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新しい歩幅で  作者: 久遠 睦


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4/6

第四部 優しさという壁

1

十二月の最終週、オフィスは年内納めの業務と大掃除の慌ただしさに包まれていた。プロジェクトの第一フェーズである基本設計書の承認が無事に下り、フロアの緊張感もようやく一段落を見せていた。夕方五時半を過ぎた頃、美咲は自席で最終データのアーカイブ作業を行っていた。同僚たちが「お先に失礼します」「良いお年を」と次々にコートを着てオフィスを後にしていく。フロアの蛍光灯が半分落とされ、静寂が戻り始めた頃、背後から聞き慣れた静かな足音が近づいてきた。「相田さん、まだ残っていらしたんですね」。振り返ると、健介がチャコールグレーのウールコートを腕に掛け、柔らかな表情で立っていた。手には二本の温かいペットボトルが握られている。「あ、高橋さん。お疲れ様です。データの格納だけ終わらせてしまおうと思いまして」「いつも丁寧なお仕事、本当に助かります。……あの、もしあと五分だけお時間があれば、温かいものでも飲みませんか。給湯室が空いているので」。美咲の胸が、トクンと小さく跳ねた。彼から業務外の誘いを受けるのは、これが初めてだった。けれど、彼の穏やかな笑顔の奥に、いつもとは違う張り詰めた緊張の色が潜んでいるのを、美咲は見逃さなかった。

2

薄暗い給湯室。換気扇が低く唸る音だけが、静まり返った空間に響いていた。健介は手にした温かいほうじ茶のボトルを、美咲の冷えた手の上にそっと乗せた。プラスチック越しに伝わる熱が、強張っていた美咲の指先をじんわりと温める。「ありがとうございます」「いえ。毎日遅くまでお付き合いいただいて、感謝しています」。健介は流し台の縁に軽く背を預け、自分の手元の缶珈琲を開けた。プルタブの乾いた音が響く。彼はそれを一口飲み、視線を床のアスファルトタイルへと落とした。その横顔には、何か重い荷物を自ら背負い直すような、痛々しいまでの覚悟が滲んでいた。

「相田さん」健介が静かに切り出した。その声は、いつもより一段低く、掠れていた。「最近の私の態度で……相田さんを惑わせたり、余計な期待や不安を抱かせてしまっていたなら、本当に申し訳なく思っています」。美咲は息を呑み、ペットボトルを握る手に力を込めた。心臓が警鐘を乱打し始める。「君が私に向けてくれている感情……気づかないふりをしていました。でも、このまま曖昧に業務の距離感を保ち続けるのは、相田さんの誠実さに対して、あまりにも不誠実だと思ったんです」「高橋さん、私は――」「言わせてほしい」健介は遮るように、しかしどこまでも優しく美咲の言葉を制した。彼の瞳が、まっすぐに美咲の視線を受け止める。その奥には、深い悲哀と、自らを罰し続ける男の冷たい諦念が渦巻いていた。

「相田さんは、本当に素晴らしい女性です。仕事に対する真摯さも、周囲の痛みに気づける優しさも、心から尊敬している。……そして、三十五歳という年齢も含めて、君はまだ十分に若く、これから何にでもなれる可能性がある」「…………」「知っているかもしれないけれど、私は一度結婚に失敗しています」健介は自嘲するように口元を歪めた。「三十代の半ばでした。元妻は、子供を強く望んでいた。でも当時の私は自分の仕事を守ることに必死で、彼女の孤独や焦燥に寄り添うことができなかった。すれ違いを修復する知恵も勇気もなく、最後は互いを罵り合って、取り返しのつかない傷を負わせ合って別れました。……家庭を築く器も、誰かを幸せにする資格も、私にはなかったんです」。給湯室の冷たい空気が、二人の間に重く横たわる。「離婚した時、私は自分の人生に一つの区切りをつけました。もう誰の人生も背負わない。一人で、ひっそりと、自分の手で直せる小さな世界だけで生きていく。それが私の選んだ責任であり、身の丈に合った生き方なんです。……でも、相田さんは違う」。健介は一歩、美咲に近づいた。その眼差しには、痛切なまでの懇願が宿っていた。「相田さんには、これから誰かと出会い、子供を産み、温かい家庭を築いていく未来がある。世間が言う『普通の幸せ』を手に入れる資格が、君には十二分にある。……私のような、一度壊れて欠けてしまった人間が、君の大切な未来を奪ってはいけないんです」

3

その言葉を聞いた瞬間、美咲の胸の奥で、カチリと何かが音を立てて外れた。彼が築いてきたあの分厚い壁の正体。それは美咲への拒絶ではなく、彼女の未来を勝手に思い描き、自らを「傷物」として身を引くことで彼女を守ろうとする、あまりにも不器用で、自己犠牲に満ちた優しさだったのだ。彼が語る「子供のいる温かい家庭」「普通の幸せ」。それは、美咲がずっと息苦しさを感じ、前の恋人と別れる原因となった、あの「世間が作った幸せのテンプレート」そのものだった。健介は、美咲が何に苦しみ、何を求めて生きているのかを知らないまま、世間の物差しで彼女の未来を定義し、勝手に諦めさせようとしている。

美咲の目から、ツッと熱い雫が零れ落ちた。けれどそれは、振られた悲しみの涙ではなかった。胸の奥から激しく噴き上がってきたのは、自分と彼を縛り付ける理不尽な「規範」への怒りと、目の前にいるこの愛おしい男への、揺るぎない決意だった。「……高橋さん」美咲はペットボトルを両手で強く抱き締め、涙を拭うこともせず、顔を上げた。「私の未来を、あなたが勝手に決めないでください」。健介が驚愕に目を見張る。「おっしゃりたいことは、全部分かりました。でも……私の気持ちは、そんな綺麗事の言葉ひとつで引き下がれるようなものじゃありません。ちゃんと、私の言葉で伝えます。……近いうちに、二人で食事に行っていただけませんか」。健介は言葉を失い、唇を震わせた。美咲の瞳に宿る、鋼のように強靭な光に圧倒されたように、彼はやがて小さく、絞り出すように頷いた。「……分かりました」。優しさという名の分厚い壁。その向こう側で膝を抱えて震えている高橋健介という男の魂を、必ずこの手で連れ出してみせる。美咲の心の中に、生まれて初めて、誰かのためではなく自分自身のために燃え上がる、確固たる覚悟の火が灯っていた。


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