6 コーヒー
ことりとマルクの傍に良い香りのものが置かれた。みればコーヒーであった。
いつの間に淹れたのかハンスがコーヒーを置いてくれたようである。
「どうぞ」
顕微鏡から目を放し、少しだけ視界がくらりとした。
ずいぶん長い時間顕微鏡を睨みつけていたようである。
「ありがとう」
マルクはそのコーヒーをもらった。
丁度良い苦みであった。
飲んだ時のマルクのわずかな仕草と表情をみてハンスは満足して自分の席についた。
数日のうちに彼はコーヒーの淹れ方を覚え、濃さと温度でいろいろ試しマルクの好みを把握していったようである。
ハンスは、根は悪くない男なのだろう。
いや、既に3人の娘を殺していて悪くないという言い方は娘に失礼だ。
怪物故に倫理観がうまく作られていなかった。
育ての親が偏屈で、死体を破壊して実験に使うマッドサイエンティストである故か、彼の倫理観が歪んでいた。
であれば、今後どう成長するかは彼の監督を任されている自分次第だろう。
できれば実験や研究だけに没頭しておきたいが、誰かがしなければならないこと。
その誰かが自分だったというのならば仕方ない。
「ねぇ、折角の機会だし椿を実験室に連れてきていろいろ試してみたらどうかな」
コーヒーを飲みながら出た提案にマルクは顔をしかめた。
「それはない」
確かに興味深い存在である。
傷を負ってもすぐに治癒する能力はどうなっているかというのは研究者として興味ある。
解析次第では医学の進歩に繋がるだろう。
だが、そのためには椿自身が傷を負い治癒する場面を研究者にみせる必要がある。
おそらく強く頼み込めば協力は得られるかもしれない。
しかし、それはどうだろう。それが彼女の意思かはわからない。
彼女を心配するヴィルヘルムが嫌がることであろう。
必要があればベルンハルト公爵から提示があるだろうが、それはない。
ならば、必要以上に推し進めるべきではないだろう。
そう説明してもハンスは首を傾げた。
「変なの」
「では聞くがお前自身研究のために腹を裂かせてくれとか、骨格がどうなっているか解剖してみたいとか言われたらどう思う?」
極端な例であるが、明らかに嫌だと思うものをあげた方がいいだろう。
実際この怪物も必要があればその研究対象になる。
しかし、血の採取と簡単なレントゲン検査で終了していた。
一応、男爵の地位を持つ貴族でありそれなりの配慮が行われているのだろう。
「別に、必要なら好きなように調べればいいじゃないか」
彼はけろりと答えた。
「痛いぞ。痛いのはいやだろう」
「いやだけど、必要なことなら仕方ないよ。それに僕は生まれた時に何回も手術を受けていたし多少の痛みくらい我慢できるよ」
彼がマルクの傍にいるようになってから彼は聞いていないのに自分のことを話すようになっていた。
生まれたての頃はひどく醜い姿で、彼を作成した学者たちは化け物と呼び蔑んできた。
実の父である先代フランケンシュタイン男爵もはじめ彼を醜いものと感じていたらしい。
しかし、わずかな子の面影を求め先代男爵は何度もハンスの体に手術を施し醜い部分を修正していった。
その際に裏社会から入手した異端者の血肉も使用していたという。
おかげでハンスは美丈夫の姿を手に入れたという。
その過程の手術はかなりの苦痛を伴うものだった。
ハンスは必要なものであれば実験対象になっても別に構わないという態度であった。
「……痛いのは嫌なんだよな」
マルクはゆっくりと聞くと、ハンスは目をぱちぱちとさせた。
「嫌だけど?」
当たり前のことを聞いたなとでも思っているのだろう。
「なら嫌だと言えばいい。そして嫌なことを他者に強要するものではない」
子供に言い聞かせる言葉を聞きハンスはぷくくと笑い出した。
「ふふ、わかったよ。君がそういうのならそうするよ」
果たして理解したのかはわからない。
だが、マルクの言葉は耳に貸すと言ってくれた。今はそれでよいだろう。
「いいか? お前は必要以上に彼女に近づかないように」
何度目になるかわからない釘をさしておいた。
今は大丈夫だと思うが、あの事件の主犯と被害者である女性が出会うのはあまりいいものではない。
「そうだね。彼女に近づいたら多分あの人、僕を殴りにくるからしないでおくよ」
あの人というのは誰か、確認する気になれない。
マルクの言葉にまた耳を貸してもらえたのでこれ以上は何も言わないでおいた。




