8 吸血鬼の姿
――下の観客はマリアの叫びに気付き、あたりを見渡した。
「おい、なんだ……今の叫び」
「叫び? 演出だろう」
別の客の声にそうかと頷いた。
今は小さな劇が繰り広げられていた。
狐が化けた悪女が、仙人と戦う場面を演出している。周りでは悪女の手下である女悪魔が仙人に斬られて叫ぶのを繰り返していた。
だから、一等席の緊迫は下の階には気づかれない。――
「やめて、……今、外すから」
青ざめた椿はブレスレットを外した。
目から涙が溢れ出て、震えが続いている。
「まだだよ。それを捨てて」
キリルの指示に椿は頷いた。
「ダメよ! わ、私は大丈夫。指一本くらい。あうぅ……」
中指も折られてマリアは痛みに震えた。
「捨てます。それ以上は……やめて」
「やめなさい! そんなことをしたら椿のこと嫌いになるわ!!」
マリアは叫んび、椿の手は止まる。
2本の指を折られて痛いはずだ。
それでもマリアは耐えなければならないと思った。
ここで椿がブレスレットを捨てたら【吸血鬼】に好きにされてしまう。
「お兄様と別れて、そんな奴の元へ行くなら一生恨んで嫌ってやる」
マリアは椿を睨んだ。その表情は真剣で、椿はどうしていいかわからなかった。
「はぁ、……本当にうるさい」
キリルは呟いた。
「椿、ようく聞いて」
自分の方へ集中させて、キリルは舞台を指さした。
――今から特別なことを教えるね。
そう言っているような仕草で、椿は黙って彼の動作を見つめた。
「あの芸人団体、僕の奴隷なんだよ」
「……え」
奴隷という言葉に椿はざわついた。
キリルは無邪気に両手を広げた。
まるでおもちゃを好きな子に披露するように。
「ぜーんぶ僕の【眷属】……【吸血鬼】だよ」
今、このフィガロホールで演題を繰り広げている芸人が全部キリルの奴隷で、【眷属】で、【吸血鬼】。
椿は混乱する頭で単語を繰り返した。
「あいつらが今ここで暴れさせたらどうなるかな」
キリルは質問して、椿は目の前が黒く塗りつぶされていく感覚を覚えた。
あまりに恐ろしく、想像することを脳が拒絶してしまう。
それを見越してキリルは口を開いた。
「ここにいる観客、ぜーんぶあいつらの餌になっちゃうね」
残酷な答えに椿は絶望した。今、ここにいる観客全員が人質である。
「椿は自分が大事なんだね。あの子よりも、ここにいる人たちよりも」
キリルはにこにこと笑いながら椿に言い放った。
「いいんだよ。僕も椿の方が大事だから……椿がそんな悪い子でも、僕は大好きだ」
キリルの追い討ちに椿は崩れた。
椿は力なくブレスレットを投げ出した。
ブレスレットは下の階の観客席へと落ちていく。
椿を守っていたものが失われていく。
それが床へと落ちた頃に、椿の懐にキリルは潜り込み、ぎゅうっと抱きしめた。
「良い子だね」
キリルはようやく自分の手に落ちた存在に優しく囁いた。
「さっきから気になるけど、ひどい匂いがするね。これは【人狼】?」
くんくんと匂いを嗅ぎ、キリルは少しばかり苛立った声をした。
「ぁっ……」
無造作に床に転がされた椿の上にキリルは乗った。
彼は無言で、ビリビリと布が引き裂かれる。椿の首筋が肩が露出する。
バターの色がまざった白い首筋をそっと指で触れた。
「やだなぁ、【人狼】が僕のものに触れたなんて。僕はあいつら嫌いなんだよ」
険しい表情でキリルは口を開けた。鋭い牙が椿の首筋にあたる。
「んぅ……」
痛みに椿は震えた。牙で裂かれた皮膚、その奥にある血管を探り当てて、キリルは椿の血に触れた。
一口飲み、しばらくしてキリルは夢中で貪る。
「はぁ……いたい、うぅ」
椿はびくびくと震えて、キリルを押し除けようとするが全く微動だにしない。
外見は自分より年下の小柄な少年のはずだが、とみると自分に覆い被さる少年は思いの外大きかった。
丸みのあった顔は、すらりとした鼻梁の大人の顔立ちをしていた。
押し除けようとした手は、自分よりも大きく力強い手で握りしめられる。
キリルはおもむろに顔をあげた。
少年の姿ではない、成人した大人の男の姿であった。
右頬の爛れは残っていたが、するすると小さくなって消えていく。
いつの間にか、彼が着ていた衣類は引きちぎれて筋肉質の体が見えた。
あまりの変わりように椿は恐怖以上のものを感じて何も言えなくなった。
「ああ、メイリー。服をちょうだい」
甘い少年の声は声がわりした青年のものだ。
官能的な声で、聞く人が聞けば心奪われることだろう。
だが、椿にはそんなものを感じる余裕などない。
「宜しいのですか? 少年の姿を気に入っていたのに」
メイリーは気を失ったマリアをそのあたりに横たわらせていた。
彼女は自身が身につけていた上着をキリルへと渡した。
キリルは適当にそれを羽織り、裸体を隠した。
「うん、だってこちらの方が椿を可愛がりやすいし」
着物をきちんと合わせず、だらしない着方であるが、それすらも色気が感じられた。
薄暗い一等席の中、舞台の光で見える青年は、少しウェーブのかかった黄金色に輝く髪に、空に輝く星のような金の瞳であった。




