8 採血
ヴィルヘルムが去った後、物陰から声がした。
「驚いたなぁ……」
物陰に隠れていたハンスがいつもの飄々とした顔で姿を現した。
「全く、急に物陰に潜んだ、と思ったら」
「いやぁ、僕は……ほら、その椿に乱暴しようとしたし」
ハンスはへらへらと笑った。
乱暴どころか虐殺しようとしていたのだから笑えない。
ヴィルヘルムがハンスを目の当たりにすれば殴りかかったかもしれない。
出入り口付近に配置されていた研究員――ハンス対策の【狩人】が迅速に対応してくれて助かったな。
マルクはため息をついた。
「それにしても婚約かぁ。予想より早かったなぁ」
ハンスは初めてヴィルヘルムと椿に出会った時を思い出した。お互い気はあるようだったが、遠慮がちでここぞという時に線を引いてしまう印象だった。
「ところで、……」
ハンスは思い出したようにマルクに声をかけた。
「なんだい。今から書類の作成の大詰めに取り掛かるんだ。暇なら手伝っておくれ」
マルクはちくちくと言うが、ハンスは気にせず笑顔だった。
「おやすいごようさ。それでね」
書類に手をかけるハンスはすらすらと書き記した。
本当に有能な助手でありマルクは複雑に思う。
作業を続けながらハンスは要望を口にした。
「彼女の新鮮な血を少しもらいたいんだ」
何を言い出すのかと思えばとマルクは思わずペンを強く紙に押し当ててしまった。
じわっとインクが滲んでしまい、深くため息をついた。
「初日に随分採ったつもりだけど」
「うん、だけど時間が経っててね。新鮮なとりたての血を少し……5mlでもいいから採れないかな」
一体何を考えているのだろうか。
それともマルクには考えられないことを思いついたのだろうか。
5ml程はそこまでたいした量ではないが、医療行為に不慣れな人間には血管に針を刺すという行為は辛いものだろう。
すでに検査目的で採血の同意は得ている。
追加の少量採血なら、研究上の必要性として説明できる。
「彼女が同意してくれるのなら」
あとで交渉してみるが拒否されたら諦めるようにと言った。
「大丈夫だよ。あの子はとてもお人よしだから、少しちくっとするくらいは我慢してくれるよ」
まるでわかっているような言い方である。
◆◆◆
ハンスの言う通り、椿は血を採取することに協力してくれた。
「拘留といってもとても快適に過ごさせていただいています。あなたの研究のお役に立てるのであれば少しくらいならよいです」
あまりに健気でいい子で涙が出そうになるのをマルクは抑えた。
差し出されたバターのかかった白い手はとても何百年も生きた女性のものとは思えない程瑞々しかった。
針を出し、彼女の腕へとさすと同時に彼女は目をぎゅっと閉ざした。
快く引き受けても針は恐怖の対象なのだろう。
それにしては青白い。
「大丈夫かい?」
そう聞くと彼女はふらりと倒れこんだ。
◆◆◆
椿はもう思い出すまいとした記憶を呼び起こしてしまった。
誘拐された直後のこと、船の上で椿は男たちに弄ばれていた。
体中に針を刺されて泣く姿をせせら笑う声が聞こえてくる。
「いやっ、いや……っ!!」
目を覚ますとベッドの上で寝かされていた。
施設の椿にあてがわれた部屋だ。
自分はもう船の中にはいない。ここは自分を保護してくれた【銀十字】の建物なのだ。
(ああ、嫌なことを思い出してしまった。少しでも役に立とうと思ったのに)
こんな自分は嫌になってしまう。
どうして一瞬だけのことに我慢ができなかったのだろうか。
かさりと紙の音がした。
部屋のテーブルとイスでくつろぐマルクの姿があった。
彼は静かに本を読んでいた。
「あの」
椿が声をかけるとマルクはああと頷いた。
「どうだい? 気分はまだ悪い?」
「いえ、あの……私」
「軽い低血圧発作を起こしたんだよ」
そういい彼は椿の額に触れた。
ひんやりとして気持ちが良い。
「あの、血を採っていただけず……」
「大丈夫。君が倒れる前に、十分採取できた」
少し待っててとマルクは部屋の外へ出て、しばらくしてティーポットとカップをもってきた。
カップにお茶を注ぎ込む。
紅茶とは別の不思議な香りのお茶だった。
「ハーブティーさ。施設内で栽培しているのを調合している」
渡されたお茶をひとくち飲む。
少し甘い感じがする。
「苦味があるから、蜂蜜を少しいれているんだ。少し飲みやすいだろう」
「はい、美味しいです」
その甘さに椿はほうと息をついた。
「すまなかったね。怖い思いをさせて。酷くうなされていた」
まさかそんなに針に恐怖心を抱いていたとは。
「すみません、驚かせてしまって」
「当然だ。私も注射は苦手だからね」
「そうなのですか?」
「ああ、得意な人間などそうそういない。自分が採られる側になると一瞬で終わらせてくれ頼む頼むと縋っているんだ」
成人男性ががくがくぶるぶると自身を抱きしめる姿をみて椿はくすりと笑った。
「よかった。少し元気になったようだね」
マルクはにこりと笑って椿の頭を撫でた。
「あの」
「ああ、すまない。私より年上の淑女に失礼だったね。いや、若い姿のもので里の妹くらいに感じてしまいついね」
「妹さんがいらっしゃるのですか?」
「ああ、最近は少し世間のことを知るようになって生意気になってしまった」
残念なことだとマルクはため息をついた。
「ふふ、仲がよいのですね」
「悪くはないかな」
しばらく妹の話で場が和んだ。
マルクの妹はお転婆で木登りが得意だとか、最近は海外の恋愛小説を読んでは少し大人っぽくしようとしているとか、研究員でずぼらな兄の将来を心配して余計なお世話だとかそんなどうでもよい話である。
椿にはそれが楽しく思えた。
どこの世界でも兄弟というものは同じなのね。
そういえば、ヴィル様には兄弟はいるのかしら。
今まで気にしていなかったことであるが、家にはヴィルヘルムと執事のヨーゼフと友人のクラウディオの三人しかいない。
椿を含めれば四人であるが。
ヴィルヘルムのことを慕っているがヴィルヘルムのことを知っていることが少ない。




