1 反故された約束
朝いちばんに届けられた報告に椿は表情を曇らせた。
「帰ってこられない……ですか」
椿は思わず残念そうに呟いた。
ヴィルヘルムから今日の約束はキャンセルを伝えられる。
彼と馬に乗ってでかけるのは初めてで楽しみにしていたのだが、仕事であれば仕方ない。
ただひとつ気がかりなのは。
「キリルのことどうしましょう」
昨日保護した少年のことで相談しようと思っていたのだ。
テーブルに席をつき、朝の食事を食べる少年を見つめる。
手慣れた手でナイフとフォークを扱いソーセージを綺麗に切り、口へ運ぶ姿は自分よりずっと綺麗な作業であった。
身に着けているものはかつての雑用の少年のお古である。
「大丈夫です。それまでこの私がお二人のお世話をさせていただきます」
「でも、カティさんにも仕事あるでしょうし」
「よいのです。私も彼が受けたことは許せないし協力したいです」
このように幼い少年を誘拐し虐待するなど。
酷い行いにカティは憤慨していた。
故郷に弟がいるため彼とキリルを重ね合わせているようである。
「ありがとうございます」
「ですがひとつ問題が」
「?」
「今日はおでかけなさるということでランチセットを作らせていただいたのですが……」
カティは落胆していた。
「では、お庭の方で一緒に食べましょう」
「わ、私がですか?」
「はい。キリルとカティさんと私の3人でランチをしましょう。きっと楽しいでしょう」
椿はにこりと笑った。
「あ、ごめんなさい。カティさんの都合も考えず」
「いいえ、あの私のような使用人がご一緒するのは」
身分の分別で遠慮しているようであった。
「その遠慮は不要です。私は貴族ではありませんし、ヴィル様に運よく庇護をいただいただけの身です」
この国での身分もない。
もしかすると今も奴隷の身であったかもしれない。
「私、若い女性と一緒にご飯を食べることはなかったの。ご一緒にできないでしょうか」
カティは遠慮がちに考えながらようやく頷いた。
「では昼のお仕事も一気に片付けます。しばしお待ちを!」
カティはぴゅーと部屋を飛び出した。
本日の仕事に支障がきたさないように早めにとりかかろうとした。
◆◆◆
カティは袖をまくりあげて気合いをいれた。
まずは掃除、洗濯である。
お庭のピクニックから戻った後にすぐに夕食ができるようにある程度の下ごしらえはしておこう。
カティは作業をしながら昨日の子供を思い出した。
小汚い傷だらけの少年であったが、椿は服が汚れるのも躊躇わず子供を抱き上げていた。
なんて優しい方なのだろう。
私の弟にもあんな方がいればよかったのに。
以前自分が仕えていた家はひどいものであった。
使用人を犬としか思っておらず、少しでも床の汚れが残っていれば折檻される。
おかげで一緒に奉公していた弟は肺をやられ死にかけた。
幸い一命をとりとめたが、死んでも不思議はなかった。
そのときカティは主人を殺してやろうとさえ思った。
しかし、目の前の弟がまだ生きていている。
ここで自分が罪を犯してはならないと踏みとどまった。
弟の看病のためお勤めを辞め、しばらく落ち着いてから再度勤め先を探した。
しかし、主人が推薦状を書いてくれず、それどころか悪い噂を流されて勤め先が見つけられなかった。
途方にくれているとフローエ夫人がこの館での仕事を紹介してくれたのだ。
時々、館の使用人たちは特別な仕事で長期空ける時期がある。その間の留守番もお願いされている。
不在の理由はフローエ家の領地の見廻りで、何か不手際がないか、事件がないかの確認で空けるのだという。
(フローエ男爵家も荘園をたくさん持つ貴族であり、いろいろ大変なのね……)
実際は【銀十字】の仕事だが、知らないカティは特に疑問に思わなかった。
留守番の仕事もだいぶ慣れており、一人でいるときは表立った場所――玄関や客間、食事処、厨房など最低限の場所を掃除すればよかった。
(前の勤め先に比べれば天国だわ)
カティは不満ひとつ溢さず遂行した。
そして客人として現れたのがヴィルヘルム、クラウディオ、椿の3名であった。
ヴィルヘルムのことはカティの耳にも入っている。
フローエ夫人の甥であり教え子である御曹司で最近は都心で働いている。
噂通り眉間に皺よせて神経質そうな方であった。
だが若い貴族の令嬢の間で人気があるというのも頷ける端正な顔立ちだ。
クラウディオは南方のユリアン国の方で、フローエ夫人づてでヴィルヘルムの家に居候している男だと聞く。
学識深く有名な大学の学生だったのではないかと噂されている。
女性に優しいが、手を出すのが早いと言われて少し苦手である。
そして、椿という名の少女をみてカティはその珍しい外見に目を奪われた。
(まるで、異国のお人形さんのよう……可愛らしいわ)
はじめて見たカティの感想である。
この国で黒髪の方がいないわけではないがあのように艶やかで美しい黒髪は見たことがない。
肌の色も自分たちとは異なるバター色で黒髪と対象に白く輝きまるで動く宝石のようであった。
はじめはなかなか喋ってくれず、少し引っ込み思案な性格なようであった。
困ったようにあたりを見回して、迷子の子供のように思えた。慣れない土地で苦労していたようだ。
なれるととても優しい方だとわかる。
マナーはこの国の人間ではないのでぎこちないが、それでも物腰は柔らかく、表情仕草から育ちのよさがうかがえた。
自分の仕事を気にかけてくれて、手伝おうとしてくれる。
(さすがにお客様にそれはさせられない)
カティは丁重に断っているが、困ったように笑った。
「あら」
厨房の中を覗く少年がいてカティは首を傾げる。
「どうしたの?」
キリルはじっとカティを見つめて何も答えない。
「さてはお腹が空いたな。お菓子はダメよ。ご飯が入らなくなるから……その代わりうんと美味しいランチがまっているわ。デザートも作ってあるわよ」
オーブンの中から甘い匂いがするのを確認しながらカティは言った。
「この館には椿と君以外はいないんだね」
「こら、椿様と呼びなさい。仮にもあなたの恩人なのだからね」
カティは目の前まできたキリルにかるく頭を抑えた。
「ええ、ここの方々はときどき主人の荘園の見回りで不在になることが多いの。でも、私がいるからこの館の留守は問題ないわ」
カティはどんと胸をはって言った。
「いつ他の人たちは来るんだい?」
「さぁ、仕事が急に増えたとか言っていたわ。荘園で何かあったのかしら」
「ふぅん」
少年はじっとカティの瞳を見つめた。
「どうしたの?」
不思議になり、カティは彼の瞳を見つ返した。
その瞳は琥珀色、いや、金色に輝く宝石のようで思わず見惚れてしまった。
まるで魂を吸い込まれる感覚だった。




