてますから。」
小さく頷きを返した恵恋は、俺の隣に並んで歩きだす。
後ろから何故か舌打ちが聞こえてきたが、嫌な予感がして振り返るのを止めた。
……ホント、不器用な奴らだな。
会場に近づくにつれて、食欲をそそる匂いは強くなっていく。
お菓子や漬物が主力のようだが、幾つか屋台も出店しているようで、飲食スペースは既にそこそこの賑わいをみせていた。
こりゃ先に座るとこ確保しないと困るかもな、これからもっと混むだろうし。
キョロキョロと屋台に視線を向けている恵恋を見て、俺は後ろで不機嫌オーラを背中にぶつけてくる恵に振り返った。
「なぁ、とりあえず先に場所を確保しよう。」
「なんだ、最近まともな台詞を言うのがテメェの流行なのか?」
「俺がおかしなことしか言わないみたいに言うな、あんたの台詞の方がよっぽどおかしいぞ。」
「チッ、テメェ病院送りにされてぇのか?」
「言ったそばからかよ、医者の台詞にしては物騒すぎるな。…まぁいいや、とりあえず先に選んできてくれ、俺は席を確保しとくから。」
恵は舌打ちしながらも理解したのか、さっさと屋台が並ぶエリアに歩いていった。
「真也さん、わたしたちも行きましょう。」
「いや、俺は後で選びに行くから恵恋は先に選んできてくれ。どちらかが戻ってきたら俺も行くからさ。」
「わかりました、それではお願いします。」
無表情なのに楽しそうな雰囲気の恵恋は、意気揚々といった足取りで恵と逆の方向に歩いていく。
まったく、ある意味器用なやつだな、あれだけ無表情のまま感情が表に出るなんて。
でも最近だよな、少しずつ恵恋が笑ったりするようになったのは。
この買い物も、そんな変化の現れなのかもな。
なら少しでも協力するか。
Eko Side
わたしは美味しそうな地方の名物料理を眺めながら、頭を深く悩ませていた。
今日の買い物の目的。
あのダメな父親と、少しでも仲良くなれないかということ。
やり方なんて知らない。
今までまともな会話をした記憶もないし、他人との付き合いが少ないわたしには、どうすれば他人と仲良くなれるのか解らないのですから。
でも、動かなきゃいけない気がした。
小湊さんや緋結華さん、逢坂さんと……あの馬鹿な人も。
あの真也さんとの一件から、皆さん少しずつ変わろうとしています。
だってあんな素敵な瞬間を間近に見て、どんどん変わり始めた真也さんと共にいて、そのままでいられるはずがない。
海に皆で遊びに行った時も、真也さんの変化には驚いた。
来てくれたことにも驚きましたが、それよりも自然な笑顔が増えた気がします。
何かが彼を変えた。
それが羨ましい。
自分も変われるだろうか?
もしかしたら自分も、過去や今を乗り越えて、明日に進めるかもしれない。
そう思っていざ行動に起こしてみましたが、やはりダメですねわたしは。
勢いに身を任せようと早起きして真也さんの家に向かいましたが、近づくにつれてどんどん緊張してきて、玄関の前に立った頃にはもう心臓が破裂しそうでした。
やっぱり止めようかと思い悩んで、震える指でチャイムを押し、鼓動と同じ早さで連打する。
本当に、わたしは弱虫です。
いつも偉そうな態度で虚勢を張って、弱虫な心を悟らせないように無表情の仮面を張りつけた。
どうして素直に気持ちを伝えられないのか、もうわからない。
真也さん、貴方はどうして変われたんですか?
一体何が、貴方に素敵な変化を与えたのですか?
「はぁ…全然わかりません。」
考えはまとまらない。
わたしも真也さんみたいに変わりたいのに、自分の中にはその答えが見当たらないのだ。
でも、わたしは独りになりたくない。
変わっていく真也さんがこれからたくさんの人を惹き付けて、わたしの傍から離れてしまいそうな不安。
わたしは小湊さんみたいに家族のような関係じゃないし、緋結華さんのように天真爛漫でもない。
暗くて陰鬱で、たまたま境遇や気持ちが似通っていただけ。
薄らとした繋がりは、いつかは途切れてしまう。
他の人たちとも、真也さんを中心に繋がっているだけです。
わたし個人と関わりがあったのは、生徒会を除けば真也さんだけだから。
………。
ダメだと解っていても、次々とネガティブな思考が頭を満たす。
ご飯を選ぶどころじゃない。
湧水のように溢れた感情が、冷たい雨を瞳から降らそうとする。
こんなところで泣き出したら、おかしな人だと思われてしまう。
真也さん、わたしはどうするべきでしょうか。
「よぉ恵恋、食べたいものは決まったか?」
「え?」
わたしを呼ぶ声に驚いて振り向くと、そこには席で待っているはずの真也さんが立っていた。
どうして、と思っていると、真也さんは首を傾げながら席の方を指差して言う。
「何か恵が決めるの面倒だからって戻ってきたんだよ、自由すぎるだろあいつは。」
「……へぇ。」
たまには父親のテキトーさも役に立つのですね。
まさか願いが届くなんて、この偶然に感謝しましょう。
でも…予想外ですね。
願っておいてなんなんですが、まだ気持ちの整理ができてません。
真也さんに何を訊けばいいのか、訊いてもいいのか考えてないのに。
「恵恋、黙ってどうしたんだ?」
「はうっ!?」
急に頭に乗せられた手のひらが、とても優しく撫でてくれます。
うわ、これは正直ヤバイですね、恥ずかしくて戦略的撤退をしたくなりますよ。
むぅ、でもこれって子供扱いされてますよね。
「何故、頭を撫で回すのですか?」
「ん、何か寂しそうな顔をしてたからかな。悪い、もうしないよ。」
苦笑した真也さんの手のひらが、そっと頭から離れていく。
それを残念だと思ってしまった自分が悔しくて、わたしはふんと怒ったような素振りをした。
「まったく、わたしを子供扱いとは失礼ですね。とにかくわたしも選ぶのに苦労しています、真也さんも選ぶのを手伝いなさい。」
「はいはいわかったよ。ったく、親子揃って偉そうだよな。」
「ふふ、真也さんは大変な人たちに振り回される運命なのです。」
「…あぁ、それも悪くないかもな。」
「え、どうしてですか?」
わたしの問いかけに真也さんは照れたように笑い、
「だって、その大変な人たちに俺は何かしてやれるかもしれない、恩返しができるかもしれないだろ。」
そんな悶絶しそうなほど恥ずかしい台詞を、極上の美人顔で言ったのだ。
一気に顔が熱くなって、慌てて顔を逸らす。
本当に素敵な笑顔が浮かぶようになりましたね真也さん。
わたしもいつか、この無表情から抜け出せる日がくるのでしょうか。
「…真也さん。」
「ん、どうかしたか?」
わたしの言葉を待つ真也さんを前に、小さく拳を握る。
胸に満ちる不安を消したくて、わたしは願うように言葉を紡ぐ。
「わたしを独りにしないでくれますか?わたしが変われるまで、傍にいてくれますか?」
「…そんなこと、聞かれるまでもない。」
真也さんはまたわたしの頭に手を乗せて、優しく温もりを分けてくれた。
「俺が恵恋にしてもらったように、俺も恵恋が辛いとき、傍にいれたらと思ってる。俺ができることを、恵恋が望むようにするよ。だから、安心して前に進めばいいさ。」
泣きそうになった。
わたしは決して独りにはならないと、そう言ってもらえたから。
五人の中で一番ダメなわたしを、嫌いにならないでいてくれる。
…そうなんですね。
胸に広がるこの気持ち。
小湊さんや、きっと緋結華さんも持っている想い。
気づいてはいけないと思っていましたけど、それは無理な話でした。
だって初めて出会ったその瞬間から、わたしは真也さんを欲していたんですから。
Megumi Side
様々な郷土料理や名物料理が売られる出張屋台の列を黙って眺めながら、俺はふと後ろを振り返った。
幾つかのテーブルが並ぶ少し先に、暇そうに欠伸をしているクソガキがいる。
チッ、何でテメェが来ちまったんだよ。
そりゃ確かにいきなり二人でってのは無理だけど、だからってよりにもよって真也か。
…いや、真也で当然なのかもな。
俺はまともに恵恋とコミュニケーションをとってないが、あいつはウチに来るようになってからずっと恵恋のことを気に掛けてた。
父親の俺よりも、間違いなく恵恋のことを知ってる奴。
…クソッ、イラつく。
理由なんて考えたくもない、とにかくイラつくんだ。
でも、気になる。
どうしたって気にしちまう。
無視なんてできるかよ、あいつは…。
のしかかる過去を振り切るように、俺は舌打ちする。
もう俺にはどうしようもないことだ、腐っちまった俺には。
誰も救えない俺に、とやかく言う資格はない。
あの娘の想いを遂げさせてやれなかった報いは、これからずっと受けないといけないから。
そして、恵恋のために必要なのは、俺じゃなく真也だ。
本当に、何歳になっても無力さってのはついて回るらしい。
医者としても失敗で、人間としても欠陥品だ。
自分の身の丈に合った生き方。
過去に責められながら、涙を流して泣き言も言えない人生。
生きていられるだけでまだマシだ、救けられなかった人は苦しむことさえ叶わないんだ。
俺はこのままで構わない、人並みの幸福も温かさもいらない。
でも、せめてたった一人の家族の幸せくらいは、願っても良いだろうか?
席の戻ろうとする道すがら、俺は真也に何て理由を言おうものか考えていた。
「随分かかっちまったな。」
「そうですね、まさか真也さんまで優柔不断とは思いませんでした。」
「仕方ないだろ、どれも美味そうなんだから。大体俺よりも決まるの遅かった恵恋に言われたくないな。」
「女の子を言葉責めにしてそんなに楽しいですか?そこは優しく微笑んで謝るところですよ。」
「ったく、自分のことは棚上げかよ。」
そんな言い合いをしながら、俺たちは漸く決まった昼飯を席へと運んでいた。
恵恋の言うとおり、目移りしたのは本当だ。
テレビで取り上げられるような食べ物がたくさん並んでいて、でも全部を制覇できるほど胃袋が強靭なわけじゃない。
結局こういう時って食べたことがあるものに落ち着くのは勿体ないよな。
俺の手にあるお盆には、何処かの名産肉を使った焼き肉丼が乗っていて、美味そうな匂いを立ち上らせている。
その隣に一風変わった具材が入った焼きそばも乗せて、暇そうに待っていた恵の前に置いた。
それらの料理を一瞥した恵は、舌打ちしながら組んでいた足を崩して言う。
「遅いんだよ真也、俺をいつまで待たせるつもりだ。」
「偉そうに言うなよ、アンタが食うもん決まらねぇって言うから選んできてやってんのに。」
「それでこの二つかよ、お前も飯のセンスはないってことか。」
「莉乃姉に作ってもらってばかりだからな、自分から何か食べたいって考えないんだ。」
「贅沢な悩みだな、その莉乃姉って奴に依存してんのか。」
「…ま、返す言葉はないな。」
一応最近は簡単に作れる一品って感じの料理本も読んではいるんだが、書いてあることの意味が解らなくて投げ出したばかりだ。
何だろうな桂剥きって、何か被せるんだろうが。
その本は莉乃姉に見つかりたくなくて、今もタンスの奥底に封印してある。
もし莉乃姉に見つかったりしたら、きっとしつこく一緒に料理をしようって言い始めるだろう。
しかもこの夏休みという暇の多い時期だ、それを大義名分にウチに入り浸るのは必至。
…まぁそもそも、俺に会いたいって理由だけで莉乃姉には十分か。
「…何か一人で穏やかな微笑みを浮かべ始めましたよ。」
「気持ち悪いガキだな、いきなりトリップしてんじゃねぇよ。」
「そんなんじゃねぇ、いいから好きな方を選べよ。」
微妙に冷たい視線を浴びながら、俺はまくしたてるように恵へお盆を少し押し出した。
恵はウザったそうに二つを一瞥すると、溜め息を吐きながら焼そばを選んだ。
チッ、買ってこさせといてなんだその不服そうな溜め息は。
そう喉まで上ってきた言葉を呑み込んで、俺も席に着く。
漸く飯にありつけるか、匂いに食欲促進されてて辛かった。
濃いめの味付けを咀嚼しながら、俺は小さな口に食べ物を運ぶ恵恋に問い掛ける。
「今日は結構色々と買うのか?」
「はい、予定では二人の両手を買い物袋で埋めるつもりです。」
「俺は持たねぇから大変なのは真也だけだな。」
「おいコラ、少しくらいは手伝え。いくらなんでも荷物が俺より大きくなりそうなんだから。…因みに何を買うんだ?」
「あの寒々しい部屋に彩りを加えようと思いまして、可愛い小物とかを考えてます。」
「…そうか、それは俺も頑張り甲斐があるな。」
実に清々しいくらいウザそうな顔でそっぽを向く恵に溜め息を吐きながら、俺はちまちま食べる恵恋を眺める。
自分の物を買う、それは今までの恵恋にはなかった考えだ。
自分は必要のない人間だから個人としての持ち物は要らないと、そう言っていたのを覚えている。
でも今日、自分の物を買うと言っている、それは変化だ。
普通の学生からしたら当たり前のような話でも、恵恋にとってはそうじゃない。
長い年月を違う考えで生きてきた人間が考えを改める、そんなことは滅多にできることじゃないからな。
理由は解らないけど、喜ばしい変化には違いない。
恵恋も、変わろうとしてるのかな。
「なら食ったら早速行こうか、まずは小物だな。」
「…どうしたんですか急に、何で真也さんがやる気なんですか?」
「何か今日のこいつは一層ウザいな。」
「うるせぇな、別にいいだろうが。ただ、なんか嬉しいんだ。」
俺が恵恋の顔を見てそう言うと、恵恋は恥ずかしそうな顔をして顔を背けた。
恥ずかしがることはないと思うぞ恵恋、全然悪いことじゃないんだから。
むしろ胸を張れよ。
新しいことへの挑戦は、そう簡単じゃないんだ。
これをきっかけにして、恵恋が良い方向に変わっていけるなら意味がある。
せっかくの機会、無駄にしたくないな。
俺はそんないつもと違う恵恋に喜びを感じながら、食事を平らげていった。
沢山の小物が並ぶ中を、俺は恵恋と並んで歩いていた。
可愛らしい写真立てやお洒落な筆記用具などが所狭しと陳列されていて、何を買うにも目移りしてしまう。
恵恋はそんな店内でも、和風の小物が集まった区画で悩んでいた。
「どれがいいと思いますか?」
「…これなんかいいんじゃないか?」
俺が手に取った和菓子のミニチュアを見て、恵恋は顔をほころばせた。
「可愛いですね、あの寂しい部屋も少しは彩るかもしれません。」
「そうだな、幾つかあったら棚の上が賑やかになりそうだ。」
「真也さんも少しは部屋に物を増やせばいいでしょう?」
「俺が買わなくても莉乃姉が勝手に物を増やすから心配ない、キッチンなんて俺の管轄外だしな。」
「自分の部屋なのに管轄外って、貴方は小湊さんがいないとどうなるんですか。」
「まぁ……ろくな生活はしないだろうな。」
恵に言われた通り、莉乃姉がいなかったら俺の独り暮らしなんてまともにはならないだろう。
そもそも一人になった時点で小湊家には一緒に住もうと打診されている。
でも幼なじみとはいえ年の近い異性が同じ屋根の下に住むって考えたら、やっぱり一人で暮らす方を選んだ。
まぁ結局莉乃姉が毎日のように会いに来てるから、変わらないと言われればそうだろうけど。
「それよりさ、恵恋はどうして急に買い物に?」
俺の問いかけに恵恋は答えづらそうに俯く。
自分の物を欲しくなるのは構わない。
けど、俺が気になるのはその理由だ。
気にならないと言えば嘘になる、だから答えてくれるなら聞きたい。
その方が、俺も力になりやすいから。
恵恋は暫く悩んだ末に、ミニチュアを手のひらに乗せながら呟いた。
「もうわたしは誰かの代わりになるのが嫌になった、わたし自身として、冴塚恵恋として生きていきたいからです。この買い物はそのための第一歩、そしてスタートラインなんです。」
「誰かの代わり?」
「今のわたしは、あれにとって母の代わりです。」
恵恋は無表情のままに、離れた場所で不機嫌そうに棚の小物を物色する恵を見た。
「今まではそれでもいいと思っていました。母の着ていた服を着て、母とそっくりな見た目にして、母と同じ食事を作る。そうすることであれが生きる気力を得られるなら、わたしは自分自身なんて捨てられた。」
遠く昔を思い出しているのか、恵恋は辛そうな表情で宙を見上げる。
「わたしが母の代わりになるのなら、自分を捨てるなら、わたしは自分の物なんて持てない。だってそんなことをしてしまえば、わたしは母と違ってしまう。当時のわたしにとって、完璧に成り代わることが最優先だったんです。わたしも母を失って、毎晩泣いてましたから。」
それがこの家族の歪みの始まりか。
失ったものを補おうとして生まれた考えのおかしさに、子供だった恵恋は気づかなかった。
だってそれでは、代わりに恵恋がいない。
俺が姉さんを亡くして色を失ったように、恵恋は自分自身を失ったのか。
「でもお陰で父は頑張っていた、できるだけ沢山の人を救おうとしていました。何日も泊まりで働いて、たまに帰ってきたらわたしが作った母の料理を食べて、また何人もの人を救うことができたんだと、嬉しそうに話してくれた。例え父がわたし自身を見ていなくても、あの頃はとても幸せだったんです。」
それは父親からの愛情を失いたくないと願った少女が思いついた、見せかけの夫婦ごっこ。
その想いが自分へのものではないと知っていながらも諦めて、藁にも縋るような思いで被った母親の仮面だ。
恵恋はここまで話すと、ミニチュアを棚に戻した。
そして無言で、俺の腰に抱きついて顔を埋める。
「だけどダメでした。ある日突然、父は病院を止めました。そして逃げるように小さなあの診療所を建てて、くすんだ日々が始まったんです。」
「…そうか。」
「真也さん、わたしはどうしたら良かったんですか?自分を無くしてまで作ろうとした平穏さえなくなって、もう本当の自分も忘れてしまって、どうしたら正解だったのでしょうか。」
消えてしまいそうな声でそう訊いてきた恵恋は、とても脆く儚かった。
今まで独り、ずっとこのことを抱えて生きてきて、だけど限界なんだろう。
辛くて当たり前だ。
世界で誰も、本当の恵恋を見ていないんだから。
自分しか自分を知らないというのは、一体どれほどの孤独だろう。
それは俺が両親や姉さんを失った孤独よりも、よほど深く暗い。
…つくづく馬鹿だな俺も。
一番恵恋と長い付き合いなのに、恵恋の悲しみをまるで知らなかったなんて。
俺は腕を震える恵恋の背中に回すと、空いた手で優しくその頭を撫でた。
「すまなかったな、気づいてやれなくて。」
「…いいえ、だってわたしも怖かった。こんな偽りだらけのわたしを知ったら、真也さんが離れてしまう気がしていましたから。」
「そんなこと、ありえないさ。」
「はい、真也さんはそんなことをする人じゃない。真也さんはずっと傍にいてくれた、わたしなんかと話してくれていた。それなのにわたしは真也さんを…。」
「言わなくていい、大丈夫だから。今までよく頑張ったな恵恋。もう、無理をしなくていい。」
俺の言葉に顔を上げた恵恋は、瞳に沢山の涙を溜めていた。
俺はなるだけ優しく笑うと、安心させるように手を握る。
「ゆっくりでいいから、せめて俺の前では正直な自分でいろよ。例えどんな恵恋だとしても、俺は一緒にいてやるから。」
「………ありがとう、真也さん。」
涙が光る目を細めて、恵恋は笑った。
喜びが溢れるような、そんな笑顔。
それは俺が初めて見る恵恋で、恵恋にとっては久しぶりの自分だったんだろう。
恵恋の涙を拭いてやると、恵恋はなすがままに大人しくしていた。
そして堪えきれない笑顔のまま、また俺に顔を埋める。
「ごめんなさい、暫くこうしていてもいいですか?」
「ん、構わないぞ。」
「ありがとうございます真也さん。」
小さな声でそう呟いた恵恋は、離れないようにしっかりと俺に抱きついた。
できるならばこのささやかな時間が、恵恋にとって当たり前になることを願おう。
そうして暫く抱きついた恵恋の頭を撫でていると、ふと嫌な気配を感じた。
そこで漸く、俺たちは随分と多くの視線に曝されていることに気づく。
それは羨ましそうだったり、嫉ましそうだったり、何故かときめいているような視線だったりする。
急に顔が熱くなって、俺は小さく恵恋に囁いた。
「おい恵恋、そろそろ離れてくれ、周りからの視線が痛い。」
「…嫌です。」
「はぁ!?」
「真也さんは一緒にいてくれるって言いました、だからこうしていてもらいます。」
「いや、確かにそうは言ったけどな…。」
俺が慌てていると、堪えきれない笑いが聞こえてきた。
…はぁ、なるほどな。
「恵恋、わざとやってるだろ?」
「あら、もう少し慌てる真也さんを感じていたかったのですが、気づいたなら仕方ありませんね。」
そう言いながら俺から離れた恵恋は、悪戯っぽい笑みを浮かべて俺を見上げた。
「でも、温かかったですよ真也さん。」
「ちょっ、そういうことは思っても口に出すな!」
「ふふん、小湊さんなら許すくせに。」
「莉乃姉は言っても直らないだけだっつうの。ったく…買ってやるから行くぞ。」
俺は既に恵恋が持っていた籠を受け取ると、赤くなった顔を冷ますように逸らした。
何しろ今の恵恋の笑顔は、とても穏やかで幸せそうな笑顔だったから。
いつもの無表情でも十分に可愛らしい恵恋がそんな風に笑うなんて、もはや反則的に目を奪うのだから。
……お、これはいいな。
視線を向けた先にあった、一つの髪飾り。
和風の装飾と色合いが、今の恵恋に似合いそうだ。
俺はその髪飾りを手に取ると、恵恋の前にぶら下げた。
「なぁ恵恋、これを買ったら着けてくれるか?」
「髪飾り……素敵じゃないですか。真也さんがくれるなら、着けるのもやぶさかじゃないですよ?」
「あぁ、恵恋に似合うと思ってな。ならこれも買うか。」
髪飾りを籠に入れると、俺はレジに向かって歩きだす。
そこでそっと握られる手。
振り返ると、俯いた恵恋が小さな声で言った。
「今だけ、こうしていたいです。」
「…ったく、今だけだぞ?」
強く握られた手を、優しく握り返す。
それが恵恋の希望に、僅かにもなれればと思いながら。
「随分と長い買い物だったなテメェら。」
「仕方ねぇだろ、どれにするか迷ってたんだから。」
「たまには文句以外も言えないのですか?」
店を出た途端に食ってかかる恵は、退屈そうにベンチに座っていた。
話を聞いていたから遅くなったしな、まぁ怒るのも無理ないか。
俺は話を逸らすために、恵恋に話を振る。
「それで恵恋、他には何か買うのか?」
「そうですね、下着とかも買おうかと思ってますけど。」
「そうか、なら次は俺も外で待たせてもらうぞ。流石に下着売場に入る勇気は持ってない。」
「何故ですか?今日は真也さんに選んでもらいたくて連れてきたのに、それでは意味が半減です。大事な下着ですから一緒に選びましょう。」
「なっ、大事なって何のことだよ!」
「今日は少し大人っぽいものを選ぼうと思ってますから、実際に試着して好みを聞こうかと。」
「テメェコラ真也、結局そういう腹積りか!」
「初めに断ったの聞いてただろうが!恵恋もわざと紛らわしい言い方すんな!」
クスクスと楽しそうに笑う恵恋は、動揺する俺を見て上機嫌に歩きだす。
恵はまた一際不機嫌だし、まさか今日はずっとこんな感じなのか?
はぁ、精神的に疲れそうな一日だ。
スキップでも踏み出しそうな恵恋に連れられて、舌打ちする恵の隣で帰りたくなる俺なのだった。
Eko Side
「それでは少し待っていてください、なるべく早く戻りますから。」
「了解、そうしてくれ。」
「こんな奴と何時間も待たされたら勝手に帰っからな恵恋。」
「解ってます……だから待っていてくださいお父さん。」
自然と口から出た言葉に、わたしも父も驚いた顔をした。
本当に久しぶりですね、きちんとお父さんと呼ぶのは。
殆ど会話もしなくなってからは、わたしから話しかけてもお父さんとは呼ばなかった。
いつも要件だけを簡潔に伝えて、呼び掛けはしていない、そんな仲。
長い間そんな関係を続けていたのに、今の言葉があまりにも自然に出てきた。
浮かれているのでしょうか?
真也さんに認めてもらえて、頭を撫でてもらえて…。
……抱き締めてもらえた。
優しく、離れたりしないと囁かれているような安心感。
その温もりに嬉しくなる半面、胸は痛いほどにドキドキしっぱなしでした。
それは時々夢にまで見るような現実で、次はいつだろうかと考えてしまうほど幸せだった。
…う、思い出したら恥ずかしくなってきましたね。
顔が赤くなったのを見られたくなくて、俯いて二人に背中を向ける。
「それでは行ってきます、仲良く待っていてください。」
『無理だな。』
返ってきた返事はあまりにも予想通りで、火照った顔も少し落ち着いた。
穏やかな気持ち。
真也さんがくれたこの温もりを、わたしはずっと大切にしよう。
無理だとわかっていたのに、願っていた幸福。
それが今、確かにこの胸にある。
嬉しくて、つい笑ってしまう。
こんなにもにやけてしまうのはいつ以来だろう、それも思い出してだなんて。
胸の高鳴りを心地よく感じながら、わたしは下着売場に入っていく。
色とりどりの下着が並んだ売場は、確かに男性がいたとしたら凄く違和感です。
真也さんが嫌がるのも無理はありませんね。
それに男女でここにいるってことは、付き合ってるってことでしょうし。
………嫌がってても連れてくるんでしたね、そうすれば既成事実を作れたかもしれないのに。
小湊さんは女性のわたしから見ても綺麗で可愛らしい人です。
特に真也さんといるときの笑顔は素敵すぎて、わたしではかないそうにないですし。
はぁ、ちょっとだけ憂鬱です。
叶わない願いというのは、意外にたくさんあるんですね。
でも、叶わないと思っていたことを、真也さんは叶えてくれた。
なら、諦めてしまうのはもったいないですね。
…こんな風に、思えるようにしてくれましたから。
ありがとうございます真也さん。
この恩返しが、いつの日かできればいいのですが。
「何かお探しですか?」
「え?」
考えに浸っていたせいで、店員の接近に気づかなかった。
ニコニコと営業スマイルを浮かべた店員は、低姿勢ながらも視線を合わせて逃がさないようにしながら、わたしの返事を待っている。
これは…手強そうな相手ですね。
流されるままにいたら、何だか余計な物まで買わされそうです。
でも今までシンプルなスポーツブラしかしてないですし、いわゆる普通のブラに関してはわからないですし訊かなければいけませんね。
わたしは何でもない風を装って、小さく頷いた。
「えぇ、まぁ。」
「サイズはおいくつですか?」
「…最近測ってません。」
前回の数字は覚えている、だけどあれから随分と経った。
この高校生という時期に、まさか変わってないだなんてことはないと思う。
でも嫌な予感がふわりと飛来する。
「では測ってみましょうか、どうぞあちらへ。」
店員が示した試着室に二人で入ると、促されるままに浴衣を脱ぐ。
うぅ、何だか恥ずかしい。
自分の部屋以外で肌を外気に晒すなんて、学校のプールの授業くらいです。
変なドキドキを感じながら、何の色気もないスポーツブラを脱ぐ。
自分の貧相な身体つきに悔しさを覚えながら、測りやすいように両腕を上げる。
「それでは測ってみますね。」
店員のポケットから取り出されたメジャーがするすると伸ばされて、わたしの身体を這うように測っていく。
他人に肌を触られるこそばゆさに思わず目をつぶっていると、終わりましたよと声が聞こえた。
「お客様は――カップなので、お店の奥にそのサイズを集めたコーナーがありますよ。」
「――カップ。」
予感が現実となって襲ってきた。
どうしてよりによって嫌な予感が的中するのかと、運命の神様に呪いの罵倒を浴びせてやりたいくらいです。
まさか本当にこの身体つきから変化がないのでしょうか。
わたしが愕然としていると、店員がメジャーをしまいながら言った。
「お客様の肌は白くて凄く綺麗ですね、こんなに肌が綺麗なのは初めて見ました。」
「…そうでしょうか?」
「はい、これは十分に武器です。想い人だってこの肌を見せたら一発ですよ!」
「なっ、想い人って!?」
店員は何故かテンションを上げながら、わたしの手を握ってくる。
下着売場の人ってこんなに積極的に聞いてくるんでしたっけ?
戸惑いながら浴衣を着直すと、店員は嬉しそうにわたしを奥へと連れていく。
「お客様は何てお名前なんですか?」
「さ、冴塚恵恋ですが…。」
「恵恋さんですね、可愛い名前ですにゃ。あたしは百瀬恋夏って言いま~す!」
何故か自己紹介までしながら、目的のコーナーに辿り着く。
「じゃああたしが責任持って可愛い下着を選びますにゃ!う~、楽しみになってきた~!」
「えっと、よろしくお願いします?」
百瀬と名乗る店員は、まるで自分のことのようにはしゃぐと、色々な下着を集め始める。
思考が追いつきません、それに語尾がにゃって。
若干不安になりながらも、店員が次から次へと抱えていく下着の山を眺めていた。
黒の薄い下着。
う、それはあまりに破廉恥すぎます。
白いフリルの下着。
そんな可愛いの、わたしには似合いません。
毛糸の下着。
夏なのに置いてあるんですか!?というより、わたしも流石にそんなたくさん買わないのですが…。
遂に抱えきれなくなったのか、店員は満足気にわたしに振り返った。
「さぁ恵恋ちゃん、試着の時間だにゃ。」
いつの間にかちゃん付けで呼ばれてますねわたし。
「そんなにたくさんですか?」
「もっちろん!彼との素敵な時間を過ごすなら、やっぱり一生懸命選んだ下着が一番だよ!」
そもそもまだ付き合ってもいないのですが、きっと説明しても無駄なんでしょうね。
わたしは呆れと面白さが半々くらいになりながら、店員の着せ替え人形になるのだった。
Megumi Side
下着売場に入っていく娘を見送って、俺は真也と並んでベンチに座った。
あんな風に、感情を出せるようになったのか。
自分が知らない表情を見せる娘。
その表情には愛情があり、しかしそれは俺に向けられたものじゃない。
向いている先には、いつだって真也がいる。
恵恋にとってこいつが特別な存在だってことも、薄々は感じていた。
それが仕方のないことだって、俺は諦めた。
それだってのに、俺はみっともなく未練を感じている。
そんな自分が胸クソ悪くて、いつもイライラして、羨ましさで真也に辛く当たっちまう。
これじゃ癇癪起こすガキと変わらねぇ、情けねぇのもわかってる。
でも無視するわけにもいかねぇよな。
だって俺は、あの娘を救けられなかったんだから。
「ぉぃ……おい恵?」
「っ……何だよ、うるせぇな。」
癖になってきた乱暴な口調と目つきで真也を睨む。
でも真也はするりと俺の視線を受け流すと、指で後ろを指しながら訊いてきた。
「あんたはどれか飲むか?」
「は?」
真也の示す先に視線を向けると、飲み物の自販機がチカチカと点滅していた。
確かに、少し喉は渇いてるか。
「……珈琲だ、甘ったるいの買ってくんなよ?」
「ならブラックで構わないな、それなら甘くないだろ。」
真也は財布を出しながら立ち上がると、自販機に小銭を突っ込んでブラック珈琲を二つ買って戻ってくる。
そういや今日、一度も財布を出してねぇな。
胸クソ悪くなって、俺は財布から小銭を出して真也に放り投げた。
真也は器用に小銭を掴むと、代わりに珈琲を返してくる。
冷たい缶を受け取ってプルタブを開けると、イライラしながら中身を一気に飲み干した。
「何だよ、そんなに喉渇いてたのか?」
「チマチマ飲んでも仕方ねぇだろうが、こんなのはとっとと飲めばいいんだよ。」
「まぁ、飲み方は自由だけどな。」
真也は呆れたように呟くと、珈琲を開けて一口だけ飲む。
だが、座ろうとはしない。
ただ静かに俺を見下ろして、立っているだけ。
無言による静寂に店内放送の陽気なメロディが交ざり合い、嫌な間が空く。
チッ、何がしてぇんだこいつは。
俺たちにとって、会話がないのはいつものことだ。
それなのに、何故かこの無言は嫌に気分が悪い。
見下ろされてるのも、視界に真也がずっと入っているのだってどうでもいい。
ムカつくのは、感じる視線だ。
何かを問い掛けるような、何かを言いたそうな雰囲気。
そいつがずっと上から降ってくる。
だけどここで俺が真也を見たら何かに負ける気がして、俺は手元の空き缶を弄ぶ。
裏の文字を読んだり、意味もなく潰してみたり。
どれくらい経ったか、真也が重い口を開いた。
「なぁ恵。」
「俺を呼び捨てとはいい度胸だなコラ。」
「何を今更、前からそうだろうが。」
下らない前口上をしてしまう自分に、俺は舌打ちする。
「そんなことより、訊きたいことがある。」
「……それはテメェが関わるべきことなのか?」
「そういう質問で返すってことは、アンタも何を訊かれるのか解ってるってことだな?」
「はっ、ウゼェ奴だな。どうせ俺が答えるかの如何に関係なくテメェは訊くんだろ?なら余計な問答は要らねぇよ、さっさと要件を言えアホ。」
真也は驚いた顔をして、しかしすぐに表情を戻す。
さて、どうするか。
答えるか否か、どこまで話すべきなのか、その判断が難しい。
コイツなら、雰囲気が変わった今のコイツなら、きっと真実も受け入れられるだろう。
古傷を互いに抉ることになるだろうが、それも仕方がない。
一発くらい殴られるか、それとも本気の恨みを買うのか。
許されようとは思ってない、恨まれるのも殺されるのも覚悟しよう。
償えないのなら、せめて身内から。
真也は小さく息を吸って、俺を見る。
「恵、どうしてアンタは恵恋と関わろうとしない?」
「………そこから来たか。まぁいい、今日は話そうかと思ってたところだ。」
恵恋が示した変化と小さな勇気。
父親として失格な俺ができるのは、託すことだけ。
今までのことを話し、コイツに恵恋の心を癒してもらうだけだ。
恵恋が最も信頼する真也に。
「テメェは恵恋からどこまで聞いたんだ?」
「恵恋のあの格好が誰のものなのか、それが何故なのか、その辺りだ。」
「なるほどな。なら俺が最初に腐ってた頃の話も聞いてんだろ?」
「あぁ、聞いたよ。」
「なら説明が略けて楽だ。テメェが恵恋から聞いた通りだよ真也、俺が現実から逃げるために作ったのがあの診療所だ。」
ただ購いのために生き、娘が不自由なく暮らせるだけの金を稼ぐ施設。
まぁ俺のせいで、不自由なくって望みは果たせないままだが。
真也は頷くと、言葉を選ぶように間を空ける。
「…何故、急に医者を辞めた?」
「…妻を救えず、何が医者だ。」
「そうかもしれないが、でも奥さんが亡くなった後も医者を続けてたんだろ?恵恋からは、ある日突然辞めてきたって聞いたぞ。」
真也の質問が、俺の傷を抉る。
その質問は、真也自身も傷つけるのに。
答えなければならない、だが俺の口は話すべき言葉を忘れたみたいに動かない。
チッ、今更怖じけづくなよ俺。
どんな反応があろうとも、それさえも購いなんだと覚悟したはずだろう。
知らせなければならない。
この世界で生きる、あの娘の唯一の家族に。
震える手を握り拳に変えて、俺は最後の確認をする。
「答えるのは構わない。だがその答えは真也、テメェにも関わることだ。恵恋のために、テメェは真実を受けとめる覚悟があるか?」
「………俺は恵恋に暗闇から救けだしてもらった、どうしようもない孤独の苦しみから立ち直らせてもらった。そうでなくても恵恋は大切な友達だ、なら俺だって恵恋に何かをしてやれなくてどうするんだ。」
何でもないことのように真也は言う。
それはまだ目の前に座る人間が自分にとって何なのかを知らないからか、或いは本気で、そんな青臭い台詞を言ってるのか。
前者だとするなら、俺はきっとこの場で殴られるだろう。
場合によっては、恵恋との関係にも影響が出るかもしれない。
だがもし後者なら…。
はっ、考えても無駄か。
俺は罪人として、ただ罰を受けるだけだ。
だけどな真也、これだけは頼む。
俺のせいで恵恋を、嫌ったりはしないでくれ。
俺は心の中で小さく願いながら、神への懺悔のように語り始めた。
「俺が医者を辞めた理由……それはな、ある人間を救うことができなかったからだ。」
いつになく真剣な眼差しで語り始めた恵は、俺を見上げながらそう告げた。
ある人間?
救えなかったのは、恵恋の母さんじゃないのか?
俺が疑問の視線を投げると、恵は自虐的な笑みを浮かべた。
「俺の嫁じゃないぞ。優恋は確かに救えなかったが、俺には恵恋がいた。あいつが俺を元気づけようとしてくれたこと、それが恵恋にとってどれだけの犠牲を払ってのことなのか、それも理解している。」
「なら、どうして止めさせなかった?」
賢い恵のことだ、恐らく初めから気づいていただろう。
幼い子供が何を考え、どうしようとしていたのかを。
「ったく、容赦がないなテメェは。…解っていても止められない、そういうことは幾らでもある。あの頃の俺には、恵恋の意図に気づいても、将来のことまで考えて止めるような余裕がなかった。目の前にある小さな幻影に、みっともなく飛び付いちまった。」
「……なるほどな。」
恵恋が偽物の妻になろうと考えてしまうほど、当時の恵は酷い状態だったのだろう。
避けようのない悪循環にいつの間にか入り込んでいて、それは家族の歪みを大きくしながら加速を始めてしまった。
ダメだと解っていても、自然と手は伸びてしまう。
「それと幸か不幸か、恵恋は驚くほどの役者だった。元々見た目はどんどん優恋に似てきていたが、その仕草や話し方、料理の味まで同じだったんだ。まるで俺よりも優恋を知っているみたいに、俺の知らない仕草でさえ優恋のものだと錯覚するくらいにな。」
まさか恵恋の隠れた才能が裏目に出るだなんて、一体誰が予想できるんだろう。
そしてそんな恵恋の姿が、傷ついた恵にとってどれほどの支えになっていたのか、想像に難くない。
大切な娘が、最愛の妻のように振る舞い、自らを癒す。
自分を支える唯一つの柱。
それがどれだけ歪み、間違っていても、止められるはずがない。
傷が大きく深いほどに、その柱は傷口を塞ぐようにその意味を強めていく。
でも、だからこそ疑問は深まる。
どうして、恵は医者を辞める結果に繋がるのか。
「それからのことはテメェも知る通りだ。俺は苦しみから快復し、今まで以上に勉強し、技術を磨いた。もう誰一人死なせるものかと、若輩ながらも教授にまでなってな。」
「あぁ、そうらしいな。だけど、ならどうしてアンタは今こうしている?教授になるほどにまで快復したアンタが、医者を辞める理由はなくなったはずだ。」
「それが初めに言った理由だ。恵恋が繋ぎ止めていた柱は、それで一気に瓦解した。結局痩せ我慢だったんだよ、俺のやる気はな。辛い現実から目を逸らすために、自分を騙していた。」
「………誰を、救えなかった?」
恵は一度視線を空き缶に向けて、それをゴミ箱へ捨てに行く。
そして戻ってきた時、恵は座らなかった。
無言で、俺を見る。
嫌な予感。
頭に浮かぶ、夕暮れの交差点。
まさかという言葉が、渇いた喉から出そうになる。
恵の視線が、十分過ぎるほどに語っていた。
覚悟を、試すときだと。
「俺が救えず、命を落としたのは、とある交通事故の被害者である当時中学三年生の少女。」
心臓が壊れたみたいに、不整脈を引き起こす。
恵の声が、麻酔のように思考を乱した。
全ての始まり、俺の人生の分岐点。
「桐生真耶、お前の姉だよ。」
「……嘘、だろ。」
指先から力が抜けていくようだった。
頭が上手く働かない。
あまりにも鮮明に、あの瞬間がフラッシュバックする。
愕然とする俺を見ながら、恵は表情を変えずに続きを話す。
「救急車で搬送されてきたお前の姉は、既に瀕死の状態だった。手遅れ……そう判断できるような重体だ。それでも懸命に、あらゆる処置が施された。だがそれでも、救えなかったんだ。」
「………。」
「そして俺は打ちのめされた。どれだけの努力を重ねようとも、救えなかった。俺たち医者は、命を救う立場にはなかったのだと。俺たちがしているのは、患者自身が自分を治そうとする力に対する、補助装置としての役割なんだってな。」
諦めた男の声は、悲しみを含んで消えていった。
人生を懸けて培ったものが、己の望む結果を出せないと思い知らされた、それがどれだけの苦痛なのか。
高望みだと言われればそれまでだろう。
夢物語、それを本気で願い叶えようとして、現実の苛酷さに押し潰された。
それが今の、冴塚恵という存在だ。
恵は渇いた笑みを浮かべると、俺に叫ぶ。
「俺がお前の姉を救けられなかった張本人だ!お前から一番大切な者を奪い、苦しめた悪党だ!だからな真也、俺を罵れ!殴れ!……いっそ、優恋のもとに連れていってくれ。」
残酷なまでの告白。
真耶姉さんは、こいつに?
いや、違う。
姉さんは誰かに殺されたとか、そんなんじゃない。
あれは事故。
俺の不注意に姉さんを巻き込んだ。
もし誰かを犯人とするのなら、それは俺のはずだ。
それなのに、恵はずっと一人で罪を背負っていたのか?
姉さんの死を自分のせいにして、己の理想を叶わぬものとして、家庭さえも壊してしまった。
あの事故は俺にとっての始まりで、恵にとっての崩壊だった。
何て現実は残酷で、救いのない物語なんだろう。
偶然の不幸は重なって、何もかもを壊していく。
「俺はお前の姉を救けられず、お前の両親に悲しみを植え付け、心を壊したお前を見た。もう耐えきれなかった。命も救えず、残された者を癒すこともできないなら、心理カウンセラーの方がよほど世の中には必要じゃないかってな。」
「……ずっと、そう思ってたのか?」
俺が問い掛けると、恵は涙を堪えるように俺を見る。
「そうだな、俺は誰も救えない敗北者だ。教授なんて肩書きも何ら意味はない、俺よりも人を救う力を持った医者はごまんといる。なら、俺が執刀するよりずっといい。」
「もし仮にそうだったとして、何故恵恋との関係が回復していないんだ?時間はそれこそたくさんあっただろ?」
「……わからなかったんだよ、恵恋という存在が。」
「アンタの娘だろうが!」
「恵恋は、俺にとって随分前から優恋だったんだ。恵恋もそれを望み、俺もそれに甘えた。だが医者を辞めて暫くして思った。………恵恋はどんな人間だったのかってな。」
漸く、恵恋との話が繋がった。
己を捨てて演技し、やがてその意味を失ったとき、自分を思い出せなくなった恵恋。
妻を失った悲しみを娘が見せた幻想で癒し、しかし自信を喪失したときにはもう娘さえ失っていた恵。
始まりは小さな歪みだったのに、今ではこんなにも大きく歪んだ。
「優恋の真似をする恵恋を、俺は止められなくなっていた。娘を漸く意識して見たときには、既に娘はいなくなっていた。そして俺は、まともに恵恋と接することができなくなっていた。」
「それが今の状況ってわけかよ、最悪だなアンタは。」
「あぁ、俺はどうしようもないクズだ。だがこんなクズでも、お前の恨みの捌け口くらいにはなる。」
「それで、俺に関わったってのかよ。」
「あれは偶然だった。あの事故から腐っていた俺が、夜中に喧嘩で傷ついたお前を見つけたのはな。」
あぁ、俺も覚えている。
俺は真耶姉さんを失った悲しみを引きずって、喧嘩で悲しみを紛らわせる毎日。
対してこいつも、打ち拉がれて家庭さえ崩壊した苦しみを抱き、夜の街を徘徊していた。
姉さんの死を受け入れられない、二人の出会い。
「俺がお前を治療してきたのは、自分に対する責任逃れだった。残されたお前を見守ることで、少しでも償いになればと思ってな。」
「…なるほどな、やっと全てが繋がったわけだ。」
お陰で、光明も見えた。
姉さん、俺も少しは恵恋と恵の役に立てるかもしれない。
この救われない物語に、新たにスタートラインを引けるかもしれないよ。
だけどさ、ちょっとだけ説教が必要だな。
荒療治が、男には必要なんだ。
「おい、恵。」
「なんだよ。」
「歯ぁ食い縛れよ!」
驚いてきょとんとする恵の顔に、俺は容赦なく拳を叩き込んだ。
鈍い音が響き、恵が仰け反る。
だが恵は怒らない。
これも罰の一つだと認めるように、無表情で俺を見る。
本当に、馬鹿だ。
俺も恵も恵恋も、ずっと勘違いをしていた。
誰も互いを悪いだなんて思ってなかったのに、勝手に気持ちを決め付けて罪を背負う。
なら、誰かが許さないといけない。
俺が姉さんに、救われたみたいに。
「目ぇ、覚めたかよ。」
「…何がだ?」
「誰も、アンタを悪者になんてしてないんだよ。俺も姉さんも、俺の両親だって恨んじゃいない。アンタは何も背負う必要はないんだ。」
「俺が…悪くないだと?」
「そうだ、アンタは悪くない。不幸な勘違いが重なって、今の状況を作り出しただけだ。だからアンタが医者を辞めるのも、罪の意識から腐るのも、全部間違いだ。」
「そんなこと、誰が許すんだよ。」
「少なくとも俺は、アンタを許す。そして言う。いい加減不幸面すんな、誰もそんなこと望んでねぇよ。」
俺がそう告げると、恵は初めて怒りだした。
「テメェに許されたとしても、お前の姉は許してないだろうが!」
「ふざけたこと言ってんなよ。いなくなってしまった人が、どうやってアンタを許せるんだ!声も出せない、文字も書けない、そんな相手に許しを請うことが間違いだ。ならアンタがすべきなのは、奥さんや姉さんの分まで懸命に生きることだろうが!」
「チッ、俺にどうしろってんだよ!娘にもまともに接することができない俺が、医者も辞めちまった俺が、今更まともになれってか!」
「舐めたことぬかすな、それくらい乗り越えてみせろよ。医者はまた始めればいい、ブランクは補えばいい。それにな……恵恋からだけは、まだ許してもらえんだろうが。」
恵が意外なことを言われたみたいに、大きく目を見開いた。
「恵恋はずっと寂しがってる、元の関係に戻りたいと願ってるんだ。でもお互いに無理だと勘違いして、歩み寄れてないだけなんだ。もしアンタがまだ罪の意識を感じているなら、アンタから恵恋に歩み寄れ、恵恋をこれ以上寂しがらせるな!………恵恋の父親は、アンタしかいないんだから。」
俺の言葉は、恵に届いただろうか?
今の俺にできること、できただろうか?
正しいやり方じゃなかったかもしれない、他に賢いやり方があっただろう。
だけど俺は、本気の言葉をぶつけることにした。
だって二人とも、決して互いを嫌いってわけじゃないんだから。
静かに、恵の言葉を待つ。
頼むよ、届け!
「………チッ、クソガキに説教されるとは、俺もとことん腐ってたらしいな。」
恵の表情は、何かが吹っ切れたみたいに苦笑へと変わった。
俺は頷いて、笑いながら答える。
「はっ、そう思うなら変われよ。恵恋はもう、変わり始めてるぞ。娘に負けてばっかいるなよ。」
「黙ってろクソガキ、これ以上俺に高説垂れるなよ。」
いつもの口調で悪態を吐いて、恵は背を向けた。
「そうか…許されたんだな俺は。………ありがとよ、真也。」
「おい、何か言ったか?」
「何でもねぇよアホ、ちょっと便所に行ってくるだけだ。」
「……あぁ、なら恵恋と待ってるよ。あんま遅くなるなよ?」
「うるせぇよ。何年分も溜まってんだ、少しくらい長くても待ってろよボケ。」
そう言って恵は歩きだした。
大切なスタートライン。
俺には恵が、それを踏み越えた気がした。
だけど大丈夫だろう。
大切なものを守るとき、男は一番強くなれるはずだからな。
Eko Side
わたしは隠れて、歩いていく父親の背中を見ていた。
その横顔は笑っていて、そんな笑顔を見たのは本当に久しぶりです。
まだお母さんが生きていて、お父さんも一生懸命で、わたしと三人で仲良く暮らしていた頃以来。
そうやって、また笑ってくれるのですね。
お母さんはもういないけど、今度は二人で、温かな家族になれるんですね。
「う………ぐず。」
自然と涙が零れ落ちた。
まったく、今日は何度泣かされるんでしょうか。
一部始終は見ていない。
ですが真也さんが何を思い、何をしてくれたのかは解ります。
それがわたしたちにとって、どれだけ救いになったことか。
でもきっと、あなたは何でもないことみたいに、いつもと変わらない接し方をしてくれるのでしょうね。
「本当に………ありがとうございます、真也さん。」
真也さんが繋いでくれたわたしたちの願い。
その気持ちに答えるためにも、わたしたちは変わらなければ。
…素敵ですよ真也さん。
もっとこの想いが強くなりました。
でも、あなたは悪い人です。
こうやってたくさんの女の子を泣かせてきたんでしょうね。
叶わない想いを抱かせて、きっとわたしはまた泣くんですよ?
「でもそんな真也さんが、わたしは本当に大好きなんですよ。」
最後は小さく、声に出す。
それは離れた真也さんには届かないけれど、わたしの気持ちは込めましたから。
ありがとう真也さん。
お陰で、頑張っていけそうです。
わたしはゆっくりと歩きだす。
さぁここからは、新生冴塚恵恋ですよ。
それから暫らくして帰ってきた恵は、今まで以上に罵詈雑言を浴びせてきた。
でも真っ赤に腫れた目を見ると、不思議と笑っていた。
そんな俺に更に怒った恵と、俺たちを見て笑う恵恋。
本当に良かったと、心からそう思う。
なぁ姉さん、俺も今回のことで変われたか?
ささやかで、だけど大切な願い。
少し、羨ましいよ。
俺には親父も母さんも、姉さんだっていないから。
でもだからこそ、俺の気持ちは届いたのかもな。
うん、そう考えることにするよ。
「真也さん。」
恵恋が俺の服を引っ張る。
「どうした?」
「わたし、あのお店に行きたいです。」
恵恋が指差したのは、可愛らしい洋服が売っている店だ。
俺は頷いて歩きだそうとすると、恵恋がまた服を引っ張っる。
「あの…お父さんと選んできます。だから…。」
「あぁ、じゃあ俺はあっちで待ってるよ。」
「ごめんなさい、ありがとうございます。」
恵恋は優しく微笑んで、とことこと恵の元へ歩いていく。
恵は俺を見てばつが悪そうに頭を掻くと、ぷらぷらと手を振って恵恋についていった。
ったく、素直に喜べっての。
俺は適当なベンチに座ると、手持ち無沙汰に周りを見渡した。
まぁ、残されたんだから仕方がないが、暇だな。
特に暇潰しの道具も持ってないし、できることと言えば過ぎ行く人々を眺めていることだけ。
小さい子供を連れた親子、仲良く手を繋いで歩く老夫婦。
休日だけあって人も多いな、これは暫く時間が潰せそうだ。
そしてボーッと眺めること、どれくらい経っただろうか。
傍を通り過ぎた男たちが、後ろを振り返りながらはしゃいでいた。
「なあなあ、今すれ違った女の子めっちゃ可愛くなかった?」
「あぁ、あれは凄かったな、思わず二度見したわ。」
ほぉ、それほどの人とは凄いんだろうな。
何ともなしに首をそちらに向ける。
そして視界に映った人物に、俺はすぐにでも逃げ出したくなった。
本来今日は会わないはずの人物が、何やら俺の姿を認めると全速力でこちらへと向かってきている。
反射的に立ち上がろうとして、しかしすぐに諦めると大人しく座った。
どうせ逃げても後で家に押しかけてくるんだろうし、ここは体力温存のために受け止めるが吉か。
俺は溜め息一つ、走ってきて最後に大きく飛び込んできた人物を抱きとめた。
「よぉ莉乃姉、今日は家の手伝いじゃなかったのか?」
「真也だー!会えないと思ってた真也だー!」
ダメだ、人の話を聞こうとしない。
「ところで莉乃姉、こんなところで何してんだ?」
「それはあたしの台詞だ、真也こそ何をしてるんだ?…はっ、まさかあたしにプレゼントを買ってくれるとか!?」
「いや、別にそういうわけじゃないんだが……。」
「ありがとう真也!」
「…勝手にお礼を言って買うことを強制しないでくれるか?」
「あっはっは!いやぁ嬉しくってついな!」
心から会えて嬉しいと言わんばかりに、莉乃姉は俺の腕を抱きしめると恍惚の表情を浮かべた。
「あぁ、やっぱり真也を抱きしめると落ち着く。」
「俺は莉乃姉に抱きつかれると落ち着けない、頼むからちょっと離れてくれ。ほら、周りの人に迷惑だろ。」
俺がそう言うと、驚くほど素直に莉乃姉は俺から離れた。
「それもそうだな、それにまだ買い物の途中だ。真也は今暇なのか?」
「悪いが先客がいるんでな、莉乃姉には付き合えないぞ。」
「む、それは残念だ…物凄く残念だ。」
「夜には家にいるだろうから、まぁ莉乃姉が来たければ来ても構わないからさ。」
「……今の台詞、確かに聞いたぞ!」
「は?……ちょっと待て、何か勘違いしてないか!?」
「夜の一人暮らしのお部屋に女の子をご招待、これはもうあたし、全力で準備していくしかないだろう!」
一気にハイテンションモードに突入した莉乃姉は、もう一度俺を思いっきり抱きしめると潔く離れた。
そして嬉しそうな笑顔になると、俺に買い物のリストを見せながら歩いていく。
「それじゃあな真也、まだこんなに買い物が残ってるからそろそろ仕事に戻るよ。」
「ちょっと待て、チラッとしか見えなかったけど結構な数じゃないか?」
「あぁ、まぁ仕方ないさ。二人も今頃色んな場所でお買い物をしてるだろうから、あたしだけ真也と楽しむわけにはいかないしな。」
「そうか、悪いな手伝えなくて。」
「いいんだ、その気持ちだけで十分元気になったぞ!ありがとな真也、会えて嬉しかったぞー!」
スキップでも踏みだしそうな勢いで、莉乃姉は最後までこちらに振り返りながら人混みに紛れていった。
頼むから前見て歩いてくれ、怪我されたら嫌だぞ。
俺は嵐が通り過ぎたように溜め息を吐く。
「どうしたんですか真也さん、なんだか随分疲れていますね。」
「ん、終わったのか?」
声がして振り返ると、紙袋を携えた恵恋が恵と並んで立っていた。
…随分と大きな紙袋なんだが、一体どれだけ買ったんだ。
「えぇ、お父さんが買ってくれました。」
「へぇ、それはよかったじゃないか。」
「う、はい、よかったです。」
何故か途切れ途切れに言葉を紡ぐ恵恋の後ろで、恵が俺を睨みつけていた。
「なんだよ、俺が何かしたか?」
「うるせぇ、余計な詮索したらぶっ飛ばすぞ。」
「はいはい、別に何も訊いたりしないっつうの。」
「それより、先ほど誰かと一緒にいませんでしたか?」
「あぁ、なんか偶然莉乃姉が買い物に来てたみたいでさ、大量の買い物リストを持って向こうに言ったぞ。」
「大量のリスト?」
恵恋が不思議そうに首を傾げるのを見て、俺は莉乃姉の家のことを教える。
最近遊んでばかりだったから、今日くらいは家の手伝いをするのだということも。
すると恵恋は盛大に溜め息を吐いて、莉乃姉が向かった方向を指差した。
「まったく、あなたはどうしてそう律儀ですか。」
「は?」
「追いかけてください、今ならまだ小湊さんも店内にいるでしょうから。」
「いや、でもお前らは?」
「俺がもう疲れたから帰る、テメェはその莉乃ってやつを手伝ってやればいい。」
「そうです、わたしたちのことはいいのでさっさと追いかけやがれですよ。」
傲岸不遜な笑みで胸を張る恵恋と、鬱陶しそうに俺を排除しようとする恵。
…ったく、親子揃って似てやがるな。
なら今日はここで引っ込むとするか。
俺はベンチから立ち上がると、二人に別れを告げる。
「それじゃ俺は行くけど、帰り道でまで喧嘩すんなよな?」
「いちいち小言いってんじゃねえ、姑かよテメェは。」
「大丈夫です、まっすぐ帰りますから。」
「そうか、なら俺はここで。」
手を振りながら背を向けて、俺は莉乃姉の元へ歩き出す。
きっとあの二人はもう大丈夫だろう。
最後に振り返ると、恵恋が恵の手を引きながら歩いていく姿が垣間見えた。
うん、よかった。
二人ともこれから大変だろうけど、変わっていけるはずだ。
「あれ、真也だ。」
「よぉ莉乃姉、手伝いにきたぞ。」
「ホントか!嬉しいぞ真也―!」
さぁここからは荷物持ち、だな。
Saedzuka Family Side
二人は夕暮れの街並みの中を、並んで歩いていた。
朝とは違う距離感。
それはいつか三人一緒だった頃、間に母親を挟んでいた距離感だ。
未だ、冴塚優恋がいない現実は辛い。
二人を繋ぐ架け橋だった母親がまだ生きていたら、今とはまるで違う現実があっただろう。
だが恐らくは真也とも、誰とも仲良くなることはなかったはずだ。
どちらがいいのか、それは判断すべき問題ではないだろう。
だが、桐生真也という存在は二人にとって必要だったのかもしれない。
恵恋は手元の紙袋に視線を落とすと、隣を歩く恵に視線を向けた。
「…お父さん。」
「…そうやって呼ばれるの、いつ以来だろうな。」
「……そうですね、確かにずっと呼んでいませんでした。」
「まぁ、それは仕方のないことだ。俺はお前にまともな接し方をしてこなかったんだ、お前が俺を嫌うのも無理はない。」
苦笑しながら荷物を抱え直す恵は、バツが悪そうにそっぽを向く。
「…嫌いなんかじゃ、ないですよ?」
「は?」
驚いた恵は、大切な娘の方を向く。
その横顔は夕陽が眩しくて、一瞬だけ優恋の姿に見えた。
だが、そこには間違いなく、娘としての冴塚恵恋がいる。
「本当に…か?」
「…何度も言わせないで頂けますか?……恥ずかしいんですから。」
今度は恵恋がそっぽを向き、恵は感情を隠すように咳払いした。
ぎこちない雰囲気、だがそれさえもこの二人には奇跡のような時間なのだ。
今までの歪んでしまった日々、作り物の家族ごっこ。
それももう、今日で終わり。
たった一人の少年が、大切な気持ちを繋ぎとめてくれた。
実は凄く近くにあった、でも背中を向けていて気付けなかった。
そんな二人を、真也が振り返らせ、互いの気持ちを認識させる。
他の誰にもできないことだっただろう。
もし真也に出会っていなければ、あの日の夜、恵と真也が再会していなければ、恵恋が仲良しメンバーに入っていなければ、考え始めればきりがないくらいの偶然が重なった奇跡。
そんな奇跡を起こしてくれたことに報いるならば、この距離感をまず直すべきだろう。
二人は願う、本当の家族を。
ゆっくりと二人の距離は縮まり、いつしか二つの影はくっついた。
漸く、冴塚優恋が亡くなってから幾年も過ぎ、漸く手にした絆。
大切にしなければならない。
これから先、きっと何度もまた衝突してしまうこともあるだろう。
だがこうして繋がった絆があれば、再びこの距離を作ることもできるだろうから。
もう真也に頼ることなく、これからもずっと。
「なぁ恵恋。」
「なんですかお父さん。」
「お前、真也のこと好きなんだよな?」
「なっ!?…な、何のことですか?」
「いや、別に隠そうとしなくてもいいだろうが。」
「うるさいですよ!乙女の恋心をガサツに荒らさないでください!」
「痛っ、叩くなっつうの。」
ひとしきり父親を叩いた恵恋は、急にしおらしくなると小さく呟いた。
「……もしですよ、もしですからね。」
「…あぁ、何だ?」
「わたしが真也さんを好きだとして、上手くいくと思いますか?」
小さな、本当に小さな質問。
それは自信を得るためのものか、それとも諦めるためのものか。
恵は暫く考えた後、微笑んで言った。
「……俺は、あいつならお前を任せてもいいと思うがな。」
「答えになってませんよ。」
「お前自身が作り出す可能性を、俺なんかが答えるわけにいくかよ。」
予想外の答えが返ってきた、そんな表情で恵を見上げる恵恋。
恵はそんな恵恋の頭にそっと腕を伸ばすと、優しく撫でた。
父親として、久し振りにするそれらしいこと。
その柔らかな髪の毛に触れるのは、もうどれほど昔のことだろうか。
恵恋は嫌がることなく、その手の平を受け入れていた。
それが恵には泣きたくなるほど嬉しくて、どうしてもっと早く気づけなかったのかと悔やむ。
恵恋は恥ずかしそうに俯いていたが、顔を上げると微笑みを浮かべた。
「そうですね、わたしが作る可能性ですものね。なら、誰にも負けません。たとえあの、小湊さんが相手であっても。」
「はっ、それでこそだな。あのお人好しをしっかり捕まえて来いよ、恵恋ならできるはずだ。」
結局言葉にしてしまう。
だがいいんだろうと、恵は思う。
これは励ましで、父親として娘の幸福を願うのは当たり前のことだ。
今更父親面かとも思うが、今からでもそうしていきたい。
アイツが、その機会をくれたのだから。
むかつくが、今回ばかりは感謝しないといけないだろう。
「本当に…真也さんはお人好しですよね。」
「それに関しては同感だ、あの馬鹿はどんな治療をしても治らないだろうよ。」
「…でも、そんなお馬鹿さんに救われる人もいるんです。」
「…まったくだ、忌々しいが認めるしかないな。」
やがて二人は辿り着く。
診療所の前で、二人は向き合った。
「ただいま、お父さん。」
「…あぁ、おかえり、恵恋。」
新しいスタート。
それを迎えることができて、本当によかった。
願わくばこの時間が、よりよく続きますようにと、二人は玄関の扉を開いた。




