2 手の怪我
日が照らされた明るい草原、山の中、椿はヴィルヘルムとともに馬をかけた。
「どうだ。都会ではこういうことは滅多に味わえない」
並んで馬を歩かせるヴィルヘルムは椿に声かけした。
椿は改めてロートバッハの景色をみた。
青い空に、緑の草原――涼やかな風が心地よい。
レンガ作りの建物、土煙、煙突からあがる暗い空気が目立つ都市とは違う澄んだ景色であった。
「本当はヨアヒムにいたときもこうして馬駆けを楽しみたかったのだが」
椿を抱えて乗馬を予定していたようだ。
「いろいろ大変でしたから」
ヴィルヘルムが、ヨアヒムで椿に見せたい場所は、彼女にとってトラウマの場所になってしまった。
「おや、あなたたち」
山の中で農夫たちに声をかけられた。
「今から狩りでもなさるのですか?」
滅多に見かけない貴族で、農夫は悩みながらも質問した。
「いや、久々の故郷だから散策目的だ。一通り見終わったら帰る予定だ」
わざわざ声をかけてどうしたのだろうか。
椿が首をかしげると農夫は頷いた。
「すぐ帰るならいいか……ここらは、夜になると【人狼】が出没します」
その言葉にヴィルヘルムはぴくりと震えた。
「【人狼】は若い娘の血肉が大好物だ。お嬢さんを連れて森深く歩き回るのはやめておいた方がいいです」
「ご忠告感謝する。夕暮れ前には帰る予定なので大丈夫だ」
農夫はしげしげと頭を下げ、その場を離れた。
早く仕事を片付けて夕暮れ前になる前に自宅に帰りたかったからだ。
「【人狼】か……そんな報告は聞いていなかったが」
ヴィルヘルムは、手を顎にあてて考え込んだ。
「いや……また現れた時の為の注意喚起なのかもしれない。後で【銀十字】に問い合わせておこう」
ヴィルヘルムは一人ごちた。
椿は恐る恐る質問した。
「【人狼】というのは……以前聞いた」
「ああ、このあたりで悪さしていた異形の化け物だよ。人の姿にもなれる狼の化け物……夜になると牙をむき、村人たちを襲い掛かった」
【銀十字】がチームを形成して【人狼】退治をしたのは20年以上前だ。
「俺が生まれるか生まれないかの頃にすでに解決済みだ。確かその時の退治した組織の人間の中に公爵がいたな」
「公爵が」
はじめてこの国に来た時に保護を言い渡してくれた男のことを思い出した。
一番偉い人だと思うが、地方にまで仕事に来ていたのが意外であった。
「公爵は元々精鋭部隊にいたのさ。本来は公爵家を継ぐ予定はなかったのだが、父兄を立て続けに失い跡目を継がれた」
「そうでしたか」
いくらか会話を重ねながら、ヴィルヘルムはお気に入りの場所へ案内した。
「少し残っているようだな」
「ここは?」
椿は首を傾げた。
あちこちにぼろぼろの縄が置かれている。
小さな木で作られた物置があり、中をのぞくと土をいじるための道具が置かれていた。
錆びついていて使用できるかはわからない。
「昔ここで菜園を作っていた」
ヴィルヘルムが若いときに作った菜園跡だった。
そういえば、以前菜園をしていたと言っていたのを思い出した。
「といっても真似事で失敗続きだった。夜遅いときや天候が悪いときは外に出られなかったからすぐにダメになって」
「何を育てていたのです?」
「果実と花を……それでもうまく育てられたのはひとつの花だけだった。ゼラニウム、だったかな」
「みたかったです」
椿は微笑み、物置の中の棒を触れようとした。
バランスを崩した道具は崩れ椿の右手に引っかかった。
「椿っ!」
大きな傷にはならなかったが、引っかかった痕ができてしまった。
古い錆びたものであっても刃物であり、椿の皮膚を割いた。だらりと赤い血が流れていく。
「見せろ」
ヴィルヘルムは椿の右手を掴んだ。
「大丈夫です。すぐに治りますので」
自分の治癒能力を伝えるが、ヴィルヘルムは椿の右手の傷に唇を重ねた。
血をなめとったあとの傷の具合をみてヴィルヘルムは微妙な顔をした。
「後で傷痕はクラウディオにみてもらおう」
「え? すぐに治りますよ」
椿は首をかしげたが、クラウディオは首を横に振った。
「古い土で汚れ、さびついた刃物だ。厄介な感染を起こすと聞いた。お前の治癒能力があっても悪い物質が皮膚の裏に残っているかもしれない」
もう見せたいものは見せたし、クラウディオは椿を馬に乗せた。
帰る途中に、獣の鳴き声がした。
【人狼】の話を聞いたからか、椿は思わず身構える。ヴィルヘルムは安心させるように言った。
「狼だろう。【人狼】ではないが、確かに夜遅くまで山にいるのはよくないな」
ヴィルヘルムはそういいながら、椿を連れて館へ戻った。
夕日が沈む頃合いで、ロートバッハの景色は赤く染まっていた。




