第三部 距離を測る
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十二月も半ばを過ぎると、丸の内の街路樹は完全に葉を落とし、シャンパンゴールドのイルミネーションが夕暮れとともに冷たい舗道を照らし出すようになった。オフィスビルのエントランスを行き交う人々の装いは一段と重くなり、ウールのコートの襟を立てて足早に歩く姿が目立つ。美咲の日常には、いつの間にか小さな、けれど劇的な変化がいくつも紛れ込んでいた。朝、アラームが鳴る十五分前に目が覚める。ベッドから抜け出たあとの身支度の時間が、これまでの倍近くに伸びていた。クローゼットを開け、ハンガーにかかった服を指先で追う。以前なら迷わず手に取っていた、汚れの目立たないダークネイビーのノーカラージャケットや、平坦なグレーのテーパードパンツから手が遠のく。代わりに選ぶのは、顔まわりを柔らかく見せるアイボリーのリブニットや、歩くたびに微かに裾が揺れるダスティピンクのプリーツスカート。
洗面台の鏡の前で、アイラインの引き方をミリ単位で調整する。肌馴染みのいいコーラルピンクのリップを塗り、ティッシュで軽く押さえてから、ほんの少しだけ中央にツヤを足す。ふと我に返り、手鏡を握ったまま美咲は自嘲気味に息を吐き出した。(私、いったい誰に見せるつもりなんだろう)。三十五歳にもなって、まるで高校生のように誰かの視線を気にして浮き足立っている自分が、ひどく滑稽で、同時にどうしようもなく切なかった。胸の奥に灯った小さな火種は、消そうとすればするほど、酸素を求めて激しく燃え広がっていく。プロジェクトは順調に進んでいた。週に二回行われる定例ミーティング、各部署との調整業務、システムの画面遷移テスト。健介と顔を合わせる機会は多かった。彼はいつも変わらず、穏やかな物腰で美咲の意見に耳を傾け、的確な判断を下していく。美咲は、健介と机を並べて作業をする時間が、たまらなく愛おしかった。彼がキーボードを叩く規則正しい音。資料をめくる指先のしなやかな動き。眉間にわずかな皺を寄せて考え込む時の横顔。ふとした瞬間に漂う、清潔な石鹸とわずかな革製品の匂い。そのすべてが、美咲の乾ききっていた五感を、雨上がりの土のように潤していく。けれど、その心地よい時間のすぐ隣には、常に冷ややかな「現実」が横たわっていた。
2
美咲はいつしか、業務連絡にかこつけて健介へメッセージを送るようになっていた。『高橋さん、お疲れ様です。明日の要件定義の変更箇所、添付の通り修正いたしました。ご確認いただけますと幸いです。追伸:先日お話しされていた北欧ビンテージ家具のポップアップストア、週末に東京駅の地下で見かけました。とても素敵な椅子が並んでいました』。送信ボタンを押したあと、美咲はスマートフォンの画面を伏せ、オフィスで一人、心臓の跳ねる音を聞く。業務連絡の仮面を被せなければ、私的な言葉ひとつ送ることができない自分の臆病さがもどかしい。返信は、いつも十五分と経たずに届いた。『相田さん、修正データの迅速なご対応、誠にありがとうございます。完璧です。家具の情報もありがとうございます。東京駅のあのお店ですね、私も気になっていました。相田さんは本当に視野が広くて助かります。今夜から冷え込む予報ですので、お帰りの際は暖かくしてくださいね。それでは、また明日よろしくお願いいたします。 高橋』
画面に表示された文字を、美咲は指先でなぞる。迅速で、丁寧で、温かい。文末には美咲の体調を気遣う一言まで添えられている。けれど、そこには決して破られることのない、完璧な「結界」が張られていた。彼は決して、会話を翌日に持ち越そうとはしない。「今度一緒に行ってみませんか」という誘いの余白を、決して作り出さない。文章の最後には、必ず美しく整った「心地よい終止符」が打たれ、業務上のパートナーとしての境界線が、針の穴を通すような正確さで引き直されるのだ。拒絶されているわけではない。悪意など微塵もない。むしろ、大人の男性としての最大限の誠実さと、プロフェッショナルとしての節度がそこにはあった。だからこそ、美咲はそれ以上踏み込むことができなかった。その優しさは、触れると冷たく跳ね返される、透明な強化ガラスの壁そのものだった。
3
十二月の第三土曜日。美咲は高校時代からの友人である真由美に半ば強引に腕を引かれ、六本木の落ち着いたダイニングバーの個室に座っていた。「美咲、あんた最近ちょっと綺麗になったけど、部屋に引きこもってちゃ意味ないでしょ! 今日は外資系金融と総合商社のエリート集めたんだから、ちゃんとアンテナ張りなさいよ」真由美のけたたましい叱咤を浴びながら、美咲は運ばれてきたスパークリングワインのグラスを指先で弄んでいた。男性陣は、三十代前半から半ばの四人。パリッと糊の効いたオーダーシャツに身を包み、手首には高級時計が光っている。「僕、先期はシンガポール支社にいたんですけど、あっちは本当に税制が合理的で。日本に戻ってくると、稼いだ分の吸い上げられ方がエグくてモチベーション保つの大変ですよ」「わかる! 投資信託も今は国内じゃなくてドル建て一択だしね。相田さんは、資産運用とか興味あります?」
テーブルの上には、トリュフが香るカルパッチョや、熟成牛のグリルが美しく盛り付けられていく。会話は途切れることなく、年収、乗っている車、タワーマンションの階数、次の休暇で行く海外リゾートの話題へと流れていく。彼らの語り口は軽快で、自信に満ち、未来に対する野心とエネルギーが溢れ出していた。二十代の頃の美咲なら、こうした場に器用に馴染み、男性たちの自尊心をくすぐるような相槌を打ち、「素敵な生活ですね」と微笑んでいたはずだった。それが「大人の女のスマートな処世術」だと信じていたからだ。けれど今の美咲は、まるで言葉の通じない異国の市場に放り出されたような、強烈な居心地の悪さを感じていた。(……この人たちは、何と戦っているんだろう)。彼らの言葉はきらびやかで、刺激的だ。けれどその言葉の裏側には、「他者からどう見られるか」「どれだけ社会的な勝者であるか」という、際限のない承認欲求と焦燥が透けて見えていた。自分を大きく見せるための鎧を着込み、ステータスという名の盾を掲げて、彼らは必死に誰かと競い合っている。
美咲の脳裏に、不意に健介の姿が浮かんだ。週末、埃まみれになりながら、誰に見せるためでもなく、ただ自分の手の中で傷ついた木製の椅子を磨き続ける健介の横顔。怒り狂う営業部長の前で、自分の非を静かに認め、相手の痛みに寄り添おうとしていた健介の眼差し。健介は、社会的な勝ち負けのリングからすでに降りていた。他人の評価に自分の価値を委ねるのではなく、自分自身の内側にある小さな尊厳と手触りを、慈しむように生きている。目の前の男たちが饒舌になればなるほど、健介の寡黙な沈黙と、あの静かな佇まいが、美咲の中でどれほど尊く、かけがえのないものだったかが痛いほど浮き彫りになっていく。「相田さん、さっきからあんまり喋ってないですね? お酒、弱かったですか?」隣に座っていた商社マンの男が、品定めするような視線で美咲の顔を覗き込んできた。「あ……すみません。少し、お酒が回ってしまったみたいで」「総務部でしたっけ? 毎日決まった仕事の繰り返しって、楽で羨ましいですよ。僕なんて毎日が勝負の連続だから、家庭には癒しだけを求めたいタイプなんですよね」。悪気のない、けれど無意識の傲慢さが滲むその言葉に、美咲の心の中でプツンと何かが切れた。「……申し訳ありません。少し風に当たってきます」。美咲は化粧室に行くふりをして席を立ち、伝票の自分の分のお金を真由美のバッグの隙間に差し込むと、コートを抱えて逃げるように店を飛び出した。
夜の六本木の交差点。冷たい風が、薄手のストッキング越しに美咲の足を容赦なく冷やす。行き交う人々は皆、誰かと腕を組み、華やかな夜の街へと消えていく。美咲はガードレールに寄りかかり、震える手でバッグからスマートフォンを取り出した。連絡先の画面を開く。『高橋 健介』。親指が、通話ボタンの上で止まる。(声が聞きたい)(今すぐ、あの穏やかで低い声で、私の名前を呼んでほしい)。けれど、できるはずがなかった。休日の夜に、突然部下の女性社員から電話がかかってきたら、彼はどれほど困惑し、警戒するだろうか。彼が守り続けている静かな聖域を、自分の身勝手な寂しさで土足で踏み荒らすことなど、決して許されない。美咲はスマートフォンを胸元に抱きしめ、冬の夜空を見上げた。街の明かりにかき消されて、星ひとつ見えない。もう、以前の自分には戻れないのだと、美咲は痛切に悟っていた。「普通の幸せ」や「世間的な正解」に自分を誤魔化して生きる道は、完全に閉ざされてしまった。あの人のいない世界は、どれほど華やかであっても、美咲にとってはただの荒野でしかなかった。
4
週明けの火曜日、残業を終えた美咲は、誰もいなくなった給湯室の三面鏡の前に立っていた。蛍光灯の青白い光が、残酷なまでに鮮明に、三十五歳の自分の現実を映し出している。ファンデーションが浮き上がった目元の小じわ。疲労でくすんだ肌。口角の周りに刻まれ始めた微かな影。「……もう、若くないんだよね」。声に出すと、胸の奥がキリキリと痛んだ。健介が保ち続ける、あの穏やかで完璧な距離感。それは、彼の大人のマナーであると同時に、美咲に対する「女としての興味のなさ」の証明なのではないか。もし自分が二十代半ばの、木村のように瑞々しく無邪気な後輩だったなら、彼はあの壁を少しだけ緩めてくれたのだろうか。それとも、自分の性格が、智也が言ったように「生真面目で、隙がなくて、息が詰まる」から、彼はプライベートに踏み込ませてくれないのだろうか。
鏡の中の自分を見つめていると、これまで十三年間、必死に真面目に生きてきた自分のすべてが、否定されているような錯覚に囚われる。仕事を真面目にこなし、部屋を綺麗に整え、誰にも迷惑をかけないように生きてきた。その結果が、この救いようのない孤独と、誰からも選ばれない空虚感なのだろうか。ポロポロと、大粒の涙が頬を伝って落ちた。美咲は蛇口をひねり、冷たい水で何度も顔を洗った。タオルで顔を拭っても、涙は止まらなかった。彼の優しさが、痛い。彼が微笑んでくれるたびに、彼が丁寧にメールを返してくれるたびに、その優しさが分厚い防弾ガラスのように美咲の前に立ちはだかり、彼女の心を打ちのめす。(こんなに苦しいなら……出会わなければよかった)。そう思おうとしても、心は嘘をつけなかった。どれほど壁に阻まれようと、どれほど自分が惨めに思えようと、美咲の魂は、あの静かで不器用な男の存在を、狂おしいほどに求めていた。




