5 助け
キリルに血を吸われた後、大人しくなった椿はされるがままだった。
彼は椿の頬を撫でて、髪に触れて、耳たぶの感触を楽しんだ。
まるで新しく手に入れた玩具に触れているよう。
そうしているうちに、椿の首筋から傷が消えていった。
「ああ、いいね」
キリルはますます楽しげに笑った。
「いくら傷をつけても君は回復する。それにこのそそる表情。僕の家畜として大事にしよう」
物のように言う言葉に、椿は衝撃を覚えた。
家畜――何度耳にした言葉か。
久しく聞いていないが、最後に聞いたのはあの船の上――自分を誘拐したものたちが罵ってきて以来だ。
あの日に戻ってしまうのだろうか。
椿はぎゅっと目を瞑った。
折角、ヴィルヘルムが救い出してくれたというのに。
いやだ。
唇は震えるが、声にならない。
カティに口を塞がれているだけが理由ではない。
何ともいえない恐怖が椿を支配していた。
「メイチュン、そのまま動かないで」
聞き覚えのある声がした。
同時に口元に覆われた手の力が緩まれている気がする。
目を開くとキリルが驚いた表情を浮かべた。
ごとりと重いものが落ちる音がした。
下をみて椿は目を見開いてそれを凝視してしまった。
女性の首が落ちていた。
カティの首が落ち、カティの体が崩れ落ちる。
彼女の瞳が、無表情でこちらを見つめていた。
「ああああああああっ!」
「目を閉ざしなさい」
冷たい男の声に椿は反応して瞼を閉ざした。
「……」
「さてのろまな【狩人】の代わりに捕らえさせてもらおうか」
キリルを冷たく見下ろす男がいた。
椿と同じ特徴の肌と黒髪を持つ東海人であった。
先ほど椿に伽羅の香木を贈った東海人の商人――シェートンであった。
彼は鋭い刀剣をキリルの首筋に向けた。
キリルは無言でシェートンを見つめ何も言おうとしない。
珍しい容貌に驚いているというわけではなさそうである。
「どうした。お前たちが大量に買い取った東海人の奴隷でも思い出したか?」
「別に東海人なんてみんな同じ顔だし」
キリルの視線はシェートンから椿へと移っていく。不気味な銀の瞳に見つめられて椿は震えた。
「そうか。それは残念だ」
空を切る音と共に刃がキリルに襲いかかる。
キリルはそれをかわしながら後退した。
「すごい殺気。僕を殺すの? これでも珍しい【吸血鬼】なのに」
今にも殺そうと息巻いているようにもみえる。
「お前たちを殺すつもりでなければこちらが死ぬ」
剣戟を与えるが、キリルは避けた。
まるで、羽の生えた鳥のように宙を舞い続ける。
どの剣戟にもあたろうとする気配はなかった。
シェートンの動きはこの国では見たことのないものであった。
仕草は舞に近く、戦う当事者ではなければよい見せ物になっていただろう。
キリルは残念に感じた。
「あはは、すごいすごい。演舞というやつかな。城で何度かみたことがある」
思わず笑いが込みか上げてくる。
「その演舞を披露した者たちはどうしている?」
突然の質問にキリルは首を傾げた。
だが、珍しい余興をみて心が躍りシェートンの問いに自然と応えた。
「ご馳走として出されたけど、あまり美味しくなかったな」
ぺろりと舌をなめる少年にシェートンは吐き気を催すほどの嫌悪感を示した。
「この食人鬼め。殺してやる!」
「あれ、なに? もしかして知り合いでもいた?」
質問に答えただけなのに、悪鬼のように襲い掛かってくる男にキリルは呆れたように呟いた。
壁際に立ち地に足をつけた瞬間、くらりと意識が揺らぐ。
「おっと」
たちくらみを起こした。
奴隷商人によって酷い怪我をしたから、血もかなり失っていた。
この程度の運動で情けない。
椿の血で恐ろしい速さで回復していたが、全快には至っていないと痛感した。
(このままだと、僕が不利になる)
余興を楽しみたいが、今はそんな余裕はない。
「ごちそうがまだ残っているけど」
本当はここですべて終わらせるつもりであった。
椿をここで血のすべてを飲み干して、回復して帰郷するつもりであった。
しかし、彼女の血は思った以上に芳醇で美味でくせになるものだった。
ここで終わりにせず、家に連れて帰りたかった。
しかし、目の前の東海人の攻撃をかわしながら、女性一人抱えて逃げる程の余裕は今はない。
「残念だけど、いったん帰ろうかな」
少年は別れの挨拶を告げ、砦の壁をつたい塀を飛び越え下へと落ちていった。
シェートンはあわてて追いかけた。塀を見下ろしたが、下は真っ暗で何もみえなかった。
「くそっ」
忌々し気に舌打ちし、刀剣はしまわれた。
「メイチュン、大丈夫か?」
「私……カティさんが」
ちらりとカティの遺体をみる。
首がこちらを浮いてじっと見つめているようであった。
「あまりみるな」
死体でも目は念がこもっておりみれば酔ってしまう。
「遅れてすまなかった。怖い思いをしただろう」
妹を慰めるように優しい手つきでシェートンは椿を撫でた。
「あの、何故シェートンさんがここに?」
「あの馬車から酷い死臭がした。この使用人の匂いだ」
椿はめまいを覚えた。
きっと、家事をしている最中にキリルに殺されたのだ。
それに気づかず自分は呑気に部屋で待っていたなんて。
「すでにあいつの餌食に遭い人外になってしまった。自我もなくただ指示を与えられて動くだけの人形。私が来た時には助からなかった。それだけだ」
淡々と伝えられる情報に椿は目頭が熱くなるのを感じた。
自分の不注意さのせいだ。
自分が災いをもたらしてしまった。
椿は自分を責めた。
「うぅ……」
「立てるか」
シェートンは椿を支え立たせて砦を後にした。
「カティは……」
椿は取り残されるカティの体を見つめた。
「後で弔ってもらおう。まずはお前の身の安全が大事だ」
砦の外には馬が繋がれており、それに椿を乗せた。
日は落ちかけて、空が赤く染まる。
海に沈む夕陽の光景は美しいのだろうが、今は見る余裕もなかった。




