9 お願い
ヴィルヘルムが練習の最中、館を飛び出した後のことだ。
彼が日中向かった先は街で一番店が並んでいる通りであった。
そこは洋服の仕立てや、高級レストランが並んでいた。
最近では百貨店ができており、人の賑わいはそこへ集中しているようであった。
(しまったな……人が多すぎる)
ヴィルヘルムはため息を吐いた。
彼は人が多い場所は苦手であった。
人の流れに――不規則に揺れる肩、声、靴音がヴィルヘルムの感覚を惑わす。
ヴィルヘルムはふと、物が散乱した暗い部屋を思い出した。
母の声が耳の奥に蘇る。
――私の可愛いヴィル。お願いだから、私のそばにいて。
涙を流しながら必死に懇願する母の姿は見るに痛ましい。
いまだに思うようにいかない自分にヴィルヘルムは笑いがこみあげてきた。
ここまで自分が人と接触するのが苦手など思いもしなかった。
人に合わせるという感覚が欠落していた。
クラウディオが側にいて、だいぶ改善が見られたがそれでもふとした拍子で出てしまう。
椿もこのような男に、落胆するだろう。
それを思うと胸が重たくなるのを感じた。
他人がどう思おうと今まで気にしたことはなかったのに。
(少し落ち着いた場所へ移るか)
人の流れに酔ったヴィルヘルムは足早に通りを歩いていった。
そして、ふとガラス越しに店の中のものを見つめた。
先日、髪飾りを購入した店だ。
店頭に並ぶ髪飾りを見て、あの鮮やかなカメリアの花飾りが一番椿に似合っていたなと頷いて何も買わずに立ち去った。
夕暮れとなり、ヴィルヘルムが戻ってきた。
「あ……ヴィル様っ」
扉の音を聞きつけ、ダイニングから椿が姿を現した。
「おかえりなさいませ」
ああ、とヴィルヘルムは視線を合わせずに頷いた。
それに椿は困ったように俯いた。
「俺のダンスは早かったか」
その声は明らかに不機嫌なものであった。
椿はきょとんと目をぱちくりする。
言われた言葉を理解し、すぐに椿は首を横に振った。
「いいえ。私が遅いのがいけないのです。必ず、ヴィル様についていけるように頑張ります。だから……」
そう言いかけ、椿は顔を赤くした。
「だから?」
椿は言っていいか悩んでいるようだ。
ヴィルヘルムはため息をついた。
「言わなければわからない」
椿は困ったように目を泳がせた。
数秒程経過し、椿は自信なさげにヴィルヘルムを見上げた。
「ヴィル様とダンスしたいです」
上目使いで言われヴィルヘルムは目を丸くした。
そして、すぐに視線を余所へ移した。
(なんだ、今の……)
ヴィルヘルムは余所を向きながら、頭の中で混乱していた。
小柄な少女の姿をしているが、自分よりもずっと年長だというのはわかっている。
だが、とても愛らしくて堪らない。
思わず抱きついたフローエ夫人の衝動に一瞬でも理解を示してしまいそうになる。
それにヴィルヘルムは理解できずに困惑していた。
「っ……お忙しい中、付き合わせるなど」
椿は頭を下げた。
「……見ての通り俺は淑女を無視して早く踊るぞ」
ようやくヴィルヘルムがそう呟いた。
それに椿は急いで返した。
「私、がんばっておいつきます。だから……」
――お願いします。私と踊ってください。
そう再度お願いしたかったが、椿は躊躇ってしまった。
その様子にヴィルヘルムは大きくため息をついた。
「……わかった。パーティーで一緒に踊ろう。その為に一緒にダンスの練習をしよう」
ヴィルヘルムは椿の手を握って言った。
「だが、俺も練習が必要だ。つきあってくれるか?」
椿は目を見開いた。
「……喜んで!」
ようやく戻った椿の笑顔にヴィルヘルムは内心ほっとした。
「以前送った髪飾り……」
そっと椿の髪を撫でた。
「パーティーで、よければそれをつけてみてくれ」
椿は触れられた髪にそっと手を添え、嬉しげに微笑んだ。




