第二部 違う律動
1
月曜日の午前九時五十分。十一月半ばの冷え込んだ空気が、本館三階の廊下に薄く張り詰めていた。窓の外では、冬の気配を孕んだ低い灰色の雲が、丸の内のビル群の合間をゆっくりと流れている。美咲は「第三会議室」のすりガラスのドアの前で立ち止まり、タイトスカートの皺を指先で払った。胸ポケットに差した三色ボールペン、バインダーに挟んだ三十人分のシステムヒアリングシート。準備は完璧なはずだったが、胃のあたりに鉛を呑み込んだような重苦しい緊張が居座っている。新しいプロジェクト。外部の人間。未知の波風。これまで十三年間、自分の周囲に張り巡らせてきた「平穏な防壁」の外側に、自ら足を踏み出そうとしていることへの警戒心が、身体の奥で微弱な警告音を鳴らしていた。深く息を吸い、美咲はドアを軽く二度ノックして開けた。「失礼いたします。総務部の相田です」
会議室の中には、すでに課長と、見慣れない二人の男性の姿があった。一人は二十代半ばと思しき、ややサイズ感の合っていないスーツを着た若いエンジニア。端末のセットアップに追われているのか、キーボードを忙しなく叩いている。そしてもう一人が、窓辺に背筋を伸ばして立ち、手元の資料に目を落としていた男性――高橋健介だった。「あ、相田さん。ちょうどよかった。こちらが今回のシステム刷新をお願いする、フューチャー・ソリューションズの皆さんだ」。課長の声に、窓辺の男性が顔を上げた。美咲の視線と、彼の視線が正面からぶつかる。「初めまして。プロジェクトマネージャーを務めます、高橋です」。健介が歩み寄り、わずかに腰を折って名刺を差し出した。両手で名刺を受け取った美咲は、その差し出された指先と、彼の佇まいに一瞬で目を奪われた。
四十歳、と事前に渡されていたプロファイルにはあった。けれど、そこには四十代の男性にありがちな、社会的な地位を誇示するような威圧感や、若く見せようとする気負いのようなものが一切見当たらなかった。仕立ての良さが窺えるチャコールグレーのウールジャケットに、ノーネクタイの清潔なサックスブルーのオックスフォードシャツ。襟元も袖口も、過剰な糊付けではなく自然に整えられている。髪にはこめかみのあたりにわずかな銀色が混じっていたが、清潔に切り揃えられ、年齢を隠すことなくそのまま受け入れている潔さがあった。そして何より、その「眼差し」だった。相手の能力や立場を値踏みするようなビジネス特有の鋭さはなく、深い湖の底のように静かで、柔らかい。けれど、決して頼りなげなのではない。地面の奥深くまでしっかりと根を張った大樹のような、揺るぎない重心の低さを感じさせた。
「総務部の相田美咲と申します」美咲は名刺入れを胸の高さに掲げ、名乗りを返した。「社内の業務フローの確認や、各現場からの意見の取りまとめを担当いたします。システムの専門用語などには疎く、ご不便をおかけすることもあるかと思いますが、精一杯務めさせていただきます」。美咲がいつも通り、過不足のない「防衛的な挨拶」を終えると、健介はふわりと目元を緩めた。目尻に刻まれた細かな笑いじわが、彼の表情に温かな陰影を与える。「恐れ入ります、相田さん。でも、心配なさらないでください。システムを新しくする時に一番大切で、一番難しいのは、プログラムのコードを書くことではなくて、現場で毎日その画面を開く方々の『手の感触』や『戸惑い』を汲み取ることなんです。社内の血流を一番よくご存じの相田さんが窓口になってくださるなら、これほど心強いことはありません」。その声は、低く、穏やかで、会議室の冷たい空気を柔らかく包み込むような響きを持っていた。世辞や追従の軽さは微塵もない。相手の存在と役割を、丸ごと受け止めるような絶対的な敬意。美咲の胸の奥で、長いあいだ動くことのなかった心の針が、微かに、けれど確かに跳ねた。
2
プロジェクトが本格的に動き出すと、美咲の日常はそれまでの平坦なルーティンから激変した。朝一番の進捗確認、各支店から上がってくる膨大な帳票フォーマットの精査、開発チームとの要件定義のすり合わせ。これまで時計の針の進みばかりを気にしていた八時間の勤務時間は、めまぐるしい判断と対話の連続によって、瞬く間に過ぎ去っていくようになった。そして美咲は、高橋健介という人間の持つ、独特の「仕事の律動」を目の当たりにすることになる。
プロジェクト開始から三週間が過ぎた、木曜日の午後。社内でも一、二を争う強面で知られる営業第一部長の怒声が、第二会議室の防音扉を突き破ってフロアに響き渡った。「――だからね! こっちは毎月何億という数字を背負って外を走り回ってんだよ! 事務作業の手間が二倍に増えて営業効率が落ちたら、お宅の会社が売上の穴埋めをしてくれるのかって聞いてるんだ!」。新システムの仕様案に対し、現場の入力量が増えることへ営業部が猛反発したのだ。美咲が胃をキリキリと痛ませながら、追加の比較資料を抱えて会議室に入ると、室内は凍りつくような緊張感に包まれていた。営業部長は顔を真っ赤にして腕を組み、テーブルを指先で苛立たしげに叩いている。同席していた開発側の若手SEは完全に萎縮し、青ざめた顔で視線を落としていた。
だが、その嵐のただ中にあって、健介だけは違っていた。健介はテーブルの上に両手を自然に重ね、営業部長の激しい言葉を、途中で遮ることも、怯むことも、言い訳を挟むこともなく、ただ静かに受け止めていた。それは決して「嵐が過ぎるのをやり過ごす」ための無気力な沈黙ではなかった。相手がどれほどのプレッシャーを抱え、何を恐れて怒っているのかを、全身全霊で聞き届けようとする沈黙だった。
営業部長の荒い息遣いだけが響く中、健介は五秒ほど間を置いた。そして、決して声を荒らげることなく、低く、染み渡るような声で口を開いた。「部長のおっしゃる通りです。営業の皆さんが顧客と向き合う時間を一分でも奪うようなシステムなら、どれほど最新の技術を使っていても、導入する価値はありません」「……え?」予期せぬ全面的な肯定に、営業部長が拍子抜けしたように眉を上げた。「今回の設計は、経理側での集計ミスをゼロにすることを優先するあまり、最前線で動く営業の方々の負担への配慮が完全に欠落していました。私たちの視野が狭かったことを、まずお詫びいたします」。健介は深く、淀みなく頭を下げた。それから顔を上げ、手元の資料をめくることなく、まっすぐに部長の目を見つめた。「ですが部長、営業の皆さんが月末の金曜日に、深夜まで残業して手書きの伝票と格闘されている現状も、私たちは何とかして変えたいんです。相田さん、先ほどまとめていただいた、各支店の営業活動のタイムスケジュールを見せていただいてもいいですか?」
健介から静かに視線を向けられ、美咲はハッとしてバインダーを開いた。「あ……はい。こちらです。営業部の皆さんの移動時間と、日報作成にかかる平均時間をグラフ化したものです」「ありがとうございます」健介は美咲の手元から資料を丁寧に受け取ると、部長の前に滑らせた。「現場の入力項目を増やすのではなく、スマートフォンから移動中に音声や選択式で入力できるインターフェースに変更します。そうすれば、帰社後の事務作業は現行の半分以下になります。営業の皆さんの時間を奪うのではなく、直帰できる時間を毎日三十分創出する。その代わり、顧客データの連携だけは担保させていただきたい。……部長、現場の皆さんのために、もう一度だけ設計のチャンスをいただけないでしょうか」。怒りに震えていた営業部長の肩から、すうっと力が抜けていくのが目に見えて分かった。部長は鼻から長く息を吐き出し、頭を掻いた。「……最初からそう言ってくれりゃいいんだよ。高橋さん、あんた現場のこと、ちゃんと見てくれてるんだな」「現場の方々が一番の主役ですから。ご指摘、本当にありがとうございました」。健介は再び柔らかく微笑んだ。会議室を出たあと、廊下の自動販売機の前で、美咲は思わずへたり込みそうになる足を押さえながら呟いた。「高橋さん、すごいです……。営業部長、社内でも誰も意見できないくらい気難しい方なのに」。健介は缶珈琲のボタンを押し、ガコンと落ちてきた缶を取り出しながら、いたずらっぽく笑った。「すごくなんかないですよ。足、少し震えてましたから」「えっ、本当ですか?」「本当です。怒鳴られるのは誰だって怖いです。でもね、相田さん。理不尽に怒っている人って、大抵は『誰も自分の苦しみを分かってくれない』って孤独を感じているだけなんですよ。正論や理屈でねじ伏せても、その人の心に傷が残るだけです。まず相手の痛みを全部受け止めて、同じ景色を見てから、一緒に歩く道を探す。それが、人と仕事をするってことだと思うんです」。そう語る健介の横顔に、美咲は息を呑んだ。かつて付き合っていた智也や、職場の若い男性社員たちが見せていた「仕事への情熱」とは、次元が違っていた。彼らは皆、どれだけ自分が優秀か、どれだけ効率的に成果を出せるかという「自己の証明」のために戦っていた。けれど、健介の根底にあるのは、他者への深い想像力と、人間という不完全な存在に対する無条件の慈しみだった。その静かな強さに触れた瞬間、美咲の胸の奥で、何かが小さく崩れ落ちていくような感覚があった。
3
十二月に入り、街は急速にクリスマスと年末の慌ただしさに染まり始めていた。プロジェクトの要件定義フェーズが無事に完了した金曜日の昼下がり、総務課長の発案で、開発チームと総務部の慰労を兼ねたランチ会が開かれることになった。訪れたのは、オフィス街の路地裏にある、落ち着いた佇まいの京料理の小料理屋だった。掘りごたつの座敷に八人が座り、彩り豊かな松花堂弁当が運ばれてくる。若手のSEや木村たちが「年末年始の休み、どうします?」「旅行行きたいですよね」と賑やかに会話を弾ませる中、美咲の斜め向かいに座った健介がお茶を静かに啜っていた。「そういえば高橋さんって、休日は何されてるんですか? いつも物腰が柔らかいから、何か優雅な趣味とかありそうですけど」木村が唐揚げを箸でつまみながら、無邪気に尋ねた。
健介はお椀の蓋を置き、少し照れたように人差し指で鼻の頭を掻いた。「優雅なんてとんでもないよ。大体は、埃まみれになって古い家具を直してるかな」「家具、ですか?」美咲は思わず身を乗り出して問い返していた。「うん。骨董市とか、解体される古い家から引き取られてきたような、傷だらけの木製家具を買ってくるんだ。脚のほぞが抜けかけてたり、天板のニスが白く濁ってたりして、誰も買わないような捨て値のやつをね」「えっ、それをご自分で修理されるんですか?」木村が驚いたように目を丸くする。「そう。まず全部解体して、古い接着剤を削り落として、組み直すんだ。それから、ひたすらやすりで木肌を磨く。最初は目の粗い紙やすりで、深い傷や汚れを削り落として、だんだん目の細かいやすりに変えていく。何日もかけて丁寧に磨いていくとね、死んでいたように見えた木が、すべすべの柔らかい肌を取り戻すんだよ」。健介の語り口は、まるで遠い異国の美しい物語を語るかのように、静かで熱を帯びていた。周囲の若手たちも、いつの間にか箸を止め、彼の言葉に引き込まれている。「最後に、植物性のオイルを少しずつ塗り込んでいくんだ。そうすると、木がぐんぐんと油を吸い込んで、新品の家具には絶対に出せない、深くて温かい飴色の艶が浮かび上がってくる。『ああ、この木はこれまで何十年も、誰かの生活の傷を受け止めて生きてきたんだな』って。所々に残る染みや打痕さえも、その家具が生きてきた証のように思えて、すごく愛おしくなるんだよね」
その話をする健介の瞳には、少年のように濁りのない、純粋な光が宿っていた。社会的なステータスを見せつけるためでもない。誰かに認められるためでもない。ただ、傷つき打ち捨てられたものと静かに向き合い、自らの手で再び命を吹き込むその時間を、彼は魂の底から慈しんでいる。美咲は、胸の奥がきゅっと締め付けられるような感覚を覚えた。彼が直しているのは、単なる家具ではないのではないか。彼自身が人生の中で負った傷や、壊れてしまった何かを、その静かな作業を通じて、一つひとつ丁寧に手当てしているのではないだろうか。「相田さんは、お休みの日はどんな風に過ごしてるんですか?」不意に健介から柔らかく視線を向けられ、美咲はハッとして姿勢を正した。「私……ですか? 私は、本当に何も……。たまにヨガに行ったり、本を読んだり、部屋の掃除をしたりするくらいで……人に誇れるような趣味は、何もなくて」。自分の声が、居心地悪そうに小さくなっていくのが分かった。健介の持つ豊かな時間の密度に比べて、自分の休日のなんと空虚で、退屈なことか。ただ部屋を無機質に掃除し、傷つくことを恐れて殻に閉じこもり、淡々と時間を消費しているだけの人生。
すると、健介は美咲の卑屈な空気を優しく包み込むように、首をゆっくりと横に振った。「自分の部屋を綺麗に整えて、静かに本を読む時間。……それって、すごく豊かで贅沢なことだと思いますよ」「え……?」「相田さんの作る書類や、プロジェクトの調整を見ていていつも思うんです。隅々まで細やかな気配りがあって、決して雑なところがなくて。それはきっと、相田さんが自分の生活を、自分自身の時間を、とても大切に守って生きているからなんだろうなって」。――自分の生活を、自分自身の時間を、とても大切に守っている。健介の言葉が、美咲の胸の最も柔らかい部分に、温かい水のように染み渡っていった。誰も認めてくれなかった。前の恋人からも「ちゃんとしすぎて息が詰まる」と切り捨てられ、自分自身でも「刺激のない、空っぽの人間」だと蔑んでいた、自分の静かな日常。それを、この人は「大切に守られた、贅沢で豊かなもの」として、真っ直ぐに肯定してくれたのだ。視界がわずかに滲みそうになり、美咲は慌てて熱いお茶を口に含んだ。喉を通る温かさが、胸の奥深くに長年張り詰めていた氷を、静かに、確実に溶かしていくのを感じていた。
4
その日の夜、美咲はいつものように部屋へ帰り着き、玄関の明かりをつけた。いつもと同じ、物音ひとつない静寂。けれど、部屋の空気が、昨日までとは決定的に違って感じられた。コートを脱ぎ、キッチンへ向かう。棚から、あの藍色の益子焼のマグカップを取り出す。ケトルでお湯を沸かし、珈琲を淹れる。ドリッパーから落ちるポタポタという規則正しい音、部屋に広がる香ばしい豆の匂い。美咲はマグカップを手に取り、リビングのローテーブルの前に腰を下ろした。オーク材のテーブルの木目を、指先でそっとなぞってみる。家具を直すと言っていた、健介の少し骨ばった、けれど温かそうな手のひらを思い出す。(あの人は、どんな部屋で、どんな風に家具を磨いているんだろう)。これまで、他人の私生活に踏み込むことを頑なに恐れていたはずだった。他人の感情に巻き込まれず、自分の領域を守ることだけが、安全に生きていくための唯一の知恵だと思っていた。けれど、健介のあの静かな眼差しと、穏やかな声が、頭から離れない。彼の話す言葉の端々に滲み出ていた、深い孤独と、それを乗り越えた先にある慈しみ。彼が四十年間で見てきた景色を、もっと知りたい。彼が大切にしている時間に、少しでも触れてみたい。美咲はマグカップに両手を添え、ふうと息を吹きかけた。立ち上る白い湯気の向こうで、部屋の隅に置かれた観葉植物の葉が、エアコンの微かな風に揺れている。長年、完全に止まっていた美咲の心の振り子が、違うリズムで、力強く揺れ始めていた。それは、平穏という名の凍土に穿たれた、小さくも決定的な亀裂だった。




