7 消えた花
青年はじっと椿を見つめていた。
「すごい勢いで転んだようだけど、怪我はない?」
「あ、あなたは?」
椿は動揺した。
「あはは、そっか……知らないよね。パーティーでお嬢さんたちにちやほやされていたからちょっと自惚れていたよ」
苦笑いしたハンスは椿に微笑み会釈をした。
「はじめまして、フロイライン。僕はハンス・フランケンシュタイン。怪しい者じゃないよ」
「あ……」
ようやくフローエ夫人が言っていたことを思い出した。
例の若い貴族の娘失踪事件に関わっていると疑惑をかけられている人物だ。
証拠がないと彼女も言っていたのだが、椿はつい身構えてしまった。
その様子にハンスはくすくすと笑った。
「用心深いんだね」
「す、すみません」
「いいんだよ? 男なんて狼なんだから。その警戒心は大事だよ」
ハンスは椿の隣に座り、椿に囁いた。
「ちゃんと教え込まれているね、偉いなぁ」
ハンスはくすくす笑って椿の頭を撫でる。
まるで猫か犬を撫でているような感じがした。
椿の背筋はぞくぞくっとさせ、少し彼から離れるように位置をずらした。
「ああ、ごめん。遠くから見たよりもずいぶん幼く見えて妹のように接してしまった」
「……」
「ねぇ、さっき転んだよね?大丈夫だったかい?」
「だ、大丈……っ!」
椿がそう言う前にハンスは彼女の裾をまくる。
「ごめん、今の転び方で怪我していないと思えなくてね。僕はこれでも医学の知識を身につけている。見せてごらん」
「だ、大丈夫ですからっ」
「だめだよ。擦り傷でもちゃんと手当てしないと痕が残るよ」
じっと椿の膝を眺め、ハンスは首を傾げた。
「……おかしいな。確かに怪我をしていると思ったのに」
「さ、幸い擦り傷一つしなかったのです」
椿は適当なことを言って誤魔化そうとしたが、ハンスはくすくす笑った。
「……でもおかしいなぁ」
「何がです? いい加減裾を放してください」
ハンスはおかしげに笑って、ドレスの裾を持ち上げ裏を椿に見せた。
「ドレスの裏、すごい血がついているよ」
赤い生地であるが、しっかりと血が染みついているのを確認することができた。
「っ!!」
その言葉と行為に椿はさぁっと青ざめた。
「ねぇ、この位置は多分膝あたりだと思うんだ。でも、膝には全然傷がない」
ハンスは優しく椿の膝を撫でた。
その手触りに椿はびくびくと震えた。
「このくらい血がついていたらすぐに傷口がどこかわかると思うんだけど」
椿は裾を掴むハンスの手を払い、石段の上を上がろうとした。
しかし、ハンスは椿の足を掴み、体制を崩した椿は盛大に転んでしまった。
「ああ、突然駆け出すからだよ」
自分が足を引っ張ったというのにハンスは椿に優しくいいかけた。
「あ、腕から血が……」
「さ、触らないでっ」
椿は逃げようと懸命にあがくが、ハンスは椿の上にのしかかり逃がしてくれなかった。
怯える椿を楽しそうに見つめ、ハンスはゆっくりと椿の腕を掴んで観察した。
「早く消毒しないと……」
言っている途中にハンスは口を開けたまま目を見開いた。
椿の腕から傷がすぅっと消えていったのだ。
信じられない、という顔でじっと椿を見つめた。
「あ、……」
彼女はまるで狐に睨まれた兎のように震えた。
「は、はははは……そうか、君は【魔女】なんだね」
そう言われ椿は身動きがとれなかった。
【魔女】――かつて船の上で何度も男たちに言われた言葉であった。
再びその名で呼ばれて、椿は青ざめた。
否定したいのに、何も言えなくなっていた。
「否定しないんだね。ああ、良かった。今日も見つからなかったらどうしようと思った」
怯える椿を押えつけハンスは胸ポケットから錠剤を取り出し、それを口に含めた。
「いやっ! 放して!!……っ」
ようやく我にかえり暴れ出した椿は唇を塞がれた。
口を塞がれた苦しみ、口の中に転がる異物が溶けていくのを感じる。
甘いようで、苦い不気味なものが口に広がり、反射的に椿はごくりと飲み込んでしまった。
ようやく解放され椿はハンスから逃げ出そうとした。
しかし、男の力には叶わずなかなか抜け出すことは難しかった。
そうしているうちに椿は意識が薄れて行くのを感じた。
薄れる意識の中、ヴィルヘルムの姿を追い求めた。しかし、ここには彼はいない。
「……ヴィルさ、ま」
彼を頼ってはいけない、彼に迷惑をかけたくないと思うのに、それでもヴィルヘルムの名を呟いた。
薬のおかげで寝静まった椿をハンスは嬉しそうに眺めた。
そして、髪をぐしゃぐしゃに撫でた。
「ああ、嬉しい。やっと見つけた。やっと……本当にいたんだね、【魔女】は」
無邪気に、楽しげに、ハンスは笑った。
◆◆◆
ヴィルヘルムは館中を探していた。
どこにもいない椿を追い求めて庭へ出た。
さっき通りすがりの貴族の話を思い出した。
「窓から外を眺めていたら、黒髪の女の子が石段の方へ走っているのが見えたよ」
すぐにヴィルヘルムは石段の上へいき、落ちているものを見つけた。
赤い花、椿の髪飾りだ。
椿と同じ名の花で、彼女に似合うと思い無意識に購入したもの。
それが贈られた時、椿は嬉しそうに微笑んでいた。
「椿……」
名を呼んでも、返事はない。
冷たい風だけが、石段を吹き抜けていった。




